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天上と地上世界との間で

これも見方や立場によって、いろいろと言えますが、私自身は、マルセイユタロットには、天上的なものと地上的なものとの思想対立とでも言いますか、葛藤が描かれているように思えます。

今のスピリチュアルに関心のある方たちの多くは、理想的には、そういう天上と地上の葛藤があっても、それらを統合していけるものという思いがあるでしょうし、また、地上的繁栄と天上的繁栄はリンクしており、言わば、精神的・霊的成長があれば物質的にも恵まれるという考えもある(実体験のある人もいる)でしょう。

しかし、マルセイユタロット的には、地上的なものと天上的なものは、結局、レベルとか次元が違うので、地上から天上を見るのと、天上から地上を見るのとでは、同じようでいて、まるで異なることではないかという気がしています。

もう少し別の言い方をしますと、私たちの視点は常に地上から天上へという方向性であり、地上における幸福や充実、発展、成長といったものを見ます。

私たち一般の人間が、幸せだとか充実だとか善だとかと考えたり、感じたりするものは、どうしても短期的(人の一生か、せいぜい親子・孫世代くらいまで)で、人間の実生活に基づく、肉体的・物質的なものが中心となります。

たとえ観点が精神的なものであったとしても、個人の心が思うもの、もしくは集合的であっても、その人類としての全体意識みたいなものとなります。

これが天上性からの方向性になりますと、言ってみれば神目線のようなことになりますので、非常に長期的、俯瞰的、宇宙的レベルなものとなるのは予想され、一人の人間の幸せ感(観)がどうこうとかのレベルでは当然ないでしょうし、たとえ人類全体規模であっても、しょせんはそれも小さな地球規模みたいなものです。(もっとも、宇宙は地球しかなく、その反映として、ほかの惑星や宇宙があるかのように見えているという説もありますが)

ということで、私たちは、地上生活を頑張って生きているわけですが、その過程や結果が思うように行かないことになるのは、誰もが経験していることだと思います。

それは地上的に見れば、不幸だとか失敗だとか、ちゃんと努力しいるはずなのに・・・と不満や理不尽さを感じさせるものではあっても、天上的に見れば、きちんと理屈が通っているものではないかということです。

マルセイユタロットの「神の家」ではないですが、天上的視点から見れば、地上の苦しみにも意味があり、それも真の幸福につながっているのだという視点です。

なるほど、これに基づくと、地上性と天上性とではレベルや次元の違いが大きく、私たちは天上ルールを推しはかることができないので、地上的幸福として人間レベルで見るのが普通となるがゆえに、天(天上・神)の真の意図がわからず、地上の不幸や災厄の本当の意味を知ることができないということになります。(逆に言うと、天からすると、すべては公平で完全、真の幸福に向かっていることになります)

ところが、そうでもないかもしれない、というのが今日の趣旨です。

実は、天上的レベルが、私たちのいる地上的レベルによって、まるで光が屈折して曲げられてしまうかのように、何か虚像、鏡像のように、(地上において)本当の姿でとらえられなくなってしまっているからだとも考えられるのです。

詩的にあえて表現するのなら、天上の光が正しく届いておらず、偽物の光を受けて、地上生活を照らしてしまっている(つまり影を見ている)状態だということです。

ですから、いくら地上的に平和を見ようとしても、そして天上的な立場に近づこうとしても、私たちが見ている世界そのものが虚像と言いますか、幻想のようになっているので、どこまで行っても平穏(真の安寧・幸福)はないみたいなことにも感じます。

ふと、ここで般若心経の文言が出てきます。

般若心経では、ひたすら、「そんなものは無い」の無い無いづくしに終始します。無いからこそ最上だみたいなことのようにも聞こえます。

スピリチュアルや心理系の世界では、肯定していくことが尊重されます。

しかし、否定し続けて行く方法もまた、真理に近づく道かもしれません。

地上そのものと、地上における欺瞞の天上性をすへで否定し続けていくことで、そこに現れる真の光(グノーシス)というものがあるのかもしれません。

一件、逃避的で破壊的、虚無的行為のように映るかもしれませんが、地上の苦しみの中にある人にとって、否定というのは、悪い思想行為とは思えません。むしろ救いの道の一つではないかと想像します。

