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終わっていないものを終わらせる
先日、アニメ界最大のこじらせ案件(笑)とも考えられる「エヴァンゲリオン」(作品によって表記が微妙に異なるのですが)の映画、完結編を見てきました。
内容はネタバレになるので、ここではふれませんが、一般的には好評のようです。
まあ、この映画の個人的な評価はともかくとしまして、先述したように、多くのアニメファンを悩まし、四半世紀にもわたって大量の一般評論家、論客たちを誕生させ、同時こじらせてしまった作品が、とにもかくにも終わりを迎えたというその事実は大きいかと思います。
私自身はアニメ好きであっても、エヴァにはまったり、あまりこじらせたりすることはなかったのですが(あえて放置させていたところもありますが)、むしろ、タロットをやるようになってから、聖書をモチーフに、その散りばめられた秘教的な言葉と設定の暗号群が、非常に気になっていたこともありました。
この作品は、言わば、知識を得れば得るほど、自らで難解化してしまうという、面白い束縛構造を持っていたと言えます。まあそれだけ、この作品の生みの親である庵野氏の知識オタクぶりがすごいということでもありますが。
タロット(マルセイユタロット)的にも、とても面白い作品なのですが、その関連はまたの機会にするといたしましして、今日は、エヴァの終わりということで、完結をテーマとする内容です。
タロットリーディングを行っていると、終わっていないことが問題・テーマになっていることが読み取れることがあります。
それも、事象としての事実は終わっているのですが、心理的・内面的には終わっていないということが、特に問題性として出ます。
客観的には終わっているけれども、主観的には終わっていないものと言い換えてもよいでしょう。
ということは、タロットカードの展開における過去のパート(もしその展開法に「過去」という時系列を表すものがあるとすれば、ですが)が重要になってくるということです。
人には、自分自身も気づいていない、無意識や潜在意識的な情報・データがたくさんあると考えられます。
それらにはよいこともあれば、悪いこともあります(究極的にはいいも悪いもないのですが)。
もしそれらのデータのうちで、今の自分自身を苦しめたり、ブロックとして物事をスムースに行かなくさせるパターンのようなものがあるのなら、それは解除しておくとよいわけです。
解除しなくても、認識させること(そのことを知ること、意識化すること、納得できる理由付けをすること)でOKな場合もあります。
心理療法家の多くは、このことを行っているわけです。
このようなデータ・情報の中に、終わっていないことによる苦しみ・葛藤・不安・気持ち悪さ・違和感というものがあります。
その終わっていないことは、事件としては、いろいろ考えられます。多いのは恋愛、仕事でしょうか。また幼少期の様々な事柄ということも結構あります。
自分の恋が終わっていない、自分の仕事が終わっていない、家族のイベントが終わっていない・・・まあ、それ自体(事件)は人により、様々です。
大事なのは、事柄(起こった事件そのもの)ではなく、それに対する自分の感情、意味付け(認識)です。
それが何であれ、とにかく自分の内には、終わっていないという意識、気持ちが続いているのです。
終わっていないのですから、今もって継続中であり、ずっとそれが裏の意識、自分の内の意識していない別世界で動き続けていることになります。エネルギーもただ漏れです。(笑)
人間というのは自己再生力とか自己治癒力があり、そのため、このいわば未完了の状態・気持ちを何とかしようと、折に触れて、「完了してくださいよ」という警告、メッセージを出してきます。
もっと言えば、未完了なものを完結させるための環境・事件が用意されると言ってもいいです。ここでは「される」と言いましたが、無意識的には、自分がしている、「する」という言い方をしてもいいのです。
ということで、それは今の「問題」として発生したかのような形を取ります。
まあ、平たく言えば、避けていたことに向き合うタイミングが来た、処理し、終わらせる時が来たという知らせです。
それを放置したり、うまく処理できなかったりすると、また未完了事件として残り、次の機会を待つことになります。
だいたいは、ループ状態として経験されていくのですが、そのことに、多くの人は自覚できません。
本当はこのループ構造自体がとてつもない罠になっていて、霊的な意味合いがあるのですが、今は心理的なレベルにあえて落とし込んで説明しています。
ということで、マルセイユタロットにおいては、完了を示唆するカードとして、特に指摘するとすれば、名前のない「13」が代表的であり、ほかにはサイクルの完結と始まりを示す「運命の輪」、再生的新生とも言える「審判」、それらの前兆や低次選択事件として起こる「恋人」、高いレベルでの見地から、達成と始まり、あるいはそのプロセスを示す「神の家」、大アルカナナンバー最大でもっとも数の大きい、まさに大いなる完成を示す「世界」などが挙げられます。
