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「学び」ととらえることのよい面・悪い面
スピリチュアルや精神世界的な関心を持つと、何でも「学び」だととらえようとする傾向が生まれます。
これはきちんとニュートラルポジションというものを意識していないと、よいところと悪いところのどちらかに傾いてしまうところがあるように感じます。
たとえば悪い面というのは「学び」だと思いこむことで、自分が体験している苦しみをずっとそのまま耐えようとすることです。
いわば耐えること、我慢することが「勉強」なのだ、自分のためになるのだと信じ込んでしまうわけですね。
これはとても危険です。
パートナーからDVを受けたり、職場での理不尽な扱いを受けていたりするのでも、「これは私が受けなければならない試練だ」と盲信してしまい、自分を責めて救済する(される)機会からはずれてしまうばかりか、非現実的な世界観に閉じこめられる危うさもはらんでいます。
ここまで極端ではなくても、「すべては私に原因がある」のだと必要以上に自分を責めてしまうことが、「学び」を過剰に意識するとで起こることがあります。
確かに究極的には「自分の認識によって世界が作られている」ということもあるとは思いますが、それは自分を責めなくてはならないこととは別だと思います。
自分を責めること、それ自体が自分で原因を作っていることにもなるのです。
さて、一方で「学び」ととらえることでよいことは、やはりたくさんあります。
それは改めてここで説明する必要もないと思います。
そこで、ひとつだけ「学び」のとらえ方の工夫と言いますか、見方をお話したいと思います。
それは「学び」や「修行」と思うことと同時に、それを楽しむ自分を意識するということです。
そのためには成長するであろう自分のその先のイメージを持つことも大切です。
一般的に「この学びを通して何が得られるのだろう?」と考えることは多いと思いますが、その先の、学び終わったあと、学びから得たあとの自分はどう変わっているのかということをワクワクしながらイメージするのです。
それがまた今の試練を楽しむことにつながってきます。
ただこれはなかなか自分一人や、何もツールがない状態だと難しいことがあります。
ですからアドバイスをもらえたり、客観的に見てもらえたりする誰かに話す、あるいはタロットなど自分を象徴的に見つめることのできる道具を持つということが有効になってくるのです。
「わの舞」に参加
不思議なシンクロで導かれるかのように10月29日、「わの舞」の講演と踊りに参加してきました。
「わの舞」とは一言でいえば、文字通り、わ(輪・和)になって皆が踊るというものです。
「わの舞」の活動を主宰されているのは、
「ガイアの法則」の著者でもある千賀一生氏です。
こちらのHP で詳しく説明されていますが、「わの舞」は太古の記憶を呼び覚ます、宇宙や自然との一体感・つながりを実感する舞と言えます。
マルセイユタロットをやってきて思うのは、古代の思想の根幹には「円」という概念があるということです。
古代の人たちは「円」を意識することによって、今の私たちとはまったく異なる時間や空間を意識していたと感じます。その発想の源は天体や宇宙の回転でしょう。
実際に私自身、「円」発想を知ることにより、まさに時空の感覚が変わりました。
簡単にいえば、現代の私たちは直線思考なのです。そのため個々のつながりは無機質であり、バラバラといってもよいのです。
しかし古代では「円」なので、すべてこの中に含まれます。ですからあらゆるものが関係し、連関してきます。
しかも円は回転運動によって生み出されますので、循環とリズムの意識が自然と出てくるのです。
このように円発想はすばらしいのですが、いかんせん、何事もそうですが、頭の理解だけではなく、実感として心身ともに「感じる」必要があります。それで本当の認識となるのです。
「わの舞」は円、つまり「わ」になって踊りますので、それを実感するのにはとてもよい舞踏ではないかと感じたことも参加の要因でした。
さて、当日は定員以上(およそ200名)の人が全国から集まり、千賀先生の講演のあと、実際に皆さんで「わの舞」を体験することになりました。
あまりに人数が多いので、二つのグループにわけ、さらにそれを4つの円にわけ、中心軸を基点に同心円状にぐるりと取り囲むよう構成された形で始まりました。
人数が多かったので偶然そうなったとはいえ、私にはマルセイユタロットで表される二極と4大元素、あるいは4つの原理、大アルカナの「世界」のカード、小アルカナの「玉」(コイン)の構造がイメージできて感動しました。
そしていよいよ「わの舞」の実践です。
全員で手をつないでフォークダンスのような、民族舞踊のような感じで踊っていくわけですが、前後だけではなく、渦のように右左に回ったり飛び跳ねたり、波のように寄せたり引いたりするリズムを繰り返し、最後は大地への祈りのようなポーズで終わります。
個人的な感想でいえば、思ったよりもとても楽しく、小学生時代に戻ったようなワクワクする感覚がありました。
また二手にわかれて踊りましたので、片方のグループを鑑賞することができ、これがまた意外な感動を呼びました。
