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モノと心の整理、浄化の関係

今、多くの皆さんの中では、これまで日常だったものが非日常化し、逆に非日常のことが日常化したため、前の記事でも書きましたが、物事の相対化、いわば、ひとつのことがふたつの関係性で成り立ち、ふたつは異質でありながら同質であると見ることのできる視点の獲得が起こってきています。

もし前の生活に戻りたいと強く思ったり、やたらとあせって、今後は、自分が勝者、優位に立ちたいと激しく思ったりすると、優劣みたいな感覚が残っていますので、つまりは均衡ではなく、どちらかに偏っていることになり、それでは第三の位置(新たな創造とも言えます)がわからないままになるでしょう。

ともかく、バランス的に多角的、あるいは両方の視点を持つことか、今の時期大切かと思います。

さて、それと関係する話になるのですが、今回は持つことと持たないことをテーマにしつつ、内と外をシンプルにしていく方向性を述べたいと思います。

ステイホームということで、外出や直接の人付き合いを自粛し、家での時間が多くなってきますと、やたらと無駄なものがあったことに気づいてきた人もいらっしゃるはずです。

現に、これはある面では困ったことではあるのですが、時間ができて部屋の中を見渡すと、余計なものが目立つようになり、整理して処分する人が増えたため、ゴミが増大したという話も聞きます。まあ、することがないから、この際、部屋・モノの整理整頓でもしようかと思い立つ人も多いということでしょうか。

こういう部屋のモノだけではなく、テレワークを実施する会社も増えたことで、今まで理想やアイデアの中にはあっても、実際にはしていなかったテレワークを本当に経験することで、毎日勤務していたことは何だったんだとか、家にいてもほとんど仕事が回るじゃないかと、仕事のやり方の無駄に気づいた人もたくさんいたと思います。

雇用者・社員だけではなく、そもそもの経営者陣自体がそれに気づいたということもあるかもしれません。

これも通勤するという方法とテレワークの形式の相対化とも言えなくはありません。(どちらがいい悪いではなく、ともに単なる労働形式の違いと真に認識すること)

こうして、モノや労働という目に見える分野において、無駄なものに気づいて、それがそぎ落とされ、新たな価値観が生まれる(正しくは気づく)ことになります。

これはこれまで、いかに余計なモノといいいますか、しなくてもいいことをしていた(やらされていた)、持たなくてもいいものを持たされていたということでもあります。

おそらくそれは、半田広宣さんの提唱されているヌーソロジー的には、マクロとミクロの三次元的空間感覚に支配されていることからも起きているものだと想像されます。(ヌーソロジーとマルセイユタロットのシステム・教義は非常に近いものがあると私は考えています)

私たちは、普通、自分を中心にして周囲に膨大な空間がマクロ的に広がっていると認識(感覚)していますが、それはあくまで、そういう認識に落ち込むレベルや次元に自分が閉じ込められいるからであり、本当は次元認識を上げて行けば、例えばミクロとマクロの感覚も相対化され、もうひとつの空間ともいうべきものが立ち現われ、空間認識が変わることで、私たちの感覚、思考自体も変化することが起きると言われます。

余談ですが、これは思考だけでなく体感としても言えます。師匠に習い、特別な教えの中で、個人が体感から入って本質的な法則を知るのが従来の神秘的実践修行であり、アイデア・論理から入って、誰もが普遍的に体感していくのがヌーソロジーみたいなところがあるように思っています。

私たちが大きな空間の中のちっぽけな存在であると思っているので、自分自身を大きくするには、物質的には空間を埋めるほどのモノや、気持ち(感情)的には、心の隙間を埋めつくす、他人からの賞賛や承認、許可、単純ににぎわいがほしいと思ってしまうのだと考えられます。

もうひとつの空間とでもいうべきものが現れ、認識できるようになると、自分の中にすべてがあるという感覚となり、モノや心がエネルギーとして表現されているようなことがわかってきて、物理的・目に見える普通の世界の認識が反転し、モノや他人の声で満たして優位に立つ、あるいは自分の欠損を補うという発想(感覚)は、ミクロ・マクロの相対化に応じて減っていくと思われます。

あと、別の見方として(まったく上記と関係ない話ではなく、むしろ関連性は濃いのですが)、モノと心を同じように見ていくというものがあります。

部屋の中がきれいになったのに、何か心が落ち着かないという経験はないでしょうか?

