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日常と非日常、そして違和感
前の記事では、マルセイユタロットのリーディングにおいて、細かな象徴図を拾い上げていくと、客観的な視点ができて、カード解釈の共通的理解や根拠として役立つことを述べました。
この時は、シンボルの共通性を発見することが鍵なわけでしたが、逆に、異質性を見ることも重要であることにふれました。
つまりは、展開の中で、明らかに目立つ何らかのことは、タロットからのメッセージ性が強いと見るわけです。
このことは、実は、タロットリーディングだけではなく、普段の生活、私たちの人生においても言えることかもしれません。
私たちの意識は、毎日繰り返される日常的な意識・通常的感覚と、特別な日とか、気合が入る時など、何か普段とは違う非日常的な意識になる瞬間(長く続く時もあります)があります。
非日常性は、文字通り、日常にあらずということで、民俗学的には、ハレ(非日常・特別)とケ(日常・普段)という区別がなされます。
ちなみにケの状態が続くとケガレとなり、そこにエネルギーを入れてケに戻す必要があるため、ハレの日があると言われます。いわば、ケ→ケガレ→ハレ→ケという循環・サイクルになっているわけです。
農耕生活を主体としていたかつての日本人は、農作業の普段生活の中で、季節の折々にふれて、稲作や畑作の重要な時期に祭り(祭祀)・儀式を行うことで、ハレの日を作り出していました。まあ、意識していたというより、習慣化していたと言ったほうがいいかもしれません。
しかし、私たち現代人の生活は、農作業が中心ではなくなりましたので、きちんとしたサイクル・リズムができないのが普通となりました。また季節とか自然の流れも無視して、昼も夜も、夏も冬も、服装とかは違っても、ほぼ同じように(特段の区別なく)毎日を過ごしています。
これでは、自然と乖離していくのも、そしてケガレ状態、あるいはハレ状態が日常的になるのも仕方ないのかもしれません。
ですから、今の人たちほど、昔よりも、意識的にサイクルを作り、日常と非日常、聖と俗などの時空を設定(区別)しておいたほうがいいと言えます。
パワースポットブームなど、神社・仏閣・聖地などを訪れる人が増えましたが、これも日常におけるエネルギーの消耗・枯渇、混乱が多くなっていて、そういうパワースポットに行くことで非日常性にふれ、リセットしたいという欲求が、ひとつには働いていると想像されます。
そして、タロットを扱うということは、非日常や聖なるものとつながる時間・空間を持つことを意味し、それをうまく使いこなすことで、乱れたリズム・サイクルを整わせることができます。
ただ逆に、タロットばかりの時空に行き過ぎると、逃避的・厭世的な感じにもなって、非現実的な感覚が強まりますので、それはそれで注意が必要です。
さて、こういったこととは別に、日常性と非日常性とで重要なのは、普段の生活の中で突如出現する異質性です。
言い換えれば、それはシンクロニシティ体験であったり、何か言葉では表しにくい違和感のようなものとして現れます。
シンクロニシティの場合は、偶然であるのに必然のように感じる出来事で、明らかに意味があるように思える繰り返しとか、タイミングの良さでの現象と言えます。
どちらかと言えば、関係性があることが連鎖するみたいな、共通的な事柄が意味あるかのように繰り返されることが多いかもしれません。
それとは別に、どこか違和感を自分は覚える、いつもと違う・・・というもので感じられる現象があります。
シンクロは比較的テーマとして取り上げられることも多いですが、違和感そのものについては、あまり言及されていません。しかし、違和感も、ひとつの非日常的なメッセージだと言え、意外に放置できない重要なものがあると考えられます。
「違和感」というように、「感」の字があるので、感覚的なものとしてとらえられることが多いでしょうが、思考・論理においてもそれはあり得ます。
感覚の場合、ハートや心というものもあれば、体そのものの違和感ということで感じるものもあるでしょう。
心理的にも、体の違和感は、たいていは心と結びついており、違和感の場所によって、ある程度、問題性のパターン(怒りとか不安とか恐怖とかを示すものと)も言われています。
そして、思考の違和感も大事で、つまりは、「この考えはおかしいんじゃない?」と思うような感覚です。
仕事とかビジネスにおいても、ある人から「この方法が正しい」とか「これでやると結果が出せる」と言われても、自分にとっては、そのやり方に違和感がある場合もあります。
また、人数的には多くの人が述べている(信じている)主張であっても、やはりおかしいのでは?と自分は思えるケースもあります。昨今の流行りの陰謀論など、そういう傾向があるかもしれません。
いずれにしろ、違和感を覚えたということは、オートマチックに働く日常性や、自身の安定・安心・共感とは異なる何かがあったことを意味します。
よいにしても悪いにしても、注意信号であるのは確かです。
