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縦の感謝
実は私、今発熱でダウンしております。疲れがたまってそれを処理し切れてないものを感じていたので、ついに来たかという感じです。
結構大変で、この数行を書くのが精一杯です。でも記事が書けているのは・・・それは秘密です。(笑) あ、決してゴーストライターがいるわけではありませんよ。
ところで皆さんは遺伝子というものを考えたことがありますか?
生物が親から受け継ぐ情報ですよね。この遺伝子に欠かせないのは媒体になるDNAであり、DNAの塩基配列は4つあるのも、タロット的には面白いところです。
それはさておき、化学的には私は無知なので詳細はわからないにしても、遺伝子にはずっと生物が誕生し、生き続けてきた記憶が残されているのではないかと考えられます。
ですから私たちが想像する以上に、ものすごい記憶・情報が含まれていると思われ、大げさにいえば地球の歴史分、生物として生き残ってきたものがあると言えましょう。
ということは私たちは霊長類・人であるのならば頂点に立つ生き物として、すさまじい対応力・変革力が内在しているとも考えられます。思ったより激変する環境に強いのが人かもしれません。
一方、その遺伝子とともに、私は何か目に見えない情報というのも子に親から受け継がれていくのではないかとイメージしています。
親だけではありません。さらにその親、そのまた親・・・というように連綿に縦につながっていく家系、つまり先祖から続くものがあると推測できます。
つまりその人たち(先祖)の情報も子孫として受け継がれていくのではないかと思えます。
身体的なことは遺伝子情報で受け継ぐのでしょうが、霊的なものと言いますか、先祖が行ってきたこと、思い、実績というのは少なからず、目に見えない情報として子孫が引き継いでいるような気がします。
たとえば、私は祖父の家系がお寺であり、言ってみれば「お坊さん」をしていたわけですが、そういう雰囲気は私自身も受け継いでいると感じます。(このことを言わなくても、そう指摘されるることが多く、言わば目に見えない部分と言えます)
肉体的にいえば、私は決して強面・大柄で、ゴツイ男性的という感じではありません。(ブログ写真を見てもらえばわかります)
これは相談を受ける側としては人には安心感を与えやすいかもしれません。これも肉体・外見的なことですから、やはり親から受け継いだものとなるでしょう。
ということは目に見える部分、見えない部分で親・先祖から引き継いでいる恩恵が私にあるわけです。
曲がりなりにも私がタロットで人を教えたり、話や相談ができているのも、祖父に続くお寺の家系、父親の多弁さ(笑)などを受けているからだと思います。
そう思うと、本当に先祖や親というものに感謝の心が出てきます。
とはいえ中には逆にマイナスの部分を引き継いでいるのでは?と感じる方もいらっしゃるかもしれません。
そうした人でも、実は自分がその供養やプラスに価値転換させていく役割をもっているのだと思えば、マイナスと思っている部分が壮大なプラスに転じることもあり得ると感じます。
結局は感謝に行き着くのではないでしょうか。
先にも述べたように、私たちは誰一人、親や先祖なしで生まれた人はいないのですから、自分の縦の線に思いを馳せ、感謝を起こすのは自然だと感じます。
愛に責任を持つ。
マルセイユタロットをしている私ですので、時々フランスに関することに興味や関心を抱きます。
NHKのフランス語講座なんかも、語学を学ぶ意味ではなく、単に娯楽的(笑)に見ることがあります。
で、もうまさに最後のほうしか見ることができなかったのですが、フランスでの愛や恋愛について哲学も含めて語るコーナー(というように思えましたが、実際は違うかもです)がありました。
その時、こういう言葉で締めくくられました。
「愛(すること)に責任を持つ」
私はなかなかいい言葉だと感じました。
瞬間的に頭の中に出てきたタロットは「恋人」と「正義」でしたが、私はいつも恋愛や愛についてカードで思考すると、「恋人」「13」「審判」の列をイメージします。(マルセイユタロット)
ですが、「責任」という言葉が出たので、ここで「正義」を想像したのですね。
そうすると、面白いことに気がつきました。
「恋人」と「審判」の間には、流れとして「正義」とか別のカードが入ってもいいのではないかと。
そもそも「恋人」から「審判」に変化する過程は、私の中では「恋」から「愛」への変容だととらえています。
そこにはやはり「13」体験が強烈に必要な場合があるのですが、それだけではなく、ほかのカードが間にはさまれることもあるのだと導かれました。
特に「愛に責任を持つ」ということ(つまり間に「正義」が入ること)は大切だと感じます。
相手を愛する時、そこに「正義」があるのかどうかでかなり違ってくると思うからです。
単なる浮ついた恋なのか、真の愛に至ろうというものなのかの境目でもある気がします。
またたとえ世間的によく思われない恋愛であっても、そのことに責任が持てるかどうかでその恋の本質がわかると思います。言ってみれば愛する覚悟です。
覚悟をもって愛することで、いい加減に終わることのない結果や自身の成長を招くと考えられます。その恋がうまく行かなかったとしてもです。
それはいわば、別の形での「審判」に行き着いていることであり、つまりは自分自身の新しい復活と再生につながるのです。
あなたは責任をもって愛していますか?
