ブログ

ブログリニューアルしました。

この度、ブログデザインをリニューアルしました。


と言ってもヘッダー部分のみですが。


前のヘッダー画像は一年ほど使っていまして、これはこれで自分をバーンと出す(笑)には面白く、実際に画像を変えてから読者の方の反応も多くなり、ありがたい気持ちと感謝がありました。


制作者ともやり取りを通じて縁を感じたり、懇意になったりして、単なるデザイン制作とは違うよさを思いました。そういう意味でも私にはプレゼントだったと受け取っています。


そして今度は別の方にお願いしました。こうしてまた新たな出会いとご縁が生じるのです。今回制作いただいた渡辺さんには、デザインの良さもありますが、何より私の細かな修正に何度も快く応じていただいたご親切さに、感謝申し上げたく存じます。



ところでいろいろなもの、万物は生々流転で、この世界は固定されるということは実はありません。同じように見えてもその中では動きがあり、繰り返しのリズムと運動のもとに、質的には成長や発展を続けます


ということで私もそろそろ一年前の自分とは違っているものを感じ、それに合わせてブログデザインも変更しようと思ったのですね。


何事もそうですが、その時その時に起こるもの、選択するもの、提供されるものには意味があります。そのほとんどがまさに「その時の自分」を反映しており、象徴されていると言えるのです。


たとえそれが自分にとってよくないと思えるもの、受け入れがたいもの、不幸だと感じることであっても、それなりの意義があると考えられます。


ネガティブに感じられる出来事でも、おそらくは究極的には自分の発展・成長のためのポジティブな種子であり、そう考えると、自分に起こることに本当の意味で悪いことはないとさえ言えます。


悪く感じる部分も、見方や次元を上昇させた観点に立てば、結局は自分のため(変えることが出来るもの)だということでしょう。


ですから今自分に与えられているもの、自分が表現できているものは、自己の成長の度合いを如実に表しているものであり、そう納得するとある種の面白さが出ます。


それは欠落や不満ではなく、まだ思い出せていない自分、まだ表現しきれていない自己という観点になり、今あるものに喜びと楽しみ、感謝の気持ちも出ながら、さらなる成長への意志が強くなってくるのです。


ブログも読んでいただける方あってのものです。拙ブログをご訪問いただき、まことにありがとうございます。


今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


カードの視線に注目する。

まずはお知らせです。何だかんだで、私のほうの講座日程が詰まってきております。


現在、マンツーマンでの講座はかなり日程的にお取りするのが難しくなっておりますので、マルセイユタロット講座をこの春から受けてみようかなと思われる方、定期の講座(基礎講座、カルチャーセンター)での受講をご検討いただくほうが確実です。


さて、私はもとともカモワン版マルセイユタロット(通称:カモワンタロット)を主体に学び、実践してきたところがあります。


カモワン流ではタロットの絵柄に描かれている人物の視線の方向に特に注意を向けます。その方向性に意味があるのですが、ここでは詳しくは述べません。


とにかくカモワン流が提示した「人物の視線とその先のカードとの関わりを重視する」という考え方は、カードを単体で見ることの多いタロットスプレッドにおいては画期的ともいえるものがありました。


カモワン流を厳密に適用するかどうかは別としましても、カードの人物の視線に注目してみるという発想は面白いと思います。


そうやって大アルカナや宮廷カード(コートカード)など、マルセイユタロットにおける絵柄が描かれているカードの人物の視線を全体的に俯瞰してみると、いろいろな発見があると思います。


残念ながら、ほかのカード種ではカードの人物に視線はあるものの、あまりはっきりしていないことが多く、視線自体には特別に配慮がほとんどなされていないことがわかります。


