ブログ
タロットリーディングが客観的にできない時
タロットを引く(タロットカードを選択して選ぶ行為)やり方は、占いの流派や技術によって、いろいろとあるようです。
一般的には占い師・タロットリーダーがタロットを引くやり方の方が多いかもしれませんね。
ただカモワン流をベースにしている私のタロットリーディングでは、リーディング時においても、講座において教えている方法でも、相手、つまり相談者(クライアント)自身にタロットを引いてもらうようにしています。
とはいえ、遠隔でリーディングする場合や、書面対面リーディング(あらかじめタロットを展開して紙面に印刷してリーディングする方法)においては、タロットリーダーである私が、本人の代わりに引いています。
結局のところ、出るタロットの内容は、どちらの方法でも相談者に深く関わるものになっており、どの方式を採用しても本質的な効果に変わりはないように感じています。
ただ自分でタロットを引く行為をすると、タロットリーダーに引いてもらうよりも、「自分の人生は自分で切り開く」「自分の問題は自らによって解決する」という意識や、リーダーとクライアントが一緒になって問題に取り組むという意味が高まることもあるように思います。
「このカード(たち)は自分で引いたのだ」というクライアントの思いが、タロットへの信頼や確信につながり、それが行動にも影響するという形ですね。
さて、そんな「自分の手でタロットを引く」タロットリーディングなのですが、あまりに思いが強い問いや悩み事を自分でリーディングする場合、出たタロットの展開をニュートラルに解釈できないことがあります。
自分でやるからこそ、逆に自分の思いや考えのわなにはまるという感じでしょうか。
こんな時、客観性をどう確保するかということですが、
(1)タロットを見ている実際の自分の視点を変えてみる
(2)同じタロットと技法を使う人に展開を見てもらう
(3)まったく違う占いやリーディングをあえてやってみる(してもらう)
という方法が考えられます。
(1)は、つまりは立ち(座り)位置を変えてみるということです。具体的には上体をそらして俯瞰的に展開を見てみる、リーダーとは反対の位置に座って眺めてみる、座っていたのを立って見てみる、横から見てみる・・・などの方法です。
視点を変えることで見方も変わり、今までの硬直した枠からはずれることがあるのです。
(2)が、一番現実的な方法かもしれません。いわゆるタロット仲間に意見を聞く、そのタロットと技法を使うプロリーダーに見てもらうということで、文字通り客観(他人)的視点を得ることができます。
(3)思い切ってタロットそのものから離れて考えてみるのも有効です。同じ問いで易をやってみたり、別のカードで占ってみたりすることですね。
これは物事は結局は奥底で象徴的につながっていると考えられるので、いってみれば、山登りのルートを変えてみるということになります。それも同じ徒歩による登山ではなく、ロープウェーや車を使って登ってみるということですね。
結果的には頂上は同じなわけです。ただしタロットを信頼できないからほかの方法をやってみるという態度ではなく、タロットも信用したうえで、別の角度から分析してみるという補強・補佐の意味で行うことが大切です。
そうでないと、今後のあなたとタロットのつながりが切れてしまうことにもなりかねないからです。
タロットと食事、食べ物。
タロットがあらゆるものを象徴させていると考えるのなら、私たちが摂取している食べ物についても、固有のカードと結びつくことがあるかもしれません。
私自身はまだ詳しくは検証していませんが、たとえば誰にとっても「米」を表すのは比較的このカードであるというのもあれば、私にとっての「お米・ごはん」を表すのはこのカードだ、というように全体と個別にあてはまるものがあるのではないのかと推測されます。