その他、水に流す意味での「星」とか、移行エネルギーそのものを表す「愚者」、征服、克服を意味する「戦車」など、見方によっては大アルカナのほとんどが完結性の意味を取ることが可能です。
しかし、やはり、最初に挙げたカードたちが出るのが、その意味合いとして顕著と言えましょう。
終わらせるためには、今回のエヴァゲリオンの映画でもやっていたことですが、儀式と自らへの(これまでへの)祝福が必要となります。それには従来の見方の反転的観点もいります。(「吊るし」とも言えます)
カモワン・ホドロフスキー版マルセイユタロットの製作者の一人で、映画監督・セラピストてもあるアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、自らの映画作品においても、そして、セラピーとしてのサイコマジック技法においても、未完了のものを完了させていく儀式を行っています。
マルセイユタロットは、一種の儀式的ツールでもあるので、タロットリーディングという行為そのものが、一種の儀式となっているのです。
葬送儀礼をすることが葬式であり、それによって死者の魂は、自らが死んだこと、生が完結したことを知り、生きている側は、亡くなった人が、まさに故人となったことを認識します。
たとえ死者とか魂のことはわからなくても、少なくとも、生きている現実の人々にとっては、葬式によって、死・終わりを認識する区切りにはなります。
ただ単に亡くなったというのではなく、式典によって、死者を弔うわけで、言ってみれば、これまで生きた方への慰労と敬意、死の世界への旅立ちの祝福でもあります。
これと同様、葬式をされていない、自分の中にまだ死にきれない亡者として彷徨ってい感情があると見るのです。
きちんと弔い、葬ってあげないと、その感情はゾンビ化して(笑)、自分を苦しめます。
エヴァンゲリオンでも、こじらせてしまった人の精神の残骸が大量に彷徨っていたのでしょう。(苦笑)
それに終わりをもたらせたのが、2021年の今回の劇場版だったということです。比較的好意的に今回の作品が受け取られているのも、そういう人たちにとっては、本当の意味で、エワンゲリウム、福音となったということだからでしょう。
そこからしても、マルセイユタロットにおいては、「13」(完了・終わり)によって、「審判」に浮上するような(福音を受け取る、新たに再生する)構造を見ることができるのです。
日本語の言葉で単純化すれば、それは、「さようなら」そして「ありがとう」(「ありがとう」そして「さようなら」でもある)と言えるものでしょう。
タロットの図像と天使
マルセイユタロットの絵柄には、細かい象徴・形がたくさん図示されています。
精巧なタイプのものだと、それらひとつひとつに正当な理由や意味を見出すことが可能です。
図像の中でも、代表的な図柄(すなわち象徴)と言えるようなものもあり、その中のひとつには「天使」の図があります。
マルセイユタロットの天使の図像については、以前にも何度か書いたことがあります。
私自身は、ブログの内容をほとんど覚えていないので(笑)、いつどのブログであったかは定かではないですが、比較的新しいもので、天使の現れるカードを具体的に指摘して、その違いや共通点などを書いた記憶が一応(苦笑)あります。
気になる人は、過去ブログを読んでみてください。
ああ、そう言えば、この前、生徒さんにも言われたのですが、私のブログ、どうやら2000記事にもなっているようで、何か特定の記事を探すのは大変かもしれません。ブログ内検索ができるのならいいのですが・・・
それはともかく、今日の天使ネタはまた別の観点です。実は、天使の図像だけに関わらず、ほかにも言えることが含まれます。
ところで、タロットにおける(に描かれている)図像・象徴(シンボル)と、同じシンボル図像であっても、一般的に言われているものや、国とか地域、はたまた歴史によってなど、その意味とか解釈が違っている場合もあります。
いや、細かいことを言えば、すべて異なっていると言ってもいいくらいです。
ただ、やはり根本的なことと言いますか、そのシンボルが表す元型的な意味合いは、どれも共通していると考えられます。
私のタロットの講義でも詳しく説明していますが、象徴・シンボルというものは、言葉にすると、すでに象徴・シンボルの大元から微妙にはずれていくことになり、つまり具体性を増せば増すほど、象徴からかけ離れた意味も出てくるということなのです。
例えば、マルセイユタロットの中に、「蛇」の象徴・シンボル図があります。
皆さんは「蛇」と聞くと、何か邪悪なもの、怖いもの、悪魔の手先とか、凶兆のようなものとして、一般的には思われるかもしれません。
しかし、蛇皮などを財布に入れる人もいて、金運をよくするものとか、吉兆的なシンボルとして見る人もありますよね。
宗教や文化の違いによってもとらえ方は変わり、西洋のキリスト教観の蛇と、東洋の私たち日本人の思う蛇、中国やインドにおける蛇とかは、西洋とかなり異なるところもあるはずです。
