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運をよくするために「愚者」化する。
私たちは「運をよくしたい!」と思うことがあります。
それは「いい生活をしたい」「不幸を避けたい」「幸せになりたい」というようなことであり、逆にに言えば自分の欲求をかなえたい、満足させたいということにつながると思います。
一見それらは低次のものに思えますが、実のところ、ここからが高次に向かうための出発点にもなるのです。この奥底には、自分を高めたい成長の心、向上の精神が隠されているからです。
欲求や欲望を無視したり、避けたり、それらはないもののように扱ったりしていては、実は先に進むことができません。
それらときちんと向き合わずして一足飛びにレベルを上げることはできないのです。なぜならば、欲求不満はどこかに欠落があることになりますので、基礎の部分で土台がでぎず、一部壊れている状態になるからです。
土台がしっかりしていなければ上に堅固で大きなモノを建てることはできません。
ということでは、運をよくしたいという発想を持つことも悪いことではないのです。そして、最初には吉凶を判断したり、不幸を避けて幸運を目指すという技術を学んだり、実践してみるのも当初の段階としてありとなります。
こうした方法で「運の良さ」を追求していくと、自分の欲望を満たすことが運の利用ではないことがわかっきてますし、そもそも運というものに「良い・悪い」と判断しているのは、自分自身であるということにも気がついてきます。さらにはその判断基準も絶対ではなく、流動的なものということもポイントです。
そうした中で本当の意味での向上や、高次の欲求に自分の方向性がシフトしていきます。結局のところ、いかに自分を全体と調和させるかということが「運」とも関わってくることが理解できてきます。
ともあれ、運勢をよくする方法としては、低次からとはなりますが、巷に言われている運をよくする方法をどんどんと試してみるということが挙げられます。
実は意外なことですが、物事を単純に考える、シンプルにとらえることが自分の運を上げることにつながるように思います。タロットでいえば、まずは「愚者」になることなのです。楽観的になる、行動的になるということですね。
ですからつべこべ言わず、「これがいいよ」と聞けばとにかくやってみるという姿勢を持つことです。あと、自分のやりたくないことをやらない、やりたいことをやることです。
そうは言っても、現実に仕事や社会の制約などで難しいと思うかもしれませんが、それでもできるだけ、自分の可能な範囲でそう行動するようにします。少しくらいわがままになってもいいのですね。これは実は時間の有効化と生活をシンプル化することにつながるのです。
それに、欲求と制約の狭間で葛藤し、運の波をうまくつかむことができず、もがいたり溺れている状態から脱却するきっかけになります。
こうしてあなたの「運命の輪」に油を差すが如く、回転をスムースにしていくことができます。回転のきしみや滞りは、あなたの複雑に思い過ぎる心と、欲求が満たされない思いがそうさせているところが多々あるからです。
こうしてある程度の「愚者」精神と行動を実践し、欲求を満たしていくことが叶ってくると、いろいろと今度は不調和も現れてきます。
この不調和こそ、実は次の段階に進む合図で、不幸を避け、吉を選ぶような運の考え方からも離れていくようになります。
ここで欲望への過剰な反応というものがチェックできます。これにより欲求を満足させていたつもりが、欲求をさらに焚きつけてきたことがわかったり、本当の欲求がまた別にあることも理解できたりします。
いずれにしても、それもまずは最初の素直な自己の欲求へ応対によって出現してくるものです。
この段階になってきますと、自分が運をよくする方法と思って試していたことが、逆に運を縛ることになっていたことも発見できるかもしれません。
しかし、これもいろいろと最初に試してみたことから気づけることでもあるのです。「愚者」になってこそ、「斎王」や「女帝」、「皇帝」や「隠者」にもなれるということですね。
ですから、まあ気楽に、まずは自分の運勢をよくしてみようといろいろとチャレンジしてみてください。
タロットを伝える人に。
精神世界では、自分の思いや想念と現実が密接にリンクすると信じられています。
心理的な方面でも、心の世界(信念・思いこみ)が自分の人間関係や行動パターンに影響すると言われています。
精神や心理の考えを挙げるまでもなく、最近はそういうことが常識的に語られるようになっています。
それはそのことがやはりある程度真実として実感されるからでしょう。
ということは当然のことながら、日頃の思いがとても大切であることになります。
それはタロットを学ぶ過程でも同様です。
タロット学習に限らず、何か自分(の技術など)を向上させたいと思う時、「この程度でいいや」というようなほどほどの思いでいれば、自分のだとりつくレベルはまさに「その程度」に終わります。
