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天使のカードたち
マルセイユタロットの大アルカナで見た場合、天使、あるいは天使的な象徴絵図を持つカードは次のカードたちです。
「恋人」「節制」「審判」「世界」
たった4枚しかないと言えますし、逆に4枚もあるという感じもします。
もっとも、天使的な絵がないカードでも、天使を象徴させると考えられるカードはあります。が、ここでは、絵として明らかに天使的なものが描かれているカードのことを言っています。
天使の象徴にはいろいろな解釈があると思います。
四大元素的に考えることもできますし、一般的な印象で、救いや癒しということもあるでしょう。
象徴は核になるもの(本質やエネルギーのようなもの)は同じでも、多重・多層に意味を見出すことができ、それゆえ、具体性や個人個人(個別)においては、違う言葉や意味になることは普通です。(この部分はさらっと書いておりますが、タロットの解釈を理解するうえで最重要なことです)
ですから、一口に「天使」と言っても、人それぞれのとらえかた、意味合いが出てきます。
もし、あなたが、宗教的、あるいはスピリチュアル的に「天使」の存在を信じていれば、カードにおける天使の象徴も、実在性を帯びると言いますか、かなりほかの人よりリアリティあるものとして認識されるでしょう。
リアリティがあるということは、それだけ本当に(現実的に)力を持つということです。
従って、天使が信じられる人にとっては、天使のカードは大きな効果やパワーを実際に持つようになるのです。
このことは、天使に限らず、タロットにおる象徴が、その人にとってリアリティがあればあるほど意味を持ってきますし、現実にその力を発現させやすくなります。
これは別の見方をすれば、タロットリーダーが、タロットの絵図の象徴を、クライアントの実際性・リアリティ性にどれだけシンクロさせたり、結び付けたりすることができるかにもよってくると言えます。
さて、天使の象徴カードに戻ります。
これら天使カードの4枚は、厳密に言えば天使ではないものも含まれますが、一応天使的なものとして今は考えます。
それでも、一枚一枚、どれも同じ姿の天使は描かれていません。そもそもマルセイユタロットにおいては、細かな意味で、まったく同じ象徴の絵図は存在しません。似ていても、どれも微妙に違えて描かれています。
この法則からしても、天使はわざと別々の絵図になっていることがわかります。
ということは、それぞれ別の意味や役割があるのだと取ることができます。また、それでいて、当然ながら、全体としては、やはり「天使」なのです。
ここから考えて、もしかすると、マルセイユタロットの天使カードは、個別の一枚ずつの意味を見出しながらも、4枚セットというひとまとりで見る必要もあるのではないかということです。
すると、天使のカードたちの解釈も、また面白いものになるのです。
今の世の中と「太陽」のカード
マルセイユタロットで、アルカナナンバー19のカードに「太陽」があります。
太陽と言えば、今話題になっているあの存在の名前の由来にもなっており(苦笑)、去年発生したので、数も19というものがつけられています。
本当に、偶然かこじつけか、天の計画なのか、今はなぜか「太陽」に着目しなければならない情勢になっているわけです。
「太陽」のカードといえば、見ての通り、カードの上部には、まさに燦燦と輝く太陽があり、下部には兄弟にも見え、パートナー同士にも見え、さらには友人や仲間のような同志たちにも見える、双子のような二人組がいます。
この二人組、さきほど、双子のようなと言いましたが、双子というより、自分ともう一人の別の自分と考えることもできるでしょう。
以前にも、もう一人の自分との統合の話は、何度かしたようにも思います。
今、奇しくも世間を騒がせているアレが、偶然にも太陽関連であることをあえてこじつけてみますと、私たちが忘れていた、あるいは心の奥に閉じ込めていた「もう一人の自分」というものに注目せよという暗示なのかもしれません。