このように、同じ象徴・シンボルと言っても、厳密に言えば別のものと言ってもよいことがあるのです。
マルセイユタロットはその名の通り、ヨーロッパ、フランス中心に作成されたタロットです。従って、象徴・シンボル図の基本が、西洋的なものの意味を成していることは、当然想像できることです。
このため、「天使」の図像も、ヨーロッパにおける「天使」の存在、意味合いを考えていく必要が、まずあるわけです。
そうすると、どうしても宗教的にはキリスト教からのものを想定しなければなりません。キリスト教が精神のバックボーンとしてあるのが西洋だからです。
ところが、マルセイユタロットは、深くには、キリスト教とは異なる思想が描かれてあり、それが秘伝的内容になっています。
ということで、「天使」ひとつとっても、表向き・一般的なその地域(タロットが作られ、流布した地域)における象徴の意味、文化的背景と、図像に隠された、裏の意味を知ることが同時に必要となってきます。
このあたりはまさに象徴学といってもいい分野になってきますので、それゆえ、マルセイユタロットを理解し、使いこなすには、それなりの知識的学習がいるのです。
もちろん、タロットは感性やインスピレーションによっても使うことが可能です。
ですから、何も知識的アプローチしか理解の道がないと言っているのではありません。
いわゆる私たちの思う「知識」というレベルも、高度の感性を支えるものに過ぎず、本当の理解は日本語の智慧に相当すると考えられ、それは、感性的なもの統合した高度の知識・理解と言えましょう。
さて、そうした感性的(この場合は少し低次になりますが)にタロットの図像・シンボルを見た場合で、「天使」をどうとらえるか、です。
感性的なものは、言わば自分が感じ、思う、イメージの世界からの情報ですので、言葉としての知識的なものからの意味合いとは異なってくることが多いです。
その分、個人や個に沿った意味になることがあり、言い方を変えれば、その人の天使のイメージとかリアリティの度合いによって変わってくるものです。平たく言えば、その人の思う(考える)天使のイメージが出ると言ってもいいです。
この場合、天使を実在的にとらえる人と、非実在性として見る人との大きな違いがあります。
前者は、実際に天使の存在をリアルに認めている人で、天使の存在をエネルギーや映像のように、見たり感じたりできている人と言えましょう。
いわゆる「スピリチュアル系」の人たちで、例えばチャネラーの方とか、西洋的なエネルギーヒーリングをしている方、西洋系の神的存在のサポートを受けたり、縁があったりする人たちに、このようなタイプはいらっしゃいます。
後者は前者と比べると一般的と言え、天使がいるかどうかというよりも、天使というのを象徴的にとらえて、現実におけるサポート的存在だと見るような人になってきます。
前者の人たちにとって、タロットの天使図像は、そのまま文字通りの天使を意味することがあり、天使の描かれているカードへのリアリティ、インパクトも違ってくるでしょう。まさに、(あなたが実際に感じている)天使からのメッセージだと解釈してもよいのです。
一方、後者の人たちには、天使はサポートや癒し、愛などの、あくまで”象徴や比喩”であるので、それに関連する、現実の人間や事柄を表す場合もあれば、自分に向ける内的な状態や、外(他者)への態度などを示すこともあるでしょう。
天使の図像が具体的に描かれている単体の大アルカナカードは、「恋人」「節制」「審判」「世界」ですが、「節制」を除き、天使単独では出ておらず、ほかの存在と一緒であり、しかも人であれ、動物であれ、結構多人数です。(逆に、「節制」の天使はそれだけほかとの違いが強調されていることになります)
このことから、天使のサポートは、縁によって運ばれるとか、多数や混沌の中でも必ず救いの天使がいる(天使が紛れ込んでいる)と見ることができ、それは天使の実在性を思う人にとっては、本当に天使存在であり、そうでない一般の者にとっては、あなたを助けてくれたり、癒してくれたりする人や物事ということになるかもしれません。
どちらの人にとっても共通的に見ることができるのは、天使的色彩とか使命を帯びた「縁(えにし)」が働いているという解釈です。
つまり、天使が実在していても実在していなくても、何らかの救済的な縁が連なり、あなたに救いがもたらされようとしているという見方です。
天使が見えていない人には、天使が背後に働いているものの、現実の救済的な出来事(目に見える形)としてそれが発生し、天使が見える人には、天使の意を受けた人や物事がやってきている(天使が動いてくれているのがわかる)という見方もできます。
また、あなた自身が天使になる(天使の意を受けた人となる)ということも言え、実際的には誰かの助けになる、癒しを行う、援助する、みたいな解釈もできます。
ある(マルセイユタロットに関係する)神話では、一人一人に天使がついていると言われます。
その導きによって、私たちの魂は真の霊的世界、天上世界へ帰還しようとしており、その際に、他者の天使(目覚めようとする人間も含め)とも協力し、いわゆる悪魔的な存在によって眠らされ、麻痺のような状態になっている人間を治癒し、覚醒させていく役割もあるとされます。