もちろん、たいていは、部屋が整理され、きれいになれば、心もすっきりするということは多いです。

このことからも、モノと心、モノを見ている自分の気持ちと、モノ自体から発せられるものが自分かの気持ちを動かしている(反応している)という両方のことが見て取れますが、要するに、モノの状態によって自分の気持ちも変わり、逆に自分の気持ちによってモノの状態も変わるということです。

きれいにしようと思った時から、モノはすでに動き始めているようなものです。

しかし、モノはきれいになったのに心がそうではないということもあるのはどうしてでしょうか? これはやはり、厳密な(本当の)意味ではモノはきれいになっていない、そこにあると考えたほうが、なんだか論理的のようにも思います。

スピリチュアルな言い方をすれば、エネルギーがまだ残ってるとでも言いましょうか。

例えば、失恋して、すべて思い出の品は処分したはずなのに、まだ心は晴れない・・・というのも、感覚としては同じようなものでしょう。

そうすると、この「自分の心に残っているもの」こそが本当の重さ(モノ)であり、それを何とかしないと、見えているモノを処分しても、半分は居残ったままなのかもしれません。

とは言え、モノを処分すれば心がすっきりすることがあるのも確かですから、やはり、モノと心というふたつの次元が存在し、それらがリンクして、完全に均衡が取れている時は、モノと心の世界も同調しますが、不均衡な時は、見えないところで、認識のズレが生じていて、まさに「心残り」という感覚が現れるのではないかと思います。

おそらく、見えない世界、もうひとつの空間がわかるようになれば、そこに人やモノがまだいる・在ることが気づくようになるでしょう。霊的にはエーテル空間にいるような存在たちです。

それらは自分のエーテル(生命エネルギー)を通して投影されているようなところもありますから、自分の心がきれいになれば、それらも変化し、消えていくことになるでしょう。(消えるのではなく、おそらく別のものに変わる)

このあたりは、実は異世界系やエネルギー系を扱うアニメーションなどでは、よく表現されていることです。

何が言いたいのかと言いますと、結局、自分の人生もそうですが、世の中全体をよくするためには、見えるものだけてはない、私たちの心の中も重要であり、その掃除とでも申しますか、浄化が必要であるということです。

モノの無駄がわかってきた今、シンプルな生活でも十分であり、むしろそのほうが自然であったことに気づいてきても、心の中が重たいままでは、また活動再開となってくると、モノや他人の声で埋めようとすることに戻ってしまう恐れがあるわけです。

さらに、これからは人類全体としての集合カルマのようなものを浄化していくことが急速に起き、それが個人としては、自分の重たい心、悪い意味でこだわり過ぎている、無意識層のデータ・束縛心のクリアリング課題として生じてくると思われます。

以前よりも今のほうが、むしろセラピーを受けたほうがよい人もいるかもしれません。

言葉としては癒すということになるのでしょうが、癒すためには、囚われていた思いを手放していける処方・方法がいるということです。ただの対処療法では中毒を起こすことがあります。

わかりやすく言えば、ドラッグ(快楽)に頼るかのような一時的な癒しです。セラピーであっても、それは起こりうることがあります。セラピーによって脳内の快楽物質で出て、快楽を感じ、そのため、またセラピーを受けたくなるという悪循環です。

またいずれセラピーによる中毒症状については書くこともあるかもしれませんが、これは提供する側も、受ける側も注意する必要があります。

いずれにしても、モノの整理もいいですが、心の整理も、この際、積極的に取り組むと、これからの時代、自分自身が生きやすくなるのではないかと思います。


相対化が重要な時代へ

最近は例の件で、皆さん、家にいることが多くなったと思います。

すると当然ですが、いろいろなことが変わってきます。

つまり、人間、何かしらの変化が外的に起こると、内的にも当たり前のように変わるものがあるということで、その逆(内的に変われば外的にも変わる)も言えます。

変化があった時、同時に、今まで当たり前・普通・常識だと感じていたことも、そうではなかったことに気づきます。

日常性が失われると、その日常性の特別さに気づくようなものです。言い換えれば非日常が日常となり、これまで日常と思っていたことが非日常化してしまうわけです。

ほかにも、悪い状態でも案外よいこともある、その逆の、よいと思っていたことも悪い面があったこと、というような両面性に気づくこともあるでしょう。

結局、あらゆるものの相対化・両性(完全性)認識(異質ながらも同等性を見る)が進むということです。これは霊的にも非常に大きな気づきと言いますか、覚醒のプロセスに近いと思います。

