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「恋人」カードに見る「惚れる」こと。

 マルセイユタロットの大アルカナの図像は、単純なようでいて実に奥深くのことを考えさせてくれる絵柄と構造に一枚一枚がなっています。


たとえば「恋人」のカード。


常々私はこの一枚に恋愛や人間が悩む様子のこと、さらにそれにどんな意味があるのかといったことをほとんど網羅しているすばらしい絵柄だと思っているのですが、ほかのことももちろん示唆してくれています。


マルセイユタロットの「恋人」カードの絵柄構造は、大きくわけると二部構成になっていることがわかります。すなわち、上空の天使と下の三人の人間たちです。


このために、「手品師」から「戦車」としてのひとつの区切りを大アルカナの中でつけた場合でも、「恋人」は異質な構成のカードとなっています。


なぜならば、ほかの「手品師」から「戦車」のカードは、人間中心で天使的なものは描かれていないからです。


そこがある意味、「恋人」の解釈の鍵を握っているとも言えます。


それはさておき、「恋人」カードからの気づきに移ります。


人はよく「飽きの来る動物」だと言います。熱中することも多いのですが、それと同じくらい飽きてしまうこともあるものです。


それが人であれ、物事であれです。ここにひとつの人の不幸(または幸福)があります。これではまるで「運命の輪」の解説をしているようですね。(笑)


飽きが来ることと「恋人カード」が、いったい何の関係があるのかと思うでしょう。実は大ありなのです。


飽きが来るということは、言い換えれば「もうわかってしまった」という安心感、日常感覚に戻るということでもあります。


ということは逆に未知なるもの、まだ秘密や神秘があると対象物(人)に感じられれば興味は持続し、飽きは来ないことになります。


これが「惚れている」状態とある面同じなのです。


惚れている場合は、惚れているために冷静・客観的に対象を見ることができず、いわば偏った見方や目隠しをされているようなものと言えます。


ということはわからない部分がたくさんある状態でもあるということです。なぜなら「ふさがれている」分、見ていないところが多いからです。当然魅力的であり、飽きが来ません。


しかし惚れていることはもうひとつの効果ももたらします。それは対象の良さ(ポジティブ面)が拡大されるということです。


小さな光が太陽のように見えるのですね。(ちなみに「惚れ」は「恍惚」につながり、心と光が合わさって「恍」にもなりますね)


これが人への賛美、世界のすばらしさに感動することにもつながります。まさにワンダフルの実感です。


惚れる状態を作ってくれるのは、「恋人」カードでいうキュピーッド(クピドー)であり、エロースの神、天使です。彼のこそが対象への「惚れること」を生み出します。


しかしながら「恋人」カードには人間達が描かれていることで、この矢は天使だけで一方的に放たれるものではないことがわかります。


そこには人間の交流があるのです。だからこそ、自分が何かに惚れる現象を生じさせるためには人との間に自分を交わらさせなければならないのです。


そしてそれが天使の矢を運ぶフィールドを作ることにもなるのです。これは「」が作られる(運ばれる)ことと同じと言ってもよいでしょう。


惚れる物(者)には自分から見て未知なるものがあるのは先述した通りです。


こうして人は好奇心や探求心をもって惚れたものへと向かうのです。


それでも自分が「もうわかってしまった」というような状態になった時、天使は去ります。「惚」れがなくなったのですね。


ただ中途半端な「わかり方」だと、非常にもったない惚れ方をしたことになります。


なぜならば、この「惚れ」は「恋人」カードの天使(神)の裏に描かれていることに気づくために起こるからです。


人が日常に埋没したり、逆に何かの変革を求めた時、人を介して「恋人」カードの天使がふいに登場します。そしてありえなかった「惚れ」があなたに訪れます。(対象は人だけではなく、事柄、技術、学習、探究など様々です)


それに溺れるのもよいかもしれませんが、それは表面的なことなのです。その奥のものに気づき、あなたを飛翔させるために天使の本当の目的はあるのです。


単純に惚れたモノや相手のことを「わかった」として飽きてしまうことは、チャンスをふいにしてしまっていることと同じです。


それゆえ「恋人」カードはやはり「運命の輪」と非常につながることになるのです。


おっさんと少女

今日はちょっと妻とランチに行っておりました。


私の住んでいるところは海に近く、ちょっと行けば明石大橋が見えます。あるポイントに行けば、それこそ絶景が見えます。


で、そのような海の見えるビストロでランチしておりました。


ちなみに店の写真はこんなです。(向こう側は白ぽくて写っていませんが、明石海峡です)

タロットであなたの愛をひらめきに変える! タロット講座&リーディング


食事をとりながら妻が、

「ここってフランスの雰囲気がある」


と言っておりましたが、店名は「マルコ・ポーロ」なんで、

「いや、イタリアをイメージしているんだろ」と私が返しました。

(シェフはフランスで修行したみたいです)


妻は続いて、

「マルコ・ポーロって、何した人だったけ?」て言うので、

「おいおい、忘れていたら恥ずかしいレベルだぞ」と答えて、

一通り思い出させてあげました。(笑)