メルヘン的ではありますが、この意味合いは、実はとても深い象徴性があります。
タロットで天使のカードが出た時、皆さんの中の天使を感じてみるのもよいでしょう。
「勇気」のカード
タロットカードの勉強において、意味を覚える作業は、どうしても出てきます。
ただ、一枚のカードがひとつの意味(言葉)を成すのではなく、言葉・単語としては、多くのものを思い浮かべることができます。
それは、タロットの図像が象徴でできている(象徴という機能がある)ためです。
カードの意味を覚えるとしても、それはあくまで、そのカードの象徴(本当の意味)を理解するための導入に過ぎす、象徴を言語化するためのきっかけなのです。
それがわかっていないと、カード→意味の方向が逆になって、意味→カードとなり、その意味はそのカードでしか表せないという誤解・妄信に陥ります。
さて、今日は「勇気」という言葉と、タロットカードとの関係について考えたいと思います。
最初になぜ、カードの意味を覚える際の注意点について書いたのかと言えば、この「勇気」という言葉・意味においても、あるカード一枚がそれを表すだけではなく、ほかのカードにおいても「勇気」の意味を見出すことができるからなのです。
マルセイユタロット的に考えた場合、「勇気」の意味があるものとして想像できる代表のカードと言えば「力」かもしれません。
「力」は、その絵柄の通り、女性がライオン(子ライオンではなく、ちゃんとたてがみのある雄の大人ライオンです)を抑えているように見え、それはかなり勇気のいることだと想像できます。
本当のところは、この「力」の女性は、別に必死の決意で勇気をもってライオンに対しているのではなく、ライオンを御せるほどの「フォース」を扱うことができるからなのですが、タロットは見た目からの意味合いもあるので、「勇気」を「力」から読み取ってもよいでしょう。(実は、深くには、別の意味で勇気だと考えられることもあるのですが、それは秘伝的なことに関係しますので、ここでは言いません)
しかし、何も「力」だけが「勇気」意味するとは限りません。
例えば、「戦車」や「13」、「神の家」とか、その他のカードでも、考えようによっては勇気の意味合いを取ることも可能です。「悪魔」でさえ、神に逆らうサタン的なことでは、勇気あるとも言えなくはないです。
究極的には、どのカードでもそれ「勇気」を見つけ出すことはできます。
とは言え、やはり、前進性、特にマルセイユタロットの場合は、カード人物の向いている方向性にも意味を持ちますので、どちらかと言えば、右向きのカードにそれを思うことができるでしょう。
となりますと、具体的には、「愚者」「女帝」「法皇」「力」「13」ということになるでしょうか。
ただ、さきほど述べたように、前進性を示すもので言えば、「戦車」も左向きとはいえ、馬車に乗って戦いに勝利している人物がいるので、例外的にあげられるかもしれません。
右向きのカード、上記5枚のうち、「女帝」と「法皇」は、ちょっと勇気をイメージしにくい対象かもしれません。
それでも、あえて、それぞれから勇気を取るとなりますと、「女帝」は創造性に関係することで、やはりクリエイトすることには、それまでの既成概念を打ち破り、斬新なアイデアを生み出し、提供するということでは、勇気が求められることがあると考えられます。
アイデアや発想を思いついても、それをすぐ引っ込めてしまうのではなく、新しいことを創造していくには、勇気をもって、それを提示していくことが必要だと言えそうです。
また「法皇」は、教育者も表しますが、教育していく人、何かを伝えていく人にとっては、これも時には権力とか体制、支配者に対して、一言持っておかないとならず、勇気をもって諫めたり、悪い方向性や後退的に向かう状況の場合、勇気をふるって、それを打破する教え、伝達をしていくことが重要となるでしょう。
「力」はすでに述べた通り、一番「勇気」を象徴しそうなカードですし、「愚者」と「13」も、その姿勢を見れば、次に移行し、従来の世界から新規な世界へと新たに歩みを進めている状態が見て取れ、そこには勇気というものが後押ししている、あるいは、勇気ある態度でないと次へ行けないと思うこともできます。
改革など、古いものや固定してしまったものを破壊して、新しくするための勇気もありますが、一方では、大事な人やものを守ったり、正しいと思うことを主張したりするような保守的な勇気もあります。
その場合、女性的なカードや、動きの少ないカード、右向きのカードたちが現れ、先述した改革的な前進性のあるカードたちと一緒に出ることで、保守的な勇気というものを意味させることもあるでしょう。
それから、「愚者」のカードと関係しますが、無謀さと勇気はまた別だということです。
「愚者」は、ある意味、勇気があるから「愚者」でいられるとも考えられますが、本来的には名前のように、愚か者に見えるような、意外性と言いますか、普通の常識人からすれば異質性がある人物です。
