ブログ
「女帝」と「皇帝」に見る現実化
タロットには「女帝」と「皇帝」というカードがあります。
たいていのマルセイユタロットの場合、その数の順番でこの二枚を並べると向き合う形になります。
カモワン版ではカップル・夫婦ととる事もあります。
ですから、この二枚はあらゆる意味でペア・セットで見ていくとよいのです。
特にこの二枚は、私たちが思い行動することとはどういうものであるのかをわからせてくれます。
「女帝」は考えやアイデア、発想・着想を意味するカードです。それに対して「皇帝」は現実・実際・組織・行動(化)を表します。
単純に考えても、「女帝」の考えを「皇帝」が現実にするという二枚の意味になるわけですが、私たちは必ずしも自分の考えを即行動に移すということができません。
むしろ、躊躇したり迷ったりしてなかなか実際にできないのが「現実」です。
この場合はふたつの理由がタロットの「女帝」と「皇帝」から読み解けます。
カモワン流の場合、カードの逆向き(リバース)は何らかの問題状態ととらえますので、たとえば「女帝」が逆向きの時は「女帝」の示すことに問題ありとなり、皇帝が逆だと「皇帝」の事柄に問題ありとなります。
「女帝」が考えで「皇帝」が現実や行動だとすれば、タロット的にいえば、考えが問題か行動が問題かの判定がつくということにもなります。
つまり、考えが現実化しないということは、その考え(アイデア・発想)自体に問題があるか、行動方法、現実において問題があるかということになるのです。
考えがすばらしいが、それをどう行動して実際にするかの方法がわからない、あるいは考え自体思いつかない、考えがありすぎてどれを行動したらよいのかわからない、こんな状況だと言えます。
ただ考えと行動の結びつきは別々で見ていく分析方法も大事ですが、結局のところ、自分の思っていることが行動や現実に結びつく同じ価値になっているかということが重要だと思います。
本当にやりたい実現したいと思うことと、自分のやろうとしていることが価値的に同じものとして共有しあっているかでもあります。
具体的には、たとえば今の仕事をすることで自分の価値を置いているもの(理想と言ってもよいです)に何らかの貢献や進展があるかどうかです。
もし価値が共有されていれば、仕事ををすることに意義と意味を必ず見い出して行動する力も大きくなることでしょう。
反対にほとんど価値を見いだしていないと思っているのなら、その仕事をすることが嫌になり、辞めたくなったり、仕事をするモチベーションに結びつかなくなっていたりします。
これは仕事ということでたとえに出しましたが、ほかの分野でも同様です。
「女帝」と「皇帝」が正立の場合、なぜ向き合っているのかを丹念に見ていくことで、あなたの考えと行動は接点を持つことになり、「皇帝」の示す「物事の現実化」も早くなってくると考えられるのです。
あなたはどちらを選択するか。
ある新聞記事を読んでいますと、その昔、平安時代前期、西暦でいうとおよそ800年からの百年間はかなりの天変地異があったことが記されていました。
無論、今回の震災関連によって掘り起こされた歴史認識への記事です。
皆さんも一度貞観時代とか延暦・仁和などで調べてみればわかると思いますが、本当に数多くの災害が昔なのに記録として残されるほど発生していたようです。
富士山の噴火、関東地方の地震、伊豆や東海地方での地震、阿蘇山の噴火・・・そして今回のものに匹敵する三陸沖の地震と大津波が起こったのもこの頃でした。
私が驚いたのは、さらにこの時代、越中・越後、播磨国とか、いわば平成での大地震の土地、新潟や神戸とほぼ同じか近いところでも起こっていたということです。しかも東南海地震までもこの後、発生していたことがわかります。
これらは単なる偶然と片付けられるでしょうか?
