ブログ

本当の自分に生きる。

私のところに来られるタロットの受講生の方は、ほとんど何らかの形で変化・変容の過渡期に来ている方たちばかりです。
自分でも気がついている方もいらっしゃいますが、そうでない方もいらっしゃいます。
それでもタロット講座で実際にタロット展開してリーディング練習しているうちに、皆さん気がついてくる場合が多いです。
講座に参加したということは、知らず知らず、自分の中の本当の自分のようなものが変化・成長を促そうと選択していたのかもしれません。
たまたまそのきっかけとしてタロット講座であったということでしょう。逆にいえば、このタロット講座は自分の変化をとらえる、見つめるのには適しているということでもあります。
そして、受講者の方たちを見ていますと、最近多いのは、「今の生活や仕事が何か違う」「どうも満足がいかない」「これでいいのだろうか・・・」「もっと自分に何かできることがあるのではないか」というような問いです。
これは深くには自分の魂の叫びのようなものが含まれています。そして最初にも述べたように、「本当の自分」を置き去りにしてきた、あるいは隠してきた場合に、その自分が存在を知らしめようとしているのだとも考えられます。
そうしたもう一人自分との融合がとれていない場合は、現状の不満足・違和感という形で次第に表面化してきます。
それが局面として現れると仕事であったり、生活であったりするのです。
いわば、カードでいえばテーマは「太陽」です。今の自分ともう一人の自分が融合・統合化される状態、これが「太陽」のカードの絵柄が示しています。
そして近年は特に、偽りの自分でいることが全体的に難しくなってきています。このあたりは次元上昇といわれるスピリチュアル的な意味もあるのかもしれません。
ここであえて「心」と「魂」という分類をするのなら、「心」はその都度変化していくもの「魂」は不変のものとたとえることができます。
今の自分で現れている部分は、心での自分が多く、これは一人(ひとつ)だけではありません。生きるためにはいろいろな自分を仮面・ペルソナのように付け替えていかなくてはならないこともあります。
しかしそれができるのもある意味、人間としての特技であり、特徴です。
しかしながら、それとは別に、やはり不変ともいえる何か核・コアな自分というものも存在しています。
その魂的な自分が何なのかはわかりづらくもありますが、具体的ではなくとも、こうしたい、こうありたいという自分と考えられるでしょう。
実をいうと、私はこれは「人の役に立ちたい、貢献したい」「世界・自然・宇宙に息づいている自分でありたい」というものが、ほとんどの人に当てはまるのではないかと思っています。
つまり、それが実感できれば魂やもう一人の自分は満足に至ると言ってもよいのです。
この観点から今の仕事、生活はどうなのかと考えてみるのです。
人の役に立っていることが実感できていない生活や仕事。
大きなものとつながっている、ともに息づいているとは思えない今の自分の状態。
こういうことであるならば、現在の自分はやはり何かバランスがおかしいのではないかと見るのもよいでしょう。
しかしだからといって、安易に生活や仕事を変えるというのも現実的には問題が大きいこともあります。
大切なのは、上記の「役に立っている実感」「全体と自分が調和していく実感」「今の」現実の生活や仕事の中から、どう導き出すことができるかを考え、実行することです。
その上で、やはり変えなくてはならない部分があるのなら、思い悩み続けるのではなく、行動として働きかけていくことです。
いきなりの大きな変革や行動は誰しも難しいものです。ですから、まさにできる範囲、できることから少しずつ改革・実践していくのです。
その積み重ねが必ず、自分の求めていた実感に至る道を示してくれるでしょう。いわば「太陽」になる自分の道です。
人生は長いようで短いのです。
もはや世間や親や配偶者・子供、これまでの常識に従う生き方を続けていく時代ではありません。今生は誰の人生でもなく、あなた自身の人生にほかならないのです。
自分のために生きること、これが実は家族やパートナー、周囲の人の幸せにもつながっていく時代になってきているのです。
とはいえ、つらいことから逃げるとか楽をするとか、わがままに生きていいというのではありません。
自分の魂に正直に生きていく」ということなのです。
これは実は厳しい部分(タロットカードでいうと「月」の葛藤)もあるのですが、それを超えるとまさに太陽のように輝いた自分になり、それが周囲の人を照らすことになるのです。


集中力を高めるには。

皆さんは物事に集中するには、どうしたらいいと思いますか?


