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タロットの「恋人」カードと自分
昨日は タロットは象徴的に解釈するというお話をしました。
今日もそれに関連しつつも、別の話をしたいと思います。
タロットカード(カモワン版マルセイユタロットを例にしています)の中に、「恋人」というカードがあります。一般的には「恋人たち」と複数名で呼ばれることの多いカードです。
これはマルセイユ版でも「恋人」カードの絵柄に、複数の人物が描かれているのでそう呼ばれても不思議はないものです。
そしてこの人物たちによって人間の恋愛模様が見えるので、「恋人」という恋愛に関連する名前がついています。
さらに、上空にはキューピッドも登場しているので、ますます恋愛に色濃く関係するように見えてきます。
ということで、「恋する」とか「愛する」とか(「恋愛」の文字を割ればそうなります)の意味も見い出されます。
「恋する」とか「愛する」といえば、その対象は人間と思いがちのうえに、「誰かに恋する」「誰かを愛する」というように、対象を「他人」にもしてしまいがちです。
そのように限定しまうと、昨日の話ではないですが、たちまちリーディングの限界を迎えてしまいます。
そうではなく、象徴なのですから、恋したり愛したりする範囲をもっと広げて考えてみるのです。
当然人間以外の動物や自然、さらには物や事柄(趣味とか好きなことにつながります)もあり得ると思えてきます。
さらに、もしかすると、その対象は「自分」だと考えてみることもできます。
対象が自分だと思うと、非常に興味深いことに気がつきます。
言葉として表現すると、「自分に恋する」「自分を愛する」となってくるわけですが、このふたつを聞いて、皆さんはどう感じるでしょうか。
私が思ったのは、自分に恋しているのは、まさしく「自惚れ(うぬぼれ)」ではないかということです。
自分に恋してポーとなっていると想像してみてください。いわゆるナルシスト状態と言ってもいいかもしれません。
そもそも「ナルシスト」の語源も、ギリシア神話の泉に映った自分の姿に酔いしれ、自分に恋をし、悲惨な末路を迎えたという美少年ナルキッソスの話に由来していると言われます。
これには彼がもともと美しいため、ニンフ妖精たちに慕われ、恋心を告げられても冷淡にあしらったから神の罰を受けたということもあるようです。
まさに自己愛というか、自己恋(じこれん)であったからこそ、ナルキッソスは身を滅ぼしたと言えるかもしれません。
言い方を換えれば自己中であり、自己中心というより自己中毒というほうがふさわしいでしょう。
結局自己恋は幻想を見ているようなもので、他人に異常に恋している時と同様、冷静さや本質的なものを欠いている状態だとも言えましょう。
それに対して、「自分を愛する」ということはまた別のように感じます。
これは自分のいいところも悪いところも含めて総合的に「愛する」ことで、自己の向上につながるものだと思います。
たとえば体に悪いものを、いくらおいしいから、安いからと言ってどんどん取り入れることは、自分に対しての愛情に欠けていることだと考えられ、つまりは自分を愛していないことにつながります。
これと同様、自分の気持ちのよいこと、楽なことばかりが自分にとっての「愛」の選択ではないこともあり得るのです。
「自分を愛する」ということは包み込むような母性的な愛だけではなく、父性的な、時には厳しい選択と経験もあるのです。
もしかすると、あなたの自分への愛は、実は自己愛ではなく、盲目の自己恋に近いかもしれません。
それを今一度自ら精査してみるのもよいことでしょう。
タロットカードの象徴的理解
タロットリーディングのひとつのコツは、カードを「象徴的に」理解することです。
「象徴」というのは、さまざまに思い浮かぶことができるので「象徴」なのです。
これが「なになには、これこれである」という決まった図式として固定して考えていると、とたんカードが読めなくなります。
たとえば「愚者」=「自由」と決めつけてしまうようなことです。
これは図式を反対にしてみるとよくわかります。
つまり、「自由」=「愚者」なのかと考えてみるのです。
確かに「愚者」は(マルセイユタロットで説明)、気楽に旅を続けているように見えるので、自由かもしれません。
ですから「自由」=「愚者」という図式をあてはめるのも間違いではありません。
では、「自由」という言葉で表現されることは必ず「愚者」のカードでなければならないのでしょうか?
