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イヤーカードの活用ほか。
段々今年も残り少なくなってきました。
占い世界では新年ともなると、今年一年はどんな年か?などいろいろなところで占いがされます。
逆に一年の締めくくりの12月や年末などで振り返ってみる、年明けにやった占いを検証してみるということもあってもよいのですが、それはあまりないですね。
しかし個人的にはこちらの振り返りや検証がとても重要だと思います。
マルセイユタロットでも現実世界の成功者・完成者を示す「戦車」の肩には二方向を見ている顔が描かれているように、成功には多角的視点、過去や未来を見据える観点が必要なことが語られています。
さてそんな時に活用できるのがイヤーカードです。
イヤーカードについては過去記事でも何回かふれてきました。
要するに自分にとってその年を象徴するタロットカードということです。
これは数秘術的な技法で導かれるので、「数」が必要ですが、それは自分の生年月日から導き出されます。
その数とタロットの数とを結びつけて考えていく手法ですね。このようなタロットの数で考察する技法は、ほかにもソウルカードやパーソナルカードとしても知られているところです。
それでイヤーカードを改めて見直し、今年はそのカードに象徴される年であったと見て、どのような学びや気づきがあったのかを実際の自分の出来事・体験と照らし合わせて考察するのです。
一枚なので一見単純なように思えますが、結構意外な気づきやインスピレーションがもたらされます。それが来年の糧や方向性を考える意味でも貴重となる場合があるのです。
もちろん来年のイヤーカードも計算できますので、それと比較していくこともいいですね。
それからもともとタロットは偶然現れた展開(カード)に意味を見いだすという「卜(ぼく)占」的特徴を持つものです。
ですから何も最初から決まっているイヤーカードとして振り返るだけではなく、実際にカードをシャッフルして「今年のテーマは何であったか?」「今年を象徴するカードは何?」と引いてみるのもよいです。
この場合正逆の意味をとってもよいですし、正逆を取らず、単にそのカードが出たことを象徴としてとらえるやり方もあります。どちらでもOKです。ただし最初から正逆を取るのか、取らないのかを決めておく必要はあります。
逆になった場合は解決・調整的なカード、さらに指針を与えるカードとしてもう一枚引いてみるのも面白いでしょう。
来月になれば一度お試しください。来月に私の教室のあるグループや個人の方は講義でやってみてもよいですね。
好きなものを発見する方法
自分のやりたいことや好きなことがわからないと言った方が少なからずいらっしゃいます。
ここで注意しなければいけないのは、それは必ずしも仕事や使命・社会貢献といった「いい意味」だけで考えようとしないことです。
また好きなことだから「永遠に熱中できる生き甲斐のようなもの」だととらえすぎるのも問題です。
要は広い考え方で見る態度が必要だということです。
そしていきなり具体性や個別に絞っていこうとするのではなく、まずは抽象的、漠然としたとらえかたからしてみるのがよいです。
たとえば最初から「私はサーフィンが好きかもしれない」と考えるのではなく、「海が好き」「乗ることが好き」「波やゆらぎが気持ちいい」「スリルを味わうのがいいのかも」と大まかに拡大してとらえるのです。
これはタロットでいえば、小アルカナの世界から入るのではなく、大アルカナから考えていこう、しかも大アルカナの中でも抽象度の高いカードから見ていこうという手法と同じです。
話が横道にそれますが、タロットはこの抽象から具体、具体から抽象という思考やとらえ方の訓練が自動的にできますので、とても優れたツールなのです。
ただし無意識でやるよりも、その原理を教えてもらって自分で意識するほうがさらに効果的ではあります。
さて話を戻します。
自分の好きなことを見つける方法に、もうひとつ面白いやり方があります。
それは自分が感動してきたシーンを思い出すことです。
単純にいえば「自分が涙を流した場面は何か」を探るのです。
それは映画やドラマ、本など何でもよいので自分はどのようなシチュエーションで涙を流した(悲しみというより感動の涙、心を震わせてこぼした涙)かを調べると、実は同じような設定や意味だったということがわかってきます。
たとえば苦労が報われたシーン、正義が通ったシーン、人や動物が成長したシーン、優しさが伝わったシーン、愛が成就したシーン、と人にとってはいろいろな特徴があります。
そしてそれが実はあなたの好きなことと結びついているのです。
ただそのまま額面通りに受け取るのではなく、ここもまた抽象化(考え方を広げます)します。
そのコツは「結局○○で感動するんだ」「要するに●●で私は喜ぶのね」という「○○」「●●」に当たる言葉を漠然と表現することです。
たとえば「生み出す」「通じ合う」「伝わる」「ふれあう」「愛する」「愛される」「すっきりする」などが出てくるかもしれません。
そのことが実際に(のフィールドで)表現できるとするならば、どういうことだろうと考えていけば、ひとつならず二つ・三つと思い当たることも出てくるでしょう。
最初にも述べましたように、ここで具体的なことをいきなり絞りすぎたり、これしかないと思ったりしないことです。
複数出てきたのならば、それを習ったり、見に行ったり、体験したりしてチャレンジして行くこと、行動や実感することも大切です。
