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タロットとの縁、双方の小宇宙。
タロットと関係する人というのは、最初からカードとかタロットが好きで、当然のようにタロットを手にする人もいれば、タロットなどまったく興味はなかったのに、ふとしたつながりで、偶然のようにタロットと関わるようになったという方もいらっしゃるでしょう。
私は完全に後者です。
そして、ことマルセイユタロットで言えば、前者の人もおられますが、そして統計を取ったわけではないのですが、どこか、感覚的には後者、つまり、タロットに最初興味はなかったけれど、偶然のような必然で関係するようになったという方が多い気がします。
私は、マルセイユタロットを学び扱うようになって、より思うのですが、物事は双方向(時には多方向)から見ないと本質はつかめないと考えるようになりました。
そこからしますと、タロットとの縁も、自分からつなぐ縁と同時に、タロットからつなげられる縁もあると感じます。
前々から言っておりますように、自分がタロットを選んでいるようでいて、実はタロットから選ばれているところもあるのだと。
これは、タロットだけではなく、人やモノ、あらゆる事象との出会い、縁でも言えることかもしれません。
自分はあの人を選んだ、あの学びを選択したと思っていても、向こうのほうがあなたを選んだのかもしれないのです。
そして、その双方向の働きと言いますか、複合的な作用、化学反応にも似た状態によって、両者の関係による体験、事件、事柄、意味合いが生まれてきます。
これは両者によってできあがったものなので、決して一人だけでは誕生しなかったものです。その意味では、あらゆる関係は「結婚」という象徴で言い換えることができます。誰もが、いろいろな結婚を体験しているのです。
しかし、両者によって生まれたものであっても、それぞれの見方、認識は異なることもあるでしょう。人との出会い、関係性はこの意味が強いです。
それでも、同じ時空と言いますか、関係性でできた小宇宙とでも言える中に両者はいるのです。思えば、この小宇宙が、山のように世の中にはあるのだと想像します。
この両者の共同作業によって生まれる経験や時空は特殊であり、まさに双方によってできあがるものなので、両者の関係性のエネルギーによって、様々な状況を見せることもあるわけです。
例えば、あの人のおかげで自分は救われたとか、その逆の場合もあるでしょう。
まさに、小宇宙の中の色とりどりの星々の動きみたいな感じです。
片方の自分からだけの視点では、「自分がなになにをした」とか、時には傲慢に「自分がなになにをしてあげた」と思うこともあるかもしれません。
しかし、双方の関係性から見ると、その反対の解釈にもなるわけです。それこそ、自分こそ、「してもらった」とか、「させられた」ということにもなるのです。
よく、失ってはじめて本当の大切さ、本当の意味を知った」と言われますが、双方の関係性で生まれていた小宇宙が壊れる時、つまり、別れとか新しいものとの関係性に移る時、今までの双方によってできあがっていた小宇宙で体験した貴重な経験性を知ることになります。
すると、自分の主体性・能動性は、客観性・受動性として認識され、その逆もあり、自分が受け身であったと思っていたことは、実は自分が引き起こしていたと、その能動性・主体性(よい意味でも悪い意味でも)に気がつきます。
私自身も、その昔、ある人にいろいろ与えていたと思っていたものが、別れた時に、実は、自分のほうがたくさん与えられていたのだと気づくことがありました。
また、自分があの人を見出したのだと思っていたら、反対に、「私(相手)があなた(自分)を見つけたから、あなたが私を選んだのです」という意味合いのことを言われて、なるほどと感心したこともありました。
すべての関係性は(人とだけではなく)、こう考えると、意味があると思えます。
それは自分だけの意味もあれば、向こう側からの意味もあるでしょうが、双方の出会い・関係性においては、小宇宙としての特別な時空を経験する、第三者的意味合い(それは両者を超える高次の視点ともいえます)が、もっとも双方において必要とれさる「本質」なのかもしれません。
タロットにおいても同様なのです。
あなたがタロットに出会った意味もありますし、タロット側からあなたを選んだ意味もきっとあるでしょう。
そして、世の中に、数えきれないほどたくさんの種類のタロットがあるのに、わざわざそのタロット(例えばマルセイユタロット)と出会い、ツールや学びの資本として選んだのも、やはり意味が(双方向的に)あるのです。
ところで、この記事を書いていて、マルセイユタロットで、ふと浮かんできたもの(カード)があります。
それは、「恋人」「運命の輪」、そして「神の家」です。ちなみに、これらの数は「6(恋人)」「10(運命の輪)」「16(神の家)」です。
