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再掲 タロットへの質問
何度か扱っているテーマですが、また「タロットへの質問」について書こうと思い立ちました。
ところが、自分のアメブロサイトに、二年前の同時期に書いた「タロットへの質問」に関する記事があがっていまして(笑)、偶然のような必然かと思い、再掲載しておくことにします。
この記事自体は、「占いからの脱却を観点にした“タロットへの質問”」についてですが、占いのことは抜きにしても、タロットへの質問そのものが、タロット活用(の種類)を変えていくことが述べてありますので、タロットリーディングする者にとっては、結構、重要な記事かと思います。
特に後半は、自分に対してタロット使う(自己リーディング)する場合の方法を、質問のやり方のほうからふれていますので、自己リーディングは難しいという人には、是非読んでいただきたいと思います。
ここで、また少し補足しておきます。
タロットへの質問は、タロットリーディングには必須なものと考えられていますが、実はそうでもありません。
特に、自分を洞察したり、客観視したりする自己リーディングにおいては、質問があるほうが読みにくい場合もあるほどです。
ですから、質問はあえてせず、タロットを展開してから(引いてから)質問を見つけるという、逆の方法もあるのだということをお伝えしておきます。
カードが出たあとで、それを見ながら、「自分は何を質問したかったのだろう?」と推測するわけです。
結局、絵柄から想起されることは、図像という「象徴」を通して、あなたの意識(顕在・潜在含む)にあったものを言語化、表面化させたものと言えます。(そうとも限らないことも、本当はあるのですが、ここではそれはひとまず置いておきます)
ならば、質問はなくても、それはあなたの関心や注目として浮上してきたものなので、いわば「答え」みたいなものと見ることができ、そこから逆算すれば、質問もわかってくることになります。
質問とは知りたいことでもありますから、まやかしではなく、本当の意味で、自分が求めていたものとなり、「ああ、私はこの質問がしたかったのだ」と気づくことにもなります。
この場合、変な話になりますが、真の質問の発見ために、タロットリーディングしていることになります。
タロットリーディングは、ある意味。答えを探すものというより、質問を見つけるための方法になることがあるのです。
タロットにおける視線、目の意味
マルセイユタロットには、カードに描かれている人物の視線が、比較的はっきりしています。
私自身、カモワンタロットから入った者なので、そのカモワン流では、カード人物の視線を重視した展開や、リーディングをすることで、自然、カードの視線については敏感になりました。
カードを観察すると、厳密には視線と言っても、微妙な違いがあるのに気付きますし、それらにはきちんと意味が込められていると感じます。(カモワン流で伝えられていること以外の意味もあると思っています)
それはさておき、私たち人間においても、視線方向というのは意味を持ちます。
普通は意識的に何かを見る時に視線は向けるものと考えますが、無意識的にも視線を向けていることもあります。
この無意識の視線の向け方が意外に重要なのではないかと思います。
心理療法やNLPの世界でも、視線の向け方には意味があるとされており、視線の動きによって意識を変えることは、普通に行われています。
おそらく眼球と脳には密接な関係があり、その動かし方、働きによっては、心や意識を変化させたり、逆に縛ったりすることもできるのではないかと予想されます。
そういえば、漫画・アニメのナルトに出てくる「うちは一族」の特殊な目は、脳に強烈なストレスがかかることで、特殊な目の力が開眼するという設定でした。
いわゆる「目力・めぢから」と呼ばれるものは、古くから知られており、陰謀論でおなじみのプロビデンスの目(これ自体は陰謀による支配の目ではありませんが)も、神の全能なる力を示す目ということで、目の特別な力を象徴しているように思いますし、エジプトのホルス神の目として、ウジャトとラーの目の力が伝えられています。
ということで、視線、目をどこに向けるのか、あるいはどこに向けられているのかということは、実際的にも、象徴的にも大事になることがあると、マルセイユタロットを見ると感じます。
普段、自分はどこを見ているのか、何にもっとも視線を向けているのか、これを調べてみると、自分の関心や結果を出そうしている分野にまでわかるかもしれません。
当たり前ですが、無関心なものには視線は注がれず、「視線がくぎ付け」という言葉があるように、強い注目があれば、視線はそこに向きます。
