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コミットすることの効果。

自己啓発やスピリチュアルなセミナー、メソッドなどでは、よく「コミットする」という表現が使われます。


単に意味的なことならば、「関係する」「関わり合う」ということになるようですが、だいたいにおいては「公約する」「確約する」みたいな意味で使われます。


言ってみれば決意表明でもあるわけですが、これはシンプルなことですが効果があります。だからこそ、よく使用されるわけです。


年の初めにあたり、目標や計画を立てた人も多いでしょうが、それだけではなく、何か自分にとって「これからはこうする!」「こう生きる!」というような決意をするとよいです。


たいていの人は、何か自分に事件や問題が起きて、それが解決したり快方に向かったりした時に新しい自分になって決意することが多いと思います。

いわば痛みによって強制的に生まれ変わらされている状態なのですが、何も痛みや苦しみからによって自分を変化させなくても、最初から自分に「こうする」と言い聞かせて積極的に変えていくことも人間には可能なのです。

ただ、課題は「どうしたいのか」「どう生きたいのか」ということが不明瞭であるということです。

ここでよく言われるように、具体的で鮮明なイメージを伴うものが必要とされるわけではありません。そのようなことを求め過ぎるとかえって難しくなるのです。

もっと単純に抽象的でも、この決意する言葉の内容はOKだと私は考えています。

たとえば「自分に対して正直に生きる」とか、「社会に貢献できる自分になる」とか、「自分の創造性を発揮した生活をする」とか、まあそのような感じでいいと思います。

肝心なのは、そう宣言することにに対して責任を持つということです。

どこぞの政党や政治家の言葉、マニフェストのようにならず(^_^;)、偽りなく誠実に実行しようと心がける態度が重要です。それが単なる「つぶやき」と「コミットメント」との違いだと言えます。

英語でのcommitも、もともとは神にゆだね、任せるところからきているようですから、これの語源的な部分に注目してみれば、日本語では「人事を尽くして天命を待つ」みたいなニュアンスがあるのかもしれません。

グノーシス的にいえば、神とは自分自身の高次でもあります。とすると、コミットすることは自分自身との約束になります。


その認識で決意し宣言すれば自分の神性と共鳴して、コミットに即した人生へと自動的に軌道修正されていくことでしょう。

結局のところ、自分の言質にいかに責任を持つかということに関わっているのです。

コミットしても何も変化がないという人は、それはコミットではなく、先述したようにつぶやきレベル、希望を述べたにすぎないものであったという証拠です。自分自身に誠実さを貫いていたか、確認してみるとよいでしょう。

言霊というように、言葉に霊力を込めるがごとく、力強く責任をもって宣言することにより効力は発揮されていくのです。

責任ある宣言ができない時は、その宣言内容自体に自信がなく、そうなりたいという思いに抵抗や遠慮があるのだと推測できます。その場合は、宣言の前に自分の心を整理する必要があるでしょう。

マルセイユタロットを学習している人は、コミットの時に、それにふさわしいカードを選択してイメージとともに刻印しておくと、通常よりも思い出しやすく、また無意識にも浸透しやすいでしょう。


タロットカードの印象の多様さ。

マルセイユタロットの大アルカナを見ていますと、いわゆるニュアンス・雰囲気というものが最初に伝わってきます。


これは別にタロットのことを知らなくても、誰でも感じるものです。


たとえば恐そうとか、明るいとか鮮やかとか暗いとか・・・そんな感覚のものです。


この印象は実は結構大切なものです。ただそれがすべてではありません


よく直感的にタロットを感じたらそれでOKとか、それが正解と言われることがありますが、それは必ずしもそうとは言えない部分があります。


人の感性はクリアーになっている場合と、いろいろと混ざっている時があり、それによってブレを伴うからです。


この場合、やはりタロットの象徴の知識やタロットと向き合う蓄積がものを言います。


言って見れぱタロットは右脳と左脳の統合に真の理解があると考えられるわけです。


それとは別に、タロットの絵柄を注意深く観察してみると、最初の印象とは異なった図柄や意味を発見することがあります。


これは言われないとなかなか難しい部分ではあるのですが、ひとたびそのことを知れば、単なる全体のイメージからだけではないタロットの複層した図柄の特徴に気付くことになるでしょう。


たとえば「隠者」は一見、その名の通り、暗くどこかに隠れている気難しそうな印象のある人物と写りますが、ある面では、とてもお茶目ともいえる楽しい人物像が浮かび上がるようにできています。


同様に「吊るし」も吊られているようで、最初の見た目には苦しそうに見えますが、よく見るとそうではないことがわかりますし、四方が囲まれて閉じこめられているようでいて、出口があることも注目すべき点です。


