ブログ

「恋人」から「審判」へ

日本では、「空気」を読む、読まないということがよく言われます。

民俗学的に見ても、ムラ社会の続いた日本では、共同社会の中で、そのムラのルール・慣習・伝統、そして雰囲気さえも感じて守って行かないと、なかなかうまく暮らせなかったことの影響があるのではないでしょうか。

これは日本においては、特に農村社会が主であったがゆえに、同じ土地に留まって、皆で助け合いながら生きて行かねばならない環境の村落共同体では、自然の成り行きだったかと思います。

和を乱す者や、空気の読めない輩がいれば、それだけで共同体の維持が難しくなり、ムラの乱れは、集団の意識や環境の変化を生み、それは場合によっては、生死の問題に直結することもあったでしょうから、仕方なかったと言えます。

ただ、かつては、そうした閉鎖的ともいえる中でも、無礼講的な、ハメをはずことが許さる行事(お祭りなど)が施されていましたし、年齢層や男女別の集団などによって、いわば悩み相談、異端的な者への教育なども行われていましたので、バランスは取れていたところもあったかと思います。

やがて、都市社会化が進み、人々は住む場所と働く場所が変わり、生活の糧も間接的に得るようになりました。

しかし、共同体的な仕事のやり方は、昔から生活の場にあったわけですから、まさに人々の精神に染み付いた感じになり、たとえで言えば、まるで遺伝子的に受け継がれてきたように感じます。

だから、生活の場(家)から離れた職場であっても、そこに昔のムラ社会の掟やルール、集団での同調性・協調性の雰囲気が精神的に維持され、日本人らしい働き方が、そのまま時代は変わっても定着していたのだと推測されます。

極端に言えば、村長、年長者のいうこと守らなければならない、先輩・経験者によるものは正しい人の意見である、みたいなことで、その村長が上司とか社長に変わっただけなのです。

ゆえにサービス残業とかパワハラとかが、まかり通る社会が、ある面、続いていたと言えるでしょう。

しかし、時代は変わって行きますし、環境の体制も変化します。

それでも、長い間、集団の力で仕事と生活を動かす、保証するという精神的なルールと言いますか、雰囲気、もしかすると、ミームという言い方をしてもよいのかもしれませんが、その変化はとてもゆっくりだったように思います。

ところが、このコロナウィルスのインパクトによって、急激に変革が強制的になされようとしています。

そり最たるものは、オンラインでのテレワーク化の進展です。

今までは、同じ場所に集まって仕事をこなすという形式が普通でしたし、むしろ、それが強制的でもありました。

この形が、先述したように、ムラ社会の特徴を受け継いでいたものであることはわかると思います。

テレワーク化が進むことで、職場に直接的に集まらなくなり、たとえ組織としては同じ会社・チームで所属していても、実際は、おのおのが自宅などで、オンラインを通して一人一人、独立して仕事をするようになったわけです。

こうなると、その場で直接的に動く、関係する、関係させられるというものがなくなります。だから、直接的な協力体制、悪く言えば、強制的命令・指示の影響が弱まるだけではなく、集団の空気を読むことさえ、しなくてもいいことになります。

集団では、結果よりプロセスとか所属意識、同調することが重視されることもあります。

企業としては利益という成果・結果を生み出さねばならないはずが、結果よりも、仕事のやり方とか、協調性とか、従順性とか、それが大事にされることがあるわけです。

もちろん、組織である限り、チームワーク、目的達成のための集団による協力的な効果は無視できず、組織マネージメントも大切です。

しかし、あまりにそれが強くなりすぎ、目的のためより、チームのためが先という、本末転倒になったり、空気を読まねば集団から排除されるという、独立的な人、個性的な人、または敏感過ぎたり、逆にあまり周囲のことが気遣えない気質的な要因をもっている人には、つらいところがありました。

そのような人は、結局、独立・起業を選ぶか、そのようなスキルとか意欲が持てない人は、社会からはじき出され、誰かの保護下に入るか、社会保障制度に頼るか、あるいは、フリーター・派遣社員のような働き方で、点々と職を変えるなどして、なんとか自分が保てる生き方を模索するしかありませんでした。

かつて生活の場と仕事の場が直結して同じだったムラ社会にあっては、仕事ができない者であっても、生活の場としての助け合いがあり、それなりの保護体制もあったと言えます。

しかし、現代では、職住の分離と、貨幣・金融経済が進んだことで、仕事によってお金を稼げないものは生活もできないとなってしまったわけです。なのに、仕事場は、精神的には、ムラ社会のルール引き継いでいる状態です。

そうした状況が長く続いたわけですが、今年からは本当に変わった、いや、変わらされてきたのです。

ムラ的とも言える集団的な協力体制で、空気を読みつつ行ってきた仕事・職場が、一人一人の空間と時間で行えるようになり、一応、会社や組織としては存在はあるものの、物理的な集団・チーム・組織は弱くなり、ネットワークでつながっている個人という感じで、中世のギルド的な様相ながら、まったく新しい働き方、組織のあり方になるかもしれません。