6+10=16ということで、まるで三枚が複合して「縁」というものが回転したり、出来上がっり、選ばれたりするのだとも感じます。
もし、あなたにマルセイユタロットの縁があるのなら(そう感じ、思うのなら)、自ら動くのと同時に、すでに向こう側からは働きかけがあり、両者の邂逅を待っている、言わば第三の視点の存在のようなものもいる(見ている、設定している)のかもしれませんね。
もちろん、ほかのタロットとの縁の人もいれば、そもそもタロットには縁のない人もいるでしょう。
しかし、すでにあなたがこのブログにたどり着いたということは、タロットとの何らかの縁は生じている可能性があります。たまたまであっても、タロットと一瞬でも関わる何かがあるのでしょう。
一瞬であっても、あなたとタロットの間に小宇宙は築かれたわけで、言ってみれば、そこへの小旅行を体験しています。旅行なので、楽しまれるとよいでしょう。
タロットグループにおける利点
かつて、カモワンタロットを日本で学ぶ場所(学校)として、国際タロット学院→タロット大学という機関がありました。
私もここの出身です。
ここ(その時代)での思い出話は、それこそ山のようにあるのですが(笑)、それはまあ、いいとしまして、今日は話したいのは、学びのグループについてです。
タロット大学(時代)では、東京を本部にして、仙台、名古屋、大阪、福岡という各都市を拠点とし、時折、講師陣が出張して、その他の都市などで講座を開催するようなこともありました。
そして、この拠点となっていたところには、自然発生的に、タロットの学習グループが存在していました。
私は関西・大阪でのグループの創成メンバーの一人でした。
私は当時、とてもカモワンタロットの学びと実践が好きでしたので、夢としては、大阪だけではなく、各都市のグループ同士とも交流して研鑽し、学びや技量も高め合いたいと考えていました。
実際、少しずつ、その機運も高まって来て、別都市グループとの合同勉強会なども実現できそうな雰囲気にもなってきていました。
しかしながら、事情をご存じの方がいらっしゃるとは思いますが、タロット大学とカモワンスクールの分離問題が起き、こういったカモワンタロットをメインとする学びのグループは自然消滅か、形を変えていくようなことになりました。
ちなみに、関西・大阪でのグループは、少し変化はしましたが、いまだ大元のグループは健在しており、毎月、大阪でカモワンタロット、及び、マルセイユタロットのリーディング勉強会を開催しています。(私はほとんど行けておりませんが・・・メンバーとの交流は続いています)
おそらく初期のコアの形のまま、今も継続しているのは、たぶん関西・大阪グループだけではないかと思います。
こうしたグループを作り、参加活動してきた感想としては、やはり、よかった面がたくさんあるなということです。
そもそも、私は動きが早いほうではありません。
これまで、いろいろな講座に参加し、学びを深めてはきましたが、特にビジネス系においては、言われたこと、学んだことを素直に実行に移す、シンプルな動きの早さ(実行力)が要求されます。
正直、成功哲学の王道(黄金)ルールのひとつとして、とにかく学びを素早く実行する(そして検証・改善し、再実行していく)ことが言えると思います。こういうことができる人が(いわる一般的に言われる)成功の可能性が大いにあるわけです。
私はこういうタイプではないので、学びはしても、いろいろと考えてしまい、結局、動かないままということもよくありました。(苦笑) まあ、今ではそれも個性として受け入れています。(甘んじるというのとは違いますが)
しかし、タロットの場合は違いました。講座後のグループ創設、グループの中での様々な作業など、自ら買って出ることが多く、それは苦にならずに、むしろ楽しいものでした。
ですから本当の意味で、自分が興味や関心を持ち、価値を感じているものならば(必要・不必要とか、成長のためかどうかとか、そういう観点ではないものです)、普段動かなくても、時に早く動いて活発になる(こともある)のだということです。
逆に言うと、それだけ自分を動かすものこそ、自分にとって大事なもの(になるの)だと言えましょう。
こうした(自分が積極的に)学習グループを作るというのも、そういう現れの可能性があります。
ただ、情熱は冷めるものでもあります。何かの学習グループを創設したメンバーであっても、やがては離れ、その学びさえ飽きたり、否定したりする人もいます。
タロットの4組的には、「杖」が火であり、情熱や行動を象徴し、最初はこういう着火により、行動して発展していきますが、それだけでは、やがて火も消えていきます。
ですから、他の要素、「剣」・「杯」・「玉」も継続や存続、変化には必要素となります。
例えば、杯(水)の潤いや感情としては、メンバー同士の学び以外の交流(食事会とか飲み会とか)、玉(土)として会費の徴収、それによる運営、剣(風)として、学習自体の研鑽、理念や組織の方向性・まとめを決めていくことなどがあるでしょう。
