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立春 この時期の影響と特徴
今日は立春ですね。
東洋的な占いではこの日から新しい年の運気になるという見方がありますが、確かにこのあたりの季節のポイントは重要だと感じます。
特に今年の場合、占星術上、海王星が水瓶座から魚座に移行する時期と重なっていますので、その点からも強調されるところだと考えられます。
海王星と魚座の感覚をタロットで象徴すると、「月」と「吊るし」が浮かんできます。(その他のカードももちろんあります)
一方、節分から立春となる面でも「月」と「太陽」などがイメージされます。ということは、太陽と月(これは象徴的に言っています)のせめぎ合いもあるとも想像できます。
わかりやすく言えば、過去のあなたのとらわれと、新しく生まれ変わろうとするあなたの中で葛藤が生じやすくなる時期でもあるということです。
すでに浄化や変革がスムースに進んでいる方は、まさに今日から新しい自分へと加速度的に変化していくことでしょう。
しかし、おそらくたいていの人は急には切り替わらないところもあり、過去の積み残しのような処理がしばらく続くものと想像できます。
また特に、節分の昨日までに遡る短期間の間に、何か自分の中で前に残っていたようなことが想起されたり、実際の事柄として身に起こっていたりすることもあったと思います。
忘れていた習慣や行動の復活とか、昔のこだわっていた人や考えのことを思い出すといったようなことです。
これも今の時期(切替)の特徴なのです。ですから、過去のことが蘇ることに嫌悪感を示さず、むしろ浄化のための再生だと思って、淡々とこなしていくことです。楽しむくらいでもいいでしょう。
大切なのは執着しないということです。「そういうこともあったね」と、アルバムの写真を見るような気持ちです。
その写真でも鮮明なカラーであったものが、次第にセピア色になり、よいも悪いも人生の一ページとして彩られるというような感覚です。
今後、海王星がうお座に入ることにより、目に見えないものへの信仰、スピリチュアル的な傾向がますます進むといわれます。
けれども私個人としては一般的にいわれる占星術での「星の影響から来る社会や個人としての方向性」で見るより、「個人や社会の状態を星の影響に反映させる」という逆方向で見ることが多いです。
このことはまた日を改めて書きたいと思いますが、天体がこう動いているから私たちもこうしなければならない、こうしたほうがスムースに行くという占い的な見方で占星術を使うのではないということです。
ですから、さきほどは海王星や魚座での影響を述べはしましたが、実はこうした中で自分をただ天体の影響化にさらすのではなく、どう主体的に生きるのかを問うのが天体の影響を説明した意図になります。
たとえれば、特徴ある家・家(天体の運行)に自分が入るわけですが、その家の影響に染まってしまうのではなく、その家が何なのか、自分はその家に入ることで何を学び、どう行動し、自分の総合的な向上のための糧や指針とするということなのです。
このことはタロットでも同じで、タロット・占星術に限らず、自分のための現世的な利益のよしあしの選択のためにカードや星の指針を使うのは、自分をあるものの奴隷にしていることに気がつくべきなのです。
言葉と恋愛の効果。
日本の言葉は言霊(ことだま)と言われるように、言葉そのものに霊力のような大きなパワーがあります。
本来は唱え方など作法、古語的な発声や使い方の技法が厳密にあると考えられますが、現代の口語でもなかなかに威力はあると私は考えています。
それだけにうかつに言えないということも実際にあるようです。これなど、マルセイユタロットの「13」に名前がない(あっても発音できない、畏れ多い)ということに少し似ている部分もある気がします。
しかし逆に考えれば、言葉を大切に扱い、気持ちを込めて発すればよい効力も得られることになります。
そこでバレンタインデーも近近づいていることですし(^^;)、恋愛や結婚をよくしようと思う人のために、簡単でシンプルな言葉の使い方を書いてみたいと思います。
それは本当に単純なことなのですが、「好き」とか「愛する」という言葉をよく発するようにするということです。
日本人はちょっと「愛している」という言葉は恥ずかしくて言いにくいかもしれませんので、まずは「好き」という言葉から出してみるのがよいかもしれません。
ここで気がつく人もいるかもしれませんが、「好き」という言葉を心を込めて発するためには、その好きとなる対象がないといけません。
そういう人がいれば何も苦労はないことになりますが(笑)、、いや、ここでは人でなくてもよいのです。
