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恋人と審判
昨日「恋人」カードの話が出ましたので、また「恋人」に関連した別のことを書きたいと思います。
ところでマルセイユタロットの大アルカナ22枚にはある原理に基づくデザインと構図が施されています。
それゆえに、一見無造作に描かれているように思えるタロットの絵柄も、よく見ると統一感があり、あるカード同士がとても似たようなデザインになっていることに気がつきます。
そうした意味では、「恋人」と構図がよく似たカードがあります。
それは「審判」のカードです。
「恋人」と「審判」は非常に似た構図になっていますが、もちろんそれには意味があります。
その原義的な意味についてはタロット講座にてお伝えしていますが、今回は別のことでの解釈です。
「恋人」カードと「審判」では何が違うのかと言っても、やはり上空に現れている天使と下の人間達の関係、さらにはその大きさでしょう。
「恋人」ではキュービットとして現れている天使が、「審判」ではかなり大きな大天使(厳密な意味での階級上の「大天使」ではなく、あくまで表現としてです)ともいえる存在になっています。
そして、下の人たちは「審判」では上空のその天使に、まるで祈っているかのように見えます。一方の「恋人」での人間たちは、直接「人」とコミュニケーションしています。
このことから私は「祈り」と「行動」ということを考えました。
自分あるいは人の問題についてタロットリーディングした時、この二枚(恋人・審判)のカードの出方によっては問題の解決方法も違ってくるということです。
つまり「審判」では祈りが示され、「恋人」では実際の(人間の世界での)行動が強調されていると見るのです。
人が問題状態にあるという時、祈って(思って)ばかりで行動しない人がいます。
逆に自分の精神・心・意識・あり方がしっかり定まらず、ただ動けばいいとがむしゃらにやっている人、もしくは人の情報や言葉に振り回されている人がいます。
「審判」と「恋人」はその両方のバランスを図るよう示唆を与えてくれるのです。実際にタロットの展開に登場して、わかりやすくあなたに見せてくれることがあるでしょう。
特に両方が出ている場合、どちらが問題でどちらが調整と回復につながるのか、あるいは時系列的に過去や現在などで、どちらの方が自分にとってよいのかなど教えてくれることになります。
もうひとつ言えば、この二枚が登場する時、両方に天使が描かれているわけですから、あなたの意識は高い次元(今よりも別の環境、意識、考え方、あり方、人付き合いなど)に向かうよう促されていると考えられます。
これは決して現実や実際をないがしろにしろというわけではなく、ともにカードには「人」も三人出ているのですから、いかに「人」との関わり、つまり実社会での生き方が大切なのかということも考えるべきなのです。
恋人カードが示す「効率」
タロットカードに「恋人」というカードがあります。
今日はこのカードから得られたメッセージをお話します。
しかしながら普通に思われている「恋人」カードの印象とは異なるものなので、違和感があるかもしれません。
それは何かといえば、「効率」に関することです。
効率といえばマルセイユタロットの大アルカナでは「節制」のカードなども想像されるところですが、今日は「恋人」カードからの観点で「効率」を考えます。
ところで「恋人」カード(あくまでマルセイユタロットでの話です)の絵柄には、三人の人物が話をしているように描かれています。
そこから話し合い、相談、そしてコミュニケーションというような意味合いが出てきます。
すばり言いますと、本日のポイントは「コミュニケーションによって物事の効率が変わる」ということになります。
人と円滑にコミュニケーションができたり、積極的に話しを行ったりすることで、物事の効率や進み具合が違ってくるのです。
例えば、何かわからないことがあれば当然自分でも調べてみるでしょうが、知っている人に聞いたほうが早いでしょう。
パートナーや友人が何か困っている、不機嫌になっているような時に「ああでもない、こうでもない」と想像するより、直接理由を本人に聞いてみたほうがはっきりすることもあります。
また聞くだけではなく、言うことも大切です。
自分は何がしたいのか、何に困っているのか、どんな気持ちなのか、どうしてほしいのかなどきちんと相手に伝えれば、相手は的確で早い応対をしてくれると思います。
言わなければ誤解されたり、誤った対応をされてしまうことがあるのです。
日本人は相手が察してくれると思っていたり、相手に聞くのは自分も人もわずらわしいことだと過剰な配慮をしてしまったりすることがあり、とかくコミュニケーションせずに単独で進めがちです。
