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「月」のカード、理解の段階
マルセイユタロットの大アルカナの中でも、最も読みづらいカードと言われている「月」が本日のテーマです。
確かに、読みづらいと言われるだけあり、一筋縄ではいかないのが「月」のカードです。
それは、ほかのカード(大アルカナ)のほとんどが人物、あるいはモノが、メイン・中心となった構図となっているのに対し、「月」はどれかメインであるのか、よくわからない図像になっていることが一番大きいのかもしれません。
「月」一枚の図像をよく見ると、カードの名前の由来である上部の月の部分、真ん中あたりの二匹の犬のような動物の部分、しかもここには背景にふたつの建物のようなものも見え、さらに下部には水たまりがあり、そこにはザリガニのような水生動物とおぼしき存在もうっすらと描かれています。(版によっては、はっきりザリガニが描かれているものもあります)
そして、上部・中部・下部と、どれも描かれているものが結構大きな存在なので、メインがどれであるのか判断しかねます。
さらには、全体的にもトーンがブルーと言いますか、暗い色調であり、霧がかかったような感じ、ボゥーとした感じに見えなくもなく、それが不明慮な印象を増加させているとも言えます。
要するに、見た目からしてわかりづらいというのが「月」です。
しかし、マルセイユタロットには意図が隠されており、どのカードも無造作・無意味に描かれているわけではありません。
となると、わざと、わかりづらい、あやふやな感じの図像にしているのだと見ることができます。
さきほど、出た上・中・下の三部の均等性(メイン図像が何かわかりづらくなっている構図)も、意図的にそうしているのであり、わかりづらいもの三つが並び立っているそのことに自体に意味があるのだと考えられます。
下から見ても、水、植物、動物、土、人工物、水滴、天(宇宙)・・・と構成が変わってきているのが、実は明瞭にわかるようになっています。このことは「月」のカードを理解するうえでは、なかなか貴重な情報です。
私自身、マルセイユタロットと長いこと関わってきて、この「月」のカードとも向き合ってきたわけですが、だいたい、次のような状態で、「月」のカードの理解と言いますか、自分の中への浸透が進むように感じています。
●最初の段階
よくわからない、わけがわからない、神秘的、不安な感じ、複雑な感じに見える(意味不明のように感じる)印象的段階
●第一段階
「月」のカードに描かれている細かな象徴の意味を教えられて、「月」のカード全体の意味を考える知識的段階
そのほとんどは心理的・感情的なカードとして見たり、読んだりすることになる
感情の対立や葛藤の意味を見ることがメイン⇒個人的な内面に向かう
女性・母性・母の元型像としての理解
●第二段階
個人の内面、感情的なもの、特にその対立や葛藤を「月」によって浮上させる段階から、次第に集合的なもの、全体的なものへと「月」の対象が変換していく段階 内的段階のさらなる拡大
個人カルマから人類全体カルマのようなものへの象徴性・問題性に向かう
人類としての成長・発展と、そのブロックの鍵を見ようとする視点や方向性
「月」を霊的に考えようとする段階
●第三段階
さらに「月」への俯瞰性、全体性テーマが進み、人類全体はもとより、宇宙の流れ、生命の改変そのもののテーマとして「月」が見えてくる段階
この頃になると、「月」のカードが多様で各層に適用され、「愚者」にも似たカードとなって現れ(「愚者」とのセットであることもわかってくる)、あらゆる層に鏡のように「月」の問題性が、レベル別に入り込んで来ているのに気付き始める
第一段階、第二段階、第三段階の過程が必然であり、「月」は私たちを本当に成長させるための悪と正義の両方を持つ象徴体・殻(から)の大元であることも見えてくる
いわば、霊的に拡大した見方になる段階
こんな感じでしょうか。
もちろんまだこの先があると思いますし、あくまでこれは私の見てきた・感じてきた「月」理解の流れです。
