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「存在」というもの

新型コロナウィルスの感染が、また拡大しているようです。

ただ、テレビなどの報道は、純粋なもの(真実を伝える報道目的)よりも、センセーショナルに煽って、結局番組や局の実権を握ったり、スポンサーをしていたりする企業や組織・団体の思惑に左右され、つまるところ、ほぼ広告宣伝、場合によっては洗脳とも言えますから、報道されているものを鵜呑みにするわけにはいきません。

ということで、最近は多くの人がネット情報を見るようになり、その信用度も旧メディアより上に見ている人も増えているのですが、これもまた曲者で、玉石混交、玉よりもむしろ石の情報も多く、実はネット情報も(自分や記事を)見てもらいがためのデマみたいなところは少なくないと考えられます。

そういう中で、スピリチュアル系や自己啓発、あるいは、成功ビジネス系などでも見られるコロナ間連のものに、「covid19(世界を今騒がしている新型コロナウィルス)はそもそも存在しない」という究極の情報があります。

この「存在しない」という話には、いろいろなレベルがあるようで、新型コロナウィルスは、実はウィルスとしてこれまでにも常在していたもので、そのひとつを大げさにとらえているに過ぎないという説、ウィルスと病の存在自体はあるものの、インフルエンザよりも死亡者も少なく、ことさら怯えるほどではない(だから存在しないに等しい)という説、はたまた、本当にそんなウィルスは存在しなく、すべて、とある目的のための捏造・演出であるという説まで多々あるようです。

新型コロナウィルスは気にしなくてもよいというものでは、ほかでも、「新型コロナは風邪みたいなもの」という楽観論として、特に経済を回したい人、元の社会・生活に戻したい人には見られる意見です。

一方、陰謀論の典型ですが、少し前ならば、人工ウィルス説のようなもののほうがよく取り上げられていた印象がありますが、今はさきほど述べたように、存在自体がフェイク(存在とか感染被害状況が捏造されている)という説のほうが、陰謀論界隈では目につきますね。

私はここで、どれが本当か、何を信じたらよいのかなどの、正解を出す話をしたいわけではありません。

言いたいことは、もっと根源的と言いますか、観点を違うものにした話なのです。

それは、さきほどから出ている「存在」という言葉に関係します。

covid19と名付けられ、世界に猛威をふるっている(と思われる)ウィルス、この「存在」をどう扱うのかによって、まさにそれそのものの存在が確定してくる(または、あやふやになる)のでないかと考えられます。

前述の陰謀論的な人の「新型コロナウィルス騒ぎは演出」という立場の者には、そういうウィルス自体、存在しないということになりますから、名前はあってもウィルスの実態はないことになります。

ただし、世の中の多くの人は、報道や実際目にしたこと、家族や知人の感染などによって、実在を疑っておらず、いわば、世間的にはウィルスは存在していることになります。

繰り返しますが、「ウィルス(騒ぎ)は演出で、詐欺みたいなもの」と考える人には、特にその人個人の世界においては、先述した通り、ウィルスはいない、存在しないことになります。

この現実世界で、物質的実在をはっきり確定させるには、人が目で確認するか、肉体的に接触しないといけません。ただ概念とか心というものは触れられず、目に見えませんが、その存在は信じている人がほとんどです。

私たちは、今、新型コロナウィルスを実際に見ることは、ミクロの世界を確認できる道具を持つか、医療などの仕事に携わっていないと、まず不可能です。

それでも、その存在は確かだと、ほとんどの人は思っています。それは、症状として現れた人、状況、感染者の数などが報道・報告され、常識として根付いたからでもあります。

このように、目に見えず、触れられないものでも、情報がほとんどの人に共有されれば、確実にその存在は認知され、世界に存在するようになります。

それでも、実際には見ることがないので、たとえ自分が感染しても、症状が出て、検査を受け、医師からコロナウィルスです、と言われないと、信じられないという人もいるでしょう。

こうして考えていくと、そもそも現実に存在するということはどういうことなのかと、不思議な感覚になってきます。

ウィルスに限らず、無数の小さな菌、存在はいる(ある)と私たちは信じています。それは顕微鏡等で確認されたからではありますが、図鑑などでは目にしても、実際に自分がすべて確認したわけではないでしょう。それでもそれらの存在は、あなたの中に確実化されています。