関西・大阪のグループがいまだに存続しているのも、実は「杯」の部分が大きいのではないかと思います。(必ず、勉強会のあとには食事会を開いているようです)
さて、タロットの学習グループにおいては、面白いことがよく起こります。
私自身の講座の生徒さんにもグループはあり、卒業後は、アフターファーローも含めて、その学習グループに、希望者は入っていただくようにしています。
そこでリーディングの討議などが、よく起こります。(私自身が課題としてネタを提供することもあります)
すると、当然ながら、様々な見方や意見が出ます。これは、別にタロットグループに限らず、どの分野でも起こることでしょう。
しかしタロットで面白いのは、見えない流域の働き(接触)があることで、カードの絵柄の象徴性により、言わば、グループの参加者の潜在意識下において、ある種のデータ共有化が起こり、課題の展開(出たタロットカード)において、一人一人、自分に関係した問題性を認識したり、まるで集合知のような形で、一人や二人程度では出なかったアイデアや読み方などが登場してくるのです。
そして、タロットの学習グループなので、参加者は、皆、タロットを知っていますから、よりカードの印象も残ります。
たとえ残らなくても、無意識下において、刻み込まれているとも考えられます。
そのことが、たとえ他人の問題と、それに対するリーディングであっても、自分の中でつながるものができ、言わば、知らず知らず、自分の問題性とも向き合っていることになり、また解決に向けたことも、自然になされているというわけなのです。
まさに集合的な作用が働くと言った感じです。
実は、学習グループだけではなく、こういったことは、体験会などでも経験しています。
マルセイユタロットの体験会もオンラインで今後開催する予定ですが、今度はこの集合的作用に力を入れた体験会、いわばリーディング中心の体験会を行ってみようと考えています。
私がリーディングするだけではなく、参加者の方に、タロットのことは知らなくても、直感とかご自分の経験から、他の方の問題や望みに対して、何らかの感想とか意見を述べてもらうというようなイメージです。
マルセイユタロットの場合、カードの絵柄自体はシンプルなものですので、意味がわからなくても、なんとなくこういう雰囲気であるとか、このような感じという印象は、誰でも持てるように設計されています。
ですから、カードの意味をまったく知らなくても、体験会の場合はいいのです。
よく言われるように、他者は自分の鏡のようなものです。他者のことでも、自分に関係しているということがわかれば、タロットリーディングが立体的で多角的、双方向性的なものであるのがわかるでしょう。
とにかく、この現実世界は、一人だけで成立しているものではなく、また、一人一人、個性を持つ世界です。
ですから、一人で解決できないことは意外に多いのです。
そう考えると、この世を生きる術のひとつとしては、他者と交流し、自分を調整したり、癒したり、高めたりすればよいわけです。
つまりは自分一人でもんもんと考えているより、ほかの人とか外部からの意見を入れたほうがよいということです。(いつもいつもというわけではないですが)
一言でいえば、助け合いが鍵になるのです。
大アルカナの数と絵の象徴性
すでに多くの人に知れ渡っていることですが、タロットの大アルカナナンバー自体、(あらゆる)成長や発展の象徴になっています。
簡単に言えば、大アルカナの数順が、そののま成長のプロセスだということです。
ただ、例えば、ウェイト版とマルセイユ版では、大アルカナの数が違います。具体的には、「正義」と「力」の数です。
ですから、すべてのタロットカードが、数順の通り進むのが成長や発展を示しているのではないとも考えられます。
しかしながら、ことマルセイユタロットにおいては、明らかに、大アルカナにおいて、数の進化がすなわち個人や全体の進化とリンクしているというのは言えることだ思います。
ここで、私は個人と全体と言いましたが、この点も重要なところです。
個人と全体は基本的にリンクすると言いますか、根本的には同じシステムや構造で進化していくと考えられるのですが、現実問題として、このブログで何度も述べているように、実際には皆、個人差、一人一人違う個性を持っています。
ですから、全体としては言えることでも、個人によって違って来るようなところがあり、それがまた個人表現が許されているこの世界の仕組みの面白さ(または苦しみ)であると言えます。
言わば、万人に共通の大まかな地図を与えられながらも、個人個人では、通り道とかやり方の異なる地図もあるよという感じです。
言い換えれば、個人の地図は自分で調べ、書き込み、創り上げていくものでもあり、創作可能な、まさにオリジナルマップと言えましょう。
しかし、やはり大目的は忘れないように、抽象的ながらも、目指すべき方向性は全体として共通しているというのが、タロットの大アルカナの絵図に示されているようにも思います。