私事で言いますと、タロット講座については、かなり前にSkype(スカイプ)によって、オンラインでやり始めて以来、昨年途中あたりからZoomに切り替えていましたが、まだまだリアル(直接対面する)講座がメインだと自分では思っていました。(ただ昨年後半あたりから、実質的にはZoomでの個人講座が中心になっていましたが)

数年前では、友人・知人からルームをレンタルしてのタロットリーディングや講義をしており、そのレンタル調整に苦労することもありました。

しかし、次第にオンラインでの講義が増え、いよいよ、世の中も例の件でオンラインで行うのが普通になった今、かつてルームの確保、調整に悩んでいた日はなんだったのかと思うようになり、場所というもののこだわりは消え、全国(もっと言えば世界)へ向けて、対象を広げる感覚がノーマルになっています。

言ってみればリアル講座の価値とオンライン講座の価値が同等になり、むしろオンライン講座がメイン、常態とすることに変化したのです。

さきほども言いましたが、私個人では、すでにかなり前からオンライン講義やセッションはしていたのですが、その時は今のような感覚や意識、気づきがなかったのです。やはり意識が変わってきたのは、昨年に本格的にZoomをやり出してからかもしれません。

これは、本当の意味で、リアル講座とオンライン講座(リーディングやセッション含む)が相対化してきたからと言えます。どちらがいいとか悪いとかではなく、どちらも大事で同じ価値があり、ただやり方が違うだけだということが、真の意味でわかってきたということなのです。

どちらかでなくてはならない、こちらが優秀であちらは間違っている・・・このような相対化できていない認識では、なかなかふたつを統合したモノの見方ができません。

相対化がきちんと行えて初めて、どちらの価値もまったく同等に扱うことができるのです。

そうすると、どちらがいいとか悪いとか、そういう次元・意識はなくなり、どちらもありで、状況によって使い分ければいいとフラットな感覚になることができます。

今、家にいることで、これまでは常識で当たり前だったことと、今まで非常識・非日常・特別だと思っていたことの入れ替えが行われ、意識の上で、かなりのものが相対化されてきていると思います。

統合には相対化が必要であることが、これでわかるでしょう。

もう一度、相対化について言いますと、違いはあってもどちも同等だと認識できる、気づくことです。吉凶とか良し悪しとか優劣とか、そんな感覚が出ている間は、相対化できているのではなく、単なる差別化です。でも差別化からまずは始まり、ふたつの区別がはっきりとできてこそ、相対化ができ、統合に向かうのです。

ところで、最近、家にいることで、悩みがなくなった・・・という人も少なくないと聞きます。

もちろん、逆に悩みが続いている、新たに発生している人もいるでしょう。特に先行きか見えず、雇用、経済、生活の問題・不安を抱えている人は深刻です。

それでも、今までの活動が停止したことで、マルセイユタロットで言えば、「吊るし」となり、そこで様々なことを見つめ直したり、見方が変化したりすることで、物事や価値の相対化が進み、悩みや問題が消えた(問題を問題だと思わなくなった)人が結構いらっしゃるのではないかと思います。

そして、これまで考えても考えてもわからなかったことが、案外、環境の変化によって、すぐに変わることができ、悩んでいたことに回答を得たということもあるでしょう。

とすると、精神世界などでは、心が現実を作ると言われますが、その逆で、思考を巡らして何もしないよりかは、外側の環境、現実が変わることで、自分が変わる(変わらざるを得ない)ということのほうが簡単な場合もあるわけです。

実は、思考の変化→現実の変化というパターンと、現実の変化→思考の変化のパターンも、両面性の話で、相対化していくことができると思います。結局、これもどちらも同じだということです。

これから、タロットにおいての相談(クライアントの問いや質問)も大きく変わって行く可能性があります。

これまで(というか昭和のような古い時代ですが)のような優劣や吉凶、良し悪しを判断するようなものは、質問としても減っていくでしょう。たとえそのような質問であっても、本当に望むこと、真の質問は別にあるようになると思います。(すでにそうなってはきているのですが)

タロットリーダーも、今まで以上に高い意識や認識が求められ、クライアントさんの質問そのままをただリーディングし、回答する(それがクライアントさんの満足なものであったとしても)レベルを超えたものを提供しリーダー自身もリーディングが終われば、変容しているような、そういうセッション、リーディングがノーマルになっていくよう、進化することが望まれます。

