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結婚の縁

結婚というのはつくづくだなぁと思う時があります。


結婚は恋愛のゴールだと思われがちですが、そういうパターンではない結婚も世間に多くあります。


結局、やはり人と人の結びつきは「えにし」という言葉がぴったりのご縁だと感じるのです。


その中でも「結婚」というのはまた恋愛の縁とは違ったところがあるのではないかとも想像できます。


この恋愛の縁と結婚の縁が同じ場合は、まさに恋愛のゴールが結婚という形になるのでしょうが、どうもこれは別々のことのほうが多い気がします。


恋愛の縁についてはまた改めて書くことにして、今回は結婚の縁について考えてみたいと思います。


よく大恋愛をしていた人とは結婚できなかったのに、お見合いで紹介された人と簡単に結婚してしまったというパターンがあります。


これを見てもわかるように、どうも結婚には恋愛以上の目に見えない部分でのつながり、いやタイミングのようなものがあるのではないでしょうか。


最初から強く結婚を意識しているカップルもあるとは思いますが、結婚は何か偶然のような、まさに結婚するようなタイミング・時期だったという形があるようです。


また何かにエネルギーをかけて一時的に消耗し、回復してきた時のタイミングで表れた人に結婚の縁があることも見受けられます。


れ(エネルギー消耗のこと)が恋愛だったり、仕事だったり、病気だったりいろいろです。


つまりは人生のイベントのあとにまたイベントが来るようなものです。


これはおそらく心の浄化や変化にも関わっていると推測されます。


自分のこだわりや枠がひとつ大きなイベント(一般的に悪いと思えるような試練や不幸なこともあります)ではずされ、そのためにふさがっていたものがクリアーになり、閉ざされていた縁と出会います


それがタイミング的に結婚できる人と出会う(これが現れた縁)ことになる...このような感覚です。


もちろん全くイベントがなくても出会うべき人とは出会い、たとえ自分があまり意識していなくても、人が縁を運んでくれたりします。


それを考えると、どちらにしても、こだわりのなさや自然体のほうがいいのかもしれません。


反対に結婚を強くして願望実現のような形で、まさにゲットー!という方もいらっしゃいます。


しかしながら大きな視点で考えますと、それもそう思いたい(結婚したい)という気持ちが起こり、その方法を取ろうとする働きの縁が起こったとも考えられます。


いずれにしても、結婚というのは「縁」が深く関わり、自らの意志だけでは計り知れない部分が結びつきに影響しているとみたほうがいいでしょう。


ちなみに、これまでのことは、タロットカードの「恋人」と「運命の輪」を照らし合わせた時に理解できることでもあります。


タロットで見る「本の読み方」

皆さんも読書をされると思います。


小説や物語のような、純粋にストーリーを楽しむ場合は何も考えず、そのまま本を読めばいいと思います。


しかし、これが知識をつける、あるいは人生の質を向上させようという目的の場合は少し異なってきます。


このことを考えた場合、カモワン版マルセイユタロットにおけるタロット絵図・タロットマンダラにおいて、第二列目が示唆を与えてくれます。


タロットマンダラ第二列は一番下から「斎王」「隠者」「神の家」というものになっています。


このうち、「斎王」には明らかに誰が見てもわかるように「本」が描かれています。


ではほかの二枚も「本」に関係するのかといえば、この場でははっきりとは言えませんが、特に「隠者」にはその名の通り、「隠されて」本が描かれています。


ただそのことに気がつかなくても、今から述べることは理解できるものです。


まず、一般的に知識的に読書をする場合、ノウハウや知恵、情報を仕入れようと読むはずです。


その時、何も知識がないまま読むということは赤ちゃんでもない限りあり得ないでしょう。そして赤ちゃんは本は読みませんね。(笑)