それどころか、だいたいにおいては、その程度以下になります。「その程度」が自分の理想の最高度になるので、実際にはいろいろな要素がからんで、それ以下になることが多いからです。
ということで、タロットを学ぶ時も、できればタロットリーディングがうまくできるようになるだけではなく、いずれは人にタロットを伝えていく、教えていくのだという思いまで抱いて学ぶとよいでしょう。その目標がなくても、です。
タロットを教えるということまでを意識していますと、「人にどう伝えらればよいのか」という視点を常に持つことになります。
これが非常に大事なのです。先生からただ受動的に学ぶのではなく、自分から能動的に伝達していくという意識があれば、学びのスタイルと意識はかなり変わります。
私自身も実はとても早い段階でタロットを学んでいる時から、将来はタロットの講師になろうと考えていました。
ですから講義では、ただタロットの理解に注意を傾けるだけではなく、「このことを教えるとすればどう語れば人にわかってもらえるだろうか?」 「ほかに伝える方法はないか?」など、講師になる仮定での視点で内容をとらえようとしていました。その時のことは、今にとても役に立っています。
もちろん最初の講義時では、そうした別視点を持つ余裕が私もありませんでした。だから複数回同じ講義を受けた経緯があります。
話は変わりますが、私もいずれ自分だけが教えるのではなく、私の講座を受けていただいた方で教えることが好きで向いている方には、いずれ講師的な目的のためのコースも作っていきたいと考えています。
ただ、今までいろいろな技術のコースを見てきましたが、たいてい画一的なものでした。それはそれで講師水準や教える内容も同等になってよいことも多いのですが、反面、講師それぞれの個性的な面が出にくいところもあります。
教える・伝えるというのは実は結構個性が出るものだと思っていますので、もっと違った形で講師育成ができないかと私は思っています。
基本や精神は同じとしても、その人なりのタロットの伝え方・教え方があっていいと考えています。むしろそのほうが自然でしょう。
私のタロット講座、発展コースを受講されたあと、それなりの実践経験を経た方や、タロットを伝えることに特に希望と興味のある方、講師に向いている方には、マンツーマン的にその人の個性と向き合って、その人に合ったタロットの伝達方法を一緒に考え、作っていきたいと構想しています。
こういったものも本人の意志といろいろな縁が合わさって実現できることかもしれません。まさにマルセイユタロットでいえば、「法皇」と「恋人」です。
そして伝えるための「法皇」になるためには、それまでの「手品師」から「皇帝」の過程がやはり必要とされるでしょう。
タロットセラピーはまず自分に使う。
タロットを学習することは、昔は占いの勉強や占い師になるためのものでしたが、今はセラピーやカウンセリング的な傾向が強くなっているように感じます。
そうなってきますと、タロットを学ばれる方は人を癒すセラピストになりたいと思う方も増えてきますし、実際に目指されている方もたくさんいらっしゃるでしょう。
広い意味においては、確かにタロットもセラピーとなる面がありますが、私自身は自らをセラピストとしては名乗っていません。
それはセラピストという仕事を広い意味よりも狭い意味といいますか、かなりまじめにとっているからです。人を職業的に癒すことはそう簡単なことではないと思っています。
タロットを対人相談に使うに当たっては、その人を癒さなければならない時は癒しますし、癒しよりもすぐに問題や課題の解決や取り組みを必要としている場合にはそうしたアドバイスにつなげます。
セラピストと限定してしまうと、スタイルが固定されてしまいがち(自分というより外からの印象)ですので、あえて名乗っていないということもあるのです。
ところでセラピストを目指すのであれ、占い師を目指すのであれ、そこには相手を想定したタロットの使い方を意識したものがあります。
それでも、私はまず最初は自分のためにタロットを使うことを実践してもらいたいと思っています。タロットを使って人をセラピーするのなら、まず自分を癒し、心を整理してほしいと願っています。
人が癒されるのはやはり人、つまり自分ではなく他人によってのことが大きいのですが、それはあくまで手段といいますか、最終的には人も癒しの「方法」となります。
その前に自分が癒やされるという意識、癒されてもよいという取り組み(行動)が大切なのです。
変な話ですが、癒されるのでさえ、実は自分の創造意識に火をつけねばならないのです。小アルカナでいえば、杯の前に剣や杖の段階があるようなものです。
皆さんも癒された経験を思い出してみると、つらいことがあった、苦しいことがあった、混沌とした状態にある・・・という何か自分の困った状態の時に、セラピーを受けたり、本や小説を読んだり、映画やドラマを見たり、芸術や自然にふれたりした時に心が癒されたと思います。
そして偶然よりも、自分が「癒されたい」という思いを抱いている「目的意識」があったほうが、癒され度合も大きかったのではないでしょうか。
