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アセンションについて

スピリチュアルな世界、精神世界の考え方のひとつに、「アセンション」というのがあります。訳としては「次元上昇」と言われますが、ちょっとわかりづらい表現です。

まあ、簡単に言えば、私たちのレベル全体が上がるよ、それで世界が変わるよ、ととらえていいかと思います。(笑)

それで、「上がる」「変わる」と言っても、それは物質的なのか、霊的(精神的)なのかという点では、また違って来ます。もし物質的にも変わるのだとすると、見た目も何もかも変わるということになり、それこそ世界大改変といった現象として現れるでしょう。しかし、霊的・精神的な変容だとすると、内的には変わっていても、見た目、外的にはさほど変化はないのかもしれません。

もっとも、スピリチュアルの基本的な考えは、内が変わって外が変わる、あるいは外は内なるものの投影みたいに言われるところがありますから、霊的変化そのものが物質面も変えることになるのかもしれません。

グノーシス的にはおそらく認識の次元が変わると言いますか、深まる(高度になる)ことで、世界(宇宙)の見え方も変わる(それは空間認識の変化も意味する)のだと考えられます。

さて、ここで、よく言われるのは、宇宙は進化や発展の波・流れというものがあるので、どの道、人類も進化していくことになり、いわゆるアセンションも、時期が来れば自然に起きるのだという説があります。

一方、一人一人の気づきや努力が、アセンション(を起こす)には必要という意見も少なくありません。

前者と後者とでは対立してしまいますが、考えによっては、どちらも正しいとする見方ができるでしょう。

個人的には、霊的時間と物質的時間とに分けて考えないといけないかなと思っています。言い換えれば、アセンション後や、今の私たちの通常認識を超えたレベルの時間感覚と、三次元認識の現在の私たちの時間感覚では違いがあり、両者を区別して考えないと、おかしなことになるという話です。

ここからすると、宇宙の流れに従い、自動的にアセンションしていくという(受動的な)考えと、自己(各々)の努力、気づき、働きかけが何よりも重要という(能動的)考えの統合ができるように思います。

その詳しい考えの解説は、あえてしません。皆さん自身で考えてみてください。(笑)

マルセイユタロットで言えば「運命の輪」に描かれていることだ思いますし、「運命」というものをどうとらえるかによっても、アセンションに対する考えは異なってくるように思います。


願望はたくさんあり、移ろうもの

タロットを学んでいる人では、大アルカナと小アルカナの意味と言いますか、レベルのようなものが違うことはご存じだと思います。

もっとも、同じ階層で両者を扱うこともできるので、一概に大と小で異なるとは言えませんが。

それで、まあこれもひとつの考え方に過ぎませんが、私の中では、マルセイユタロットにおいては、大アルカナそれ自体、そして小アルカナそれ自体にも階層やレベルがあると見ています。(正確にはそういう見方ができるということです)

それらを考察していますと、まるで人間の中にもそのような(異なる)階層・レベルがあることがわかってきます。

そうすると、人の願いや思いというのも多層だとみなすことができます。この考えに立てば、あなたの今の願望とか欲求、さらには尊いと思っている気持ちでさえも、実はたくさんあるの中のひとつに過ぎないということも言えるのです。

さらに、人間には一生がありますから、自分の年齢や世代によっても思いは移り変わります。それくらい、自分の思いというものはひとつではないですし、移ろいやすいものなのです。

そして、人は自分の思いや願いに対して、それが叶ったり、満足したりすることを望みます。まさに「願望」という文字のごとしです。すると、その願望を満たす答えや方法というものを探し、よい結果を求めます。逆に言えば、結果とか答え(への評価)というのも、自分の抱く願望によるということになります。

何が言いたのかと言えば、現実に対して抱く思いも、自分の願望によるところが大きいということと、その願望は永遠に変わらないものではなく、むしろ移ろいやすいもので、しかもたくさんの思いの中の少数であるということなのです。

現実が願望によるところが大きいのなら、あなたの今の現実(への評価)は今の願望によってできていると言ってもいいのです。

ですから、生きづらさを抱えている人は、願望や思いの種類とか性質を変えてみると、少しはましになるのではないかと思うのです。それは、マルセイユタロットに描かれている階層やレベルで整理していくと、さらにはっきりするのです。

自分の今の思いは、どの種類でどのレベルのものか、それがわかりやすくなれば、願望を叶えようとする行動も取りやすくなりますし、また、それ(その願望)は、本当は今は必要ないなという気づきが得られれば、願望を満たされる・満たされないの葛藤からも解放されますので、すっきりするというわけです。

今のこの世の中は、経済中心主義みたいになっていますので、売り買いを促すというものが行動や心理の原理原則として働いていることがあります。すると、私たちは「買いたい」「持ちたい」という願望を無理にもたされている部分もあると言えましょう。

