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先生と生徒 その2
昨日は先生と生徒に間に生じる感情のようなものについてお話しました。
今日はその続きで、特に両者の間の好き嫌い、特に生徒側から思う先生への感情についてふれていきます。
人間、誰しも人からはよく思われたい、気に入られたいという思いがあります。
何かを教えてもらっている時も、やはりその教えていただく方(先生)に「自分のことを気に入ってもらえたら」という感情が芽生えるのは普通です。
それには打算的(現実的)な部分と、あこがれや尊敬、純粋に心や感情から来る精神的な部分とがあります。
現実的なことでは、自分のことを気に入ってもらえたら何か特別なことを教えてくれるかもしれない、料金をサービスしてくれるかもしれない、今後も自分だけに恩恵があるかもしれない・・というような思いです。
そして精神的なほうでは、自分がこの人から特別に選ばれている(選ばれたい)感情、尊敬やあこがれから自分も同化したい(そうなりたい)というような気持ちがあります。
これらは大なり小なり、誰しも持っているものですから、自分にそうしたものがあることに気がついても、特段気にしすぎないことですし、大事なのはそういう気持ちが自分にはあることを認識して、罪悪感や否定的な感情(認めない気持ち、抑圧)を抱かないことです。
それから精神的なほうで「気に入られたい」という感情の底には、自分の両親(あるいは兄弟姉妹、時には子ども)への思いが原因となっていることがあります。
男性の教師には自分の父親(像)、女性の教師には自分の母親(像)への感情をかぶせてしまっているのですね。
もっと言えば、実際の両親ではなく、根源的な男性・女性の両極と呼ばれるエネルギーへの反応である場合もあります。
いずれしても、結構な部分で先生に対しての思いや感情は、自分の親との関わり・感情と結びついていることが多いものです。
「気に入られたいけど何か拒否感がある」とか、「この先生のこの部分は好きだけど、これは嫌だ」というところは自分の親との関係に近いところがあるのです。
そういったところも見ていくと、なかなか教え教えられる関係というのも深いものがあります。
さて結局、気に入られたり、あるいは反対にあまり気に入られなかったりという思いはありますが、それもあくまで生徒である自分の判断でしかありません。
先生が実際どう思っているのかはわからないからです。
ですから気にしても実は仕方ないものです。またたとえ嫌われようが、生徒の自分にとってはよいことは必ずあります。反対に気に入られてもいいこととは限りません。
気に入られることの悪い部分は、両者が濃密になる分、人間的感情が入りすぎるということです。
信頼関係がある内はいいですが、幻想も起こりやすく、ひとたび思いと違うことを経験した場合、極端な反転作用が生じて、憎しみあいの関係に変化することもあります。(愛憎の表裏関係)
あまりよく思われていなかったり、嫌われているように感じる場合は、ある意味すごく冷静(冷めるといってもよい)ですので、思いこみや錯覚が起こりにくくなり、無駄なお金の投資や労力を両者の間でかけることが少なくなります。
そして人格と学びの部分とを切り離しやすくなるので、純粋な学びができやすいこともあります。
このように気に入られても、嫌われても(笑)、いい悪いはバランスよく配置されているものです。
いけないのは、作為的にどちらかになろうともがき苦しむことや、どう思われているかをナーバスに気にしすぎて、本来の勉強に身が入らなくなることです。
先生も人間であるということは前回も述べました。
たとえ先生の人格に問題があろうとも、教えている内容と一緒にしてしまわず、きちんと分離して学習する態度を取っていけば、感情的に振り回されることは少なくなるでしょう。
ただ私たちは人間ですので、自分が納得する、感性の合う人からならば教えを受けやすいというのは事実です。
先生が言っていることとやっていることが違うとなれば、聞いているほうに葛藤を起こさせるのも当たり前だからです。
