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タロットリーディングの様々な効果
昨日はリーディングの固定化を防ぐいろいろな方法をお伝えしました。
今日も少しそれと関連するお話をしたいと思います。
タロットをリーディングするということは、占いや人の相談・問題解決を行ったり、自分の心を見つめたりすることだと思われている方が多いでしょう。
確かにほとんどはその通りなのですが、それだけではありません。
実は知らず知らずのうちに、リーディングを行うことで自分の枠組をばすしたり、思考の柔軟化が図られたり、コミュニケーションの修練を行ったりしているのです。
そのほかにもあまり知られていない効果もあるのですが、それは置いておきます。
思考の柔軟化という点に絞りますと、まず第一にカードを展開することで、自分の考えだけにはとらわれなくなる効果があるということです。
どういうことかと言いますと、たとえば人の相談を受けて、最初自分が考える解決方法や推測が出るのが普通ですが、いざカードを展開してみると、当初自分が思ったものとはまるで正反対の意味のカードや展開が出ることがあります。
そうすると、一瞬リーダーは混乱はするのですが、素直にカードを受け止めてリーディングしていくと、今までとは違った発想やアイデア、考え方が導かれるのです。
世の中はそうそう右か左か、白か黒かなど、人が単純に予想した結果通りになるということは少ないものです。
灰色・グレーゾーンであったり、まったく逆のことが同時に起こっていたりしていて、とかく矛盾に満ちたことの多い世界です。
この相反するものを統合していく価値観や思考、感覚をタロットカードは与えてくれるのです。この点からしても、タロットカードによる思考の柔軟化は大いに期待できるところなのです。
言ってみれば、タロットカード(マルセイユ版)の「吊るし」を私たちはカードを使うことにより体験します。
「吊るし」は逆さまの姿勢で吊るし状態を楽しんでいる人物が描かれているカードです。すなわち、「逆転の発想」「別の観点」で彼は存在していると言ってもよいでしょう。
モノの見方が変われば考え方も変わります。
たとえばタロットにおいても、私たちは通常色のついた人物や形のほうを見ます。しかし絵の描かれていない白色の背景部分を主としてカードを観察してみると、非常に面白いことが一枚一枚でわかってきます。
たとえばマルセイユ版の「手品師」の足下の草の芽のようなものが普通は突起に見えるかもしれませんが、背景・バックを主として観察すれば、くぼみにも見えるようになるということです。
またぼんやりとタロットを観察していれば平面であるカードの絵柄が、立体的に見えてくることもあります。これもまた見方の違いです。
先述したように見方が違えば、考え方も違って(たとえば相手の立場でものを見れば、自分中心で見ていた時とは違うようにです)くることになりますので、タロットの多層な見方自体が思考の柔軟性を呼ぶことになるのです。
リーディングの固定化を防ぐために。
タロットを学習し、リーディングの修練を積んでいくようになると、ある程度自分の読み方のパターンが決まってきます。
これは致し方のないところだと思います。
パターンや型があるのは決して悪いことではなく、むしろひとつの基本、セオリーとしてとりあえずは身につけておきたいものです。
型があれば自分の体調の変化や感覚のずれによってリーディングにぶれが出そうになっても、何とか「型」によって大幅に逸脱することなく収めることができます。
ただ何事も行きすぎはよくなく、セオリーやパターンばかりでリーディングを続けていれば、それこそ型にはまったワンパターンの単純な読みに固定されてしまいます。
これを防ぐためには、やはり他人のリーディングに接することが一番よいでしょう。
もし勉強会や人のリーディングを見るイベントなどの機会があれば定期的に参加して、自分の読みと比べてみると刺激が与えられ、リーディングの固定化を予防できます。
また、まったくタロットを知らない友人やパートナーなどに、「どう見えるか?」「どう感じるか?」とカードを見せて質問し、その答えを素直に受けてもよいです。