ということは、自分の関心の中心は視線の先と、注がれる時間の量にあると言えます。これは他人もそうでしょう。
しかしながら、最初に無意識の視線があると述べたように、自覚していない視線の向け方もあるので、それは無意識の関心ともいえ、自分ではない他人から確認してもらう必要があるかもしれません。
いずれにしても、たとえ無意識であっても、視線は関心や注目を示していると言えますから、自覚はなくても、あなたはそれに何らかの強い関心があるのだと言えます。
ただし、関心・注目と言っても、ポジティブなものだけとは限りません。相手に向ける敵意とか嫉妬とか執着など、ネガティブな理由もあります。
さらには、無意識のうちに縛られてしまっている関心(トラウマや何かの固定観念)もあり、やっかいなのは、他人から、意図的もしくは無自覚に植え付けられた印象があり、これは簡単に言えば「呪い」「呪縛」ということになります。
無意識の場合、見えない領域にそれはかけられますので、サイキック能力者とか呪術師などは、シンボルや使役する心霊的存在などを使い、いゆわる「呪(しゅ)」をかけます。
つまりは、対象者の視線を、無意識のうちに常にそれに向けさせるような話です。実際の意識としては、普通に対象や関心を見て生活をしているわけですが、呪縛があると、実は見ているようで見ていなく、無意識の視線(力のある視線)は別に向けられていると言ってもいい状態になります。
そう、タロット的に言えるのは、私たちの視線には、力のある視線と力のない視線があるということです。
通常は、その両方があいまって、私ちは物事を成し遂げていくのですが、残念ながら、視線によっては、力のあるものとないものとが分離し、実行力のない視線ばかりを使っていることがあります。
グノーシス的には、神の視線と自分の視線を一致させるのが、視線に力を復活させることになりますが、これらは特に、「力」から「審判」「世界に」至る過程で描かれていると言ってもよいです。
いわゆる第三の目の開眼も、視線に真の意味で力を宿らせることにつながると思われますし、そのことは、第三の目をいろいろなカードで象徴させているマルセイユタロットからも指摘できることです。
「太陽」や「月」になぜ視線(人物の顔)があるのかも、人の視線の力と関係していると想像されます。
とにかく、視線については、一般的には普段、ほとんど意識していないでしょうけれども、マルセイユタロットを扱っていると、視線について、文字通り注視することになり、意識的な視線と、無意識的な視線、それぞれの力について、思いを馳せるようになるでしょう。
そして、何事かを達成したい場合、よく言われるように、それに向けて視線が向くように、それがよく視線に入るように工夫する必要がありますが、反面、無意識に縛られている視線のほうも重要で、いくら視線に望ましいものを常に入れようとしても、無意識に注がれている視線の方向性によって、本当の視線は力を失っていますので、物事は現実化しにくいと言えます。
心理的に言いますと、自分の心が本当に向けている的(まと)が何なのかということで、囚われているもの、こだわっているもの、不安にさせたり、行動にブロックがかかったり、無意識のうちに取ってしまったりする行為など、その要因を探って解除させることであり、そのほうが、実は重要な場合もあるのです。
幸い、マルセイユタロットは、すでに述べたように、視線がはっきりしているため、使う技術によっては、意識と無意識の視線の方向を推測することが可能です。
無意識の視線とその的(まと)についても、完全ではないにしても、探索がかなりできることになります。
同じタロットではあっても、視線がはっきりしていないカード、視線はあっても、それに象徴システムとして機能させていない(つまり方向性などに、意味がきちんとつけられていない)ものは、視線の機能はあまり使えないことになります。
ここに、マルセイユタロットの良さのひとつがあげられるでしょう。
結局、言い方を換えれば、真実の視線(目)を取り戻すことが、マルセイユタロットに描かれている目的なのかもしれません。
覚醒と言ってしまえば簡単ですが、「目」は眠っている(眠らされている)ことと、起きていること(自ら起きること)、いわば、無明であることと、覚醒して悟ること(光明を得ていること)の違いとしてよく象徴されますので、目のシンボル図については、それこそ“注目”してみるとよいでしょう。
生きづらさの原因
この世に対して、生きづらいと感じている人は、少なくないのではないかと思います。
実は私もそうなのです。
生きづらさを、もし他人に対して述べると、たぶん、いろいろと慰めてくれたり、この世は捨てたもんじゃないよとか、励まされたりするのではないでしょうか。
まあ、人によっては、「そんなことどうでもいいじゃないか」「つべこべ考えず、働け、ただ生きろ」と言われるかもしれません。(苦笑)