ここで、やっとタロットの登場ですが(苦笑)、この変化は、マルセイユタロットの「恋人」カードから「審判」のカードの上昇のようにも思えます。

「恋人」カードは、三人の人間たちが話し合っている(その名の通り、恋愛関係を示唆しているとも取れるのですが)ように見えます。

人々の距離は近く、直接話し合える近さです。だから、この人たちは、まさに、物理的に直接的に会話できるような組織とか関係性を示すと考えられます。そうした直接的コミュニケーションと距離が重要なわけです。

一方、「審判」のカードとなりますと、「恋人」カードと同じように、三人の人物はいますし、距離は近い感じはするのですが、人々はであり、上空の天使を見ています。(それぞれの視線を追うと、全員天使に気づいていることがわかります)

一方の「恋人」カードの人物たちはを着ており、上空の天使(この場合は小さい天使で、キューピッドでもあります)に気づいていません。

これらのことには、明らかな対比と象徴性の意味が隠されているのですが、詳しくは講座でお話するとして、ここでは、コミュニケーションの質や方法が、この二枚では変わっていることを指摘しておきます。

いわば、オンラインを通したネットワークでコミュニケーションするのが「審判」だとすると、旧時代のような、直接的コミュニケーション、集団的関係性を表すのが「恋人」と言えるでしょう。

これからの時代、組織に属しながらも、自分というものを大切にした働き方がもっと進むでしょう。

集団で作業するにはつらかった人や、なじまなかった人、さらには、自閉スペクトラム症と診られるような人でさえ、働きやすい体制が整えられてくるかもしれません。それは、人によっては、とても希望が持てます。

また、集団圧力や、上司や同僚との関係によって、仕事そのものよりも、人間関係で悩み、苦しかった人にも朗報となります。

上司からの命令は、テレワークでも、もちろんあるでしょうが、直接的に顔をつきあわせているのと、そうでないのとでは、影響力が違いますし、実際に接触する時間自体が少なくなりますから、心理的負担は軽くなると思います。

目に見えない世界では、人々の仕事の苦しみ・ネガティブな思いも、全体として溜まっていて、それが連鎖したり、他人にも影響を及ぼしたりしていると考えられますから、それらが少なくなれば、思念の重さは軽減され、人々の心の浄化や気づきも増して、社会全体も、いい意味で軽く、フレキシブルになると考えられます。

平たく言えば、これからはマイペースで仕事ができ、人から邪魔されることは少なくなるということです。

かつてよく言われた、「仕事のやり方は、(人に聞かず)盗んで見て覚えろ」みたいな、奇怪ともいえる指導方法も、オンライン・テレワークでは、ますます意味不明なことになり、教える側はきちんと文章なり画像・図面なりを見せたり、送ったりなどして指示しないとダメですから、そういう、妙ちきりんな指導も減ると思います。

こう考えると、世の中の流れは、霊的な意味で、真の個人の独立に向けて進化が加速していると見えます。

そして、個人の独立性を獲得しつつ、同時に必要に応じて、それぞれの能力や知恵、個性を皆で活かしあう(補い合う)という、ネットワーク的な、流動的かつ自由的共同(協力)性も築かれる流れにあるでしょう。

それは、自立型共生社会とでも言いましょうか。

そんな方向性に、実は、コロナウィルスの影響でも、向かっているのだ考えるこができるかもしれないのです。

前に「節制」への社会移行について書きましたが、「恋人」「節制」「審判」、このどれにも天使がいます。

最終的には、天使が描かれている、もうひとつのカードである「世界」として、完成に向かっていくのでしょう。


社会不安と占い、タロット

社会不安になりますと、占いが流行ると言います。

これは日本だけではなく世界的傾向もあるようです。

例えば、昔の話になりますが、フランスにおいて、有名なフランス革命後、社会情勢が不安定になり、やがて左傾が反転、右傾化してナポレオンによって帝政時代を迎えるようになります。

その間の時代では、占い、特にカードやタロット占いが流行したと言われています。かのナポレオンも実は占いで戦争を決めていたといううわさもあるくらいです。

日本では、タロットと言えば占いの道具という認識が一般的ですが、おそらく、この頃のタロットの使い方(占いとしての)が、世界的に汎用化されたのではないかと、歴史的に見れば考えられます。(それまでは、タロットはゲーム道具の要素が強かったと見られます)

まあ、要するに、占い、そしてタロット占いなどは、社会不安ととも作られてきた面があるわけです。

さて、今や新型コロナウィルスのパンデミックから始まった、世界的社会情勢の不安、問題が広がっています。

さらにアメリカでは、人種差別が発端のデモや暴動のようなことも起こっています。とはいえ、これについては、陰謀論ほどではないにしても、かなり策略的においがするのに、多くの人は気かづいているかもしれません。