そうすると「何となくこれを続けてみたい」と思うものが出てきます。この段階でもはっきり「これだ!」とならなくてもよいのです。
「好きなもの」とは結局「好きになっていくもの」ということが多いからです。(「もの」のところを「人」に変えても同じです)
そして好きなものがないことに自分を責めてもいけません。
好きなものがないのではなく、自覚されていないか、今の状態で心が動くものがないか(自分の中にあるものと実際の出会いや結びつきがないか弱い)の違いだけです。
あなたの中には好きになるものは無限にありますが、現実が追いついていないということもあるので、あまり気にしないことです。
正義の女神
ある本を読んでいますと印象的な文書が目に入って来ました。
それは「「正しく生きるより、幸せに生きることを心がける」
というものです。
これはタロットでいえば「正義」と「世界」の問題とも言えましょう。
とかく私たちは自分が正しいことにこだわります。人間だけではなく、組織や団体、宗教・国までもがそれに固執しているように見えます。
正しさにこだわる時、同時にそれは正しくないことが想定されます。正しくないと思うことがあるので、正しさの主張ができるわけです。
ということはふたつの正義・不正義という概念によっていつも支配されることになります。たとえ自分にとってあることが正しいと証明できたとしても、次にはまた自分の信念が増えるたびにそれが正しいことを証さないといけなくなり、きりがありません。
そもそも正しさを希求するということは、結局自分が間違っていないという安心感を手に入れるためのものであると考えられます。
では安心を得たいということはどういうことかと分析しますと、これも自分が不安にならないことであって、最終的には幸せであることを求めていると言えるのではないでしょうか。
幸せというのは短絡的には満足感とつながっています。そのため「正義」はまったく反対の「悪魔」とも大きく関係しているのです。
いわば心の充足感がいつも得られていれば、正義にこだわることも少なくなってくると想像できます。
よって、冒頭の文をご紹介したように、私たちは正しいことを証明しようとするよりも、いかに自分が落ち着き、安心し、満足感を得て幸せを感じられるかを追求したほうが人生の価値は向上するのではないかと思えるのです。
では正しさを求めるのはいけないのかというとそうではありません。
数学にも正解があるように、ある局面・フィールド・状況では正しいものはあると思います。正しさを追求しようとするので、科学や文明・知識も発達するわけです。
しかしなか゜ら、数学的な万人に共通する「解」とは別に、人の、特に心の分野では様々な「解答」があります。
ここが人間同士(人が係わる場合)において、「正しさ」を求めようとすると問題になる原因だと考えられます。
人によって価値観が異なるので、その人にとって正しいことはほかの誰かにとっては正しくないことは山ほど出てくるわけです。
ここからしても、人との間には正しさを追求していくのは大変であることが理解できます。ではどうすればよいのかということですが、正しさを追求することはゲームだと思えばいいということです。
自尊心を得るためや主張を押し通すことに正義を使うのではなく、正しいことがいろいろとある、各人正しいと思うことがあるという「考え」を浮かび上がらせるために、ゲーム的に正しさ証明を楽しんでやってみるという態度でしょうか。
これが正義を幸せになるために使う方法かもしれません。
実は正しいことを純粋に追い求めていると、ある時から別の観点・今までとは違う正しさのようなものが自分の中で生まれてきます。
以前にも書きましたが、相手との正義争いによって、融合点や調和点が生み出されてくるからです。
本当は正義は自分を救い、自分の枠に気づかせてくれる恩恵であり「女神」なのです。古代ギリシアで徳として「正義」が語られていたのもうなずけます。
正義を追い求めながらでも「幸せに生きる」という観点を忘れずにいれば、「正義」もあなたの天使になってくれるでしょう。
ソウルフードを摂る
誰でもおいしいものは好きたど思いますが、私もそうです。(笑)
別にグルメというわけではありませんが、おいしいものに出会うと幸せな気分になりますね。
ということで、今日は食べ物についてのお話を。
皆さんにも好物というものがあると思います。
それも単に「好きなもの」というより、これを食べると元気になる、気分がよくなるというものがあるはずです。
昨日はバランスというものは一般に思われているようなものではなく、個別性が結構あるものだという話をしました。
それと今回のことも少し関係します。
一般的に言われるバランスのよい食事とか、体によいものという意味で食べ物を考えた場合、それは自分の好きなものとは違っていることもあるでしょう。
たとえば自分は甘いものが好きだけれども、太るから・・・とか、辛いものには塩分が多いので控えなければならない・・・とか。
もちろんやはり健康という面から見れば、それも正解かもしれません。
しかし、私は人によってその人の活力のもとになる食べ物があると考えています。
もし名付けるとするのならば「ソウルフード」とでも呼ぶべきものでしょうか。
元気のない時、落ち込んだ時、あるいは仕事やプライベートでうまく行った時、充実したと思っている時に思わず食べてしまうものがあなたにもありませんか?