マルセイユタロットの場合は、実はその視線の角度まである種の計算や法則に基づいて描かれており、決して無造作に描かれているものではないのです。


従って視線を無視することは、逆にマルセイユタロットの特性を活かしていないことになってくるのです。


ここで単純に視線に着目してリーディングする方法のひとつをご紹介しましょう。


それはカードを正立と逆位置(リバース)でわけて考える方法です。


正立の時の視線が正しく、逆位置の時は方向性やエネルギーが間違っていると見ます。それには正立においてのそれぞれのカードの視線の方向性を、しっかりあらかじめ把握しておくことが大切です。


言ってみれば、「なぜそのカードは正立においてそちらの方向を見ているのか」ということです。


単に右や左だけではなく、斜め、上下の角度についても注視してみるとなおよいでしょう。


そうして自分の課題や問題に対して一枚のカードを引きます。


次に、出たカードの人物の視線の方向の種類と正逆を見て精査します。


(視線が正面を向いていたり、多数ある場合は、視線や方向のエネルギー性は見なくてもよく、今ここにもっと注目することだと判断します)


こうすると仮に出たカードが正立で視線が右であるならば、右方向のエネルギー(それはカードの意味から考えればわかります)で今はよく、しかも正しい方向に進んでいるか、バランスの取れた見方をしていると分析します。


反対に逆向きである場合は、方向性とエネルギーがどちらかに偏っているか、本来見るべき(力を入れるべき)方向とは違っていると省察します。


どちらにしても出たカード自体の意味と、視線方向のエネルギー性を重ね合わせることが大事です。


たとえ方向のエネルギーの質や意味がわからなくても、カードの正逆によって、自分の今の方向性や見ているものが本質とは違っている(ずれている)のだと判断することは可能です。


大アルカナで実行する場合、視線方向は向かって左に向いているものの割合が多いので、自然、確率的にはそちらの方向のものが出ることが多くはなりますが、タロットは不思議なもので、確率的な割合を超えて自分にとって意味ある必然的なもの(カード)として登場します。


ですからやはり出たカードにはきちんと意味があると見てもよいのです。


タロットリーディングの正しさの基準

タロットリーディングは知識と感性、直観やインスピレーションなどが混ざり合って行われます。


そこには思い込みもあれば、神聖さ、純粋な気持ちも反映されます。


ですから「何が正しいか(どんなリーディングが正しいのか)」という観点に立てば、正しいものを正しいと判断する基準(モノサシ)が不明なため、結局わけがわからなくなります。


逆に言えば、混迷に陥らないためには、リーディングの正しさを判断する基準を自分なりに何か持たなければならなくなるということです。


それが占いになれば、当たるか当たらないか、幸運を獲得することかできるかという基準になりがちです。


すなわちリーディングが当たったり、幸運をつかむことができたりすればタロットリーディングは正解だった(正しかった)となるのです。


占いの場合は占い師の信用、営利的な問題もあって、このような判断基準のリーディングになることもやを得ないことは実状としてあると思います。


しかしながら、それだけでは白黒の世界で、いいか悪いかの二元的な判断ばかりとなり、統合の道やいいも悪いも超えたモノの見方、新しい調和の方向、高い次元への進展が難しくなります。


この世の中は白や黒ばかりではなく、その間のグレーやグラデーション多層に重なってできており、それらを行きつ戻りつしながら循環し、繰り返しているのです。


私たちが幸運だと思っていることの裏には不運が隠されていたり、波のピークとして幸運を見ればそれは不運という下降の始まりでもあります。


幸せ観というのも人によって、また環境や時代によって、まさに「それぞれ」だと言えます。誰かと比べる自分の幸せというものが実は多く、それは最終的には幻想となります。


だからこそ、相対的な幸せより絶対的な自分としての幸せ(自分基準の幸せ感)を感じれられるようになるほうがよいでしょう。それならば、周囲がどう変化しようと自分の幸せ感は変わらないからです。