実際的には、特にリーディングに使うタロットとしては、第二段階が重要で、この使い方とか考え方をしていると、「月」はわかりやすいかと思います。
ただ「月」のカードの特性としては、単体としてより、他のカードと組み合させることで、より力を発揮したり、意味が強調されたりする気がします。
天体の月が、太陽の光を受けて輝くものであるように、ほかのカードの図像・象徴性を映し出すような感じで、「月」のカードも活用されることがあるのです。
この時、「月」の月部分にある人間的な顔の視線を考察することて、こうした使い方が活きます。それはまた、「月」と一緒に出たカードの表ではなく、裏を読めということも言えるのです。
ところで、先述した最初の段階から第一段階に進む時に、一般的な注意と言いますか、心がけてほしいのが、「月」のカードをなるべくポジティブに読んだり、解釈したりするほうがよいということです。
「月」が最初には、よくわからないカードであるだけに、ネガティブな印象が出やすく、さらに言えば人間の視点の癖として、ある対象の真ん中部分が大事だと思うところがあり、「月」だと、二匹の犬のような動物が吠え合っている部分を意味の中心に取ってしまうことがあるからです。
すると、言い合いとか争いとか、感情的対立とか葛藤というネガティブなことを、すぐに当てはめてしまうわけです。
これは「月」のカードからの出る意味としては間違いではありませんが、どうしても言葉的にネガティブなものとなります。
よって、「月」全体としても、悪いカードと決めつけるほどではないにしても、ネガティブな言葉に引っ張られ、あまりよくないカード、もやもやしたカードというニュアンスが強くなってしまうのです。
これでは、「月」の真髄に近づくことが難しくなります。(何事も、どちらかに傾く理解は、真理から遠ざかるものです)
ですから、中立的な見方ができるように、逆に「月」からポジティブな意味や、よい意味で状況を変えていくための方法などを、「月」カードから見出す努力をしてみることです。
そうやっているうちに、最初の段階を自然に超えていくようになるでしょう。
「月」から何とか意味を出そうとしたり、何かに当てはめたりしようとするのではなく(「月」の意味をはっきりさせようとする態度ではなく)、「月」のカードそのものを受け入れるようなことが、本当の「月」の理解につながると私は思います。
それは実は、ほかのカードに対してもそうなのです。
タロットとあなたとのつながりを、もっとつけてみると、タロットは自ずと心を開き、今のあなたに必要なものを示してくれるでしょう。
あこがれの人、モデルの人
誰かにあこがれ、そういう人になろうとすることは、自身の進歩と向上につながりますし、具体的目標があってよいことではあります。
しかしそれが行き過ぎて、もはや信仰や崇拝にまで変わってくると、今度は逆に自身を縛る人になります。
その人のことを全部肯定し、間違ったことは言うはずがないとなり、その人が自分にとってあらゆるルールになります。
そうすると、結局、自分を支配する人に変わることになります。
この弊害について、普通に考えればわかりますが、あこがれの対象の人が悪いのではなく、あこがれている側に問題があるわけです。(ただし、人によっては、あこがれられる側に問題があることもあります)
あこがれの対象になっている人は、ある意味、勝手にあこがれられ、勝手に支配する人にさせられているのです。
心理的には、あこがれの人が、自分の父親や母親、兄や姉のような、家族関係で問題となっていたり、理想にすえていたりする人の肩代わりになっている場合もあります。
また、パートナーや恋人になる人だと、夢想してしまう人もいます。
繰り返しますが、これはあこがれられる人の問題ではなく、あこがれるほうに問題があるのです。
ですから、自分が誰かにあこがれていると思った時、それが過度になっていないか、崇拝にまでなっていないか、自分の考えや行動が、その人を通してでないと(基準にしたり、想定したりしないと)できなくなっていないか、見直す必要があります。
