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2020年9月からの後半
9月に入りました。
コロナ禍での変革、激動の年とも言える(しかし社会的には動きが止まるという)2020年も、あと4か月となってきました。
ということで、今年後半について、特にブログ読者の方のために、全体としての(流れ・課題)タロットリーディングと、誕生月別に一枚引きしたカード(意味はあえて書きません)を掲載いたします。
ただ今回は、新型コロナウィルスの状況や政治・経済の問題など、日本や世界がどうなるかとか、そのような社会的な大きなテーマ・問題のリーディングではありませんのでご注意ください。
なお、私のHPでは、「ソウルカードアドバイス」と題した、月別のタロットリーディングも掲載しておりますので、興味のある方は、そちらもご覧ください。
【全体タロットリーディング】
ここに来られる方、あるいは偶然ブログにたどり着いた方でも、だいたいはタロットとかスピリチュアル、精神世界などに興味のある方が多いと思います。
しかしながら、タロットの展開によりますと、どちらかといえば、この2020年、残りの後半は、現実的なことに関心や注意を向けてみることが提示されています。
もちろん、スピリチュアル的には、よく言われるような次元上昇とか、大変化の最中とも考えられるのですが、だからこそ、物質次元に向き合い、浄化や課題を処理していくことが特に求められているように感じます。
具体的には、フィジカル面の強化、安定、医学的検査と処置、未病の対策・保健、経済的な立て直し、転職、仕事の効率化、知識や資格の向上・取得、具体的な成長ビジョン・計画の策定、現実的な意味で結果の出ることへの尽力・行動、家族の再生、結婚、婚姻、親子関係の決着、調整、人間関係の整理・・・などなどです。
カードは、すべての面において(人によって課題は違ってきますが)、具体的なこと、現実的に効果や影響のあることに向けてのものを示しています。ですから、ただ夢のように見ていたり、単なる願望であったり、考えだけして動かなかったりするのとわけが違うのです。
正直言いますと、甘くない現実ということが見えてきます。けれども、それは結局のところ、あなたを楽にし、霊的な成長に向かうための努力と言いますか、もともとやらなければならないことであり、一言でいえば、囚われからの解放の項目(課題)なのです。
注意すべきは、現実への対策と言っても、上記では「やらねばならないもの」とも表現しましたが、本質的には強制されるようなことではなく、あなた自身が本来「すべきこと」になり、自立(自律でもあります)的に、自然に向かっていく方向性、行動なのです。
ですから、人から言われたからしなくてはならないとか、世間的に、常識的にとか、そういう視点と理由からではなく、まさに自分自身のためにという、中心点を自分に置く(自分軸でいる)ことが重要です。
感情的にやりたくないことと、本質的にやらなくてもいいこととは別だということも心得ましょう。
その判断に迷えば、タロットを自分で引くのもよいですし、タロットがない人、タロットを知らない人は、何度も自問自答するなり、内面を見るための補助・サポートを受けてみたりして、世の中の意見や感情でこまかされているものではない、真の希望、(直感ではなく)直観でわかるもの(これらは頭だけ、心だけで考えるのとは違うものです)を見出すとよいでしょう。
今年9月~12月の時期のための誕生月別カード(一枚引き)
1月「運命の輪」
2月「月」
3月「審判」
4月「正義」
5月「法皇」
6月「皇帝」
7月「愚者」
8月「手品師」
9月「節制」
10月「力」
11月「戦車」
12月「悪魔」
タロット事始めに際して。
ちょっと公私ともにバタバタとしており、ブログに間が空いてしまいました。
体調不良ではありませんので、ご心配なくです。
あと、6月末に一度ブログを休止して7月に再開した際にも書きましたが、これまでは記事掲載ペースを二日に一度にしていましたが、今後は少しランダムになることと、内容的にもガッツリ記事(笑)ばかりでなく、ライトな比較的短い記事も掲載しようかと考えています。