結局のところ、自分であれ、相手であれ、この絶対的な幸せ感を基準としてリーディングの正しさを追い求めるとよいのではないかと考えられます。


それは換言すれば霊的な向上の道ということが言えるでしょう。ただ、ちょっと一般的にイメージされている「悟り」というものとは異なるものではないかと私自身は思っています。


この道は自分の何かを増やすというものではなく、もともとあったものを思い出すという方向性です。


相対的な幸せを求めると、どうしても「増やす」「追加する」「拡大する」というように想像してしまうのですが、本当は逆だと思います。


もともと「ある」ので「増やす」必要はなく、「ある」ことに気付くことが大切なのです。


それは外ではなく内に目を向けなくてはなりません。しかしただひたすら瞑想して内観するということではなく、外と関わりながら内(自分)を見て「ある」ことを思い出す作業です。


「ある」ことを実感するためには、反対に「ない」と思い込んでいる、あるいは思い込まされている「枠」や「縛り」のようなものに気付いていく必要があります。


これは知識からでもよいですし、感覚からでもよいのですが、できれば両方からのアプローチが理想です。この作業を繰り返しながら、自分を「在る」「満ちている」状態にさせていく(取り戻していく)のです。


これが象徴的に絵柄や道程として描かれているのがマルセイユタロットだと私は感じます。


「学び」の観点を広げるために。

学びの方法と言うと、一般的には本から、人から、環境から・・・となり、具体的にはセミナー・講座などに出たり、目的をもって読書したり、誰か尊敬する人に弟子入りしたり、仕事したりというようなことが思い浮かびます。


ただこれも思い込みに過ぎません。学びのイメージが固定されているのですね。


考えてみれば、私たちの周囲にあるものは皆、学びにつながります。自然や動物、時には落ちているゴミですら、自分の気づきや学びになるかもしれないのです。


こうした学びの対象の幅を広げるには、あるコツがあります。そのポイントをふたつほど挙げたいと思います。


1.見た目や他人の評価にとらわれず、本質を見ること。

2.「象徴」や「シンボル」での見方を獲得すること。


1はたとえば、子どもなど普段自分より下だと思っている人、自分よりわかっていないのではないかと想像している人(それだけでも傲慢になっているのですが・・・)から何か言われた時、最初から「おまえがいうな」という感じで聞く耳をもとうとしないかもしれませんが、実はとてもよい内容を言っている場合があるというようなことです。


言っている人間の年齢や立場をひっくるめて評価してしまうので、話している内容としての本質そのものと切り離せていないわけです。極端なことをいえば、犯罪人でさえ、時には本質的に示唆に富むことを話すことはあるものです。


これは人だけではなく、ものや環境でも言えることです。「とんだ職場に来てしまったものだ」とか、「これはまったく使い物にならないよ」と思いこんでしまえば、そこから学ぶものは何もなくなります


あなたに与えられた状況、何か自分に気になることが起こっているということは、ことの善悪、好むと好まざるに関係なく、何か意味があると考えるのです。


さて2ですが、これは非常に重要です。なぜなら、現代人の多くはこの象徴・シンボル的見方を捨ててしまっているからです。


偶然見た外でのシーン、たまたま聞こえてきた人との会話、雲の流れ、鳥の羽ばたき、天体の動き・・・そして重なる偶然のような必然の数々・・・これらはシンクロニシティという言葉とともに自分にとって意味あるつながりとして、象徴的に解釈が可能なのです。


自分の思っていることとは一見まったく無関係のモノや状態であっても、象徴としての理解が伴うと、それらは一気に関係とつながりを持ち始めます


この考えを推し進めると、自分を取り巻く世界にはすべてに意味があり、無駄が無く、バランスも計られているということに気がつきます。


そうするとそれを構築した完全なるもの、いわゆる「神」的な存在を自然に想定し、その偉大さに敬意と感謝を思わずにはいられなくなります。


逆にいえば自分がいるからこそ完全であるのだという気づきにも至り、自分はもとより、一人一人の命の大切さを思うこともできるのです。


そして象徴的絵柄でできているタロットは、こうした象徴的解釈を思い出し、発動させるのには最適なツールなのです。


名前をつけること、変えること。

私は昔(と言ってもそんなに古い話ではないですが)、占いで活動していた時があります。


タロットといえばやはり占いというほうが手っ取り早く、そして相談を実際に仕事として受けるためには、「占い」活動によって経験と実績も積む必要があると考えていたからです。