もし「愚者」が問題性として現れれば、それは勇気ではなく、無謀ということが示唆されてくるでしょう。
「愚者」本人は、実は勇気とか無謀とかなど意識せず、ただしたいことをするみたいな、何ものにも束縛や規定のされない人、あるいはそういうエネルギーを示すのですが、「愚者」を見る人物、「愚者」と関係する側の者たちからすれば、「愚者」が無謀に見えたり、勇気ある人物とみなされることになるのです。
つまりは、意味付けているのは、見ているこちら側、(この見ている側とは、一般的客観的視点という意味と、カードを実際に見ているタロットリーダーとかクライアントという意味のいくつかの層があります)ということもあるのです。
このように、カードには、それ(カード)そのものの意味と、カードで表されるような人物や事柄と対する側の反応の意味みたいなものも含まれます。
こうした双方向の意味合いを意識することは、普通のタロット学習では少ないですが、高度になれば、そうしたことも考慮しておくと深い洞察がカードからできるようになります。
あと、ちょっと話は変わりますが、自分にとって勇気を出さねばならい時が、意外にわかりづらいことがありますよね。
または、勇気を出さねばならないと時とわかってはいても、なかなか踏み出せない場合もあります。
こういう時は、自分だけで考えていると、なかなか結論が出しにくく、勇気を出すタイミングが遅れたり、勇気を出さなくても本当はいいところで、出してしまったりということもあります。
要は、勇気への判断がつかみづらいわけです。
ですから、タロットの出番なのです。
タロットカードを引くことで、勇気を出す時なのかどうか、そして出しにくい時は、その要因は何か?(この分析には、小アルカナが特に役立ちます)ということがわかりやすくなります。
カードというツールがあるために、自だけではわかりつらいこと、目に見えない内的なことなど、カードによって外側に表現することができ、自己のことでも客観的に見たり、絵であることで具体的・視覚的にとらえたりすることが可能です。
「勇気」と一口に言っても、今見て来たように、カードで象徴化すれば、たくさんの種類があることがわかります。
同時に、勇気の度合いも、人によって異なります。
ある人にとっては、簡単で勇気がいらないことでも、別の人にとっては、大変勇気のいることもあるわけです。
こういう個別性に対しても、マルセイユタロットは応えて(答えて)くれ、あなたにとって、今勇気が必要なのか、そうではないのか、どんな種類の勇気がいるのかなど、示してくれるのです。
混沌としている今の時代、全体的にも、一人一人においても、勇気がより必要になってきたのではないかと思います。
あなた自身の勇気を、タロットカードとともに見つめ、発揮していくことで、あなたの自身の新しい世界を創造していくことができるのです。
時代に見る「節制」と「悪魔」以降
全部がそうとは言えませんが、マルセイユタロットの、特に大アルカナは、いろいろな進化・発展を示唆していると考えられるところがあります。
それも、このブログでも何度か述べているように、大アルカナの数順に成長していく仕組みが図示されていると考えられるものです。
タロットにおける数(カードに付与されている数)は、ただの“番号”ではありません。
数そのものに象徴性があり、言わば、カードの中の絵柄と同じような性質なのです。
しかし、番号と呼び習わすこともでき、それは順序の意味を持つことでもあります。それが大アルカナの数の特徴のひとつとも言えましょう。
ところで、前にも書きましたが、私は時代の進化と大アルカナの数の進みとはリンクしているという説を取っています。
そこからすると、「節制」へ向けた時代へと変化(シフト)していることになるのですが、「節制」の次の数を持つカードは「悪魔」で、もっと進むと、「神の家」「星」「月」「太陽」「審判」「世界」まで続いていきます。
私の考えているタロット大アルカナ時代進化説は、単純なものではなく、「節制」への時代シフトというのは、大きな意味(括り)でのことで、さらに細かく言えば、「戦車」までの進みや、「節制」自体に注目することで、その前の「13」とか、次の「悪魔」以降の関連性も出てくるものとして見ます。
そうすると、「節制」前後の「13」と「悪魔」は、時代進化のために、かなり重要なカードになると考えられます。
「13」については、また別に言及することもあるかもしれませんが、今日は「悪魔」とその次の「神の家」との関連について、少し述べたいと思います。
時代の進化や交替については、タロットのみならず、例えば、西洋占星術でもそれらについて示唆しています。
今ではよく知られている「風の時代」とか「水瓶座の時代」(それぞれの区分けは違いますが)というのも、それになりますね。
タロットよりも、むしろ占星術のほうが、特に長期的な時代の変化を見るにはよい部分もあり、一般的にはタロットと時代関係はあまり言及されないようです。