例えば、アレによって起こっている不安や恐れ。こういうのも、アレがきっかけではありますが、もしかすると、もともと自分の中にあったものがこれをきっかけに表面化した、あるいは、いずれ対峙しなければならなかったものが早く出てきたといえるのかもしれません。
それも、いわば、押し込めていた(抑圧していた)ほうの、もう一人の自分が担当していたことです。
また、アレによる危機によって、死の裏返しである「生きる」(生)ということを真剣に見つめる人もたくさん出てきているでしょう。
今までは、通常の自分として、ただ何となく生活していた自分、小さな問題や不満のある状態ではあるけれど、それなりに楽しく、何とか日常を平穏に過ごすことのできていた自分、あまり深く考えることもせず、忙しく流されるままに生きてきた自分・・・こういう自分がいながらも、異なる次元と言いますか、無意識や潜在意識のような中では、もう一人の別の自分の存在があったのです。
それに気づいていた人もいますし、気づいていない人もいたでしょう。
でも、気づき始めていた人も多かったと思います。いわゆる「本当(本来)の自分」というものに近い、精神や魂のレベルで考える自分です。
精神(心)の自分の場合は、よく言われるような、本当にやりたいことをしている自分とか、他人や親、社会の期待・評価に迎合する自分ではなくて、自己本来が独立(自立)した時に現れる、まさに本当の気持ちに素直な自分自身という存在と言えます。
低レベルにおいては自我(エゴ)の欲求をかなえたい自分として現れるでしょうが、それも別の自分と言えば別の自分です。ちょっと複雑ではありますが、タロット的に言っても、この低次欲求の自分も、本来自己の種のようなもので、悪いものではないと考えています。
ですが、その欲求のままに表現しようとすると、単純にいえば わがまま、自分勝手な、他人や社会に迷惑な存在となります。
つまりは大人でない自分でもありますが、癒されないインナーチャイルドと関係していることもあり、結局、低次欲求の子供的な自分も、抑圧や無視みたいなところに起因していると考えられ、それを受け入れる、認めるという「太陽」的なものが求められます。
霊的・魂的意味での自分となりますと、単なる欲求のレベルや自分の感情の表出とは別の次元で、本来的自己、魂が満足するものを表現しようとなるでしょう。
いずれにしても、もう一人の自分たちが、普段のあなた、世の中が平穏でいた時にいたあなたとは別に存在し、このような危機的な時に、誰でも多かれ少なかれ、別の自分の存在が顕著に現れてくるのだと言えます。
ところで、タロットでは、「太陽」の前のアルカナナンバー18は「月」のカードです。「月」のカードは、月明かりはあれど、太陽になる前のまだ闇とも言えます。
この闇に隠していた(まぎれていた)、閉じ込めていたものが、「太陽」になって露わになり、迎え入れなければならない状態になるのです。
ここまで、「一人の人間」と、その中に潜むもう一人の自分、及び、普段の自分との話を「太陽」の二人に置き換えて言及しました。
しかし、「太陽」の二人は、必ずしも人物とは限らないと考えますと、別の意味も現れます。
それは、表の社会と裏の社会というふたつとしての見方で、物質的なことが中心の社会と、精神的・霊的なことが中心の社会との二面性、その統合です。
二人(ふたつ)は、実は上空の太陽(神とも言えます)の位置(視点)からは、決して別物のようには見えず、双子のような存在であり、ふたつは結局同じものであるという示唆が見えます。
また、入れ替えと言いますか、物質的なものに価値を置く社会から、霊的なものへの交替が行われているようにも感じます。
ここで、面白いこじ付け的(笑)な数の話を聞きましたので、紹介したいと思います。(タロット関連や太陽神関係は、私が付け加えたものです)
世界の問題のアレですが、これは語呂合わせで567と数で表せます。
これを合計しますと、18になるのです。18は先ほど、タロットのナンバーでは「月」であるとも言いました。
それで、「太陽」カードの太陽は、ある意味、太陽神とも言え、古代で信仰されたミトラ神とも関係する可能性があります。
このミトラは諸説ありますが、マイトレーヤ、弥勒菩薩だとも言われます。(阿弥陀如来という話もあります)