とりあえずは、自分にとってのそれぞれの食べ物やメニューはどのカードで示されるのか、ということを調べていくのは面白そうです。
食べ物でも、完成された料理で見る場合もあれば、たまねぎや鳥肉といった、ひとつひとつの材料からあてはめていくこともできるでしょう。
ちなみにこれはジョークとして言いますが、タロットには鳥、牛、カニ、馬、犬、猿はいます。(笑) あ、卵もありますね。(カモワン版マルセイユタロットの場合です)
やや象徴的に考えていくと、羊、豚、果物、野菜、飲み物なども表せないわけではありませんので、これられを組み合わせれば、料理の献立をタロットによって作成することも可能かもしれません。
さて、私たちが口に入れる食べ物について、現代的な科学の栄養素の点から見るだけではなく、一種の霊的な観点からとらえる方法もあります。
たとえば私たちは普通にコーヒーとか紅茶を嗜好品として飲みますが、それの良し悪しは別として、コーヒーを飲んだ時の気分と、紅茶を飲んだ時の気分ではどこか違うことに気がつかれるのではないでしょうか。
あるいは、コーヒーを飲みたい時はどういう時か、紅茶を飲みたい場合はどのような気分の時かとして、皆さんもちょっと考えてみてください。
・
・
・
・
・
・
いかがでしょうか。
たとえば仕事に向かう時や、何か考え事をまとめたい時、ちょっとリフレッシュ的に気分転換してみたい時はコーヒー、ゆったりとしたい、おしゃべりを楽しみたいというような時は紅茶という感じがしませんか?
このことを神秘思想家のルドルフ・シュタイナーは、物質体とエーテル体という人間の体を霊的に4つに分けた時の二つの気質によって考察しています。
コーヒーを飲むと物質体の特徴がエーテル体に影響していくので、思考が硬直化・論理的になり、紅茶は逆に物質体を消していく方向になって、エーテル体を変動させるため、散漫な傾向、夢見がちの傾向になると説明しています。(シュタイナー著 西川隆範訳 「健康と食事」による)
何気に選んでいる嗜好品も、深くは意味があるということです。
ただ普通はなかなか(目に見えない形での影響は)わかりにくいものなので、そこでタロットを使いながら、自分にとって好ましい食べ物を別の観点で見ていくことも考えられます。
それにはやはり、普段摂取している私たちの食べ物とタロットの結びつき、関連をつけていくということになるでしょう。
気になる人は、タロットと食事というテーマでリーディングを続けてみてください。
あの人のいうことが納得できない時
あなたが学んでいる人や、参考にしている人、上司・先輩・友人含めていろいろな方がいらっしゃるでしょう。
時には本やインターネットなどの提供されている情報から、ある人の思想を学んだり、影響を受けさせてもらっていることもあります。
しかし、悲しいかな、私たち人間は感情によって様々なことを見てしまう傾向があります。
感情が入ると、学びや助言・アドバイス的なことも、かなりの屈折を伴うようになります。いわば感情の色メガネや感情のフィルターを通して見るようなものです。
そうすると、いくら言っていることや書いていることが正論であっても、感情によってゆがめられているため、たとえばその人のことが嫌いであれば、どんなことを言われても、あなたは受け付けようとしなくなるでしょう。
ところでタロットに流れているもので、四大元素の考え方があります。特徴的には小アルカナの四つの組(スート)にそれが表されています。
すなわち、風・水・火・地と呼ばれるエレメントのことであり、タロットでは剣(ソード)・杯(カップ)・杖(ワンド)・玉(コイン)の象徴で示されています。
このうち、判断や知識的なものは、風(剣)がたとえられ、感情的なものは「水(杯)」で示されます。
人の言うことを感情で聞くということは、風(剣)を水(杯)で受け止めるということになるのです。
剣を水で満たされた杯に入れるとどうなるでしょうか?