ですが、たとえ何かの陰謀や策略であったとしても、つまりは、人心や社会が不安な様相を呈しているから、それを利用する輩・勢力も出てくると考えられます。

さきほど、フランス革命とその後の話にふれましたが、この時と今の時代とでは、不安の要因は違うとはいえ、左的なものの運動・革命の機運から、結局は全体主義とか右的なものが台頭してしまうという流れは、第二次世界大戦時のドイツのナチス支配の流れを見るまでもなく、似たようなことを繰り返しているように感じます。

思想自体はあってもいいですが、もう右や左とかで、どちらも暴力や支配で決着をつけようと争うようなレベルから脱却したいものです。国や環境、技術が変わっても、やっていることやシステム的には、、数千年、同じなのが人類と言えます。

ちょっと話が占いやタロットからそれていますが、話を元に戻しますと、このように、社会不安が起きると占いが流行るというセットみたいな話があるわけです

それで、今日言いたいのは、ふたつのことなのです。

ひとつは、人々が不安になれば、やはりその不安を解消したい、癒しを求めたい、希望を持ちたいという思いで、何かに頼りたくなります。

占いの流行も、そうした心理的不安から起きてきているわけですが、とはいえ、占いと言っても、意外にも、機械やコンピューターの占いでは安心できない、癒されないということがあるのではないでしょうか。

となると、実は、人は占いを求めながらも、、誰か「人間」に話を聞いてもらいたいというところがあるのがわかります。

人に相談して解決策を求めたいという気持ち以上に、悩みや気持ちを吐露して聴いてもらい、少しでも自分をわかってほしいという感情があるのです。

もちろん、占いにおいては、普通の情報以外の、目に見えにい力に頼りたいということもあるでしょうが、人に話を聴いてもらい、また聴いてもらうだけではなく、占い技術によって、通常わかりえない情報を得ることができる期待もあるので、対人占いは、不安な時期には特に流行るのだと思われます。

前置きが長くなりましたのが、だからこそ、今、もし占いを学び、実践したいと思っている人には、それで稼ぐという意味よりも(それはそれでよいですが)、何より、身に着けた占い技術によって、人々の安心・癒し・常識を超えた情報提供などで、貢献していくチャンスだと言いたいわけです。

コンピューターの時代にあっても、やはり、人々は生身の会話を求めています。オンライン鑑定は増えましたが、それでも、オンラインを通してやっているのは、人と人の会話・コミュケーションです。求められているのは、あなたという「人間」なのです。

ここで、私は占いの技術に自信がないという人もいるかもしれません。

それはうまくできなかったことの評価へのおそれ、他人に提供するには、よいものをなさないと失礼になるなど、結局、過剰な自分への関心ベクトル方向と、経済的価値と自分の価値をイコールにしていることが多いのです。

まずは、自分のことより(関心ベクトルを他人のほうに向ける)、そしてお金のことより(仕事や作業はお金でしか評価、換えられないものと思い込み過ぎない)、世のため人のため、今のできる範囲で精いっぱいやってみるという姿勢が大切だと思います。

自分は意識していなくても、タロット占いやタロットリーディングをすれば、それは相手のためになるだけではなく、いや、もっと言えば、相手のためにたとえならなくても、実はほとんど自分のためにやっていることであり、それは自己浄化につながるのです。

ある意味、対人タロット占い、対人タロットリーディングという形を借りた、自己対話なのです。

ですから、マルセイユタロットの「力」と「手品師」の並びのように、新しいことに一歩踏み出す勇気を持ってみましょう。

次に、ふたつめは、占いの話をしておきながらなんですが、社会不安になったら占いが求められ、だから占いをするという、その、ずっと続くパターンから変化をつけてみたいということです。

時代的にも、次元が変わりつつあり、これまでのような、昭和的ともいえる占い・占いしたものをやるには時代遅れのところもあり、また元のパターンを強化したループに落とし込むような問題があるように思います。

ですから、占いをしながらも、ただ気持ちを安心させたり、先行きの情報を与えたり、物事の現実選択の悩みを吉凶的(現世利益的)に判断したりするのではなく、もっと別の次元やレベルの情報も提供し、悩める人々の意識を転換していく姿勢が、これからの占いにも求められる気がします。

不安をただ沈めるのてはなく、もっと意識そのものを上昇させていくような感じです。

いわば、マイナスからゼロに戻すだけではなく、プラスに変えるもの、いや、マイナスやプラスと思っていた世界から脱出していくような気づき、意識を獲得してもらうような内容です。

タロットで言えば、読みのレベルを上げる(たくさん持つ)ことであり、それには、レベルの違いとは何なのかということをタロットを読む側がよく認識しておく必要があります。