地上における理不尽で大変な生活をしている人、あるいは、何か違和感を覚え、暮らしている人にとっては希望となるものです。

それこそ、個人的な感覚でいえば、下手な肯定よりも否定に愛があるように感じます。

本当にいろいろな道や選択はあるのだと思いますが、さらなる探究をマルセイユタロットを通して続け、自他ともに常識の世界(地上世界)からの希望と救いを見い出したいと思っています。

 

そして、諸事情で、しばらくブログ活動は休止いたします。(再開はする予定です)

またの日までは、過去記事もたくさんたまっていますので、お読みいただければありがたく思います。

それでは。


春分の日を過ぎて

春分の日が過ぎました。

最近は宇宙元旦などと呼ばれて、この日を特別に意識するスピリチュアルな方々が増えたようです。(個人的にはその言い方に違和感がありますが(笑))

少し考えればわかるのですが、最初に考えた人というより、その後にその言葉を使うようにしている方たちの中には、ちょっと商業主義や選民思想的なにおいもあるので、こういうものに流されて、ことさら春分の日を意識し過ぎるのは、かえってよくないという気もします。

まずは、日本における、お彼岸的なことを大切にするのも、初心に戻って重要です。お彼岸自体、民俗学的にも霊的にも、なかなか深い意味があると考えられるものだからです。

私たちは個別で具体的なレベルと、宇宙のような壮大でマクロ的、抽象的レベルの両方を、行ったり来たりしています。

自分に不足感を覚えたり、何か普段の生活に物足りなさを感じたりしている時、自分を大きく見せようと、巨大なマクロの方向へ逃避する傾向があります。

よい意味で言いますと、日常の細かなことに囚われ、日々追われるような状態になっているのを、大きな視点や意識になることで、そういったもの(自分)から解放され、ゆったりとした気持ちになることもあります。

しかし、現実逃避、嫌なことから逃げたい、人と比べて自分は劣っていると感じているような人は、自分を大きなものに仮託することで、あたかも、万能になったかのような感じになり、あるいは、何か外的な神のようなもののご加護を受けたかのような気持ちになり、気分がよくなる場合があるのです。

一種の麻薬投与、中毒みたいな形です。

スピリチュアルな情報は、注意しないと、こうした現実逃避や、幻惑(見せかけ)による痛みの緩和(麻痺)を自分にもたらすことがあります。(情報を出している人が悪いというより、それを扱う者の態度や姿勢のほうに問題があります)

春分の日が特別という情報にしても、それを鵜呑みにしていると、まるでこの日に祈れば、自分を自動的に幸運にしてくれる、現世利益的な願いが叶う、悩みをなくしてくれる夢の日みたいに(そんな人はいないと思うかもしれませんが、似たようなことになっていることに、気が付いていない人も少なくないのです)考える人も出てきます。

そこで、理性と感性の統合が必要になってきます。

なぜ、春分の日を特別に見るのかの根拠を考えないといけません。

すると、当然、地球と太陽の動きの関係性の理解が必要です。そのうえで、単なる天文学的に言っているのではなく、太陽の周期を象徴的に見て、私たちの内的・外的な部分とリンクさせていることも見えてきます。

ただし、理屈でわかっただけではまだ足りません。

重要なのは、感性とも合一してくることです。

言わば、暦自身に自分がなるような感覚とでも言いましょうか。平たく言えば、もし春分の日が宇宙元旦と呼ぶのであれば、文字通り、宇宙的な意味での年の始まりとして実感することができるかという意味でもあります。

これには、春分に対比される秋分、そして夏至・冬至のポイントとの感性的比較が実感できるレベルもいることでしょう。

宇宙元旦があるのなら、宇宙大みそかもあるわけ(笑)で、始まりばかりが強調されても仕方ないと言えます。

結局、太陽の見かけの通り道から規定される黄道十二宮など、占星術の概念・知識が必要になってきますので、占星術を学ぶのが、こうしたことを理解するのに手っ取り早くなります。

