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仕事の意味
昨日仕事の話をしましたので、今日も仕事に関することを書きたいと思います。
ところで皆さんは、今、大金を手にしたら仕事など辞めて好きなことして暮らしたいと思う方が多いかもしれません。
「ああ、宝くじが当たったなら今すぐにでもこの仕事が辞められるのに・・・」と考えたこともあるでしょう。
ただ、よほど今の仕事や職場が大変な方は別として、おそらく実際に大金を手にして仕事を辞めてしまっても、何か物足りなさを感じると思います。
しばらくは仕事から解放された気持ちで楽しく、旅行へ行ったり、好きなモノを買ったり、おいしいものを食べたり、趣味をしたりして過ごして行くでしょう。
そしてそれなりに充実感はあると思います。
けれどもやがてあなたは次第に空しくなってくるでしょう。
そして何が物足りないのかといっても、自分が人や社会に貢献していないということが一番の理由だと気がつくことになります。
人は自分が無価値だということに非常に存在の危うさを感じ、生きる希望も失います。逆にいえば、自分が誰かの、あるいは何かの役に立っている、少しでも価値ある存在なのだと思うことで生きていけると言えます。
もちろん家族やパートナー、仲間、友人がいれば自分の存在価値も確かめることができ、仕事がなくても大丈夫でしょう。
ただ世間一般的に仕事をしていない人、あるいは何かに貢献していない人は通常の時間やフィールドからはずされる傾向にあります。
具体的には時間が他の人と合わなかったり、場所が異なったりすることが増え、一緒に活動する人がいなくなってくるということになります。
するとあなたは孤独を感じ、自分が何のために生きているのかわからなくなります。
思えば「仕事」というのは、「仕える事」と書きます。
さきほど、人は人に、あるいは社会に、または何か自分以外のものに対して貢献していると思える時、生きる力となると説明してきました。
ということは、仕事は生活の糧を得るためのことが大部分とはいえ、本質的には仕える事をすることで、自分の価値を確かめている作業でもあるといえます。
その意味では「仕事」とは何かに仕えている事をする行為だと解釈でき、その仕える対象は究極的には「天」や「宇宙」「神」といったような大きな存在を仮定しても成り立ちます。
たとえ孤独であっても、自分は天に仕えているという意識を持てば、それは「仕事」を意味し、収入や給料の多寡、あるなしとは関係なくボランティアでも何でも自分はいつも仕事を行っていることになります。
そして今やっているあなたの仕事自体が実はもう仕えていることなので、大きくいえば天に貢献しているとも言えます。
また職が変わっても自分の意識次第で、自分の存在価値を仕事によって常に置くことができるのだということでもあります。
仕事はつらいものですが
仕事というのはほとんどの人にとっては決して楽なものではなく、つらいことのほうが多いでしょう。
自分がコントロールできる形で仕事をしている方は別としても、多くの人は雇われ、毎日定刻に出勤しないといけません。
給料のため、生活のためと割り切ってはいても、人間関係、能力、ノルマ、内容などなど様々なことで悩み苦しむのが実状です。
しかしここで鍛えられることもあり、苦しさはあっても反面、仕事での達成感、やりがい、貢献、喜び、収入の上昇、同僚や仲間との協力関係、職場での人的交流、出張での各都市訪問などよいところもたくさんあります。
おそらくはどんな職場であれ、長い目、大きな視点からすると、すべては自分にとってバランスがとられているのでしょう。
しかしながら、今あまりに仕事や職場が苦しく、つらい状況にあるという人は、短期的な意味でのバランスが大きく崩れていることも考えられます。
それはよく言われるような心の持ちようで何とかなる、解決するようなことだけではないでしょう。実際的な大変さ、・悩みがあり、行動に移さないとバランスが回復しないこともあると考えられます。
私が危険だと感じるのは、「耐えること、我慢することが学びになるのでずっと辛抱し続けなくてはならない」という、極端な根性主義みたいな考えです。
人間圧縮する力がかからなければ、人として磨かれないということはあると思います。これは実はタロットや秘教的な意味でも同じです。
純粋なものを抽出するには、火で熱したり、水で洗い流す必要があるのです。これがいわば人生でいう場合、試練です。
その意味では職場でのつらいことも経験しないと成長がないと言えます。
ただ、それが目的に(耐えることそのもの)なってしまっていないか、辛抱しすぎて自分の成長を殺してしまっていないかも検討することも必要でしょう。
冷静に見れば、仕事の効率を無視して感情で仕事しているために周囲がつらくなっているというようなこともよくあります。つまり、やり方が悪いので苦しんでいるということです。
それならばやり方が変われば楽になりますので、今つらいのは、そのバランスがとれていない警告だと考えることもできます。
自分で変えたくて変えられないことがほとんどの職場でつらい日々を送っているのなら、その職場に留まり続けることにあなたのバランスが悪くなっていると見ることもできます。