弥勒菩薩は369と、語呂合わせの数で示されることがあります。この369も合計すると18です。
タロット的に言えば、「月」から「太陽」に向けて、一人一人がもう一人の、抑圧していたり、忘れられていたりした自分を取り戻し、人類としてもこれまでの価値観で成り立たせてきた世界とは別の、もうひとつの(隠された、封印されてきた)世界を迎え入れることで、新たな次元の世界へと移行するための事件として、今起こっているのではないかと考えられます。
※ちなみに18は、さらに足すと9になり、タロットでは「隠者」として導く者の象徴です。ただ陰謀論などでは、18は、666などで、悪い意味にとらえられることはあります。
グノーシス的に言えば、自身にある神性を回復すればするほど、太陽のように本当の光輝く自分と世界になるのだと言えます。
日本人的な言い方をすれば、おひさま、お天道様にかなう生き方を、一人一人が試されているのかもしれません。
命の尊さを思い、自分が押し込めてきたもう一人の自分を思い出し、その自分の存在を表に出す時が来たと言えます。
魂は永遠だとしても、現実世界では限りある命です。永遠の時間と限定的な時間の統合も、「太陽」は意味しているのかもしれません。
そう思うと、誰にために・何のために生きるのか、そして無駄(無為)に生きようとしていないか、それを今一度、思い起こすことだと、私たちは「太陽」から問いかけられているのかもしれません。
あ、それからこれはまた別の時に書きたいですが、「太陽」の二人で、今の自分が逆にいまいちであったり、調子の悪い自分であったりした場合、もう一人の自分は、望ましい自分とか、元気な自分、大丈夫な自分としてイメージできるものであり、鏡を見て自分を励まし、勇気づけるような意味でも、象徴的なカードと言えます。
「手品師」と「節制」から
最近は、アルカナナンバー14、「節制」に関する記事をよく書いておりますが、実際に浮かんでくるカードも「節制」のことがよくあります。
それだけ、個人的にも、また全体(社会)的にも、「節制」のカードの象徴性に、大きな意味がある時なのかもしれません。
そして、今日は、「節制」だけではなく、「手品師」(アルカナナンバー1)も併せて出てきました。
この二枚のカードを並べてメージされたものが、今日の記事の内容になります。
ところで、「手品師」のカードと「節制」のカードは、まったく似ていませんし、一見すると無関係なカード同士に見えます。
しかし、マルセイユタロットでは、どのカードとも連繋をしますし、関係性を持ちます。(これはタロットの種類に限らず、いわゆるコンビネーションでリーディングすると、当然、どのカードも関係性をお互いに持つことになります)
言葉や文章のように、カード同士がつながると、一枚単体の意味だけではなく、新しい意味なども出てくるのです。
私が当初から学んでいた「カモワン流」のタロットでは、視線カードという概念があり、カードの人物の視線の先に置くカードとの関係性を強く読む(意識する)ことが普通でした。
このことは、今の私のカードの見方(読み方)に受け継がれています。
カモワン流の視線カードの技法の良さは、まるで人間のように視線を追うことで、カード同士の関連性を、特別な意味を覚えることなく、物語やストーリーのように視覚的にとらえて、カードからの示唆・意味を見出しやすくすることがあります。
これが、例えば、カードがたとえ複数あったとしても、それぞれがバラバラで、あるいは置く場所が決まっていたとしても、カード同士が離れたところに置かれていると、カードをつなげてひとつのストーリーにすることが難しくなります。
もっとも、一般的にタロットのスプレッド(展開図・展開法)自体が、ストーリーを作るシナリオ構成になっていることが多く、カードが単体で離れていても、ひとつひとつ、置く場所の意味と出たカードの意味とを重ねていけば、物語ができるようにできているので、必ずしも、視線を追わなくてもストーリーは作ることができるわけです。
話題がタロットの展開や読み方の技法の話になってきましたので、元に戻します。
ともかく、「節制」と「手品師」は、二枚を並べると、共通性がないようでいて、よく見ると、ともに局所的なことを示しているのがわかります。