ただ、過度のあこがれになってしまっている人の場合、自覚ないことが多く、自覚ないからこそ、妄信にまで来てしまっていると言ってもよい状態なので、友人や家族などから、注意を受けたり、何か行き過ぎたことの示唆があったりした場合は、反発したくなる気持ちを抑え、我が身をふりかってみるとよいでしょう。
今回述べていることは、マルセイユタロットで言えば、「悪魔」のカードに関係します。
「悪魔」は、自分のモデル・目標として、よい意味で働いている・設定されている場合は、エネルギーを与え、現実的にもよいほうに作用して行きますが、崇拝・教祖に変わると、あなたを縛り、支配する存在へと変貌します。
「悪魔」のカードにはつながれた人が描かれていますが、まさにその状態です。
このつながれているひもは、よく見ると、緩いロープであり、悪魔側からはきつく強引に縛っているわけではないのです。
むしろ、ゆるゆるなので、抜けようと思えばいつでも抜けられるわけです。
それをきつい縛りにしているのは、つながれている側の人間です。(マルセイユタロットの「悪魔」のカードでは、つながれている人は、もはや動物的になっていますが)
「悪魔」は、よい意味でモデルとなっている場合は、つないだひもを通して、前述したように、エネルギーをつないでいる人に送ります。
実際的には、エネルギーだけではなく、その人の技術とかスキル、精神などの伝達、注入もあるでしょう。
経済的に成功していたり、有名人であったり、精神的に余裕があったりする人が、モデルとなりやすいですが、良心的なモデルとなる人は、たとえカリスマ性があっても、慕って来る人、モデルとして自分を見てくれる人には、ファンへの恩返し、プレゼントとして、自分の一部をその人たちに与えていくことでしょう。
ファンとアイドル、サポータと主人公みたいに、応援され、あこがれられることで、「悪魔」(よい意味で)としての人物は、ますます力を発揮することになります。
悪い「悪魔」の場合、応援されるエネルギーを悪用したり、意図的にしろ(意図的なのがまさに悪魔的ですが)、無意識にしろ、奪ったりします。
ここでいうエネルギーとは、サイキック的には生命力のこともあれば、現実的にはお金や時間ということもあります。
ちなみに「運命の輪」のスフィンクスと「悪魔」は、同じ色をしているマルセイユ版があるのですが、これにもやはり意味があると考えられ、ネガティブに見ると、人の運を奪うような存在でもあり、いずれにしても、人の運命を強烈に変えていくような力を持つと言えます。
このように、「悪魔」というものは、人のエネルギーを奪うようにも見えますが、つながれる側をもっと主体的にして考えれば、結局、「悪魔」をどう扱うか、実際的に言えば、今日のテーマともなっている、あこがれやモデルの人に当たるわけですが、その人をどう見るか、どう扱うかによって、「悪魔」はよい存在にも、悪い存在にもなるということです。
「つなげさせられた」と考えるのではなく、「つないだのは自分であり、はずすのも自分である」と見るのです。
※ただし、本当の意味での悪魔もおり、それは通常の力・意思ではどうすることもできないくらいの巨大な力を有している場合もあります。しかしそれとて、自分にある神性、天使の力、輝く光によって対抗することは可能と言われています。人は弱い存在でありつつも、神の力も内包しており、それによって悪魔を超えることはできるとされているのです。
あくまでモデル・目標として、バランスよく、自分自身も律しながら、モデルとして対象へも、盲目的に一面だけで見るのではなく、その人も人であり、悪いところやネガティブな面もあることは、当然として受け入れることです。(それを断罪したり、否定したりすると、また逆に囚われやすくなります)
自分があこがれ、いいと思う人の中には、一見、自分にはないものがあるから、自分とはまったく違うから、惹かれてしまうと思うかもしれませんが、実は、同じものがあるからこそ、惹かれるのだとも言えます。