連続して書くこともあるかもしれませんし、一週間くらい空くこともあるかもしれません。ですが、二日か三日に一度のペースくらいに、基本はしたいと思っております。ということで、あらかじめご了解ください。
さて今日は、タロットを始めたいという方、あるいはすでに学習している人にも参考になる話をしたいと思います。
まず、何はともあれ、タロットを選ぶことがタロット事始めみたいなものと言えます。
自分がどのタロットを選択するのか、どのタロットを使いたい、学びたいのか、これを決めるのはすんなり行く人もいますし、かなり迷う人もいます。
ですが、私は思いますが、人とタロットには縁と相性のようなものがあり、結局、最終的には、自分にふさわしい、自分に合っているタロットに出会うことになると思います。(タロットに関心があり、学びたいと真剣に思えば)
たとえ最初に選択を間違ったとしても、途中で違和感が生じ、あまりそのタロットに興味が行かなくなり、別のタロットとか教室とかで学び直す可能性も高く、最後にはしっくりしたタロットと巡り合う(あるいは自分が納得するタロットの使い方に出会う)ことになるでしょう。
中にはカード好き、タロット全般好きというタイプの人もおりますので、複数のタロットを持つこと、扱うことが合っているという人もいて、いくつかのタロットを学習して、使いこなす場合もあります。
私のところに来る方でも、別のタロットをやっていたけれど、マルセイユタロットを学ぶことになったという人、その反対に、マルセイユタロットを学んだけれど、ほかのタロットや教室に学ぶ縁ができ、結局そちらが自分のタロット活動の中心になったという人もいますし、ほかのタロットを使っているけれど、マルセイユタロットも使いたいので習いに来たという人もいらっしゃいました。
まあしかしながら、全体的には、マルセイユタロットに縁がある人が集まってくるように思いますし、私の生徒さんは、マルセイユタロットオンリーという人のほうが多数派です。こういう点からしても、人とタロットの縁とか相性というのは感じるところです。
あと、同じタロット種であっても、
●厳密にどのタロットを使うのか
●何を目的をしてタロットを学び、使うのか
●実際にタロットを活用するフィールド、シーンは何か
●タロットリーディング・タロット占いの場合、どのスプレッド(展開法)をメインとするのか
などによって、かなり変わってきます。
同じタロットであっても、実は版とか、大きさなどに違いがあり、例えばマルセイユタロットであっても、「〇〇版」というように、作られた年代、工場(出版元含む)、作者などによって絵柄は異なっています。
一見、同じ絵柄に見えても、微妙なところで結構違っており、そのため、一枚全体の大まかな解釈では同じところはあっても、細かいところでは差が出るため(採用する読み方によっては、小さなことでも、解釈の決定的な違いになる場合もあります)、実はタロットの読み方、見方、とらえ方、示唆の受け方なども変わってくることがあるのです。
さらに深く言えば、霊的にも違いが出る可能性さえあります。
これに、自分がメインとして使う展開法(スプレッド)も、教わる教室や先生、本によって異なってくることがありますから、自分の採用するそれによって、また大きく差が出ます。
カードだけでも違いがあるのに、展開法も異なるとすれば、やはり、同じ種類のカードを使ってはいても、人それぞれで、表現・個性はまるで違うことになる場合もありうるのです。
そして、自分はタロットを占いで使いたいという人と(そもそもタロットは占い道具でしかないと信じているような人もいます)、自己実現やセラピー、その他違う目的に使いたいという人とでは、学習内容や活動場所、シーンも違ってくるのは当然です。
気をつけないと、自分がタロットを使ってやりたいことと、教わる内容がかなり乖離していて、たくさんお金を払ったのに、目的とは違うものを学ぶことになったという不満が残ることもあります。
