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自分と人との違いの大きな意味
人間は強いようでいても弱く、もろいところがあり、また弱いようで見えても、とても強くたくましいところがあるようにも感じます。
一人の人間でも強い部分もあれば弱い部分もあります。またこの分野は強いけれどこちらの方面は弱いというところもありますよね。
ただ、いずれにしてもその基準は自分の中にあるようでいて(絶対的でいて)、その実、他人や世間との比較において強さ・弱さが感じられるということです。いわば、相対的なものとも言えます。
ということは、バラエティ(多様)さがあるから強弱がある(わかる)ということになります。
白黒をはじめ、色・カラーはそもそも明暗や色調・波長の違いがあるからこそ、たくさんあるように見えるのであって、何も違いがなければまさしく何も感じる(区別する)ことはできないでしょう。
ですから、強さ・弱さを感じることは悪いわけではなく、むしろこの世界にいる限りそのように感じるのが当然であると思うことです。
これをつきつめれば、ふたつの考えに行き着きます。
ひとつは差異があることを認めること、そしてもうひとつはその差異をどうとらえるのかという課題が与えられていること
というものです。
差異があること、違いを感じることはこの世界で当然ですから、まずはそれを自分は認めることが前提というか、この世界をスムースに生きるコツになってきます。
なぜならば、ゲームの世界でもそうですが、前提やルールを無視しようとすればゲームオーバーして離脱するか、ゲームを楽しむことができないからです。いわば抵抗すればするほど矛盾と苦しみを抱えることになります。
問題はその次です。差異を認めるのはわかったとしても、では、その差異をなくしていくことがテーマなのか、差異を広げていくことが大事なのかというテーゼ・アンチテーゼが起こります。
これがですね、私個人として思うのは、大どんでん返しと言いますか、逆説的と言いますか、差異を拡大することによって差異をなくすことにつながっていく、あるいは差異をなくすことをしていくと反対に差異も拡大していくということになるのだと考えています。
これは一言で説明するのは難しいのですが、タロットカード大アルカナの特定図式と解釈によって可能になります。
あえて簡単に言わせてもらえば、個性の拡大は全体の統合につながり、統合の意識は個性化にもつながるということですね。
まるで禅問答のようになってきましたが、結局は内的なものは外的なものと同一であり、人はそれぞれ小宇宙を持って個性となりますが、大宇宙の原理からすれば同じだというわけです。
自分と人との差異を意識すること、これが実は平和にもつながることを考えてみるとよいと思います。不思議に思うかもしれませんが、それが自他の救済にもなっていくと考えられるのです。
本当のタロット体験とは。
タロットを深く理解していくには、知識と実際の体験が必要です。
知識は学んでいけばいいので努力した分に素直に比例すると言えますが、体験のほうはどちらかといえば自分からというより、向こうからの訪れるかのような感覚的なものなので、力業(ちからわざ)でどうにかなるとは言い難いところがあります。
この体験とは、タロットがまさに自分の人生や生活、そして実体験・実際の世界とリンクしていることに、カード一枚でもいいから心の底から感じる体験のことを指しています。これが本当の「タロット体験」なのです。
しかし、そのような「体験をする」にも、やはり自分から求めていく努力もいるのです。
たとえば人をリーディングしていくことや、常に自分の経験をタロットで考えていく(あてはめていくこと)などがこれに当たります。
タロットを学び、ただ待っていればタロット体験が必ず訪れるというものではなく、自分の行動によってその機会やチャンスを広げていく意識が重要になります。タロットに対する真摯な姿勢とも言えましょう。
そうすれば、タロットの精霊がそのような体験をあなたに必ず用意してくれます。
いつそれが訪れるかは人によって違うのですが、実はタロットの知識・学習の量・期間・質にも関係してきます。だから感覚だけではなく、知識と行動も大切なのです。
何もこのことはタロットに限らず、ほかのどの分野でも言えることです。