これしかない、ここしかない、このやり方しかない、この働き方しか私にはない、こういう仕事しかできない、この人たちとでしか仕事ができない、この時間、この日にちしか働けない・・・そんな風にこだわっていないかもチェックしてみるとよいでしょう。
意外なことで働き方、あなたにとっての仕事というものの概念・思いこみがはずれることがあります。そうすると、今までより自由な発想で仕事をすることが可能になります。
私はかつて公務員をやっていながら、今はタロット講師などしています。180度どころか、一周回って540度(笑)くらいの転換です。
タロットカード(マルセイユ版)で仕事をもっとも象徴するカードの「手品師」は、数を順番とした並び方をすると、数のない「愚者」が左隣に来て、「手品師」、「斎王」と右に続きます。
この時「手品師」の視線は「愚者」を見ることになります。
この二枚で解釈すれば、仕事は自由に楽に(楽しく)なるよう発想することが求められていると言えるでしょう。「斎王」はまた仕事(手品師)に対する冷静な視点とも考えられます。
あなたにとって今の仕事はバランスがとれているか、確認してみましょう。
タロットの能力の開花のために
私は公務員をしていた時、最初の職場が児童相談所でした。
ここでの経験とエピソードは枚挙にいとまがないほどですが、とはいえ、場所も田舎でしたし激務をしていたわけではなく、今より複雑な問題も少なかったと思います。
相談としてはいろいろなケースがあったのですが、中に子どもの言葉の発達の遅れが結構あり、当時の上司はよくそういったお子さんを抱える親御さんにこんな話をされていました。
「この子が言葉を覚えるのは、言葉をためていく必要があるのです」
「いいですか、ここにコップがあるとしますね、これにはまだ水が入っていません」
「ここに水をどんどんためていくのです、そうするとどうなりますか?」
「そう、コップに水がいっぱいになって、やがて水があふれ出しますよね」
「この水こそが言葉なのです」
「そしてコップ、つまりお子さんの中に水を注ぐのは親御さんの役割なのですよ」
と。
もちろん、言葉の発達の遅れの裏には機能的なもの、もともとの脳や器質の問題もあるのですが、それでも言葉かけをせず、放任して子どもと皮膚感覚で関わろうとしない場合は、ますます言語の発達は遅れることになるわけです。
子どもと一緒になって遊び、感情的な楽しい起伏と幅をもたらせ、同時に言葉のシャワーを親や人の肉声で浴びさせていく必要があるのですね。
そうして溜まった言語と感覚は、先の上司の説明のようにコップからあふれ出し、実際に喃語(バブバブとか言葉にならない最初の言葉)となり、そして「マンマ」のような初めの意味ある言葉が発せられるようになるのです。
それはほんと、突然話し出すという感じのことが多いのです。でもそれは偶然ではなく、コップの水が蓄積されていたからにほかなりません。
実はこのことは、タロットリーディングにも言えるのではないかと私は思っています。
というのはタロットもいわば絵で伝え合う言語だからです。
それでまずはタロット的な言葉を自分の中に入れていく段階がいります。
それは象徴の理解やリーディングにおける感覚も含めてです。自分だけでやっている場合と、先生や複数の人と学んでいる場合では違ってきます。
いわば言葉のシャワー度の違いです。シャワーの量が少なくても質がよければ、ため込むスピードは速くなります。
いずれにしろタロット的な言語・知識が自分の中に蓄積されていけば、ある日を境にして突如タロットの理解やリーディング能力が進むことがあります。
それがコップの水があふれだした瞬間です。
私の講座でも、たとえば基礎講座では残すところあと二回か一回というところから急に能力を開花される方が多いです。
それはご本人の蓄積によるところが大です。たとえ講座中に開花しないように見えても、努力している人は必ずあふれ出します。
自分には向いていない、才能がないと言って、あともう少しなのにやめてしまう人もいて、とてももったいないと思います。だいたい何事も夜明け前が一番苦しく、不透明なのです。このことはタロットの「月」がよく表しています。
あまりうまくリーディングができない人も、今のあなたは自分の中にタロット的言語の水をためている段階だと思い継続していきましょう。
正しさの争いの意外な意味
私自身、タロットカードの「正義」との関係が深くありますので(これはパーソナルカードからというのもありますが、それ以外にもあります)、「正義」とはよく対話をしてみます。
対話と言っても実際に話をするわけではなく、カードを思うと「そう感じる」という別のコミュニケーション方法です。
話はそれますが、目に見えない何か、人ではないモノとのコミュニケーションというのは、普通に人が言葉で話をするという「コミュニケーション」とは異なると私は考えています。
そういう場合(言葉が響くこと)もあるかもしれませんが、だいたい次元とかフィールドが違うので、同じ言語的なものとはいかないのが当たり前ではないでしょうか。
実際の世界においても国や民族が違えば話す言語も異なるのですから。
それはさておき、「正義」の話に戻ります。
私たちは「自分が正しい」と結構な頻度で思うことがあります。それが人と対立する大きな原因であることもあります。
自分が正しい、相手は間違っているという前提で、感情的にも理論的にも相手から離れようとします。
とはいえ、よく考えてみると本当に相手から離れようとしているのでしょうか?