簡単に言えば、問題を通して物事(の見方を)相対化し、意識統合するための共同作業や場を提供するようなものです。(さらに言えば、真の問いを提示していくようなリーディング)

タロット講座におきましても、前からそれを意識していますが、もっとそれにフォーカスした内容になっていくと思います。

ちなみに、私自身、タロットに「これからの時代、何をタロットで提供できるか?」と質問し展開したところ、重要なカードでは「月」と「審判」、「女帝」と「運命の輪」(プラス「皇帝」も)が出ていました。

ここから見ても、今日書いた記事とぴったりかなという気がしています。(マルセイユタロットの細かな象徴、深い意味、特別な霊的絵図としての設計図的観点を知っていないと、なぜ今日の記事とリンクするのかはわかりにくいかもしれませんが)

最後に、悩みがないことはいいと普通思われますが、そうでもないと言えるところもあります。悩みが深かったり、あり過ぎたりするのが問題なだけで、適度な悩みは自己や社会を成長させるものだと思っています。

そしてこの世は、自分の進化に応じた悩みが発生し、責任度合が増していくことで、その分、これまでの自分では考えられなかった境地・境涯での悩みも起き、それによって、私たちはさらに成長していく仕組みになっているのだと思います。

そういうゲーム世界に私たちは来ており、今、そのゲームの設定が一段上がっていて、知らず知らず、私たちは新しいアップロードされたゲーム世界に踏み込んでいるのです。


変人化のススメ

人間は強い人ばかりではありませんし、いつもいつもクリエイティブで前向きというわけではないでしょう。

他人と自分を比べてしまうと、つい人のよいところばかり目につき、自分はダメだ、何をやっているんだろう・・・と悩んでしまうことがあります。

そのため、メンタル系の話では、人と比べないこと、自分基準でできることを推奨しています。

さらにスピリチュアル系にでもなりますと、すでに自分自身は完全であるので、何も不足も傾きもなく、そのままの自分でよいことを知るべしと言われます。

それは心理であり真理なのかもしれませんが、現実的には、いろいろな違う人たちと暮らす世の中です。

人と比べるなと言っても、比べないようにするほうが難しいです。むしろ、人生は比較の時空と例えてもいいかもしれません。

現実・実際においては、すべては違いというもので表されます。「同じ」という概念・考え方でさえも、違いがあるからこそわかるのです。

時間や距離も長さなどで違いが出ますし、自然や天気も毎日変わります。人の見かけや内面さえも違うことが普通です。厳密に言えば、まったく同じモノなど存在しないでしょう。

ところが、原子や素粒子レベルまでミクロ化すれば、同じ構造を見ることができ、ある意味、すべて同じであると言えます。逆のマクロ方向にしても、超巨大なものは「ひとつ」ということになって、同じに行きつきます。

つまりは、私たちの思う「違うという現実世界」でさえも、ある種のレベルや次元、範囲でしかないということになります。

とは言っても、通常認識において、違いの世界がノーマルなところに、何の因果か(苦笑)、放り込まれているわけです。

スピリチュアルでは、違いよりも同じを見る世界と言えますが、何度も言うように、現実世界では違いのある世界です。

よって、現実世界をうまく泳いでいく(渡り歩く)には、違いを意識することが、逆に現実と調和する(なじむ、過ごしやすくなる)ことになるのではないかと考えられます。

例えば、ビジネスや商売の世界では、ほかとは違うウリとかアピールするものがあればよいと言われます。どこでも手に入る、特に目立たないものを売っていても、そこから買う必要性が少なくなるからです。

そして、今から述べることは、あまり聞かない話だと思いますが、マルセイユタロットで言えば「愚者」と「吊るし」に象徴されるものです。

この二枚は、いわば変わり者を表しています。

「愚者」は定住して(定職を持って)、きちんと暮らしている人たちとは違い、ずっと旅をし、その土地や人に縛られることから逃れています。しかしながら、一般人から見れば不安定で異質な人間で、実際、絵柄的にも、ズボンが破れていたり、奇抜なスタイルであったりと、一般の人とは違うニュアンスを醸し出しています。

また、「吊るし」の人物も、逆さで、二本の木の間でぶらさがっており、これまた不思議で変わった雰囲気があります。

言ってみれば二人とも変人なわけです。(笑)

