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一枚引きの変わった方法
タロットは同じ質問で何回も引いてはいけないと言われています。
この理由については、タロットは卜占(ぼくせん、偶然現れた兆しに天意や神意を見る方法)なので、何回もやると最初の神聖さが穢れるという考え方にあります。
これはこれである面真実のところがおるように感じますが、タロット(の霊)との約束をきちんと決めておけば、複数回引くこともOKな場合があります。
今日ご紹介するのはそのようなやり方です。
タロットの引き方・展開法で、一番シンプルなのは一枚引きと呼ばれるものです。これは文字通り、タロットを一枚だけ引いてくるという方法です。
一枚のカードからあらゆる象徴を読み込むので、実はかえって難しいところもあります。
この一枚引きを何度もするやり方があります。何回も引いてしまうと、厳密には「一枚引き」ではなくなってしまいますが・・・(苦笑)
では方法について具体的に書きます。
まず、問いを心に思い描いたら、マルセイユタロットの大アルカナをシャッフルします。イメージは続けてしておいてください。
次に広がったタロットの山の中から「これだ」と思うタロットを一枚だけ選んで引きます。
この場合、通常の一枚引きならば裏向きのまま、きちんと方向(正逆)を定めておくことになりますが、今回はいきなり山から表に向けて取ってきてもOKです。つまり正逆や方向は関係ありません。タロットそのものの意味を重視します。
ただ逆が気になる場合はそのままにしておいても、正立に置き直してもどちらでもよいです。
そして問いと照らし合わせて出たカードを見るわけですが、この時点でどうもしっくり来ない、よくわからない、判然としないという感覚がある場合は、あまり考え込まず、すぐ次のカードを再び山の中から一枚引きます。
できれば最初に出たカードの上に重ねてしまってください。
二枚目のカードを見て、ここで腑に落ちたらそれでカードを引くことはストップします。もし、まだしっくり来ない場合はさらにもう一枚引きます。こうして心が納得するまでカードを引き続けるのです。
言ってみれば、「タロット一枚連続引き」です。
22枚を引ききることはまずないでしょう。必ずどこかでストップできるカードが出ます。
これはカードがフラッシュのように出ることで、実は絵柄が奥底の心理に飛び込んで来る効果があります。言ってみれば余計な思考を排除しやすい方法なのです。
もし何枚も続いてしまったのならば、出たカードをあとで順番に並べて見ていってください。
それがひとつのストーリーになっていたり、同じことを繰り返し違う形で述べていたりと、面白い傾向に気がつくことでしょう。
もちろん最初の一枚でズバッと心に収まれば、それに越したことはありません。
なお、この方法はiPhonのマルセイユタロットアプリ(一枚引きのアプリ)でもできます。一度お試しください。
タロットの展開法(スプレッド)を選ぶ重要性
私の教えているマルセイユタロットとその展開法には、そもそも「どうなりますか?」という状況判断や、「いい悪い」の吉凶的な診断を求めることにはなじまないものです。
詳しくは書きませんが、展開の構造やルール自体がそうなっているのです。
ということは、もし逆に「この仕事をすればどうなるの?」「この人とつきあうとどうなる?」「これを選ぶといいの?悪いの?」というような質問をする場合は、展開方法を変えたほうがいいということになります。
また、質問が上記のような状況判断を求めるものになっていて、スプレッドがそれになじまないものならば、今度は質問のほう(質問の形)を変えたほうがいいことになるわけです。
タロットをする人でも実はあまり気がついてない人もいるのですが、選択する展開法(スプレッド)によって質問が変わることがあるのです。
質問が変わるということは、通常思われているよりも重大なことなのです。
「質問」それ自体のセミナーや学習・書籍があるように、問いは自分の人生をどう生きるのかに深く関わってきます。
普段発する質問・問いによって、自分の生き方さえ変わってくるのだと言っても過言ではないかもしれません。
たとえば何か問題や困ったことが起きたとき、自分はどのような質問や言葉(心の中でも)を発しているかを注意深く観察してみるとよいでしょう。
「困った、どうしよう?」「どうなるんだろう、これ」「大変だわ」「どうしようもない」「神様お願い、何とかして!」・・・
こういう言葉や問いの類が頻繁に出るようでは、まさに自分の人生の舵取りを、他人や環境・運に任せているようなものです。
「どうすればよいか」「何か方法があるはず」「このことは、善き人生にするためにはどう解釈したらよいか?」などの問いと比べてみるとよいでしょう。
注意しなくてはならないのは、人生には確かに選択の連続ではあるのですが、いつもいつも「いいか悪いか」の二者択一的にタロットを展開し、解釈していくと、自分はその二者択一・白黒・正義不正義の二元的な世界に縛られていくようになります。
二元的な世界というのは分離や独立的傾向を持ちます。周囲や他人と常に比べ評価しないといけなくなります。「比べて評価する(判じる)」ということは、そのまま文字通り「批判」気味にもなります。