「手品師」はテーブルの上にある手品道具を使って、大道芸をしてお客を楽しませています。
一応、手にも道具を持ってはいますが、基本、道具類はテーブルの上にあり、つまりは、この「手品師」にとっては、テーブル内こそが彼の使える範囲であり、手品が自由になる世界なのです。
一方、「節制」は、天使がふたつの壺を持ち、そこから液体を移し替えている、もしくは混ぜ合わせているように描かれています。
ふたつの壺を持つカードにはアルカナナンバー17の「星」がありますが、その「星」とは違い、「節制」の壺の水は、ふたつの壺の間でしか移動・交流がありません。そういう意味では局所的なのです。
ということは、「手品師」・「節制」の二枚からは、限定的・局所的な意味が強調されることになります。
ここで、「節制」をメインにした場合、「節制」は天使でもあり、詳しくは延べませんが、救済や癒し、サポートに関わるとされるカードです。
そして「手品師」は、手品をする大道芸人ですが、彼にとってはそれが仕事でもあるので、仕事という意味も出ます。あるいは、日々している作業と取ってもよいです。
すると、「節制」をメインとして今考えるわけですから、救済やサポートの仕事、作業をするということになり、さらに前述の両者(二枚)における「限定的・局所的」である共通点を考えますと、その救済は、誰彼なくやるものではなく、この範囲でとか、この人(たち)にとか、自分として本当にサポートできる範囲で施すという意味合いが出てきます。
例えば、親孝行をしたいと思っている人がいて、しかし、自分はお金もない、親とは距離があって会いに行きにくいとか、少しわだかまりが残っている・・・などのことがあって、なかなか思うような親孝行ができていないと考えているとします。
そのために結局、何も親にはしていない、してあげられないと、苦悶しつつも、放置しているような状態となっています。
ですが、ここで「節制」と「手品師」のように、まさに自分ができる範囲で、自分が許可できることの中でやればよいとなりますから、ただ親のために祈るとか、感謝を心で言うとか、メールや手紙を送るとか、お金ではなく、何かささいなモノでもよいので送るとか、親には買いにくいものとか、ネット関係の情報・労働を提供するとかで、完璧や理想の親孝行というものを一度手放し、限定的でもいいので、とにかく何かやる(パフォーマンスする→「手品師」です)という示唆になってきます。
「手品師」をメインに考えた場合も同じで、「手品師」が仮に仕事の意味だとすると、テーブルの上だけは自分の裁量範囲で自由ですので、狭いながらも、自分が今取り掛かれること、やれること、たとえ制限はあっても何とか自由にできる範囲のことをやればよいのです。
それが「節制」の意味として合わさると、仮に「節制」の象徴性が経済の流れ(壺の水から)、つまりお金(の流れ・扱い)だと見れば、それが局所的・限定的(支払える範囲、使える範囲)ですから、仕事で自分のやれる範囲で投資をするとか、節約しつつも、創意工夫で手品師のように、すでにある手品(仕事)道具・ツールで、うまくお客さんに見せる(魅せる)ことができるはずと考え、実行していくというアドバイスができます。
結構多くの人が、完璧主義と言いますか、全部そろわないと動けないとか、自分の思う理想的な状態がやってこないと実行しないというところがあります。
タロットリーディングなどもそうで、すでにかなり学びをしているのに、自分のリーディングに自信がないと言って、なかなか他人に対してリーディングを実践することをためらってしまう人がいます。(他人リーディングをやってみたいという思いがある人の場合です。もともとそれをやることを求めていない人は別です)
人によって、実行するための条件というのは違います。
条件がすごく緩やかで、簡単な人もいれば、これとあれとそれと・・・と、かなりの条件が整わないとやれないという人もいます。この「条件が整う、そろう」という意味では、不安や心配がなくなるとか、心のブロックがはずれるという意味のことも入ります。