この区別ができていないことで、自分のやっているタロットリーディングが、占いなのか、セラピーなのか、チャネリングなのか、何をしているのか、何をしていいのかわからなくなり、結局、クライアント・相談者の求める情報レベルに合わせて、相手に迎合したものになる方がいるのです。

もちろん、相手の求めるものに応じること、悩みを解消していくことは重要ですが、それだけだと、これまでの占いレベルのままで、人や社会をよい意味で、改革させる(無限ループのような罠から脱出させる)ことは難しいです。

相談者の悩みや葛藤の階層に一緒に住むのではなく、占いやリーディングしている時だけは、その技術・ツールをもとにして、自分の階層レベルを上げ、悩める人を新たな世界へ導ける視点をもってやっていくとよいでしょう。

私の講座や勉強会でも、特に時代・次代を意識したタロットリーディングを解説しているところです。

タロットを習った皆さん、あるいはこれからタロットを学習してみようかという方、タロット占いやタロットリーディングによって、社会不安の中でも、自他に役立てることにチャレンジしてみてください。


アニメ映画「天気の子」から再び

「君の名は。」で一世を風靡した新海誠氏の新作アニメ映画、「天気の子」が、昨年公開されました。

この映画については、「君の名は。」の次回作でもあったことで期待度が大きかった分、結果的には評価や意見が前作より分かれ、賛否の否も多くあったように思います。

かくいう私も、このブログで、「天気の子」について書いたとき、内容や完成度において、不満があることは書いています。

しかし、今年のコロナウィルス禍の中で、ふと、この「天気の子」を思い出したところ、この映画は、ある意味、予言めいたところがあったのではないかと感じるところがありました。

また解釈や評価においても、(個人的には)かなり変わってきた部分があります。

昨年は、まさに「天気」が荒れ狂い、台風による被害が日本では多く出たことで、もともとこの映画の予言的な説は出ていました。

「天気の子」では何日も降り続く雨による異常気象の世界を描いていましたが、実際にこの映画の公開後、台風による雨(風もですが)の災害があったわけです。

そして、今年のコロナウィルスの世界です。

雨ではありませんが、ウィルスという「目に見えない雨」により、日本はもとより、世界中が異常な状態に巻き込まれています。天気で例えると、とても普通の天気ではなく、悪天候が続いています。

映画「天気の子」の世界では、最終的に、雨は二年半も降り続き、東京の下流域が水没しながらも、人々はそれを受け入れ、新しい形での生活をそれなりに過ごして行くようになった・・・ということが描かれていました。

「天気の子」においては、異常な長雨による“変わらざるを得ない世界”になりましたが、現実の私たちの世界も、コロナウィルスによって“変わらざるを得ない世界”に移行しようとしています。

ところで、「天気の子」の賛否両論でよくクローブアップされたのが、主人公の少年の最後の決断ではなかったでしょうか。

世界の人(天候の安定)を見捨て、どこか自分勝手に見える、自分と好きな人がいる世界を選ぶような形の主人公の決断。

だからと言って、世界(日本)の人も、彼らを責めるわけでもなく(まあ、主人公たちのことを本当に知る人は少なかったわけですが)、淡々と洪水のような世界を受け入れている風な描写もありました。

そのどちらもが、当時は個人的に、かなり違和感があったのですが、コロナウィルスによる今の世界を見ていますと、「天気の子」のこれらの描写が、かえって別の(隠された)意味に思えたきたのです。

「天気」をもし象徴的にとらえれば、それは一般の「空気」なのかもしれません。

コロナ禍で、本当に怖いところは、人々の同調圧力やマスコミの捏造にも似た恐怖の報道の部分もあります。言ってみれば、「世の中の空気」です。

もちろん、「天気の子」の災害的な天候ということでは、今年の実際のことでは、(異常な)天気」は「コロナウィルス」の象徴とも言えます。

「コロナウィルス」は「天気の子」の雨と同じように、それまでの人々の暮らしを環境的に変える要因になっています。と、同時に、「世の中の空気」もまた、これまでとは違うものが作られています。

このような「天気」、すなわち、「空気」「問題の要因」によって、私たち一人一人は、自分の生き方・姿勢が問われています。

アニメや物語の世界では、これまでは、予定調和的か、あるいは破綻した世界にあっても、何かしらの正しい論理、正しいか間違いかのふたつの基準は見ている者にとっても比較的はっきりしていました。