そもそも、いい悪いという自分の基準も変化していくものです。変化しない基準となれば、それはより高次の宇宙的なものとなります。ここに高みを求める霊的な意味が生じます。
選択するべき現実的必然も人生の場面において当然ありますが、「よい選択をした」「失敗のほうを選んだ」という結果ばかりを見るのではなく、迷いや選択の機会を与えられていること、選択の材料の特質などに思いを馳せることも大変重要なことでもあります。
こうしたことにタロットで気がつくためには、タロットそのものの理解も必要ですが、自分が普段使うスプレッド(展開法)にも気を遣う必要があるのです。
タロット講座・体験会のお知らせ
おかけで様で、先日の食中毒事件から回復して以来、かなり体力・気力とも充実してきました。
もし私にお気遣いいただき、メールやお問い合せなど控えていらっしゃった方は、どうぞご遠慮なくお送りください。
それでは本日は私が講師を務めるタロットの講座情報をお届けいたします。(通常のタロット記事は1日おきにしていますので、明日掲載します)
一週間後に迫りましたが、よみうり文化センター神戸 (神戸元町)でのマルセイユタロット体験会が3/1(木)に開催されます。体験会は3/29(木)にも同じものが予定されていますので、3/1が無理な方はこちらへどうぞ。
時間は13:00-14:00です。参加費は500円のワンコインのみ。お申込み・お問い合せは、よみうり文化センター神戸まで直接お願いいたします。
4月からは同じ場所で第1・3木曜日、合計6回の初心者向けマルセイユタロット講座がありますので、リーズナブルにマルセイユタロットを学びたい方、春の季節とともに始めてみられてはいかがと思います。
同様に、京都新聞文化センター (丸太町)にて、マルセイユタロット体験会と講座が予定されています。体験会は4/3(火)13時から14時半までです(料金1,575円)。こちらのマルセイユタロット講座は4/17から第1・3火曜日5回で行います。こちらもお申込み・お問い合せはセンターまでお願いいたします。
カルチャーセンターのタロット講座は気軽にタロットの世界を体験することができ、これだけでも簡単なリーディングはできるようになりますし、ここからさらに奥深いマルセイユタロットのすばらしき象徴体系へと進んでいくことも可能です。
また最初から本格的に学ばれたい方は、4月中旬からを予定していますが、新大阪で少人数によるマルセイユタロット基礎講座を企画しております。
この講座はまったくのタロット初心者から、上昇曲線を描くかのように自己の成長と拡大を意図し、本格的にマルセイユタロットを使いこなすための知識と技術を学びます。
日程は土曜日が中心となります(参加者の希望を調整して日曜日になる場合もあり)。詳細はまた後日お知らせいたします。3名程度しか募集しませんので、今からでもお問い合せや予約をしておいていただくことも可能です。→お問い合せはこちらから。
なお基礎講座の次のコース、発展コースも予定しておりますので、基礎講座を修了され、タロットを自分だけではなく人の相談ツールとしてさらに活用されたい方は、メルマガ含めて今後の情報にご注目ください。
時間の中に潜む「悪魔」
皆さんの中には、「もっと時間があれば何でもできるのに・・・」と思っている方がいらっしゃるかもしれません。
時間というものは規則的に万人に等しく流れるものと、個人の感覚で流れていくものがありますので、意外にもその両者のズレや葛藤によって、悪魔的なところが時間に存在するようになるのです。
そのほかにも、この世の制約や条件として時間があると考えれば、やはり悪魔と時間はつながってきます。
マルセイユタロットを見ていますと、時間を象徴的に表す「運命の輪」のカードと、その名の通りの「悪魔」のカードが共通している部分があることに気がつきます。(絵柄や意味などにおいて)
この二枚は本当に面白い関連があり、ともに相当なパワーを有します。
それはさておき、時間と悪魔の関係ですが、記事の冒頭に書いたことは、実はこの関係について考えてもらうためのものなのです。
個人的な経験でいうと、私はかなりの多忙期とものすごく暇な日々を過ごした時と、どちらも結構経験しています。
おそらく皆さんの人生においても多忙な時と暇な時の両方は、程度の差こそあれ、経験済みでしょう。
そこで振り返っていただきたいのですが、暇な時というのはあまり記憶も少なく、ただ惰性的に時間が流れてしまったのではないでしょうか。
もちろん、暇ではあっても自由がない場合は、逆に多忙よりも苦痛で、時間は惰性的というよりまったく動かないかのような静止した時のように感じられます。
ここでいう暇な時とは、「比較的何をしてもよい状態で時間がかなりある」という状況のことを指しています。
私の場合、やはり暇な時は無為に時間が流れてしまった印象が強いです。これは時間があるからこそ、甘えや油断になり、かえって何もできなくなるという状況に陥るからです。
人は必要に迫られたり、追いつめらられたりしないと、案外行動しないものです。
人間には「今の状態を変えたくない」という欲求にも似た心が存在します。キリスト教用語の「7つの大罪」ひとつ、「怠惰」に関連するとも言えます。
しかし罪というより、人の安定機能、ホメオスタシス(外部状況が変化しても生体の状態は一定に保つ機能)のようなものが反応しているようにも感じます。これを思うと、暇な時に無為に過ごすこと自体を悔やむ罪悪感のほうが問題に見えます。