違和感を放置しておくと、あとでとんだしっぺ返しと言いますか、その正体が大きな問題となって出現することがあります。大病になる前の警告だったのに、放置していたから入院・手術することになった・・・みたいなものです。
しかし逆に、違和感を気にし過ぎていたら、それこそ、ささいな違和感を拾い上げようとすれば、いくらでも出てくるのが人間ですから、神経症的・ノイローゼ状態にもなりかねません。
ですから、違和感を放置するのも問題ですが、違和感のパターンとか大きさを、自分なりに把握しておくことも重要かと思います。
違和感も、実は、当然ですが個人差があり、というより、ほぼ個人的なもの(感覚)なので、自分なりのコントロールが可能です。
違和感というメッセージの発信の、自分なりのパターンを観察し、理解するようにするということでしょうか。
やばい違和感(笑)と、そうでもない違和感、ネガティブな警告の意味の違和感、自分の意固地さ、柔軟性のなさを示す違和感など、いろいろと違和感(の意味)にも種類があるわけです。
大きく分けて二種類、このままでは危険だよ、おかしいよとホイッスルを鳴らすかのような違和感と、逆に、そのままでいいのかい? もっとできるはずだよとか、もっと勇気を出して、チャレンジしてとかの意味の応援的、創造的(それは旧の自分の破壊でもあります)な違和感があると考えられます。
どちらであるかは、最初はわかりにくいかもしれません。
違和感にもシンクロがありますから、それによって判断できる場合もあるでしょう。ただ、どちらにしても、そのままの自分では問題だということです。何か対処する必要があるのです。
それでも、違和感の意味がそもそもわかりにくい場合もあります。ですから、タロットようなものがあれば、それは理解の助けになります。
タロットの出方によって、それが自分を守るための違和感なのか、壊す(改革)のための違和感なのかが、比較的はっきりするでしょう。
個人的には、違和感は、意外にも天使の象徴図で表せるとも考えています。
例えば、タロットの天使の図像の出方がどうかを確認することによって、違和感の正体と対処法が見えてくるということです。
象徴というのは、このように、見えないものやわかりにくいものを、見えやすい形にしてくれるものなのです。
カードの中の細かな図像を考慮する読み
私が扱うマルセイユタロットにおいて、特にリーディングの際、カードに描かれている細かな象徴(図)に注目します。
一枚引きとか二枚引きのような少ない枚数では、意味をほぼ持ちませんが、たくさんのカードを引く展開法になってきますと、そのカードの図像に共通点とか異質点とかが出てきます。
また引いたカードたちにおいて、特別な配置に、それら(細かな図像)が出ていることに気付けることにもなります。
カモワン流の場合では、これを連繋カードとか例外の法則などと呼びますが、カモワン式ではなくても、似たようなことは、自然とマルセイユタロットリーダーの方ならばやっているかもしれません。
しかし、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットをはじめ、より精巧にできているマルセイユタロットのタイプとその復元版においては、タロットの図像の精密度・整合性も高く、非常に細部まで着目することで、他のカードの図像との比較によって、重要な意味を持たせることが可能になってきます。
タロットカードの一枚全体として意味で読んでいくものより、一枚の中にも細かな図像と象徴性があり、それに注目しながら、他のカードの中にある図像との共通点や異質点を見ていく手法は、やはり、リーディングの質にかなりの違いがあると言えます。
カード一枚で見ていく場合は、言ってみれば、そのカードの(全体的な)意味さえ知っていればリーディングはできます。
キーワードのようにカードの意味を覚えて、その単語をつなげていけば、出たカードから一応の意味合いとか、質問への答えも出てくるでしょう。
しかしながら、これは、タロットの意味を知っているタロットリーダー側が中心で、クライアント側からは、タロットの意味がわからない(クライアントがタロットを学習していない場合が普通ですから)ので、ただ出たカードの意味をタロットリーダーから告げられ、そのリーダー側の言葉を受け取るしか判断のしようがないものとなります。
まあ、カードが眼前に出ていますので、クライアントといえど、カードの絵柄を見ることで、何らかの印象とか意味をつかめる場合もあるかもしれません。
しかし、タロットを知らない(学んでない)クライアントの身では、あくまで印象(から勝手に浮かぶ意味に)しか過ぎません。
だから、ほぼ、タロットリーダー側の解釈で、タロットセッションが終始すると言ってもよいです。
けれども、一枚一枚、それぞれの細かな図像・象徴に注目して読んでいく手法を取る場合、まずカードが出ていること(引かれたこと)と、そのカードたちに描かれている図像が見えることは、クライアント側にも確認できます。