あなたはあこがれの人と同質の何かがあるのです。潜在的な能力と言ってもいいかもしれませんし、モデルの人とまったく同じではなくても、似たような気質でもって、自分をモデルとはまた違う形で表現できる力です。
だから、あこがれの人のようにはなれないと落ち込むのではなく、あこがれの人の中にある自分と似た部分、核のようなものに気づき、それを自分の中で再発見することです。
それが、あなたの宝です。
それがわかれば、自分の真の力が出てきて、たとえあこがれの人のようになれなくても、自分に自信が持て、自分なりの道や表現で、充足させていくことができます。
あなたには、自身にふさわしい「悪魔」がいるのです。悪魔という言葉にだまされ、悪魔の力を否定・拒否せず、自分の内なるものに取れ入れ、よい意味で、悪魔の力を復活させましょう。
すると今度は、あなたが誰かのモデルとなり、その力をまだ発現できていない人に対して、たいまつの火を与えていくことができます。
マルセイユタロットの「悪魔」が持つ「たいまつの火」は、偽物という象徴性もあるにはありますが、それには、本物の光を発見するプロセスとしての火があるのだと見ることもできます。
悪魔といえばサタンという名が浮かびますが、サタンもその昔は、ルシファーとして天使であったと言われています。ルシファーは、つまりは「光」です。
本物と偽物、これらは実は深い関係や示唆に満ちていて、優れた偽物は、いいかげんに本物を示すよりも、本物を知る手がかりになるのです。
天の自分と地の自分
マルセイユタロットでは、リーディングにおいて、特に高度になってきますと、視点や見方が複雑になってきます。
言い換えれば、いろいろな立場とか段階(レベル)での見え方、読み方があり、同じカード展開でも、様々な読み方が可能になるのです。
そういった数ある見方のうちに、天上的視点・地上的視点というものがあります。
平たく言えば、神の視点か、人間の視点かみたいな話です。
もちろん、私たちは神などなれるわけではないので(スピリチュアル的にはどうかわかりませんが、ここでは常識的な話においてでは、です)、当然、神の視点などわかるはずもありません。
しかし、あえてタロットの象徴性から、神と言ってしまえば大げさですが、通常の意識・次元を超えた視点、見方を援用しようというものです。マルセイユタロットならは、それができる体系・システムがあるのです。
とはいえ、読み解くのは人間ですから、どうしても人間である視点・視野からは逃れることはできません。それでも、天と地、神と人という対比、構造を設定しておけば、たとえ人間が読み解くにしても、いつもよりは違った見方を導入することができるのです。
このふたつの視点・見方を持つことは、生きづらさを感じている人や、どう生きてよいのか、何を選択すればよいのかに迷っている人には、よいメソッドとなります。
ふたつに分けると言うと、結局「分離」であるので、特にスピリチュアルな教えに傾倒している人には、「分離」という言葉だけで嫌悪感を示すかもしれませんが、分離の逆の「統合」においては、ふたつの違いを明確を理解しているからこそ、できることなのです。
ですが、分離の弊害も確かにあります。
分ける視点自体はよいにしても、天か地かに極端に分かれてしまうことに問題性が出ます。
あまりに天を求めすぎると、地から離れることになり、要するに現実逃避となり、生きている実感がより乏しくなったり、現実世界そのものに嫌気がさしたり、虚無感に襲われたりします。
あるいは、自分がほかの人よりはえらいとか、神から選ばれた存在だと特別視して尊大になり、周囲のものを見下し、軽く扱うようになってしまうこともあります。(これはマルセイユタロットでいうと「悪魔」のカードの問題性の部分ですね)
逆に、地、つまり現実や人間的なものにフォーカスし過ぎると、精神性や霊性を軽視し、人生・生活の質、クォリティを物質中心や実際の成果に置きがちになり、勝ち組・負け組の世界での競争に明け暮れることになります。
