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タロットリーディングの複層性を活かす。
ほかのタロットでのリーディングについてはわかりませんが、こと、私の扱うマルセイユタロットにおいてのリーディングでは、タロットを複層的・多層的に見ていくことが重要になります。
たとえば「悪魔」のカードが出たからといって、「悪魔のような人物が悪いことをしている」「悪い人に出会うかも・・・」みたいな読み方で終わるのではなく、「悪魔」の絵柄を象徴としてとらえ、「あなたに誘惑をかけている人」とれることもあれば、「あなた自身の欲望」を表していることもあります。
肝心なのは、その両方あるいは多数の見方が同時に存在していること(考え方)を認めることです。
もっといえば答えはひとつではなく多数あり、その中から選択することもあれば、統合されることもあると考えることです。
特に大切なのは「統合する」という視点です。
前述の「悪魔」の例でいえば、「あなたを誘惑している人」と「あなた自身の欲望という」意味が読めたとして、一見それらは別物に思えますが、これらが結びつくことができないかを考えてみるのです。
一例を挙げますと、あなたにある種の欲望があるからこそ悪魔に象徴される人物に誘惑されるのだということです。あなたと誘惑している人は、どこかで共通の部分を持つのです。
このことに気がつくかどうかが、この場合の「悪魔」のカードからの示唆だと見ることができます。(あくまで一例であることに留意)
さらにタロットカードの吉凶を超えたとらえ方を私は取っていますので、この例でいえば、誘惑する人も欲望を持つ自分も、何か「悪い」人のように思えてきますが、欲望を持つこと、誘惑することが「悪」や「魔」だと思いこんでいると、まず本当の「悪魔」のリーディングはできないでしょう。
タロットから想起される多層な見方を選択・統合し、表面的な意味合いから一歩踏み込み、自分や人の心理にまで分け入ることで、タロットを使った自己や世界の洞察に行き着くことができます。(これでも途中段階です)
せめてこのレベルを想定してタロットリーディングは行うよう、私の場合は講義しています。
その次は、今回は「悪魔」一枚の例でしたが、ここから大アルカナを中心としたほかのカードの象徴との関連性や相違などを見て、重層的にタロットを理解していきます。
たとえば「悪魔」と同時に出ていたカードで「神の家」や「恋人」が出現していたとすれば、この「悪魔」の意味も多様な読み方の中から、あるひとつのテーマが確実に浮かび上がってきます。
こうして、たくさんの場合に読めるタロットであっても、全体としてはひとつの意味やテーマを見い出すこともできるのです。
個別と全体による自己成長のテーマの発見と確認、そこから確信する行動と結果への移行、この一連の流れがマルセイユタロットリーディングだと言えます。
ここまで書いてきましたら、一般的な意味での「占い」の使い方とは異なることにあなたも気がつくことでしょう。
人生での効率と無駄の視点
人生には大きな意味で無駄はないとよく言われます。
その一方で、この世での命と時間は有限なのだから、価値ある人生にするためには、無駄なく・効率よく生きていったほうがよいという考え方もあります。
私自身はどちらも真であり、またどちらでもないと思っています。
局所的に見れば効率が重視されることが多くなりますが、全体的に見れば果たして無駄をなくすことがいいのかどうか、難しいところとなってきます。
結局、無駄(自分にとって役に立たないもの)の概念・定義が明確ではないところが問題であり、効率か無駄かを選択するのを困難にしていると言えましょう。
たとえば、「お金を増やす」といテーマにひかれて、そのセミナーに出たとします。
ところが内容は思っていたよりも抽象的で、精神論やお金に対する自分の思い、心理的なことばかり解説されて、自分はもっと利回りのよい投資商品や株のポイントなど知りたかったのになんだか失敗した、時間を無駄にしたと感じます。
とはいえ、お金と心が関係しているなんて思ってもみなかったため、それから物事と自分の心について考えるようになり、ついには長年の問題であった親との関係を改善することにも成功したということであれば、そのセミナーの時間は無駄ではなかったと言えます。
いやむしろ、スピリチュアル的にいえばセミナーは恩恵であり、魂の選択であったとも考えられます。
つまりですね、現実的に、あるいはその時点やレベルでは無駄だと思っていたものでも、別の視点を得たり自分のレベルが上がったりすれば、無駄ではなく意味をもってくる場合もあるということです。
目的地を目指してまっしぐらに走ることは確かに一番効率よく速いのかもしれませんが、それはただ「走りきった」というだけに終わるかもしれません。
時にはゆっくり歩いて、道横の草むらに入り、花や虫を観察して驚いたり楽しんだりすることは、目的地に到達するという意味ではまったくの無駄ですが、到着時間は遅くなってはいるものの、楽しかった道のりを思い起こすことができ、思い出はたくさんできます。