よって、独学ではなく、先生や学校のようなところからタロットを学ぶ場合、その先生や学校が何を目的として(教えて)いるのかを見極めたうえで、学ぶ選択をしたほうがよいです。
よくわからない場合は、その先生自身、または学校の出身者の活動内容、活動している場所を見るとよいです。
占い師として活躍している(人が多い)のならば、それは占いの学校、占いの先生と判断するのが普通ですし、セラピストとして活動されているのなら、セラピー的な内容を教えることが多くなるでしょう。
有名だからとか、すごい活動しているとか、よくネットや広告で目にするとか、そういうもので選んでしまうこともあるかもしれませんが、やはりタロットと同様、先生や学校も相性がありますから、ばっと見だけのことで選ぶと、あとで後悔することになります。
有名な先生は当然多忙ですから、一人一人について面倒が細かく見られないこともありますし(講義はたいてい、多人数同時となるでしょう)、先生自身、最初から特別に能力を持っていて、普通の人の感覚がわからない、ズレているということもあります。
しかし、有名になる人は力とカリスマ性もあり、一方、陰では大変な努力をされている人も多いですので、その感化を受けて、自分も飛躍的に変わることができる場合もあります。
一方、そんなに名は知られていなくても、まるでカードの「隠者」のような人や、教え上手の人、親身にマンツーマンで教えてくれる人など、よい先生もいらっしゃいますので、これもまた縁かもしれません。
無名ながらもよい先生は、広告とか宣伝をあえてしないとか、それ自体が苦手という傾向の人がありますから、見つけること自体がすでに修行、縁を見つける旅になることもあります。(笑)
ですが、きっと、あなたが志を持てば、その志に応えてくれ、まさに「志」を持った先生、教育機関に出会える可能性は高いです。マルセイユタロットで言えば、「恋人」カードの天使の矢が当たるようなものです。
この天使は「志」以外に、まるで逆のようなことともいえる、ふとした瞬間や、関心をちょっともった程度のことでも現れることがあります。
いつもは見ない情報をなんとなく見てしまった、ついついネットサーフィンしていて見つけてしまった、友達に誘われて参加してみた、久しぶりにあるサイトを見た・・・こんなようなことで、タロットとの出会いが生じることがあります。
タロットを習いたいと最初から「タロット」に関心があって出会う場合と、タロットはほとんど知らず、無関心ではあったものの、自分が悩んでいること、知りたいこと、興味のあることに対して(答えとか手がかりを)探していたら、偶然タロットに出会ったというパターンがあります。
私自身も実は後者なのです。
ですから、やはり、タロットに出会う人には、出会う「運命の輪」があり、それが回る時、「恋人」の天使から放れたれた矢が当たるようなことがあるのだと思います。
今、この記事をたまたま目にした人は、もう、そういうことになっているのかもしれませんね。(笑)
あと、最後に、いくら縁が生じても、自分が決断し、動かないと、現実世界では何も始まりませんから、最終的に選び、活動するのは自分自身であることは覚えておかれるとよいと思います。
タロットに限らず、結果がどうあれ、自分が興味や関心を抱いたものを、やるかやらないかは、結構、この現実世界の中では、大きな意味を持つように思います。
小アルカナのアイテム
タロットには小アルカナというパートがあります。
そもそもタロットは「アルカナ」と呼ばれる秘密のカードで構成されているカード群ということになりますが、そのアルカナに、大と小の区分、パートがあるわけです。
枚数的には小のほうが多く、特にマルセイユタロットの場合は、小アルカナの中でも数カードの絵柄が独特(記号的)で、そのため、小アルカナのパートは謎がまだまたあると言ってもよいかもしれません。
とは言え、小アルカナは4つの組に分かれているところは、マルセイユタロットとほかのカードにおいても、たいてい共通していますから、この4組を理解することが、小アルカナ解読の鍵にもなると考えられます。
さて、その4組にもいろいろな解釈ができるので面白いのですが、今日は、ゲームアイテムのごとく、この4つを見てみようかと思います。