結局、存在とは、つきとめると情報(とその扱い、認識)ということになるでしょう。

その情報の流布する範囲、どれだけの人が常識として共有しているか、個人の場合は、生身の体験(五感での強烈な体験、特に視覚、触覚)のリアリティによるとも言えます。

よく、スピリチュアルでは、信じたことがあなたの世界そのもの(になる)と表現されますが、その信念がたとえ妄想で非科学的、非常識であっても、本人が強く信じ、リアリティを感じていれば、それは「存在」として、他者・常識の世界と切り離して、あったり・なかったりさせることができるでしょう。

ですから、「covid19などない」という強い信念をもっていれば、それはその人の世界ではそうなので、covid19がその人の認識で存在することはありません。

極端なことを言えば、あきらかにそのウィルスの感染症状が出たとしても、それは外の世界からの判断であって、その人の世界の中では、風邪やほかの病気(その人の信じる病名の病気)になるのです。(※一般の人は医師を信じますから、医師の判断の病名が自分の病だと思いますし、その病の存在を認知し、現実化しています)

ということで、covid19の存在がフェイクと信じる人、その説の信奉者たちは、covid19が存在していると信じている多くの人たちに比べて、当たり前ですが、自分がたとえ感染していても(症状があっても)、検査をしたり、covid19ではないかと心配したりすることは希薄になるでしょう。

ただ、一般の多くの人は、covid19というウィルスと、そこからもたらされる症状について、まだ未知数部分が多く、危険性もあることを信じていますから、covid19への注意、感染の疑い、検査希望などはしていくことでしょう。この人たちには、確実にウィルスは存在しているからです。

さあ、あなたは「存在」をどう考えますか?

ないと思えばない、あると思えばあり、その言葉は、「存在は情報による」とした場合、あてはまる言葉だと言えますが、私たちの現実世界では、一人の想念(の世界)だけではなく、たくさんの個人の想念(の世界)が混じり合う世界でもあります。

いわゆる集合意識のようなものの世界もありますし、常識・世間という世界もあります。

その中で、個人の信じる世界だけで生きるのは、実は並大抵のことではありません。

真実というのはひとつかもしれませんが、たいていは解釈がはさみこまれますので、人の見方だけ真実があると言ってもよいのかもしれません。

そもそも、自分というものさえ存在するかどうか、疑うことも可能でしょう。

存在のレベルを階層別に設定し(認識し)、表れている現象や結果に注目して対処する方法もあります。(逆に言うと、存在そのものの証明にこだわらない方法)

例えば、幽霊は見えないとされているのが普通で、存在する・しないになってきますと、いろいろな意見が出てきます。(科学的には存在しないと考えられていますが)

幽霊の存在そのものよりも、幽霊という「概念」としてもいいのですが、たとえ概念であっても、自分が振り回され、精神や命の危機、生活の問題が実際に生じているのなら、幽霊の存在を証明するよりも、緊急には大事なこと(対処すべきこと)はあると思います。

今日の記事では、まるでタロットは出てきていませんが(笑)、これはタロットリーディングにおいても関係する話であり、、特に質問や問いについて、考えさせる内容になっていると思います。


「愚者」の旅、どこに向かい、何を目的とするか?

先日、NHKで「サン・チャゴ・デ・コンポステーラ」の巡礼路の番組がありました。

サン・チャゴ・デ・コンポステーラとは、スペインの西端に位置し、サンチャゴ、つまり聖ヤコブ(イエス・キリストの12使徒の一人)を祀る大聖堂のある町で、そこまで至る巡礼の旅路が、キリスト教的な意味を超えて、今や世界遺産として、世界中から多くの人が訪れるルートとなっています。

昔の巡礼は、今よりもはるかに過酷な旅だったと思いますが、現代の巡礼者も、決して楽なわけではないでしょう。距離的にも、長いルートはおよそ1500kもあり、並大抵なことで完遂できません。

番組ではその大変さも放映されていましたが、同時に、途中の宿や、同じ巡礼路を歩く人たちの助け合いの姿も映し出され、巡礼路が孤独なだけの場所ではないことが表されていました。