自分の正しさを証明しようとする時、相手と主義主張を述べ合ったり、文章でやり合ったり、とにかく相手と絡みますよね? そもそも相手があるからこそ争いになるわけです。
たとえ直接相手と対しなくても、自分が正しいことを愚痴のように自分を認めてくれる(と思っている)人に、争点になっている人とのことを話したり報告したりするはずです。
ということは、離れているのではなく、思いっきり近づいていることになります。感情的には近づきたくないのに、近づこうとしている、行動だけ見るとまるで矛盾しています。
人の世は結局、相手のことが好きな場合は当然としても、相手のことをよく思っていなくても、いやむしろ相手が間違っていると思えば思うほどその人と関わるようになる(特に心理的に関わる)仕組みになっているようです。
おかしいですよね。(笑)
だからといって、皆と仲良くしなければならないとか、争いはなくしましょうと言うのではありません。それは人としてこれだけたくさんの人がいる中で、普通は無理です。
ただここで言いたいのは、正しさを争うにおいても人は人と関わる仕組みになっていて、自分が激しく正しさを主張すればするほどその近づき度合いも激しさを増すということです。相手が嫌いでも。
つまりそれはタロットカードの「正義」でいう天秤であり、バランスです。
自分の偏った(自分が正しいと思いこみすぎる偏り)ものを修正するための装置や仕組みなのです。(争うことが全部が全部バランス回復のためとは言いませんが)
争う(剣)ことで中立(天秤)に自分が(正義の女神に)戻されます。ただこの争いでも中立にならない場合は、また別のバランス回復を図らされる何事かが起きる(自分で招く)でしょう。
占いの「当てる」「当たる」ことについて再考。
タロットといえば占いと一般的には認識されています。
そして占いといえば「当たる」のが一番の関心事であり、当たることが占者の能力、いい悪いの評価の基準になっていることもあります。
ここで、「当たることがいい」と思う人の心理を考えてみると、この奥底には不安や恐れが眠っていると推測できます。
過去や現在の自分のことが当たっていると思えれば思えるほど、未来に対するその占い師の言葉にも信憑性が出て来ます。
未来のことに限らず、もっと行き着けば、その占い師のすべての言葉は正しいことを言っていると思うようになるでしょう。
そして不幸を避け、幸せになるためにはこうすればいいのだということを告げられると信じないわけにはいかなくなりますし、それを言ってもらえることは「当たる」とあなたが思っている占い師からのものでは、すごく安心できることにもなります。
つまり不安や恐れの解消になるわけです。もっと言えばお墨付きであり、免罪符であり、よい言い方をすれば幸せへの切符(を入手したいとう気持ち)です。
別にこれが悪いと言っているのではありません。
今回私が言いたいのは、占いに限らず相談というものは結局、人の心の不安を解消したり、自分のやっていることに確信や意味を抱いたり(間違いではないと思う)することをサポートできるかということになるということです。
だからその観点に立てば、当たる(当てる)ということは目的ではなく手段になるのだと言えます。
相談者のすべてを見通し、全部当てていくのはどんなスーパーな人でも無理でしょう。やっているのは神ではなく人間だからです。
いわば神や宇宙、大いなるものという完全な存在・状態からの象意(象徴している意味)を、人間がモノや形・感覚を通して解読・解釈しているようなものです。そこに人としてのフィルターが入るのは当然です。
ですから完璧ということはないでしょう。すべてを見通し当てることで危険や問題の要因と対策を提示できればそれに超したことないでしょうが、それは不可能というものです。
となれば最初の見地に戻り、人の不安をなくし、勇気や自信を取り戻すことに目的を置けば、占いや人の相談ということもいろいろな手段が取れることがわかってきます。
クライアントはもとかく、「当たった、当たった」と占い師自身が当て自慢になってしまっては本末転倒です。
当たっても、当人(クライアント)の心が不安のままでは意味がないからです。当てる技法を極めることはよいとしても、それが何のため行うのか、目的意識を持たねばなりません。
占術技法そのものの研究と人の生身での相談とは自ずと異なるところがあるのです。それは原理と実際の違い、イデアと現実の違いと言ってもよいでしょう。
タロットでも同じです。タロットをどう使いたいのか(目的)によってやり方はいくらでも変容していくのであり、目的がはっきりしていればどう使おうがそれはOKなのです。
スプレッドや読み方の違い、それは目的の上では些細な手段の相違に過ぎません。大切なのはタロットで自分は何をしたいのかということになるのです。