皆さんの舞自体がすばらしく(ほとんどの方が初めてだったのですが)、荘厳なのに柔らかな雰囲気があり、終われば自然と拍手せずにはいられない感覚がありました。
特に千賀先生、お弟子さんたち、あるいは知人の方で舞に習熟されていらっしゃる方の姿は美しいとしかいいようがありませんでした。まさに巫女や神官です。
このような中心をすえて「輪」になって踊る形式は、多くの民族で古くから行ってきたものと考えられます。日本でもいまだ「盆踊り」の形式として残っています。
それは単なる余興や死者の魂を慰めるという意味だけではなく、踊っている人間が自然や宇宙・森羅万象のリズムと仕組を感じることのできる融合装置・時空間・祭祀として働いていたことが想像できます。
従って古代の人は、この踊りによってバランスを回復させる(宇宙のリズムとエネルギーに戻す)ことにより、様々な問題を解消させてきたと考えられます。
「わの舞」によって癒される人が多いと聞くのもむしろ当然なわけです。人によってはカウンセリングより効果があるかもしれません。
日頃直線思考で情報や知識で凝り固まった現代人には、大地や天の神意を知り、一体感をともなう安心と智慧を味わう意味でも、「わの舞」はシンプルでとてもよいものだと思います。
千賀先生は特にこれからは「女性性」を重視した社会の変容と回復を述べておられ、タロットに通じるところがあると私も感じておりました。
このイベントには千賀先生の以前からのお知り合いでいらっしゃり、食とダイエット、心身の健康、古代の崇高な性エネルギーの研究と著書で知られる夏目祭子先生 も参加されていらっしゃいました。
夏目先生は初期から「わの舞」をされていたとのことです。夏目先生がタロットにも造詣が深いことをあとで知り、これも何か不思議なご縁を感じました。
ちなみに今回のイベントは兵庫県明石市で開催されたのですが、これには意味があり(東経135度、「ガイアの法則」で書かれています)、また偶然だと千賀先生はおっしゃっていましたが、10月末の変革期といわれるこの時期だったというのもシンクロ的に意味がありそうです。
天使と悪魔、どちらに見えるか。
タロットを観ていると、いろいろと面白いことに気がつきます。
今日もそんな話のひとつです。(って、毎日そのような話なのですが…(^_^;))
タロットは絵で描かれた図像ですので、当然何らかの形があります。
そして今、市場で流布して使用されているほとんどのタロットカードはカラーで印刷されていますので、色もあって、まさにカラフルです。
その色もタロットでは大きな意味を持つわけですが、仮に色をなくして、シルエットとして形・輪郭だけを描いていくとすればどうなるでしょうか?
きっちりトレースすれば元の形が何であるのか、あるいは元の形がわからなくても、何となくは想像がつくと思います。
ところが、輪郭もぼやけた感じになってくると、境目もあいまいになってきます。
たとえばマルセイユタロットの「節制」と「悪魔」のカード。
「節制」は天使であり、「悪魔」は文字通り悪魔なのですが、黒いただのぼやけたシルエットだと両方の区別ははっきりしないかもしれません。
もしかすると「節制」が悪魔に見えたり、逆に「悪魔」が天使に見える可能性もあります。
このことは現実的にもありえることです。
どういうことかというと、自分が天使だと信じていたものが実体は悪魔であるおそれもあるということですし、その逆もありなのです。
いわば、まだ見分けがつかない未熟な段階、あるいは成長過程においては、どちらかよくわからないままの混沌が実状であるということです。
悪い面でいうと、たとえば「天使」だと自分が思っていたもの(見えていた、信じていた存在)は、同じ羽をもった異質存在の「天狗」である場合も否定できません。(苦笑)
よいことでいうと、悪魔と思っていたものは、実は自分を試し、よい方向に向かわせようとしてくれる天使だということも考えられます。
とはいえ、ここでは天使か悪魔かの見極めをつけるまで、霊的能力を高めなくてはならないというスピリチュアル的な話をしているのではありません。
あいまいなシルエットで、悪魔か天使かわからない状態をどちらかに決定させるのは、まさに自分の意識次第だということが言いたいわけです。
自分の心が天使か悪魔かを浮かび上がらせるのです。
さらには「よい悪い」と判断する(悪魔か天使かを一方的に判断する)のではなく、天使・悪魔の二面を両方同時に観ていく(糧にする)ことも大切です。
単純に「正義」と「悪」と判断するのではなく、もっと上の「天」「超越」を仮定し、そこからの視点で把握しようとする態度をもつことです。
そうすると悪魔は悪だけではなく天使であり、「正」であるかもしれず、反対に「天使」もそう見えつつも実は「悪魔」であり、「誘惑」「快楽」逃避」の幻影かもしれないと過度に一方にとらわれることがなくなってきます。
そのようなチェックやバランスを働かせる意味でも、タロットは非常に有効だと考えています。
解決策や答えを出す必要性について
私はもともとカモワンタロット(カモワン版マルセイユタロット)を教えておりました。
カモワン流の独特の展開法のひとつの大きな特徴として、解決カードを置くという技法があり、このためにリーディングは比較的具体性を持ち、問題を放置しないという傾向になります。