現代において、巡礼を志す人は、何も宗教的な意味合いからだけとは限りません。

このカミーノと呼ばれる巡礼路においてもそれは顕著なようで、番組では、フランスでレストランを経営していたものの、それに忙殺され、ついには倒れてしまい、自分とこれまでの生活スタイルを見直すためにここにやってきという人、台湾人の女性で、ヨーロッパにワーキングホリデーに訪れ、巡礼路の情報を知って、何となくチャレンジしてみたという方、離婚して孤独で一文無しになった女性の再生の旅、父子の親子旅で、確かブラジルから来たという人などの紹介がありました。

どの人も、人生に何かの転機を迎えた人々で、巡礼という日常とは異質な時間と場所を選択されたのでした。

日常は日常で大切な時間ではありますが、ともすれば、私たちはそれに埋没し、時には精神や肉体を酷使して、ただ一日一日、惰性的に、義務的に過ごしてしまいます。

だからこそ、昔から、日常に代わる非日常的な時間や空間に自分をさらす、追い込む、転換(脱出)するような機会を課していたものです。

それは厳しいやり方もあれば、楽しいやり方もありました。

例えば、日本のムラにおけるお祭りなども、日常と非日常の切り替えのひとつの方法と言えました。

一方、「」というのは、空間的にも時間的にも、私たちを異質な世界に誘ってくれます。それは楽しいやり方での、非日常体験とも言えますが、決して旅は楽なことだけではありません。

厳しい旅であればあるほど、それは私たちを成長させ、知見や経験を広げ、意識を拡大させます。国内旅行よりも、海外旅行のほうが一般的に強烈で、常識を覆すことが多いのは、そうした理由によります。

かつては、「自分探しの旅」ということが流行ったこともあります。

コロナ禍以前だと、まだそうした目的で日本中、世界中を旅していた人は多かったでしょうし、今でも、YouTubeなどの題材として、旅的な非日常動画は人気でもあり、自ら、全国を回って撮影している人も少なくありません。

彼ら彼女たちは、きっと旅をしながら、楽しみつつも、苦労も多く、元の場所に戻って来た時、自分を変えたものとして、一生の思い出となったり、経験談として、皆に聞かせたりすることになるでしょう。

ところで、マルセイユタロットには「愚者」というカードがあります。マルセイユタロット以外のタロットにも、もちろん「愚者」というカードはあるのですが、図像を比べてみればわかりますが、いかにも旅、旅姿をしているのは、マルセイユ版の「愚者」が顕著でしょう。

例えば、ウェイト版(ライダー版)の「愚者」は、崖の上に夢見るような感じでとても危うい感じで描かれているのに対し、マルセイユ版の「愚者」は、足取りはしっかりしており、杖をきちんとついて、顔は上向きですが、目標に向かって意思を持って歩いているように見えます。

「愚者」と聞くと、まさに愚か者で、フワフワしているイメージですが、実のところ、あまりフラフラとした印象ではない感じの図像が、マルセイユ版の「愚者」となっています。

このマルセイユ版の「愚者」は、夢見る夢男くんや夢子さんというより、強い意志と目的をもって、しかしながら緊張せず、楽観的なものも持ち合わせながら、歩みを進めているように見えます。

いかにも旅姿らしい旅人ということで、旅をしていることは確かでしょうが、先述したように、ある目的を有している感じが強く、その視線や体の方向に意味があるように見えます。

すでに、カモワン流やユング派でマルセイユタロット研究家の方から提示されているように、「愚者」は大アルカナを旅する人と目されています。

従って、象徴的に言えば、一番最高度の数を持つ「世界」のカードが目標となっていると考えることもできますが、同時に、大アルカナすべてを旅したい、全部自由に回りたいという気持ちも、「愚者」にはあるかもしれません。

普通に考えれば、数の順に旅していくように思えますが、彼の旅の方法や目的によっては、数には関係していても、独特な法則によって、一見バラバラに見えるかのような巡り方もあるかもしれません。そういう余地や自由さを、マルセイユ版の「愚者」からは感じさせます。

さきほど、旅は非日常を味わうにはよい方法であることは述べましたが、これは、実際に旅するということだけではなく、心の旅路というように、内面が(を)旅していると見ることも可能なのです。

いやむ、むしろ究極的には、私たちは、実は場所など移動しておらず、意識が移り変わっているだけで、周囲の景色が映像のように映し出されているかもしれないのです。いわば、バーチャルな旅みたいなものです。