そもそも一口に「自由」と言ってもそれはどんな状態がイメージできるでしょうか。
大きな意味での「自由」もあれば、経済的な自由、精神的な自由、運動における自由、政治や権利における自由など、さまざまに意味があります。
そう考えると、「自由」はほかのカードでも表されることが必然的に理解できるでしょう。
たとえカードの意味がわからなくても、イメージだけでも「太陽」や「世界」のカードを見ていると「自由」を感じることもあります。
「愚者」=「自由」ということをただ言葉だけで暗記しているから、実際のリーディング時に読めなかったり、問題が起きたりするのです。
そうではなく、「愚者」というカードが持っている根源的な何か(一言では表せないものです)、エネルギーのようなものをとらえることです。
それは心理学者のユング的に言うと、「元型」と呼ばれるものに近いです。
そうして見た場合、「愚者」のカードの中から「自由」という意味「も」出てくるということがわかります。
この「も」というのが大切で、当然象徴ですからほかのたくさんの意味も導き出されるのです。
言ってみれば、「愚者」→「自由」であり、決して「自由」→「愚者」ではないのです。
→の方向にベクトルがある場合は、究極的には「自由」→22枚の大アルカナと言ってもよいもので、状況や状態に応じて→の先のカードが22枚の中から限定されていくのです。
それからこれも肝心なことですが、「象徴」だから数多くのことが一枚(あるいは複数)のカードから思い起こすことができるわけですが、それはまったくの無規則で想像されたものではないということです。
そのカードだから想起されることがあるのです。
奥底にある根源的なもの(人類・世界・宇宙などと表現されるもの)との結びつきがあって登場するものであり、でたらめにイメージや意味が出てくるわけではないのです。
マルセイユタロットにはその結びつきの意味でも整然としており、でたらめや混乱が出にくいカードであると言えます。
それは象徴体系・シンボリズムとして極めて高度なシステムが内包されていると考えられるからです。
タロット講座後の学習と有料リーディングへの第一歩として。
今年以降、タロットを習われていた方が課程を修了されるという時期になってきました。
4月から始められているマルセイユタロット基礎講座の方々はもう少し課程がありますが、あと少しで修了されて行きます。(秋には基礎講座の装いを新たに、さらに進化したタロット講座を企画中です)
また今まで基礎講座を学ばれた方も、間が空いてしまい、リーディングやタロットとは疎遠になってしまったという人もいらっしゃるかもしれません。
これらの方々に共通するのは、いわばその後の学習の方法ということになるでしょう。
これは大きくわけて
●自分一人
●自分以外
での方法があります。
「自分でやる」ということは、日常生活においてタロットで物事を考えることを続けていくというのに尽きると思います。その方法は講座でお伝えしています。
もちろんこの中には自己リーディングということも含まれます。
では後者の「自分以外」とはどんなことかといえば、つまりは仲間や他人を交えてタロットを行うということです。
同じタロットを学んだ人たちと集まり、リーディングの実践会や勉強会をするというのがポピュラーでしょう。
また知人に対してや、イベントになどに出て、実際に「人の問いをリーディングしてみる」という経験を積むこともこれに当たります。
リーディングの会などは集めようとしても調整が難しい場合があったり、評価や指導をしてくれる人がいなかったりと問題もありますので、そんな時には私自身が企画したり、グループから招待を受けてたりしてもよいと思っています。どうぞ、お気軽にお問い合せください 。
そして、7月になりますが、基礎講座を終えた人で、イベントなどで他人をリーディングする第一歩を踏んでみたいと思っている方に対して、心構えや技術的なことをお伝えしていく講座を半日ですが行う計画を立てています。
もともとはお一人の方の個人指導ではあったのですが、その方のご希望もあり、一緒になってリーディング練習していただける方も含めて、同じような(他人有料リーディングの第一歩を踏み出したい)志を持つ人に対して機会を提供したいと思い、募集することにしました。
そのご案内です。
【有料タロットリーディング ファーストステップ講座】
●日時
7月20日(水) 13:00-16:00
●場所
兵庫県明石市内の会場 JR・山陽電車 明石駅徒歩すぐ
(お申込み者に詳細はお知らせいたします)
●料金
5,000円
●対象
宮岡のマルセイユタロット基礎講座、もしくはカルチャーセンターでの講座を修了された方(修了時期は問いません)
イベントなどで他人を有料でタロットリーディングを行うことを企画されている、いわばプロを目指す第一歩の方
●お申込み
明石市 はいわゆる「明石焼き」(地元では「玉子焼き 」)とか、新鮮な魚が名物となっています。(会場近くには魚の棚 と呼ばれる活魚中心の商店街があります) そして淡路島を対岸に控えて海が近く、風光明媚なところです。観光がてら、お越しいだたくのも面白いかと思います。
癒し系の仕事の集客で。
癒し系の仕事を始めた方で、集客がうまく行かないという方も少なくないと思います。
しかしこうした方は、皆さんかなり勉強されていて、技術も高く、その分お金も相当なものを投資されてきています。
そして思いも、「人様によくなってもらいたい」「幸せになってもらいたい」「楽になってほしい」「活き活きと輝いてほしい」という、いわばカモワン版マルセイユタロットでいうと、「天使界」の心になられています。
ところが、それほどのものをお持ちでも思うように営業や集客が叶わず、次第に心がタロットでいう「現実界」へと向いていきます。