その際、まだタロットを習って駆け出しの頃でしたので、ほかの技法も身につけたほうがよいと思って(というある人のアドバイスもあって)、四柱推命・手相・姓名判断など学ぼうとしました。


まずは本から入り、その関連本を数冊さらっと読みました。すると、どうも今挙げた三つの占法に興味を持つことができなかったのですね。(でもそれぞれ面白かったのも確かです)


そのことをアドバイスをくれた人に言ったのですが、その人は「とにかく、その中からひとつは身につけろ」と強く言われるので、仕方なく姓名判断だけは独学で勉強しました。


いろいろな本を読んだり、実際に芸能人や新聞で取り上げられる有名人から果ては犯罪人にまで、画数を数えたり、文字を見たり、やっていました。


そこでわかったのは、「確かに文字や言葉に(つまり名前)による何らかの人生の影響はあるな・・・」というものでした。まあ理論というより、最終的には「感覚」に近いものです。


で、結局は姓名判断、ほとんど実践の占いの場では使わなかったというオチがあります。なんだ、使ってねえーのかよ!というツッコミが入りそうですが・・・(^_^;)


その理由のひとつには、やはり私はタロットバカ(笑)みたいな人物なので、タロットだけでどんな相談にも応えようとしていたことと、さらには文字・言葉に「何かある」としても、実際的にはあまり活用が難しいということがあったためです。


それはたとえば「悪い」と判定された名前があったとしても、名前(本名)を改善するということは法的にも現実的にも困難だからです。


ただ逆にいえば、芸名とか占名とかハンドルネームとか、あだな・愛称など、あまたある、つけることが可能な「別名」には効果があるかもしれないということです。


精神世界では心が先で、現実があとからという説が主を占めるように思われますが、反対に形や現れた事柄(現れた実際と書いて「現実」となります)から心に影響を及ばせることもできるのです。(これはすべてがエネルギーや波動ととらえると、理屈的にも想定できることです)


日本の伝統芸や武道など型を重視するのは、おそらくはこうした型・作法・形が、ある心を表現し、鍛練するようにできているからだと推測されます。


ということで、たとえばタロットを習ったけれどもなかなか実践や人をリーディングする勇気が出ない、行動にならないという方は、タロットリーダー名や占名を自分で名づけるとよいでしょう。もちろん、自分で難しい場合は、人に名づけてもらうのもありです。


またブログをされていらっしゃる方は、最近どうも記事が書けない、またなんとなく新鮮さが足りないなど停滞感があるような場合、思い切ってタイトルやヘッダーのデザインを変えてみるとよいです。ニックネームや肩書きを変更するのもありです。


とにかく「目に見える形」と「発音できる音」を変えるのです。これが実は思った以上に目に見えない領域にまで影響が及ぶのです。


余談になりますが、ブログをしているしていないに関わらず、自分のニックネームや愛称の肩書きを考えてみるのは面白いことです。


「あなたの味方の●●」「ちょっとひねくれているけど、ホントはやさしい○●」「中身おっさんのかよわき乙女▲△」・・・などなど。(笑)


肩書きをつけてみると、つけるその過程で意外に自分の姿がわかったり、気付いたりします。これも友人や誰かあなたを知っている人に意見を聞いてみるのもよいでしょう。


ちなみにタロットリーダーの名前をつけたい人は、やっぱりタロットを展開するのは大切ですね。ソウルカード・パーソナルカードがヒントになることもありますよ。


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