ということで、個人的に見た場合は、きれいに数順に進むことが必ずしもよいわけではなく、行きつ戻りつ、時にジャンプしたり、抜けたりすることもあり得ると思え、自分がどの位置にいるのかは、人それぞれだと言えます。
また、誰かにとっての「世界」の象徴は、誰かにとっての「力」レベルということもあるかもしれず、単純に数が上のカードが優れているという考えは禁物です。
しかし、数の順に注目してみると、私たちの視点は、ふたつの方向性で見ることが可能になってきます。
ひとつは、普通に、数が増加していく方向性、「手品師」から「世界」への視点です。
数で言えば、1から21へという、ある意味、正道・王道な見方です。
そして、もうひとつはこの逆で、「世界」から「手品師」に向けての視点です。
数にすると、21から1に減少していく方向性になります。
前者(1から21の方向性)は説明しなくてもわかると思いますが、普通に、加増していくような視点・考えになります。
経験や体験、あるいは知識などを、どんどん蓄積していく流れであり、まさに学び・進展という感じがしますね。これが、普通に皆さんが思っている成長性でしょうし、自分が当事者の主観的な人生の進みと言え、年齢的には若さをイメージさせます。
一方、後者(21から1)は、むしろゴールから出発点を見つめるような視点であり、振り返るような印象が強いです。年齢的に言えば、人生の終盤で、老境におり、自分の人生を回顧しているような感じですよね。
すると、それは確かに自分の人生への視点なのですが、何か他人の人生を見ているような、客観的視点にもなっていると思います。
そして、ここが、マルセイユタロットに込められた思想の見方とも関係するのですが、何かを蓄積して成長するというのではなく、すでに自分はすべてを知っていて、それを思い出すための人生(成長)であったと、この逆方向の視点だと気づいてくるのです。
そうすると、壮大な映画と言いますか、ひとつりエンターティメント、ゲームのような感じに人生というもののビジョンが変わってきます。
人生で楽しいこと、苦しいこと、様々に私たちは体験しますし、自分を成長させようと努力したり、とにかく生きるのに必死だったり、時には怠惰に無意味に過ごしたりします。
「世界」から「手品師」に見る視点だと、人生の体験のどれにも、いいも悪いもなく、ただそのような経験があった、してきたということになりますし、実は成長も発展も後退も減少もしていなくて、ずっと完全なる自分が見守っていたということになり、何らかの形で、完全性は忘却する世の中に来ていたものの、振り返ってみれば、その忘却を少しずつ思い出す(取り返す)ためのゲームにチャレンジしていたかもしれないと思えるようになります。
なかなか、老年にならないと獲得できない視点かもしれませんが、マルセイユタロットを並べて、「世界」から逆の順序で、大アルカナを見つめてみると、このような視点も年齢にかかわらず、起こって来るかもしれません。
それからのこの視点(「世界」から見る視点)に近いものになりますが、自分が「愚者」になって、大アルカナ全体を投影図のように見つめると、自分は何になってもよいのだと気づきます。
これは、多くの自己実現を唱える方の話とは真逆なものかもしれませんが、自分に肯定とか否定とかの考えをしなくても、本当は、自分は大アルカナでいうところの「愚者」なのだと知ると、実は何者でもなかったのだいうことになってきます。
「愚者」は数を持ちません。ということは、どんな数のカードでもなく、また逆に、どんな数のカードにもなることができます。
数の順番通りに成長していく、蓄積して大きくなっていくこともできますし、どれか、なりたいカードの象徴性に、自分を置くこともできます。また先述したように、「世界」から見直す視点のように、完全なる自分に、あえてハンディを持つように、忘却の旅をしていると見ることもできるわけです。
ということは、一言で言えば、自由なのです。
ここに自己の肯定や否定という「二元」を考えれば考えるほど、「愚者」ではなくなってきて、この大アルカナの中で、自分が決めた「よい・悪い」という基準でカードを見て、その世界観に振り回されていること(自分)に気づくかもしれません。
幸不幸も、一般的な概念があることは認めても、やはり、人それぞれであり、自分が「愚者」であるのなら、その幸せ感もまた自由なのです。
幸せを、数順をたどるように追い求めてもよいでしょうし、逆に、待っていたり、振り返ったりしていると、実は幸せだったと感じるようなものもあるでしょうし、本当に何でもいいと思います。
私自身、「何者でもない感覚」に悩まされてきました。どこにも居場所がないとか、何か楽しんていても、どこか空虚な感じが常にある感覚とか、何か浮いた感じというものがありました。