しかし、それにあまりにごたわり過ぎると、「必ず解決策をタロットから導かねばならない」という縛りが自分にかかります。
カモワン流に限らずとも、タロットリーディングにおいては、特に最初の頃は誰もが「答え」や「解答」、「指針」「方向性」「結論」白黒」を出さねばならないと思いがちです。
それは何とかしてカードからのメッセージをくみ取ろうと、カードの意味や言葉を思い出したり、クライアントとの問題を結びつかそうとしたりして、不自然に力が入ることにもなってしまいます。
それでも答えが出ればよいのですが、たいていはかえって思考や直観力も硬直し、通り一遍のものかひどい時には何も出てこない場合もあります。
ところが、意外にも人は解決策を本当の意味で欲していないことも相談にはあるのです。
ただ話をしたい、気持ちをわかってほしい、私の存在価値を知りたい、私が間違っていないことを確認したい・・・これが相談者の本当の気持ちということがあります。
そのような場合に、無理矢理「こうすればいい」ということを導き出しても、さしたる意味を持たないのです。
それよりも大切なのは、相手・クライアントのこと(人生・人間)を認め、話を聴き、受け入れることにあります。
解決策を言うのはそれから後のことです。先述したように、場合によっては解決は言わなくていいこともあり得ます。
ということは、原点に戻れば、タロットリーディングは素直に出たカードを読んで伝えればよいことになります。
具体性をともなわずとも、象徴的にカードからのことをそのまま伝えれば、本人(クライアント)が今度は自分のことと結びつかせ、具体性を自分からもたせることができます。
たとえばカードから「融合」や「統合」ということが象徴的に読めたのなら、クライアントが「結婚すること」「友人とショップを経営すること」など、自分に即した具体的な事に落とし込んでくれるのです。
ただし、いくら解決策や答えを言わなくていいと言っても、それを出せる基本情報や話の流れを示さないと相手が答えを見つけることは難しいです。
いわばヒントを言ってあげるような感覚でしょう。それが導きであり、リードとなるのです。
「こうしたら」「ああしたら」・・・とをあせってどんどんとクライアントに提示し続けたら、かえって混乱してわけがわからなくなります。
タロットリーダーは解決策や答えを出すことにこだわらなくてもよいですが、話の整理のつけ方、流し方、象徴の理解とシンクロニシティの発見能力は磨いていかないといけません。
「相手に答えがある」というのは相談の本質かもしれませんが、それを引き出すこと、発見してもらう導きは技術的にも精神的にも研磨していくことが求められ、カードを引けば勝手に相手が答えを見つけてくれるわけではないということはきちんとふまえておくことです。
愛の灯があなたを照らす。
人は誰でも苦しいこと、つらいこと、悲しいことを経験しています。
また人からみればそうでないように見えても、自分なりに精一杯やっています。
もちろん反対に手を抜いたり、さぼったり、怠惰になったりしていることもありますが、基本的にはほとんどの人は一生懸命やっているものです。
そんな中、やはり長い人生で息切れを起こしたり、どうしようもなくつらく、疲れてしまったりする時期はあります。
こんな時どうすればよいのかです。
解決法とはいえませんが、たった一人、あるいは唯一と言ってもよい、本当に心から愛を感じられる人や事柄を経験していること、あるいは持っていることが癒しに大きな効果をもたらすと思っています。
そうすれば険しく困難に思える人生も、その愛の光・灯で自分の心を照らすことができ、遭難や沈没をせずに済みます。
問題はそうした人や事柄に遭遇できにくいことかもしれません。
それでも、今ではなく、もっと過去に遡ったり、あるいは常識を超える見方や発想を持ったりすると、意外にもその愛や光に気がつくことがあります。
あまりにも日常に埋没してしまって、ぬくもりのような体験や経験を忘れてしまっていることもあるのです。
また常識で凝り固まった考え方でいると、あなたに注がれている愛の形を見逃してしまうことがあります。
ですから、たとえば亡くなった人、自然、動物などを観たり思ったりして、そこからの愛を感じてみるなどのことをするとよいでしょう。
あるいはいわゆるスピリチュアルという視点を自分に入れれば、時空を超えてあなたに流れされている愛の表現を感じることもできるかもしれません。
それから、自分がもらうだけではなく、まず誰かに心の底から愛を与えよう、受け入れようとすることでも、逆にあなた自身に流入してくる愛に気がつくこともできます。
愛を与えることのできる自分に気がつくことで、その愛がどこから来ているかを考察することで真の発見があるからです。
こうした経験がひとつでもあれば、どんな場合てもそのこと思い出せばハートは温かくなり、生きる希望がわいてきます。
いわばあなた自身が生きるに値することを「愛すること」「愛されていること」で感じるのです。(「愛すること」をあえて先に書いています)
マルセイユタロットでは受け入れることの重要性、愛することの大切さはいろいろなカードで示されています。
カードからのエネルギーを感じてみることも、愛の表現(流入と流出)につながることでしょう。