動物、モノ、趣味、状況・・・それらを擬人化するなりして、「なになには好き」「これこれは好き」「こういうことって好きよね、私」という具合に「好き」という言葉が出るように思い、実際に声に出してみるのです。
人ならば、芸能人とかあこがれの人でもよいです。片想いの人であってもいいです。
大事なのは「心」が入る言葉にする(気持ちを込める)ということです。「好き」と言いつつ、実際はそうでもないと心で思っていたのなら効果はありません。
そして、さらに進んで、「好き」から「愛しています」という、恥ずかしくて言いにくい言葉にもチャレンジしてみてください。
これが感情を込めて言えるようになれば、かなりあなたの波動は愛のモードに変わってきます。
まず理屈的には、好きや愛する対象を探そうとしますので、自分の中にある「愛」の種や波動が拡大されていきます。次ににそれを心を込めて発することにより、言霊効果で愛する状況自体が具現化してきます。
つまりは恋や愛に関係することがあなたに現れることになります。
言葉を発すれば効果はより高いと思われますが、人がいたりして言いにくい状況の時は、心でつぶやくのでもよいでしょう。ただここでも必ず気持ちを込めてつぶやくことです。
イメージ的には言葉を発する時に、全身を言葉から生じる波や水のようなもので満たすような感じです。
ハートのマークのようなものがくまなく広がるようなイメージでもよいでしょう。(珍しく絵文字を使いましたが、とてもイメージが大切なので今回は特別です(^^;))
そして実はこれは恋を引き寄せることもありますが、自分自分の癒しにつながることが、またすごいのです。言葉を発することで、自分が気持ちよくなることが実感できるでしょう。
これらの言葉が言いにくい人は、心にブロックがかかっていますので、たとえば前の恋愛の思いが終了していないとか、ほかの精神的な引っかかりがあるとか考えられ、それらの解消や浄化のほうが先のこともあります。
いずれにしても、言葉と心が結びつくと、すごい力が発揮されることは認識されておいてもよいかと思います。マルセイユタロットでは「力」にもそれが描かれています。
人はもともと完全だと思うと、どうなるか。
マルセイユタロットでは、「人間は本来は完全である」と説いています。(これはあくまで私のとらえ方なので、絶対的な説ではありません)
そうなると、通常とは逆転の発想が出ます。
端的にいえば、「不足を補うのではなく、完全を思い出す、取り戻す」という観点に、自分や人を見る目が変化していくのです。
この考えを持てば、いろいろなことが反転していくのですが、今日は「技術や知識を学ぶ、身につける」ということについて焦点を当ててみたいと思います。
最近は情報社会のため、有り難いことにインターネットでもリアルでも、様々な技術・思考法などが紹介されています。
とはいえ、結局はそれは人が考えたものなので、たとえネットであっても人を介して伝わっているものです。
ということは人のやり取りで知識や技術も伝達されていくわけですが、このことを「人は完全を取り戻す」存在であるという考え方に当てはめると、面白いことに気がつきます。
つまり、私たちは一人一人、仮にもともと完全であるとすると、その状態を回復させるために人と交流しているのだと思うことができるのです。
人に個性があってそれぞれに特技や身につけたことものがあり、情報を持っているのは、それを思い出していない人のために提供していくことにあるのだいうことです。
こうすると、私たちは誰一人として不足や劣っている状態にいるのではなく、ただ自分の完全さをまだ取り戻していない、思い出していないだけに過ぎないと見ることができます。
もちろん生まれたばかりの赤ちゃんでは皆平等に完全さを「完全に」忘れていますが、そこから環境や自己の意志・行動の違いによって思い出す幅も異なってくることになります。
人によってはすばらしい能力を発揮したり、成功を収めたりする人も出てきますが、それは人間本来の完全さを、努力やその他の要素によって、より多く思い出せた、回復できた人だと言えるでしょう。
完全度合いに近づけば近づくほど、現実世界での生き方も楽になったり、うまく行くようになったりするのも当然です。「完全」とは「神」と同等の言葉と考えればわかりやすいでしょう。
それでも私たち個人だけの力では、なかなかこの世界において完全さを回復することは難しいものです。
そのため、完全さを回復することが先に進んでいる人や、ある部分での知識・技術を「思い出している」人から刺激を受けて、自分も完全さを取り戻すことに邁進していくことが必要となります。
それは一言で言えば、向上心や好奇心、自己実現といったことにつながってくるでしょう。