ともあれ、ここで言いたかったのは、占星術で指摘されている「風の時代」、または別の分け方ではありますが「水瓶座の時代」というものの特徴を見ていくと、マルセイユタロットの「節制」的な意味合い(その名の節制的なというより、共有・助け合い、情報の交換などの面)が見てとれるということです。
ほかにも風の時代的区分からすると、「節制」以降のカードたちにリンクするような意味を見出すことができます。
ですから、やはりマルセイユタロットで言うと、「節制」以降のカードに、これからの時代の進化を見ることができるわけです。
すでに今現在も、インターネットの普及と日常使いによって、情報ネットワーク、交換、シェア、発信は爆発的・飛躍的な拡大を遂げています。
しかし、そうした、言わば、情報の雨の中にいながら、まるで特定の傘の中で待機しているかのように、同じ考えや気持ち、思想をもっている者同士が集まり、そのグループのようなものの中で肯定的な情報のみ回し合うというような事態になってきています。
グループにおいて肯定的というのは、グループの者たちが違和感を持ったり、否定されたりするような情報は入れない、拒否するということになり、もっと言うと、信じたいことしか信じないような状態が強固になっていくわけです。
今の人たちは、情報や交流の機会は昔よりはるかに巨大でたくさんのものを持つことができるわけですが、情報の取捨選択もより自由になり、結局のところ、多くの人が、自分の好みによって、偏った情報だけを入れる、実質的にはとても狭い世界(閉鎖的な中)にいる状況となっています。
直接会うということも、コロナ禍でますます減少し、ネットを通して、仮想的に知っている、文章や声だけ知っている、動画では見たことがある・・・という、およそ交流とは言い難いレベルのものが増加しています。
つまるところ、各々が、ほとんど本質的にも、自分一人の世界状態になっていると言っても過言ではないかもしれません。
ただ、それでは寂しいので、同調できる人たちとはつながろうとし、その結果として、グループ化・サロン化することがたくさん起きています。
もちろん、ネット前の時代でも、グループとかサロンはあるにはありましたが、今のようのものではなく、もっとメンバーのつながりがリアルであったと思います。まあ、その分、泥臭さ、人間臭さも多かったかもしれません。
しかし、今のグループ・サロンは、ネットを通してできあがるもので、入退会も比較的緩やかであり、またリアルでの交流は少ないですから、本当のところで、メンバー間のことは知らなかったり、人間性が希薄な関係になっていたりすることもあるでしょう。
そして、リアルの集団とは違って、嫌な人とか、異なる意見を面と向かって言い合うみたいなこともあまりなく、あっても、ネットなので機械(間に何かを挟む)を通してのものとなりますので、本音と言いますか、トータルに情報が伝わりにくい(リアルで向かい合う総合情報が欠如されている)ことになってます。
そのため、人間同士の線引きがあいまいになり、かなり踏み込んでくる不躾な人、非常識な人、逆に機械やロボットのように感情を見せずにあっさりと関わる人(得体のしれない状態の人)など、奇妙な人間関係も生まれやすくなります。
また、ネット社会では、結局、自分一人の世界(自分の気持ちが中心)に行きつくと言えますので、言わば、一人一人が分離されている状態と言え、そのため、誰か強烈な個性とかカリスマ性を持っている人物が作るグループには、簡単に洗脳されて属するようなことになってしまいます。
そうすると、リアルの時の集団において、それに一番近いものとしては、新興宗教の集団・グループのようなものになってくる場合があるのです。
ネット社会の台頭によって、いろいろな情報が流れ、共有され、発信もしやすくなって、かつてリアル社会にあった障壁がなくなってきたのも事実ですが、反面、(新興)宗教サロン化という事態も進んできているということなのです。
それがまさに、「節制」から「悪魔」という、マルセイユタロットでの象徴性に合致しているわけです。
やはり、自分の好み、感性の指向性だけで情報を入れてしまう、選んでしまうということが問題であると思います。
ネットでは、情報は多くても、事実というものが逆にぼかされ、デマ・フェイク・偽物(者)であっても、簡単に一気に情報として流布してしまう危険性があります。
いつかは、出所とか情報の確かさを判定させる仕組みも整ってくるとは思いますが、今はまだ過渡期で、まさに有象無象の情報世界の中に放り出されている状態で、結局、人は、自分の気持ち、感情、欲求で選ぼうとしているのだと言えます。
今後、「悪魔」から「神の家」という、タロットの進みを考えますと、ここに大きな仕組み、きちんとした選別ができるシステムや知性の構築が求められるとも言えます。(外だけではなく内からも)
神道的にいえば、魔を神と誤認するのではなく、審神者(さにわ)を通して、きちんと神を認識しなくてはならないということです