もちろん、タロットリーダーに指摘されなければ、タロットを知らないクライアント側には、細かな図像に注目することは難しいでしょうし、ましてや、その意味がわかるようなことはほとんどないでしょう。
当然ながら、その意味を知っていて、存在を指摘することができるのはタロットリーダー側です。
それで、ここが非常に重要なことなのですが、その指摘された細かな図像・象徴が、その時引かれたカードたち全体の中で、シンクロを起こしていたり(共通の図像が見られたり)、特別な位置に出ていたりすることで、クライアント側にも自分の目で、そのことを確認することができます。
つまり、引いたカードたちの中から、何かの「特別感」を、図像たちの配置・存在によってクライアントは客観的に知ることができるわけです。
意味よりも前に、明らかにそこにある、その位置に重なっている・・・など、カードの意味がわからなくても確認できるので、「その象徴図(図像)は、何か重要な意味があるのだな」とか、「偶然引いたカードたちだけれども、必然性をもって出ているかもしれないな」(つまりシンクロニシティが起こった)と、客観的に理解できるわけです。
それは実際に、カードの中と配置が目の前にあるので、「そこにある」という事実は否定しようのないことです。ゆえに客観的と言っているのです。
一方、カード全体の意味だけで解釈してクライアントに告げるようなリーディングだと、結局、一方的にタロットリーダー側がカードの解釈を話す形となります。
「占い」ならば、むしろそのほうが神秘性とかカリスマ性が出ていいかもしれませんが、クライアントに気づきをもたらせ、自らで納得し、能動的・創造的にクライアント自身が問題に対処していくことを期待するのなら、依存性の危険もある一方的でお告げ的なものは、あまり、よくないかもしれません。
タロットリーディングというものは、しょせん、リーダーの主観が中心ではあります。
それでも、出たカード(引いたカード)そのものという事実と、そのカードたちに中にある図像の一致とか、クライアント側から見ても明らかな特別な配置とかは、見た目の実際なのですから、リーダーの操作とかごまかしは利かないものと言えます。
それがクライアントにとっても疑いようのない事実として認められ、だからこそ、カードからの示唆を受け入れることができ、自分のことが現れていると実感することになるのです。
ただし、この手法は、タロットリーダー側には、かなりの学習が必要となります。それは一枚全体の意味とか解釈を覚えるだけではなく、一枚一枚の中の細かな図像・象徴性を学ばなくてはいけないからです。
しかも、細かな意味を知るだけではなく、そもそも、それら出たカードの中から図像を発見し、つなげていく鋭い観察力と、ストーリングの技術もいります。
図像はあくまで意味としては抽象的なものだったり、言葉として単純なものだったりしますが、その示す象徴性は深いものがあり、歴史・文化的なものとか、宗教や秘教的なものにふれておくことも、場合によっては必要となります。
細かな図像を発見し、その関係性を指摘して、クライアントにも目で確認してもらうことは客観性を持ち、クライアントに当事者意識と自覚性、さらにはタロットのシンクロニシティの力を多大に認識させるすごさを持つ一方、図像を指摘できるだけでは、タロットリーディングにはならず、やはり、リーダー側の技術と知識が、より重要となる高度な手法と言えます。
そして、この技術は、ほかのタロット種ではやりづらく、細かな図像・象徴が整合性をもって、精緻に描かれているマルセイユタロットのタイプでないと成立しにくいものです。
その分、使いこなせると、一般のタロットリーディングとはレベルの違う、非常に高度で論理的なものを見せます。
一枚全体の解釈だけで読んでいくものとでは、情報の量とその処理にかかる濃度が格段に違うからです。
コンピューターで言えば、CPUの精度の違いみたいなもので、タロットリーダー側が、言わば「クロック数」を上げないと追いつけない技術でもあるのです。
このような読み、リーディングをやってみたい方は、マルセイユタロットを学ばれるとよいでしょう。
タロットノートの作成
タロットを学ぶうえで、私は、タロットのノートを作ることを、講義でも推奨しています。
タロットは全部で78枚あるので、そのひとつひとつについてのノートを作ることができますが、最初は大アルカナだけでもよいでしょう。
大アルカナは22枚あるので、78枚の全体に比べると、枚数的にも半分に満たないものです。
ですから、単純に作業(量)的にも、それほど負担にはならないはずです。
ですが、「大」と名がつくように、特にマルセイユタロットの体系(システム)においては、大アルカナを理解することが小アルカナにもつながってくる(これは抽象的なことでなく、実際にそうなっています)ので、枚数的には22枚と少ないですが、質的には深いものがあります。
そうなると、実はノート作りにおいては、結果的には、量も多くなることが考えられます。
さて、ここでノートと言っていますが、具体的にはどんなものを用意すればよいのでしょうか?