心理的な条件がきつい場合、なかなか実行には至りにくいものです。それは心理的ゆえに、モノや環境が揃っても、必ずしも心理面のブレーキがはずれ、アクセルが踏まれるとは限らないからです。
逆に言えば、心理的ブレーキがはずれれば、条件は完璧でなくても進めるわけです。
そのひとつには、「節制」と「手品師」のように、限定的・局所的でもいいのでやってみるということがあります。
言い方を換えると、自分が許可している範囲、今の自分が自由な扱える範囲でやるということも検討しましょう、ということです。
例えば、瞑想をやると決めても、30分は無理ということなら、今の自分なら3分くらいならできるし、許せるというのなら、それでまずはよしとするわけです。やらないよりましで、「手品師」ではないですが、大事なのは、仕事のように作業化(習慣化・ルーチン化)してしまうことです
私が思うに、現実世界は、形が重視される世界ですので、いかに実際に外に表現し、行動するかに(現実的)変容はかかっていると思います。
もちろん、その裏には精神や心が作用しているわけですが、頭で理解し、心で納得しても、何も外に向かってやらなければ、そのままであることが多いのです。
「手品師」はアルカナナンバー1です。始まりでもあるわけで、完全ではなくても、始めることに意味があるとも言えます。
ちなみに完全を意味するカードは「世界」ですが、これは21のナンバーであり、その間にはたくさんのカードがあるわけです。
いきなり21になる(至る)のは難しいのは当然です。しかし、21の「世界」と1の「手品師」には、明確なシンボルの共通性があり、それこそが、始まり(始めること)が完成の種、エッセンスであることを如実に示しています。
ためらっていること、条件がそろったらやろうと思っていることの中で、限定的でもやれることは表現してみると、その実現への線路に乗ることになるのです。
時間を進めてみる
その名前を書くのも憚られるほどの、例のウィルス問題、世界的にも深刻な状態になってきました。
著名なコメディアン・タレントである志村けんさんも犠牲になってしまいました。子供のころから楽しませていただいた志村さんには、心からご冥福をお祈りしたいと存じます。
さて、そのような状況で、今、非常に一人一人が自覚をもって注意と節度を持ち、そして日本全体として協力して対応していく心構えがますます必要となりましたが、同時に、不安や恐れ、心配、ネガティブな思いも増大している人が多いのではないかと思います。
それは状況を見れば仕方のないことかもしれません。ウィルスの影響と被害が甚大なヨーロッパでは、精神的に病む人も増えていると聞きます。
実際の感染対策も急務ではありますが、このことにより、震災の時もそうでしたが、メンタルダメージを受ける人も多くなっていると考えられますので、メンタル面のケアも考え、実施していくことが求められます。
前にも書きましたが、昭和がモノを中心とする時代だとすると、平成は心や精神に注目が集まる時代と言えました。そして、令和以降は、モノと心、物質と精神を超えた(統合した)霊・魂ということに、一般的にも観点が移るのではないかと考えています。
ということで、振り返れば、平成の時代、メンタルに関心が行くことで、そのケアーや癒しをする人たちも増加したように思います。
もちろん、精神医療・保健という、公的な面、アカデミズム的な方面の発達もあったと思うのですが、民間や一般の人のメンタル(心・精神)への注目度、そしてそれに関する資格や技術的なもの、それを活かしての仕事をする人もたくさん出たように思います。
いわゆるカウンセラー的な人(仕事)など、その典型と言えます。
ですから、今こそ、平成で仕事を始めたメンタル・マインド関連の方々は、何か、皆さんに役に立つこと、セルフケアできることなど、伝えていくとよいと思いますし、経済的に不安があるクライアントに対しても、何か割引とか、サービスが受けられやすい仕組みを提供していただくのもよいのではないかと、個人的には思います。
もっとも、提供する側にも生活がありますから、その辺りはバランスが必要かもしれませんが。