同じ道を通ってきたのに、ただの道になるか、まさに「色々な」カラーを持つ道になるのか、本人次第です。
ここで問題なのは、「目的地に到着する」ということが本当の目的ならば、効率が求められるということです。道草を食っている暇はないのです。
反対に、「目的地に到達すること」が建前というか、一応目的ではあっても表向きのもので、真の目的は「道程を楽しむ」ということであるならば、ゆっくり見物しつつ目的地に着くほうが「目的に適っている」ということになります。この場合は真の目的に気付くかどうかが大切になります。
しかしこのように真偽や多重の目的が存在しているようなケースでは、(表の)目的達成の効率を考えない方がよいですが、裏も表もなく、ただひとつの目的があるという場合も普通にあります。
その場合は目的に対して無駄(なもの・行為・思考)という概念は発生することになります。
言ってみれば局所的、場面的にはやはり無駄はあるのだと考えられます。
そしてもうひとつ、先述したように、無駄を無駄としないため、あるいは、無駄を意味あるものへ・有効なものへと変化させるためには、自分のモノの見方自体が今より変わる必要があるのです。
それは横と縦の方法があり、横は幅広い考え方、立場の異なるモノの見方を獲得することであり、人との交流、いろいろな場所へ出かけること、知識と経験を増やすことなどによって可能です。
縦の方法とは自分のレベルを上昇させることで、横の方法をしていくうちに自然に縦にもつながっていくことが多いです。もしくは象徴やシンボルを通じて物事を把握したり、統合化したりしていくことで少しずつ上がっていくと考えられます。
占いの「当たる」ということを考察してみる。その2
前回から占いでの当たるということについて考察を進めています。
この前は「実は何を言っても人には当たっている部分があるのだ」という、いわば究極のぶっちゃけ理論(笑)を展開いたしました。
前回の記事を読んで、「な~んだ」と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、わかる人にはわかると思いますが、「当たる」ことについて書きながらも、違うこと(別の大切なこと)に対して気付いてもらうために記しています。
だから単純に、「何言っても当たっているのなら意味ないじゃん」と思ったり、「いや、当たるということはそんなレベルや話ではないんだ!」と異議を唱えたりすると、記事の真意が伝わっていないことになります。その時は私の書き方が悪いということでもあると思いますので、お詫び申し上げます。
さて続きです。
占いの「当たる」ということについて、今回はちょっとタロットに限定して話してみたいと思います。
占いでタロットを使えば、どうしても今まで起こったこととこれから起こることの予想、そしてそれが自分にとってよいものか悪いものかという判断が(相談者には)重視されるようになります。
その結果、カードに対してある特定の意味をタロットリーダー側は付与するようになります。もちろん、もともとカードに書かれてある絵柄とその象徴から出る多層かつ抽象的な「意味」はあります。
しかし、この場合はもっと具体的で白黒はっきりしたものということです。
たとえば一般的には「塔」と呼ばれるカードが出れば、不吉(凶)で崩壊が起こるという具合です。さらにそれがある占い師にとっては、「恋愛での別れ」をほぼ必ず意味するのだというようなことです。
これはいわゆる科学的な解釈や理屈では説明つきにくいのですが、「同じ波動的なもの・質的なものの共鳴・引き寄せ」という概念を取り入れば(これも非科学的なものとされますが、考え方として受けってください)、ある程度理解が可能です。
それはこういうことです。
まず占い師が学んだり、覚えたりしてもともと知っているカードの知識(意味)をもとにしながら実占を続けます。そのうち占い師は、「どうもこのカードを引くと、こういう意味になることが多い」と経験則で感じるようになります。
それをふまえて、今度は逆に「このカードが(こういう形式で)出れば、こういう意味なんですよ」と、相談者に占い師が告げるようになります。
この場合、当たらないこともあるでしょうが、当たっていると感じた相談者からは驚嘆めいて、「すごい、当たっている」と言われることでしょう。
さらには占い師が詳しいことを言わなくても、「当たっていた」その実際の事柄を、相談者自らが「自分の出来事(これが具体的なこと)」として思い、話します。
これによって、抽象的な意味合いだったカードが、より具体的な意味を持つようになるのです。この繰り返しによって、カードはその占い師によって個別の意味として強化・ 固定されていきます。
ここで重要なのは、カードの持つ絵柄からの「質」や「波動」的なものが、占い師が実占で意味を強化していくたびに、磁力のようなものを帯びていくようになるということです。