実はタロットカードからその答えのいくつかの導き出すことがてきます。


集中を意味するカードは少なくありませんが、仮に私の判断でマルセイユ版で14の数を持つ「節制」というカードを挙げることにします。


なぜこのカードが集中を意味するのかは、簡単にいえば「節制」の天使の持つふたつの壺の扱いが集中力を要すると見られるからです。


そして、このカードの前の数を持つカードは「13」(名前を持たないカード)です。マルセイユ版の場合、13と「節制」を並べると向き合う関係になり、カモワン流などではペアやカップルとして扱われるカードです。


「13」は大きな鎌を持つ人物が描かれており、そこからそぎ落としや合理化というような事柄が浮かんできます。


さて、数としては14の前は13ですが、14の次はというと当然「15」です。


15の数を持つカードは「悪魔」です。


13と14が関連するなら、14と15、つまり「節制」と「悪魔」も何か関係しているのではと考えてみます。


「悪魔」も単体で集中性を意味する部分があるのですが、それとは別に、「節制」と一緒に考えると「集中」ということでは面白いことがわかります。


「悪魔」は楽しみや楽しむということを意味のひとつとして表しています。(「悪魔」カードに描かれている者たちは皆笑顔です、もちろんこれには深い意味がありますが、とりあえず「楽しんでいる」と取ることができます)


皆さんも、何か時間を忘れるほど集中したという経験を思い出してください。たぶんそれは楽しかったことが多かったのではないでしょうか?


楽しい講座であっという間だった、趣味やゲームに熱中して気がつくと時間がすごく経っていた、旅行やデート、家族とのふれあいで休日は楽しく、あっという間に終わった・・・などなど。


以上のことから、集中にはふたつの重要な要素があることがわかってきます。


ひとつは、余計なことをせず、シンプルに物事を絞るか整理することで集中力が生まれること。


そしてもうひとつは、楽しいもの、楽しくできるものが集中につながるということ。


です。


もちろん両方の条件が満たされていると、より強い集中力が発揮できるのでしょうが、片方だけでも十分だと思います。


そして集中が本当にできているこの時、時間は相対的なものとなり、ある意味時間を超越します。また時間を有効に使っているとも言えます。


これが裏で出てくる「節制」の意味でもあります。そう、実は「節制」は時間とも大きく関係しているのです。そのことは、節制のカードの名前(書き方)にも現れていることなのです。



