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タロットリーディングの実行(実践)と戦術

私はサッカーが好きなので、時々サッカーの話題に親しむこともあります。


この前、スペインの有名なクラブチームのコーチが練習で大切なポイントを話していた記事に接しました。


それを読んでいると、「タロットの上達にも当てはまるよなぁ」と感じましたので、それをヒントに書かせていただきたいと思います。


そのサッカーコーチいわく、「多くの人は実行(ボール扱い・実践や試合そのもの)の練習を費やすが、大事なのは状況把握戦術を理解させることだ」と語っていたのです。


簡単に言えば、今自分が何をやっていて、どう動けば全体としていいのかという視点や見方を養えということでしょう。


もちろんサッカーではボールコントロールのための基礎技術は大切であり、そして実際に試合形式をやって試してみるということも重要でしょう。


ただそれが、意味もなく「ただがむしゃらに動いていれば自然に試合感覚が身に付いて、サッカーが上達し、いい選手になれるのだ」というものではないと言っているのです。


これをタロットで例えれば、一応の基礎リーディング技術を学び、「さあ、もう技術はあるから、あとは慣れだけだ」と、ただひたすらに実践の数をこなしていくというやり方に似ているでしょう。


いわゆる「100人斬り」とか「100人実践目標!」とか掲げ、ただ行動あるのみの場合です。


それは「戦術」を理解しないままの「実行」であり、あまり意味がないということになります。


一人で自己リーディングしていくのみならば、それでも構いません。サッカーでいえば、一人曲芸のようなもので、ただボールコントロールだけの技術を磨くというものです。


これは相手(人)がいないので、どうやろうと勝手ですし、やればやるほど技術も向上するでしょう。つまり、実行(数)した分に比例して技術が上がるという図式です。


しかしながら、タロットリーディングもサッカーも相手がいることであり、特にタロットは人をリーディングする場合は、「人の相談をしている」ということを念頭に置かねばならないのです。


サッカーコーチでいうところの戦術を理解しつつ、実行し、検証していく姿勢を持つ必要があると言えるでしょう。


つまりはタロット技術ではない、もうひとつの「相談」技術タロットリーディングとしての全体性を意識することが大事なのです。


読むことだけ、実践することだけを機械的にしてもあまり効果的ではないのですね。


それでも数をこなすこと自体が悪いわけではありません。


単純にたくさん実行していったとしても、慣れを獲得することができますので、緊張することなく、次第に自然体で人を相手してもリーディングできるようになります。


「何人、まず実践する」という目標を決めて、それを完遂すれば「数こなした」という達成感が得られ、そのこと自体に自信が持てます。(技術が向上する自信とは違うことに注意してください)


カンのいい人は、自然に戦術を会得していくこともあります。(天才型ですね)


だからこそ、逆に戦術的に実践をすることを最初に意識し、その上で数をこなしていけば効果は倍増することになるわけです。


そういった「戦術」を伝えているのが、私のアドバンス的なタロット講座、「発展コース」となります。(基礎講座でもお伝えしています) 


基礎講座を卒業して要望が多くなってくれば、大阪あたりで「発展コース」開講を考えております。


スピリチュアル系明暗

タロットをしている私が言うのも何ですが(^_^;)、少し前から始まった最近のいわゆる癒し系スピリチュアル系といわれるブームにも注意が必要だと感じます。


もちろん、何事にもよいと思える側面悪いと感じられる面両方常に(モノの見方として)存在するのですが、それだけにいいことばかりではないことにも配慮すべきです。


その前に、スピリチュアルブームでよいことというのを見てみましょう。


それはやはり唯物主義に固まることなく、精神や目に見えない部分での感覚・直観を大切し、モノと心の統合を図る視点を持つことができるという面でしょう。


言い換えれば現実・実際の二面性・両極の考察と観点の獲得です。


簡単に言えば、今までとは異なる考え方、裏の見方もできるようになるということです。


そうすれば、不条理だと感じていた現実の世界や不幸だと思っていたこれまでの自分が、実は違う見方では納得のいくものであり、世界は意外にバランスがとれているものだという、調和や必然性に気がつくようになってきます。


さらに過去を否定することなく、前向きに生きていく力とすることもできます。生き甲斐の新たな創造と言ってもいいかもしれません。


しかしながら、一方では、癒しやスピリチュアルといわれる世界では、心の解放が叫ばれ、自由や「自分のよいと思う感じ方」が過度に重視される傾向もあり、「自分が納得すれば何でもいいんだ」ということになりがちです。


言い換えれば、自分の心への絶対の信頼が求められ疑いや評価をなくすということに近くなってきます。


これは悪いわけではないとはいえ、本質的な魂や神性と呼ばれる人の持つ崇高な部分への信頼ならばよいのですが、「心」ともなれば意外に仮面であったり、エゴであったりすることもあるのが問題なのです。