とすると、どのような人たちが、この宇宙元旦を述べているのか、広めているのかが、言わずともわかるかと思います。

しかしながら、よいことで言いますと、私たちは以前太陽暦から太陰太陽暦も含めて、「」を意識していた暦も使用していました。

「月」と「太陽」は、「陰陽」としてはもっとも有名な象徴と言えます。ところが、今は太陽暦が中心となり、地球から見た太陽の周期を意識する時代が、21世紀なのに強くなってきました。(天動説的な見方と言えます)

「月」というのは、受容性の象徴でもあります。「太陽」の光を受けて輝く「月」であり、自らで輝くというわけではありません。

もしかすると、私たちはこの「月」のように、何か「太陽」のようなものによって、やっとその存在性を示すことができていたのかもしれません。

けれども、これからの時代は、他者から光を与えられるのではなく、自分自らが太陽となって輝く時代へと変容しているとたとえられそうです。

マルセイユタロットカードの大アルカナも、「月」のカードの次は「太陽」のカードになっています。

「太陽」のカードは、燦燦と輝く太陽の下、二人の人物が手を取り合って喜んでいる姿が描かれています。

このカードの解釈は、様々にできますが、単純に見ても、二人が協力する、ふたつのものがひとつになる、統合するという見方ができます。

その二人とは、「月」の自分と「太陽」の自分かもしれません。

自分だけでは輝けなかった時代の人間が、自らで輝ける自分へと変化している様です。

エネルギー的にも、外から供給してもらわない(奪わない)と活動できなかった時代から、エネルギー自体が太陽そのもの(今のやり方で言う太陽エネルギーとは別のもの)、それは自分そのものでもあると気づく時代へと変革する象徴かもしれません。(単純に言えばコペルニクス的とも言えるエネルギー革命の可能性)

また「太陽」は自己意識も象徴します。

スピリチュアル情報に踊らされて、自己を確立できず、他者や情報への依存・洗脳・奴隷になってしまわないよう、情報は情報としてうまく活用しつつ、あくまで自分が中心であるという立地を確保することです。

そこには地上性としての現実もないがしろにできません。(自分が立つ大地でもあります)

宇宙意識に飛ぶのもいいのですが、実感もなく、さらに理性も使わず、ただ低次の占いのように、安易に信じている(妄信の)ような状態では、自分が「月」の状態にあるのと同じです。

せっかく、「太陽」を意識し始めているのですから、自分というものを大切にし、しっかりと確立していきながら、自他を解放していく方向に飛躍することです。

自己犠牲にもならず、自分勝手にもならず、自他を同じ観点で見られるレベルに、人類全体が向上することが、「太陽」の時代に求められる気がします。


終わっていないものを終わらせる

先日、アニメ界最大のこじらせ案件(笑)とも考えられる「エヴァンゲリオン」(作品によって表記が微妙に異なるのですが)の映画、完結編を見てきました。

内容はネタバレになるので、ここではふれませんが、一般的には好評のようです。

まあ、この映画の個人的な評価はともかくとしまして、先述したように、多くのアニメファンを悩まし、四半世紀にもわたって大量の一般評論家、論客たちを誕生させ、同時こじらせてしまった作品が、とにもかくにも終わりを迎えたというその事実は大きいかと思います。

私自身はアニメ好きであっても、エヴァにはまったり、あまりこじらせたりすることはなかったのですが(あえて放置させていたところもありますが)、むしろ、タロットをやるようになってから、聖書をモチーフに、その散りばめられた秘教的な言葉と設定の暗号群が、非常に気になっていたこともありました。

この作品は、言わば、知識を得れば得るほど、自らで難解化してしまうという、面白い束縛構造を持っていたと言えます。まあそれだけ、この作品の生みの親である庵野氏の知識オタクぶりがすごいということでもありますが。

タロット(マルセイユタロット)的にも、とても面白い作品なのですが、その関連はまたの機会にするといたしましして、今日は、エヴァの終わりということで、完結をテーマとする内容です。