あるいは、たとえはっきりしていなくても、思いもつかない第三の道があったり、意外な方法論が示されたりしていました。

つまりは、よい世界になっても、ダメな世界になっても、それなりの納得性が見ている側にはあったのです。

ところが「天気の子」では、前述したように、ラストは、すっきりしない、どうにも不満や中途半端さの残る感じがありました。

しかし、よくよく考えてみますと、「正しさ」「すっきりさ」とは何かということなのです。

コロナ禍によって、元の世界に戻ることが正しい(期待する)という人もいれば、もう元の世界には戻れないから、新しい生活を模索しながら見つけていくのが正しいという人もいます。未知なるウィルスのせいで、正しさや落としどころ、あり様がわからなくなっているのです。

ですから、結局、「天気」「空気」として、多くの同調の意見、圧力を取り入れて、不安や不透明さをごまかそうとします。

「天気の子」では、「世の中なんてどうせ始めから狂っている」という登場人物のセリフがあります。

異常気象前の「元」のあり様からして狂っていたのだから、世界の環境がどう変わろうと、狂ったままで生活すればいい(何も間違いや正しさはわからないし、言えない)という感じがうかがえました。

これはまさに、今の状況、今後の状態の予言と言いますか、どう私たちは考えれば楽になるのかを、示唆しているようにも思えます。

また、主人公は、「僕たちは、大丈夫」というセリフを述べます。

そのセリフは、最初は、能天気というか、バカなのではないかと(笑)思えるものでしたが、これも、今の現実の状況を見て「天気の子」の主人公のセリフを考え直すと、味わい深いものになってきます。

つまり、こういうことだと思うのです。

大丈夫だと思えば大丈夫」ということだと。

もっと言えば、大丈夫だと決めるのは、ほかならぬ自分自身であり、他人や世間の空気(天気・環境)などではないと主張しているように思います。

たとえそれが、ほかの人から、あるいは全体の空気から困難なものに見えても、大丈夫かどうかは自分が感じ、決め、導けることである、というわけです。

結局、「天気の子」は、柔軟性をもとにしながら、ある意味、霊的な自立につながる話だと受け取りました。

それは、外側を受け入れながらも内なる強さで世界に対処し、創造的に生きることであり、「天気の子」の、一見、投げやりで身勝手に思える描写でも、おそらく計算されていて、次世代(の子、次世代の生き方)ということを、すでにテーマにしていたのだと考えられます。まさに予言の映画です。

マルセイユタロットで言えば、「力」のカードが浮かんできました。

奇しくも、「天気の子」が公開された年月日は、2019年7月19日であり、これをばらして足していくと「29」となり、この「2」と「9」をさらに足すと、「11」となります。(数秘術のやり方)

マルセイユタロットでは、「11」を持つのは「力」のカードで、偶然ながら、何か意図を感じます。

また「11」をさらに足すと「2」になり、この数はマルセイユタロットでは「斎王」で、巫女的な女性を表します。(ちなみに巫女的な女性の力については、昨年、「天気の子」をもとにしたブログ記事に書いています)

「11」の「力」は、ライオンを従えた若々しい女性のカードです。「1」という数があるので、新しいという意味もあり、まさにこれからの、新時代・新次元の段階を象徴しているのかもしれません。

「力」のカードから考えると、私たちはライオンという恐怖をコントロールし、動物や自然とも共生し、すべてを受け入れる柔軟性を持ち、人としての本当の「力」を取り戻す時代に来ているような気がします。

「天気の子」の異常気象は二年半も続いたことを考えると、この映画と現実の奇妙なシンクロが見て取れる今、もしかすると、コロナウィルスも、二年半くらいは落ち着くのにかかるのもかしれません。

しかしその間に、人々の意識は変わり、たとえ狂った世界のままであったとしても、自分自身に本質的な調和と力を取り戻すことができれば、従来の価値観での間違い・正解、異常(狂い)・正常の観点を超えた、新たな次元に上昇、飛翔することができるように思います。


偶像崇拝

宗教には、「偶像崇拝」の問題があります。

偶像崇拝とは、神や仏などその信仰対象を(特にモノの像として)かたどったもの、可視化したものを、「崇拝」する行為のことを言います。

イスラム教はこれが強く禁止されていることは有名ですが、ユダヤ教、キリスト教も、旧約聖書の記載から、やはり偶像崇拝は禁止されています。つまりは、世界三大宗教と言われる西洋系(アラブ系とも言えますが)の宗教は、偶像崇拝を禁止しているわけです。

もとはと言えば、偶像崇拝は、やはり宗教的に問題があったでしょう。

崇高な意味で言えば、その宗教における「神」「最高の存在」を、人間的・現実的形で表すことは、失礼でもありますし、そもそも至高の存在であるならば、それは現実的な意味での「形」で表現することは無理であると考えられるからです。

この、偶像崇拝をしてはならないという戒め、決まり事は、よく考えると、なかなかのものであり、今風に言うならば、スピリチュアルな世界をどう表現するかの問題に関わっていると言えます。

形ある像があるということは、物質として私たちが目に見える形で、それを見ている、理解することになります。そうするうちに、いつの間にか、その像を通した「形」を崇めてしまうことになります。いわば、信仰が像そのものになるわけです。