「癒されたい」という思いは、表面的にではなく無意識のこともあります。ただそれでも癒しのための行動を取った結果、あなたは癒されたはずなのです。
ということは、自分が癒される状況にあり、癒されたいという思いの発動があってこそということになります。それが実は創造性の火花でもあるわけです。
なぜならば、癒されたいと思う心にの奥には、癒されたあと、自分の人生を気持ちよく過ごしたい、創造的に生きてみたいという欲求が働いているからです。
従って、セラピーをしたいと思う人も、他人からではなく、まず自分に対して行ってみるよう勧めているのです。自分で自分を癒すことは難しいかもしれませんが、その志や行動自体に大きな意味があるのです。
またタロットのようなすぐれた象徴ツールがあれば、何もないよりかは、格段にやりやすくなります。
感情の考察、感情のスーパーな働き。
究極的には人間の頭で考える理屈のようなものは矮小で、取るに足らないものかもしれません。
よく宇宙の本質を知ると思考はふっ飛び、感覚的になって愛だけ感じるものだと言いますが、本当にそうなのでしょうね。
いきなりドーンとそこまでたどり着ければいいのですが、思考を重ねていく方法もあると思っています。
思考を積み重ねると、ある時それを凌駕した気づきや発想が衝撃のように入ってきます。でもそれは思考を繰り返してきたからこそ訪れたものだと理解しています。
それはさておき、そうして私たち人間のことを常日頃私自身も「思考」しているのですが(^_^;)、今の段階で強く思うのは、やはりすべてのことには理由があり、人間の反応(感情の発生)にも理屈があるのではないかということです。
もちろん身体の機能を維持するための生体反応という面もあるでしょうが、それ以外の理由もあると想像しています。
そこで、なぜ人間にはいろいろな感情が起こるのかということを取り上げてみたいと思います。
現代では、この感情を分析したり、見つめたり、時にはコントロールしようとしたりする学びや説もありますが、それはそれで大事かもしれませんが、私は感情が起こるという仕組み自体がとても重要ではないかと考えています。
一般的には感情については、心理や内面の部分に光を当て、自己観察や自己成長につなげていくということが多いのですが、私は感情そのものを、ひとつの霊的な成長の貴重なエネルギー材料としてとらえているのです。
私たちが人生において人間関係や仕事なりで、いつも気持ちや感情を揺り動かされる状況にいるのは理由があるからと考えるのです。ある意味、感情を起こすのが人生・人間の目的と言ってもいいくらいです。
ところで「喜怒哀楽」で表現される感情の波は、どんな時に起伏が激しくなると思いますか?
そう、日常よりも刺激的でインパクトが強い場合がほとんどです。感情を起こすことが人の目的ならば、穏やかに生きるより、起伏ある人生を送ったほうがよいことになります。
えっ、それではまるで一般的に言われていることと逆ではないかと思うでしょう。
ここからが非常に大切なのですが、感情を起こすと言っても、ただ感情に飲まれるだけではあまり意味がないのです。
むしろそれでは心身を痛めることもあって、逆効果のこともあります。
ここで感情のエネルギーを電気のように見るとわかりやすいかもしれません。電流が強いと感電してしまい自分も痛みますが、これをうまく取り入れることができれば大きな発電のエネルギーになります。
また電気を発生したり強くしたりするには、抵抗や刺激が必要であり、それが人生における様々な自分にとっての事件となります。
普通は大きな刺激や抵抗がないと強いエネルギーは発生しないのですが、おそらく感情をそのまま味わうことができると、刺激が弱くても大きなエネルギーが流れることになるのではないかと推測されます。
つまり理想としては、一見穏やかに見えていても内面では大きな変化を体験しているというような状態です。(マルセイユタロットでは「隠者」です) 日常の純粋体験と言ってもいいでしょう。
これができれば、特別な強い刺激、いわば強烈な自分にとっての事件(いいことであればよいのですが、悪いこともあります)は不必要となります。
一般的にはそれができないので(意識することもないので)、喜怒哀楽を起こす強いことを経験せざるを得ないのです。
しかも体験が強ければ先述したように感電する危険性もありますので、自己変容のチャンスとしては紙一重であり、うまく行くかいかないも偶然に任せられていて(本人の気づきによる)、まさに天国地獄の表裏一体の様相だと言えます。
ということで、できるだけ自分の感情を日常的に客観的に味わう姿勢を持つのがよいと思います。
と同時に、平穏無事にという守りの気持ちになるのではなく、やはり新しいことや未体験のことを経験する好奇心とチャレンジ精神を常に持ち続けることも大切です。
私たちは感情を味わうために生まれてきていると思えば、人生の視点と生き方もまた変わってくるでしょう。
偶然や無意味に思えるものを象徴的に見るという行為。
通常、一般的に意味がないように思うものに対して、意味があるように考えることができた場合、何の得があると思いますか?