タロットリーディングを行っていると、終わっていないことが問題・テーマになっていることが読み取れることがあります。

それも、事象としての事実は終わっているのですが、心理的・内面的には終わっていないということが、特に問題性として出ます。

客観的には終わっているけれども、主観的には終わっていないものと言い換えてもよいでしょう。

ということは、タロットカードの展開における過去のパート(もしその展開法に「過去」という時系列を表すものがあるとすれば、ですが)が重要になってくるということです。

人には、自分自身も気づいていない、無意識や潜在意識的な情報・データがたくさんあると考えられます。

それらにはよいこともあれば、悪いこともあります(究極的にはいいも悪いもないのですが)。

もしそれらのデータのうちで、今の自分自身を苦しめたり、ブロックとして物事をスムースに行かなくさせるパターンのようなものがあるのなら、それは解除しておくとよいわけです。

解除しなくても、認識させること(そのことを知ること、意識化すること、納得できる理由付けをすること)でOKな場合もあります。

心理療法家の多くは、このことを行っているわけです。

このようなデータ・情報の中に、終わっていないことによる苦しみ・葛藤・不安・気持ち悪さ・違和感というものがあります。

その終わっていないことは、事件としては、いろいろ考えられます。多いのは恋愛、仕事でしょうか。また幼少期の様々な事柄ということも結構あります。

自分の恋が終わっていない、自分の仕事が終わっていない、家族のイベントが終わっていない・・・まあ、それ自体(事件)は人により、様々です。

大事なのは、事柄(起こった事件そのもの)ではなく、それに対する自分の感情、意味付け(認識)です。

それが何であれ、とにかく自分の内には、終わっていないという意識、気持ちが続いているのです。

終わっていないのですから、今もって継続中であり、ずっとそれが裏の意識、自分の内の意識していない別世界で動き続けていることになります。エネルギーもただ漏れです。(笑)

人間というのは自己再生力とか自己治癒力があり、そのため、このいわば未完了の状態・気持ちを何とかしようと、折に触れて、「完了してくださいよ」という警告、メッセージを出してきます。

もっと言えば、未完了なものを完結させるための環境・事件が用意されると言ってもいいです。ここでは「される」と言いましたが、無意識的には、自分がしている、「する」という言い方をしてもいいのです。

ということで、それは今の「問題」として発生したかのような形を取ります。

まあ、平たく言えば、避けていたことに向き合うタイミングが来た、処理し、終わらせる時が来たという知らせです。

それを放置したり、うまく処理できなかったりすると、また未完了事件として残り、次の機会を待つことになります。

だいたいは、ループ状態として経験されていくのですが、そのことに、多くの人は自覚できません。

本当はこのループ構造自体がとてつもない罠になっていて、霊的な意味合いがあるのですが、今は心理的なレベルにあえて落とし込んで説明しています。

ということで、マルセイユタロットにおいては、完了を示唆するカードとして、特に指摘するとすれば、名前のない「13」が代表的であり、ほかにはサイクルの完結と始まりを示す「運命の輪」、再生的新生とも言える「審判」、それらの前兆や低次選択事件として起こる「恋人」、高いレベルでの見地から、達成と始まり、あるいはそのプロセスを示す「神の家」、大アルカナナンバー最大でもっとも数の大きい、まさに大いなる完成を示す「世界」などが挙げられます。

その他、水に流す意味での「星」とか、移行エネルギーそのものを表す「愚者」、征服、克服を意味する「戦車」など、見方によっては大アルカナのほとんどが完結性の意味を取ることが可能です。

しかし、やはり、最初に挙げたカードたちが出るのが、その意味合いとして顕著と言えましょう。

終わらせるためには、今回のエヴァゲリオンの映画でもやっていたことですが、儀式と自らへの(これまでへの)祝福が必要となります。それには従来の見方の反転的観点もいります。(「吊るし」とも言えます)

カモワン・ホドロフスキー版マルセイユタロットの製作者の一人で、映画監督・セラピストてもあるアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、自らの映画作品においても、そして、セラピーとしてのサイコマジック技法においても、未完了のものを完了させていく儀式を行っています。