何かのことを考え、実行していても壁にぶち当たり悩む時があります。アイデアも行き詰まり、解決の糸口さえ見つからない一種の膠着状態です。
そして、「もうだめかも・・・」「もう何も思い浮かばない・・・」というようなギリギリの状態になった時、突然インスピレーションがわいたり、思わぬところから援助の申し出があったり、突破口が開いたりするものです。
これはそれまでの努力があればこそ、いわば天がそれに応えたということでもあるでしょう。
言い方を変えれば、自分の必死の努力によって、天(通常の感覚を超えたもの)に至る道をその時つなげた(開いた)ということになります。
このあたりはタロットカードの「恋人」や「審判」、「吊るし」「13」「節制」などに描かれていることです。
とはいえ、なかなか自分一人でタロット体験を目指すのも大変なことです。
そこで、私は今までのタロットを教えてきた経験を活かし、秋から予定しているマルセイユタロット講座では、そのタロット体験をなるべく味わっていただくことを講座の中で企画しています。
一度コツをつかむと、あとは自分で経験を増やすことができます。その一種のモデルや原初体験を自分からつけていくことを指導しようと思っています。
そのほかの点でも大幅に講義内容には改良を加え、使えるタロット、感じるタロット、知識としてのタロット、行動(ビジネス)に活かせるタロットということを中心にして、マルセイユタロットをお伝えしていくことになります。この講座はどこにもない私のオリジナルなものです。
マルセイユタロットを深く知り、自分の体験と結びついてくるようになると、もうそのタロットは魂が吹き込まれたも同然となってきます。それはあなたにとって、本当にすばらしい生きた宝物となるのです。
カルチャーセンターの講座でもつながる縁
本日より、カルチャーセンター・よみうり神戸でのマルセイユタロット講座が始まりました。奇しくも七夕からの開始となりました。
今回の新講座の場合は少人数となりましたので、みっちり・ゆっくりのほとんどプライベート講義のようになります。受講生の皆さん、普段お伝えしないこともお話するかもしれませんので、期待していてくださいね。(^^)
同時に実践コースも本日よみうり神戸で始まりました。それに先立ち、京都新聞文化センターのほうでも先日、入門編を終えられた方たちが実践コースに進まれています。
神戸も京都も、入門編のほとんどの方が実践コースのほうへも継続して受講していただくことになりました。これは大変有り難く、うれしいことだと感謝しております。
まあ、私のタロット講座はちょっと変わっていますので、当初は気軽な気持ちで、まさに軽チャー(笑)として参加した人でも、講座が進むにつれて深淵なるヴェールの向こうをのぞいてしまうようなこととなり、ますます先が知りたくなるところもあるかもしれません。
時にはタロットから飛躍して、いろいろなことをお話しますので(今日の神戸の実践講座もそんな風でしたね(^^;))、タロットを学びに来るというより、いわばちょっとした講演を聴きに来られるというような感覚の人もいらっしゃいます。
私もお調子者なので(苦笑)、真剣に話を聞いていただけますと、余計にどんどんと秘密や知識も語りたくなるものです。私は根っからの教え好きのところがあります。
それに私は単にタロットのリーディング方法をお伝えするのではなく、その人個人の生き方や人生の質を向上させていくことを目指して、カルチャーといえどお一人お一人丹念に皆さんを見ているつもりです。
講座では、さっとタロットの解説をしているように見えますが、本当にお一人お一人の幸せと充実した人生を願い、タロットを通じながらさりげなく伝えているところです。
さて、こうした講座のよいところは、学びだけのことではありません。
何回かこのブログでも語ってきたように、人との交流、おつきあいがタロット学習を契機として始まるのです。
特に私の提供するタロット講座の内容は、自分や人を見つめていくこと、自分(と世界)の再統合というようなことをテーマにしておりますので、自分自身はもとより、自然と関心は人へと移ってきます。
それも一緒に学んでいる人の興味にも行くようになります。それは自分自身を開示していくことにもつながります。
一方、タロットを習うということは、ある意味一般の方からすれば特殊なことですので、時には学びにおいて孤独に陥ることもあります。