「たとえるもの」としてのタロット

タロットは今までの自分の考え方や思いこみ、とらわれをはずしていくのには大変よい道具です。
それはひとつには、タロットの絵柄があらゆることを象徴しているので、自分の心や人の心、世の中や世界のことを改めて象徴的に「客観的に」ながめることができることが大きいと言えます。
実はこれは簡単にいえば、「たとえ」という方法の一種なのです。
人は何かを別の物事にたとえるという手法を実はよくやってるのですが、そのことの自覚や効果をあまり知りません。
たとえば・・・(と今私がやろうとしていることもまさに「たとえ」です)
喫茶店やレストランで人と会話をしている時、思わず事柄を説明しようとして、テーブルにおいてあった調味料のびん等を、人や物として見立てた経験はあるでしょう。
また自分の言葉から「言ってみれば・・・」「つまりは・・・」「それは○○でいうと、△△のことだよね」という表現が出たこともあるはずです。
タロットをこれを「絵柄のついたカード」でやっているのです。
「たとえる」ということは、そのこと自体をそのまま示すのではありません。あくまで「たとえ」ですから、本物の仮の形だとも言えます。
しかし、誰しもが直接同じことを見たり、聞いたり経験できるわけではありません。
あなたが経験したつらいこと楽しいことも含めて様々なことは、それ自体をまったく同じ時間と空間、舞台、人間、環境配置で他の人に経験させることは無理です。
厳密な意味で同じ経験もできませんから、あなたの感じたことを他人にまったく同じように理解させることも本来はできないものです。
ところがたとえ話だと、すべてが同じとは言いませんが、他人にもあなたの経験をある程度理解させることができます。
それは、あなたの経験(理解)と他人の経験(理解)に共通しているものがたとえ話にはあるからです。
人とは異なる経験や理解なのに、他人にもわかるのが「たとえ」なのです。
ここで大切なのは、共通しているものがあるということです。
たとえ話がお互いに成立するのは、たとえ話自体の「たとえ」がともに経験しているか、理解しているかが鍵となります。
「たとえばサーフィンでいえばですね・・・」とあなたが話したとしても、相手がサーフィンを知らなくてはたとえ話にはならないということです。
ということは、誰しも理解している、あるいはわかっている、感じられるようなことがもっともたとえの道具としてはよいということになります。
つまり普遍的なものです。
そしてタロットはその普遍性を持つのです。
タロットは人間誰しもが持つ心のパターンや有り様といったものが表されているだけではなく、一番最初に記したように世界のあらゆる事象をも象徴しているのです。
ここにタロットが、「たとえ」としても優れていることがおわかりいただけたかと思います。


争いは「正義」にあります。

まじめに物事を考えてしまうタイプの人や、白黒はっきりさせたい傾向の人、知識欲が高い人などは、どうしても自分の正しさの証明をしようとむきになるところがあります。
人間関係においても、そういったタイプの人は、何かトラブルが起こった場合、たいていどちらが正しいかの争いになっていることがほとんどです。
結局は自分が間違っていないことを何かで得ることで、安心します。
たとえば、
議論や言い合いによって相手を言いくるめ、自分が正しいとする行為。
他人に判断を仰いで、どちらがか正しいかを求める行為。
書物や新たな知識・情報を得ようとして、正しさを証明する行為。
無理矢理自分で自分が正しいのだと「自分に」納得させる行為。
形式的に相手に謝り、相手よりへりくだるように見せて、「自分は相手より大人だ」として自分を当該争点とは別の意味で人として正しいとしてしまう行為。
人ではなく、神や宇宙・天などという大きな概念を持ち出して、自分も相手も正誤判断からはずしてしまうことにより、結果的に自分が間違っていないことにしてしまう行為。
ほかにもいろいろとありますが、いずれにしても結局のところ、自分の正しさを証(あか)して自分が壊れることを防ぐということではどれも一致します。
私はこれが悪いと言っているのではありません。むしろこうなるのが普通であり、それをしないと今の自分としては特に心が安定しないので、ある意味自分を守るための自動的防衛策と言えるのです。
ただ、改めてこうやって自分の正当証明の行為を見てみると、なかなか滑稽ですらあります。大切なのは、正しさ証明のあとでもいいので、客観的になる機会を持つということです。
正しいことを示すということは、それだけ分析力や証明力があるということでもあり、正義感や客観性ともつながっています。
ということは争いから起こる正しさ証明でも、そのこと自体(正しさを求める心)は自分の特性であるとも考えられますし、それだけの才能が与えられているとも言えます。
一度相手との正しさでの争いとなれば、徹底的に自分の正しさを示す思考・理論・見方を作り上げればよいことも出てくるのです。
別に口論や言い争いを勧めているのではありません。
ここで言いたいのは、あなたが弁護士や検察官のように、ある争点となっている事について、必死で自分や持論の正しさを証明するという努力をすれば、思いもしなかった新しいアイデアや考え方が生まれるというその可能性を述べているのです。
タロット的に象徴としていうと、「剣」で切り分けるところまで切って行けば、もうそれ以上切り分けられない何かが生まれ(あるいは「見え」)、そこに真理に近いような輝きが現れるということです。
言い換えれば、自分のために剣をふるうのではなく、物事の真理の理解のために剣をふるっていくということです。
最初は自分の正しさ証明のためであっても、それを「真剣」にやっていると、ある時、正しさの証明ではなく新しい考えが出てくる楽しさに気づくというものでしょうか。
でもそれは相手のとの争いというネガティブなものから始まっているのです。
ネガティブなものをネガティブなままで終わらせるのもありでしょうが、どうせならポジティブなものも見たいです。
それは自分の正しさにこだわる証明の仕方から、自分を超え、あるいは離れて正しさそのものの証明の方法を取っていくということになるでしょう。
逆説的ですが、それも「正義」にこだわることから始まるのです。