「13」においても、その人物は骨と皮で不毛の大地で死を迎えているように見えますが、生命の息吹はここかしこに見受けられるものです。


ほかにも楽しそうに見える「悪魔」に、ある部分では深刻な状態が刻まれるなど、カードはただの一印象に留まらないような工夫が一枚一枚に施されています。


このことは私たちに示唆を与えてくれます。


それは人間や事象も一面だけではないということです。


私たちは常に相反する要素や矛盾したものを抱えますが、そのことは取りも直さず、逆の要素や他の側面がいつもあるということです。


ということは、同じ状態がずっと続くのではなく、いつかは振り子が逆に傾くように反転していく可能性が高くなります。


そうならば、問題である今の状態も、最高と感じている現在の時も、やがては必ず変化を来たし、解決に向かうこともあれば問題化することもあるということになります。


結局のところ、多様と波という観点でタロットを見つめながら、私たちは人生をうまく泳げるように自分をコントロールしていく術を学ぶことでしょう。


そしてその波(海)は実体ある世間(物質的なもの)ではなく、自分が作り出しているということがタロットにも描かれていることなのです。


ですから波を統御することが自分にも可能なのです。


メールでのコミュニケーションのポイント

現代はメールのやり取りがコミュニケーションの大きなツールや方法となっています。


必然、顔の見えない相手と文章で交流することになりますから、どちらかの一方的なこと(思いこみ)も増えてきているでしょう。


そこからコミュニケーションの行き違い、齟齬というものも発生します。


ビジネスにおいてはビジネスメールの慣習も常識もかなり浸透して普遍的になってきましたので、その形式に則っていれば問題はあまり起きないでしょう。


しかし半公的なことや、プライベートなことになりますと、結構問題は起きているのではないかと推測されます。


その要因はやはり、その場では顔が見えない相手とのコミュニケートであり、直接対話をしていないということにあるでしょう。


そしておそらくは「時」や「間」と呼ばれる、その人固有の感覚的な時間軸・回転のようなものが影響していると感じます。(タロットでいえば「運命の輪」)


まさにタイミングや、間が合うか合わないかの問題と言えそうです。


お互いに関心が強くある場合は、引き寄せ合って互いの時間の回転率のようなものも同調し、比較的メールであっても違和感のないペースでやり取りができると思います。


しかし普通の関心の時や、ましてや一方が強い関心を抱いているのに、他方がそれほどでもないといった場合は、そのペースがちぐはぐになってしまうのも当然といえば当然です。


これにもともと本人が持っている時間感覚・回転率というものがあり、それが他人と大幅に異なっていれば、これも合わせる理由(仕事か個人での関心)がなければ自ずと不調になるでしょう。


実際に会って話をするコミュニケーションでは、表情や態度など、言葉だけでははない相手全体の雰囲気を感じ取って、自分も相手も時間感覚を同調しようという働きがスムースに行われることが多いのですが、相手が見えない場合はそうも行きません。


ここにメールだけのやり取りで交流を図っていくことの難しさがあります。


ただ反面、その場では実際に会っていないので、過剰に相手を意識することなく(気遣うことはなく)、意外に本音を出し合うことも可能なのがメールでもありますね。


しかし、それでも時間の回転率を合わせることは難しいかもしれません。


最初からメールのやり取りのタイミングが合う人というのは、お互いにその時点で関心を寄せ合っているか、二人の時間軸が同調している関係であるといえます。


この同調には、自力で行えるものと、天や神とも呼べる自然からの同調のものとがあることはあまり知られていません。(タロットからの教えでもあります)


天からの同調はシンクロニシティや、といった現象でなされることがあります。


しかし、その同調にもまったく自力は必要ないかといえばそうではなく、自力の部分とともに天からの働きかけで、二人の時間軸や回転率が同調し、コミュニケーションや出会いがかなうといったものとなります。


同調があるのですから、反対の非同調・不調、つまり別離や不和なども自力とその他のものがあると言えます。


ということは、結局は、自ら天や自然との同調を大きな意味では果たし、局所的な意味では、相手を思いやって同調していくことで、スムースに物事が流れていくと考えられるのです。


数に関する当たり前で特別な効果。

タロットでは一般的に大アルカナ小アルカナというカードの構成に分かれます。


このふたつがどのように関係するのかは一概には言えないのですが、マルセイユタロットの場合は大アルカナと小アルカナ、特に数カードと呼ばれる小アルカナのパートは明らかにスタイル(絵柄)が異なるので、大と小の使い方や考察にも自ずと違いが出てきます。


一方で大と小は同位であり、何の違いもないという考え方もあります。大でも小でも絵柄や構図は均一という種類のタロットカードもあります。


それはともかく、私の観点では大アルカナは抽象的・統合的なものを表すのに対し、小アルカナは具体的・個別的なものを示すととらえています。


そして小アルカナの中でも先述した数カードの場合は、「」と名前がついているだけに、数と関係してきます。


長々とタロットの構成の話をしてきていますが、実は今日の話題は「」の話なのです。今までは前振りでした。(^_^;)


小アルカナが具体的なものを表すということならば、数カードは数に関係した具体的な事柄が象徴できるということです。


数に関係する具体的なものと言えば、まずは数値であり、数量であり、月日や時間となります。


本当はここに「質」や「様態」ともいうべきものも入るのですが、それは「数」の概念について古代の考え方を説明しなければならず、今回はあえて省きます。(いわゆる「数秘」的な考えはこちらの範疇に入ります)