もともと存在しているカードの「ある質」が、占い師によってその質(カラー・色と表現してもよいもの)を濃くしているのです。(実際にカードが出ることによって印象が強められることでもあります)
印象やイメージは、実はこの「磁力のようなもの」として表現したある種のエネルギーや質を強めます。相談者の驚き(感情の波・起伏)もさらに力となります。
つまり、「カードのもともとの絵柄による「質」、「占い師のイメージ・印象」、「カードが実際に出ること、引かれること」、「相談者個人の体験・出来事との合致、驚き」の相互作用によって、カードの特質が非常に色濃くなるわけです。
このようにして磁力を帯び、特質をかなり濃密に表現するようになったカードは、今度は相談者の相談内容の質(波動といってもいいかもしれません)に応じて、同質的に引き寄せられるかのように登場するのです。
そして、意味の具体化(白黒や吉凶も含む)も進んでいますので、そのカードが出たからその意味を表すということもありますが、逆にそのカードがその意味(の現実・具体)を引き寄せるようなことにもなってくるのです。
言ってみれば、まさにカード自体がその意味や事柄そのものになっているのです。
従ってそれ(ある特定のカード)を引くということ、それを受け入れるということは、実際に相談者がその意味や事柄を起こしたということに等しいくらいの状況を呈するのです。
このシステムのもとにカードが出ますと、「恐いほど当たる」というタロットの印象につながります。
「すごいよタロット、当たるどころか、カードの意味そのものを起こすこともできるなんて!」と思ったあなたはまだ真意を理解していません。
タロットはかように、時にすごいパワーを持ちます。それだけに扱いも試されます。
あなたがどのようにタロットを使うのかは、まさにあなた自身に任されているのです。
占いの「当たる」ということを考察してみる。その1
私はタロットを(占い的に)当てるということに目的を置いていませんので、当てる技術に特化して教えることはできません。
しかし、その「当たる」という意味や構造を考察することはあります。
その中にはどうしても理屈や頭では理解しがたい現象もあり、まさに神秘という側面もあるにはあります。
それはまた、「占い」に人気がある理由のひとつでもあるでしょう。
ただそれとは別に、ある程度「当たる」ことの(理由の)推測が可能な場合もあります。それをいつくか書いてみたいと思います。
●実は何を言っても当たるということ
人には、何を言われても「自分に関係しているように思える仕組み」があります。特に自分が悩んでいること、気になっていることに対しては敏感になっており、必然的に関心のあることとほかのことが結びつきやすく(リンクさせる傾向に)なっているのです。
たとえば血液型占いでの本を手に取り、相手にどの血液型の項目を読んでいるかわからないように読めば、実はA型の項目の話であっても聞いているO型の人は、「うんうん、そういうところあるよ」「わあ、当たっている・・・」と錯覚してしまいます。
これは血液型占いの言葉を聞くような人は、誰でも「その占いと自分」ということに関心があるので、読まれている内容が自分の血液型と違っても、自分のものと最初から信じてしまい、勝手に読まれた内容と自分とをリンクさせてしまうのです。
この、「推理によって誰でもありそうな部分を、わざと個別のことと(自分に当てはまっているか)のようにリンクさせて話す」テクニックを「コールドリーディング」と言って、一時期は話題になりました。
ほかにもショットガンのように次々と大量に話すことで、どれかは真実に近く、当てっていることもあるので、言っていること全体を信じ込ませる「ショットガンニング」という技術もあります。(「数撃ちゃ当たる」方式)
こう書くと、何か詐欺ぽい雰囲気も出てきますが、きちんとした占いはコールドリーディングなどの技術を超える確率や鋭さで当たりますので、コールドリーディング的な技術をたとえ無意識に使っていたとしても、優れた占い師はやはり占いの技術も相当なもので、話術だけに頼っているものではないと感じます。
そしてとても大切なことは、私たちはすべての要素を誰もが持っているということです。
このため、何を言ってもどれかは当たるように感じるのです。もって生まれた傾向、過去や現在の事実は個別であっても、内在的には誰もが等しい可能性を有していると言えます。
それがもともとの気質や経験によってその人の「傾向」となり、占いではそれがあぶり出されますが、非常に当たっている部分と同じく、まったく当たっていない部分にさえ、実はあなたが潜在的に持っている能力であったり、あるいは気がついていないけれども無意識のうちに体験しているものだったりするのです。
ですから「なんだ、この占い師、まったく的はずれなこと言っているよ」と思っても、あなたのデータや傾向、そして占いツールからの象徴によって出されたあなたにとっての何らかの「シンボル的事実」のこともあるのです。
当たっている事はもちろん驚きで重要な部分になりますが、はずれている部分にもあなたの可能性や光が残されているのです。