もし自分の周囲にスクリーン映像があり、自らは足踏みのように動かし、景色自体は移動しているように映し出されると、かなり精巧に装置ができていると、実際に自分は(場所も)移動していると錯覚を起こすことでしょう。

このことは、私たちが動いているのか、周囲が動いているのか、どちらかわからないことを示し、移動というものは、実は相対的なものという考えにも至るのです。

すると、重要なのは、内面の旅であることがわかります。

この内面の旅を、マルセイユタロットは「愚者」とともに、その他のカードによって象徴させます。

私たちは、タロットによって、自分が変化したような体験、言い換えると、それぞれのカードに自分自身が変身する体験を味わうことができます。

しかし、「愚者」としての自分は実は変わっていないのです。まるで着せ替え人形のように、ほかのカードという服を着るようなものでもあります。

それでも、その服を着てみないとわからないことがあります。

通常では、人生の実体験から省察することで、この体験をしますが、タロットを学習していると、先回りしたり、自分が実際には体験していないことでも本質的な世界に入って、それに近い感覚を得たりすることができます。

それはまた、意識においての巡礼なのです。

巡礼の番組では、孤独のように見えて、巡礼者のサポート体制によって、助け合って、かえって生きる力、ゴールしていく気力を回復していく様が放映されていました。最終的には神の存在を感じ、まさに神のご加護のもとにいる自分(一人ではない自分)を意識したかもしれません。

これと同様、タロットによる意識の巡礼路も、一見孤独な作業のようでいて、同志がいたり、タロットの世界からのサポートがあったりして、助けられながら、進んでいきます。

逆を言えば、巡礼は、孤独になることで、孤独ではないことを知る旅と言えます。

サン・チャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路では、ゴールは「サン・チャゴ・デ・コンポステーラ」の町の大聖堂ですが、タロットの巡礼のゴールは、いったいどこになるのでしょうか?

それは「世界」のカードかもしれませんが、地図上とか、カードにあるのではなく、あなた自身にある「世界」なのです。いわば、あなたの中に大聖堂はあります。

ところで、「愚者」には犬のような動物が付き添っているようにも見えます。

この動物はスピリットとしても表され、「世界」のカードにおいては、四つの生き物にも関係するでしょう。「オズの魔法使い」や「西遊記」なども、主人公と従者の形で、ある「旅」を象徴しているように見えます。

もちろん、あなた自身は、その主人公となって、旅を志し、本当の目的地を目指していくことになるです。

しかし、幸せの青い鳥ではありませんが、求めるものはすでにあり、ただその発見に至るために、プロセスとしての旅が必要なのです。


三つの分野の成長性

3年前の同時期の記事ですが、ちょうど最近思っていたことが、すでに記事にあって、驚きました。(ちなみに私は、書いたことはほとんど忘れています(苦笑))

この記事でもふれていますが、マルセイユタロットの絵図にも示されているように、人の統合的(総合的)な成長は、大きく分けると、三つの分野にわたって行われていくと考えられます。

まず、私たちは現実的に様々な体験・経験をするわけですが、それは事実と客観データとして蓄積され、脳とか、どこかに記録されています。

しかし、その体験をどう解釈するかどう思うのか、どう受け止めるのかは、一人一人異なってきます。

同じ学校・クラス、会社・組織に属し、同じ一年を過ごしながら、それぞれまったく違う思いを持っているように、個人の印象、解釈におけるデータはまた別です。

さらに、その個人データを凌駕するかのように、全体的・統合的・魂的なデータや見方もあると考えられます。これは宗教的に言えば、神の目線、神の思し召しみたいなものです。私たち(の魂)には、これも内包されていると考えられます。

最初の現実の経験によるデータも大事です。これがそもそもないと始まらず、分析も解釈も刺激も起きないと言えます。人生ゲームの舞台や装置のようなものです。

次に、個人個人のデータ・解釈ですが、これは心や精神の問題ともつながるでしょう。ここを操作することで、実際の出来事の意味、以降の受け止め方も変わるのです。ゲームでは個々の能力や特殊アイテムみたいなものに相当するかもしれません。

しかしながら、最終的には、統合的・全体的・魂的なレベルのデータ・視点があり、私たちの成長は、そのレベルに至ることで、本当の意味と成長を実感できようになっているのでしょう。