しかし、改めて、マルセイユタロットを見て、自分は「愚者」なのだということを知ると、それはむしろ当然なのかとさえ、最近は思ってきています。ここでまた、「それでいい」とか、「いやいや、それは悪い状態」とか考えると、また余計に悩むことになるでしょう。
ありのままとか、そのままの自分でよかったんだ・・・という言い方は、自己への心理的な肯定感としてよく例えに出されますが、もちろん、それはとても大事な考えではあるものの、「そういう感覚に、必ずならねば幸せになれない」とか、「自己肯定こそが幸せの近道」と絶対的に思う必要もないと感じます。
タロット的には、「愚者」であること、ただそれだけを思い、振り返る視点もよし、順を追って成長していく視点もよしだとすると、ずいぶん楽になるのではないでしょうか。
ただ、「愚者」には犬のような存在も描かれています。この犬の解釈はいろいろとできますが、とにかく言えることは、「愚者」は一人ではないということです。
ですから、あなたが「愚者」である限り、孤独ではありません。
もし孤独を感じているのであれば、この「愚者」の犬の存在を感じてみるとよく、それは実際の人物である場合もあれば、あなたを支える教えとか思想のこともあったり、目標的な世界とか人物を含んでいる存在のこともあったりするでしょう。(マルセイユタロットの場合は、この犬の色が重要なこともあります)
そしてこの犬の中身は、入れ替わることもあります。(例えば、あなたを支える人物とかパートナーが変わるとか)
結局のところ、「愚者」としての自分が、まるで一種のゲームを楽しむかのように、(錬金術の文言にもありますが)自分をあえて分けて、また再構成する(ひとつに戻す、統合する)、そういう旅(遊び)が、大アルカナの象徴なのかもしれません。
タロットによる願望実現法のタイプ
人には欲求や願望というものがありますので、それをかなえたいと思うのまた人情でしょう。
マルセイユタロットにおいても、考え方(解釈の違い)にはよりますが、欲求がパワーとなることが描かれています。例えば、「悪魔」のカードなどは典型的で、また意外に思うかもしれませんが、「運命の輪」なども関係します。(あくまで私の考えになりますが)
心理的によく言われるように、欲求や願望をひどく抑圧していると、いずれ何らかの形で問題となって現れる場合があります。身体症状とか人間関係での問題行動とか、情緒不安定とか出るわけですね。
人により、自分の内に向かうか、対人関係とか行動とかの外に出るかの違いはありますが。
ですから、欲求も出していったり、かなえていったりすることは、心身調整のうえでも悪くはないことだと言えます。
問題は、爆発的に一気にやってしまうなどの程度の問題と、まったく周囲の迷惑、あるいは自分のバランスを考えずに、かなえようとしてしまうことにあると言えます。
つまりは大きな影響がないように、小出しにとか、段階的にかなえて(出して)行けばいいわけです。
さて、今日言いたいことは、実はほかにあります。
欲求ということを述べてきましたが、今日は似たようなことで、テーマとしてはタロットによる願望実現ということになります。
以前も何度か取り扱っているテーマです。
タロットによる願望実現は可能か?ということは、タロットに関心のある人にとっては、比較的興味が高いものかもしれません。
個人的には、結論として言えば、それは可能であり、また必ずしもそうとは言えないというような、逃げみたいな回答(笑)にしておきます。
本日は、可能か不可能かについてを審議するのではなく、タロットによる願望実現のやり方がテーマです。
ところで、世の中には、様々な願望実現法が語られています。
私も以前、願望実現に関心があった時があり(今は、ある理由により、ほとんどないです(苦笑))、いろいろと調べたり、実践したりしていました。
そして、どうやら大きく分けて、ふたつの願望実現法のタイプがあることに気づきました。(タイプ分けには、そもそもの型としての要素・考え方がたくさんあるのて、必ずしもふたつに分けられるわけではありませんが)
ひとつは、願望を目標として設定し、そのための方法やプロセスを具体的・細分化してかなえていくというもの。
そしてもうひとつは、願望を目標として設定することは同じでも、あとは自然に任す感じで放置しておくタイプのものです。
あえてこのふたつをスピリチュアル的な言い方で分けるとすると、前者が現実的・地上的・人間的方法で、後者が理想的・天上的・複合的方法と例えられるでしょうか。
前者はよく言えば、人間の力が中心で、人間の行動性・実行性を力とし、現実的に外に向かって働きかけるという感じです。何よりも自分自身の力による改革、変化が基本となります。目標に向かっての強烈な意思とか、成功(達成)イメージも必要となる場合があります。
後者は、人間の力ももちろん当然として思いながらも、無理矢理・強引にかなえていくのではなく、むしろ、人間の意思の弱さや限界も認めたうえで、他者(人間以外も含む)や別の要因にも応援してもらいながらかなえていくとタイプになるでしょう。
