ブログ

知ることの意味 タロットカードの学習から

物事は知ることで理解できます。


ただ、この「知る」ということには、ふたつの意味があると考えられます。


ひとつは文字通り、「知る」こと、つまり情報として入れるということです。


そしてもうひとつは、漢字で表せば「識る」ということになるでしょうか。言わば、心に「織り」込むかのように真の意味で理解することです。


これは別の表現を借りれば「腑に落ちる」というものが、日本人にとってはもっとも適切な表記かもしれません。


ですから「知識」とは本当はその両方で理解してこそのものと言えましょう。


実はタロット学習も同じなのです。


タロットも「知る」ということが初めとしては大切です。


まずタロットに出会う体験・縁があり、次にタロットをもっと知りたい、使いたいという欲求が生じます。


ここでタロットを学び始め、「」のほうは満たされていくのですが、ここではまだまだ不十分です。


今度はタロットを使って自分の中で「腑に落ちる」体験や経験が必要なのです。


これは具体的にはリーディングにおいての感動や、実生活でタロットと事柄が本当に結びついていることを実感することで得られます。


自分がクライアントの場合は、最初の段階、つまりタロットと縁ができる時に「腑に落ちる」体験をする人もいます。


そういう人はタロットとの出会いも衝撃的であり、カードでいえば「神の家」の体験をしたと言えるでしょう。一生涯、忘れることはないかもしれません。


ただ、それは「縁」での体感であり、いわば受け身のものです。


ここからタロットを「知」として学び、その上で今度は自分がリーダーとなったり、自分がタロットの「知」を仕入れた上で実生活に臨んだりする時、また新たな次元での「神の家」体験があります。


それは能動的なものと言えます。


その時の驚きと感動は非常に新鮮であり、心はうちふるえるでしょう。


そして、カードの番号のまま(「神の家」の次)に、あなたは「」のような宇宙や森羅万象の調和を感じて、自然に感謝する気持ちにもなるかもしれません。


もちろん「神の家」だけではなく、「恋人」や「13」の体験、「正義」や「節制」など、22枚大アルカナすべてを心で本当に感じることが起こってきます。


それも一回だけではなく、同じカードでレベルを違えて何度でも味わうことができるのです。


言ってみれば「宇宙の真理」を「心理」として「心」で理解しようとしているということかもしれません。


これは結局、自分の中にある様々な心を再体験・再発見し、統合して宇宙に還る(悟りのようなもの)ことの作業をしていると言えましょう。バラバラだったものをひとつにものに再構成しているのです。


そのために私たちは、「知る」ことと「識る」ということ両方を、人生で「知識」として入れなくてはならないのです。


自分と違うタイプの人とのつきあい

私自身もそういう傾向にありましたが、人によっては、少し石橋を叩いて渡るような慎重な気質の方がいますよね。


反面、タロットでいえば「愚者」タイプといえるような、もともと自由を好み、とにかく行動してみるという性質の人もいらっしゃいます。


何度もここで説明しているように、人にはあらゆる気質が潜在的に眠っていて、その時々に発現されていきます。


ただそれでも、生まれ持った性質や、育ってきた環境、社会からの影響などによって、ある気質に固定がちになります。


上記で挙げた2タイプの気質の人は、相互に魅力を感じ合い、友人やパートナーとして、相補の(相い補いあう)関係で無意識に選択している場合もあります。


また、タイプが違うため、双方にいらだちや時には怒りを感じることもあります。


慎重なタイプの人は、自由闊達に行動する人に対してあこがれを抱く反面、そうできない自分に苛立ちを感じ、自由過ぎるように見える相手に対して怒りや嫉妬を抱きます。


自由タイプの人は、「なんで動かないの?」「なぜ自由に生きないの?」と、やはり別のタイプの人に苛立ちや怒り、哀れみみたいなものを感じてしまうこともあるでしょう。


結局それは自分自身への感情であることが多いと言えます。


ただ、ここで大切なことは、別タイプの人とあなたは根源的に同じではあるのですが、まったく個人としては別でもあるという認識です。


自分と同じことを求めるのは、お酒が飲めない人に「お酒はおいしくて楽しいよ」とお酒を強要するようなもので、行きすぎた自分の押しつけは、相手にとっては苦痛でしかありません。


今、できないものはできないのです。


前にもお話ししましたが、上から目線で「あなたにもできるよ!」「あなたも私のようになれるよ!」と語っても、双方に大きな隔たりや気質の違いが際だっているのなら、その壁や段階はやはり長大であり、大きな重圧として相手にのしかかってきます。


最初は相手に対してあこがれで入っても、自分に益するところがない、自分とは違いすぎる、私のことは思ってくれない・・・というようなギャップを大きく感じてしまうと、とたんに手のひらを返したかのように、愛は憎しみにも変化してしまいます。