ところで、私たちは、言わば「人生」という大変困難で、しかしなかなか面白いゲーム(苦笑)に参入していますが、ここで私たちは数々のアイテムを入手しながら、ゲームを進めています。(私たちは人生ゲームのプレイヤーと言えます)
このゲームは、何か敵を倒すとか、宝物を手に入れるとか、何かを育成するとか、プレイヤー全員に共通するようなテーマはなく、そういう性質のゲームでもないようですよね。
もちろん、個々のプレイヤーにおいては、今述べたような目的をもってやっている(人生を過ごしている)人もいますが、「人生ゲーム」そのものを見た時、「このゲームの真の目的はこれです」ということを、なかなか言い当てることができないのではないでしょうか。
それがわかれば、悟ったも同然かもしれません。
ただ、逆に、いろいろな目的や遊びが可能なゲームだと見れば、目的自体がそれであることも言えるかもしれません。言ってみれば、なんでもできる(わけではないかもしれませんが、かなりのことはできますよね)体験型ゲームというわけです。
しかし、ゲームにはルールがあり、フィールドも限定されています。そうした中で、この世界の中で、私たちは精神的なことや物質的なことを、様々な体験や方法で手に入れて行きます。
もし、それらを象徴的に「アイテム」種として分類すれば、意外に、小アルカナの4組になるのではないかと思うのです。(やっと小アルカナの話に戻ってきました)
タロットの4組は、マルセイユタロットののもので日本語訳的に言えば、「剣」「杯」「杖」「玉」となります。英語的には、ソード・カップ・ワンド・コインです。
そのままモノとしての道具であれば、切るためのもの、ためる(あるいは流す)ためのもの、補助・前進させるもの、使われ、交換させるためのもの(それぞれ、ほかの言い方もできますが)と言えるかもしれません。
面白いことに、剣と杖は、縦長の道具で、攻撃と防御、運動などに使用でき、動的な感じがします。一方、杯と玉は、器や固まりで、玉、つまりお金も鋳造されるものとすると、それを生み出すものからして、入れ物的で静的な印象が強くなります。また地に置くものとして、縦より横幅が重要かもしれません。
これらはわざと対比的な関係にある(されている)と思えます。
もう一度、純粋に、4組をモノとして見て、人生における必要道具だと思ってみましょう。
そすると、あなたには今、剣が必要でしょうか? それとも杯? 杖(棒)? 玉(コイン、古い時代なら石のような交換道具)? どれですか?
さきほども言ったように、道具の使用目的から考えると、切るもの、受け入れるもの、支えるもの、交換・購入するものというような感じでしょうか。
道具そのものとしてみれば、そんな機能が浮かびますが、タロットは象徴ですから、ここから、さらに比喩的に拡大変換させていくことも必要です。
その簡単な方法は、道具・機能を、精神的なものや人間的なものとして表現することです。
例えば、剣は切るものでしたら、人間関係を切るとか、モノや人を処分する、断つ、戦うとかになるかもしれません。杯ならば、受け入れたり、ためたり、注いだりですから、感情の潤いとか受容とか、喜び、満足感など精神的なことを中心に出てくるかもしれません。
とにかく、四つのアイテムがそろうことで、あなたの人生は充実したり、うまく事が運べたり、ゲームそのものが楽しくなるよう、設定されているのだと思うとよいです。
そして、それは道具としてのアイテムの意味もあるのですが、まさにゲームアイテムと同じように、魔法的とも言える効果を出す(魔法道具にする)ことができるのです。
魔法的効果というのは大げさな表現かもしれませんが、タロット的に言えば、象徴として扱えば、それは単なる道具的機能にとどまらず、この世界のあらゆるシーンと場所で、四つのアイテムによって、ほかのものを、同じ四つのアイテムのどれかに変化させることができるという話なのです。
これが魔法のからくりです。
ですから、ただアイテムを道具として手に入れるだけでは魔法は発動しないのです。
アイテムをアイテムたらしめている原理を理解することです。