ひとつのルートの危険性

昨日は、人との差異や多様さの考察が重要だというお話をしました。
今日もその関連になります。
人は何か困ったことが生じた時、問題が起こった時にまずは自分で何とかしようとしますよね。
しかし、一人ではどうにもならない場合、知人や専門家、いろいろな方法に頼ろうとします。
それは当たり前の流れ・行為であり、いいも悪いもありません。
ところがこの流れに、狭い枠のようなもの、あるいはひとつのパイプラインのようなものだけしかないと設定すると、自分の問題の解決に支障が出てきます。
それはそうでしょう。ひとつのルートしかない、狭い枠でしか助ける方法がないというのなら、それだけ限られた救済策・解決策しかないことになるからです。
ちょっと想像してみてください。あなたがインターネットを使って何か調べごとをするとした場合、今ならたいてい検索エンジンを使うはずです。
その検索エンジンがひとつしかなく、しかも、ヒット数が極端に少ない、いつも同じパターンしか検索してこないとなれば、それしか情報がない(と思う)ことになります。
もちろん、あまりに検索数が少なく、有益な情報がないとなればそういうシステム自体が問題だとして、別の方法での探索を実行してくことでしょう。
ただその検索システムに絶対の信頼を寄せる心理的状態にあなたがなっていたとしたら、たとえヒット数が少なくても、または少し違和感を持つ情報が検索されたとしても、それを信じてしまうかもしれませんし、ほかを調べようとしなくなるかもしれません。
このことはマスメディアを通じた洗脳的操作の危惧を疑うもこともできるのですが、私が今回言いたいのはそういうことではありません。
この度強調したいことは、視野が狭くなることの危険性です。
ある事や人への絶対的な信頼特別なルートだけの依存、こうしたことは非常に危ういものをはらんでいます。
それは自分の見方・考え方が偏るだけではなく、そのルートを失った時に自分自身の崩壊や喪失につながるからです。
これは情報だけのことではありません。
感情の伴う人間関係についても言えることなのです。いや、むしろこちらの方が当てはまることかもしれません。
一人の人への絶対的な信頼や依存は、その人を失うことになった時、あるいはその人への信頼を疑わざるを得ないと自分が感じるようなことが起こった時、あなたのアイデンティティは一気に崩壊に向かう危険性があるのです。
それはあなたのアイデンティティ(この場合は自分が自分である証のような感覚)が、依存していた人に文字通り依拠していていた(その人が自分を作っていた)からです。
いわば大きな太い柱によって支えられていたのが、その柱を失うか、柱が折れてしまったかのような感覚と言ってもいいでしょう。ただし、その柱は自分で幻想的に太くしていた可能性もあります。
これは誰かを絶対的に信頼してはいけないということではありません。健全な愛に基づく信頼は強固なものです。
そうではなく、自分のアイデンティティがあやふやなままで絶対的な外側のものを作ってしまってはいけないということです。
自分というものを持って、外のものとは並立の関係でいるのが望ましいのです。
できればたくさんの人やモノへの興味、助け合いという心をもってカバーしあっていると楽でしょう。
そのためにこの世界は多様性に満ちているのです。
(タロットカードの「世界」も、ひとつには「多様さ」を意味します)


Top