私もタロットカードを使っての、メンタルやスピリチュアル系のはしくれみたいなところもありますので、先日からお知らせしているように、通常価格の7割引きで、今、タロットリーディングを提供しております。
えーとまあ・・・それをしている私は、全然裕福でありません。ですから、「そんな価格でやるのは、仕事としてはどうなんだ!」と、ビジネス的にはあきれられるのかもしれませんが、私にとってタロットの仕事は、生活のためにやっているだけではないので、こういうこともします。
ところで、心や精神が不安になる、鬱的になるという方に、時間の進め方を逆にしてみることを提案します。
普通は、現在から未来へと時間は流れると、皆、思いますよね。そうでないと、日常的、実際的にはおかしなことになります。
しかし、ここで、未来から現在に逆に流れてくると、時間感覚を反転させてみましょう。
つまり、今あなたに起こっていることは、すでに未来が何らかの形でできており、そこからの影響があって今の状態があるとみるわけです。
通常は、(確定していない)未来が不安、心配・・・ということで、それを想像して気持ちが萎えたり、悲観したりして鬱的になります。
けれども、これは、今のあなたが想像(創造でもあります)しての未来です。
ですから、よく言われるのは、今の自分の未来の想像を明るくすればいいという方法です。
それはもっともな話で、今の自分が、また決まってもいない未来を想像して、勝手に悩んでいるのですから、今の自分の未来への想像・イメージさえ変えれば、落ち着けるというのも道理です。
しかし、そう簡単に明るい想像ができないから困っているわけです。
もともと普段からポジティブシンキング傾向で、行動も活発、すぐ実行できるような陽キャラ(笑)みたいな人は、未来への想像をポジティブなものにするのは簡単なことでしょう。
ですが、普通の人とか、ネガティブ・心配性な人は、なかなか明るい未来をイメージすることは難しいものです。ましてや、今、世界中で大変になっているネガティブさが蔓延するような事態では、明るくなれ、というほうが無理です。
私など、この心配性の傾向を持ちますから、気持ちはよくわかります。
それでも、ここで、時間の流れを逆にした思考をしてみます。
その時のコツは、時間をかなり進めてみるということです。
だいたい、過去のパターンとか、直近の状態をそのままトレースして、現在→未来のイメージを多くの人はしています。
ということは、ここ最近とか、少し前の過去のものを題材にして未来予測をしてしまうので、どうしても、今がネガティブ状態なら、未来もネガティブなものしか想像がつかなくなってしまうのです。
ですから、時間のスパンを直近の過去と現在よりも長くして、一年後、数年後、10年後くらいの未来へと飛ばしてみるのです。要するに、今に影響している色濃いネガティブ材料・要素を排除するわけです。
そして、白紙のような状態で、明るい、あるいは希望する未来を想像します。そうなっているということを強く思うのが大事です。
その未来が選択されているという思いが強くなればなるほど、未来はあなたの意識では確定状態に近くなります。
これは現実にイメージした未来を引き寄せるための確定というより、イメージや意識での確定の思い・傾向というものを作り上げ、その作業そのもの(プロセス自体)に大きな意味があるというものです。
それで、時間の流れが逆になると見ていますから、将来が明るいものならば、当然現在にそれが流れてきて、「今」がそれに向かうための過程ポイント(地点)になって、気持ちは明るくなってきます。
未来はたくさんの世界(未来像に至る)線に分かれていて、そのどれもが可能性として「今」にあっても、選ぶのは自分の「今」(の気持ち)であるということがよく言われます。
時間の流れが未来から来るという設定においては、たくさんの未来像があるのは同じでも、今(の気持ち)がそれを選択するのではなく、先に未来に飛んで決めてきてから、それが流れてくるのを待つという感じになります。
従って、今のあなたの状態・状況に関係なく、未来そのものをとにかく先に決めること、それがとても大事になってくるのです。
これはマルセイユタロットでは「女帝」と関係します。