昨日の想定外の話ではありませんが、何かここまで来ますと、とても今回のことが「想定外」だったとは思えなくなってきます。
私はここで皆さんに予言をしたり、不安をあおったりしているのではもちろんありません。
私が言いたいのは時間の流れと繰り返し、そして意識の変換のことなのです。
実はタロットに流れる古代の時間概念は直線ではなく、円環思考だと私は考えています。
これは時間は単純に過去から未来へ直線で流れていくというのではなく、円として閉じており、同じところに再びもどって来るという発想です。つまり同じことが繰り返されるのです
そのため、「歴史は繰り返される」と言われるがごとくの現象が生じます。
しかしながら、まったく同じことが起きるということではありません。同じような流れや出来事が象徴的に現れつつも、その対応や意識の変化によっては次元を超える形で体験することになり、それに応じてまったく異なる世界を生きることにもなるのです。
にわかには、何を言っているのか理解しがたいかもしれません。
これを図で説明すると少しわかりやすくなるでしょう。その図とは「らせん」です。
ひとつの円を描いて、さらにその円の始点であり終点の部分を、一段上に持って行き、そこからまた始点として円を描き、終点を同じように一段上げて新しい円の始点とする・・・というように繰り返していけば、ちょうど全体像から見れば円がらせん状に上昇していくように見えるはずです。
このことは、同じ道をたどりながらも次元を上げれば同じ経験ではなくなるという意味でもあります。(らせんの円が、それぞれ立体的には空間の位置が違うことに注目してください)
もしも平安初期9世紀頃の災害・天変地異を記憶や記録に留めて、その再現をシミュレートしていれば、私たちの次元は上がり、これほどの大きな被害は出なかったかもしれません。
これは単純に「備えがあれば物理的に大丈夫であった」という意味ではありません。意識の転換・変換があれば、同じ災害を経験する次元そのものを回避するというようなものに近いです。
またこのようなインパクトによって、何らかの意識の上昇を促す働きがあるのかもしれないと想像できます。
しかしここで注意したいのは、決して円は上昇のみではないということです。
先述したらせんの円も始点と終点部分を下げれば、次の円はどんどん下降していくことになるからです。
大きな円はひとつの時間や出来事の繰り返しの流れだとしても、言ってみれば、そこから上に向かうか下に向かうかは、個々人の意識によって選択が任されていると考えられるのです。
上の選択の人が集団として多くなれば全体としても上に行き、下の人が多いと転落・下降が待っているということかもしれません。
ということは、私たちは一人でも多く上昇することを思ってその選択をし、気概と勇気を持って新しい時代や次元を創り上げていく姿勢が求められているように思います。
少なくとも下降する意識ではなく、上昇していくイメージを自分の中に抱いておくことは、これからの時代、とても重要だと感じます。
想定外のタロットリーディング
東日本の地震のあと、よく想定外という言葉を聞きます。
時には言い訳であることもありますが、本当に思いもよらない災害だったのでしょう。
さてタロットリーディングにおいても「想定外」というケースがあります。
この想定外の意味にはいろいろとありますが、今回はそのうちでも「タロットの出方(展開)が想定外」ということについてお話します。
タロットに慣れてきますと、ある自分のパターンというものができあがってきます。
「こういう問題やケースの時はこういうカードが出るだろう」というようなものです。
そのため、時にはタロットを引かなくても想像(イメージ上)でタロットが展開できてしまうほどです。それも実際に展開した時とは、それほど違いがないということも多くなってきます。
一見すばらしいようにも思えるのですが、これは実は非常に危険なことでもあるのです。
一種の奢りと言ってもいいでしょう。
こんな時、タロットはすばらしいことに、タロットリーダーの奢りを戒めるためか、はたまた茶目っ気のあるタロットの霊のしわざかわかりませんが、最初にリーダーが想像していたのとはまるで違うカードを引き出してくることがあります。