まず、前者のやり方や特徴について説明します。
そもそも人間・現実の世界は、分離、つまり別々のモノや個別の世界とも言えますので、要素別に細分化したほうが、具体的で何をすればよいのか、逆に何をしなくてよいのかがわかりやすくなります。
何か夢や目標(願望)があっても、ただ漠然と「こうなればいいなあ」と思っていたところで、現実はほとんど変わりません。願望だけあっても、そのままでは、何をどうしていいのかわからず、取っ掛かりとしての行動もできません。
そこで、実現のための具体性・細分化を要素別にしていくわけです。
すると、願望実現に向けてやるべきことが明確になり、行動も起こしやすくなって、実現に近づくことになります。コーチングなどではこういった手法はよく取られます。
人間、怠惰なもので(笑)、夢を見たり、考えたりすることはよくしても、それを実際に行動に向けていく人は少ないものです。
それには、本気でかなえようという気がないこともありますが、やるべきことがわからない、だから面倒であるということが多く、逆に言えば、具体的でやるべきことがはっきりしていて、それが無理のないステップを踏み、しかも実現に向かって確実に進んでいることがわかれば、人は行動を継続していくことができます。
そのためには目標を立てるだけではなく、目標を現実(地上)に下ろすためのマップピングルートのようなものが必要なのです。
スピリチュアル的に言うと、次元降下させる道を明確に意識する(意識だけではなく実際に書いたり、作業したりする)ということです。
これは、マルセイユタロットで言いますと、大アルカナから小アルカナに次元をシフトさせることであるので、詳しくは言いませんが、大アルカナと小アルカナを併用していくことで可能になります。また、絵柄自体に具体性を持つ大アルカナだけでもできない技ではありません。
次に、もうひとつ(後者)の方法です。
こちらは、むしろ具体化の逆で、目標をロックオンしたら、あとは自動操縦に任せるみたいな方法となります。
やるべきことは、目標のロックオンくらいで、その後は、むしろ意識から願望や目標をはずすくらいにし、何となく、心のうちに目標はあっても、日々、意のままに(求める心のままに)目の前のことに集中して過ごして行く感じです。
あとは天に任すという表現が近いかもしれません。
そして、たとえ実現しなくても、それは自分にとって必要な実現であった(言い方は妙ですが)、つまりは不必要なものであったと取ります。また、想像していたものと違う形のもので実現したとか、そういう場合も、この方法では起こり得ます。
この方法で大事なのは、最初の目標設定にあると言えます。その願望や目標が、本当に自分にとってほしいものか、必要であるものか、また、たとえかなったとして、それ(達成したことによる状況)が逆に自分を束縛したり、維持するために今より自由を奪ったりすることにならないかということを考える必要があります。
どこか違和感やその願望を達成することに抵抗感があり、素直に目標としてロックオンできない場合は、いわば潜在意識のようなところに入り込まず(拒否され)、目標が設定されていないので、当然かなうことも難しいわけです。
強い願望である必要はないのですが、素直に心からそれがかなうと喜べる、祝福できるというものでないと厳しいかもしれません。
まあ、自己の内なる意識も本当に望んているもの、言い方は変ですが、望みが穏やかなものであるのなら、普段忘れていても、いつも心の奥底にはある願望みたいなものになりますから、自然に任せていても、なにがしかのことで、それに近いこと(望みに向かうこと)を自らの内、あるいはあなたをサポートする様々な存在たちが整えてくれるというわけです。
マルセイユタロットでこれを行う場合は、大アルカナ中心の普通のリーディングを行いつつ、その鍵となるカードをシンボルとして、自分の心のうちに置いておく感じになるでしょう。
普通にリーディングするというのは、願望に対するブロックや抵抗などを調整し、スムースに願望を違和感なく思える(ロックオン設定できる)ようにするためです。
簡単に言えば、「そう思っていいんだ」とか「そうなっていいんだ」と自らに許可が出せるよう、タロットリーディングでサポートするということです。
どちらのタイプの方法がよいのかは、まさに自分の志向(嗜好でもあります)、好ましいほうの選択になります。また、目標が願望の種類によっても変わって来ることがあります。
それと、万人に確実で絶対の成功法則とか、具体的な願望実現法はないと思っておいたほうがよいです。
それはこの現実世界が、皆違う個性をもって生きている世界だからです。誰かがうまく行った方法が、必ずしもあなたによいわけでもはなく、その逆も当然あります。
ということで、自分でいろいろと試してみて、自分や状況に応じた方法を選択(あるいは複合したり、創造したり)することをお勧めします。