これは、言い換えれば、目に見えない世界を物質化していると言えます。

本来、抽象的な、誰のものでもない神、特定の何かでもない、超越的で唯一絶対的な神が、私たちの普通の世界、誰かで何かである(あらねばならない)低次で具体的世界に堕してしまうようなものです。

それは、「私(だけ)の神」「私の思う神」「人間のような神」「私の個人的な願いをかなえてくれる神」として、身近で、しかしより個別的な神として「見える」ようになるわけです。

簡単に言えば、神の具体化・現実化、個別化ですが、それは神のエゴ化、私物化、利便性や時には経済的利用の代物となってしまうこともあるのです。

例えば、ある宗教の神像が作られたとします。その神像が、便宜的には、この現実の世界で見える神であり、その宗教のシンボルともなります。

その宗教を信じている人には、像は崇高で、まさに神に見えるでしょうが、他の神を信仰している宗教徒からすれば、邪教のシンボル・像ということになり、その像を叩き壊しても、むしろ賞賛されるくらいのものかもしれません。

ということは、像そのものがリトマス試験紙のように、信仰の度合い、信徒の判定に使えることにもなります。まさに隠れキリシタンにおける踏み絵みたいなものです。

すると、偶像そのものが争いを起こす種ともなりかねません。

これは神が偶像として卑近な世界に見える形に変えられ、私物化されることにより、起こる現象と言えます。

だからこそ、神を偶像や可視化してはならず、誰の心にも存在はするものの、具体的な像・色形として固定化されるものではなく、普遍的で超越的存在として抽象概念のようなものにしておく必要があるわけです。

誰にも神がいるようにするためには、「この神は違う」とか「この神はイメージ通り」とか、意見がバラバラになって、神そのものへの信仰から離れてしまわないように、誰のものでもない、どんな形でもない空気みたいなものにしたほうがよいわけです。

翻って、現代のライトスピリチュアル事情を見ると、まるで偶像崇拝をしているような人たちが少なくないことがわかるでしょう。

神や天使、仏や菩薩などの名前を語り、私にはなになに様がついている、私はこの神様が見えている、私を守っている存在はこれこれです、なになに神がこうおっしゃっています・・・とか、その語る人には、超越的存在が具体的な姿・像として見えていたり、言葉などが聞こえてきたりしているようです。最近はスピリチュアル系ユーチューバーなどでも多いですよね。

あくまで、神の高い次元を人間的に理解するうえでのバージョンを落とした媒介的なものとして、イメージや偶像を象徴的に使うことはあるかもしれません。そうしないと、なかなか高次の世界に、一般の我々が近づくことができないからです。

大学生の講義をそのまましても、幼稚園児には理解不能なように、比喩やたとえ話のようなものがいります。おとぎ話や物語のようなものですね。それと同様に、神話や説話として、私たちの世界に神の世界が披露されているわけです。

偶像がそうした媒介的、次元の違いを象徴・比喩的な装置として結びつける役割であるのなら、それはありです。

マルセイユタロットの、特に大アルカナの図像は、これが意識されていると見ます。

崇高な世界、神の世界を理解するために、あえて具体的な象徴図として可視化されていて、しかし、単に目に見える絵というものだけではなく(それでは偶像崇拝の問題が現れるため)、やはりそこには(内在的な)神が意識できるように、神の世界の言葉・形が、私たちの世界のものに置き換えられていると考えることができます。

秘儀的には、数とか精緻な幾何学的な図は、それら神と人間をつなげる言語になっています。マルセイユタロットには、それが使われているわけです。

偶像崇拝の問題は、具体的であるがために、外側にモノや形として、固定した神を見てしまうことにあります。像を拝む行為をしているうちに、像に意識が投影され、像が人間化(感情や特定ルールを持つ)してしまうのです。

最初は自分が中心となって像を見ていたのに、いつしか自分の外側で自分を裁いたり、救ったりする存在がいるのと同じ(つまりは、形ある法律のようなもの)になり、その法律・検察官・裁判官に従わないと、自分には悪いことが起こる(罰せられる)、救われないという、見るものから見られるもの(存在)に、像(神)への意識が反転してしまうのです。

見られるものとは、普段、他人や社会を意識して、自他を比べて生活している私たちの意識そのものです。

神が抽象的で私たち中に存在するものであるのならば、見られるというより、高い見地での倫理的・哲学的・霊的意識で、自分をよい意味で律することができます。

この場合、自分が神=完全性持つ存在として認識され、低次の自分とは異なる高次の意識が、客観性をもって自己をコントロールしたり、示唆を与えたりするかのような意識が働き、自分で自分を導く状態が生み出されます。(それを補助する人やツール、シンボル、象徴などは必要かもしれませんが)