ではどうすればいいのかですが、つまるところ、自己認識、自己洞察につきると言えるでしょう。


他人と比べてその違いに嘆くのではなく、同じ人間だけれども、個性の表れ方が違うのだと思うことです。


私は私、人は人ということです。


これができるようになるのには、自分で自分を認めるしかないのです。


それが自己洞察、自己認識によって得られていくのです。


昨日も書いたように 、人と比べることは「自分にフィードバックして自分を知るために利用する」のだということですね。


そして人に何かを伝えていく人は、特に自分が自由タイプの方は、慎重タイプの人に対して暴言になっていないか、気をつける必要があると感じます。


ともすれば「あんただからできるんだよ」と思われがちになるのです。


皆さんは本来タロットカードでいえば「愚者」なのですが、これは逆説的になりますが、普通に生きている限りでは「愚者」ではないのです。

人は「愚者」になれない強烈な悩みと苦しみを奥底で抱えているとも言えます。


自由、つまり「愚者」に人一倍あこがれながら、社会の中で自分の中の「愚者」を押し込めてきた人というのが、実は私たち多くの者でもあるのです。(ゆえに普通の人から見れば「愚者」は愚者となります)


ですからタロットでいえば「太陽」、つまり同じ目線や段階に降りていく姿勢が大切だということになります。


あなたには楽々と飛び越えられる溝でも、その人には一級河川の大河のように見えていることもあるのだということを忘れないようにしたいものです。


最初に「人にはあらゆる気質が潜在的に眠っている」と書いたように、タイプや気質が違ってもわかりあえないわけではありません。


あなたにすべてがあるのなら、すべてを理解することも潜在的には可能だからです。


それでもそれには段階や距離・表現の違いがあり、それが個性でもあり、そしてそれぞれの個性を尊重しつつ、人との違いから逆に共通点と和合性を見い出し、自分をさらに全体へと統合していくことが求められていると言えましょう。


人と比べるということは・・・

人はどうしても他人と比べたがります


自分はあの人と比較して、「○○がうまく行っていない」「劣っている」あるいは逆に「優れている」「あの人より理解している」という感じです。


これはある意味、仕方のないところがあります。


自分一人だけの世界ではないのですから、これだけたくさんの人がいて、多くの生き方、表現の方法があれば比べざるを得ないのが人情です。


しかし、それを逆手にとって考えてみると、このことに対しても見方が変わってきます


人は誰かと自分を比べたがる傾向を持たされており、またそうし向けられていると取るのです。


ですから、そのまま欲求に従って「人と比べる」という行為をし、その受けた自分の感情のままにまた行動してしまうということを繰り返していると、これはただ反応に生きているだけであることがわかります。


そのようにオートマチックに動かされるのではなく、能動的にこの仕組み、からくりを考察してみるのです。


いわば、箱の外から客観視するような見方です。


そうすると、どうやら私たちは大勢の人に囲まれる世界で生きるように設定されており、それがために人と比べてしまうという気持ちも持たされているのではないかと推量されてきます。


結局、「人と比べる」ということ自体には何か意図と意味があるのではないかという思いに至ります。


それにより、例えば「競争心を煽る」ことなのか、「人との違いを自分が克服すべきため」にそう思うように仕組まれているのだろうかなど、これまでとは違った観点が出てくるでしょう。


よく考えてみれば、人と比べるということは、「自分から人」 そして、「人から自分へ」という図式が成立する行為です。


これを一連のベクトルの流れで書けば、「自分→人→自分」となり、フィードバックする方向性が自ずから設定されることに気がつかされます。


ということは、人と比べることは、「自分を観ることにつながる」ということですし、それがうながされるように「し向けられて」いるのかもしれないと考えられるのです。


ここから先は、皆さんご自身で確かめ、考えてみてください。


カモワン版マルセイユタロットをお持ちの方は、タロットマンダラにそのヒントがあると思って考察すれば大きな気づきが得られるかもしれません。 


自分の師を持つ

昨日と少し関連する話になるかもしれません。


昨日の話の中で、「社会は与え、与えられることによって成立している」ということを、タロットカードになぞられえて指摘したところです。


そうすると、以前にも書きましたが、自分がまだ未熟な部分や知識不足なところは、ほかの誰かから学べばいいということになります


教えを乞い、学びを受けるのです。


ここで私も含めて、男性にありがちなのが「妙なプライド」による抵抗です。


曲がったプライドとでも言いましょうか、そのために素直に学べない心が生じます。


男性は基本、全員「教えたがり」のところがあります。なぜならば、男性的エネルギーは流出突出、外に出すという性質だからです。


しかし、出すものがないと出せません。(本当はそうではないのですが)