が・・・語りすぎて中国の歴史や日本の東北地方(黄金の国ジパングは、東北の豊富だった「金」から来ているという説があります)のことまで行きそうになりましたので、ストップがかかりました。(苦笑)


それで私は

「最近は歴女っていう歴史好きの女性たちも出ているけど、やっぱり歴史ばかり話されるのはうざいよなぁ・・・」


と明日のタロット講義(タロットの秘教史を語ろうと考えておりましたので)に思いを馳せて、男女の違いを考えていました。


「ところで男性ぽいというか、おっさんぽい女性、多いよね」と私。


「いやいや、そういう女性こそ、実は内側に乙女心と純粋性がとっても高い人がいるのよ」と妻が言います。


そういえば、今まで接してきた女性にも思い当たる節があります。


その瞬間、タロットのインスピレーションが降りてきました。なるほどです。


おっさんぽい男性と聞いてイメージされるマルセイユタロットは「皇帝」でしょう。そしてその7つ進んだカードには「」があります。


「力」は逆に処女性や純粋性が強調されるカードです。(これにはアルカナ・秘伝があります)


タロットの生徒さんからもこのふたつの連繋を問われることもあるのですが、それはそれで細かな象徴性を含めて、解説はしてきたところです。


しかし今日は「皇帝」と「力」のカードから、まさにおっさんぽい女性(失礼!)の内側に極めて純粋な少女の心があることがより実感として理解できました。


女性ではなく本当のおっさんにもそういうところがありますよね。(笑)


そしてもともと「力」のライオンと「皇帝」自身が結びつくことはわかっていましたが、おっさんと少女の関連(笑)にすると、よりわかりやすく入ってきます。(^_^;)


「皇帝」は甲冑・鎧を着ているわけですが、それをはずした時、純粋な力が出てくるとも言えます。


なかなか「皇帝」と「力」、おっさんと少女は面白い関係があるものです。もちろん陰陽や両極、鏡の作用とも関係性はあります。


「皇帝」のカードは現実性(現実化)をもっとも表しますが、その鍵はまさしく「力」をよく制御し発揮できることにあると二枚のカードから理解できます。


その力が少女としての象徴にあるのです。


季節にアセンションを感じる。

精神世界の間では、「アセンション」といわれるような一種の次元上昇、変革が起こるといわれています。


マヤ暦との関連もあり、それが来年の12月22日だという人もあれば、計算方法の違いで今年10月28日ではないかという説もあります。


私自身はそもそもアセンションというものがあるのかどうか、そしてそれが日にちとして特定できるのかといったことにいろいろと思うことはありますが、今は肯定もしなければ否定もしない立場でいます。


歴史を遡れば、いつの時代にも終末論とか新生論のようなことはありました。つい最近でもミレニアムとして、2000年になる時が境目であるという話もあったばかりです。


いずれにしても、ある日を境に、突然すべてが見た目さえも変わるというようなことはないでしょう。


ただ、意識としては人によっては少しずつ、それこそある時期を目処にして変わってくるということもあるようには感じています。


たとえば、私自身、最近体調のせいにしていましたが(それも確かにあるのですが)、心身の状態が以前とは異なってきているのをここ一ヶ月くらいの間で感じています。


皆さんの中にも敏感な方は、体、あるいは心で、ポジ・ネガ両方どちらかの症状として現れている人もいるかもしれませんね。


これももしかすると前に書いた、「類は友を呼ぶ」ような、似たような魂や、意識の状態、信じているものによってグルーピングされた人の間で、それぞれ共通している可能性もあるのではないかと思っています。


それから最近よく感じるのは、境目・区切りの消失感ですね。


たとえば季節です。


今は秋真っ盛りのはずですが、どうも暑くて日差しが夏みたいに感じることがあります。


そうかと思えば、春らしいけだるさと陽気さに見えることもありますし、温度とは関係なく冬のようなたそがれ感を思うこともあります。


季節はタロットで表されているところの「四大元素」でもとらえることができるのですが、いわば、その四大元素的にすべてひとつの季節に包含されているような感覚です。


ただ四大元素論でいえばそれは正しい感覚となります。


なぜならば、四大の性質(エレメント)は、それぞれひとつのエレメントずつ分断されているものではなく、ひとつの中にもすべてのエレメントが含まれているからです。


今までのそれぞれの季節にも、やはりほかの季節を見ることはできたはずですが、それが自分や世界の変化によって、次第に全体的に統合化されつつあることと重なり、季節にも「ひとつからすべてを感じられる」ようになってきたのではないかと思います。


そういう意味では、私の中ではアセンションというものはあるのかもしれないと感じ始めているところです。


こだわりを終わらせていく方法

私の幻のセミナーといわれる恋愛セミナー


なぜ幻なのかと言いますと、決して講座がいつも満員になって受講しづらいから「幻」というのではなくて、単にめったに開催しないからという意味です。(苦笑)