ここで言うタロットノートとは、タロットカードに関することを記入していく帳面・データ票のようなものです。
今では、学習ノートにおいて、手書きをしていく人はあまりいない(学校ではまだ授業ノートはアナログ的手書きでしょうかね?)かもしれず、ワープロとか、スマホにメモするとか、デジタル記入が主体になっていそうです。
しかし、タロットノート作成においては、どちらかと言えば手書きノートをお勧めします。
というのも、体(指先)を動かすことも、タロットで言えば、四大元素(小アルカナの4組)のことと関係し、いろいろな意味(例えば、労力を実感することがタロットのようなものの作業工程には重要))で効果的だからです。
しかし、私もそうなのですが(苦笑)、書く字が汚い(読めない)と、あとから見返した時、自分でさえ読むことができなければ、ノートとして意味がありませんから、書く時は少なくとも自分が読めるようにしておいてくださいね。(笑)
意外に、思いついたことを忘れないようにと、急いで書いたような字は、得てして読みづらいものになっていることがありますから、注意です。
基本、手書きがお勧めではあるのですが、読みやすいとか、書いたものを整理しやすいということを重視するのなら、やはりデジタルに頼ったほうがいい場合もありますので、そのあたりはお任せで、ノートとして活用度が高いものになるのなら、書き方は自由です。
そしてここからが肝心ですが、ノートは一回とか一冊に留まらせないことです。
つまり、ノートは分冊化し、複数のノートを持つことか望ましいということです。
まず一冊目は、大アルカナの名前とか、基本的なカードの意味を記入することから始まるでしょう。これは、言わば、講師や本から学んだ(受け取った)内容をそのまま記入していくものです。
言ってみれば、基本事項を書いた備忘録に近いものです。
22枚、一通りの意味を書いたノートができれば、次に二冊目の別冊を用意し、これには、自らの気づきや、そのカードに関係する自分の事柄を記入していきます。
このノートは、タロットと自分を近づけるためのもので、一般的なタロットの知識・意味を、自分のものとして落とし込む、具体化(現実・リアルに感じていく)役割のものとなります。
こうすることで、タロットへの感じ方が身近なものになり、またリーディングにおいても、ただ単に意味をあてはめるものではなく、その人その時に応じた読み方ができる訓練の基礎にもなります。
これと同時進行でもよいですし、先に二冊目ができたあとでもいいのですが、今度は三冊目にチャレンジします。
三冊目は、より深い象徴の知識や気づきを書いていくことになります。
タロットを一通り学んだあとでも、タロットを活用していくにつれ、いろいろとほかから知識が新たに入ったり、講義で言われていなかった内容に気づいたりすることが出てきます。
それは自分のことと関係する個人レベルのものもあるのでずか、この三冊目では、特に普遍的でもっと大きな類の気づきになります。
例えるとすると、同じタロットを学んでいる仲間たちにも知らせることのできる内容で、つまりは、自分にもほかの人にも通じる気づきとか知識です。
もし将来、タロットティーチング(タロットを教えること)を目指すのなら、この三冊目はかなり重要なものになってきます。
そして四冊目にも挑戦してみましょう。
四冊目は、人によっては、三冊目とか二冊目の順番になる人もいるかもしれません。
これは、リーディング実践におけるデータを集めるものとなります。
いわば、読みの事例集みたいなものです。純粋なリーディングの事例集とちょっと違うのは、大アルカナ一枚一枚について書くものなので、展開とか複数枚の読み方を記すのとは異なることです。
もちろん、展開事例を一緒に書いても構いません。
このノートの目的は、リーディングに特化した場合に出てくる意味とか大アルカナの読み方を書き留めていくというものです。
ですから言葉としては、比較的具体的なものが出やすく、名詞であったり、動詞的なものとして書いていくことができるでしょう。
冊数を分けるのが面倒な場合は、工夫して、大アルカナそれぞれに、目的や内容の項目を分け、記入していくということも可能です。こういうやり方をする場合は、手書きより、移動やコピー、削除、項目分けなど自由にできるデジタルのほうが、あとでいろいろと整理しやすくいいかもしれません。
ここにあげたノートと分冊の種類は、あくまで例ですので、自分なりに作り方は自由にやってみてもいいかと思います。
しかし、気づいている人もいるかもしれませんが、紹介した種類分けは、受動・能動の(学習)スタイルをノートによって分冊していく流れになっており、学習というものが受けるだけではなく、能動的に行うことも意味しています。
バラバラな内容を一冊のみにただ書いていくよりも、区分けしたり、整理したりして、分冊化したほうが、タロットの理解や学びもやりやすいでしょう。
少なくも、タロットを深く理解したい、活用していきたいと思っている人は、基本の一冊だけでは足りないと思ってください。