これは何も知らないからこそ、枠をはずれた斬新な読みができることもあり、それがまた慣れた読みをしているあなたにインパクトを与えることになるのです。また初心のフレッシュな気持ちを取り戻す効果もあります。
それから、リーディングの立ち位置を変えてみるということも面白いです。
これはいつもリーディングしているスタイル・場所を変更してみるということです。
自分リーディングをしていたら、クライアントの立場になって対面側に回ってみる、あるいは横や斜めに移動してタロットを観察する、時には一枚のタロットに極端に近づいてミクロ的な観察をするなどやってみるのです。
角度は見方の違いにつながりますから、これまた意外な発見があったり、インスピレーションがわいたりします。
またスタイルを変えるという点では、リーディングする時間を変更してみる(早朝や就寝前、たそがれ時など)、場所も家ではなく、ほかのところで行ってみることも考えられます。
ある程度自分のやっているタロットの理解ができてきたと自覚していれば、ほかの種類のタロットの解釈にふれてみる(書籍なとで読んでみる)ということも場合によってはありです。
ただこれは注意しないと、自分の今までしてきたタロットとの統合がとれず、かえって混乱することになりますので、最初はあくまでさらっと見る程度にし、自分のタロットの理解度の上昇につれてほかのタロットも見てみていくというようにしたほうがよいでしょう。
コツとしては、カードの意味や言葉を覚えるのではなく、その奥に象徴されているカードの元型(根源)を考察すること、一見抽象的とも思えるそのカードの表す「核・コア」を補足しようとすることです。
するとほかのタロットの理解も自分のタロットを通してある程度は可能になります。
ほかのタロットにおいて、絵柄として自分の学んできたタロットと同じものが描かれていないかを見て、それを比較検討するのも「元型」を把握するのに役立ちます。同質性と異質性をしっかり観察するのです。
私のタロット講座を受講された方は、大アルカナから気づいたことを記載するノートを渡してありますので、それを続けて折に触れ記入していくことですね。
ただそれだけだと結局やらないことになりがちなので、強制的にそういう時間や日を習慣的に持つようにするのです。
そうして二冊目になった時は、リーディングの幅もかなり広がっていることでしょう。
それからわからないからと言って、いきなり本や習った時のノートを見るのではなく、まずは自分でリーディングしてからあとで確認するという癖をつけないと、いつまで経っても臨機応変にリーディングすることはできませんので注意しましょう。
報われない恋をしているあなたへ。
気休めに聞こえるかもしれませんが、報われない恋愛をしていても、それはあなたにとっては大切な何かを運んでくれる輝きとなるものです。
好きになってしまった相手が自分に好意を抱いてくれそうもない、または立場的に思いが叶えられない相手との恋など、こうした状況はとても苦悩を呼びます。
恋愛はタロットカード(マルセイユ版)の「恋人」のキューピッドの矢が示すように、自分の意志でできるものではありません。
その鍵を握るのはまさに上空の天使、あるいはキューピッドなのです。
キューピッドは誰(人)の心にも眠っている恋の心に火をつける・覚醒させる役割があります。
また自分でキューピッドを呼ぼうと思ってもなかなか自由にはできません。そのためにやはり恋愛は予測不可能でコントロールが効かないものだと言えます。
そして幸か不幸か、報われない(と自分では思える)恋をしてしまった時、その苦しさゆえ、我が身の不幸や不運を呪うこともあるでしょう。
どうしてあの人(または自分に)に(キューピッドの)矢が刺さってしまったのかと。
しかしながら、すべてには意味があると考えられます。
実はキューピッドも天使と表現できるものであり、つまり天(神)の使い(厳密な意味での「天使」ではありませんが)なのです。そこには神の計らいがあると言えます。(エロスの「神」としても「神」となります)