それが意外くらいで済めばよいのですが、非常にショッキングな出方になることもあります。
こうして、自分が枠にはまった(ある意味、カードで例えると「悪魔」の罠・誘惑とも言えましょう)ことから脱出が促されるのですね。タロットの自浄作用とも考えられます。
こうして考えてみると、自分に起こる想定外のことはとても重要な意味があると想像されます。
想定外のことが起こる時は、逆にいえば安心や安定、怠惰の幻想の世界に自分がつながれており、いつしかそれが当たり前、最善だと錯覚してしまっている状況だと言えます。
また現実的にも自分のこれまでの知識や経験・常識を越える対応力が求められていることは確実であり、それは裏を返せば、自己の飛躍的成長のチャンスを与えられているとも読めます。
ですから、再びタロットに戻りますが、「ありえない」と思えるカードや展開が出たとしても、「ありえないことはありえない」と認識を新たにし、再び初心のようにニュートラルに戻ることが大切です。
カモワン版マルセイユタロットでいえば、 「手品師」と「力」の帽子の関係です。それは今までをふまえつつも、大きく発想や行動を転換するポイントだとも言えます。
終わりであり始まりでもあるのです。そして、そこに「奇蹟」の力も生まれることになるのです。
想定外のことは、自分を規格(これまでの常識や枠)外にするための試練としてとらえてみましょう。
花に希望を見る。
私が住んでいる関西では、例年より遅い桜の花が咲いています。いや、咲き始めていると表現したほうがよい場所もあるかもしれません。
3.11から日本で起こっていることに対して、多くの人が哀しみ、気分的にも沈みこむ日々が続いています。
そして昨日も東北地方で最大規模の余震があり、まだ不安があります。
このような中では、いくら経済活動をして日本を救おう、もう平常に戻るべきと伝えたところで、これは気持ちや感情の問題もありますから、理屈や論理だけでは変わらないところもあるでしょう。
ただ、たとえばあまり被害のなかった関西の人などは、この時期はお花見などして気分の転換を図られたほうがよいと個人的には思います。
それは日常に戻るということや経済活動的な意味合いもありますが、「花を見る」という行為自体が癒しにもつながり、エネルギーをもらえることにもなるからです。
それでも、「やはり派手なことは気になる」という人は、お花見のやり方や意識自体を変えればよいと感じます。
そもそも最近の花見は少し行きすぎたきらいもあったように思います。
私自身は実はこのところのお花見はあまり好きではありませんでした。
いや正確に言いますと、一般的な宴会形式のお花見が好みではないということです。
というのは、ブルーシートを広げて大勢の人で乱痴気騒ぎするかのような宴会や、ゴミをそのままにして立ち去る人などをお花見の会場で多く見ることで、いつしかお花見自体への嫌悪にも変わってしまったということもあります。
そういうこともあり、個人的な好みと意見で恐縮ですが、むしろ今年はそうした行きすぎのように見えた日本人のお花見に対しての変革を行うにはよいタイミングではないかと感じます。
桜の花は満開で咲き誇りますが、わずか二週間程度で散っていくはかなさ、潔さのようなものもあります。
だからこそ花に見る生命の尊さ、すばらしさ、人生になぞらえることができるのではないかと感じます。
そのことが日本人の心をとらえていたのではないでしょうか。
ですから今年は特に、ひとときといえど最大の輝きを見せる花を想い、命の大切さを感じ、生きることの喜びやありがたさを、「花とともに愛でる」という気持ちをもって「お花見」をすればよいのではと思います。
お酒を飲んで騒いで大いに楽しむのもよいでしょうが、情緒を味わいつつ、これからの希望を花になぞらえてお花見に出かけてみるのが今年には合っている気がします。
ちなみにお花見は作物の吉凶を占った行事だったと言われます。
タロットカードでは満開の桜は私には「世界」のカードのように見えます。お花見にもいろいろな形、楽しみ方、味わい方はあるでしょうし、それがまた「世界」なのかもしれません。
満開の桜の下で、ちょっとタロットで占ってみるというのも面白いかもしれませんね。タロットお花見会というのもやってみたいところです。