絶望にある希望、有望
どんな人にも悩みがあり、つらいことはあった(今後もある)と思います。
そしてこれもまた、多くの人が経験しているかと思うのですが、絶望という言葉で表現されるような、まさに望みが絶たれる感じの状況というものがあります。
ただ、中には、「私はそんな気持ちになったことないなあ・・・」という幸運と言いますか、メンタルの強い方もいらっしゃるでしょう。もしかすると、絶望なんていう状況は、そうそう現れるものでもないので、実際に絶望感を味わう人は、ごく限れた方なのかもしれません。
ここでまず考えたいのは、「絶望」と一口に言っても、客観的な絶望と、主観的な絶望があると言うことです。
まあ、言い方を変えれば、事実としての絶望と、思い込みの絶望とでも言いましょうか。
前者は、誰が見ても絶望にある状態で、考えたくもない悲惨な状況が浮かびますが、どうしたって誰が何をしたって、もうダメだという感じのものです。
そして、後者のほうは、個人それぞれの絶望感なので、他人からすれば、まだ何とかなるよ、と思える場合もあるわけです。
超楽観的な人とか、ものすごい能力とか才能、資源、アイデアなど持っていれば、普通は絶望するシーンでも、むしろ希望にあり、望みの確信に満ちて微笑んでいることすらあるかもしれません。
ですが反対に、ほとんどの人が、それはまあ大丈夫だよね、と思うことでも、ある人にとってはもうダメだ、絶望だあーと嘆いてしまうシーンもあり得ます。
ここで、本当の意味で客観的な絶望といいいますか、万人が望みを絶たれたと思う状況が、果たしてあるのかと考えますと、それは存在しないのかもしれないという思いにも至ります。
それは「万人」の定義によって変わって来ると言えるかもしれません。
今いる関係者全員とか、国民全員、地球の人全員とか、果ては宇宙にいる知的生命体から、神のような存在まで入れると、そのレベルでの可能・不可能のレベルが拡大されて行き、究極的に絶望などないとなってくるでしょう。
要するに、絶望も希望(有望)も、個人の思いと、関わる人(人だけでなく)の範囲によって変化するというわけです。
ここから、絶望を希望や有望に変えるヒントが見つかりそうです。
まず、ほとんどが主観的な絶望が多いと考えられますから(皆が共通して思う「絶望的状況」というのはそうそうないはずです)、個人の意識、思い、考え方、感じ方、アイデアを変える方法を身につければ、そんなには絶望状況は訪れないと言えます。
また、内面(思考・感情・意識等)だけではなく、知識や環境、物理的レベルのものでも拡大させておくことが絶望を遠ざけます。
つまりは、利用できるもの、救える方法、脱出できるもの、支援される方法や物事を準備し、「もしもの知識」として知っておくということです。
言い換えれば、情報不足により絶望と思わされることが結構あるので、助かる情報を色々な角度から入れておくと、有望や希望が出やすくなるわけです。
ただし、これは最近の状況に特に言えることですが、逆に、あまりに情報過多となって、余計な情報を入れることで、今度は内的に不安や葛藤、迷いが生じやすくなって、本来悩まなくてもいいことが増え、幻想に怯えるような感じで、しまいにはそれが絶望感を生み出すことにもなりかねず、注意が必要です。
他人と比較しなければならないこの現実の世の仕組みではありますが、近ごろはそれが簡単に(他人情報が)目に入ることにより、比較の度合いや回数も増えて、自分の無力さを必要以上に感じて落ち込み、絶望にかられる危険性もあります。
従って、情報の適度な遮断も自分の身を守る方法のひとつで、絶望に陥ることから救います。
内的には、ほかにも、絶望感に至りやすい自分にある心の傷、トラウマ、ネガティブ思考を稼働させてしまう心のプログラムのようなものと向き合い、浄化、調整、整理しておくと、有望性に意識が向きやすくなります。
人より絶望感がよく出る人は、何かそういう心の仕組みで回されている自分があり、それに気づいて、もっと有望感に至る普通の状態に再調整していくという意味です。これはカウンセラーとかセラピストなどの専門家の力を借りたほうがよいでしょう。
だいたい、主観性で絶望に至りやすい人は、逆の客観性の視点(他人の見方、データとかルールのような客観的事実を示すものなど)をカウンターにもってくるようにできれば、中和されて、何とか救われる場合があります。
それと、ここが実は書きたかったことのひとつなのですが、マルセイユタロット的には、変化・変容と統合というのが表現されています。絶望はずっと絶望ではなく、その逆もまたしかりで、ふたつはひとつの両面であり、さらに言えば、いろいろなレベルの絶望と有望があるのです。
例えば「運命の輪」一枚を見ても、輪の中にいる上向きの動物と、下向きの動物が描かれていますが、輪が回転すれば、それは反対になり、上が下、下が上へと変わります。