見られているのが人間や具体性ではなく、比べるのは自分自身(の中)ということになるからです。

偶像崇拝を悪い状態にしてしまうと、他人によって見られる意識のほうが強くなり、自分の自由を奪うどころか、個人化・現実化した神の像(支配するルール)によって、人の自由さえ、奪いかねません。

世界三大宗教は偶像崇拝を禁止したのですが、結局、布教における妥協で、可視化するものを多く作ってしまったこと、またイスラム教においては、おそらく神の概念を抽象化し過ぎたために、媒介するものがコーラン(クルアーン)などの「聖典の教え」そのものになって、それを遵守するかどうか、誰が正しく抽象的な神を理解しているか、受け持っているかという、正統性の「争い」が激しくなったものと想像します。

ですから、偶像・可視化のやり過ぎ、またやりなさ過ぎも問題で、神と人を媒介し、結び付けるシンボル・象徴はあったほうがよいのではないかと思います。

そして大切なのは、それがあくまで中間的・段階的な便宜性のものであり、神が人間の世界に堕ちてしまわないよう(反対に、人がおごり高ぶらないよう)にする必要があります。

その点でもっとも大切なのは、外に神がいるという発想ではなく、内に神がいるという認識だと思います。

あくまで偶像は、自分の内なる神性(それは宇宙であり全であるもの)を引き出す媒介装置であるとみなすわけです。

そして逆に言えば、それらの像や可視化できるシンボルがないと、なかなか現実の、普段の私たちの意識においては、神性を自分に実感することができず、そのための舞台装置として、聖域、神殿、偶像などの仕組みがあったほうが、最初や段階としては、よいわけです。

この考えに立っていれば、偶像崇拝で変な方向に行ったり、何者かわからない、しかしエゴや欲望などを強く引き出してしまう、まさに「偶像」を崇拝することはなくなるでしょう。

ちなみに、偶像は人の場合もあり、今は違う意味に使われていますが、偶像はアイドルであり、自分のアイドルとして崇拝し過ぎてしまうと、その人が自分を支配することになります。何も芸能人のアイドルだけではなく、スピ系の人や、それぞれの世界で強い影響力を持つカリスマ的な人なども、偶像になりえます。

ここまで書いてくると、すでに気づいていると思いますが、悪い意味での崇拝される偶像対象は、マルセイユタロットでいえば「悪魔」(のエネルギーを可視化した存在)なのです。ただし、その悪魔も、扱い方によっては、よいものにもなります。

問題なのは対象を具体的に崇拝することで、自分が強く支配され、自分の自由が奪われ、自分を見るものとして(自分がそのモノに見られているという意識が働いて)、自分に君臨させている場合です。

その偶像なしでは生きてはいけない、絶対だと思う人、その偶像の作る世界観・ルールを人に強制している人は、注意してください。


タロット関係を継続する方法

タロットを学習しても、タロットが続けられる人は、案外少ないのかもしれません。

独学か、学校や先生について学ぶかで言いますと、意外と、独学の人のほうが続けられている気もします。

もちろん、学校や先生において習う場合でも、継続率が高いところもあります。

やはり、習ってそれで終わりだけではなく、継続して興味が持て、学習できる体制があるのとないのとでは、その差も大きくなるのは当然と言えます。

私自身のことで言えば、かつて一緒に学んだ方々でも、今でもタロット活動をされている人は、ほとんどいない感じです。

当時、その学校関係でアフターフォロー的なことも少しはありましたが、やがて学校自体がなくなるに等しくなったことで、その時点からタロットをやめる人が増大した印象です。

たぶん、当時習った皆さんでも、カードは残されているとは思いますが、同時期やその後数年間において、同じ学校で学んだ人で、いまだ名前をお見かけしたり、実際にタロットをされていることを知っていたりする人は、ほんのわずかです。

あと、趣味の場合は、タロットが本当に好きならば長続きしますが、ビジネスや対外的に事業としてやっていくとなると、純粋にタロットだけの問題とはいかなくなりますから、結局、事業が立ち行かなくなると、タロットへの関わり自体もやめてしまう場合があります。そういうのはちょっと悲しいですね。

ということで、せっかくタロットを習っても、それっきりで終わらないようにするために、アドバイスや注意点をポイント別に書きたいと思います。

●習う費用と期間の問題で変わる

入門的に、あるいはちょっとした興味ということで、内容がライトなコースとか、一日とか数日の短期間のコースを選択してタロットを習うと、結局、タロットに対して軽い感じになり、興味もすぐ冷め、そのまままやめてしまうことがあります。また、料金があまりに安いコースだと、お金の重みが感じられず(つまり真剣さや重要度が薄くなる)、継続意欲・活用への興味もなくなりやすいです。