パワースポットを訪れる前に。
少し前からいわゆるパワースポットを訪れるブームのようなものが続いています。
パワースポットというのは、そこへ行けば運がよくなる波動のよい土地だと信じられているようです。
もちろん目に見えないことへの興味、自然やすでにある霊的な土地に関心と敬意を持つということではこれはよい面もあると思います。
実際に訪問して感覚が研ぎ澄まされたり、心身の調子がよくなったり、運が開けてきたりすることもあるかもしれません。
しかし、私が思うのは行くのはよいにしても、受ける側の人間の問題も大きいと思います。
事実かどうか別として、パワースポットにとてもよい波動や運気がよくなるものが流れているとしましょう。
ところがその波動をキャッチできる受信機がないままだとどうでしょうか。
ラジオでもテレビでも受信する側の周波数を合わせていないと、音声や映像は聞こえず映りません。
同じように、こちら側・受ける側の周波数が適合していないとその波動は素通りする可能性が高いと考えられます。
そしてさらに問題なのは、パワースポットに群がる人々の波動を受けてしまうことです。
もし多くの人が「あやかりたい」とか「運気をもらいたい」とか、「願い事が叶ってほしい」など私利私欲の欲望を持ってスポットに来ており、あなたも同じような気持ちでいたとするのならば、その周波数に合うかのように受信してしまうおそれがあります。
欲望で来る人は現状に感謝の気持ちがなく、不満や不足の心の状態にあります。
つまりかなりドロドロしたネガティブなものがあなたに入ってしまう(影響を受ける・同調する)危険性もあるのです。
いいものを受け取るにはいいものを受け取るための準備が必要です。言ってみれば受信側の調整です。
パワースポットによってよくなるというのも、ほとんど思いこみが大きいと想像されます。そのような場所へ行く旅や気分転換の意味が大だと推測されるのです。
でも思いこみによって実は人は人生を作っています。
そういう意味では「よくなる」「よくなった」と信じることもありでしょう。
ただそれでも、恩恵を「もらいたい」気分で行くことは「奪いたい」気分と同様ですので、そういう気持ちで「よいもの」と周波数を合わせることは難しいと思います。
パワースポットに行く前に、自分の心を見直し、感謝できることがないかと探るほうがよいと考えられます。
今日書いてきたことはマルセイユタロットでは「星」と「斎王」に深く関係しますので、カードを持っている人はまた見ておいてください。
二極をカードでとらえるリーディング
マルセイユタロットでも陰陽や男女などの、二極で表されるエネルギーのことは至るところに描かれています。
また言ってみれば、この二極のエネルギーを統合したり、循環させたりすることを述べているのがタロットでもあると考えられます。
しかしながら、一口に「二極」と言っても、その表現される内容は様々です。
確かに人としては「男」と「女」かもしれませんが、よく言われるように男性の中にも女性性はあり、女性の中にも男性性はあります。
また積極・消極といわれるものでも、環境や立場・設定が変われば交互に入れ替わることも普通にあります。
たとえば、あなた自身、慣れたところや好きなフィールドでは積極的になれるでしょうが、不慣れな場所、あまり知らないところでは消極的になることもあるでしょう。
このように二極というものは、完全に分離しているものではなく、見方によってどちらにもなるものであり、大元の1つから派生した観点の違いに過ぎないということになります。
結局それは、複雑なようでいて実はシンプルでもあるという宇宙の原理を表しているように思います。
つきつめれば二極しかないのです。たった二つです。