マルセイユタロットは、一種の儀式的ツールでもあるので、タロットリーディングという行為そのものが、一種の儀式となっているのです。

葬送儀礼をすることが葬式であり、それによって死者の魂は、自らが死んだこと、生が完結したことを知り、生きている側は、亡くなった人が、まさに故人となったことを認識します。

たとえ死者とか魂のことはわからなくても、少なくとも、生きている現実の人々にとっては、葬式によって、死・終わりを認識する区切りにはなります。

ただ単に亡くなったというのではなく、式典によって、死者を弔うわけで、言ってみれば、これまで生きた方への慰労と敬意、死の世界への旅立ちの祝福でもあります。

これと同様、葬式をされていない、自分の中にまだ死にきれない亡者として彷徨ってい感情があると見るのです。

きちんと弔い、葬ってあげないと、その感情はゾンビ化して(笑)、自分を苦しめます。

エヴァンゲリオンでも、こじらせてしまった人の精神の残骸が大量に彷徨っていたのでしょう。(苦笑)

それに終わりをもたらせたのが、2021年の今回の劇場版だったということです。比較的好意的に今回の作品が受け取られているのも、そういう人たちにとっては、本当の意味で、エワンゲリウム、福音となったということだからでしょう。

そこからしても、マルセイユタロットにおいては、「13」(完了・終わり)によって、「審判」に浮上するような(福音を受け取る、新たに再生する)構造を見ることができるのです。

日本語の言葉で単純化すれば、それは、「さようなら」そして「ありがとう」(「ありがとう」そして「さようなら」でもある)と言えるものでしょう。


タロットの図像と天使

マルセイユタロットの絵柄には、細かい象徴・形がたくさん図示されています。

精巧なタイプのものだと、それらひとつひとつに正当な理由や意味を見出すことが可能です。

図像の中でも、代表的な図柄(すなわち象徴)と言えるようなものもあり、その中のひとつには「天使」の図があります。

マルセイユタロットの天使の図像については、以前にも何度か書いたことがあります。

私自身は、ブログの内容をほとんど覚えていないので(笑)、いつどのブログであったかは定かではないですが、比較的新しいもので、天使の現れるカードを具体的に指摘して、その違いや共通点などを書いた記憶が一応(苦笑)あります。

気になる人は、過去ブログを読んでみてください。

ああ、そう言えば、この前、生徒さんにも言われたのですが、私のブログ、どうやら2000記事にもなっているようで、何か特定の記事を探すのは大変かもしれません。ブログ内検索ができるのならいいのですが・・・

それはともかく、今日の天使ネタはまた別の観点です。実は、天使の図像だけに関わらず、ほかにも言えることが含まれます。

ところで、タロットにおける(に描かれている)図像・象徴(シンボル)と、同じシンボル図像であっても、一般的に言われているものや、国とか地域、はたまた歴史によってなど、その意味とか解釈が違っている場合もあります。

いや、細かいことを言えば、すべて異なっていると言ってもいいくらいです。

ただ、やはり根本的なことと言いますか、そのシンボルが表す元型的な意味合いは、どれも共通していると考えられます。

私のタロットの講義でも詳しく説明していますが、象徴・シンボルというものは、言葉にすると、すでに象徴・シンボルの大元から微妙にはずれていくことになり、つまり具体性を増せば増すほど、象徴からかけ離れた意味も出てくるということなのです。

例えば、マルセイユタロットの中に、「」の象徴・シンボル図があります。

皆さんは「蛇」と聞くと、何か邪悪なもの、怖いもの、悪魔の手先とか、凶兆のようなものとして、一般的には思われるかもしれません。

しかし、蛇皮などを財布に入れる人もいて、金運をよくするものとか、吉兆的なシンボルとして見る人もありますよね。

宗教や文化の違いによってもとらえ方は変わり、西洋のキリスト教観の蛇と、東洋の私たち日本人の思う蛇、中国やインドにおける蛇とかは、西洋とかなり異なるところもあるはずです。