とはいえ、前にも言いましたが何かに秀でた人とはそれだけ変わり者であるということも多いですから、「すべては完璧だ」「人間的に全部すばらしい」と幻想は抱かないことです。
同時に、先生のある一言やわずかの態度だけで、先生全体を判断して拒否しない態度も大切ですね。
学びというものは、その学習している内容だけではなく、私たちに様々にまさしく「学び」を与えてくれるものなのです。
先生と生徒 その1
何かの学びや教えを受ける時、他のフィールドでの社会的な立場や地位・年齢はどうあれ、一時的に教えるほうは先生となり、教えられるほうは生徒となります。
そして生徒としての側からすれば、先生にどう思われているのかということが気になることがあるものです。
しかし生徒も人ですが、先生も人間です。
教えられる側になると、ついつい錯覚をもってしまうのですが、自分より先生はえらい、人間として上だと見てしまいがちになり、極端に言えば「先生はすべてができた人」「人間として完璧」だと幻想を抱くことにもなりかねません。
しかし世の中に完璧な人などいません。
先生はあくまでその教えている分野においてあなたより知識や経験があるというだけで、人としての上下などはありません。
当然ながら先生も欠点も持ち合わせています。
そして何か一芸に秀でている人というのは、往々にして変わった人、変人である場合があります。
だからこそ通常の概念や考えを超えることもあるのですが、逆に常識はずれだったり、人としてのダークな部分を凝縮させたかのようなものを持っていることがあるのです。
何かを純粋にしようとすれば、混ざったものから分離を行うことになり、純粋な部分がはっきりしてくればしてくるほど濁った反対の要素も沈殿していきます。
この沈殿された部分の浄化も同時に行っていけばよいのですが、凝縮されている分だけドロドロに固まっており、なかなか通常よりも難しいことになります。
そしてこの部分に反応してしまった時、純化した面とは別の人格のような形となって現れることがあります。
これが具体的には、人間的な欲望として出現するケースが多いです。
よって先生と慕い尊敬していた人が急に人格が豹変したり、いつもすばらしいことをおっしゃっているのに金銭問題や人間関係で醜態に見えるものをさらけだしたりすることがあるのです。
先生の側の問題もありますが、生徒側の幻想、投影(自分の願望やネガティブな要素を相手自身として錯覚すること)もあります。先生の問題と見ていたものが、それは実は自分の問題だったということですね。
いずれにおいても、好かれすぎても嫌われすぎてもお互いのバランスを欠いた何かが投影されていると見ていいでしょう。
ただ両者とも人間ですので、感情が入り交じることは当たり前ですし、いつも両者とも聖人君子でいらるわけではないので、極端なこと以外は気にしないほうがいいです。
それでもいつもどこか客観視する自分を、生徒も先生も持っているとよいでしょう。
先生に好かれる嫌われる(感情)ということについては、次回の記事にて、もう少し踏み込んで解釈してみたいと思います。
タロットのコンビネーションで現れるもの
昨日、メルマガ(受講者だけのメルマガ)号外を発行しました。
来月より始まる占星術講座のご案内です。この講座はタロットも使って楽しく、そして占星術の基本をみっちり学ぶもので、初めての講座としての募集でしたが、なんと昨日1日だけで予定人数に達してしまいました。
定員が余れば一般の方にもお受けしていただこうと思っておりましたが、今回は受講生特典といった形になりました。
お申込みされた方、よいタイミングであり、その決断力はすばらしく、またご自分の「運命の輪」をいい方向に回していくことになると思います。ありがとうございます。
さて今日のブログです。
タロットをコンビネーション(数枚・複数のつながり)でリーディングする時、「数」をその基礎とするものや、四大元素をそれとするもの、または様々な細かな象徴のつながりを見るものなどいろいろなやり方があります。