また、結局、他人と比べ、何もできない自分、特別な何かを持てない自分、人から認められない自分というものに悩まされ、天を求めすぎるのと同様、現実が空しくなってしまいます。
つまるところ、どちらかに極端にならず、ふたつの間のバランスを取っていくのが、まずは落ち着けやすい方法かと思います。
そしてここからが肝心なのですが、天と地、これを大目標・理想と、実際や現実での表現方法というふうに考えてみるとわかりやすくなります。
人は地、現実の中でなりたい自分とか、理想の自分というものを目標として持ち、それに向けて努力する人もいれば、「そうなれば理想だけど、無理よね」「そんな夢みたいなこと言うより、現実を見ようよ」という具合に、理想をあきらめてしまう人もいます。
しかし、これはいずれにしても、地(実際・人間性・現実時空)の中での話です。
ここに天としての、別次元とでもいうべきフィールドや世界を想定し、自分はそこの住人でもあり、だからこそ、そこでは本当の理想的な自分でいることができる、理想を実現している自分であると見ることができます。
ですが、地上世界、実際の現実とは違うので、まったく同じにする、同じになるということは難しいです。
そこで、天の自分である理想を、地の自分がいかに表現できるか、その方法や、やり方を楽しむような視点に変えます。
地の世界は天の世界とは異なるので、先述したように、そのまままったく同じにすることは困難でも、天の理想を地として別の形で表すことができないかと考えるわけです。
つまり、設計図(理念)と実際の家(現実にやれること)の違いみたいなものです。
理想と現実が違うことは、言われなくてもわかっている人はほとんどでしょう。
しかし、ここで言っているのは、天の自分と地の自分は違っていても、本質的には同じ自分の中の二人であり、この関係性を意識して結び付けることを常態化すると、自分の(現実)での環境、行動、思いに天の自分の意思が入ってくるようになるということなのです。
一言でいえば、「このために生きている」という信念のようなものが生まれてくるわけです。
天命を知ると言い方がありますが、それよりも、天命を生みだす、天命を地上にリンクさせるみたいな言い方のほうが適切でしょうか。
そうすると、自分のやっていることだけではなく、やらされていること(現実世界ではそのほうが、認識としては多いでしょう)に対しても、天とリンクさせることで、天に沿うか、沿わないかの視点でもって判断でき、ここは耐えるべきか、無駄なことをしているのでさっさと次に行くべきかなどが、自ずとわかってくるのです。
言ってみれば、理想の自分、理想の在り方としての自分(天の自分)と相談するような感じで、天の価値観を入れながら、地上、現実としての自分の行動、表現を決めていく(決められていく)わけです。
すると、よくあるように、これは試練(耐えることなのか)なのか、無駄な(犠牲になっている)ことなのか(やめていいものなのか)などの迷いで、今までよりかは判断がしやすくなるはずです。
天という自分の理想や在り方からすれば、地上・現実でやっていることは、大きくはずれているのではないかと思えば、やっていることにこだわらなくてもいいですし、やはり、天から見ても必要なもの、それに沿っていることだと思えば、一見嫌なことや、つらいことであっても、ここは耐えるべき、経験すべきことだと理解ができるかもしれません。
注意すべきは、天と地を、同一なものと錯覚しないことです。
引き寄せの法則のように、強く願えば現実に叶う、引き寄せるというものでもないのです。
むしろ、地上世界の価値による利益の実現を願うよりも、崇高で理想的なもの、そうでなくても、地上的条件をとっばらっても、やりたいこと、好きであること、いわば魂・ソウルの方向性みたいなものを思い、それはそのまま地上や現実で叶うわけではないものの、その精神が生かされた表現方法、やり方は取れるのではないかという姿勢なのです。