そして、たいていはカウンセリングとか、心理療法、自己分析、自己探求の学び、セルフケアーみたいな方向性に向かいます。
そのことでおそらく、ほとんどの人は、自分の生きづらさの原因がこれだったのだとか、こうすればましになるというものに行き当たるとは思います。
しかし・・・です。
それでも、何か、どこか、やはり生きづらさを感じている・・・何らかのおかしさ、違和感のようなものをずっと覚えている。。。
こういう人もいるのではないでしょうか。
つまりは、心理的要因や療法だけでは完全に納得できない、すっきりしないところがあるわけです。(この場合、外側の環境要因については理解している、あるいは改善、克服しているとしたうえでの話です)
すると、結局、行きつく先は、スピリチュアルの領域、霊的な分野になってくるように思います。
逆に言えば、人は、大きく分けると、肉体的・環境的レベル、精神的・心理的レベル、霊的・スピリットレベルで生きていると言えます。
このようなことは、グノーシス思想では、すでに数千年も前から語られていることでもありますし、スピリチュアルに興味のある方ならば、人の体や意識の領域が、数段にわたって多重性をもっていることは、半ば常識でもあります。
ということで、本当に生きづらさを解消するには、自分の意識の多重性について気づき、それぞれにおいて、受容・ケアー・解放していくことが必要なのだと考えられます。
が、今日は難しい話ではなく、物語・メルヘン風に、生きづらさの解消について考えてみたいと思います。
それには、ズバリ、この世を仮想現実の世界として見ることが、まずあげられます。
その前提であるとすると、大きくわけて、生きづらさについて、ふたつの解決方法が考えられます。
●ひとつは、仮想現実社会をゲームとして楽しむこと。
●もうひとつは、仮想現実世界からの脱出を目指すこと。(覚醒、ゲームからのログアウト)
いや、そもそもこの世を仮想現実の世界と設定するのがおかしいのではないかと思うかもしれませんが、あくまで「生きづらさ」を感じている人に焦点を当てているので、その場合、この世が本当にひとつだけの現実であり、動かしようがない、変えようがない世界だとしてしまうと、救いの道が閉ざされてしまうから、仮想現実の世界としておいたほうがいいのです。
この世が仮想現実、つまりはバーチャルリアリティの世界だというのは、今ではよく言われるようになっており、SF映画やアニメの世界では、非常によく見られるもので、人気の設定になっています。
それが本当かどうかというよりも、そういう考えを受け入れることで、生きづらさを感じている人には、実は一筋の光明となる可能性があり、その意味で、この世が仮想現実であると、とりあえず設定しておくわけです。
そして、仮にそうだとしても、やはり生きづらさは自分としては感じているので、それをどうするかということになります。
すると、さっきの二通りの道が出てくるわけです。
しょせん、この世はゲームの世界だから、割り切って、楽しんだり、経験したりしよう、生きづらさも何も、ゲームのキャラだったら感じて当然であるし、それが本質的(キャラを動かしている本当の自分)には実は問題ではない(生きづらさは本質にはなく、仮想現実のキャラと世界だけにある)ということになります。
そうは言っても、なかなか割り切れないですし、この世はあまりにリアル過ぎて、つらいし、痛いし、苦しいし、仮にアバターである自分であっても、生きづらさを味わうのは苦しいということもあります。
ゲームであっても、ゲームにのめり込んでいる自分としては、ゲームの自分と本質の自分とが一体化していしまい、仮想そのものが、もはや真の現実と区別がつかなくなってしまっていることも考えらます。と言うより、ほとんどの人はそうです。
従って、自分がゲームの仮想世界にいることを思い出し、本当の自分に戻る方法を取っていくことが求められます。
一部の人には楽しいゲームかもしれませんが、生きづらさを感じている人には、そもそもゲーム設定が間違っていて、ひどいくそゲー(笑)を選んでしまった、あるいは難し過ぎるゲームに手を出してしまった・・・ということになり、言ってみれば、ゲームと言うより、ギャンブルをやっているようなもので、間違った楽しみを選択したおそれもあるわけです。
だからこそ、一刻も早く、このゲームからログアウトし、本質の自分に戻るか、別の(真実の)自分が本当に楽しむことのできるゲームをやるほうが、生きづらさから逃れるためにはよいと言えます。
ほかの方法としては、「いやいや、なかなかこのゲームはやり方やコツさえ覚えれば、楽しめるものなんだよ」と、ゲームの達人から教えてもらうのもありかもしれません。
では、ゲームから脱出するにはどうすればいいか?