この質問自体、何を言っているのかわからないかもしれません。(笑)
実はタロットにおける象徴やその他、タロット以外のものでもシンボル的に扱うことによって意味を見いだすことの利点を説明しようとしているのです。
たとえば恋愛をしていて、空を見上げたら雲の形がハートに見えたとか、今年だったらお正月に龍の姿を雲の形に見たとか、ある事業の契約日を3日にしようと考えていたら、看板にある3という数字が目に飛び込んできたとか・・・また、壁や天井の模様を見ていたら人の顔に見えてきた、偶然見たテレビ番組の特集が自分の心配事と同じだった・・・などなど。
上記のことは、ケースによっては、(スピリチュアル的に)事象をシンボル(象徴)として扱って解釈できるシンクロニシティ的な事柄になりますが、世間一般の常識的な考えでは単なる偶然、思いこみということになってしまうでしょう。
ここでどちらが正しいのかと議論しても始まりません。というか終わりません。(苦笑) そもそも、もとともの前提や出発点、世界観自体が異なるからです。
そこで発想を変えて、偶然や一見無意味に思えるものに対して意味を見い出そうとすることに、何かいいことや効果があるのか?という観点で述べてみます。
結論からいえば、人生を積極的にとらえられるようになると言えるでしょう。言い方を換えれば自分が人生の主人公として意識できるということです。
なぜかと言いますと、世に現れることをシンボルとして意識することができれば、たとえそれが思いこみであっても、自分の中では世界が統合性・整合性のとれたものになってくるからです。
つまり理不尽で無茶苦茶な世界ではないと知る(思う)ことで、この世界に生きる自分を肯定的にとらえることができるためです。
わけのわからない世界に生きて翻弄されるより、きちんと意味のある世界だと思うほうが前向きになれます。
人は理由のわからないことには、とても不安になるものです。思いこみであったとしても、自分の中で整合性が取れたり、理屈を立てることができたりすれば、納得してすっきりとするものです。
また「何か意味があるのでは?」と考えることで、好奇心と探求心も刺激され、精神的に活発になり、若さを保つこともできます。それはまるでパズルを解くかのような知的興奮さえ想像させます。
さらに象徴やシンボルを見ていくようになると、それらによってあらゆるものがつながっていることが次第にわかってきます。
それは理屈のこともあるのですが、直観的なものが主なので、理解の早さや感動の度合いも普通の認識とは異なってくるものなのです。
すると最終的には自分は一人ではなく、大いなるものに生かされているという感謝の念にたどり着くようになります。その繰り返しが象徴やシンボルによって世の中を見るシステムみたいなものです。
こうしてシンボルによってすべてのものが自分とつながってくるようになれば、自分にエネルギーが流入するようになって、知らず知らず自分自身が内的な部分で強くなってくるのですが、そうしたことはわかりづらいので今回は詳しく述べません。
いずれにしても、一見無造作で意味のないと思えるものに意味を自分と関係づけて見い出すことは、自分の創造性(意味を作り出す=創造)を刺激し、この世界を秩序ある意識的(魂的)なものへと変化させ、自分の中に世界があるという感覚を認識することにつながってきます。
そして意味のないと思われていた自分の人生に、積極性や目的意識を持つこともできるようになります。
結局、「人生、思ったもの勝ち」なんですか? と聞かれればその通りだと言っておきましょう。(笑)