場合によっては人から変な風に思われる(苦笑)ようなこともあるかもしれません。
しかし、そんな時でも一緒に学んでいる仲間が存在し、その人たちと交流が深まれば、勇気百倍、学び自体がとても楽しいものになります。(タロットカードの「太陽」が示唆しています)
タロットにおいて、実は人は皆平等になります。老いも若きも、女性も男性も超越するのです。
タロットを学ぶと、だいたい世代を超えるつきあいが始まることは多いです。そこで新たな刺激をお互い受け合うことになります。
マルセイユタロットでつながる縁は本当に特別なものを感じます。もしかすると前世のようなものがあるとすれば、そうしたことと関係しているのかもしれません。
それらを総称して、私は趣きのある縁、趣縁と称しているのです。
タロットを学ぶもうひとつの大きな効果とは、この趣縁が得られるということなのです。
カルチャーセンターでもそうなのですから、本格的な基礎講座などでの効用は推して知るべしということになりますね。
新(真)ソウルカード
カモワン版のマルセイユタロットを使う人には、ソウルカードとパーソナルカードのことをを学んでいる人がいらっしゃると思います。
私の記事の中でもこの(ソウル・パーソナルカードの)話題は人気の高い記事のようですから、関心がある人も多いのでしょう。
しかしこれはカモワン流ではなく、タロットを数秘的に扱う方法であり、どのタロットでも通用するものです。
ですからフィリップ・カモワン氏ではなく、もともとはタロット大学(現・イシス学院)の大沼氏が教えられていたものです。
私も両者からタロットを学んだ者ですので、その影響を受け、ソウルとパーソナルのカードのことは研究してきました。
ただ、リーディングにおいてはカモワン流、つまりフィリップ・カモワン氏の流儀を以前は中心にしていましたので、あまり実際に使ってこなかった面もあります。
しかし、現在はオリジナルな道(講座・リーディングともに)を進んでいますので、再びソウルやパーソナルカードについて深く見ていくことをしております。
すると、どうもソウルカードという概念にやや疑念が出てきたのです。
ソウルカードは生年月日をひと桁の数、つまり単数化することによって求められるカードですが、そうなると1から9の数を持つカードがソウルカードということになります。
つまりカモワン版マルセイユタロットの読み方でいうと「手品師」から「隠者」、通常のタロットの呼び方だと「魔術師」から「隠者」の9枚のカードがソウルカードということになります。
ただウェイト版では「正義」と「力」が入れ替わっていますから、8の数を持つカードが変わることになります。
ここからしても、すでにタロットカードの種類が違えば解釈も異なってくることになります。
そこで私が抱いているソウルカードの疑念は、そもそも大アルカナは22枚で完全であり、そのうちの9枚が根源的な意味を持つのかどうかということなのです。
パーソナルカードの場合は22枚あるので、これは理にかなっていると考えられます。
しかしソウルカードは言ってみれば、9枚ですべてを象徴させるわけです。
確かにところどころ、その数の象徴(数の示す根源的な要素・エネルギー)と実際のひと桁の数を持つカードの意味とが符合する場合もあります。
しかし、そうとも言えないカードもあります。
とはいえ、マルセイユタロットにおいて、数は意味をなさないわけではなく、むしろとても重要な要素であり、カードの数がローマ数字でわざわざ表されているのも、ある数がそのカードの象徴において含まれていることを表すためだと考えられますので、当該数を持つカードがその数の象徴に関係することは確実だと想像できます。
ですからソウルカードは間違いとは言えないのです。
けれども大アルカナが22枚をもって全体性を象徴しているという考えに立てば、9つで表す方法には疑問が起こるものです。
「9」という数は東洋(気学)やエニアグラムの世界でも、根源的な数とみなされています。いわば「9」ですべてが象徴される考え方です。
その概念とは異なる数の概念がタロットには表されていると私は考えています。
ですからこのふたつが混同されると、ややこしくなるのです。従来のソウルカードにはその状態にあったと想像しています。
言ってみれば、いろいろと矛盾が生じるのです。その解消はどうすればよいのか?