という大問題(苦笑)があるのですが、これこそが、古代から連綿と続く、秘儀や密儀としての教えであり、一部には宗教の形で伝えられているものなのです。
もちろん、現代的な方法もいろいろと探索されており、様々な方が、いろいろな方法で研究、実践されているところと言えましょう。
マルセイユタロットも、大アルカナは、この脱出を目指す方法の絵図であり、小アルカナはゲームを楽しむほうを示していると言えます。(しかし、その逆の考え方もあり得ます)
脱出・ログアウトの道はかなり難しいかもしれず、たいていは、仮想現実世界としてのゲームを楽しむ、充実させるほうを選択してしまいます。確かにそのほうが、別の意味で現実的です。
ただ、これからの時代は、個別ではなく、全体として、「皆さん、そろそろログアウトしませんか?」という問いかけと言いますか、お知らせがゲーム主催側から言われている(マルセイユタロットでは「審判」のラッパのようなもの)ように思います。
このゲームにしがついている時代は、終わりを迎えようとしているのかしもれません。
もしかすると、そうやって、私たちはいくつものゲームを乗り換え、遊んできた可能性もあります。
いわゆる天使とか、宇宙人とか、次元上昇した人など、ライトスピ系で言われる高次の存在は、そのように、多くのゲームを経験し、クリアーしたり、卒業してきたりした方々かもしれません。
その人たちはその人たちのレベルで、また高度なゲームにチャレンジしているのでしょう。その中には、私たちのゲームに入り込むような設定のものもありそうです。
まあ、とにかく、生きづらさを感じている人には、あなただけのせいではないですし、心理的問題だけとも限らないのですよ、ということが言いたいわけです。
人のせいとか世のせいにしてはいけないと多くの人は言いますが、本当にそうなのか?この世界の設定そのものが、どこかおかしいのではないか、と疑ってみると、生きづらさ自体は感じでも、案外、これまでよりかは楽になれることもあるので、お話したまでです。
もっと言うと、生きている価値がないと思う人は、それはその通りですよという、普通ではありえないアドバイスもできます。(笑)
これはあなた自身に生きる価値がないと言っているのではなく、こんな世の中、ゲームの世界なので、生きるも死ぬも、仮想の設定であり、価値そのものは、ゲーム体験自体でのものなので、本質のあなたとは無関係であるという意味で述べているのです。
だから「生きているだけで価値がある」というのも、この視点からすれば、ゲームに参加していることそのものに価値があることで、なかなか体験できるゲームではなく、それゆえ、ゲームキャラが簡単に終わりになってしまってはもったいないので、生きている(ゲームにログインしている)だけでも、それはすごいことに値しますよ、とも解説できるのです。
とは言え、もう飽きた、このゲームはそもそも嫌てす、という人もいるわけで、それが生きづらさの本当の理由である場合も、もしかするとあるかもね(笑)、みたいな話なのです。
過去を受けれ入れること
タロット占いでは、質問者が、未来の、特に選択事項に関心があることが多いため、時系列的に過去を象徴する位置のカードを引いたとしても、「こういうことがありましたね」みたいな確認に留まり、あまり深く読むことは少ないのではないかと思います。
もし占い的な意味があるとすれば、当たる当たらないの目安として、過去が当たっていると確認できることが一番大きい理由になりそうです。
過去が当っているのなら、未来もまた当たる(当たっている)だろうというわけです。
しかし、私たちが行い、講座でも提供しているのは、“タロットリーディング”であって、“タロット占い”ではありません。
採用しているスプレッド、並べ方も、過去の位置に一枚だけおくようなものではないので、過去を読むにしても、単純なことだけには終わらないのです。(シンプルなケースも場合によってはありますが)
タロットリーディングにおいては、過去を読む理由は、占いのように、過去が当たっているかどうかとか、ただあったことを確認するためだけとは限らず、もっと別の意味と目的があります。