その結果、かえって遠回りになったり、見当はずれだったりして物事の進行を遅らせる要因となります。
つまりコミュニケーションをあまりせず、独りよがりなのは非効率なのです。
実は私のやっているマルセイユタロットでのリーディングはコミュニケーションを重視したやり方となっています。
「黙って座ればピタリと当てる」というやり方ではなく、カードの展開と象徴から推測される事柄を相手の実際の情報と重ね合わせることで回答や示唆を導き出します。
カードだけから当てていくことも占いの方法としてはありでしょうが、それではかなり当てる能力が求められます。個人の特殊な力に依存される傾向も出ます。
誰でも効率よくタロットリーディングができるようにするには、相手(相談者・クライアント)からの情報を聞き出し、コミュニケートしていくほうがよいのです。
仕事や生活面を含めて効率を上げるのなら、話す(言う)こと・聞くことをもっと行い、その上で相手とのスムースに会話のできるコミュニケーション能力を磨くとよいでしょう。
単に効率が上がるだけではなく、あなたにとって有益な情報や縁も人とのコミュニケーションによって運ばれてくるのです。
そのことは「恋人」カードの天使が示しています。この天使の矢は一般的なキューピッドの矢(恋に落ちる選択)の意味だけではなく、効率をよくする「剣」の一種であり、情報も意味することがあるのです。
違いのわかる女と男
昨今、個性が大事とか、ブランディングを重視とかいろいろ言われているところですが、私たちは意外にも違いということに鈍感です。
というのは、最近はあまりに情報が多くなりすぎているため、処理としてもシンプルにしようという働きが自動的に起こっていると考えられるからです。
いわばたくさんの情報を入れないように遮断している、考えるのが面倒くさい、注目するのは少しだけにしておこう・・・というような感覚です。
これが言葉として出てくると、「どうせ何をやっても一緒だし」「どうせ同じでしょ」というようなものになってきます。
ところで思考やエネルギーの方向性として、全体や統合・統一に向かうものと、反対に分離・独立に向かうものとがあります。
言い換えれば集合的な意識と個性的な意識との方向性の違いであり、抽象と具体の区別でもあります。
この両者(方向性)は深いところでは結局は同じところに交互に戻るような循環性があるのですが、いずれにしろ、言ってみれば階段を降りたり登ったりする方向性があるということです。
実はタロットはこのふたつの方向性を意識し、活用するツールでもあります。
特にマルセイユタロットの、ある技法においてのリーディングは、カードの象徴の異質性と同質性を見ていくことに特徴があります。
最初に私たちは違いということには無頓着になる傾向にあると言いました。
違いや異質ということに関心がいかないと、没個性になるばかりか自分が埋もれてしまい、多くの中の自分でしかなく、空しさ、存在感の希薄化を招きます。
それが進むと、生きている意味がわからないといったような悩みになったり、ひどい時にはうつ状態にもなってしまったりします。
私たちが実際に生きているこの世界は夢・幻の世界ではなく、現実の世界です。そこは言わば形ある世界であり、形があることは区別や個性を呼びます。
人としては同じでも皆それぞれ個性があり、別々の「自分」として生きています。
異質性、事やモノの違いに気付く力が増していくと、それだけ現実世界への適応と自分の特質もわかってくることになり、生きるエネルギーと意味が湧いてきます。
その訓練としてもマルセイユタロットのリーディングがあるのです。
リーディングというものは人様のサポートや援助、占い情報の提供として他者に寄与するものと考えがちですが、そうではない側面も持ちます。
つまりは自分のためです。
異質性を見る力を養い、自分の個性を発見し、そして全体(人類・地球・宇宙など)へと再び統合的観点を進めていくのです。
いきなり地球市民を目指すより、自分が何人(なんぴと)であり、どの国と地域の出身であり、どのような背景と個性を持つのかを知ると、他の国の人々や個性をもった人への理解もしやすくなり、敬意も持てるようになるということに似ているかもしれません。
違いのわかる女性や男性になりましょう。
「法皇」の話す言葉とは。
「法皇」、通常のタロットの呼び名では「教皇」あるいは「法王」というタロットカードがあります。
このカードを見ていますと、伝える、話すということの大切さを感じます。(マルセイユタロットを元に語っています)
大アルカナを数の順番に並べていくと、「法皇」の次は「恋人」になります。すると法皇の視線は詳細に見ると、「恋人」カードの天使の部分に向いているように見えます。