そうすれば、この世界はアイテムに満ちていることに気づいてきますし、それをうまく使って、自分なりの目的を作り、それを達成したり、プロセスを楽しんだりする、この不思議な人生というゲームを味わうことが、よりできてくるでしょう。
実は私たちは、もともと生まれた時からと言いますか、自分自身が四つの性質からできているのです。
つまりは、すでにアイテムはゲットしていることになります。ただ、それを知らず、また魔法の発動法もわからない(隠されている)と言ったところでしょう。
タロットをやっていると、そのありかや秘密にたどり着くことができそうです。少なくとも、四つのアイテムやその世界を知るには、タロットは手っ取り早いです。
四つはエレメントとしての、風・水・火・地と言ってしまえばそれまですが、それでは抽象化し過ぎていて、アイテムとして実態感覚が出ません。
だからこそ、タロットの4組なのであり、それは道具・モノの形をしているのです。
あなたには四つの聖なる道具があり、さらには四つの領域の天使や使い魔がいるようなものです。
ゲームアイテムとの相性のように、人それぞれ、得意分野やアイテムの使いやすさ、使いにくさが個人差としてはあるでしょう。それを知るのもまた人生ゲームのだいご味のひとつです。
そしてゲームでパーティーを組めば効果的なように、それぞれの個性が補い合い、ある目的を早く効率的に達成することも可能となるでしょう。しかし、パーティーによっては、非効率になったり、ライフポイントが減ったりして、大変な目に遭うこともあるかもしれません。
あなたも、タロットを手にして、今いるゲームの世界を、もっと視覚化してみませんか?
もしかすると、行き詰まった問題に打開策が出るかもしれませんし、ゲームイベントのクリアーに寄与することもあるかもしれませんよ。
制限ある自由 自由のための制限
コロナ禍で、今年はいろいろと我慢を強いられている人が多いと思います。
一方で、人間、そうそう我慢が続けられるものでもなく、自由でありたい、束縛されたくないという思いも強いものがあるでしょう。
人とはおかしなもので、おそらく本質的には自由でありたいと願いつつも、どこかで制限してもらいたい、囲われたいという願望もあるような気がします。
後半の部分(制限願望)は、誰かに守られたい、安心安全に暮らしたいという保守的な思いによって生じているとは思いますが、もしかすると、人の成長欲求と言いますか、人間にはもともと変化・成長していくことの使命のような特質があり、それが自由というものに抵抗する力になっているのかもしれません。
一般的に、神は自由であり、悪魔は制限をかけるものと解釈されがちですが、見方を変えれば、むしろ、悪魔が自由、神が制限を加えるものという印象もあります。
それは特に宗教においての神と悪魔の概念で顕著な気がします。
宗教における神は、たいてい試練を与えるものであり、戒律などで、その神を信じる人々に制限を与えます(神が与えなくても、神の意思に沿うために人がそれをする)。
一方、悪魔は、そういう神の守護範囲とも言える制限から、甘言や教唆をもって誘惑し、人々に神の戒律からはずれるように仕向けます。
これは宗教の神からすれば、とんだ悪ですが、もしその神が自分に権威をつけ、人々から敬われるようにわざと制限をかけていたとすれば、悪魔のほうこそ束縛からの解放による「自由」を主張していることになります。
マルセイユタロットに流れる思想のひとつと考えられる「グノーシス」では、神が悪魔である(一般の神は偽物という)反転構造を示唆し、私たちが一般的に信じていることに疑いを持つよう諭します。
しかしながら、マルセイユタロットでも、「悪魔」のカードには、ひもでつながれた二人の人物が描かれ、やはり悪魔は何らかの制限を(見えない形も含めて)かけていることがわかります。
一方、「神」の名前を持つカードでは、「悪魔」の次の大アカナナンバーである「神の家」があり、このカードでは、雷の衝撃で、はじかれたようになった人がおり、強制的な解放も意味されているようにも見えます。