このように、同じ象徴・シンボルと言っても、厳密に言えば別のものと言ってもよいことがあるのです。

マルセイユタロットはその名の通り、ヨーロッパ、フランス中心に作成されたタロットです。従って、象徴・シンボル図の基本が、西洋的なものの意味を成していることは、当然想像できることです。

このため、「天使」の図像も、ヨーロッパにおける「天使」の存在、意味合いを考えていく必要が、まずあるわけです。

そうすると、どうしても宗教的にはキリスト教からのものを想定しなければなりません。キリスト教が精神のバックボーンとしてあるのが西洋だからです。

ところが、マルセイユタロットは、深くには、キリスト教とは異なる思想が描かれてあり、それが秘伝的内容になっています。

ということで、「天使」ひとつとっても、表向き・一般的なその地域(タロットが作られ、流布した地域)における象徴の意味、文化的背景と、図像に隠された、裏の意味を知ることが同時に必要となってきます。

このあたりはまさに象徴学といってもいい分野になってきますので、それゆえ、マルセイユタロットを理解し、使いこなすには、それなりの知識的学習がいるのです。

もちろん、タロットは感性やインスピレーションによっても使うことが可能です。

ですから、何も知識的アプローチしか理解の道がないと言っているのではありません。

いわゆる私たちの思う「知識」というレベルも、高度の感性を支えるものに過ぎず、本当の理解は日本語の智慧に相当すると考えられ、それは、感性的なもの統合した高度の知識・理解と言えましょう。

さて、そうした感性的(この場合は少し低次になりますが)にタロットの図像・シンボルを見た場合で、「天使」をどうとらえるか、です。

感性的なものは、言わば自分が感じ、思う、イメージの世界からの情報ですので、言葉としての知識的なものからの意味合いとは異なってくることが多いです。

その分、個人や個に沿った意味になることがあり、言い方を変えれば、その人の天使のイメージとかリアリティの度合いによって変わってくるものです。平たく言えば、その人の思う(考える)天使のイメージが出ると言ってもいいです。

この場合、天使を実在的にとらえる人と、非実在性として見る人との大きな違いがあります。

前者は、実際に天使の存在をリアルに認めている人で、天使の存在をエネルギーや映像のように、見たり感じたりできている人と言えましょう。

いわゆる「スピリチュアル系」の人たちで、例えばチャネラーの方とか、西洋的なエネルギーヒーリングをしている方、西洋系の神的存在のサポートを受けたり、縁があったりする人たちに、このようなタイプはいらっしゃいます。

後者は前者と比べると一般的と言え、天使がいるかどうかというよりも、天使というのを象徴的にとらえて、現実におけるサポート的存在だと見るような人になってきます。

前者の人たちにとって、タロットの天使図像は、そのまま文字通りの天使を意味することがあり、天使の描かれているカードへのリアリティ、インパクトも違ってくるでしょう。まさに、(あなたが実際に感じている)天使からのメッセージだと解釈してもよいのです。

一方、後者の人たちには、天使はサポートや癒し、愛などの、あくまで”象徴や比喩”であるので、それに関連する、現実の人間や事柄を表す場合もあれば、自分に向ける内的な状態や、外(他者)への態度などを示すこともあるでしょう。

天使の図像が具体的に描かれている単体の大アルカナカードは、「恋人」「節制」「審判」「世界」ですが、「節制」を除き、天使単独では出ておらず、ほかの存在と一緒であり、しかも人であれ、動物であれ、結構多人数です。(逆に、「節制」の天使はそれだけほかとの違いが強調されていることになります)

このことから、天使のサポートは、縁によって運ばれるとか、多数や混沌の中でも必ず救いの天使がいる(天使が紛れ込んでいる)と見ることができ、それは天使の実在性を思う人にとっては、本当に天使存在であり、そうでない一般の者にとっては、あなたを助けてくれたり、癒してくれたりする人や物事ということになるかもしれません。

どちらの人にとっても共通的に見ることができるのは、天使的色彩とか使命を帯びた「縁(えにし)」が働いているという解釈です。

つまり、天使が実在していても実在していなくても、何らかの救済的な縁が連なり、あなたに救いがもたらされようとしているという見方です。

天使が見えていない人には、天使が背後に働いているものの、現実の救済的な出来事(目に見える形)としてそれが発生し、天使が見える人には、天使の意を受けた人や物事がやってきている(天使が動いてくれているのがわかる)という見方もできます。