すると、「ここだけは譲れない」みたいなことも出てくるかもしれませんし、反対に、「(天に適っていれば)何でもやり方はありなんじゃないか」と自由に思えることもあるでしょう。
マルセイユタロットで言えば、「審判」と「恋人」カードのような関係性かもしれません。
これは地上において、天(天国の光)を見つけることでもあり、最終的には地と天を統合する方向にも進化していくことでしょう。
多くの人は天の自分を忘れ、地の自分だけで生きています。また、天を知っていても、地と切り離し、それこそ分離して、リンクはできないと思い込んでいます。
それは天と地では、エネルギーや表現方法が違うので、むしろ当然ではあるのですが、違っていても同じであること、しかし、同一なものとして、同じことをそのまま表現することは難しいという両方を理解していると、この世も捨てたものではなくなってきて、「いかに地の自分によって、天の自分を楽しませてやろうか」という、マルセイユタロットで言えば、地の最初でもあり、好奇心の象徴でもある「手品師」となって、その手品を皆さんに披露していくことになるのです。
「運命の輪」から見る、それぞれの視点
マルセイユタロットに「運命の輪」というカードがあります。
このカードは、マルセイユタロット以前の古いタロットカードにも、同じようなモチーフのカードがあり、かなり昔から、西洋では共有されている「運命」というものの象徴表現ではないかと考えられます。
まさに、人が思う運命というものは、「運命の輪」の絵が示すように、回転している様、回っている何かに乗せられているような感じでイメージされたのでしょう。
そう思うと、運命というものは、私たちをグルグル回転させる何かなのかもしれません。
また面白いことに、輪は人為的な機械・マシーンとも言え、マルセイユタロットでは、その輪には、人ではなく動物のようなものが描かれています。
ということは、運命に振り回されているのは、人ではなく、動物ということになり、これを逆に解釈すれば、私たちは動物状態になっている時は、運命に振り回され、操られる存在であると言い換えることもできます。
そして、運命というものは、何か私たちは神のような、生命的で意図や意味があるような印象も受けますが、カードから見る限り、それはマシーンで機械的なものであり、さらには一定のリズム(回転)で動いているものと解釈することもできます。
「運命の輪」に描かれている動物は三匹ですが、よく見ると、輪の中にいる二匹と、輪の上に乗っている一匹という違いがあります。
特に、この輪の上に乗っている動物は、ほかの輪の中の二匹に比べても異質であり、あまり見たことのない(現実に存在しない)動物のように思えます。事実、私たちマルセイユタロットを学ぶ者は、この動物のことを「スフィンクス」と呼びます。
あのエジプトにあるスフィンクスと無関係ではありませんが、むしろ、かつてローマの植民地であった一部のフランス地方で出土したスフィンクス像に似ており、いずれにしても想像上の動物であることがわかります。
スフィンクスの特徴は、想像上の動物であることから、単なる単独の獣ではなく、何匹もの獣が複合しているところにあります。
マルセイユタロットには動物は何匹か描かれていますが、たくさん出ているカードと言えば、やはり「世界」のカードが挙げられるでしょう。
「世界」のカードは、真ん中の人物の周囲に、四匹の生き物が描かれています。
テトラモルフともいわれるこれらの動物たちは、伝統的な象徴性を持ち、キリスト教でも取り入れられていて、教会の入り口にイエスとともにレリーフされていることもあります。
詳しくは言いませんが、このテトラモルフと「運命の輪」のスフィンクスが関係していると見ることは可能です。
ともかく、私たちは、運命というものに対して、単独の獣のような状態になるのか、複合するスフィンクスのような視点を持つのか、その違いを強調しているように、「運命の輪」から感じられるのです。
さきほど、視点と言いましたが、「運命の輪」の動物たちは、そのまま、(輪=運命に対する)それぞれの視点や態度を示すものと考えることができます。