しかし、この二枚に見る変人スタイルが、現実世界での生活に変化をもたらせ、生きにくい、暮らしにくいと思っていた自分を、現実に調整し直させることになります。アジャスト・再適応・再調整と言ってもいいです。

変人というのは、普通とは違うから変人なのです。しかし、普通人である「あなた」が、もし現実が生きにくい、暮らしにくいと感じているのなら、それは普通人であるから、あるいは、普通人(常識人)であろうとするから、ということも言えるのです。

よく、世界を変えたいのなら自分を変えろと言われますが(外の世界を変えることはなかなか大変なので)、それと似たようなことで、普通人であるあなたが、今の世界に適合していないのなら、変人になると、逆に適合しやすくなるかもしれないということなのです。

それは、先述したように、現実世界が違いの世界であるからで、違いを生み出すと、この世界はあなたを認めるという妙な構造というか、システムになっているからなのです。

統合しての「同じ」を極めていくと、それはそれで生きやすくなる(神の次元に近づくため)のですが、浮世離れした感覚が必要となります。

それとは反対に、自分のエッジを立てることで、世界に自分を認めさせるという方法で、生きやすくする方法もあるのです。

こういうと、自分の個性とかブランディングを進めていくみたいな、ビジネス的な話のように思いますが、今回言っているのは、「愚者」とか「吊るし」のように、変わった方法、イレギュラーで、一見ネガティブのようなやり方でもOKという話なのです。

もっと具体的に言えば、「愚者」は普通や常識から逃げることであり、「吊るし」は常識を拒否して籠ることだったり、逆張りをするようなことだったりします。

まさに逃げやブロックという、世間ではネガティブなことと言われている方法を取ることで、自分を変人化し、それでもって、自分の身を守ると同時に、変わり者として認知されることで、逆に生活の自由度を上げていこうというものです。

私など、典型的と言えます。その昔は公務員をやっており、世間一般的には安定したよい仕事、常識人、普通人と見られていましたし、自分もそれでいい思っていたところがありました。

しかし、うつ病などをきっかけに、公務員の仕事も難しくなり、結局、タロットの世界(仕事)で生きていくように変えました。

まあ、今も、普通人的に見れば、まともに生活しているとは言い難いですが、気持ち的にはずいぶん楽になってますし、公務員人間、まじめ人間だったらできなかったこともできるようになったと思っています。つまり、自分の自由度が上がったわけですね。

現実世界は(時間の流れこそあれ)、何も変わっていなくても、私自身が変人を選択したことで(笑)、かえって世界に適合しやすくなった(生きやすくなった)というわけです。

ですから、いいことをしようとか、まともでいようとか思わなくても、変人化するだけで、意外に現実はあなたにやさしくなることがあるのです。

変人化でも、すでに述べたように、自分の特技をウリにするとか、個性的なビジネスするとか、そういうものがいいとは限りません。

この世界はネガティブにしろ(犯罪とか反社会的なものはダメですが)、ポジティブにしろ、違いや個性が出てくれば、世界があなたを活かし(生かし)やすくする仕組みがあるようなのです。(ただし、霊的には一時しのぎみたいな効果ですが)

ということで、皆と同じ、普通、まじめでは苦しかった人、生きにくかった人は、「愚者」や「吊るし」を見習い、変人(笑)になってみましょう。


大・小アルカナの関係と使い方

タロットには大アルカナと小アルカナというパート、カード構成があります。

このふたつの違いは、大と小と名前があるように、簡単に言えば、大きな見方と小さな見方が適用されるものと言ってもいいかもしれません。

ただし、ここでいう、大と小は、良い悪い、優劣の意味で高い低いというわけではありません。

要するに、適用される分野や次元が異なるということです。

マルセイユタロットの場合、大アルカナと小アルカナ、特に数カード(数札)の絵柄とはかなり違っていますので、明らかにこのふたつが別であることが示されています。

しかしながら、タロット全体としては必要なセットとして組み込まれているわけで、タロットシステムからすれば、そこにはきちんとした理由があると考えたほうがよいです。

ということは、タロット全体からすれば、大も小も必要で等しく、しかし、絵柄の違いからして、別物と見ることも自然になるわけです。

全体としては同じ、しかし個別としては異なる・・・これは何かと似ていませんか?