そうすると、いつの間にか「の信頼」だと思っていたことが、それは単に「一部のへの盲信・盲従」であったり、誰かからの洗脳であったりしたという場合もあるのです。


言ってみればその時は、宗教と紙一重の差といいますか、限りなく近くなります


「自分の感覚を信じましょう」「直感に従いましょう」「宇宙や自然にゆだねましょう」というような非常に気持ちのいい言葉によって、実は私たちは考えること、疑いを持つことをやめさせられているおそれもあるのです。


支配層は非常に巧妙に私たちを操ります。


よいものと信じて疑わないスピリチュアル系の技術も、実は集金マシーンの都合の良い道具でしかないこともあるのです。


ただお金を奪われるだけならまだしも、心も洗脳させられ、操られるおそれもあります。


人を裁くことはよろしくはないと言えますが、だからといってすべて盲目的に受け入れ、感性のままに動き、批判がましいことは一切さしはさまないことがいいわけではありません。


霊的な世界に入るには、まずは「正義」のカードで象徴される観点を持つことが大切となってくるのです。


夏至に時間を考える。

今日は夏至でしたが、古来より、夏至と冬至といった季節の節目には霊的にも意味があると言われた時期でした。


タロットにも、そのことは絵柄で示されています。


ただ私たち現代人には、夏至がポイントだと言っても今ひとつ実感がわきません。


これは、時間をただ数直線(過去→現在→未来への流れ)で表現するようになってしまったための弊害が大きいように感じます。


ですから逆にいえば、時間を直線ではない形で表わせばよいということになります。


直線の対極にあるのはです。ということは時間を円で示せば、古代の人の感覚や、今とは別の観点を持つことができると言えます。


実は、わざわざこう書かなくても、私たち今の時代の人でも時間を円でとらえているものがあります。


たとえばアナログの時計。またたとえば四季のある年です。


ふたつとも「12」という単位をもとに、円で表現されているでしょう。


このように、円を「時間の図」だとあまり意識したことがないため、時間は過去・現在・未来に一直線で無機質に続いているものという感覚で私たちはいるのです。


改めて一年を円として図示してみてください。そうするといろいろなことに気がついてくると思います。


コツは円をひとつの図形として、内側も見ることです。円の内側には様々な形が現れるのです。


たとえば、対角線を引いてみる、十字線で結ぶなどすると、半円四角形が登場してきます。


では反対にある図形、たとえば三角形を円の中に見るにはどうすればよいかと考えると、あるグルーピング(集まり、同質のもの)も12の中には発生してきます。


12ヶ月もいいのですが、旧暦で使う二十四節気として、24のポイントをぐるっと円にあてはめて行くと、夏至の位置がまさに円の中の重要な場所となっているのがよくわかります。


もちろん夏至の対極としての反対側には冬至が来るようにもなります。


するとどのポイントであっても同じ円の中のひとつのポイントであり、結局は時間や時期というものは、循環する質の違いであるということがわかってくるのです。


これはあくまで一年を例にしましたが、もっと大きな単位やスパンでも円で表現することが可能です。


そうすると、時間は実は閉じており、私たちは繰り返しの中で生き、それを単に別の現象として見ているに過ぎないのではないかという気もしてきます。


ということは、時間にとらわれている限り、真の自由性はないともいえますし、逆に円の中で別個のものは何もなく、皆つながっているという意識にもなります。


タロットカードで時間をもっとも象徴するのは「運命の輪」です。奇しくもこのカードも、その名の通り輪(円)が描かれています。


世界の鍵穴を開ける

今まで常識だと思っていたこと、普通にセオリーとして疑いもなく使っていたこと、信じていた知識が、あることで根本的に崩れたとき、雪崩を打ったかのように次々と信念が瓦解していくことがあります。


しかし、この場合の信念は、実は幻想に近いもので、ただ正しいと自分が信じていた、あるいは疑っていなかった(気にもとめなかった)だけのものなのです。


この点、一般的な意味であまりよく思われていないタロットのカード、いわゆる凶札と呼ばれるものは、実はこうした自分の信念や価値観とつながっており、反対にそれが失われることの恐怖や不安、あるいは信ずることでの安定感や安心感とも関連することになります。


具体的にいえば、「13」(一般的には「死神」)、「悪魔」、「神の家」(一般的には「塔」)などのカードです。


私自身はタロットカードにはいいも悪いもなく、すべては中立・ニュートラルなものだと考えていますので、特定のカードに吉凶を判断することはしませんが、上記で挙げたようなカードが一般的にネガティブに意識されることが多いのは、もちろん絵柄からもありますが、自分の信念の崩壊や欺瞞につながってくるからだとも考えられます。