ただ開催すると、結構濃密な内容なので、参加された人にとってはインパクトがあるものになると思います。


この講座はいわばタロットでいえば「恋人」カード一枚について語り尽くす・・・みたいなものです。


と、ここまで書いてくると、「もしかして恋愛講座の宣伝ですか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、残念ながら(?)そうではありません。(笑)


実は恋愛セミナーにおいても語っていることですが、恋愛にしろ、ほかのことにしろ、「終わり」ということがとても大切になってくるのです。一種の区切りと言い換えてもよいでしょう。


きちんとある事柄を自分の中で終わらせていないと、その残ったエネルギー・感情は自分が意識していなくても、常にどこかでその終わらせていない事に向けてエネルギーを注ぐようになります。昨日書いたこととも関係しますね。


そのために新しいことに向かえないということになりますし、たとえ無理に新しい方向へ進もうとしても、逆方向に引っ張られるようなことが起こることもあります。


時には自分で無意識のままに新しいことを壊してしまうこともあるのです。


恋愛でいえば、昔(元彼・元カノ)の人が忘れられず、極端な場合、新しい人が現れても自分でその関係を壊すようなことをしてしまう(あるいはそういう事態を引き寄せる)ということですね。


それから恋愛に限らず、とても強い思い入れの人(事柄)を突如消失したり、関係が保てなくなって禍根を残していたりする時も、同様のことがあります。


これも心理的にはきちんと線引きができていないままになっており、いわば「終わっていない状態」といえるのです。


そのため、現実的には会えない、時間的に戻ることができない言った場合、儀式的に象徴として終了させていく行為が必要となることがあります。


そのひとつの方法にボックス・箱を使うという方法があります。


それは思い出の品や写真、その事柄や人を象徴するものを、実際にひとつの箱の中にしまい込んでいく作業です。


思い出したい時はその箱を開けて、品物を出しても構いません。ただその後はまた箱にしまい込んでください。


そうして箱に入れていくことで、まさに自分の心が整理され、濃密な感情が物質となって次第に無機質に変わっていくのです。現実に起きたことを、モノクロームのアルバムにしていくようなものです。


最終的にはその箱ごと処分することで、完全に思いを風のよう四散させることができます。


ただ無理に処分しなくても、箱をどこか置いておくだけでもよいです。恋愛で忘れたい場合は処分したほうがよいでしょう。


このことは実はタロットでは、「13」と「審判」のカードに関係しますし、そこからインスピレーションを得た方法でもあります。


マルセイユタロットを知っている人は、「恋人」を加えると、この三枚が特別な並びになることがわかるでしょう。


そしてこの方法には、とても大事なことがあるのですが、それも「13」と「審判」に関連することです。一言でいえば、価値転換して「愛」に気付くことが重要ということになります。


タロット講座(ハイクラス)や恋愛セミナーではそのことは詳しくお伝えします。


「問題」 すべてとひとつ、ひとつとすべて。

これはマルセイユタロットの「世界」や「力」に特に関連することなのですが(あるいは「13」や「悪魔」なども)、今あなたに起きている問題やトラブルが、実はたったひとつのある事がブロックになっているということがあります。


すべての原因の「根」といってもよいものです。


それはよく心理的には言われていることで、たとえば親やパートナー、昔の恋人、上司、先生などへの感情のしこりや滞りといったものです。


簡単に表現すれば「エネルギーのつまり」となるものです。


パイプやホースの目詰まりと同じく、そこに石(小石となって粉砕されている場合もあり)のようなものがあれば、流れは止まるか悪くなります


何もない時はスムースに流れますので、言ってみればエネルギーを全開して、いつでもどこでもそのまま使える状態にあると表現できます。


ということは、人間関係であれ、仕事であれ、プライベートなことであれ、全力でスムースに自分のエネルギーを注げることになり、効率も上がってうまくいくことが多くなるわけです。


しかしブロックがあれば本来のエネルギーは注がれず、少ない量で物事に当たることになり、非効率な上に時間もかかったり、うまく行かないことで問題と認識されたりすることが起こります。


そのひとつの詰まりが、いわば全体のバランスを崩しているわけです。


それからそのブロックは精神的なことだけではなく、肉体的なことが要因となっていることもあります。


突きつめればひとつである「根」も陰陽のごとく二つに分かれて、精神と肉体の表裏一体になっており、その中の一方、肉体的なことは意外に忘れられていることがあります。


特に心理や精神世界傾向の強い人は、すべてを心理のことに原因をかぶせがちです。


調べてみれば、それこそ血管のつまりであったり、骨のゆがみであったり、歯の並びであったりと肉体的なことから心理的なものに及んで、それがすべてに影響していたということもあるのです。


ということで、何か調子が悪い(内面だけではなく、外に現れている実際のこと、たとえば仕事なども含む)と思える時は、根の原因を探るよい機会だと思って調べてみるとよいでしょう。


根が見つかって解消されれば、一気に物事がすべて解決していくかのような爽快感を味わうことができるかもしれません。


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