それは講座において論理的に説明していますが、簡単に言えば、過去はたとえ事実であっても、当人の解釈によって起こった事象は変わるからだと言っておきましょう。
もうひとつ加えるならば、人は時間に支配されている部分と、支配されていない部分があり、その両方をタロットは扱うことができるため、過去というひとつの時系列を見るのは、いろいろな意味で重要だからです。
ところで、最近、ネットである記事を見ました。
それは、とある方面では名の知れた人の話で、自分には才能があり、その才能を活かしたものに進む予定ではあったものの、周囲からの勧めで、あるオーディションを受けることになり、合格して、その方面での活躍は一時的にはできたものの、世間からはその方面での人物とレッテルが貼られ、本当にしたいこと、目指していたことができなくなり、長年、悔やんでいるというものでした。
自分には開花すべき才能があり、本来はそれで認められ、活躍するはずだったものが、あらぬ方向に回されたため、道を間違え、自分の才能を活かすことができなかった、あの時、自分の意思を貫いていれば今の悩む自分はない・・・と何十年も後悔し続けているというお話でした。
これを読んで、いろいろと思うところがありました。
まず、よく最近、言われるように、自分の本当の気持ちとか、自分のしたいことに向き合うという大切さです。
やはり、自分に嘘をついて、だましだましの選択とか行動をしていると、いつか後悔することになって、重荷を背負い、たとえ物質的には成功しても、心や魂の安寧は訪れないのかもしれないという点。
ただし、これは、だから自分の本当にしたいことは必ずやったほうがいいということを述べたいわけではありません。
大切なのは、自分の気持ちに対しての正直さ・誠実さであり、その気持ちを抑圧したり、ごまかし続けたりすることへの懸念です。
自分のしたいままに、自由に望み通りの人生を送り続けられる人はそうはいないでしょう。
やりたいことができなかったり、、逆にやりたくないことをやらされたりすることは、普通にあることです。ですから、ライトスピリチュアルのような、気軽に、「自分の本当にしたいことをやれば幸せになれる」と簡単には言いません。
ですが、自分の気持ちを大切にしないことと、本当にしたいことがやれないのは別です。
自分の気持ちは受け入れ、認めたうえで、現実といかに調整し、向き合っていくかというところなのです。
人生に葛藤は当たり前で、それでも、自分の気持ちは無視しない、抑圧しない方法を考えようというわけです。
そして、もうひとつは、自分の過去(選択したこと、起きてしまったこと)を受け入れられないと、つらい人生になってしまうことです。
ここが、最初に書いたように、タロットにおいては、過去をリーディングすることにつながってきます。
一言で言えば、自分の過去に感謝できるかどうかになります。
感謝まで行かなくても、実はそれほど思ったより悪い選択(過去)ではなかったと、自分の過去を受け入れることができれば、今の自分は間違いなく変わるでしょう。
すべてを受け入れることは難しくても、一番重荷だと感じ、葛藤し続けていることに対して、感情的エネルギーを変換できれば、かなり違ってくるわけです。
人や周りの環境・社会のせいではなく、よい意味で自己責任(ただしこれは自分に罪がある、すべては自分が悪いというのとはまるで違います)であることを認めていくことになります。
あと、「あの時、こうしていれば今の(不幸な)自分はないはず」と後悔する人もいますが、()の部分をそのまま(幸せな)に換えれば、真逆のことにもなってきます。
つまり、今の幸不幸の原因を過去に帰することは、必ずしもできないということです。
まさに、マルセイユタロットの「運命の輪」の中の動物たちのようなものです。幸不幸がクルクルと入れ替わるように、いいと思うようなことでも、実は悪いことの始まりであったり、そのまた逆の、悪いと思う状況が、いいことのきっかけになったりもします。