何が言いたいのかといえば、人はすでに自分にある知識や情報を基準にして新しい本といえども読もうとするということです。


この場合、新しい本を読み進める内に「どうもこれは役に立たない」と見切りをつけてしまう場合があります。


それは自分のすでにある知識と比較しているからです。つまりは思いこみによって、新しい本の知識・情報を無駄だと切り落としているのです。


これはもったいないことです。


タロットマンダラの下段第二列の「斎王」を見ると、本を手に取ってまずはすべてを受けて入れているのです。


そこから私たちは読書においても、とにかくあまり先入観を持たず、いったんは受け入れるということが求められるのだと気がつかされます。


しかし、やはりどうしても自分の価値観や基準というものが出てきますが、それはそれでいいのです。


自分がすでに身につけたもの(知識・情報)と照合し、それが正しいのか間違っているのか、あるいは正誤の判断を超えた新しい示唆が本から得られるのかなどを吟味する段階が、次の「隠者」の段階なのです。


「隠者」はランプを持って探究しているように見えますが、そのことと符合してきます。


そして、その探究、つまりこれまでの知識と新しい本によって得たものとの比較検討などを経て、最終的には「神の家」に到達します。


いや、まだ厳密には到達していないと言えます。「神」と表現されているように、それは相当高い次元の段階であり、いわば真理への到達というものに近いからです。


ただ「隠者」までの段階のものでも、すべては「神の家」の建物のレンガ積みの一部となっていくのです。


それが積み上げられ堅固なものとなった時(用意が整った時)、最後には神の光が流入するかのような大きな気づき、仏教の言葉を借りれば「大悟」となるのです。


「隠者」の段階であなたが今まで身につけた、あるいは最高と思っていたもの、信じていたものがそのまま残ってもOKです。


それは結局、あなたが身につけているものがすばらしいということの証明や補強になるからです。


しかし、たいていの場合は新しい知識と融合して自分の枠や殻がさらに破られることにもなります。


その状態はまた「隠者」と「神の家」の段階でもあります。


結局、知識の面で本を読むということは、何をしているのかといえば、究極の法則や真理・悟りと呼ばれるものに近づくための情報を仕入れているということです。


ですから、もっとも大切なことは知識と知識の間の共通点を探すということになります。


それこそが根源的なものでもあるのです。


その意味ではどの本も等しく重要で価値あると言えます。


ただ何も考えずに表面的に知識を入れること、あるいは自分の対外的な価値を上げるだけのために読むというのでは、ある意味無駄といえるかもしれません。


つまりは知識を仕入れるための読書の場合でも、その背景や目標に「神の家」を置いておくと、大きな意味で効率的でもあり、有意義だということになるのです。


「愚者」になっているといいことがある。

前にも書いたことがありますが、人が亡くなる時や病気になって死期を悟った時、いろいろと後悔をするようです。


特に日本人はその傾向が強いと言われます。


それはやはり、何かと我慢や忍耐をする、外に出すことを控える民族性というものがあるのかもしれません。


でも「この自分」としては一度きりの人生であり、楽ばかりを追い求めていても学びにはなりませんが、反対に自分を閉じこめる一生もとてもつまらないものだと言えます。


特にもう皆さんは気がついたと思いますが、日本は災害の多い国であり、安定的な変わらない生活や状況が続くことは実はまれなことだったのです。


そうした時、求められる心や姿勢というものは、タロットでいえば「愚者」的なものだと言えるでしょう。


元来すべては移り変わるものであり、だからこそ、それを思って自分自身も自由にそして身軽に、人生を楽しむかのような態度を取っていれば自然の理にもかなうと考えられます。


そこで、死ぬ間際に後悔しないように、自分自身にも言い聞かせることが最近はあります。


それはやはり「愚者」のカードに関係することです。


「愚者」は先ほど述べたように、どんどんと旅するかのように移行している人物が描かれているカードです。


つまりはどこかに行こうとしているわけです。(しゃれではありませんが・・・)