水は剣で切ることはできませんし、そのままずっと水に浸していればさび付いて、刃がボロボロになるかもしれません。
剣の鋭さも水の中ではあいまいになってしまい、効果も消えてしまうことになります。(大きな意味で言えば、水は逆に剣を受け止める愛(杯・鞘)にもなる可能性は含まれてはいるのですが、今回はこのことはふれません)
何が言いたいのかといえば、論の内容と自分の感情は切り離して考えてみる必要があるということです。もっといえば、話をしている人への思いとその内容は区別したほうがよいということになります。
目下の者や自分が敬意を表していない人物に忠告されると、「あんたに言われたくないよ」と思いがちです。私もあります。(笑)
でも、もしその言っている人と切り離して、語られている内容自体を取り出してみると、意外に当たっているというか、自分には必要なことだったということに気がつくのです。
その証拠に、もしあなたが尊敬していると思っている人に同じことを言われると、おそらく素直に受け入れられるはずです。
剣は杯と切り離すことで、鋭い刃先を効果的に使うことができるのです。特に決断事項のある人、自分を革新したいと思っている人には、誰に言われようが、その人ではなく、言っている内容自体を見るべきでしょう。
とはいえ、こういうこともあります。
「言っていることとやっていることが違う」ということが何度も続いている人を見る場合です。
これは確かに前述の「内容と人とは切り離して考えることも大切」なのですが、だからこそ、そのふたつを区別していった時、最終的にはその人(言っている人)自体の評価にもつながるのです。
「言っていることはすばらしい」「確かにその通りであり、そのことは自分に有意義で活用させてもらおう」となりますが、次にその言っている人の行動がその通りでないことを何度も目にしていれば、やはりそれは「言っていることを真にその人が理解できていない」か、やはり「口先だけのことである」証明にほかなりません。
切り離すからこそ、具体的に感情にとらわれず判断が可能になってくるのです。
このことは私たちにまた別のことを示唆します。
それは「発言することには気をつけなればならない」ということです。自分の言葉に責任を持つということでしょうか。特に人に助言したり、アドバイスしたり、何かを教えたりする人にはこのことは重要です。
言うからには自分もその通りの行動や態度、結果が示されないと説得力や人間の信頼を失うのです。
過去とは何なのか。
今は過去を振り返るより、未来に向かって進むべき時と判断している方もいらっしゃるでしょう。
日本の状況を見ればまさにその通りのように思えてきます。
ただだからこそ逆に、過去を切り捨てるのではなく、よく検証し、よいところも悪いところもひっくるめて評価しておくことは大切かと考えられます。
カモワン版マルセイユタロットでも、その大アルカナと呼ばれる重要なカードには、時系列でいえば「過去」を示す(カードの人物が過去を見ている)ものが多いのも、そのことを思うとうなずけるものです。
よく新しいことを始めるにあたり、「過去を忘れなさい」「捨てなさい」と言われることがありますが、よくよく考えてみれば、人間、過去を完全に忘れ去るようなことはできないのではないでしょうか。
記憶としては必ずどこかにあるはずです。それを単に思い出せないようにしているか、思い出さないようにしているか、あるいは特段活用できないので取り出さないようにしているかということだけでしょう。
要は過去は過去として、その経験も知見もきちんと自分の中に存在しており、その良し悪し、価値を決めるのは今の自分の「考え」だということです。
あるデータを生かすも殺すも、まさに「今後の自分」次第となってきます。
けれども、今の自分を形成しているのも、その過去の蓄積と評価を繰り返して何層にも重なった自分があるからだといえます。いきなり無から有は生まれないのです。
起こったこと自体は事実でしょう。それが過去になっていくに連れ、今の瞬間の私たち自身の考え方によって過去の事実が評価され、ある意味をもって再構成されます。
となれば、過去の事実は変えられませんが、過去の意味自体は大いに変更可能であり、さらに言えば毎日変わっていっているとも想像できます。