もちろんそれが三つや四つと次第に分化していく「分類」もあるでしょうが、ひとつに戻る前、あるいは1つからわかれるのはいきなりの多数ではなく、まずは二つなのです。
そして、その二つが循環し、入れ替わることもあるので複雑に見えるわけです。
この考えをタロットリーディングに応用させることができます。
大アルカナ一枚一枚を「陰・陽」にわけてとらえ、なおかつ陰としたものの中に陽があるとし、陽としたもの中に陰があるとします。
これでわかりづらい場合は、カードの絵柄の特徴・人物などの動きによって、「融合」か「分離」かにわけます。
そしてこれも同様に、「融合」の中に「分離」を見て、「分離」の中に「融合」の要素を見ます。
このようにして見ていくと、展開されたカード群が何をいわんとしているのかわかってくるでしょう。それは象徴的には二極どちらかのエネルギーの方向だということです。
先述したようにたった二つなので、結局、私たちは複雑な問題であったとしても、どちらかに偏っているものを修正することでバランスを取ると見れば、シンプルでわかりやすいものです。
ただその(方向)中に、細かくいえば反対のエネルギーを取る必要があるものを見るのがコツでもあります。それが具体的な行動や取るべき方策を示していることがあるのです。
「学び」ととらえることのよい面・悪い面
スピリチュアルや精神世界的な関心を持つと、何でも「学び」だととらえようとする傾向が生まれます。
これはきちんとニュートラルポジションというものを意識していないと、よいところと悪いところのどちらかに傾いてしまうところがあるように感じます。
たとえば悪い面というのは「学び」だと思いこむことで、自分が体験している苦しみをずっとそのまま耐えようとすることです。
いわば耐えること、我慢することが「勉強」なのだ、自分のためになるのだと信じ込んでしまうわけですね。
これはとても危険です。
パートナーからDVを受けたり、職場での理不尽な扱いを受けていたりするのでも、「これは私が受けなければならない試練だ」と盲信してしまい、自分を責めて救済する(される)機会からはずれてしまうばかりか、非現実的な世界観に閉じこめられる危うさもはらんでいます。
ここまで極端ではなくても、「すべては私に原因がある」のだと必要以上に自分を責めてしまうことが、「学び」を過剰に意識するとで起こることがあります。
確かに究極的には「自分の認識によって世界が作られている」ということもあるとは思いますが、それは自分を責めなくてはならないこととは別だと思います。
自分を責めること、それ自体が自分で原因を作っていることにもなるのです。
さて、一方で「学び」ととらえることでよいことは、やはりたくさんあります。
それは改めてここで説明する必要もないと思います。
そこで、ひとつだけ「学び」のとらえ方の工夫と言いますか、見方をお話したいと思います。
それは「学び」や「修行」と思うことと同時に、それを楽しむ自分を意識するということです。
そのためには成長するであろう自分のその先のイメージを持つことも大切です。
一般的に「この学びを通して何が得られるのだろう?」と考えることは多いと思いますが、その先の、学び終わったあと、学びから得たあとの自分はどう変わっているのかということをワクワクしながらイメージするのです。
それがまた今の試練を楽しむことにつながってきます。
ただこれはなかなか自分一人や、何もツールがない状態だと難しいことがあります。
ですからアドバイスをもらえたり、客観的に見てもらえたりする誰かに話す、あるいはタロットなど自分を象徴的に見つめることのできる道具を持つということが有効になってくるのです。