そう、まるで宇宙全体(完全性)と私たち一人一人(の世界、個別性)の関係を見ているかのようです。

タロットが宇宙や私たちの象徴・モデルであるということは、このように、タロットの構成を検証するだけでもわかってくるものなのです。

こういう見地からすれば、自ずと、大アルカナと小アルカナの使い方、適用する分野というものも理解できてきます。

講義ではこのことはしっかりとお伝えし、具体的にタロットの使い方・読み方を、大アルカナと小アルカナで説明しておりますが、ここで簡単に大と小の関係性と使い分けをご紹介しておきます。

まず、大アルカナは一種の元型・アーキタイプのようなものと設定します。

そして、小アルカナは大アルカナひとつひとつに対して、4つの分野に細分し、表現されたものと考えます。

この4つとは、四大元素(風・水・火・地)思想をベースとした四組のことです。すなわち、剣・杯・杖・玉(一般的にはソード・カップ・ワンド・コイン)となります。

四組のとらえ方、表現分野には諸説ありますが、一般的・簡略的に述べるとすると、思考・感情・行動・物質(環境・結果など形)と表現できます。

このうち、内的なものとしては思考と感情があり、外的なものとしては行動と物質的環境があります。(杖は火の象徴なので、内的な情熱やモチベーションを表すこともありますが、今は便宜上、あえて簡単に種類分けしています)

元型的な大アルカナ一枚一枚に対して、この四組の表現方法や働きかけがあると見るわけです。

構造的には1対4(大アルカナ1と小アルカナ四組)の関係性です。

これは、大アルカナ自体にも、「手品師」や「世界」のカードに図像として表現されています。特に「世界」がわかりやすいでしょう。「世界」のカードには、真ん中の人物と、周囲には四つの生き物が配置されている絵になっています。

では事例として、「節制」のカードで説明しましょう。

「節制」という元型に対して、四つの表現方法があり、どの分野を自分が選択するかという向き不向き・適合不適合も考えられますが、同時に、「節制」を完全に理解、自分のものとする(現実化する)には、四つの分野それぞれが必要であるという考えにもなります。

「節制」は救済や治療を表すとすれば、そのために必要なものは四つのうちどれか、あるいは、四つのバランスで歪になったり、ないがしろにしていたりする部分はどれかというような見方ができます。

どこか調子が悪いのなら、まず内(思考・感情)か外(行動・環境)か、というものを見て、さらに内・外のそれぞれの因子を調整したり、取り入れたり、過剰さを排除したりすることで、元型としての(この場合は「節制」)本質が現れてくるというイメージです。

ほかにも、「節制」を別の意味にして、例えば経済的節制、つまりお金を節約する課題として考え、小アルカナ的に四つの分野からアプローチする、手段とすると見ることができます。

今は単純な例でやりましたが、実は四組構造はもっと複雑化したり、逆に単純化することもでき、かなり具体的・個別的に絞っていくこともできれば、元型次元にまで抽象化して、ほとんど元型と変わらない意識までもっていくことも可能なのです。

こうしてみると、特にマルセイユタロットの大と小のアルカナ構造は、本当によくできていると実感させられますし、マルセイユタロットを使う多くの人が、小アルカナをあまり活用されていないのではないかと残念に思うところもあります。

そもそも日本においては、ホドロフスキー氏の著作以外、本格的に、あまりマルセイユタロットとしての小アルカナの解説や使い方が教授されていないので、仕方ないのかもしれません。

私自身も、もとはカモワン流から入りましたので、当時のカモワン流ではほとんど小アルカナを使わない技法ということもあり、自力で小アルカナと大アルカナの両面の活用について探求・実践してきたところがあります。

その過程で、やはり小アルカナはタロットシステムにおいて必要不可欠なものだということがわかりましたし、一般的に言われている小アルカナの考え方・使い方とは、また別の方法もあるということも気が付いてきました。それでも、大アルカナとはセットで考えたほうがよいのです。

何事もそうですが、使わないものは衰えたり、疎遠になったりします。

タロットもしかりで、大アルカナばかり使っていては、小アルカナを理解することから遠ざかりますし、小アルカナとあなたの関係はよそよそしいままです。

実は、小アルカナは現実と強く結びつく性質があり、大アルカナばかり使っていると、現実逃避や地に足のつかない状態になってしまうこともあります。(しかし、リーディングしたり、占ったりする内容が現実性を持てば、大アルカナもその次元にシフトしていくことができるので、必ずしもそうとは言いませんが)