その意味では、人は毎日違う人生(解釈の違う人生)を生きているのだと言えます。
物事は材料や素材が多いほど、いろいろな可能性を秘めています。
ということは過去の経験の蓄積が多ければ多いほど、多様な人生の解釈もでき、それだけ多くの選択肢の人生を生きることが可能になると考えられます。
このことは経験の量のことだけを言っているのではありません。
ひとつの事柄の質を深めることによって、いわば物理的ではない精神的な経験の蓄積も増える(重くなる)ことになります。よって必ずしも年齢とここでいう「経験」とでは比例しないのです。
大事なのは過去があるから今のあなたがあるのだと思い、悪いように思えた過去も決してあしざまに捨て去ったり、なかったことにしたりするのではなく、そこに愛情を持つという姿勢になるでしょう。
言い方を換えれば、過去はあなたの今後を輝かすための、多彩な人生の材料だということです。
うつ病とタロットカードの「悪魔」
私がうつ病になっていた頃は当たり前ですが、余裕などまったくなく、当時の状況を冷静に振り返られるようになったのは、治ってからのことでした。
そして今、タロットをしていてうつ病のことを思うと出てくるのは、「悪魔」のカードについてです。
うつ病と「悪魔」との間に何の関係があるのか?と思われるでしょう。
「悪魔」はそのカードの名前だけ聞くと、悪いイメージがつきまといますが、このブログでも何回も述べているように、私自身はタロットカードにはいいも悪いもなく、あるいは逆にいいも悪いもひっくるめて、それぞれのカードが表す事柄を象徴させていると考えています。
ということで、「悪魔」にもよいと思えることも含めた様々な面があるわけです。
そのひとつが、「悪魔」は人々の欲求をかなえる存在だということです。
カモワン版マルセイユタロットにおける「悪魔」の絵柄には、悪魔につながれた人物が描かれていますが、その人たちの表情は楽しそうです。むしろ恍惚とさえ言えます。
このことから、この人たち(つながれている人物たち)は悪魔によって自分の欲求が満たされているということがわかります。願いや思いがかなえられた満足感・充足感でいっぱいなのです。
ところで、うつ病にになりますと、人間の欲求というものがほとんどなくなってきます。
まず動物的ともいえる基本的なものから減退して行きます。最初は食欲、睡眠欲、性欲などに始まり、やがて物欲、行動欲もなくなって行き、最後には生きることそのものの欲求さえ消失しかけます。
「欲を持つことはいけない」とよく言われます。欲にふりまわされ、人間として崇高に生きることを忘れてしまうからでしょう。
しかしながら、とにかくただ欲だけをなくせばいいというものではないのです。
うつ病がそのことを教えてくれたように思います。
人間、欲がなくなければ、まさに何もする気力も起こらず、生きることが空しくなります。何も変化や刺激を感じないうつ的な心と、心を平穏や静寂に保つということとは別ものだと感じます。
「悪魔」は物事を実現する力にも関係しています。そのパワーの源は、人の持つ欲と言えましょう。
タロットの「悪魔」は人々の欲求をかなえさせると同時に、自らも人からの欲のエネルギーをもらい、力を得ているのです。その力によって、あらゆることを産み(生み)出し、実現していくことができるのです。
ということは、欲を持つことは創造性のエネルギーと結びつくことになります。「悪魔」の絵柄に悪魔を含めて三人の人物がいることは偶然ではありません。
欲を悪いものと決めつけ、無理矢理抑えつけようとしたり、欲を満たすことができず、中途半端のまま不満足な状態で放置したりすると、逆にくすぶる欲によってあなたはコントロールされます。
これが、タロットカードでいう「力」の逆状態のひとつです。
欲=悪として、欲を持つ自分を否定したり、清いものだけを見たり求めたりする態度はバランスを失うことになりやすいと言えましょう。
だから欲望をむきだしにしなさいというのではなく、欲があることは生存や創造の力に必要であることを認めて、それをうまく扱うことを修めることが大切だと思います。
ある程度の欲望をかなえていくことで、次第に欲そのものから離れていくようになり、そこで初めて欲を超えたものに関心が行き、いわゆる悟りや霊性の大いなる実現という道へ進むのではないかと考えられるのです。