マルセイユタロットでかなり広まったカモワン流のリーディングは、いわゆるコンビネーションリーディングの一種で、それが複雑化したものと見てもいいでしょう。上記にあげたすべてを基礎として見ることがあるからです。
カモワン流に限らず、複数のカード同士のつながり、連なり、関係を見て読み解いていく方法はそれだけ情報が多くなるので難しいといえますが、逆にいえばその中からシンクロしたメッセージを拾い出すことになり、意味が余計際だつという結果にもなります。
マルセイユタロットは一見、無造作に絵が描かれているように見えますが、実は非常に計算された緻密な構成になっています。
その構図は幾何学が使用され、統一感のあるデザインで、構図自体に神秘的な意味もあります。
複数のカードを並べる時、それらが重なり合うように整然とした形で意味あるポジションで絵の象徴が登場するわけですから、特別なものを感じないわけにはいきません。
たとえばマルセイユタロットには「天使」がよく描かれています。
具体的には「恋人」「節制」「審判」「世界」に登場します。(直接的な表現ではないものを入れると、まだありますが)
これらのカードの「天使」の位置はそれぞれには無意味に思えますが、やはり意味があり、さらにはこうしたカードがどの位置にどう並ぶかによって深い示唆を私たちに与えてくれるのです。
ひとつ例を挙げれば、「恋人」カードの天使は子どもの姿で描かれていますが、「審判」の天使は大人の大天使のようなイメージで描写されています。
「恋人」と「審判」とでは同じ天使でも異なり、それらの出方と位置によって成長や発展・規模の度合い、あるいは個別性への変化の違いなども見て取ることができるのです。しかし「天使」という意味ではやはり共通しています。
「天使」は高次への段階の飛翔、次元上昇・向上のための「使い」の形・イメージとして登場することがあります。
古来より、そのようなインスピレーション・啓示、特別なインパクトをもつ霊的な体験のメッセンジャー・状況として象徴化されてきた存在です。
これがカードを展開した時に多く現れるということは、それだけあなたにとって重要なタイミングにあるということであり、別世界とのつながり・交流の可能性が示されているのです。
そして別世界と響き合う(合える)のはあなたの神性部分です。
出たカードの「天使」の大きさ、服装、態度、表現、ポジションによってあなたの高次のものとのつながり、理解・関係性も見えてくることがあるのです。
タロットにおける天使(の表現)についてはまた機会を改めて書きたいと思っております。
それはともかく、カードは一枚より複数をもって展開するほうが情報も多くなり、意味も逆に強く浮かび上がってくるものだということをお話いたしました。
「隠者」から敬老を思う。
今日は敬老の日ですね。
タロットカード(マルセイユ版)でお年を召した方をイメージするとすれば、やはり「隠者」が一番浮かびやすいでしょうか。
「隠者」はその風貌からしてまるで森の木と同化してしまっているかのように目立たない存在ですが、その奥には長年修行して蓄積された知識・智慧が存在しています。
私たちも年を経ればそれなりに知恵がつきます。
全員が全員、年さえ取れば賢くなるのかといえばそうではないと皆さんは思われることでしょう。
しかし、よく自分自身に照らして考えてみればわかってくることがあります。
昨日より今日、昨年より今年、20年前より10年前・・・など冷静に振り返ってみれば、やはり「あの時はまだ何もわかっていなかった」と実感がわくことでしょう。
反対に「何も変わってない」という部分があるのも確かで、自分に厳しい人は「成長なんかしていない」と思う人もいらっしゃるかもしれません。
それでも、おそらく確実に今のあなたは過去のあなたよりも知見は広がっているはずです。
なぜならば人としての成長度を無視したとしても、生きている分、何かを見て経験してきたわけなのですから。
このように、私たちは年齢を積み重ね、生きていくだけで拡大していく宿命を背負っているともいえますし、何もしなくても変化させられる生き物だといえます。
ということは、人生は拡大・増加の旅と表現できます。ただ増加した分、減少するのもあります。肉体の機敏さ、頑強さ、毛髪、張り(笑)などです。