これから、ビジネスも趣味も、ますますサロン化・グループ化が進むと思われますが、健全な理性的精神、中立・バランス性、さらには霊性をもっておかないと、まがい物に囲われ、魅力ある言葉、モノ(お金)、見せかけの関係などによって、自分が悪魔の虜となってしまい(「悪魔」のカードのひもでつながれた人物)、成長していると幻想の中で思わされて、その実、停滞、傷のなめ合い、カルト的耽美、思想の先鋭化、搾取の犠牲、端的に言えば奴隷になってしまっていることもあり得ます。
さらに、自分がつながれる側になるだけではなく、世の中に簡単に発信できることで、承認してもらたい欲求の自我が肥大し、悪魔としてつなげていく側に変化(へんげ)してしまうことも考えられます。
まあしかし、これには、深い意味でいうと、本当の意味で独立して共有し合える状態に進化するための過程であるとも考えられます。
やがて「神の家」のあと、「星」「月」と進み、「太陽」という、真(高度)の統合社会へと発展していくことと想像します。(勝手に進むというのではなく、タロットで言えば、ほかのカードで象徴されることがクリアーになってくる必要性もあります)
いずれにしても、日本で言えば、昭和時代までのような、組織とか会社とかで守られ競争し、それ単位で評価・認識し合うような時代は過ぎ、一人一人の個性が強まり、同時に、情報と移動の自由性・選択制も増して、シェア・共有度も上がっていくのは間違いないことですが、一方で、「悪魔」の象徴性(欲望・感情によって集まるサロン・グループ化)も強まってくるということです。
それぞれのグループ・サロンがセクト化したり、カルト化してくると、小国のようなものがバラバラに存在し合うことによって、ネットでせっかくつながりやすくなったのに、実体は分離が激しい世界になっていることも考えられます。
したいようにする、やりたいことをやる、自分を出すという流れは、時代的にもそうなってきたわけですが、今度は、それを大いなる意味で律すると言いますか、整えていく過程が、やがてやってくると思います。
それはこれまでの現実のしがらみで制限していたルールとか束縛とは違う、高度な次元のルールと言えます。
一言で表せば、霊性に基づくものと言えましょう。そのレベルが低い形では、道徳とかと言われていたものです。(ただそれでは束縛と変わらないところもありました)
やはり、マルセイユタロット的には、「神の家」ということが鍵になるように思います。
まだ自分を苦しめている人、個性を押し殺している人、他人の期待する人生を無理やりに生きている人は、まずは自分の個(自我部分の自分らしさ)を発揮する(取り戻す)ようにするとよいです。ただ、その過程で、「悪魔」につなげられないように注意してください。
そして、自分自身が出るようになってくれば、見えてくるのが自他の霊性の向上という目標になってくるでしょう。言い換えれば、自我の自身ではなく、自己の自神、「神の家」に向かうことでもあります。
その時は、後戻りするようですが、「節制」もまた深い意味を持ってきます。
マルセイユタロットは、このように、いろいろな意味で指針・航海図となるものなのです。
日常と非日常、そして違和感
前の記事では、マルセイユタロットのリーディングにおいて、細かな象徴図を拾い上げていくと、客観的な視点ができて、カード解釈の共通的理解や根拠として役立つことを述べました。
この時は、シンボルの共通性を発見することが鍵なわけでしたが、逆に、異質性を見ることも重要であることにふれました。
つまりは、展開の中で、明らかに目立つ何らかのことは、タロットからのメッセージ性が強いと見るわけです。
このことは、実は、タロットリーディングだけではなく、普段の生活、私たちの人生においても言えることかもしれません。
私たちの意識は、毎日繰り返される日常的な意識・通常的感覚と、特別な日とか、気合が入る時など、何か普段とは違う非日常的な意識になる瞬間(長く続く時もあります)があります。
非日常性は、文字通り、日常にあらずということで、民俗学的には、ハレ(非日常・特別)とケ(日常・普段)という区別がなされます。
ちなみにケの状態が続くとケガレとなり、そこにエネルギーを入れてケに戻す必要があるため、ハレの日があると言われます。いわば、ケ→ケガレ→ハレ→ケという循環・サイクルになっているわけです。
農耕生活を主体としていたかつての日本人は、農作業の普段生活の中で、季節の折々にふれて、稲作や畑作の重要な時期に祭り(祭祀)・儀式を行うことで、ハレの日を作り出していました。まあ、意識していたというより、習慣化していたと言ったほうがいいかもしれません。
しかし、私たち現代人の生活は、農作業が中心ではなくなりましたので、きちんとしたサイクル・リズムができないのが普通となりました。また季節とか自然の流れも無視して、昼も夜も、夏も冬も、服装とかは違っても、ほぼ同じように(特段の区別なく)毎日を過ごしています。
これでは、自然と乖離していくのも、そしてケガレ状態、あるいはハレ状態が日常的になるのも仕方ないのかもしれません。
ですから、今の人たちほど、昔よりも、意識的にサイクルを作り、日常と非日常、聖と俗などの時空を設定(区別)しておいたほうがいいと言えます。