そして物質やお金への関心が高まり、そこから自分の物質的なものへのブロックに気がついたり、改善したりしていく方もいるのですが、逆にまた精神世界へのほうへ過度に傾かれる方もいらっしゃいます。
さきほどのタロットのたとえでいえば、「天使界」や「天上界」と呼ばれるさらに上の次元へ、また自分(の心)を行かせようとする、あるいは固定しようとするような気持ちです。
これらのことは、奇しくも「天使界」のカードであり、ある転回段階を示す「運命の輪」で表されています。
精神を上昇志向に持って行く人は、輪の中の向かって右側、黄色い犬で表され、逆に物質志向の人は、輪の中のもう一匹の動物、肌色の猿で示されています。(カモワン版マルセイユタロットで解説)
犬は上昇しているようでいて実は輪に従って回転し、タロットの数でいうとひとつの前の「隠者」の方に向かうように見えます。
つまり、精神志向が行きすぎると隠れた修行者のような「隠者」傾向になってしまうということです。
隠者は文字通り「隠れて」いますから、たとえあなたの技術が優れていても誰も気がつきません。よって「現実界」で表される物質とは疎遠の生活になります。
端的に言えば、お客様も来ず、お金も入らないということになります。
いや、「私のやっていることはきっと本当に求める人には伝わるはず」「経験してもらったら、その良さは口コミで広まるはず」と考えているかもしれません。
しかし、これまたカモワンタロットの絵図・タロットマンダラを例に出しますが、「隠者」に出会うのは「愚者」であり、その「愚者」も、それまでのカードに象徴されることをすべて経てきた者だけが「隠者」に邂逅することができるようになるのです。
またタロットで口コミをもっとも象徴的に表すカードは「恋人」であり、それはやはり「人間界」に存在するのです。「天使界」の住人である「隠者」では口コミともまた無縁です。
高いレベルものを伝えたいと思っていても、それがわかる段階の人でないと、いきなり「隠者」である人(あなた)を見つけることはできません。
癒し系をされる人は考えてみてください。
あなたはいきなりあなたと同等、いやそれ以上の技術やレベルにある人を助けようとしているのですか?
そうではないでしょう。あなたと同等かそれ以上ならば、人はあなたに頼る理由がありません。
であるならば、あなたは「隠者」ではなく、地上に、現実に向かわないといけません。
技術や知識に自信がありながら、まったくお客様が来られないという人は、ひとえにあなた自身の現実性に問題があります。
「ここに私がいますよ」「あなたを救える、癒す技術や知識を持っていますよ」と現実の人に知ってもらわなければ、仮にあなたが「天使界」の心を持っていたとしても、まさに天使以上の存在しか直接的には気付いてくれないということなのです。
「待っていれば、誰かが自分をアピールしてくれる」という考え自体、誰かへの依存です。それは天使的な働きとはいえません。
「あんなくらいの技術や知識でやっているなんて!」と同業者とか他人を嫉妬する前に、自分自身を現実に置くことを考えてみましょう。
人生の効率
あなたのこれまでの人生の中で、ずっと続けているものが何かを調べてみると、意外なことがわかってきます。
続けているものと言っても、好きなものはむしろ当然です。
好きだから続けられるのは当たり前といえば、当たり前だからです。ですが、改めて振り返ると、「ああ、これは自分が好きだから続けているんだな」と気がつくこともあります。
たとえばはっきりしたものではなくても、「何となくおいしい店を探すことは続けているなぁ」とか、「旅行は毎回規模は違うけど行っているなあ」・・・というようなことはあるものです。
そこから自分の好きな表現のスタイルや自分が活き活きすることはどういうことをしている時なのかというものがわかることがあります。
何もおいしい店を見つけることを続けているからといって、単に食べ物や食欲に注目するのではなく、その背後にある意図を見つけることが重要です。
本当に自分は「おいしい物を食べることが好きで店を探している」のか、あるいは、そのおいしい物を出している店を誰かに知ってもらうという、「情報提供することが好き」なのかという違いです。
もし後者だとすれば、あなたはおいしいものではなく、「情報を知らせる」こと、「教える」ことが好きなのかもしれません。
だとすれば、おいしいものという事や食べ物とは関係ないかもしれないのです。たまたまそれが食べ物と結びついていただけの可能性もあります。
逆に、嫌だけれども続いてるもの、続けざるを得ななかったもの、実はこれも意味があるのだと考えてみてください。
たとえば、「家業を嗣ぐのは嫌だったけれど、家のために仕方なくやっている」「生活のためにこの仕事は本来やりたいことではないけれどやっている」「友人とのつきあいのために、やむなく続けている」ことなどなどです。
嫌だけれど続けざる得ないのは、そうさせる(させられている)意味があるのだと思いを馳せてみるのです。
そうすると自分が学ぶべきもの、あるいは自分が避けたほうがよいものもわかることがあります。
そういったことに真に気がついた時、あなたはもう嫌々それをやることはなくなり、むしろ積極的に取り組めるようになるかもしれませんし、時にはその仕事や今までやってきたことから離れる可能性も出てきます。
それどころか、あなたの生きる道、天職や使命といったものも見えてくるかもしれません。
そう考えると、人生は本当に大きな意味(宇宙や天の意図という視点から)ではとても効率のよいものと言えます。
もしあなたが効率が悪い、無駄な人生を送っていると思うのなら、何よりも悪くしている)のは自分自身(の無知)でしかないということにもなるのです。