要するに、洗脳的に他者から刺激を受けて願望をもたされているということが多いのです。自分の願望だけでもいろいろとあるのに、他者からの押し付けられた(生み出された)願望も増えれば、それらを満たすためには、大変なエネルギーがいることは誰にでもわかるでしょう。そりゃ、心も体も消耗するはずなのです。(笑)

マルセイユタロットの「13」のように、シンプルに願望をそぎ落とすことも、人生を乗りこなすのには必要なことかもしれません。


「月」のカードを簡単に

これまで、ここ(HPサイト)のブログは、アメブロ保管庫みたいな役割で、アメブロ記事をそのまま転載していたのですが、しばらくアメブロの方を休止することにしたので、これから、たまに、こちら(このサイト)だけのオリジナルな内容のブログを(比較的ライトに)書いてみようと思います。

 

マルセイユタロットのリーディングや、その意味において難しいといわれている大アルカナのカードに「」があります。

以前、この「月」の象徴理解についての段階(進度でもあり深度とも言えます)を記事にしたことがあります。(あくまで私個人の見解をもとにしたものですが)

その記事(過去記事にあります)は、いわば、「月」の象徴を、個人の意識から人類全体への意識へ拡大移行して解釈するというものになりました。

ただ、実際のリーディングは、個別の対人というのがほとんとですから、結局、そのレベルにおいては、個人の感情と関係させることが多くなるように思います。

今までの経験上、リーディング展開において「月」が出るということは、簡単に言えば、気持ち(感情)に注目せよ、というタロットからのメッセージだと考えられます。

ほかの(出ている)カードとの関連によって、その「気持ち」というものをどう整理(処理、浄化)させるか、あるいは大切に見ていくか(守ることにもつながります)が決まってきます。

いずれにしても、人は感情の生き物とも言われるように、自分(あるいは他人)の気持ちを放置して行動していても、どこか違和感が出たり、すっきりしなかったりするものです。

もうひとつ、「月」のカードから、皆様にアドバイスしたいのは、「月」のカードが重要な位置で出る時、何か白黒はっきり決めたい意識が強すぎていないか注意する必要があります。

この場合、何か、狭い視野や自分に課したルールによって、選択が狭められているおそれがあります。

「月」はその絵が示すように、ぼやっとした不透明な印象のカードです。

また象徴的に見ても、毎日昼と夜がはっきりする太陽とは違い、月は夜に輝くのを基本としながらも、日中に見えることもあります。そして、月は自然のリズム、もっと言えば生命のサイクルにも関係しています。そういう(自然や命のような)ものは、突然現れ突然なくなるものではありません。生み出され、死滅していく期間、流れというものがあります。

ですから、今すぐに何かを絶対決めなくてはならない、というのとは真逆とも言えるのが「月」の象徴からも出るわけなのです。

マルセイユタロットの大アルカナでは、「月」の次に「太陽」のカード順になっています。

「太陽」の状態になるために「月」の過程は必須であり、そのため、「月」が人によっては、何か不穏ではっきりしないように思えても、その人自身や、何かの成就・覚醒にとっては必要な状態であり、時期なのだと“受け入れる”ことで、あなたは「太陽」の子どもを「月」の母として育てていることになるのです。


天上と地上世界との間で

これも見方や立場によって、いろいろと言えますが、私自身は、マルセイユタロットには、天上的なものと地上的なものとの思想対立とでも言いますか、葛藤が描かれているように思えます。

今のスピリチュアルに関心のある方たちの多くは、理想的には、そういう天上と地上の葛藤があっても、それらを統合していけるものという思いがあるでしょうし、また、地上的繁栄と天上的繁栄はリンクしており、言わば、精神的・霊的成長があれば物質的にも恵まれるという考えもある(実体験のある人もいる)でしょう。

しかし、マルセイユタロット的には、地上的なものと天上的なものは、結局、レベルとか次元が違うので、地上から天上を見るのと、天上から地上を見るのとでは、同じようでいて、まるで異なることではないかという気がしています。

もう少し別の言い方をしますと、私たちの視点は常に地上から天上へという方向性であり、地上における幸福や充実、発展、成長といったものを見ます。

私たち一般の人間が、幸せだとか充実だとか善だとかと考えたり、感じたりするものは、どうしても短期的(人の一生か、せいぜい親子・孫世代くらいまで)で、人間の実生活に基づく、肉体的・物質的なものが中心となります。