もちろん、自然にノートなどに書かなくても、イメージと得た知識によって、いろいろなものが浮かんでくるようにはなるのですが、それもすぐ消えてしまったり、思い出せなかったりしますので、やはりノートに書いておくという作業は、有効だと思います。
ノートを作成することは、確かに面倒ではあるのですが、タロットが好きな人ならば、むしろ苦にはならないのではないかと思います。
義務的に仕方なくやるような場合は、タロットとよい関係にあるとは言えず、あなたはタロットを学ぶことよりも、タロットを学ぶ自分というものを課している(強制している)ような、何かの囚われがあるのかもしれません。
ちょっと面倒ではあっても、自然に心が動いたり、あるいはやっているうちに習慣化したり、楽しくなってきたりして、いつの間にかノートが出来上がってるみたいな感じがよいです。
ノートを作らなければタロットが学べないというわけでもありませんし、書くこと自体、向いていない方もいますので、何事も絶対視しないようにしてください。
現実を生きる術のひとつだと思いますが、自分に合ったやり方、ペースで何事も行うのがよいでしょう。誰かのやり方、一般的な方法が、必ずしもあなたに合っているとは限らないのです。
そして、やれなかったからと言って、自分を貶めたり、怠惰だと汚したりする必要もありません。生きるか死ぬかの大事ではなく、しょせんはタロット学習のことです。(笑)
この世(現実)は、個性見つけ、それに沿う生き方をすると楽になるようにできています。(全体を無視することではありません、全体の中で、自分という個人を自らが発見することであり、それが全体にも貢献する形に自然になります)
タロットの学びを、あなたなりの方法で、気楽に進めてみましょう。
タロット旅の思い出と意味
この時期(春に向かう時期)になりますと、思い出すことがあります。
それは、マルセイユタロット、厳密に言えば、フィリップ・カモワン氏のタロット(ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットにおける、カモワン流を基礎とするタロット技術と思想)を学習するために、フランスでのコースに参加したのがこの時期だったからです。
当時、日本でフィリップ・カモワン氏から直接学びを受けるコースは、タロット大学という機関が担当・開催しておりました。(ヨーロッパでカモワン氏が開講しているものを学ぶ方法もあったとは思いますが、海外在住とかで、通訳なしでもOKな語学堪能でないと難しかったでしょう)
カモワン氏から学ぶコース(タロット大学のタロット上級コース)は、結局、あまり長く続かず、開催された回数的にも多くはなかったので、今では幻のようなものかもしれません。
そういう意味では、ライブで、カモワン氏のリーディングを見て学べた者は数的にも少なく、貴重な機会だったかと思います。(ちなみに私の参加した時は、別で行われていたホドロフスキー氏のワークショップを見学することもできたという幸運でした)
そういう技術的な面においても貴重ではあったのですが、当時のタロット大学からのコースには、カモワン氏から学ぶ講義だけではなく、希望者のみでしたが、マルセイユタロットに関わる土地や場所をめぐる旅もついていました。
これがまた、非常に貴重だったのです。(簡単に海外旅行ができないコロナ禍の今では、もっと貴重さが出ている気もします)
このコースで学んだ方たちのうちの何人かが、のちに、同様の旅企画をされていました。
そのような同様の企画が行われたのも、タロットの学びにおいて、タロットが生まれた(育まれた場所)を訪問することが大事であることを、その方たちも、当時感じたからだと思います。
できれば、私もそのような旅をやってみたいと思うくらいです。
このブログでも、書きましたが、マルセイユタロットには、その歴史的背景や文化的背景を知っておくほうが、活用する意味でも、意味合いがかなり違ってきます。
タロットに向き合う感覚、覚悟の違いとでも言いましょうか。
その他でも、リーディングにおいても、支援される力、気づくエネルギーも異なってくると思います。(実は「見えない技術部分」としても、関係あると考えられます)
学びには、純粋な技術的側面と、それを支えるかのような精神性の両面があり、さらにそのふたつを統合するようなスピリット(霊性)があります。
逆から言いますと、霊性に至る(向上させる)には、見た目や理論だけではない、見えないところにもある精神性を実感・認識していくことが必要でもあるということです。
特にタロットのようなものは、見た目や論理の技術側面だけではなく、精神性、見えない部分が重要になってきます。
技術がただうまくなるだけでは、本当の意味て、タロットが上達したとは言えません。
例えば、カモワン氏のタロットを学ぶコースにおいても、カモワン的技法を学ぶだけならば、氏の講義部分のみに参加して帰国すれば目的は果たせたかもしれません。