とにかく、ここで言いたいのは、自由の名のもとに、裏では束縛や制限が潜行している場合があり、逆に、制限・束縛が、人を自由に導く、成長の糧として機能していることもある点です。
今、コロナ禍で不安になっている人々の前に、SNSなどを含め、様々な情報が提示されてきますが、よくよく吟味しないと、表向きとはまったく反対の意図によって、それこそ本当に「悪魔」につながれてしまうおそれもあるので、気をつけたほうがいいでしょう。
そして、このご時世、制限だらけで、息苦しい世の中にはなってはいますが、その中でも、私たちは成長や進化を遂げていくこともできるはずだと考えます。
マルセイユタロットには「吊るし」というカードがあります。二本の木の間で逆さまに人がつながれ、まるで吊るされていように見える図です。
しかし、何度もこのブログでも書いたように、マルセイユタロットの「吊るし」の場合は、拷問のように吊らされているのではなく、この人物、自らが好んでこのスタイルを取っているかのように、苦しさを感じさせないものです。
いわば、制限にある中でも、この環境、この人物なりに自由を楽しんでいるとも言えます。
そう、制限の中に自由があることを、「吊るし」のカードは、ひとつには語っているように思います。
最初にも述べたように、私たちの本質は「自由」であり、自由である自分、その故郷ともいえる場所(心境)に戻りたいと思ってはいるものの、現実社会の中では、様々な制限や束縛によって、自由を奪われているように感じています。
そもそも魂と肉体という対比で言いますと、肉体によって魂の自由性が制限されていると言えます。
しかしながら、同時に、私たちは制限を求めるところがあり、それは成長の枷のようなものとして、必要とされるかもしれないものです。
肉体があるからこそ、肉体的(物質的)経験ができ、それによって魂は実感を伴って成長することができます。
もし、まったくのフリー・自由であるならば、何も苦労もなく、願ったものはすべてかなうことになります。いや、そもそも「願う」というそのことさえ生じないでしょう。言ってみれば完全ではあるものの、「無」でもある状態です。
これでは成長を図る(計るでもあります)こともできません。
計測すること自体、制限があるからできることですから、もし、私たちの本質が完全であるならば、成長するという概念そのものもないことになります。
ですから、成長のためというより、制限から実感するゲームを楽しむためなのかもしれませんが、それは「有」、つまり肉体や障害物のある次元、現実界においてでないと、なかなか味わえないことなのでしょう。
制限があれば解放もあるという二元世界が、色濃く出てくるのがこの現実の世界です。
ということは、解放、自由の喜びも、制限があるほど生まれることになります。この両方の振り子が動くことで、ある種のエネルギーが生まれ、私たちの何かの宇宙を動かし、拡大させているのかもしれません。
とにかく、束縛や制限は、悪いことではなく、それがあるからこそ、自由への目覚め、自由に向けた新たな方法・アイデアも生まれると考えられます。
それは、先述したように、この現実の世界でないと、なかなかできないことなのだ思います。
ですから、今年から始まった、とても制限のある世界の中でも、一人一人の工夫と、全体の知恵が集まって、おそらく、今まで考えもしなかったものが誕生し、自由の新たな形を手にすることができるでしょうし、自由の大切さも、もっと考えられることになるでしょう。
誤解されがちなのが、自分勝手にわがままに振る舞うことが自由ではないことです。
自由のためには、安全にルールが守られた、他人と一緒に住む世界においては、いわば社会性も必要となってきます。
「もう我慢ならない」と、自分勝手に動くのは、結局、ほかの人や自分自身を制限させてしまう方向になっていきます。
例えば、釣りをする人が、どこでも釣りをしてゴミをそこに置いて帰るようなことになってきますと、その場所は汚れ、近隣住民にも迷惑がかかります。
やがて、それがひどくなると、釣り場への立ち入り禁止などの措置が取られるでしょう。そうなると、その釣り人、地元の人も釣る場所を失いますし、禁止を破って侵入する釣り人もいるかもしれませんので、その見回りや対策などで、いろいろと地域の人も苦労することになります。