それが知識であることが多いのですね。出せる知識があること、すなわちこれが男性自身を自覚できることであり、まさにプライドにつながるのです。


このことはマルセイユ版のタロットカード「神の家」を見ればよくわかります。


しかしながら、その変なプライドにこだわっていては、学びの機会を大幅に損していることになります。


一応男性を例にはしていますが、女性でも誰でも、またプライドとは関係なくても、知らなければ学ぶというスタイルは素直に取っていけばよいと思います。


そして、私がタロットの受講者さんにもお勧めしているのは、「師」「先生」を複数持つということです。


もちろん、「この人こそすべての私の理想であり、先生・師匠・メンター」だと思う方もいらっしゃるでしょう。いわば人生の総合的な師です。


ですが、なかなかそのような人にはお目にかかれません。人は誰でも欠点に見える部分を持っています


ですから「この人が理想」だと思っていると、自分が観たくない部分を時には見てしまい、幻滅するということもあり得ます。


その人への幻滅だけですめばいいですが、自分の人生そのものを狂わせてしまうことすらあります。


いわば一本の柱だけに寄りかかっていたら、それが崩れた時、すべてを失うがごとくになるということです。


この世界は多彩です。色んな人がいます。だから「色々」なのです。


そのことを考えると、それぞれの分野別で師匠や先生を持てばいいのです。


仕事の師匠、趣味の先生、生き方やあり方の師、ファッションの先生、旅の達人、パソコンの指導者、集客の講師などなどです。


まあ、「師」や「先生」ですから、あまりにたくさんいても逆に混乱してしまうかもしれませんが。


私は、だいたい4人くらいのマスターを自分の中で持っているといいのではないかと考えています。それぞれ分野を違えれば、なおよいかもしれません。


実際にお会いして学びを受けるのが一番ですが、今の時代、様々な方法があります。


インターネットを通じてもありですし、相手と知り合わずとも、その人の著作を読んで薫陶を受けていくというのもありでしょう。


そうすると、過去の人でも師となりえる場合があります。だいたい宗教はそのパターンですね。


そして一時期先生であっても、あなた、あるいは相手に変化があればその立場も変転していきます。ですから「一生、師とする」などと、かたくなに思い込まないことです。(尊敬と感謝の念をずっと持つことは大事です)


結局、あなたの周りの人や事柄はすべて先生でもあるのです。


あなたは与えていますか?

タロット、特に大アルカナを見ていると、まるでいろいろな人たちが集まっているかのように見えてきます。


その中では、人に何かを伝えていたり、つなげていたりと、何かその人物自身がほかの人に対して大きな影響力を与えているカードがあります。


反対に、誰かから何かを受け取っているようなスタイルの絵柄もあります。


そう、結局のところ、人は誰かに何かを与え、逆に誰かから何かを受け取っているのです。


そして、いつもそのことは同じ立場のままで固定されるのではなく、ある場面や状況によって、入れ替わるのが社会の実態でしょう。


これをカード一枚で表すとすれば、やはり「節制」ということになるでしょうか。


「節制」には二つの壺を持った天使が、壺からの液体を移し替えている姿が描かれています。(カモワン版マルセイユタロット)


この交互に移し替えられている「液体」がわれわれの様々な供給と受容(消費のこともあり)を示しており、液体が流れている元の「」というが、われわれ自身であったり、培った技能やスキル、知識・製造物などを象徴したりするのです。


このことは、私たちにまた大きな示唆を与えてくれます。


「自分はとても人に何かを与えるような人物ではない」と思っているかもしれませんが、誰でも自分が与える側になれるのです。


さらにこれを突き進めると、「与えなければ、真の意味で与えられることもない」という発想を得ます。


与えてもらいたければ、何かを与えることを先に自分に課すべきかもしれません。


それでもやはり、「私には何もない」と言う人がいるでしょう。


でも、本当にあなたには「与えること」「提供する」ことは何もないと言えますか?


何も物やお金のことだけではありません。形のないものや行動も与える要素のひとつです。


そして、もしそれでも本当に何もないと思っているのなら、こう感じてみましょう。


あなたはすでに肉体を持ち、考える頭脳と生命を「与えられて」、この地上に生かされています。


ならば、あなたが与えることと言えば、その与えられたものを十分に意識して、無駄にせず、精一杯「生きていく」ことになるでしょう。


生きていくこと自体、あなたが与えていることなのかもしれないのです。


誰に与えているのでしょうか? それは宇宙とか天とか神とか言われる大きなものへ与えていると考えられます。


もちろん生きていくためには食べ物も必要ですし、もっと言えば空気も水もいります。


これだけで大きな消費かもしれませんが、おそらくあなたが人として生きていることで、それだけで天や宇宙に与えている何かがあるのではないかと思われます。


ただ、生き方として、不平不満を述べ続けたり、ただ無気力に生きていくだけだったりするようなものは、消費過剰と言いますか、エネルギーとして宇宙に「与えていく」ことができていないのかもしれません。


だから、与える人生を歩むためには、何よりも力強く希望をもって生きていくことだと私は感じています。


Top