言ってみれば、ゲームそのものを見る視点、ゲームからはずれた外の世界からの視野という感じです。

最初から全体的視点で見ても、面白くはありません。例えば、すばらしいゲーム・イベントが用意されていても、それに参加しないという感じでしょうか。

イベントに参加することで、嫌なこともよいこともそこで経験して、そのうえで元の場所に戻ってきた時、現実の世界でも旅をして帰ってきた場合のように、自分の変化や成長は実感できることでしょう。

スピリチュアルに興味のある人は、最初から全体的視点を獲得しようとする人がいますが、それではプロセスを飛ばしているようなもの、あるいは、避けているようなものと言えます。

現実(実際・物質)→精神(心)→霊(魂)と、関心や深さを進めて行き、しかも同時進行的にも見ることで、三つ(分野)の統合もうまく行くのでないかと思います。

面白いことに、現実データ視点と魂データ視点は一見全く違うようですが、普遍性・客観性では似ているところがあり、一方個人のデータ・個人の心の世界は特別であり、主観です。

このことは、現実から逃げる意味でも、また現実を大切にする意味でも、とても重要だと思いますが、今日はこのあたりにしておきす。

言いたいことは、下記の記事の内容で、それを今の私の視点から、ちょっと補足的に書き足してみたのが、今日の記事というわけです。

モノと心の成長性と魂の成長性


タロットにおける選択、決断

タロットは、よく状況判断や決断の機において使われることがあります。

タロット占いともなれば、それが顕著かもしれません。あと、タロット占いの場合は、カードに相手の気持ちなどが出る可能性があるので、気になる人との関係を占う場合において、有用と言えます。

気持ちなどというものは、自分でさえはっきりわからないことがあるくらい、あやふやなもので、態度とか顔に出ているようで、心裏腹という言葉があるように、実は表に現れているものとは逆という場合もあります。

それゆえに、他人の気持ちを知るというのは至難の業で、直接聞いて確認するのが確実ですが、それでも嘘をついているケースがあったり、なかなか面と向かって気持ち確認しづらい状態であったりということもあるので、それができれば苦労はないというところです。

ということで、タロットカードなどで、それを知りたいということになるわけです。

また、何かを決めたいという時は、自分ですでに決めてはいるものの、その確認や念押しをしたいという場合もあれば、純粋に、どれがよいのか、カードに決めてほしいということもあるでしょう。

いずれにしても、人は自分一人ではなかなか決められないもので、なぜかカードのようなものに頼る(苦笑)ことがあるわけです。

では、決めることができるのらば、(タロット)カードではなくても、何でもいいじゃないか、てなことになりそうなものですが、確かにそれはその通りなのですが、人によって、あるいは普遍的に、意外に頼るもの・ツールは決まってくるもので、どれでもよいわけではないのです。

ここにタロットカードが、長年占いや決断に用いられた理由があります。

その詳細は、またの機会に譲るとし、とりあえず、皆さん、なぜ迷った時にタロットカードなのか考えてみるのもよいでしょう。

ヒントとしては精神的・感情的理由と、見えない分野での理由といいますか、それなりの論理があるということです。

私は基本的にタロットカードには吉凶や優劣を見ないほうがよいという立場ですが、こと何かを決める場合においては、案外、カードの吉凶性や優劣性を設定しておいたほうが判断しやすいというところがあります。

下手に高尚ぶって、カードを平等に扱い過ぎると、実用的ではなくなるおそれもあります。ただし、逆に言えば、実用的ではないということは、抽象的的世界、精神や霊性の拡大に使えることにもなりますので、それは目的次第と言えます。

カードに吉凶や優劣を設定しておくと、説明しなくてもわかると思いますが、よい・悪いで見ることになりますので、当然、よいカードが出れば、その選択はよし、悪いカードが出ればダメということで単純に判断することができます。

ここで重要なのは、吉凶・優劣設定と、心理状態を表すようなこととして、カードに優劣のない平等なる設定をすることと、技法的にも区別をつけておくことです。

特にスピリチュアルや心理的にカードを使う人に多いのですが、カード扱いの設定基準があいまいになっているので、時に心理的に判断したり、時に吉凶占い的に見てみたりと、混同したカードの読み方になり、結局、どっちつかず、決断ができない(どちらてもありとか、どちらでもないような。。。みたいな感じになる)状態になるわけです。