つまりは、それまでの自由を失うわけです。
理不尽で妄信・迷信、権力のようなもので意図的に制限をかけられるものには、時には自分勝手に見えるくらいに、自らの自由を求めて動くことは大事でしょう。
制限や束縛は、基本的にはよくないもので、人の本質からは、はずれます。
ですが、社会と人の安心安全、個人的にも制限の中から成長を生み出すためにも、「吊るし」のようなものは必要なことがあります。
また「吊るし」のカードは、細かくは言えませんが、「創造」に関する細かな図像の象徴が施されています。
「吊るし」は束縛・停滞のように見えて、創造のカードでもあるのです。
このご時世だからこそ、あなた自身が、日本が、世界が、新たに創造できるよいものがあるはずです。
我慢を強いられているようでも、見方を変えれば、自分の中の自由を見出すチャンスでもあります。
あなたが求めていた自由の形は、まさに「形」にこだわっていれば、失ったと思うかもしれませんが、「質」としてみれば、別のところに存在していたり、自分から表現できたりすることはあるものです。
たとえ自分ができなくても、ほかの人がやってくれるかもしれません。すでに、意外な自由の表現が、他人がモデルとして見せ始めているかもしれません。(「悪魔」のカードにも関係します)
今後に希望をもって、自らは「吊るし」になっているのも、今はよいかと思います。
数の情報で得るタロットの関係性
マルセイユタロットでは、数も無視できない情報です。
というより、かなり数はタロットに深く関わっているものと言えます。
ですが、ここでも何度か書いたことがありますが、タロットはあくまで図像がメインのものですから、数秘術的なものを中心にタロットを見てしまうと、それこそ、数秘術の補助の位置にタロットがなってしまいます。
もっとも、数秘術を中心としてリーディングや鑑定を行っている人の場合はそれでいいわけです。
しかし「自分はタロットが中心」「タロットリーダーである」と考えている人は、数はタロットを構成するひとつの要素であると見て、タロットの図像をメインとした情報・解読の取り扱いをしたほうがいいかと、個人的には思います。
さて、そうは言っても、最初に書いたように、数とタロットとの関係はなかなか強いものがあります。
数の観点から、タロットの、特に出た展開のカードのつながりを発見することは楽しいものですし、意外な情報や示唆を与えてくれるものです。時にはリーディングの重要な手がかり、理由の根拠になることもあります。
今日は、そんな数のつながりで見るタロットの話です。
マルセイユタロットの大アルカナは22枚ありますが、これを、「ある数によって分けるやり方」がいろいろとあります。
マルセイユタロットを研究するカルト映画監督の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏は、その著書でも、大アルカナを「10」をベースにした数で分ける(分けつつも統合した見方の)方法を語っています。
それによりますと、アルカナナンバー「1」のカードから「10」のカード(「手品師」から「運命の輪」)と、「11」から「20」のカード(「力」から「審判」)のグループに分け、それらがコンセプトには同じながらも、レベルや階層の違いをもって二段組で構成されるとする見方が提示されています。
なお数を持たない「愚者」と、「21」という数はありますが、完成や完全性を意味する「世界」のカードは、ある意味、数を超越したものとみなし、このふたつのグループからは、はずれることになります。(はずれはしますが、全体像からは、重要な役割や意味を持つことになります)
そうすると、結局、「1」から「10」までの数をベースにした二組ができ、その同じ数を持つカード同士の関係性が強調されることになってきます。
つまり、1には11、2には12、3には13・・・という具合です。