また、あなた自身が天使になる(天使の意を受けた人となる)ということも言え、実際的には誰かの助けになる、癒しを行う、援助する、みたいな解釈もできます。

ある(マルセイユタロットに関係する)神話では、一人一人に天使がついていると言われます。

その導きによって、私たちの魂は真の霊的世界、天上世界へ帰還しようとしており、その際に、他者の天使(目覚めようとする人間も含め)とも協力し、いわゆる悪魔的な存在によって眠らされ、麻痺のような状態になっている人間を治癒し、覚醒させていく役割もあるとされます。

メルヘン的ではありますが、この意味合いは、実はとても深い象徴性があります。

タロットで天使のカードが出た時、皆さんの中の天使を感じてみるのもよいでしょう。


「勇気」のカード

タロットカードの勉強において、意味を覚える作業は、どうしても出てきます。

ただ、一枚のカードがひとつの意味(言葉)を成すのではなく、言葉・単語としては、多くのものを思い浮かべることができます。

それは、タロットの図像が象徴でできている(象徴という機能がある)ためです。

カードの意味を覚えるとしても、それはあくまで、そのカードの象徴(本当の意味)を理解するための導入に過ぎす、象徴を言語化するためのきっかけなのです。

それがわかっていないと、カード→意味の方向が逆になって、意味→カードとなり、その意味はそのカードでしか表せないという誤解・妄信に陥ります。

さて、今日は「勇気」という言葉と、タロットカードとの関係について考えたいと思います。

最初になぜ、カードの意味を覚える際の注意点について書いたのかと言えば、この「勇気」という言葉・意味においても、あるカード一枚がそれを表すだけではなく、ほかのカードにおいても「勇気」の意味を見出すことができるからなのです。

マルセイユタロット的に考えた場合、「勇気」の意味があるものとして想像できる代表のカードと言えば「」かもしれません。

「力」は、その絵柄の通り、女性がライオン(子ライオンではなく、ちゃんとたてがみのある雄の大人ライオンです)を抑えているように見え、それはかなり勇気のいることだと想像できます。

本当のところは、この「力」の女性は、別に必死の決意で勇気をもってライオンに対しているのではなく、ライオンを御せるほどの「フォース」を扱うことができるからなのですが、タロットは見た目からの意味合いもあるので、「勇気」を「力」から読み取ってもよいでしょう。(実は、深くには、別の意味で勇気だと考えられることもあるのですが、それは秘伝的なことに関係しますので、ここでは言いません)

しかし、何も「力」だけが「勇気」意味するとは限りません。

例えば、「戦車」や「13」、「神の家」とか、その他のカードでも、考えようによっては勇気の意味合いを取ることも可能です。「悪魔」でさえ、神に逆らうサタン的なことでは、勇気あるとも言えなくはないです。

究極的には、どのカードでもそれ「勇気」を見つけ出すことはできます。

とは言え、やはり、前進性、特にマルセイユタロットの場合は、カード人物の向いている方向性にも意味を持ちますので、どちらかと言えば、右向きのカードにそれを思うことができるでしょう。

となりますと、具体的には、「愚者」「女帝」「法皇」「力」「13」ということになるでしょうか。

ただ、さきほど述べたように、前進性を示すもので言えば、「戦車」も左向きとはいえ、馬車に乗って戦いに勝利している人物がいるので、例外的にあげられるかもしれません。

右向きのカード、上記5枚のうち、「女帝」と「法皇」は、ちょっと勇気をイメージしにくい対象かもしれません。

それでも、あえて、それぞれから勇気を取るとなりますと、「女帝」は創造性に関係することで、やはりクリエイトすることには、それまでの既成概念を打ち破り、斬新なアイデアを生み出し、提供するということでは、勇気が求められることがあると考えられます。