最初から、「この展開(技法)は、吉凶設定ありでやります、読みます」と決めておくなどの措置がいるのです。

タロティストとしても有名なカルト映画の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏も、タロットリーディンクは一種のゲーム(の設定をする技術)であると述べています。

同じカードを使うにしても、そのリーディングにおけるルール、世界観というものが設定され、それによっては、別のゲームになるかのように、別種の解釈となることもあるのです。

この、ゲームにおけるルールこそが、タロットリーディングの大元を決めていると言っても過言ではないです。

ですから、ルール設定によっては、「神の家」や「13」が悪いことを示すカードになることもあれば、まったくそうでないことを表すこともあるのです。

タロットリーディングの間違いというものも、この設定やルールをごちゃごちゃにして、すべて同一のフィールドに置き換えているからそう思えるだけで、間違いなどはタロット(とは限りませんが)にはないと言ってもいいのです。

間違いや正解だと決めるのは、タロットを扱う人間側のルールや設定、価値観、解釈になります。

これはよく考えると、一人一人の人間と同じです。

誰しも自分ルールを持っていますし、そのルールや価値観も、どこから来ているかと言えば、自分を囲む環境・人間・社会からのものと言えます。

だから、世間の共通ルールもあれば、一人一人の世界観によって違うルールも出てきます。これらをまたすべて同じ線上に置いてしまうと、ゲームルールがバラバラの中に自分がいるみたいなもので、どれが正しくて、どれが間違いであるかが余計わからなくなってしまいます。

これに時系列も入ってくると、昔ではよかったが、今は許されないみたいなことがあり(その逆もあるでしょう)、ますます(良し悪しの判断が)難しく、複雑になってきます。

従って、選択や決断において、何を基準とし、どんなルール・世界観・価値観のもとの設定でやるのかを、完全に決められなくても、ある程度明確にしておくと、選びやすい、判断しやすいということになります。逆に言えば、それが曖昧模糊とした状態では、明確な回答も得にくく、何かをきちんと決められないことにもなります。

タロットで言えば、吉凶カードをあらかじめ決めておくみたいなことです。(その吉凶を決める基準・ルールもわかっていることが前提)

例えば、人生で言えば、長期的に見るのか、短期的に見るのかによっても違ってきます。

吉凶を超えるようなことは、たいてい、長期的視野か、今の価値観を超越・統合した視点でかのものによります。

ですから、吉凶設定ではない読み方や判断をすることは、自分を成長・拡大させるきっかけとなりますが、その分、判断や読みが今の自分を超えるので、難しいことにもなります。(そのため、より客観的判断が必要になり、他人に見てもらったり、人間的感情を超えた論理・真理的なもので見たりするということが求められます)

確率の話でも、例えばサイコロを10回程度振ってみると、人によっては、ある目に偏ることはあるかもしれません。しかし、回数をどんどん重ねて行けば、結局、確率論の数値に収まるようになることが知られています。

自分ルール過ぎる視野で短期的に見ていると、自分は不幸だとか、ダメとか、この選択こそが正解、あれを選んだのは失敗だった・・・となるかしもれませんが、神のルール、長期的視野といいますか、霊的な視点からでは、平均・平等化する(まさにそれが人生、良くも悪くもずべて同じ愛のもとのような感じの)話になるかもしれません。

とはいえ、自分という肉体と今の自我を持って今生の人生を送る期間は限定的で、一度しかないものでしょう。となると、自分ルール短期的視点での選択も必要な時が出てきます。

タロットの場合で言うと、吉凶的ルールのもとに、判断する機会もあってよい、そうせざるを得ない時もある、というところでしょうか。

というようなことで、皆さん、タロットを使いながら、人生のいろいろなことを選択・決断してみるのも、ひとつの生き方です。(笑)

それはタロットに依存するのではなく、タロットというツールを使って、選択を楽しむという、ひとつのゲームをしていると考えましょう。

タロットを使うという選択を、あなた自身がしているということを自覚するのが大事なのです。(使われるのではなく、また使ってやるのでもなく、タロットのある人生で彩りを見ているような感覚です)