たとえ観点が精神的なものであったとしても、個人の心が思うもの、もしくは集合的であっても、その人類としての全体意識みたいなものとなります。

これが天上性からの方向性になりますと、言ってみれば神目線のようなことになりますので、非常に長期的、俯瞰的、宇宙的レベルなものとなるのは予想され、一人の人間の幸せ感(観)がどうこうとかのレベルでは当然ないでしょうし、たとえ人類全体規模であっても、しょせんはそれも小さな地球規模みたいなものです。(もっとも、宇宙は地球しかなく、その反映として、ほかの惑星や宇宙があるかのように見えているという説もありますが)

ということで、私たちは、地上生活を頑張って生きているわけですが、その過程や結果が思うように行かないことになるのは、誰もが経験していることだと思います。

それは地上的に見れば、不幸だとか失敗だとか、ちゃんと努力しいるはずなのに・・・と不満や理不尽さを感じさせるものではあっても、天上的に見れば、きちんと理屈が通っているものではないかということです。

マルセイユタロットの「神の家」ではないですが、天上的視点から見れば、地上の苦しみにも意味があり、それも真の幸福につながっているのだという視点です。

なるほど、これに基づくと、地上性と天上性とではレベルや次元の違いが大きく、私たちは天上ルールを推しはかることができないので、地上的幸福として人間レベルで見るのが普通となるがゆえに、天(天上・神)の真の意図がわからず、地上の不幸や災厄の本当の意味を知ることができないということになります。(逆に言うと、天からすると、すべては公平で完全、真の幸福に向かっていることになります)

ところが、そうでもないかもしれない、というのが今日の趣旨です。

実は、天上的レベルが、私たちのいる地上的レベルによって、まるで光が屈折して曲げられてしまうかのように、何か虚像、鏡像のように、(地上において)本当の姿でとらえられなくなってしまっているからだとも考えられるのです。

詩的にあえて表現するのなら、天上の光が正しく届いておらず、偽物の光を受けて、地上生活を照らしてしまっている(つまり影を見ている)状態だということです。

ですから、いくら地上的に平和を見ようとしても、そして天上的な立場に近づこうとしても、私たちが見ている世界そのものが虚像と言いますか、幻想のようになっているので、どこまで行っても平穏(真の安寧・幸福)はないみたいなことにも感じます。

ふと、ここで般若心経の文言が出てきます。

般若心経では、ひたすら、「そんなものは無い」の無い無いづくしに終始します。無いからこそ最上だみたいなことのようにも聞こえます。

スピリチュアルや心理系の世界では、肯定していくことが尊重されます。

しかし、否定し続けて行く方法もまた、真理に近づく道かもしれません。

地上そのものと、地上における欺瞞の天上性をすへで否定し続けていくことで、そこに現れる真の光(グノーシス)というものがあるのかもしれません。

一件、逃避的で破壊的、虚無的行為のように映るかもしれませんが、地上の苦しみの中にある人にとって、否定というのは、悪い思想行為とは思えません。むしろ救いの道の一つではないかと想像します。

地上における理不尽で大変な生活をしている人、あるいは、何か違和感を覚え、暮らしている人にとっては希望となるものです。

それこそ、個人的な感覚でいえば、下手な肯定よりも否定に愛があるように感じます。

本当にいろいろな道や選択はあるのだと思いますが、さらなる探究をマルセイユタロットを通して続け、自他ともに常識の世界(地上世界)からの希望と救いを見い出したいと思っています。

 

そして、諸事情で、しばらくブログ活動は休止いたします。(再開はする予定です)

またの日までは、過去記事もたくさんたまっていますので、お読みいただければありがたく思います。

それでは。


春分の日を過ぎて

春分の日が過ぎました。

最近は宇宙元旦などと呼ばれて、この日を特別に意識するスピリチュアルな方々が増えたようです。(個人的にはその言い方に違和感がありますが(笑))

少し考えればわかるのですが、最初に考えた人というより、その後にその言葉を使うようにしている方たちの中には、ちょっと商業主義や選民思想的なにおいもあるので、こういうものに流されて、ことさら春分の日を意識し過ぎるのは、かえってよくないという気もします。

まずは、日本における、お彼岸的なことを大切にするのも、初心に戻って重要です。お彼岸自体、民俗学的にも霊的にも、なかなか深い意味があると考えられるものだからです。

私たちは個別で具体的なレベルと、宇宙のような壮大でマクロ的、抽象的レベルの両方を、行ったり来たりしています。

自分に不足感を覚えたり、何か普段の生活に物足りなさを感じたりしている時、自分を大きく見せようと、巨大なマクロの方向へ逃避する傾向があります。

よい意味で言いますと、日常の細かなことに囚われ、日々追われるような状態になっているのを、大きな視点や意識になることで、そういったもの(自分)から解放され、ゆったりとした気持ちになることもあります。