ただ反対に、入口がライトだっただけに、さらに深いものを学びたいと、逆に興味と感心が増してくることもあります。

●アフターフォロー(体制)の充実があるか

タロット講座が終わると、「あとは自分で勝手に・・・」というような感じで放置されるものだと、先にも書いたように、どうしてもタロットへの定着率は下がります。また、習う組織や学校自体がなくなったり、組織改編などあって事後体制が変更されたりして、継続学習ができなくなると、同じようなことになります。まさにタロット学習難民と化すわけです。

●学習仲間や自主的なタロット学習のグループを作る

習う側においても、学校や組織、先生ばかりを頼りにせず、自分たちで学習グループや研鑽組織を作り、学ぶ意欲を継続させていくとよいです。私自身も、昔、習った者たちで学習グループを立ち上げ、それがあったからこそ、何人かの人とともに、タロットが続けてこられたというのもあります。

やはり仲間がいると、タロットを続けて行きやすいです。

●学校や先生のスタッフ、ヘルプをする

タロットの学校とか先生の場合、タロットが仕事であったり、生きがいであったりすることがほとんどでしょうから、タロット活動が一般の人よりも続いていく可能性は高いです。ですから、当然、そこにスタッフとか何かお手伝いするヘルパーとして入れば、タロットとの縁が途切れず、自分もタロットと関わり続けることができます。

●自分なりの課題やルール、あるいは目標を設定する

タロットにおける目標、課題、ルールなどを決めておくと、それを達成するまでは続けることがモチベーションにもなってきて、気づけば、タロットを長くやっていることになってきます。例えば、毎月何人リーディングするとか、あのカードのこの謎を解明するとか、なんでもよいですが、具体的なほうが効果は高いでしょう。

●ビジネスとタロットへの思いとを切り離す(分けて考える)

タロットがビジネスとからんでしまうと、お金や経済的なことと結びつき、何でもそうですが、好きなことをビジネスにしたつもりが、ビジネス自体がうまく行かなくなって、好きなことそのものも嫌いになる、あまり扱いたくなくなってくる・・・という悪い影響を及ぼしてしまうこがあります。

逆に言えば、ビジネスが好調であれば、タロットも余計好きになり、長く続けていくことも可能になります。しかしながら、純粋な意味でタロットが好き、タロットに興味があるという気持ちがあるのに、ほかの要因・要素によって、それが影響されてしまうことは避けたいところです。

お金儲けや成功することが好きなのか、タロットができる自分を評価してもらうことが好きなのか、それとも、タロット自体が本当に好きなのか、それらをいつの間にか、混同してしまうわないように注意しましょう。

●タロットをアテモノだけの興味で考えない

タロットを占いとして、当たる当たらないの観点で見てしまうと、当たらない時にタロットの予測と実際の結果にがっかりして、タロット自体への信頼、興味を失ってしまうおそれがあります。これはそもそも、タロットをアテモノ的な占いで見ているからこうなるわけです。

だとすれば、自分の興味を失わない使い方を、タロットにおいてするべきなのです。

●自分の興味や価値観と、タロットの活用とをリンクさせる

自分は何のためにタロットを習い、使うのかということを、今一度、はっきりさせることです。

自分の目的や好きなこと、自分が高い価値を置いているもの(これは人によって違います)に対して、タロットを活用することができるか、もしタロットを活用するとすればどんなことができるのか、どのように使えばよいのか、このように考えることで、タロットと自分が大きく乖離することなく、使い続けることができるでしょう。

もし、自分の価値観、人生において、あまり役に立たない、活用する方法が見つからないということであれば、タロットはお蔵入りとなってしまうのもやむを得ないでしょう。

 

いろいろと書きましたが、結局、一番大事なのは、タロットが本当に好きかどうかが一番肝心かと思います。

そして、別に長く続けることがよいこととは限りません。タロットの縁、その意味にも、個人差があります。

人によっては、タロットは単に学びのひとつ、ある目的のために一時的に接したツールという場合もあるのです。その後、別のもっと強い関心を抱けるものに出会うこともあります。

要するに、タロットとの出会いと学びは、自分にとっての(必要な)過程である(であった)という場合です。

ですから、自然に興味が離れ、タロットを扱わなくなってもよいのです。

まさに人それぞれで、あなたがタロットを選びつつも、タロットのほうもまたあなたを選びます。あなたがタロット必要としないのなら、タロットからも働きかけは弱くなり、あなたから離れていきます。

それでも、タロットとその奥底に流れるものに縁のある人は、一度離れても、再び戻ってくることもあります。その時は、前よりも、タロットが身近に感じられたり、以前とは違った面を見せてくれたりするようになるでしょう。

タロットにも種類があるように、それぞれの種類別で関わる縁があります。

 

マルセイユタロット縁がある人には、私のほうで門戸を開いておりますので、一度、扉をノックしてみてください。マルセイユタロット難民(笑)の方もご相談くださいませ。


Top