誰も、あの時の選択が本当の意味で間違いなのか正しいのかなど、わからないのです。もしかすると、正しいと思っていた選択肢が、今よりも不幸と思えるような結果になっていたかもしれません。
時系列として、自分か現在にいるから、過去の意味が決定しているだけであって、過去(の意味を)決めているの自分自身なのです。
現実の時空間の中では、確かに成功や失敗、間違いと正解というのも、一般認識ではあるでしょう。
しかし、私たちの本当の意識(自己)は、制約ある時空間の外に存在していると言われます。
ならば、本来の自己から見て、間違いも正しいもなく、すべてエンターテイメントな経験であるとみなすことができ、それならば、マイナスと思えるようなことであっても、ドラマがあったほうがむしろ面白いかもしれないのです。
事例にあげた、とある方は、もしセラピーのようなものを受け、過去の自分を本当の意味で受け入れることができれば、過去、間違ったと思っていた選択が、実はすばらしいものであったこと、それによって得た財産(物質・精神ともに)が、不幸だと思っていたことと同等くらいにあったことに気付くでしょう。
すると、時間の流れとしては変わらないものの、この方にとっての過去・現在、そして未来さえも、一気によいものに変わる可能性が高いです。
過去・現在・未来が変わるということは、これすなわち、人生そのものが変わることと同意義です。
後悔を語る人は、それを聞かされ続ける人にもつらいわけで、場合によっては、過去にその人と関わった人に嫌な印象を与えているどころか、その人たちの過去自体も暗いものになっている(させている)おそれもあります。
ですが、過去の認識が変わった人であれば、今度は周囲の人を明るくし、気持ちのよい状態にすることができます。そして、自分と過去に関わった人の記憶も変え、その人たちの人生の意味もまた変えて行きます。
ということは、過去を受け入れた人の囲む宇宙そのものが肯定的になり、その人を支えていくことになるわけです。
しかしながら、当人しかわからない苦しみ、悩み、葛藤はあります。他人事だから、簡単に言えますが、長い間苦しみ続けるには、それだけのこだわり、強い思いがあるわけです。
そうしたご本人の苦しみに配慮することも、人として大事かと思います。
人間、年を取ってきますと、それだけ過去が積み重なってきているわけですから、簡単にはいかないこともあるでしょう。
それでも、後悔した人生で終わるより、霊的にも、とにかく生き切り、自分の人生にそれなりの意味を見出し、心を軽くして、現実界を旅立ったほうがよいように思います。
「愚者」はなぜ“愚者”なのか?
タロットには「愚者」という、ほかのカードとは違った特徴を持つカードがあります。
トランプで言うと、「ジョーカー」にあたるもので、ゲームでは切り札であったり、変幻自在、オールマイティーの力が付与されていたりします。やはり、トランプにおいても特別です。
タロットの「愚者」の、他のカードとのもっとも大きない違いは、数を持たないということです。大アルカナにおいて数がないのは、この「愚者」だけです。
それゆえ、トランプのジョーカーのように扱うことができ、どの数のカードでもない代わりに(数の配置に入らない)、どのカードにもなれる、どこにでも配置できるようなところがあります。
そんな、ある意味、強い力を持っているカードなのに、名前が「愚者」とは、いったいどういうことなのか?と思う人もいるかもしれません。
名前はもっとかっこいいと言いますか、強キャラ感(笑)漂うものであってもいいはずです。
もちろん、タロットカードの名前は、絵柄から由来しているので、マルセイユタロットの「愚者」の絵柄を見ると、ズボンが破れているのに気にもせず、上を見て歩いている人物がいて、まるで愚か者のように見えるので、当然のネーミングのようにも思います。
さきほど、私は、タロットカードの名前は絵柄が由来していると言いました。
しかし、そうではなく、もしも名前が先に決められていたとすればどうでしょうか?