しかし、一見、技術には関係ない旅に参加することで、得られる精神性の部分はとても大きなものがあったと言えます。
あの旅に参加したからこそ、見えない部分のもの、肌で感じるマルセイユタロットの生まれた背景の場所、蓄積、物語のポイントを押えることができ、まさにタロットの学びに“いのち”が宿ったような気がしたものです。
マルセイユタロットには、異端カタリ派に関係するものが流れていると伝えられていますが、私自身、このカタリ派の人々の思いを、実際に関係する都市・村を巡ったことで、知識だけではない、感情的・精神的部分を受け取った気がします。
ヨーロッパでは当たり前にある教会、城壁、石造り建築の数々・・・これらもタロットには登場し、深く関係があるものです。それも目の当たりにして、写真とか動画で見るのとは違う、体感をしました。
旅では、教会にかなり多く行きましたので、途中、教会酔い(苦笑)みたいな感じにもなりましたが、私だけではなく、ほかの人にも不思議なことも起こりましたし、日常的にキリスト教の精神と日常性、その裏に流れる古代からの思想・信仰・土着の精霊的なエネルギーなどを感じることもありました。
マルセイユでは、町の壁にタロットが描かれていることもありましたし、タロットが私たち日本人が思うものよりも、流通していたこと、使われていたことを実感させます。
思えば、このコース、旅に参加したからこそ、私のそれからの人生において、マルセイユタロットが中心となることが決定したようなものです。
前にも書きましたが、この時、私はタロット活動をしていくことに迷いとか疑問もあったのですが、ある事件と言いますか(起きたことはとても小さなことでしたが、自分にとっては大きなこと)、事柄が起こって、旅をする中で、次第にタロットと自分との関係が構築されていくのを感じました。
それは構築というより、回帰や思い出しのようなものだったかもしれません。
ところで、マグダラのマリアの伝説は、マルセイユ近郊には特にあるのですが、例えば、マグダラのマリアの頭骨(あくまで伝承であり、本物かはわかりません)が収められている教会、マグダラのマリアが最後に籠り、修行したといわれるサント・ボームの洞窟などにも訪れ、マルセイユタロットでは「星」の女神としても描かれる彼女の存在を、現地の風土で、信仰というより、エネルギー的な存在として、土地の精霊や人々の心にいるのがわかりました。
こういうものは、日本では、同じエネルギーを持ちつつも、仏教的なものとか、神道的な神々として、別の形象で表現されているものと思います。
言ってみれば、誰の心の中にも存在するものです。ですが、その土地土地で、形や表現が変わるわけです。
比較民俗学ではありませんが、そのように、ほかの土地、場所、文化のところに実際に行くことで、自分たちのものと比較することもでき、それによって、比較の中から浮上する本質な存在・エネルギーというものを認識することもできるのです。
訪問先で、「私はかつてここにいた」とか、前世的感覚になる人もいるかもしれませんが、それもひとつのストーリーとしてあってもよいかと思うのですが、大事なことは、そのよにうに感じる自分の特質と言えましょう。
前世で自分がいたのかどうか、そういう事実的・物質的なことよりも、精神的・霊的に同調する何かがあるということで、それが何なのかを思うことのほうだと感じます。
そこにずっと自分が継続してきた魂的な方向性とか、傾向があるかもしれないからです。
また、「愚者」のように旅をすることで、私たちはいろいろなものを目にし、感じます。
しかし、「愚者」が数を持たないように、旅人は、そこの住人でもなく、そこの場所そのものでもありません。
これと同じように、私たちは、何かに縁を感じたり、強く何かに惹かれたりして、自分はこうだとかか、自分はこういうもののために生きているとか思っても、その本質は旅人であり、(自分が思う)それそのものではないのです。
ですが、訪れるもの、感じるもの、惹かれるものが無意味なわけでもありません。
旅を彩り、楽しませるためには、興味を引くものがあったほうがいいわけです。
人生もいわば、旅と言えます。私たちは、肉体と個性を持ち、現実の人生を歩みます。
しかし、旅をしている中で、いつの間にか、旅先やそこて経験するもの自体に囚われ、それそのものだと錯覚してしまうことがあります。
それは、さきほども言ったように、旅を楽しむための装置であり、演出です。
ですから、何かに熱中したり、使命感をもったりすることは、旅(人生)を面白くするためには必要ではあるのですが、それがすべてで、自分をそれそのものだと思ってしまうと、囚われやこだわりになり、自由性を失います。
楽しむための演出だと見れば、人生も、もっと楽になるシーンも出てくるかもしれません。
私は、タロットのコースに参加することで、マルセイユタロットに関わる使命や運命のようなものを感じましたが(しかし、それも帰国してから、タロットを続けて行くことで、より培われたものです)、だからと言って、タロットで縛れていては元も子もないのです。