しかしながら、思えば失うのはほとんど肉体に関することばかりです。心の方は精神の柔軟性を失う人もいますが、逆に年を取ってから自由性を増す人もいます。
ですから肉体は衰えても、精神はいくらでも自由に飛翔させることができますし、逆にいえば「肉体の不自由さがあるからこそ、精神の柔軟性を持つ必要がある」(そう鍛えさせられている)と考えられます。
そうでなければ、肉体の大変さを感じてつらくなるばかりだからです。
よって、年齢を重ねるにつれ行わなければならない重要なことは、こだわりを持つことではなく、反対に心を柔らかく解放していくことになります。
その意味ではタロットを学ぶことはとてもよい刺激になりますし、頭脳を柔軟にさせる働きがあります。
それから年を取ることで重要な点がもうひとつあります。
長い時を経るということは、時間による緩衝材を持つということです。
ですから過去のことを考える時に間接的になり、より客観視できるということになります。昔のことに別の意味や価値を見いだすことができるのです。
「何でもあり」の姿勢くらいに柔らかく、好奇心をもって素敵に年を重ねて行きましょう。
自分に空しさを感じる時
人は誰でもひどく落ち込むようなことがあった時、失敗したと感じた時には、やはり空しくなる瞬間というものはあります。
ただ特別そういうことがないのに、なぜか無性に空しくなったり、ふいに寂しくなったりする時もあります。
確実に「これだ」と特定できるわけではありませんが、その理由のひとつにはやはり人と自然に流れるサイクルにあると感じます。
上昇もあれば下降もあり、そういったいわば波のようなリズムを伴うのが宇宙全体と個々のリズムです。
その時、極点(上と下)にある時は一瞬止まっているようになりますし、極点に近づけけば近づくほどスピードが遅くなるイメージができます。
言ってみれば停滞した(しつつある)ような感じでしょうか。
逆にその部分はまだ固定に至っていないので、妙な不安感を覚えるのもこのタイミングなのかもしれません。
このスパンにいる時、人は理由のないざわつきや恐れ、虚しさを感じるとも考えられます。
またもともと人は生への衝動(性への衝動でもある)と死への衝動(これも性と関係します)を併せ持つ生き物です。(マルセイユタロットの「恋人」カードに描かれています)
自身の魂の揺さぶり、向上、変容を求める時、あるいはそうした事象に遭遇する時、人は自らを統合へ・一体へというような方向に意識を向けていきます。
簡単にいえば個としての自分から、全体として(最少局面では相手と)の気持ちが強くなるということです。
これが実は自分の消滅ということにつながるのです。
個の消滅という観点では、いわゆる宇宙と一体化というような、究極的な上昇方向の統合(天に還る方向)もあれば、自身を物理的な意味で消滅させる破壊・崩壊としてのもの(土に還る方向)もあるのです。
どちらも自分が消えることにより、逆に別の大きなものへと一体化されるという点では同じと言えましょう。
結局何が言いたいのかといえば、空しさ・虚しさを感じているというあなたの中には、「一体化したい」「統合化したい」という思いが募っており、それが満たされないことに理由があると考えられるのです。
究極的には陰陽と呼ばれる両極のエネルギーのアンバランスさにあります。
そして実は、その一体化・統合感を人間の現実レベルにおいてもっとも味わえるのは、男女間のふれあいなのです。それゆえ、男女の営みは時には寂しさを埋めるのに利用されます。
ところがそれはたいてい奪い合いの低次でいびつなものであるため、本当には満たしあえることができず、逆に虚しさを助長させます。それどころか心理的・肉体的・霊的にもダメージを与え合うことになります。
もちろん男女としてではなく、世の中には陰陽エネルギーを体現しているものは至る所にあります。それが宇宙のバランスと表現でもあるからです。
自分に空しさを感じているのならば、バランスが何か崩れているのではと疑ってみることと、反対に波のリズムを思って自然に任せ、あまり考えすぎないことも大切です。