「もうこれでよい」ということは、悟りを得て完全であることを実感し、体現した人以外はないのです。
そしてこの世界では、完全さを思い出すことの一番の材料は、先述したように「人との交流」「人から学ぶ」ことにあるのです。
誰もがもともと完全であると知ると、人をうらやんだり、自分を卑下したり、誰かを過剰に持ち上げたり、カリスマ化することもなくなってきます。
すなわち、人を優劣で見ることが少なくなるということです。これが「人は元来完全である」という認識に立つ、最高の効果かもしれません。
二匹の犬のお話。
私の家の近所には犬を飼っている家庭が多いです。
ですから犬を散歩させている方もよく見受けられます。
ところで、私はもともと犬が苦手でした。(^_^;) 昔、小学生の頃、何度か犬に追いかけられたり、噛まれたりしたトラウマがあったからなんですね。
どれくらい苦手だったのかといえば、それこそ漫画「めぞん一刻」(古いネタで恐縮です)の三鷹さんみたいなもので、かわいい小型犬でも逃げていました。。。(笑)
ところがタロットをしているうちに、段々苦手意識がなくなってきました。(完全に払拭されたわけではないのですが、かなりましになりました)
その理由ははっきりとしませんが、タロットの絵柄の何枚かには犬が描かれており、その影響があったのかもしれません。
特にマルセイユタロットの大アルカナの中でも特殊な位置にある「愚者」のカードには、犬の存在が顕著で重要であり、必然的に「愚者」を見ることが多かったこともあります。
パスワーキング(タロットカードの瞑想)で、その「愚者」などでは犬も当然登場してくるので、そうしたことによる効果があった可能性もあります。
さて、別に私の犬トラウマ克服話(苦笑)をするために書いているのではありません。
実は近所のあるお宅には二匹の犬が飼われていて、その犬に関するお話なのです。
この二匹の犬、一方は比較的大型で、もう一方は小さな小型犬です。
そして大型のほうはあまり動きは少なく、どちらかというと無愛想な感じです。大きいこともあって、少し恐い印象さえ受けます。一方の小型のほうはとてもよく動き、よくほえて愛嬌がある感じがします。
ですからぱっと見には、おそらくほとんどの人は小型犬のほうに好印象を抱くと思います。
しかしなにせ近所のものですから、ほぼ毎日のように私はこの犬たちに出会うことになりますので、その場だけの印象には収まらないことが出てきます。
すると観察していてわかったのですが、大型犬は意外と愛想がいいのです。愛想というより、人間的な表情やしぐさを時にするのです。
人間的というのは、「ぷい」と知らんぷりしつつ、ちょっと気になる人間を目で追っていたり、疲れているのか、ぐたーと四肢を投げ出してだらしない格好をしていたかと思うと、飼い主や特定の人間ま前ではかしこまっていたりと・・・なにかと面白いのです。
それで小型犬はというと、これが画一的でいつもキャンキャンとほえて、やたらとうるさく、落ち着きがありません。誰彼なく自分の存在を知らしめようとするのか、近寄ってきてほえます。(威嚇のほえ方ではありませんが)
見ていると小型犬は、態度だけではなく、その表情までがあせっているように思えてくるので不思議です。
これらのことを私たち人間に当てはめてみますと面白いことがわかります。
それは関わってもらいたいからと言ってストレートに自己主張することが、人の本当の関心を呼ぶのではないということです。
騒ぎ立てますと誰でも最初には注目はされますが、いつも騒いでいますと、それこそオオカミ少年の話のようになって、「またあいつ、大げさに騒いでいるよ」となって、誰にも関心を寄せてもらえなくなります。
また毎回同じパターンだと人は飽きてしまいます。面白味のないヤツと思われます。
ところがこの大型犬のように、一見普通で近寄りがたい存在であっても、メリハリをつけたり、変化に富んだ態度や表情でいたりすると、人はその対象に向けての興味や興味が増していくものです。
まさに波や変化があったほうが魅力的に映り、長期に人の関心が続くのです。
波や変化のことだけではなく、「味」「味わい」と表現できる奥深さや特質があっても同じように人は惹きつけられます。
反対に単調であったり、底が浅かったり、押しつけがましいだけの状態であると、この小型犬のように味気なく疎ましい存在となってしまうのです。
小型犬は飽きられるていることがわかっているのか、ますますほえたり慌てた態度をして関心を引こうとしますが、逆に余計避けられてしまうという悪循環に陥っています。
これを見ていますと、本当に人間もそうだなあと思わされます。
皆までは言いませんが、この二匹の犬のエピソードのを通して何か感じていただければよいかと思います。
残りの時間を苦労で終わらせますか?