少し話がずれましたが、要は私たちが同じ「人」としてすべての可能性を持っているのならば、何を言っても当たるのであり、その当たったかどうかという判断は、占われている自分の意識と意味づけによってなされるということを覚えておくとよいでしょう。
脅しや洗脳的な悪い占い師の場合は、その言葉や技術で占い師側に主導権がありますが、実のところ、普通は占われているほうに決定権や主導権があります。見た目は逆ですが潜在的にはそうなのです。
ですから自分が「この占い師は信用できる」「今日は何でも聞き入れよう」という受容的でオープンな態度にいれば、占い師の言葉は信じやすく当たっているように感じますし、逆に最初から懐疑的で反抗的な態度でいれば、たとえ同じ占い師と言葉であっても、なかなか当たるとは感じないかもしれません。
ただ懐疑的ではあっても、占いの話が何か自分の琴線にふれたり、本当にそれでも「当たっている!」と衝撃的に思った場合は、最初が否定的であった分、反動として一気に信用モードに入る場合もあります。
このことは目に見えないものへの関心や情報を通じて自分を成長させたり、ブレイクさせたりするきっかけとしてよいケースの時と、逆に占い師に依存したり、コントロールされたりする危険性もあります。
いずれにしましても、当たる「事実」ということも確かに重要で、実際に細かな事実を当てることのできる占い師・霊能者の方もいらっしゃいますが、占われる側の心理的な状況・環境によっても、その当たり方の認識に違いが出るということになるのです。
長くなりましたので、続きは次回にて。
制約ある人生の中で、あなたはどうするか。
人は亡くなる前に大きく後悔することが三つあると統計的に言われています。
ひとつは「伝えたいことが伝えられなかったこと」、そしてもうひとつは「行きたいところに行けなかったこと」で、最後は「やりたいことができなかったこと」です。
ということは、「伝えたいことは伝え」「行きたいところは行き」「やりたいことはやれば」よいわけです。(笑)
ところが、私たちは一人で自由に何でもしてよい環境に生きているわけではありません。
前述の後悔が亡くなる前に出るのも、生きている間にはいろいろなしがらみ、思い込み、制約、条件などがあり、行いたくても行えない事情があったからでしょう。
人生をただ起こるがままに任せていたら、生きている時に発生する、もしくは囲まれている諸条件によって、自分の欲求や願いをかなえさせることに自然にセーブがかかります。
極端なことを言えば、「人生は思うようにならないことが当たり前だ」と何事もあきらめの心境で過ごします。
しかしながら、人生や世界をひとつのゲームだとたとえれば、そういった制約や条件の中で、いかに自分の願いや欲求を叶えさせていくかが試されているフィールドだと考えることもできます。
ですから起こるがままに任せる(事柄・事件に反応するだけの)人生ではなく、知恵・情報を獲得しつつ、うまく立ち回って自分(の思い)を出したり、実現させたりするほうが賢明で楽しいとさえ言えます。
愚直にまじめに生きるといえば聞こえはいいですが、それはある面、せっかくの楽しみを自ら捨てているのと同じだといえます。ちなみに誠実に生きることと、すべてをうのみに信じてまじめに生きることとは違いますので注意してください。
さてこうした考え(賢く楽しく生きるとするもの)に立てば、たとえばどこかに旅行したり、出かけたりすることを計画する場合でも、ただ行きたいところへ行くというのでは人生ゲームを楽しんでいるとは言えません。
もちろん行きたいところへ行ける条件が整っている(予算・日程・体力など)場合はそれでOKです。
しかし、一例でいえばもうすぐGWですが、行きたいところがあったとしてもこの時期にわざわざ行くのはお金も余分にかかりますし、混雑も予想され、いろいろと効率が悪いと言えます。
そこで知恵や情報を使い、この時期でも効率よく行きたいところへ行って楽しめる方法はないかとか、GWでも混雑を避けられる「別の行きたいところ」はなかったかと検討し直すこともできるでしょう。
また、やはりこの時期をずらしたほうがより楽しめるとなって、それならば休暇を取る計画と仕事を調整しようと試みることもできます。
ほかにも、お金を増やすということをテーマにすれば、ただひとつの仕事を、雇われるだけでまじめにこなして給料をいただくという行動だけでは、なかなか増えないのは明白です。だからといって犯罪をすればこの世界のルールで逆に損です。負けなのです。
そこでまた知恵と情報を駆使して、負けではない別の方法を考えるわけです。
自分の欲求に従って、そのまま無計画・無自覚に衝動的に行動するのと、何も考えず、起こるに任せてコントロールされた意志のないロボット・奴隷のように生きるのは、もっとも人生で避けたい生き方です。
与えられたもの、条件・制約の中でも自分の欲求と意志をどうコントロールし、実現させていくかを考え行動していくことに、人生のひとつの楽しみがあると言えましょう。