マルセイユタロットの「恋人」カードには、きちんとキューピッドが神の意志を背負っていることが絵柄で示されています。
個人的には報われない恋も、究極的な愛に至る(目覚める)ためのひとつの過程や試練ではないかと考えています。
また報われない恋であっても、不思議なことが実際に起こることがあります。
たとえば、ずっと思い続けた人と一瞬だけれども心が通じ合った感覚を得たという場合や、現実に一緒に会話したり、過ごしたりすることがわずかではあっても奇跡的にできたというようなことです。
両思いにはなれなかった、あるいはつきあうことは不可能だったけれども、どこか一時でも時空をともにすることができたとか、気持ちを交流させることができたと思える瞬間が訪れるのです。
自分でも気がつかないほどの一瞬かもしれませんが、おそらく思い続ければそういったことは結構多くの人が体験できるのではないかと思っています。
それがいわば神からのプレゼントのようなものと考えられるでしょう。この時はカードでいえば「審判」と関係していると言えます。
またたとえそのようなことが起こらなかったとしても、あなたの注ぎ続けた恋心(愛情)は報われないつらさだからこそ、燃焼され、純粋なものが残ることになります。
その残ったものこそが「愛」となるのです。燃焼過程では焼かれるような嫉妬心であったり、相手に通じないつらさ・悲しみ、苦しみであったりしますが、涙(水)を流し、燃える心(火)で焼き尽くした時、不純物は消え、一種の悟りの境地のような無償の愛の感覚に変化してきます。
たとえれば「愛されなくても愛することのできた自分が愛おしい」「愛が注げることのできる自分が美しい」という感覚と言ってもいいでしょう。
愛することができるのは、自分に愛する心があるからで、もっといえばあなたには「愛」が確かに存在していたことの証明です。
これに気がついた時、あなたの意識は高次へと導かれます。そうすれば報われる報われないに関わらず、あなたの人生は変容を遂げ、ふさわしい愛される相手と出会うこともあれば、人生に使命感を抱けるような仕事や好きなことに出会うことも起こってきます。
成就できない恋愛も、実はあなたを高めるための大きな神からの恩恵なのです。
タロットの数と「世界」
タロットの大アルカナにはナンバーがふられているように、数の進行に従って拡大や発展をしていくと見ることができます。
タロットはゲームとして使われていた歴史が長いですので、おそらくはゲーム性を考慮して、ナンバーが機能していたと考えられます。
たとえば数(ナンバー)が上がるほど強いカードになるという具合に。
しかしこれをそのままタロットの理解やリーディングに流用してしまうと、単純に数の少ないカードは悪いカードみたいな認識になるおそれがあります。
もっとも、吉凶的判断での「占い」として活用する場合は、それでもOKでしょう。というより、おみくじ的に引くことができて余興としては面白いかもしれません。
ですからやはり数によっての優劣を決めると、どこかゲーム的になるのです。
とはいえ、数の大小によって変化してくるという観点も悪いことばかりではありません。
ひとつには「数」を宇宙や神の象徴・表現として秘術術的に絵柄と併せて解釈することにより、タロットリーディングに深みを与えることできます。
ただこれも両刃の剣で、深みが増す反面、カードの絵柄から出る解釈(象徴)と数そのものの持つ象徴とが統合できず、余計に混乱することにもなりかねません。
このことはソウルカードテクニックによって問題が顕著になることがあり、ソウルカードテクニック(技法)がうまく使いこなせない、理解に矛盾を抱えている人というケースも少なからず見てきました。
この問題については、私自身はある決着を見てますので、それは私の講座でお話しています。
さて、数の進みによってカードの意味も変わってくるという発想を持てば、ふたつの大きな示唆が得られます。
ひとつにはカモワン流などでも主張されている「大アルカナが人間完成の図を示す道程である」ということ、もうひとつは同じようなことなのですが、数の進行によって私たちの物の見方が拡大されるということです。
一言で言えば、「数が進めばより解放される」と言ってもよいでしょう。