言ってみれば、「人として避けたいこと」「見たくない部分」なのです。


けれども、それを受け入れる、認識するようなことに進んでいくと、いかに自分が小さな存在であり、自分で自分を欺してきたかということがわかるようになってきます。


「小さな存在」だと書きましたが、人は本当は「神」であり、「完全」なので「大きな存在」です。


しかしいわゆるエゴのような別の自分が自分を小さく押し込めているのですね。


ですから正確には「小さい自分に気付いた」というより、「自分が狭い世界に住んでいたことを知った」ということになります。


ただ、この「狭い世界であった」ということを知るには、自分が一度狭い世界の中に入らねばなりません


入って出たからこそ、「狭かった」と感じるのです。


この、「狭い世界に入ること」が、まず何かを自分の信念として打ち立てるということでもあるでしょう。何かを信じて選択し、動き、それに応じた結果を出していくと言い換えてもいいです。


そして、その後に自分の信念を壊す新し価値に出会い、やがて狭い世界から出ることになるのです。


おそらく、人生はこの繰り返しだと思います。


何重にも張られた世界の枠を、その都度はずしていき、解放していくことに人生の面白みもあると考えられます。


枠を破る(開ける)鍵は自分だけが持っているのではなく、社会や他人からのものもあるでしょう。


自分の鍵穴が変化した時、その(鍵穴に適合する)鍵を持つ人(信念・価値観・事柄でもあります)が差し込んでくれるということです。


ということは、鍵穴を変化させる努力を、自分がしていかねばならないということでもあります。


何もせず、ただ漫然と過ごしていてはなかなか鍵は開かず、それこそ狭い世界に引きこもったままとなるでしょう。


それがたとえ本人にとっては心地よいことであったとしても、です。


4人の守護神

タロットには「世界」というカードがあります。


どのタロットでも比較的似たような絵柄や意味のあるカードですが、一応マルセイユタロットを基本としてイメージします。


このカードの特徴は真ん中の人物と周囲の4つの生き物という複数の存在と構図にあります。


それぞれがやはり象徴であり、そこから様々な意味を持ちますが、4対1、さらにいえば全部でという構造になることが鍵でもあります。


以前、4人の師匠・マスターを分野別に持てばよいというようなことを書きましたが、それはこの「世界」から得られたヒントです。


もちろん4人のマスターという現実「世界」での人間たちのことを示すこともあれば、人ではなく物事を示すこともあります。


さらに私が「世界」のカードから感じたのは、4人の高次のマスターや天使、ハイヤーセルフのような自分を導く存在もいるのではないかということです。


ハイヤーセルフは結局「セルフ」なので自己といえば自己であり、究極的には一人でしょう。


では4人というのはどういうことかといえば、つまりは4分野に分かれた存在(エネルギー)ということでもあります。


それが低次と高次にそれぞれ存在し、都合8人と見てもよいのです。


そして、自分にとって一番特徴的ともいえる分野、あるいはマスターがいます。


それが誰なのか、何なのかは自分の傾向や特徴を知ればわかってきます。


それは何も得意なことばかりではありません。自分か嫌っている部分や、出過ぎているのでバランスを崩している要素ということもあるのです。(それによってトラブルや問題を起こしているもの)


しかし、逆に言えば、やはりあなたの特徴・特質(天恵・天から与えられた才能)なのです。


私は瞑想を通じて、このことを実感として得ました。


自分にとっての大きな特質は4つのうちの一つかもしれませんが、実はこの4つはそれぞれ別個に存在しているものではなく、有機的に関連しあい、一つのものにすべてを含むという構造になっています。


ですから、ひとつの特徴が際立っていたとしても、その中にはほかの要素もあるのです。


異なるのは、中心となるもの(フィルター)があなたにとっては大きくいえば一つであり、それが特質になるということです。


「世界」の絵柄でいえば、たとえば「鷲から物事を見るフィルター」があなたの中心ならば、まずは鷲の穴を通し、次にほかの牡牛、獅子、天使という細部フィルターに通して見ていく傾向があるということになります。

それが前述したように「天から与えられた才」なので、平均化していくというよりも(もちろんバランスを取る視点は大切ですが)、あえて「選んで来ている」「わざと備えて来ている」ととれば、あなたの特質はあなた自身の選択であり、この世界に活かすためにあるのだと考えることもできます。

ということで、あなたのメインのフィルターがとれかを探すのは有意義なことだと考えられます。


余談ですが、この4つの生き物は「メルカバー」という天の乗り物とも関連し、それは「戦車」のカードにも象徴されます。


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