数秘的にも一桁の数は重要で、すべての数の核となるものと言えますが、ここに二桁の数「10」を加えることで、一桁的には「10」も、いわば「1」(1+0=1)と言えますから、数的には、元型的な一桁の数に、レベルや表現の違う二種類の「1」を加えることで、理想や想念の世界とも言えるもの(言い換えればイデア)から、現実的・具合的な次元へとシフトさせる意味も包含させていると考えられます。
大アルカナ自体は、元型的世界を描くものと想定されますが、大アルカナを「10」の数世界で分類していくことにより、現実的な分野にまで範囲を下ろしていく見方もできるわけです。
普通は、小アルカナで現実次元を象徴させるものではありますが(それゆえに小アルカナ数カードは10枚ずつのグループになっています)、大アルカナはすべてを表現できるものでもありますので、こうした「10」でのくくり方は興味深いと言えます。
さて、ここで、「10」枚ずつのグルーピングをした大アルカナに対して、どちらのグループが理想・想念的か、逆に現実的・具体的であるかですが、「10」の数を採用していることから、どちらも現実性は含まれると見ていいかもしれません。
しかし強いていえば、やはり、数の多いほうのグループ、「11」から「20」の10まとまとりのほうが総じて解釈が難しく、イデアや想念、抽象的と言えるのではないでしょうか。
ですから、「11」から「20」のそれぞれが、同じ一桁の数を持つカードたちによって現実化されるという見方もできます。反対に、「1」から「10」のカードたちは、「11」から「20」のグループによって、秘密が開示され、解放されて、より高みや深みに導かれると考えることもできるでしょう。
ここに例として、「8」という数で見た場合の、10グループの二枚を見てみます。つまり、「正義」と「月」で、8と18の「8」つながりカード同士ということになります。
「正義」と「月」、見比べると、まるで違う(意味の)カードたちに思えます。数をベースにしないと、この二枚は無関係にさえ感じられます。
しかし、よく観察してみると、「正義」には天秤があり、「月」には二匹の犬のような動物がいて、吠えあってます。
ふたつのもののつり合い、関係性と見れば、天秤も犬も何やら似たような意味も見えてきそうです。と、同時に、「正義」には剣があり、「月」にはそのような鋭いものはほぼなく、曖昧模糊とした図像になっていて、両者には、かなり異質性が見えます。
ですが、「月」にはザリガニのようなものもいて、はさみを持っています。二枚はまったく違うようでいて、よく探せば、似た部分もあるのがわかります。
「正義」の天秤で見ると、何かを測り、つり合い・バランスを取ると思え、一方の月の犬たちは、つり合いというより、向き合い、吠えあって、何かを訴えているようにも見え、ただ、二匹は二匹で、片方だけではない、二匹なりのバランス関係にあるとも言えるかもしれません。
言ってみれは同じバランスを見ても、「正義」と「月」のそれでは性質が異なり、しかしながら、バランスという意味においては同じコンセプトもあるとわかるのです。
またカード的にも、「正義」できちっとしたものが、「月」ではぼやっとしたものに変わっていて、「正義」の囚われは「月」によって解放され、逆に、「月」の不確かさは、「正義」のルールによって明確化します。
こうして見ていくと、「正義」と「月」は、(ほかにも)何かしらの共通したものがあり、それはなかなか無造作に絵柄だけを見ていたり、意味だけを覚えていたりしていても気づくことは難しいものかもしれませんが、「8」という数において関係している二枚だと最初から見て行けば、その発見が早くなる可能性が高まります。
さらにその発見した共通点が、「8」の数秘的な意味と関連していることにも、気づくかもしれません。
そうやってタロット全体(一組)に思いを馳せれば、マルセイユタロットの精緻な構成、合理性、整合性の感応に至り、つまるところ、宇宙のモデルとしてタロットができていること、逆に言えば、宇宙はオーガナイズされた数的にも美しい世界であることがわかってくるように思います。
皆さんなりに、「10」をひとまとりにした分け方で、一度、大アルカナを考察してみることをお勧めします。