時間の幻想(多くあると思うこと)によって、私たちは一種の固定化や縛られた状態を経験し、それは一見自由で楽しいように見えて、何もできない空白の時空に閉じこめられているようなものになっています。
時間を無駄にしてしまったという罪悪感と、たくさんあることへの油断から来る時間幻想の縛りから逃れるためには、やはりマルセイユタロットの「運命の輪」と「悪魔」を観察することです。
簡単にいえば自分自身をスフィンクスにし、悪魔という仮定した存在を認識することです。
実際の行動でいえば、時間があり暇な時であることそのものを自覚しながら、本当にその時を楽んでしまうこと(悪魔にだまされるふりをすること)になります。何をすべきか、何をしたのかなどは考えないことです。
また無為に過ごしたり、無駄に過ごしたりすることに罪の意識を覚えず、こういう周期・波の中にいると認識し、いずれはまた多忙の時がやってくることを想定することです。
ヒントはさらに「運命の輪」「悪魔」の隣の数(両隣)を持つカード群にもあります。皆様ご自身で考えてみてください。
嫌なことでも動かなければならない時には。
近頃思うのは、感覚の大切さです。そして思考が過剰になるのは問題があるとも思います。
別に思考することや、頭で考えたり理屈を見い出したりすることは悪いことではありません。
しかしここで必要なのは、感覚との統合ということです。
表現を変えれば、「気が進まない、感じとしてあまりよくないものを、無理矢理理屈をこねて自身を説得しない」ことになります。
これは嫌なことを避けるという意味ではありません。それでは単なる逃避であり、成長の機会を失うことになります。
ここで言っているのは、感覚との統合を目指すこと、それが無理なららきちんと折り合いをつけるということです。
人間誰でも感情や感覚があり、それは人それぞれです。あることやある人のことを嫌だと思う時もあれば、好きだと感じることもあります。
それを止めることは普通は無理です。起こる感情を止めようとするほうが大変です。ですから感情や感覚は起こるままに任せます。
次に自分がしなければならない行動があるとします。社会で仕事をしていれば、不本意ながらもやらなくてはならないことは多々あります。普通に生活していてもそれは存在するでしょう。
ただこれを「仕方ない」とか「我慢するしかない」とかで、強制的に感情・感覚を抑え込んで動くと、基本的に心とのねじれが生じていますので、どこかに無理が出たりします。
「割り切って」と言われるように、少なくとも「お金のため」とか、「今はこういう関係を選択している」とかで無理矢理ではなく、素直になれる「割り切り」論理を構築しておくことです。
ここで「論理」という言葉が出たように、論理(思考)は実は人が穏やかに生きるためには、やはり重要なものです。
自分の今の感情や感覚が「嫌」とか「好きではない」というものであるという事実は、その事に対して、あるいはその人と行動してはならないという意味にはなりません。
ここが非常に重要です。好きなら行動しやすく、嫌なら行動しにくい、過ごしにくいのは当然ですが、感情が行動そのものを規定しているわけではないのです。
選択要因・因子として働いているに過ぎないのです。(ただし、あまりにも強い感情はほとんど行動を規定しているかのように錯覚せざるを得ないものとなります)
また、そもそも「その行動自体が嫌だ」という場合もあります。このケースでは確かに感情と行動の統合はやりにくいかもしれません。
こうした時は感情との統合前にもやむを得ず動かなくてはならないこともありますが、対策としては、なるべくなら統合できていない場合はまだ行動しないこと、そして統合できる自分になるために、新しい視点や考えを学び、持っておくことだと言えます。
いずれにしても、感情や感覚と自分の行動を統合させるには、第三の視点が必要になります。
この場合の第三の視点を獲得するには、自分が抱いた感情・感覚と同じものを、行動しなくてはならない対象から拾い出し、それを「論理的に」結びつけることでできます。
簡単にいうならば、嫌と思うものの中にもいいと思えるものを見つけて、そのために行動するのだと考えることでしょう。
嫌なことを気持ちいいことと解釈し直すことではありません。事実は事実として受け入れ、認めるということを示唆しています。
そのうえで、こういう感情なのだからこういう気持ちになるのは当然と思い、やるべきことに対して、その感情に近くなることを探すことになります。たとえば、そのことを行うことで実績ができて、自信と売り出しのできる喜びの自分を見いだすというものです。
難しいのですが、それが第三の視点や自分のレベルを上げることにつながります。上から目線とは異なることにも注意してください。
いきなりレベルを上げることはできません。図形でいえば、平行線としてリンクをつなげることから始まるのです。(ここでは感情のリンクの発見のこと)
そうすると、突如としてピカッと光るがごとく、二本の直線の上の三角形の頂点が見えてきます。マルセイユタロットの「女帝」と「恋人」はこのことを表しています。
それでも統合しにくいものは、もともと統合する必要もないものかもしれません。つまりはそれは本当の意味で止めたほうがよいのです。