前にも書いたかもしれませんが、「恋人」の天使を見るということは、「法皇」は天上世界(の存在)を見ているということになり、いわばこの世を超えた次元を視野に入れて「法皇」は話をしていることになります。
これは違う言い方をすれば、崇高な精神、自分の神性存在を意識して語っているとも表現できます。
つまりは高い見地と意識性をもって人に伝達していることになり、逆にいえば「恋人」に描かれている三人の人物たち(普通の人間たち)のような通常のレベルでは話をしていないということになります。
従って「法皇」から発せられる言葉には重みも伴い、また責任も自覚していると考えられるでしょう。
「法皇」は次代(の人たち)を教育する人でもあります。何かを伝え、教えていく人は理想としてはこうあるべきだということを「法皇」は語っているかのようです。
また詳細はふれませんが、「法皇」は連綿と続く時代性、伝統性、蓄積、経験なども象徴します。
自分が高い意識でいるから言葉にも重みがあると言いましたが、それと同時にこれまで自分が、あるいは先人たちが積み上げてきた経験・体験・知識・伝統等の重みも有しているのです。
その両方の重みがまさに言葉に乗り(ノル、宣る)、ある意味、霊的な力さえ発すると言えるのです。言霊(ことだま)と言っていいかもしれません。
「法皇」は日本では天皇(の役割)と関係する部分もあります。「法皇」の言葉は、時に天皇の詔(みことのり)のようなパワーと強制力を持つ場合もあります。
一般的に見たとしても、何かを伝える(教える、話す)言葉や話に重みのあるなしがあるとすれば、それは言葉を発する人の意識、真摯な思い、そして知識や経験による蓄積、その人の背景(背負ってきた歴史のようなもの)によって決まると言ってもよいでしょう。
反対に言えば、重みのある、あるいは説得力を持つ言葉を発するには、それらのことが必要であると言うことでもあるのです。
世の中に絶対はない。
世の中には絶対ということはないと私は思っています。
あるとすれば宇宙の真理のようなものかもしれません。
しかしながら私たちは意外と絶対という言葉を使いたがります。
でもよく考えてみれば、ポジティブな意味にしろネガティブなことにしろ、「絶対」という言葉を使う場合や人のことを思うと、実は怪しいことだと気付くはずです。
「絶対大丈夫だから!」「絶対うまく行くよ」「絶対災難に遭います」「絶対失敗するね」・・・
こう言われたらどうですか?
何かうさんくさく感じたり、腹が立ったりするでしょう。
でもこれが現実の生活の中において使われると、素直に信じてしまったり、疑いを持つことがなかったりします。
やはりそれは雰囲気や状況に流されてのことが多いでしょう。つまりは言葉そのものよりも、気分や感情に左右されているわけですね。
ですから上記のように文字で表されると冷静に「おかしい」と判断できるのです。
ただ必ずしも「絶対」の言葉を使うことが悪いわけではありません。
極端にネガティブになっている人、落ち込んでいる人などには、励ます意味で、強調・勇気づけの言葉として、その響きから来るエールのような形で発することがありますし、それは時に効果的です。
私が本当に言いたいのは、実は言葉の問題ではなく、絶対と決めつける心理状態の危うさについてです。
絶対ということは逆にいえばそれ以外あり得ないと考えることであり、もしそれ以外のことが起こったとき、いろいろな意味でショックが訪れます。
人であれ事柄であれ、絶対と信じていたものが崩壊するわけですから、いわば自分のアイデンティティを失うかのごとくの状態になります。
人は自分の存在の意義が失われた時、自分に存在価値がないと思った時、生きる希望を失います。最悪の時は死の衝動に駆られます。
ですから絶対と思うことはとても危険なのです。また学びの意味でも、「これで絶対だ」と信じた時から成長は止まります。
ほかにも絶対ということを言わないことでのよい意味があります。
それは自分の人生が「これで絶対である」と思うことがなくなるということです。
絶対と考えない姿勢でいると、人生(以外のことでも)は変転するもの、生々流転なるものと一種の達観した境地になることができます。
悪いことがあっても過剰に落ち込まずに「またいいことがある」と思えますし、反対に良い状態であっても心を引き締め、謙虚になることができます。
タロットカードでいえば「運命の輪」であり、カード全体の道筋のようなものとも言えるかもしれません。
人様の相談をしていると、本当に絶対などありえないのだということを思い知らされますし、いろいろな意味で人間のすごさと可能性を感じます。
あなたの「今」も絶対ではない、固定されたものではないことを思うと、まだまだやれること、成長できる部分はあると考えられるでしょう。