ゲームの達人になるには、ゲームのルール知り、ゲームとツールを愛し、何よりも、自分が主人公であるべきなのです。


リーディングの具体化が苦手な人に。

タロットを学習していて、タロットがうまく読めない、タロットリーディングに自信が持てないという人の要因は様々に考えられます。

その中て今回は、タロットの象徴と具体という点について、読めない原因を書いてみたいと思います。

タロットは、基本的には象徴ツールです。その絵柄は、何かを象徴的に描いているものです。英語風には、シンボリックに何かを表していると言ってもよいです。

象徴・シンボルというものは具体的ではないから、それ(象徴)でもあるのです。逆にいうと、具体的にこれだと決まってしまうと、それは象徴ではなくなってしまうのです。

ただし、「これこれはなになにの象徴である」と言えることはあります。例えば、「田中社長はわが社のシンボルみたいな人」という言い方の時です。

しかし基本的に、象徴・シンボルから意味をひとつに決めてしまうことは、その象徴的機能の働きを失わせることになります。このあたりは難しい書き方をしているようですが、講義ではもっとわかりやすく説明しています。

とにかく、タロットが象徴である限り、具体的な意味をカードから決めていくのは、本来的におかしな話であり、難しいものなのです。

単純に考えても、例えば「赤丸」という「象徴・シンボル」があったとして、それはどんな意味なのかを具体的に答えるとなると、見る人によって、いろいろな意味や言葉が出てくることになります。

右翼的な日本人ならば、国旗とか日の丸(逆に左翼的で普段から日の丸を嫌っている人も)ということを言うかもしれませんし、果物に興味のある人ならば、りんごとかいちごとか、切ったすいかなど(笑)と述べるかもしれません。

このように、あくまで象徴の場合は、ひとつの図形においても、たくさんの意味が出てくることになります。

また、そのシンボルを通して、個人や民族の特徴もあぶり出されることもあります。同じ象徴図を見ても、人によって、国によって、やはり違うからです。(同時に、特定集団などでは共通した見方も出るからです)

ですが、ここが非常に大切なことですが、その象徴だからこそ出てくる意味があり、たとえ個人それぞれによって違うものが出現したとしても、その奥底と言いますか、本質的には、その象徴として共通している部分があるのです。

それぞれに、その答えならしめている「中心である何か」、それが象徴の本質です。

タロットリーディンクで重要なのは、タロットから言葉や意味を具体的に出すことよりも、この本質をとらえる、感じる、直観するということです。それができれば、具体的な意味は、あとからついてきます。

ところで、タロットを簡単に読めるようにする方法のひとつは、カード一枚一枚の具体的な意味を暗記してしまうことです。

事実、一日コースとか短期間のタロット講座では、そういうやり方を取られているところもあると聞きます。

ですが、このやり方は、まさに一時的なものであり、すぐに限界が来ます。すなわち、まったく読みの幅がなく、決まった意味でしか読めなくなり、行き詰まるわけです。

では新たに言葉や意味を一枚一枚について覚えて行けばいいと思うかもしれませんが、そんなことをしていると、際限なく暗記しないといけなくなります。

これは結局、カードが表す象徴としての本質を理解せず、ただカードから派生する周辺の言葉を覚えているに過ぎないものです。

ゆえに、タロットカードに近づいておらず、人間的に言えば、タロットカードと仲良くなることもできませんから、タロットを理解することも難しくなるのです。

カードが読めない理由のひとつは、象徴としての本質を理解しようとせず、カードを単純に機械や記号のように具体的意味をあてはめ、暗記してしまうことにあります。

この場合は、タロットが象徴であるということの理解がもともと抜け落ちている(そういう説明を受けていない)ことが原因です。

一方、象徴としては理解していても、いざ、実践で読もうとすると、「具体的に」よく読めないというパターンがあります。

大まかにはカードの意味はわかるけれど、それがクライアントへのアドバイスや質問の答えとして具体性に欠けるという状態です。

これは象徴から具体への次元(レベル)変換がうまく行っていないことによります。哲学的に言うと、象徴で見ている時と、具体的に見ている場合とでは、世界が違うのです。

このあたりを詳しく説明すると長くなりますので、とりあえず、ここでは対処方法のひとつをお伝えしておきます。

それは、具体化のため(への変換のため)に言葉や文字を使うということです。一言でいえばイメージの言語化とそのトレーニングです。

言語化はすなわち具体化なのです。私たちは言葉や文字にすることで意思を伝達していますが、それは耳で聞こえたり、目で見えたりすることで、より抽象的なものを具体化しているわけです。