しかし、現実逃避、嫌なことから逃げたい、人と比べて自分は劣っていると感じているような人は、自分を大きなものに仮託することで、あたかも、万能になったかのような感じになり、あるいは、何か外的な神のようなもののご加護を受けたかのような気持ちになり、気分がよくなる場合があるのです。

一種の麻薬投与、中毒みたいな形です。

スピリチュアルな情報は、注意しないと、こうした現実逃避や、幻惑(見せかけ)による痛みの緩和(麻痺)を自分にもたらすことがあります。(情報を出している人が悪いというより、それを扱う者の態度や姿勢のほうに問題があります)

春分の日が特別という情報にしても、それを鵜呑みにしていると、まるでこの日に祈れば、自分を自動的に幸運にしてくれる、現世利益的な願いが叶う、悩みをなくしてくれる夢の日みたいに(そんな人はいないと思うかもしれませんが、似たようなことになっていることに、気が付いていない人も少なくないのです)考える人も出てきます。

そこで、理性と感性の統合が必要になってきます。

なぜ、春分の日を特別に見るのかの根拠を考えないといけません。

すると、当然、地球と太陽の動きの関係性の理解が必要です。そのうえで、単なる天文学的に言っているのではなく、太陽の周期を象徴的に見て、私たちの内的・外的な部分とリンクさせていることも見えてきます。

ただし、理屈でわかっただけではまだ足りません。

重要なのは、感性とも合一してくることです。

言わば、暦自身に自分がなるような感覚とでも言いましょうか。平たく言えば、もし春分の日が宇宙元旦と呼ぶのであれば、文字通り、宇宙的な意味での年の始まりとして実感することができるかという意味でもあります。

これには、春分に対比される秋分、そして夏至・冬至のポイントとの感性的比較が実感できるレベルもいることでしょう。

宇宙元旦があるのなら、宇宙大みそかもあるわけ(笑)で、始まりばかりが強調されても仕方ないと言えます。

結局、太陽の見かけの通り道から規定される黄道十二宮など、占星術の概念・知識が必要になってきますので、占星術を学ぶのが、こうしたことを理解するのに手っ取り早くなります。

とすると、どのような人たちが、この宇宙元旦を述べているのか、広めているのかが、言わずともわかるかと思います。

しかしながら、よいことで言いますと、私たちは以前太陽暦から太陰太陽暦も含めて、「」を意識していた暦も使用していました。

「月」と「太陽」は、「陰陽」としてはもっとも有名な象徴と言えます。ところが、今は太陽暦が中心となり、地球から見た太陽の周期を意識する時代が、21世紀なのに強くなってきました。(天動説的な見方と言えます)

「月」というのは、受容性の象徴でもあります。「太陽」の光を受けて輝く「月」であり、自らで輝くというわけではありません。

もしかすると、私たちはこの「月」のように、何か「太陽」のようなものによって、やっとその存在性を示すことができていたのかもしれません。

けれども、これからの時代は、他者から光を与えられるのではなく、自分自らが太陽となって輝く時代へと変容しているとたとえられそうです。

マルセイユタロットカードの大アルカナも、「月」のカードの次は「太陽」のカードになっています。

「太陽」のカードは、燦燦と輝く太陽の下、二人の人物が手を取り合って喜んでいる姿が描かれています。

このカードの解釈は、様々にできますが、単純に見ても、二人が協力する、ふたつのものがひとつになる、統合するという見方ができます。

その二人とは、「月」の自分と「太陽」の自分かもしれません。

自分だけでは輝けなかった時代の人間が、自らで輝ける自分へと変化している様です。

エネルギー的にも、外から供給してもらわない(奪わない)と活動できなかった時代から、エネルギー自体が太陽そのもの(今のやり方で言う太陽エネルギーとは別のもの)、それは自分そのものでもあると気づく時代へと変革する象徴かもしれません。(単純に言えばコペルニクス的とも言えるエネルギー革命の可能性)

また「太陽」は自己意識も象徴します。

スピリチュアル情報に踊らされて、自己を確立できず、他者や情報への依存・洗脳・奴隷になってしまわないよう、情報は情報としてうまく活用しつつ、あくまで自分が中心であるという立地を確保することです。

そこには地上性としての現実もないがしろにできません。(自分が立つ大地でもあります)

宇宙意識に飛ぶのもいいのですが、実感もなく、さらに理性も使わず、ただ低次の占いのように、安易に信じている(妄信の)ような状態では、自分が「月」の状態にあるのと同じです。

せっかく、「太陽」を意識し始めているのですから、自分というものを大切にし、しっかりと確立していきながら、自他を解放していく方向に飛躍することです。

自己犠牲にもならず、自分勝手にもならず、自他を同じ観点で見られるレベルに、人類全体が向上することが、「太陽」の時代に求められる気がします。


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