何か強烈な運命に対峙した時、私たちは上がるか下がるか、はたまた、上りも下がりもしない視点でもって、それを受け止めると言えます。
ラッキー・幸運に歓喜し、不運・不幸に落ち込み・・・というのが普通の態度です。
しかし、不運にも幸運にも動じず、「運命の輪」の回転を冷静に読み、その波・リズムに乗っていく姿勢とでも言いましょうか、それがスフィンクスの位置・視点と表現できます。
この場合、ちょうど大波・小波の上を船に乗って進んでいるかのように想像すると、その船の安全性がわっかていれば、波の揺れはかえってスリルのように楽しむことができるかもしれません。
また、下手に抵抗せず、まさに波乗りのように、波に身を任せ、上や下へと、波と一体化していると、自分は波そのものなので、沈没や転覆することはないでしょう。
その境地に達している者にとっては、ほかの二匹の味わっている運命の波、まさしく翻弄する波は、翻弄されるものではなく、予測可能で純粋に楽しむことのできるアトラクションに変わるわけです。
これだけでもすごいことなのですが、タロットはその先も、数の順を考えると示しており、実は最終目的地の半分くらいの状態だということもできます。
おそらく、通常の運勢学、占いの基本である運命学みたいなものは、このスフィンクス状態を目指すことを想定されている、あるいはそれが目的みたいなところに置かれている(本当はそうではなくても、学ぶ者や活用するものの意識レベルがそれになっている)のがほとんどでしょう。
運勢・運命(のシステム)を学び、それを活用したり、コントロールしたりして、現実の人生を豊かに充実したものにするという目的です。
それが、マルセイユタロット大アルカナ全体像から見れば、まだ半分の段階なのです。(真の目的ではない)
その理由は、マルセイユタロットを学んでいくと次第にわかってきますが、最初の段階では何が何だか意味がわからないと思います。
まあ、しかし、あまりに高いレベルを想定し過ぎると、それは絵空事ともなりかねませんから、レベルを下げて、「運命の輪」(の象徴性)を見ていくことも必要です。
大事なのは、やはり三つ(三匹)の動物の位置、視点と言えます。特に、先述したように、輪の上にいるスフィンクスと、輪の中にいる他の二匹の動物との関係、さらに輪自体が回転しているということも重要です。
輪は運命だけではなく、回転するものの象徴にもなりますから、世の中に回転しているものをイメージすれば、いろいろな意味合いで、とらえることができるでしょう。
回転は、漢字を入れ替えれば「転回」となり、同じ音で「展開」というのもありますので、日本語の妙味で、これらが関連してくると言えなくもないです。展開するには転回し、回転しくてはならないのです。(笑)
回っているものといえば、地球もそうであり、自転・公転により、あるものが生まれています。
あるものとはすなわち、時間です。
このことから(それ以外からの理由もあるのですが)、この輪は時間も象徴します。
すると、時間に対する私たちの態度もまた、三つあることになります。時間コントロール、時間の活用にもつながってくる話でしょう。
さらに言えば、このマルセイユタロットの「運命の輪」には、取っ手がついているのがわかります。
ですから、回されるだけではなく、回せる意味もあるのです。これは見落としがちですが、意外に大事なところです。
輪の回転の影響を受けていない者は、説明したように、この絵ではスフィンクスになるのですが、もう一人、描かれていない存在があるのです。
それが取っ手を回す者です。
自らが回すのですから、輪の影響を受けないどころか、輪の回転そのものを創造しているとさえ言えます。
当然、輪に対して受動的ではなく能動的になります。
それはいったい、何者で、誰なのでしょうか?
そういうことを考えると、マルセイユタロットを見ているだけで、とても面白くなるのがわかるでしょう。
あなたも、「運命の輪」の輪、動物の三匹、そして取っ手を回す者・・・これらについて想像を巡らせてみませんか?