ということで、せっかく小アルカナのパートがタロットではあるのですから、使ってあげるとよいです。魔法的には四大の精霊と仲良くなる感覚でもあるでしょう。

面白いことに、ゲーム世界では四大の精霊はよく表現されていて、子供たちは名前も知っているはず(笑)です。

ゲーム世界では、四大はアイテムや能力においても不可欠な要素で、ロールプレイングゲームでは、その四大要素の特質を持つ人物も現れ、パーティーを組みます。それがアンバランスだと、パーティーも、最悪、全滅します。

つまりは生きる力と関係しているのです。これはゲームを私たちの現実世界(これ自体もゲームだと考えることができます)の例えだとすると、よくわかると思います。

タロットの活用は、78枚あってこそなのです。


「皇帝」となるチャンスを活かす

今日はマルセイユタロットの「皇帝」のカードについて書きたいと思います。

その前に、知っておいてほしいのは、このブログでは、カードの基礎的な内容については、ほとんど言わないようにしているということです。

ここでいう基礎的なこととは、例えば、カードの意味などノーマルな事柄についてで、いわば教科書的な内容ということです。それは世に出ている本とか、マルセイユタロットでなくても、ほかのタロット種などでも、同じカードであれば共通していることも多いですので、それらを参照していただけれはわかることだからです。

今回の「皇帝」のことで言っても、「皇帝」には、現実性とか経済性とか、指導・統治、父性みたいな意味が出てきますが、それら(がなぜ意味として出るのか)をいちいち解説しても、たぶんこのブログを読んでいる皆さんにはつまらない(知ってる人も多い)から、あえて説明しないみたいな理由です。

また、それらを教えている先生とか学校に対しての営業妨害(笑)にもなりかねないので(苦笑)、基本事項の解説を体系的には書かないようにしています。ということで、このブログで、タロットの基本を学ぼうとしてもダメですよ。(笑)

まさに私が好き勝手書いている雑文タロットブログなんです。もしかしたら、ちょっとタロット、特にマルセイユタロットをかじっている人には有益かもしれませんが。

さて、話を「皇帝」に戻します。

「皇帝」はその名の通り、国を治めるトップです。(厳密な意味で「皇帝」となれば、単なる国王を超えた存在ですが、そのことも実は大事なことです)

もっと拡大解釈していくと、いわゆる組織や集団のトップの象徴と言ってよいかもしれません。

今の世界的危機のご時世、国のトップはもとより、組織のトップの手腕が真剣に問われています。

ある意味、平和で穏やかな世の中よりも、ピンチで危機な時ほど、皇帝(という役割)が際立つと言ってよいでしょう。一般的には現実性の意味が強い「皇帝」なのですが、意外にも、非日常の状況こそが、「皇帝」の強さが現れるわけです。

でもそれは非現実ということではなく、より現実に向き合わされるから、非日常時、つま非常時にその仕事が重要になってくるというものです。やはり、彼と現実は深く結びついていると言っていいでしょう。

マルセイユタロットの教えでは、実は現実から離れていくというものがあるのですが、それは夢や幻の世界に逃げ込む意味ではなく、現実の世界に生きながら、(通常認識している)常識を超えていくことにある、現実と非現実の統合を果たしていくというような意味であり、現実逃避ではないのです。

よって、「皇帝」を自分のものにしないと、真の意味で進化していくことができないわけです。

「皇帝」が治め、コントロールすべきは、自分の現実にあるのですが、それは一見、外にあるようでいて、内の現実性も象徴するのです。

結局、自分という国を支配すること、それが「皇帝」の役割であるのかもしれません。

「皇帝」の基本的な意味のひとつに、父性や男性性、まさ父親そのものを象徴することがあります。

自分というものは、最初は母性的なもの、母親に守られる存在ではあっても、やがて父的な者がライバルとなって、その父的なものを乗り越えて自立する過程を経ると言われます。(特に男性の場合はですが、女性にも関係します)

マルセイユタロットでは、特に男性的カード、自立・自活・独立をテーマとすると言ってもよいのですが、「皇帝」はその典型でもあるでしょう。

自立は、つまるところ、自分という国を治めることと象徴的にも言えます。

しかし、さきほど述べたように、自立する前には父親、あるいは自分を強く支配する存在(思いや感情、思想、論理、正義などということもあります)から独立していく必要があるのです。

それまでは、自分が「皇帝」ではなく、誰かや何かが「皇帝」となっています。あなたという国を仮に支配している者、代わりにやってくれている者と言っていいかもしれません。