ということで「世界」は最高度に到達した解放であり、完成となるわけです。
ただ現実的に適用するとすれば、「多様な見方を獲得した状態」と考えてもよいでしょう。多様な見方ができるということは、それだけ経験が豊富か思考が柔軟であるということになります。
よく「経験しなければ本当のところはわからない」と言われますが、それはまさにその通りだと思う反面、世の中のすべてのことを一人の人間が経験できるわけではありません。
従って、むしろ思考の柔軟性を得たほうが実際的だということになります。ただなかなか普段の考え方を変えたり、柔らかくしたりすることが「頭」だけではできにくいので、実の体験があったほうがよいと言われるのです。
たとえば「痛み」を考えろと言ってもわかりにくいですが、怪我をしたり、心が苦しかったりすれば「これが痛みだ」と悟ることができます。それゆえ、実際の体験は思考を変容させるのに極めて重要なのです。
また一人の人の体験は限界がありますから、自分がただ一人で考えているよりも、他人の経験を話してもらう、他人から伝授してもらうほうがよほど物事の理解が早まるでしょう。
このようにして私たちは多くの人・モノの中で、自動的にたくさんの経験を積む(積まされる)ようにできていると考えられます。
それは結局タロットでいえば「世界」に至る道であり、自分の物の見方を多様にするためにあると言ってもよいのではないでしょうか。
自分の気持ちに正直かどうか。
世の中には優しい人が多いので、自分の意志より他人や相手を優先してしまうことが多い気がします。
いやいや、そんなことはないですよ、私は自分勝手な人ばかり見ますよ、という人もいらっしゃるかもしれませんが、それはそれで(自分勝手は)問題ではありますが、優柔不断であったり、人を優先しすぎたりするのもバランスが取れているとは言えません。
そういったことで、今日のテーマはタロットカードでいえば「正義」ということなるでしょう。
あなたは自分の意志をきちんと相手に伝えているでしょうか?
相手とトラブルになることを恐れ、あるいは相手から嫌われることを思って、自分の気持ちとは裏腹に周囲に合わそうとしていませんか?
これを繰り返していると、いつか自分の感覚が麻痺してしまい、自分の意志なのか人の意志なのか、選択においてわからなくなってしまうことがあります。
そして人によって人生はコントロールされ、ほかでもない人のために人生を消費することになります。
また他人ばかり気にすることになるので、気が休まる暇がありませんし、そもそも自分の気持ちには嘘をついていることになるので、その罪悪感から自分を潜在的に苦しめます。
時には自ら罰を与えるかのごとくの状況を自分で引き寄せ、不幸やトラブルを我が身にふりかからせます。それによって自分(の気持ち)を許す仮の行為をしているわけです。
いずれにしても、自分に対する不正直さは自分のため(人のためにも)になりません。
結局のところ自己評価の低さから来ていることが多いわけですが、逆にいえば自分に自信が持てるようになれば、自分への不正直さも消失していくことになります。
よくあることに、何かの行事の参加や行動を促されている時に周りを尊重し過ぎて(というより自分を卑下して)、本当は断りたいのにOKの返事をしてしまうという人がいます。
それで最悪なのは、直前になって思い直し、いわゆるドタキャンをしてしまうというパターンです。これは自分も気分がよくないでしょうが、誘った人にとってはもっとも嫌なことでしょう。
このことも元をたどれば自分の気持ちに正直ではなかったことに起因します。不正直さは決断のスピードさえ遅らせるのです。
「正義のカード」には天秤のほかに剣も手にしているのは興味深いことです。剣は決断もひとつには意味します。
波風を立てないようにする「なあなあな態度」は、結局のところ、逆にあとで波風を周囲に立てることになります。
八方美人が終局的には誰からも特別に好かれないのと同じです。(奇しくも「正義」の数は「8」です)
自分の気持ちに正直になること、これは言ってみれば自分を救うことにつながるのです。(カードとしては「節制」と関連します)