それだけで、あなたの悩み(波・闇を短縮すると「なやみ」です(苦笑))や問題に対しての、解決の糸口が見つかるかもしれません。
ちなみに、(神話の運命の)糸とも「運命の輪」は関係しており、まさにこのカードには、何かの「糸口」が象徴されているのかもしれません。
自分の幸福は自分でしか知らない
2年前の記事ですが、この世界の理不尽な不平等感に時々さいなまされ、グノーシスを探求している自分としては、つい、この世界の欺瞞性ばかりに目が行ってしまって、暗澹たる気持ちになることがあります。
そんな時は、この記事にあるようなことを思い出すようにしています。
私たち一人一人の人生は、一代限りで見ると、まったく不公平感、不平等さ、理不尽さ、矛盾に満ち溢れているように思います。そんな中で、いくら神(完全性)を見ようとしても、現実的にはなかなか厳しいところもあるでしょう。
過去の宗教の果たしてきた役割は、神を信じることで、そういった現実の不平等感を凌駕した公平性、神のオーダー(世界・ルール・ことわり)を入れることで、個々の自らの苦しみをやわらげていたところがあるように思います。
その反面、あくまでそれは見えない観念のようなもので、万人に本当に当てはまるルールなのか、証明のしようもないのが現実でもあります。
つまり、いくら神の存在とそのオーダー世界を信じようとしても、冷静に現実世界を観察すればするほど、その矛盾性・理不尽さなどが目につき、最終的には神や自分の信じている宗教からも離れ、人・世界というものがわからなくなり、闇に飲まれてしまうこともあると思います。
反対に、現実から目をそらし、あくまで信じる宗教の説くところの神の世界・オーダーを信奉し、それに生きている限りは救われる(救いの物語の登場人物に自分がなっている)のだと思うことで、精神的には均衡を保っている人もいるかもしれません。
ここでは「宗教」という例で話していますが、それが自分の信じるところ、救いだと思っているもの、逃げられるもの、一時的には幸せと感じられるものとして置き換えてみると、いろいろな示唆が見えてくるでしょう。
以下の2年前の記事は、自分自身を例として、こうした悩みにひとつの気づきを述べたものです。
ただ、自分の幸せを実現していくことが、神や宇宙、世界全体を幸せにしていくことになる意味について語ってはいますが、これは一歩間違うと、自我(エゴ)次元の幸福(トランスバーソナル心理学者の諸富祥彦氏の提唱している、人の幸福に種類分けのひとつですが)の追求に入れ替わってしまうおそれがあります。
自我次元の幸福を追い求めることは悪いわけではないのてすが、この記事で言っていることは、それを超えた次元の幸福のことです。
言い換えれば、自分一人の物質や現実的価値からの幸福ではないもので、自分の幸福を追い続けていくと、それは反転して、結局人類全体の幸福につながっていくという、結果というより過程的なものと言ってもよいでしょう。
マルセイユタロットで言えば、「手品師」「力」「世界」の流れとも言えますし、二枚で表現すれば、「吊るし」と「世界」の関係性とも言えます。
いかに、この現実の世界の中に天国を見るか? それはその人の霊的な認識性の向上によって変わってくるでしょう。
今は自分自身も含めて、ほとんどの人が、悪魔的な重しと色メガネでこの世を見ているようなものであり、それに応じた世界が現実として認識されてきます。
この世を不平等な世界と見る人も、その逆に、とてもすばらしき世界だと見過ぎてしまう人も、実はどちらもまだまだの認識性の未熟な途上かもしれません。
人それぞれ方法論は違うでしょうが、自分が幸福と感じるものを現実の世界で探しながら(たとえ自我・エゴにおいても、自分の幸せは自分でしかわからないものといういう気づきも重要で、それは他人から植え付けられるものではないという区別も必要です)、自分の単なる欲求を満たそうとするもののさらにその先にある、言わば根源的なものの世界から来ているものにふれようとする時、マルセイユタロットで言えば「月」のカードの次に「太陽」に出会うみたいなことが現れてくるのではないかと思います。
高次や全体を意識しながら、自分自身のオリジナルな幸福を求めていく姿勢とでも言いましょうか。
あなたはあなた自身でしか、本当の幸福を知らないのです。