今は破壊として「13」が起こっていると言えますが、破壊は創造の裏返しでもあり、セットと言ってよいものです。そして、「女帝」は同じ3という数を持ち、創造に関係します。
つまりは、あなたは「女帝」となって、今破壊されつつある(自分の)世界を、先に計画し、よいものを創造(想像てもあります)しておくことなのです。
ウィルス後の世界であなたは、よい意味で(希望的に)、何がしたいのか、どうなりたいのか、そういう思いを先回りして、時間を進めて、創造するのです。
これは、時間が過去→現在→未来という通常の感覚では、直近の過去と今現在のあなたが得ている情報に大きく左右されてしまうので、明るい未来、なりたい自分とか、希望する将来など、なかなか想像できないのが普通であることは、今までで述べてきました。
しかし、未来から現在へと時間の流れを逆転させ、通常思う未来の想像よりも、もっと先の未来へ時間を進めて想像することにより、今の囚われが少なくなって、ポジティブなものや、よいと思えるものが出やすくなるのです。
それが少しでもできると、未来から今に向かって時間が流れて来るわけですから、不思議に、気分は多少なりとも明るく変わってくるでしょう。ある意味、現実逃避(笑)をうまく使うテクニックと言えます。
パラレルワールド的に言えば、短期的ではないもっと先の未来の自分の世界に行き、そこの自分から、今の自分に念を送ってもらうみたいな感じですね。
少なくとも、完全によくなる世界は見え(想像でき)なくても、この騒動が収束している世界は意外と想像できるのではないかと思います。
もちろん何度も言うように、短期的には想像としても、今の状態なら無理だと思います。
けれども、長期的に見れば、誰でもそれ(収束)は思えるでしょう。どんなものでも、ずっと同じということはなく、この世の理として、必ず創造・維持・破壊、言い換えれば、発生、ピーク、収束となります。
あなたが永遠に現実世界では生きられないように、ほかのものも必ず衰え、滅びて行きます。それは自然のサイクルです。
ということで、収束する世界はわかるわけですから、その世界に自分を飛ばして、しばらく夢想するのも、実は今の自分に役立つことは、ここで述べた通りです。
悲観せず、あなたも時間を進めてみましょう。
これはまた、マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」を回すことにもなるのです。
あれかこれかで悩むこと
タロットでの相談や悩みを聞いていますと、たいてい、こういうケースに当たります。
それは、あれかこれかの選択で悩んでいること、です。
意外にも人は、たくさんの選択肢で悩むことは少ないものです。むしろ、選択肢が多いというのはうれしい悲鳴というか、贅沢な悩みなのかもしれません。(その場合は、価値観に従い、優先順位をつけるとよいです)
たったひとつのもの(人)を失うようなこと、あるいは、それを得られないこと、そして、今述べたように、ふたつの選択肢の間で悩んでしまうこと、これが、分析すると、当てはまるパターンとして多いのです。
そうしますと、悩みの解決法は、実はシンプルになってきます。
構造的なアプローチと言いますか、そういう視点で見た場合、ひとつのことにこだわるか、ふたつのものの間で選択に悩むかというケースが浮かび上がります。
前者は、自分と対象(得たいと思うもの)の関係で、結局、得られるか得られないかのことになり、後者はそのまま、ふたつのうち、どちらを選ぶか(選べばいいか)のことで、それはどちらも、二者葛藤の構造にあると考えられます。
単純な白黒の図で書きますと
〇得られる ●得られない
〇を選ぶか ●を選ぶか
というものです。
そして、ここが大事なところですが、〇と●は並列の横並びの位置にあります。
もし、ここで、違う位置、つまり縦位置に「ある図」描くとしましょう。
※
〇 ●
※印の位置です。
※印の位置は、〇と●とは異なり、別の空間と言いますか、縦位置にあります。
ここにも実は隠れた選択肢があるということです。しかしながら、ふたつの構造の悩みに陥っている人には、それが見えません。
→ 〇 ● ←