自分の考えを伝えるのに、言葉や文字ががなければ、現実的には伝わりません。

ここから考えると、タロットリーディングというものは、抽象的・直感的世界と具体的・言語的世界との共同作業、統合によって行われるのがわかるでしょう。(特に人にリーディングして伝える場合)

テレパシーのようなものがお互いに使えるのなら、言語化はいらないのかもしれませんし、リーディングにおける具体化に悩むこともないでしょう。

しかし、私たちの世界は言語や文字という具体性を必要としたコミュニケーションによって成立しています。

だから、タロットリーディングにおいては、言語の世界への関心を持ち、それを豊かにする必要があるのです。

ひとつの言葉の複数の言い換えとか表現、これを持つこともそのひとつです。

タロットリーディングと言えば、聞いて話すことという伝達方法が主ですが、そのために、言語や文字というものを、ないがしろにしてしまっている場合があります。

タロットのことをただ話として伝えればいいと思ってしまっているということです。

当然、この状態では、言語化は無意識のうちにやっていますし、ほとんど文字を書くこともないので、文字・言語としても発達・意識することがありません。だから、タロットの情報(リーディング)を具体的にしようとしても、しづらいわけです。

反対に言えば、形としての言語・文字での表現をあえてしていくことにより、タロットからの示唆やイメージを具体化することがやりやすくなるのです。

自分の話す言葉を意識すればよいのですから、文字化しなくても、例えば自分のリーディングを録音して聴くのもよいでしょう。

どんなことを話しているのか、どんな言葉を使っているのか、これを意識するだけでも、かなり変わると思います。一番いいのは、やはり、リーディングを実際に文章化してみることです。

何事も訓練であり、しかもその訓練は何のために行っているのかということをわかっているほうが効果は高いです。(モチベーションも違います)

さらに言えば、現実逃避傾向や現実の苦しみがある人は、抽象的世界に逃げたい気持ちも出ますので、自分が具体的なリーディングがしにくいという方の中には、そういう気質がないかも振り返ってみるとよいでしょう。

抽象的な物言いは、間違いも正解もあやふやな世界と言えますので、自分のリーテイング責任をあやふやにしておきたい人も、具体的リーディングを避けようとします。

まあ、物事にはすべて反転とか逆転の意味もありますので、具体的なリーディングを目指し過ぎると、現実的価値観(今の自分の囚われの世界)の正誤で判断する傾向が強くなり、〇か×か、正しいか正しくないかのジャッジ的読みになって、相手や自分を追い詰めることにもなりかねないので、これはこれで注意が必要です。

ですが、リーディングが具体的にできないというのとは違います。タロットリーダー自身の心理的問題もありますが、技術的問題も大きいのです。

それから、勘違いしている人も結構いますが、タロットリーダーがすべて与えない(読まない)といけないみたいに思っている人もいます。

タロットリーダーは、あくまでタロットの情報を知っているに過ぎず、相談者の具体的なことは聞かないとわかりません。(占いの場合は、聞かずとも当てないといけないこともありますが)

従って、具体的なことは、タロットリーダーが決めるのではなく、クライアント自身が知っていて、クライアントが決めるのです。

「左右に分かれた道の右を選ぶことがよいです、そしてそれは転職を意味します」という具体的な感じではなく、「ふたつの道はあなた自身が知っていることで、それは具体的に、あなた自身で「これとこれのことだ」とわかるはずです、ちなみにこちらの方向はこのような象徴性持ち、あちらの方はこういう象徴性です、タロットは、あなたが本当に進みたい道を示しています・・・」と、抽象的であっても、タロットからの本質を伝えて両者が話し合っていくことで、やがてクライアントは自分の進む「具体的な」道を選ぶことが、自分でできるようになるのです。

つまり、具体的なことはタロットリーダーが読まなくても、クライアントが知っているということなのです。

クライアント・相談者はあなたのしもべでも、命令を聞く人でもないのです。具体的でよいことを言ってあげようと力むと、いつしか、タロットリーダーの立場を忘れ、えらそうな状態になるか、うまく行かないと反対に、自分は無力だと感じて自信を失ってしまうことにもなりかねません。

タロット占いではなく、タロットリーディングであるならば、共同作業であることを、常に意識しておくことです。


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