アイデアや発想を思いついても、それをすぐ引っ込めてしまうのではなく、新しいことを創造していくには、勇気をもって、それを提示していくことが必要だと言えそうです。

また「法皇」は、教育者も表しますが、教育していく人、何かを伝えていく人にとっては、これも時には権力とか体制、支配者に対して、一言持っておかないとならず、勇気をもって諫めたり、悪い方向性や後退的に向かう状況の場合、勇気をふるって、それを打破する教え、伝達をしていくことが重要となるでしょう。

「力」はすでに述べた通り、一番「勇気」を象徴しそうなカードですし、「愚者」と「13」も、その姿勢を見れば、次に移行し、従来の世界から新規な世界へと新たに歩みを進めている状態が見て取れ、そこには勇気というものが後押ししている、あるいは、勇気ある態度でないと次へ行けないと思うこともできます。

改革など、古いものや固定してしまったものを破壊して、新しくするための勇気もありますが、一方では、大事な人やものを守ったり、正しいと思うことを主張したりするような保守的な勇気もあります。

その場合、女性的なカードや、動きの少ないカード、右向きのカードたちが現れ、先述した改革的な前進性のあるカードたちと一緒に出ることで、保守的な勇気というものを意味させることもあるでしょう。

それから、「愚者」のカードと関係しますが、無謀さと勇気はまた別だということです。

「愚者」は、ある意味、勇気があるから「愚者」でいられるとも考えられますが、本来的には名前のように、愚か者に見えるような、意外性と言いますか、普通の常識人からすれば異質性がある人物です。

もし「愚者」が問題性として現れれば、それは勇気ではなく、無謀ということが示唆されてくるでしょう。

「愚者」本人は、実は勇気とか無謀とかなど意識せず、ただしたいことをするみたいな、何ものにも束縛や規定のされない人、あるいはそういうエネルギーを示すのですが、「愚者」を見る人物、「愚者」と関係する側の者たちからすれば、「愚者」が無謀に見えたり、勇気ある人物とみなされることになるのです。

つまりは、意味付けているのは、見ているこちら側、(この見ている側とは、一般的客観的視点という意味と、カードを実際に見ているタロットリーダーとかクライアントという意味のいくつかの層があります)ということもあるのです。

このように、カードには、それ(カード)そのものの意味と、カードで表されるような人物や事柄と対する側の反応の意味みたいなものも含まれます。

こうした双方向の意味合いを意識することは、普通のタロット学習では少ないですが、高度になれば、そうしたことも考慮しておくと深い洞察がカードからできるようになります。

あと、ちょっと話は変わりますが、自分にとって勇気を出さねばならい時が、意外にわかりづらいことがありますよね。

または、勇気を出さねばならないと時とわかってはいても、なかなか踏み出せない場合もあります。

こういう時は、自分だけで考えていると、なかなか結論が出しにくく、勇気を出すタイミングが遅れたり、勇気を出さなくても本当はいいところで、出してしまったりということもあります。

要は、勇気への判断がつかみづらいわけです。

ですから、タロットの出番なのです。

タロットカードを引くことで、勇気を出す時なのかどうか、そして出しにくい時は、その要因は何か?(この分析には、小アルカナが特に役立ちます)ということがわかりやすくなります。

カードというツールがあるために、自だけではわかりつらいこと、目に見えない内的なことなど、カードによって外側に表現することができ、自己のことでも客観的に見たり、絵であることで具体的・視覚的にとらえたりすることが可能です。

「勇気」と一口に言っても、今見て来たように、カードで象徴化すれば、たくさんの種類があることがわかります。

同時に、勇気の度合いも、人によって異なります。

ある人にとっては、簡単で勇気がいらないことでも、別の人にとっては、大変勇気のいることもあるわけです。

こういう個別性に対しても、マルセイユタロットは応えて(答えて)くれ、あなたにとって、今勇気が必要なのか、そうではないのか、どんな種類の勇気がいるのかなど、示してくれるのです。

混沌としている今の時代、全体的にも、一人一人においても、勇気がより必要になってきたのではないかと思います。

あなた自身の勇気を、タロットカードとともに見つめ、発揮していくことで、あなたの自身の新しい世界を創造していくことができるのです。


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