パワースポットブームなど、神社・仏閣・聖地などを訪れる人が増えましたが、これも日常におけるエネルギーの消耗・枯渇、混乱が多くなっていて、そういうパワースポットに行くことで非日常性にふれ、リセットしたいという欲求が、ひとつには働いていると想像されます。
そして、タロットを扱うということは、非日常や聖なるものとつながる時間・空間を持つことを意味し、それをうまく使いこなすことで、乱れたリズム・サイクルを整わせることができます。
ただ逆に、タロットばかりの時空に行き過ぎると、逃避的・厭世的な感じにもなって、非現実的な感覚が強まりますので、それはそれで注意が必要です。
さて、こういったこととは別に、日常性と非日常性とで重要なのは、普段の生活の中で突如出現する異質性です。
言い換えれば、それはシンクロニシティ体験であったり、何か言葉では表しにくい違和感のようなものとして現れます。
シンクロニシティの場合は、偶然であるのに必然のように感じる出来事で、明らかに意味があるように思える繰り返しとか、タイミングの良さでの現象と言えます。
どちらかと言えば、関係性があることが連鎖するみたいな、共通的な事柄が意味あるかのように繰り返されることが多いかもしれません。
それとは別に、どこか違和感を自分は覚える、いつもと違う・・・というもので感じられる現象があります。
シンクロは比較的テーマとして取り上げられることも多いですが、違和感そのものについては、あまり言及されていません。しかし、違和感も、ひとつの非日常的なメッセージだと言え、意外に放置できない重要なものがあると考えられます。
「違和感」というように、「感」の字があるので、感覚的なものとしてとらえられることが多いでしょうが、思考・論理においてもそれはあり得ます。
感覚の場合、ハートや心というものもあれば、体そのものの違和感ということで感じるものもあるでしょう。
心理的にも、体の違和感は、たいていは心と結びついており、違和感の場所によって、ある程度、問題性のパターン(怒りとか不安とか恐怖とかを示すものと)も言われています。
そして、思考の違和感も大事で、つまりは、「この考えはおかしいんじゃない?」と思うような感覚です。
仕事とかビジネスにおいても、ある人から「この方法が正しい」とか「これでやると結果が出せる」と言われても、自分にとっては、そのやり方に違和感がある場合もあります。
また、人数的には多くの人が述べている(信じている)主張であっても、やはりおかしいのでは?と自分は思えるケースもあります。昨今の流行りの陰謀論など、そういう傾向があるかもしれません。
いずれにしろ、違和感を覚えたということは、オートマチックに働く日常性や、自身の安定・安心・共感とは異なる何かがあったことを意味します。
よいにしても悪いにしても、注意信号であるのは確かです。
違和感を放置しておくと、あとでとんだしっぺ返しと言いますか、その正体が大きな問題となって出現することがあります。大病になる前の警告だったのに、放置していたから入院・手術することになった・・・みたいなものです。
しかし逆に、違和感を気にし過ぎていたら、それこそ、ささいな違和感を拾い上げようとすれば、いくらでも出てくるのが人間ですから、神経症的・ノイローゼ状態にもなりかねません。
ですから、違和感を放置するのも問題ですが、違和感のパターンとか大きさを、自分なりに把握しておくことも重要かと思います。
違和感も、実は、当然ですが個人差があり、というより、ほぼ個人的なもの(感覚)なので、自分なりのコントロールが可能です。
違和感というメッセージの発信の、自分なりのパターンを観察し、理解するようにするということでしょうか。
やばい違和感(笑)と、そうでもない違和感、ネガティブな警告の意味の違和感、自分の意固地さ、柔軟性のなさを示す違和感など、いろいろと違和感(の意味)にも種類があるわけです。
大きく分けて二種類、このままでは危険だよ、おかしいよとホイッスルを鳴らすかのような違和感と、逆に、そのままでいいのかい? もっとできるはずだよとか、もっと勇気を出して、チャレンジしてとかの意味の応援的、創造的(それは旧の自分の破壊でもあります)な違和感があると考えられます。
どちらであるかは、最初はわかりにくいかもしれません。
違和感にもシンクロがありますから、それによって判断できる場合もあるでしょう。ただ、どちらにしても、そのままの自分では問題だということです。何か対処する必要があるのです。
それでも、違和感の意味がそもそもわかりにくい場合もあります。ですから、タロットようなものがあれば、それは理解の助けになります。
タロットの出方によって、それが自分を守るための違和感なのか、壊す(改革)のための違和感なのかが、比較的はっきりするでしょう。
個人的には、違和感は、意外にも天使の象徴図で表せるとも考えています。
例えば、タロットの天使の図像の出方がどうかを確認することによって、違和感の正体と対処法が見えてくるということです。
象徴というのは、このように、見えないものやわかりにくいものを、見えやすい形にしてくれるものなのです。