「行く」ということは目的があるためで、この目的を「人」と「物」にわけるとわかりやすいです。


そう、私たちは「愚者」となって、人に会いに行ったり、ある場所に行けばよいことになります。


一番最初に述べた死ぬ間際の後悔でも、「あの人に会って伝えたかった、謝りたかった、感謝したかった」というものと、「もっと行きたい場所に実際に行っておくべきだった」というものが多いらしいのです。


ということは、私たちはなるべく「人に会う(会って話をする)」「行きたい場所を訪問する」ということをしていれば後悔が少なくなるというわけです。


ずっと安定した状況が続くとは限らないことは先述したとおりです。極端なことを言えば、明日どうなるかわからないのです。


ですから、今日からでも自分の縛りをもっと解放して、会いたい人に会い、行きたい場所に行くという姿勢と行動を取ることだと思います。


今はGW真っ盛りです。まだ何も決めていない人は、早速上記を実行に移してみるのもよいのではないでしょうか。


「手品師」に見る学習方法

タロットカードに「手品師」(カモワン版マルセイユタロット)、一般的には「魔術師」や「奇術師」と呼ばれるカードがあります。


このカードには「1」という数が割り振られているように、「新しさ」や「シンプルなこと」が象徴される場合があります。


ただ、絵柄(マルセイユ版)的にはその名の通り、「手品」をしているのであり、その手品道具がテーブル上に様々に展開されています。


このことから、シンプルさとは逆の多様さ器用さみたいなことも導き出されます。


この一見矛盾した構造や意味がタロットのどのカードにもあり、そのことが一対一的、あるいは論理的な思考をすることに慣れている私たちを混乱させることがあります。


しかし、それこそが「象徴」であり、混乱したものの中に統一した意味や意志(つまりは宇宙の調和した法則)を見る訓練にもなるのです。


さて、その手品師の片方の意味とも言える「シンプルさ」ということから、私たちの学びについてある示唆を得ることができます。


「手品師」もやはり「手品」を学んでいるのであり、その技術はたくさんの道具をはじめとして多彩です。


しかし、その手品においても、人々を魅了するすばらしいマジックを数々披露するために、まずは基本と言いますか、ひとつの簡単なことが完全にできなければならないのです。


極簡単なものではあっても、いかなる時にも失敗がないようにそれを自分のものにしていなくては、ほかの技術も高度なテクニックも習得することは難しいと言えます。


基本を自分の中で完璧にしてこそ、次の段階の習得へと移っていくことになります。


言ってみれば最初が肝心であり、学びにおいては簡単なこと・シンプルなこともなめてはいけないということです。それができてこその応用です。


また、一度に多くを頭に入れるより、「1」という数が表すように、たったひとつでもいいので、確実に覚えておく、頭に入れておく、使えるようにしておくということです。


あれもこれもとよくばって、結局何一つ思い出せない、実際に使えないとなれば意味がありません。


また全部のことを完璧に学ぼうとするあせりがないので余裕もでき(「手品師」は遊び的な要素もあります)、学習においてかえってひとつ事を会得しやすいとも言えます。


日本人の気質や学生時代の習慣から、ノートに一生懸命書き留めて講義を受けるというタイプの方が多いです。(実は私もそうです(^_^;))


ただいつもそのような学習姿勢を取るのではなく、たったひとつでも確実にする、それも実践や実際に活きる知識・技術として学ぶという態度でもよいかと思います。


極端なことをいえば、ほとんど講義内容は忘れてもひとつだけ「活きる知識や実際技術」を持ち帰ればOKだという楽な姿勢で臨んだほうがよいこともあるということです。


ですから、カモワン版マルセイユタロットにおいては、「手品師」の次の段階である「2」の数を持つ「斎王」は書物(記録するもの)を手にしているとも言えます。


学びのスタイルとは人それぞれであり、自分の得意な方法というものもあります。


ゆえに、どれが一概にベストだとは言い難いのですが、たまには今までとは異なる方法で学習するのも自分を「新たにする」のに有効かと思います。


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