それを食べると人生に満足や幸せを感じられるというような食べ物です。
これは単にひとつのものというよりも、例えばイタリア料理とか中華料理とかという大きな範疇でとらえてもよいかもしれません。
場合によってはほかの人にとってあまりよくない、健康的とは言えない食べ物のこともあるでしょう。
でも自分にとっては活力源、太陽のような食べ物なのです。
おそらくそれは個別のバランス性にもあると思いますが、霊的あるいは遺伝子的に過去の記憶やフィールド・エネルギーによっても左右されるのではないかと想像しています。
簡単にいえば過去生やその記憶を受け継いでいることが影響しているということです。
ものすごく単純化していえば、「中国にいた記憶があるから中華料理が好きなのだ」という考え方です。
遺伝子的にいうと、人間の時だけではない生物の創世記からのものもあるとイメージできますので、肉食恐竜の記憶が強く出ていれば、その人は肉好きということもあるのかもしれませんね。(^_^;)
そのように考えると、現代の一般的な視点によるバランス食というのも、全部が正しいわけではないことも考えられます。
頭で考えるバランスではなく、「食べたい」と思う自分にとっての「ソウルフード」を時々摂ることが元気の秘訣、本当のバランスかもしれないということです。
とはいえ、本物の欲求ではない虚飾の欲求(利己的な欲望、何かの代わりのためから来る欲求)に従うと、バランスも実際に崩れて病気になるかもしれませんので、注意は必要です。
本当のバランスとは?
タロットカードでも「正義」のカードの天秤が示すように、バランスということが大切だと強調されています。
ほとんどの方はそれはその通り(バランスが大切)だと認識されていることでしょう。
しかしながら、バランスについては私たちは本当に理解しているのでしょうか?
たとえば、バランスのよい食生活ということで、野菜や肉・魚などいろいろな要素を含んだ食事をそれこそ「バランスよく」三食食べることがよいと思われています。
けれども中には肉ばかりの食事で健康的な人もいますし、ベジタリアンの人は野菜中心で生活されています。食事回数も二食や一食で十分であり、そのほうが調子がよいという人もいます。
いやいや、「やはりきちんと調べてみれば、偏食をしている人は何か問題があるはずだ」と主張される方もいらっしゃるでしょう。
でも食事だけではなく、運動やスポーツを適度に「バランスよく」していたほうが健康だとか、仕事と趣味(遊び)をバランスよく配分したほうが充実するとか、世の中にはバランス賛美、バランス至上主義みたいな考えがあふれかえっているように思います。
ところが、先述したようにおよそ「バランスがよくない」と思われる人でも、普通に生活してできているどころか、成功したり、人生を謳歌していたりするように見える人が大勢います。
これはなぜなのでしょうか?
私は実はこういった人も本当はバランスが取れているのだと考えています。
言って見ればバランスという概念をどこまで拡大できるかという点がポイントだと思います。
狭い視野でバランスをとらえようとすることに問題があるのです。
それこそ食事でいえば「肉か野菜か」だけのことになり、極端にいえば「肉と野菜を毎日半々食べていればバランスが取れるのだ」と考えてしまうようなことです。
バランスを考える時、できれるだけ広く見ていくことが必要で、できれば宇宙的な規模まで拡大すれば本当のバランスというものがわかってくるのではないかと思います。
まあ、実際には宇宙的と言っても大変なので、やはり普段から視野や視点を広く持つこと、知識を入れて選択や幅を広げて行くことが大切だと感じます。
そうすれば不均衡なのに充実しているように見えていた人でも、やはりバランスが取れていたのだということがわかるのではないでしょうか。
ですからこのことを逆に考えれば、私たちは自分の思いこみで人のバランスを取ることは危険でもあるということになります。
その人なりに実はもうバランスが取れているかもしれないのです。それをお節介のごとく、あくまで自分の考える「バランス」によって他人に押しつけてしまうと、逆に問題になることもあるのです。
おそらくタロットカードの「節制」はそのことをよく理解したうえで人を救済していると思えます。
結局のところ、宇宙の真理・バランスを知ろうと努力することが自他ともに救済につながっていくとタロットからも考えられるのです。