輪が文字通り、運命の回転であったとしても、状況は回転して変わり、ずっと運がよい、ずっと悪いが続くわけではなく、一番下の絶望の地点だと思っていても、輪ですから、回転し、いずれ反対になることもあれば、輪を上下逆さに見れば、それは上でも下でもないのです。(ちなみに、私たちの地球は丸いと言われていますが、北半球の人が安定していて、南半球の人は逆さまで落ちるわけではないですよね(笑))
このことから、絶望の中にも有望性はあり、有望の何には絶望もあるという循環性や、対立性・相補性が見えてきます。
確かに、客観的に近い絶望状況では、希望(まれなる望み)さえ持つことも難しいかもしれません。
ただ、絶望と有望をまったく同じレベルのふたつの対比で考えるのではなく、絶望状況にあっても必ず違うレベルの希望があり、しかしその希望はまさにわずかの望みとかで、一気にハッピーになれる望みではないものの、本当に絶望だと思っていたところに、一筋の光明を見つけることで、いわば、真っ黒だった世界に、少しだけ光が生じ、わずかと言えども、それがあるだけで、真っ黒の世界ではなくなっているわけですから、世界は変わった(変わりつつある、変わるエネルギー方向にある)のだと見ることができるのです。
ほかの例で言いますと、マルセイユタロットには「13」と「節制」が数順で並べると、その人物たちが向き合うようになっています。
前にも書いたことがありますが、私もうつ病と神経症で非常につらい時期があり、死を思うことが何度もありました。いわば「13」のような状態だった時、「節制」(救済・天使)のようなことに出会った記憶があるのです。
それはまた、救済者として誰か一人の偉大な存在が現れたとか、回復の治療法が突然見つかったいうわけではありません。
「節制」的な人物や事柄が、少しずつ、わずかずつでも、絶望にある時に存在した、現れたということなのです。(発見し、気づいたという意味でもあります)
苦しい時はそれがなかなかわからないかもしれません。でも、少しだけ視点をずらし、救いをあきらめず求めて行けば、そこに小さいながらも天使(その魂が宿っている現実の人物)がいたり、救いや新たな境地に導くきっかけを与えてくれるものが存在します。
それが絶望にある希望であり、有望です。
これは完全に元に戻るとか、すべての苦境がなくなるというような望みではないかもしれませんが、少なくとも、今の絶望感を変える何か新しい境地とか目標、アイデア、考え方、心境、ビジョンのようなものを、「望み」として天(自身の内と言ってもよいです)が与えてくれる可能性があるのです。
さて、客観的な絶望のほうに移ります。
これは範囲を拡大させることで、絶望から逃れられる可能性が、まず高まります。
家族だけとか、地域だけとかの範囲を超えて救済を見ると、ほかからの資源やアイデアを回せますので、絶望がブレークする可能性が増えるでしょう。
ですが、客観的事実に基づく絶望の場合、例えば不治の病とか、医学的に見た致命傷の怪我など、これは客観事実でもありますので、思い込みでは難しいですから、変えられない・救えない厳しい現実もあるにはあります。
それでも、マルセイユタロットの「世界」の象徴のように、範囲を拡大した情報・資源からならば、普通の場合は、望みに変えられる可能性は高まります。
重要なのは、助け合うシステムと、その前に、そういう精神を全体として共有し、築いていくことだと思います。(気持ちだけではなく、実際において価値あるものとする)
個として切り離された社会の実態になってしまうと、先述したように、範囲が狭いと利用できるものも少なくなりますので、絶望感に陥りやすく、現実(客観的絶望)の意味でも、詰んでしまうことは増えます。
個人責任論が横行する昨今ですが、これほど無慈悲なことはありません。もちろん甘えや依存になっては問題ですが、この世界は、一人一人個性が違うからこそ、一人ではどうしてようもできないことも当然出てくるわけです。
ですから、協力して問題を少なくしたり、生きやすくしていったりする社会のシステムが整わないと、弱肉強食の世界、持てる者が勝ち、持たないものが負けという構造で回ってしまいます。
ひどい言い方をすれば、多くの絶望によって少数の望みが満たされる仕組みです。こういう構造から脱することです。
マルセイユタロットで言うと「節制」的意識に私たちは進む必要があり、「節制」の天使が壺の水を入れ替え、注いでいるように、与え・与えられる循環性と公平性(すべてまったく同じで等しくという意味ではなく、個性に応じた平等性)が進めば、絶望に至る人は減ると考えられます。
ということで、絶望から有望、希望に至るには、私たち一人一人個人の中でできることと、範囲を拡大して考え、全体やシステムとして見直し、改善していく方向とのふたつが重要だと考えます。
問題というのは、どんなにレベルが上がっても発生すると思いますが、こと絶望については、そう感じる人が激減し、絶望は言葉や物語でしか存在しないくらいの社会にしていきたいものです。