私は長いこと、マルセイユタロットを見てきまして、その可能性もあるのではないかと考えています。
いや、名前が先とか、絵柄が先というより、同時進行のようなもので、ある思想や型・パターン・設計図のようなものがもともと製作者(たち)の中にあり、それをモデルとして図示した場合、あのような絵柄になり、実は一枚一枚の名称としては、最初から決まっていたものがあったのではないかと思えるところがあります。
いや、名前の厳密性よりも、型やパターンとして登場させる予定の象徴存在を描くと、今のタロットカードのそれぞれの名前になっている、あの一般的な名前で表すのが適切(な名称)だったというところでしょうか。
こう考えますと、「愚者」は、愚か者のように描きつつも、本当はそうではない(愚か者ではない)可能性が高まるのです。
むしろ、あえて愚か者を装った風に描く必要性があり、「愚者」の中にある何かを隠そうとしたのかもしれません。あるいは、愚か者、愚者になることそのものが、マルセイユタロットを作った人たちからの伝言ということも予想されます。
これはどういうことかと言いますと、簡単に言えば、賢いふりをしていても、真実(真理)はつかめないよ、わからないよ、ということです。
アニメ、ドラゴンボールの最初のエンディングソング、「ロマンティックあげるよ」の歌詞にあるように、まさに「大人のフリしてあきらめちゃ、奇跡の謎など解けないよ」というわけです。(笑)
歴史的に見ても、いわゆる本物の賢人や革新を起こすような人は、通俗性を超え、変人であったり、愚か者を装ったりすることがよくありましたし、一般人から見て、時には嫌われたり、常識はずれと思われたりしました。
いつの時代も、その当時の常識、世間体のままにいれば、やはり枠にはめられた凡人と言いますか、未知なるものへの探求心と行動は鈍るかと思います。
だから、マルセイユタロットの製作者たちは、「愚者」のカードとその姿に、私たちへの意識の変革を促そうと託したのかもしれないということです。「愚か者」と思われるくらいにならないと、本当のところはわからないし、今の自分を超えることはできないよ、と。
人間、思えば、バカになることは、実は難しいものです。他人をバカにすることは結構するのに、自分がバカになること、バカだと思われることは、プライドが許せないし、感情的に不快なのです。
でも、よく言われるように、バカは最強です。創作の世界でもバカキャラは実は強キャラであり(笑)、恐れもプライドもなく、何も知らないので、ある意味、最強なのです。
ところで、ソクラテスの言葉として有名な「無知の知」というものがあります。正確にはソクラテスの言葉というより、ソクラテスのことを記したプラトンからのものと言われますが、ともかく、この言葉も、「愚者」と関係すると思います。
「無知であることを知っていることが、本当の知の始まりになる」という意味でもあり、また、結局は、無知であることを自覚すると、自分を真の知に向かわせることを示唆する言葉と言われます。
この言葉に関連するソクラテスのエピソードとして、デルフォイの神殿とその神託があるのですが、そのストーリーは省略するとしましても、デルフォイの神殿の入り口に掲げられていたとされるもののひとつが、「汝自身を知れ」という文言であったと伝えられています。
※ちなみに、マルセイユタロットにはアルカナナンバー2としての、神託を得そうな、巫女的な女性のいるカード「斎王」もありますし、ナンバー16には「神の家」という、神殿そのもののようなカードもあります。さらには賢者として見える「隠者」も、ナンバー9として控えています。
この言葉は、グノーシス的にも非常に重要なものですが、(これはあくまで、ひとつの仮説・見方ですが)マルセイユタロットの中にグノーシス思想があると考えますと、「愚者」というカードの存在は、極めて意味深いものだと思います。
私たちは、まずは「何も知らない」と思うこと(知ること)であり、そしてそれは、裏を返せば、実はすべてを知っているからそういうことにもなるのです。
禅問答のような話ですが、マルセイユタロットの「愚者」とその他の大アルカナを見ていますと、実感してきます。
なぜ「愚者」は旅姿をしているのか? ここにもヒントがありそうです。
ちなみにタロットの種類によって「愚者」のカードの絵柄は違いますが、それはそのタロットの目的によって変わるからであり、マルセイユタロットの場合は、「愚者」という名前ではありますが、実際の「愚者」に描かれている人物の絵はフラフラとはしておらず、しっかりと大地を踏みしめて歩いているところが、例えば、ウェイト版などの「愚者」とは違う点だと言えます。(ウェイト版とは人物の向き・方向性も逆です)
「無知の知」の自覚を通して、真実の知は私たち自身の中にあると知るのでしょうが、そのような精神的・哲学的なことだけではなく、現実の地上世界を旅する理由も、「愚者」にはあるのだと考えられます。
そして、その旅人とは、ほかならぬ私たち自身、あなたの姿なのです。
皆さん、「愚者」になって初めて、真実の旅が始まることを自覚しましょう。
逆に言えば、自分は知識がある、賢い、わかっている、えらい、ほとんど経験した・・・などと驕っていたり、どうせ私はこの程度とか、しょせん、何もできない人間だとか・・・自己を低く見たり、投げやりだったりしている時は、真実の世界ではなく、いまだ幻想の世界に生きている(旅をしていない)と言えるのです。