ブログの読者層の方の年齢がとのくらいなのかはわかりませんが、中高年の域に達している方には特に今日の記事は関係します。
人は自分の年齢を強く意識されている方と、あまり気にかけていない方がいらっしゃいますが、おおむねあまり自分の歳について意識していない方のほうが若々しい気がします。
とはいえ、どんなに若く見えたとしても、年齢は確実に増えて行きますし、やがては誰もが死を迎えます。
そこで改めて自分の年齢を思い浮かべてください。もちろん忘れている人はいないでしょうが、これから述べることのためには自分の年齢が必要なのです。
そしておよその日本人の平均寿命から逆算して、自分の残りの年数を計算してみましょう。今まで生きてきた年数(つまり現在の年齢)と比べてどちらが少ないですか?
また少ない人は、実際にはあとどれくらいの年数が残されていますか? 計算をすることにより、自分が普段思っているよりもかなり少ない年数であることに愕然とするかもしれません。
そう、あまり人生の時間は多くないのです。ましてや中高年の方は、本当にあとの人生はこれまでのことを思うと一瞬です。(時間感覚も次第に速くなると言われています)
ということは、もうあまり苦行や辛抱などして心身を痛めつけるのは、効率のうえでも、人生を有意義に過ごすためにもあまりよくないことだと気がつくはずです。
わざわざ残り少ない人生の時間を、つらいことや苦しいことに注ぐのはとてももったいないことでもあります。またそもそも、若い頃よりもいろいろと無理がきかなくなっていることもあります。
別に怠惰な生活を送れと言っているのではありません。
闇雲に動いたり、理不尽な労苦をするのは時間が少なくなっている人生では意味がほとんどないということを指摘しているのです。
別に年齢が行っているからといっても早々とリタイアしたり、悠々自適に暮らしたりするのが必ずしもよいとは言えません。規律をもって、使命感とともに仕事や運動を適度にやっていくのはいいことだと思っています。
それでもそれは「適度である」からこそいいものでなのであり、やたらと無意味に苦労をしたり、自分に負担をかけすぎたりするのは人生時間が少なくなりつつある人には、特に問題となります。
ですから今後は心身をいたわりつつ、調和のとれた生活を送ることを心がけることです。
「調和」という観点が大切で、その意味では適度なプレッシャーもOKとなります。何もしないゆるゆるでダラダラした生活は、これもまた残り少ない人生の浪費と言えます。
相対的に、中高年に差し掛かりますと、苦しいことをして成長を図る段階はすでにもう過ぎていることもあります。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言われますが、もう若くはない人は別の方法で成長を図る工夫を凝らさなければなりません。
それでも年齢にかかわらず、誰かのため、何かのために力を注ぎ、労苦をあえて厭わない人もいます。それはそれで自分が誰かの役に立っているという実感があるためによいのです。そうしたものは苦労とは感じないものです。
しかし自分の人生は人のものではなく、あくまで「自分の人生」なのです。ですからもうあまり時間のない人は、自分のために生きること、自分を労り、自分の人生を楽しむ方向にシフトしてみてください。
あなたの人生は子どものためでも配偶者のためでも親のためでも<、友人や他人のためにあるのでもありません。あなた自身のためにあるのです。(もちろんあなたの周囲の人のおかげで、あなたの人生は輝いたり、意味のあるものになっていますし、それに感謝することではあります)
そのためには無駄な苦労はもう必要ないと思い、余った時間を自分自身の楽しみや喜びに使うようにしてみてください。