ほかの皆さんも、何かタロットとは別のものの学びとか技術習得で、思い切った旅をしたことがあるかもしれません。
きっとそれは深い思い出となって、心に刻まれていることでしょうし、中には、仕事や使命として、その学習し経験したことをもとに頑張っていらっしゃる方もいるでしょう。
人生には転機ということで、自分の生き方を大きく変えるタイミングがあります。タロットで言えば「運命の輪」の回転ですね。
ですが、「運命の輪」の動物たちのように、輪の中にいるものと、輪の上にいるものとでは視点が異なります。
輪の中にいる熱中性、当事者意識によって、まるで遊園地にいるかのように、エンターティメント的な要素も働き、また恐怖の乗り物のように怖かったり、つらかったりする時もあるでしょう。
しかし、その輪から出ている視点・存在では、それが演出であることに気づき、幸不幸の事件、どちらてあっても、それそのものではなく、舞台装置(演出・仕掛け)であることが理解できます。
こういった両者の視点で、自分に起こる人生の出来事を見て行けば、空しくなった時は充実性を補い、、やるべきことに疲れたような時、多忙で自分を見失いそうな時には、立ち止まって、客観的に見ることもできます。
人生には意味がなく、また意味があると、両方見ることができるのです。
その使い分けをしていくと、生きるのには楽になりますし、人にアドバイスもしやすくなるでしょう。
マルセイユタロット「手品師」について
マルセイユタロットに「手品師」というカードがあります。
一般的なほかのタロット名では、魔術師と呼ばれることが多いかもしれません。
ウェイト版のタロットでは、明らかに魔術をしているかのような絵柄なので、魔術師と呼ぶ方が適当かもしれません。(そもそも製作者のウェイト氏は魔法団体所属の人です)
マルセイユ版の「手品師」は、例えば、数年前に出版された、著名な映画監督でタロット研究・実践家でもあるアレハンドロ・ホドロフスキー氏の本「タロットの宇宙」では、このカードのことは「大道芸人」と訳されいます。
別にこのカードの人物は、ウェイト版のように、魔術をやっているわけではなく、まさに大道芸人のように、出店で手品という芸を披露しているように見えます。ですから、呼称するには、大道芸人でも、手品師でもよいわけです。
しかしながら、ただ大道芸をやっているだけの人物では、それこそ芸がありません。(笑)
見た目だけのものではない、口伝的内容が「手品師」の象徴性にはあるのです。
なにも「手品師」だけに留まらず、ほかのカードたちも同様であるのがマルセイユタロットの特徴です。つまりは見た目や見せかけの意味と、隠された意味とがあるということです。
この裏の意味を知らないと、カードをきちんと扱うことができません。もし表だけだと、それはタロットが普及した一番の意味であるカードゲームとしてか、カードの絵柄に芸術性がある場合に美術鑑賞用のものとしての意味(価値)しか見出せません。
何よりも、そのことを大アルカナの最初のナンバーを持つ「手品師」のカード自身が示しているのです。(大道芸人・手品師の絵柄と道具に隠された意味があること、それらの本当の意味を認識し、使いこないことが暗示されています)
さて、この「手品師」、さきほど述べたように、裏の隠された意味合いなどもあるわけですが、もちろん表・見た目だけからでも出る意味もあります。
この「手品師」は、手品をして観衆からお金をいただくことをしているので、彼にとっては「仕事」をしているとも言えます。
そこで、「仕事」ということが意味としても表されるわけなのですが、タロットは象徴であるので、「意味=カード」という図式が成立するわけではありません。カードから意味が出るのであって、意味をカードにあてはめるわけではないのです。
ですから、たとえ「仕事」という意味や言葉があったとしても、それは「手品師」だけの意味とは限らないのです。
タロット学習において、カードの意味を暗記する人もいますが(それは悪いわけではありませんが)、方向性(「カード→意味」であり、「意味→カード」ではないこと)を間違えないようにしないと、意味を覚えたのに、リーディングできないという事態に陥りますので、タロット学習において注意が必要です。
「手品師」は彼にとっての仕事をしていますが、大規模なビジネスをしているわけではありません。屋台をはって営業している大道芸人ですから、しょせんしれている規模です。
ですが、カードは成長性も示し、特に大アルカナの数が増えるごとに成長していくという考えがあります。そこからすると、「手品師」の彼は、「皇帝」とか「戦車」へと発展していく可能性も秘めているのです。
すると、やがて大きなビジネスに成長していくかもしれず、その可能性は「手品師」にあるかもしれません。
たとえば、今は彼は、道端で手品を披露しているだけの一人の芸人かもしれませんが、やがて経験と年を経て、手品師団体や組織を作り、会社みたいにして、多くの手品師・大道芸人を雇い、経営していくことも予想されます。