ここでの矢印は、たとえ、別の方向であったとしても、〇と●と同じ並列の位置から見ているので、この人には、〇か●(逆方向だと●か〇、どちらにしても同じこと)しか選択肢が見えないのです。
けれども、※印の視点になれば、〇か●は、質として、同じ選択に見えてきます。言ってみれば、どちらも同じ、あるいは、どちらでもないみたいな感覚です。
右の人(道)がよいのか左の人(道)がよいのかとずっと悩んできて、ある日、ふと、どちらの人でもないんだとか、自分一人でもできる(一人でもいい)んじゃないかと気づくようなことです。
道の例えをしましたので、それをさらに使わせてもらうと、ある人が、道を進んで行くと、やがて左と右に分かれている分岐点に来たとします。
そして、自分の道は左に行けばよいのか? 右に行けばよいのか? と悩んでしまいます。目的地に行くためには、どちらかの道しかこの人には見えないので、悩むわけです。
ここに立体次元を導入します。そうですね、ヘリコプターでも登場させましょうか。(笑)
ヘリコプターがやってきて、びっくりしている間に乗れと言われて乗り込むと、ヘリは空に舞い上がりました。その人が上空から下を見ますと、右の道も左の道も、最終的には同じ場所につながっているのが見えました。
あるいは、右と左の道が、それぞれ別々の方向に進むのが見えても、広大な範囲で言えば、遠回りになっても、ほかの道にも続いていて、やがて目的地には必ず着くというのがわかります。(巨大な地図で見るようなもの)
もちろん、有限な時間(と場所)の中では、効率よく選択しなければならないという制約はあります。すると、右(あるいは左)でなければならなかったという理由も出ます。
しかしそれとても、そもそも論までになりますと、あなたがなぜその目的地に行かねばならないと思っているのか?ということに行き着き、ここにも二者構造の問題が出てきて、違う視点(可能性)に導かれるきっかけが出ます。
さて、ヘリコプターも、ある意味では道です。上空の道とでも言いましょうか。
これは、先ほど述べた「同じ並列の間(世界)」では、絶対出て来ない(見えてこない)道です。
つまり、次元やレベルが同じ位置にあると、悩みからはなかなか出られないということです。出られるにしても、結局、同じ次元の選択肢を無理矢理選ぶか、限定された時空間での効率選択になる場合がほとんどです。(そしてそれは錯覚の出口でもあります)
限定された時空間の効率選択とは、言い換えれば、お金とかモノのあるなし、三次元的(物質)損得、あるいは感情・欲求(低次人間性)をただ満たすような選択基準になるということてす。
現実・三次元感覚で多くの人が生きている限り、実際に仕事などの納期、効率性などにおいて、同じレベルの間で、限定された時空間の効率選択をしなければならないシーンは確かにあります。それはそれでいいと思います。
しかし、すごく悩んでしまうものについては、その効率性や損得的な見方をしていると、同じレベルでの選択肢しか見えて来ないので、次元やレベルを超えた選択肢・方法の視点を獲得することができにくくなります。
新しい視点を獲得するということは、つまりは次元の上昇を意味しますから、あなた自身が新たにシフトを起こし、まったく問題や解決の意味合い・視点も変わり、今まで気づけなかった資源、選択肢が多数出現し、生き方は今までより、とても楽になるはずなのです。
こうした縦の新たな次元・視点をもたらす構造は、マルセイユタロットで頻繁に描かれていることであり、特に、「恋人」や「運命の輪」には顕著です。
このような視点の必要性は、個人だけではなく、今、世界で起きている問題についても言えます。
今までの経験や知識に頼れば頼るほど、同じレベルの間での選択肢しか見えません。脱出や解決法が皆目わからないみたいなものです。
本当に買い物に今走らねばならないのか?、買うにしても、思っているもの以外で、代用したり、生きる糧にしたりできるものはないだろうか?
これまでと同じ生活、生き方をトレース・イメージすればするほど、不足におびえ、恐怖と不安は増します。
生き方をシフトしていく勇気と気概、そして月並みに聞こえかもしれませんが、本当に「愛」(他人愛だけではなく、まずは、エゴではない本当の意味の自己への愛)が試されてくるでしょう。