そうすると、自分は息子や娘としてふるまっていればよく、甘えた子供でいたり、逆に反抗したり困らせたりしますが、ともに未熟なままの仮の「皇帝」への抵抗なようでいて、保護を求めていることにもなります。

本当にあなたが子供でいる場合はよいのですが、すでによい年をした大人であるのに、いまだ仮の父親、「皇帝」にあなたの国を任せていては、いつまで経っていも、自分の国の力(民であり資源であり国力そのもの)を思う存分、使うことはできません。

もしかすると、成長に応じて、一部の国を治めることが許されるようになったかもしれませんが、それは国王であって「皇帝」ではないのです。

「皇帝」の命令には背けず、ビクビクとしつつ、ほんの一部の国の力が出せるに過ぎない状態です。

この仮の「皇帝」が、虚勢の意味での権力やお金などと結びつくことも多く、(仮の)「皇帝」の命令・欲望によって、どんどん自分は働かせられることになり、仮の「皇帝」を満足させるため、あなたは従者となり、暴君皇帝の奴隷となっていくこともありえます。最終的にはその「皇帝」が「悪魔」のカードになっていくこともあり得ます。

ですから、あなた自身が「皇帝」の座につくよう、勇気を持ち、成長し、自立の精神を醸成していくことなのです。支えや助けはあってよいのですが、依存ではなく、あくまで自立するための手段として考えることです。

アドバイスはもらっても、自分で決める、自分で行動する、自分が行ったことはだれかや何かのせいにするのではなく、自分の責任と考えること、こういうことが重要になります。

マルセイユタロットのヒントで言えば、王冠を持つカードたちと関係し、「皇帝」も当然ながら王冠を持ち、その王冠のカードたちの象徴、示唆を自分のものにすることが求められるのです。

先述したように、「皇帝」は、日常よりも、非日常、危機の時に真価が問われます。

ですから、今のような時は、あなたが女性であれ、男性であれ、内なるリーダー性、男性性、言ってみれば、あなた自身の国の「皇帝」になることが促進される事態となり、立ち位置や自信がとても揺らぐようなことになるとは思いますが、それこそが「皇帝」になるチャンスでもあるのです。

今まで、自分では無理だと思っていたこと、人に任せて自分が保護されてきたこと、甘えてきたことの視点を変え、自分の今の時点でできること、独立的にやれること、どんな小さいことでも、あるいはささやかな瞬間・機会であっても、トップ(リーダー)になること、そういうものに目覚めてください。

あなたは無力ではないのです。そして女性性や、保護し、包み込む優しい母親的な性質だけでもないのです。(もちろん女性・男性の性別的な特質はありますが、人は性質としては象徴的に両性を持つと言えます)

これは「無理をしましょう」と言っているのではありません。

まずは自分を国王として見て、仮の「皇帝」から委託されている範囲の支配を現実的に把握し直し、少しずつ思い込みや依存から脱し、国の勢力を拡大し、やがて「皇帝」の座を回復しましょうと言っているのです。

「皇帝」は建築家のシンボルも有しています。

建設は一気にするのではなく、土台作りから、ひとつひとつ築き上げていくものです。その完成された建築物、家がどれになるのかは、マルセイユタロットではすでに示されているのが、たぶんわかるでしょう。そこにも王冠があります。

と言っても、一人の力だけではなかなかうまくいかないこともあります。

そんな時は、パートナーである「女帝」と歩むことです。「女帝」と「皇帝」は並べると向き合う形になります。この二枚に共通する鷲の盾のシンボルにも意味があります。

「女帝」は女性であることから女性性も示しますし、アイデアや計画性としての意味も出ます。「皇帝」の独立、国の治世には、女性・パートナーとしての「女帝」が必要でもあるわけです。この逆も言え、「女帝」には「皇帝」が必要です。

あなたが女性であれば、「女帝」側から「皇帝」を見てもいいですし、男性ならば、「皇帝」側から「女帝」を見てもよいのです。これらは、 実際の人物を表すこともありますが、あなた一人にいるふたりの人物・性質と言ってもよいのです。

特に、非日常や危機感にあふれる時は、アイデアや発想という「女帝」の性質も大事ですが、それを決断し、実行する「皇帝」の力が鍵となります。

まさに今、誰もが王となり、「皇帝」となっていく機会が、訪れていると見ていいのかもしれません。


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