若い時だと体も無理がきき、また新しい芸を覚えて披露することも柔軟に、スピーディーにできますが、次第に年を取ってくると、そうもいかなくなってきます。
しかし、経験や知識は増え、直接、体や芸を資本として稼ぐより、違う方法(稼ぎ方)を思いつくようになるでしょう。
そうやってタロットを見ますと、「手品師」のカードの人物はわざと若い人物のように描かれているのがわかりますし、テーブル上の手品道具も種類があり、それらを扱うように用意されているのが見て取れます。
それと同時に、表情はちょと自信なさげでもあり、まだ経験不足のところも見受けられる感じです。
こうして、若さで仕事する特徴が、手品師には描かれているわけです。すると、タロットは見ようによっては、仕事やビジネス、あるいは人生そのものの流れ、成長、発展を、やはり(全体として)表しているのではないかと推測することができます。
「手品師」は、その若さもあり、好奇心旺盛な人とも言えます。新しい道具、ツール、技術にも関心が行き、それを使いこなそうとするでしょう。
現代においても、好奇心旺盛な人は新しいものに目が行き、それを採り入れよう、使ってみようという人が多いですし、そういう人は比較的成功する素養があると言えるかもしれません。
もちろん、なんでもかんでも目新しさに飛びついていては損をしたり、危険な目に遭ったりすることもあるでしょうが、やってみないことには始まらないということもあります。
「愚者」と「手品師」を合わせる(並ぶと)と、まさにベンチャービジネスとか、新しい仕事にチャレンジみたいな意味で見ることができます。
たとえサラリーマン・アルバイト的な人でも、新しい職場に行くとか、転職するとか、新規の気風が漂います。
古いことを守っていくことも大切ですが、仕事・ビジネスというのは、現実の状況(経済情勢・景気・情報等)に多分に関わって来る分野ですので、新しいもの、移り変わる世の中の情勢に関心をもっておくことが成功の鍵でもあるでしょう。
そして「手品師」が道端で実際に芸を披露しているように、現場、実際のフィールドに出ること、そこからの情報と経験を活かすことも示されているように思います。
「手品師」の次の数の「斎王」(一般的には女教皇)は、「手品師」と違い、本を手に取り、静かな環境で控え、勉強しているような雰囲気ですが、まず「手品師」というカードが出ていることは、学びばかりし、引きこもったりしていても始まらず、とにかく一通り覚えたらのなら、世間(実際)に飛び出し、やってみることが大事だと、タロットは言っているようです。
まあ、これは、タロット、特に大アルカナ中心に、数の順に物事や人物が成長、発展していくという前提で見た場合のことです。
これとは違う見方があり、それによれば、まず「手品師」になってみよう、「手品師」のように行動することが一番、というわけではなくなります。
人には得意不得意、向き不向き、言わば個性があり、「手品師」や「愚者」のような人もいれは、「斎王」や「隠者」のような、保守的で慎重な人もいます。
いわゆる経済的な成功分野は、現実としての経済(お金の世界)が重要で、それは数値で計れて、ある程度の成功法則があると言え、理論・良質な(あるいは斬新な)情報・アイデアとともに、実践・行動、そしてそこから得られた結果とその修正、再チャレンジというサイクルの、特にスピードと行動性が重要視されます。
しかし、人は経済や物質だけで生きる存在ではありません。
価値と目的が変われば、目指すもの、過程も変わってきます。
本質的には、どの分野であれ、実は同じ要素や順序、法則のようなものがあると考えられますが、目的・レベルによっては、入れ替えとか、ルート、表現が違ってくる場合もあります。
「手品師」が仕事をしているというのなら、現代的にいえば、仕事をして経済的糧を得て、人生のある程度の安定を得るか、さらなる(経済的)発展・成功を目指す人となるでしょうが、最初にも述べたように、「手品師」(その他のカードも含めて)には裏の意味もあるわけです。
それを見れば、「手品師」が行うこと、学ぶこと、主題は別にあると言えます。
それは実際の年齢とは関係なく、あなたが年を取っていたとしても、今から「手品師」としてスタートすることもできるのです。ここにおいては、若さの絵は完全に象徴化されます。
または、すでに「手品師」の意味すものをやっていたことに気付く段階があるかもしれません。
「手品師」は「1」という数を持ち、この数は、大アルカナにおいて、ほかに「11」の「力」、「21」の「世界」と続きます。それらのカードには共通した象徴・シンボルが描かれています。
またローマ数字においても象徴性があり、ローマ数字の1を持つ数も、関係します。
そのようなことで、あなたが、どのタイプの「手品師」になるのか、あるいは、どのタイプの「手品師」の学び・実践が必要とされ、自分の傾向としてある(合う)のか、それはまた、「手品師」のカードと会話することで現れてくるのです。すべてはカードの絵柄に描かれているのです。