タロットでつながる縁
4月5日京都、そして今日7日神戸と、カルチャー教室でのタロット講座が始まりました。お申込みいただきました方、ありがとうございます。
受講生の皆さん、ご質問もお気軽にしてくださいね。
さて、こうして何気ない町のカルチャーセンターでの講座へ参加したと思うかもしれませんが、私自身はご縁を得てマルセイユタロットをお伝えさせていただく気持ちには特別な想いがあります。
日本ではタロットといえばウェイト版(ライダー版)がメジャーですが、徐々にマルセイユタロットの良さも広まってきているように感じます。
私の講座では、従来のタロット=占いという認識だけではなく、いわば人間性や人生の質を向上させていくためにマルセイユタロットを最大のツールとして活用していくことをお話しています。
タロット占いを気軽に学びに来たのに、なにやら壮大で難しいことを言われて面食らった(^_^;)方もいらっしゃるかと存じますが、この機会に遭遇されたこと、タロットを学びに来られたことに意味があるのだと感じてみてください。
それは、講座で説明しているような内容のこともあるのですが、それとは別に、かねてから私がとなえている「趣縁 」というものを作っていただく、つなげていただくためもあるのです。
趣縁というのは私の造語であり、簡単にいえば趣味や志向によって生ずる縁や集まり、交流関係のことを言います。
現代では地縁や血縁は希薄になってきています。
また少し前、特に昭和までは社縁という会社や職場によってできる縁が濃かったこともありましたが、それも終身雇用の安定性の消失、仕事スタイルの変化なとでなくなりつつあります。
つまりは人とのつながりが普通に生きているだけで、昔よりかなり少なくなってきているのです。もちろんその分、人付き合いの面倒さも減っているという側面はあります。
とはいえ、今回起こった災害などを経験すると、孤独ではなく、助け合ったり、心を支え合ったり、または気持ちを述べ合ったりできる人の必要性を実感された方も多いかと思います。
家族や恋人、パートナー、今までの友人などもいらっしゃるでしょうが、やはり人とのつながりはいろいろな形でもっておいたほうがよいです。人は一人では生きていくことはできないのです。
こうしたことから、たとえタロットによる趣味の縁、趣縁であっても、仲間ができれば時には大きな自分の支えになります。
実はタロットの前では人は平等です。その人の職業や地位・性別・年齢などは関係なくなります。
特に私の伝えるマルセイユタロットでは、その人個人の全体的な向上がテーマであり、また個人だけではなくあらゆる事柄の進化も重ね合わせることができます。
そうすると、必然的に自分の人生、人の人生ということを真剣に考えるようになってきます。
と同時に、タロットによって整理したり、客観視したりもできますので、まじめだけどユーモアも交えた楽しみの視点を持つこともできます。
そもそもみんなタロットカードでいえば「愚者」なのですから。(このことはタロットマンダラを知っている人にはよくわかるはずです)
関西にはカモワン版マルセイユタロットを探究する古くからの集まり、趣縁のチームがありますし、私の講座をきっかけにして、趣縁ができて勉強会をしたり、友人同士として普段の交流をされるようになった方もいらっしゃいます。
このような関係は家族や濃いつながりのある人とはまた別で、だからこそ利害関係や感情の偏りがなく、かえって自分のことを話したり、人の話を聞いたりすることができます。
何より同じタロットを学んだ仲ですので、タロットを使って語り合ったり、リーディングしあうこともできるのです。
京都でも、昨年からのカルチャーセンターで学ばれた方が、趣縁を広げられています。
タロットによる縁、それは偶然かつ気軽なようでいて、実はあなたにとって意味のある偶然(シンクロニシティ)なのかもしれません。
あなたがマルセイユタロットを手にして、仲間とともに学び始める時、改めて、「マルセイユタロットの世界へようこそ」となるのです。
※京都新聞文化センターとよみうり文化センター神戸での講座はすでに今期の募集は終わっています。次回は京都は10月から、神戸は7月から開講予定です。(その前から募集はあります)