その回答は、私なりにすでに見つかっています。
それを元に、再度ソウルカードというものを見ていくと、これまでの次元とは異なる「ソウル」(つまり魂)が見い出せるのです。
新(真)ソウルカードと言ってもいい方法です。(今後基礎講座で伝えて行きます)
数の持つエネルギー、象徴は数秘となって伝えられているように、やはり深いものがあると考えられます。
それは私たちの普段考えている「数字」とは別個のものです。
簡単にいえば、それも神(宇宙・大いなるもの)の表現のひとつと言っていいでしょう。
タロットを学んでいて疲れたら。。。
タロットを学習していくようになると、人によってはいろいろなことが起こってきます。
まず誰でも精神的な波の上下のような、気持ちの揺らぎが生じます。
舞い上がる高揚感のこともあれば、沈み込むような落ち込みの時もあります。
また急に感覚が研ぎ澄まされてきて、直感力が上がる場合もあれば、頭にもやがかかったような感じになることもあります。
時には頭痛がしたり、気分が悪くなることもあるかもしれませんし、反対にとても気持ちが解放されたすがすがしい気分、あるいは涙が出て止まらないというカタルシスに働くこともあります。
これにはいろいろな原因が考えられるのですが、やはり脳への刺激が起こるということが一番の要因のように思います。
タロットを学習するということは、各方面の膨大な知識(単純に覚える知識・文章の知識だけではありません)をダウンロードすることでもあります。
それも今まで常識で接してきた知識とは異なるものばかりなので、ある意味、大きなショックが起こります。
同時に、タロットは絵柄ですから、右脳を大いに活性化します。特に左脳的に生きてきた人、そういう環境や仕事にやむなくされてきた人は、やはり大変に脳へのインパクトを受けます。
もうひとつは、エネルギー・感覚的な問題です。
まれにですが、その学習しているタロット自体、自分には合わないという人もいます。
タロットには相性があり、深くいえば霊的な縁のようなものもあると考えられます。
自分の霊統(目に見えない霊的な、時代を超える縦につづく縁)に合わない時は、拒否感が出て気分が優れなかったり、覚えようとしてもなかなか覚えられなかったりすることがあります。
また魔女狩りのような時代の過去の記憶(あるかどうかは別として)が、タロットや秘儀を学ぶことへの抵抗となって現れることもあります。(現実のアクシデントとなって生じる場合もあります)
ただ実際は霊縁というより、カードの絵柄の持つエネルギー(色や形がありますから特有のエネルギー・波長を持ちます)が合わないという場合がほとんどだと思います。
さらに複数の人たちで学んでいるとすると、今まで常識的・固定的で決まった世界の人たちと交流していた人にとっては、年代や性別も様々な人たちがタロットを学びに来られますし、やはりどうしてもスピリチュアルな傾向や話になりますので、その違和感や衝撃も小さくはないと想像できます。
いずれにしても、タロットは左脳・右脳に刺激と衝撃を与え、それを統合化させていく働きがありますので、その作用が急激に働いた場合、あるいは刺激が強すぎた場合は、疲労感も大きなものがあります。
先述したエネルギー酔いのようなこともありますし、そもそもタロットを学んでいくことは自己開示や心を見つめていく作業でもありますので、それは終わればすがすがしいものとなりますが、途中では苦しくある場合も起こりえます。
言ってみれば、これまでの自分の破壊作業進行中なのですから、大変になっても当然なのです。
もちろんタロットを学ぶことにもいろいろな方法・アプローチがあり、楽しく占ってワクワクして帰るというものもあります。
タロットはゲームとして広まっているのがフランスでは特に一般的ですから、そもそもは楽しいところも多分にあります。
そういうタロットの使い方、受け入れ方もありますし、タロットの使い方は自由です。その幅の広さこそタロットとも言えます。
ただ、タロットはせっかくのすばらしいツールなのですから、自分自身や人の向上のために使うほうが価値が高いと言えます。
その過程では多少苦しいことはあっても、それを乗り越えていけば大きな恩恵と解放があなたを待っているのです。
一時的な楽しさを取るか、あとでもっと大きな楽しさを取るかの違いと言ってもいいかもしれません。
とはいえ、何事もあせりは禁物です。
安全に自分を変えていくためには、少しずつ薄皮をはぐように慎重を期する必要もあります。
疲れたら休む。これはどんな場合でも大切なことです。
新しい知識や考え方が自分のものになるには、一度壊して入れ直したものを再構築させる時間がいります。
パソコンでOSやソフトのバージョンアップがなされたら、再起動してプログラムを整理し直す時間が必要なのと同様です。
タロットを学んで疲れたら、それが起こっているのだとも承知して、あえてタロットにふれない時間、のんびりして違うものにふれる時間、精神世界より現実のことに目を向ける時間を持つとよいでしょう。
「13」の前には12の「吊る」しがあるのもそういう理由なのです。