要は、私たちが数字を見れば思いつく身近なことです。たとえば今月は1月なので、「1」という数が今月を示すという単純なものです。


単純ではありますが、数(数字)だから具体化・個別化できるという点が大切なのです。


数と物事が結びつくことにより、ある特定のものを具体的にピンポイントで示すことができるからです。


先の例でいえば、単なる歳月(としつき)という概念があって、それに「1」という数字が合わさることによって、「1年」なり「1月」が特定できるわけです。


また数量としてみれば、図式化することで「」になり、グラフのようにして一目瞭然に目で認識することも可能になります。


何が言いたいのかといえば、私たちは忘れがちな事や、言葉ではわかりにくい事柄を、数字によって表すことにより、心に留めておくことができる(記憶しやすい)ということなのです。


今日は1月17日です。1.17といえば神戸では今日の日を指し、阪神大震災の祈念日になっているのです。


同様に、昨年起こった3月11日の東日本大震災による数々の被災・被害も3.11として皆の記憶に残るものになっています。アメリカの9.11もそうです。


単なる日付ではありますが、特別な意味を込めることができ、この日付という数があるからこそ、風化はあれど毎年月日は巡って人々の印象を促すのです。


それはつまるところ、「数」の具体化から来る象徴のおかげです。


私たちが1.17や3.11を通して震災のことを想い、亡くなった方々を悼み、命のありがたさを感じて防災や復興に意識を向け、日本や世界の変革を思う時、それはもう大きな象徴へと数が変化しているのです。


タロットでいえば小アルカナから大アルカナへ移行し、心や魂を大いなるものへ融合して高めていく作業と同じです。


その時数は、単純な数値を超え、全体としての心のシンボル・象徴ともなりうるのです。


私たちは、このように「ある日付によって象徴される特別な日(内容)」は、少なくとも忘れないようにしたいものです。


批判的な態度を修正する。

客観的になりすぎる傾向の人は注意が必要です。


客観的といえばよく聞こえますが、悪く言えば批判的・皮肉的でもあるということです。


安易な信用や熱中を防ぐ意味で、冷静さを保つ程度に適度にバランスが取れていればよいのですが、行きすぎた客観はやがて批判的な態度となり、それが癖になることもあります。


いわば、「まず批判ありき」の姿勢になってしまうということです。それはつまりは、人や物事のあら探しやネガティブさを見つけようとすることと同じになります。


そうしますと、ネガティブさの発見の達人になってしまい、必然的に自分もネガティブなものに同調するようになってきます。


外にネガティブさを見つけようとしていたのが、いつの間にか自分の物の見方自体がネガティブになってしまうのです。


それは時に慎重さや細かな観察力を自分にもたらすことはありますが、やはりマイナス思考、後ろ向き、消極思考になりがちです。


思考がそのような状態ですので、現実もそのようになり、自分自身を批判しなくてはならない状況を自ら生み出してしまうことになります。簡単に言えば、納得のいかない人生を歩んでしまうことになるということです。


それが無自覚のままさらに進むと、怖ろしいことに、自分が自分を批判しなければならない状況が楽しいとさえ思うようになってきます。なぜかと言いますと、批判することがその人の脳の喜び(の反応)につながっているからです。


なかなかここまで来ると脱却するのに難しくはなりますが、とにかく早い内に自分が批判的な態度をしていると思えば修正をしておくことです。


誰でも人は批判的になるものです。ですから批判している自分を責めたり、自分はなんて悪い人間なのだと思うこともいりません。反省はあっても責めすぎないということも重要です。責めるより、直すことです。


とはいえ、なかなか批判をすべて止めてしまうということは難しいと思います。


そこで私が自分でもやってきたのは、批判や非難をしてしまったと感じたら、その瞬間、批判した相手や物事に対し、「でも、よいこともある」という言葉を付け足すことです。


「あの人の言うことは間違っている」「あんなことは受け入れられない」・・・と思った瞬間に、「でも、よいこともある」とつぶやきます。


最初はつぶやくだけでよいのです。そうしないと長続きしません。


それでも、「よいこともある」と言っていることで、次第に実際によいこと、いい部分を見つけようとする心理が働くようになります。自動的なバランス修正と言ってもいいでしょう。


そうするとネガティブ一方だったものがポジティブも発見できるようになり、自分の批判癖もかなりましになってくるはずです。


このようにして批判癖を少しずつ直して行きましょう。


私のタロットの受講生で、自分から一切の批判することを止めた時から、運勢がすばらしく向上したという方がいらっしゃいました。この方は本当に悩みのないよい生活をされています。


皆さんもいきなりすべての批判はなくせなくても、バランスを図る意味で、批判した分だけ、ほかの人や物事(自分でもよい)でもよいので、褒めるように心がけるとよいでしょう。


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