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小アルカナの読み方のコツで。
マルセイユタロットを使ってリーディングする人は、あまり小アルカナを使わない人が多いようです。
その理由で、まず考えられるのは、日本のマルセイユタロット界では、2000年以降、通称「カモワン・タロット」、カモワン版マルセイユタロットが広まったからではないかと推測しています。
私もカモワン流から入った者ですので、それはよくわかります。
「カモワン・タロット」は、その名前の通り、フィリップ・カモワン氏が復刻したマルセイユタロットなのですが、映画監督・芸術家・サイコセラピストなど、多芸多才で知られるアレハンド・ロホドロフスキー氏との共同製作によってできたもので、むしろ、ホドロフスキー氏の名で、ホドロフスキー・タロットと呼ばれることもあります。
とはいえ、日本では、カモワン・タロットとして普及し、その中心がカモワンメソッドと呼ばれる展開とリーディング方法であり、伝えられた当時から、大アルカナをメインとして使うやり方でした。今はわかりませんが、初期は、カモワン氏自身も、小アルカナについては重視していない(ほぼ使わないものである)ことを述べていたようです。
もうひとつの理由は、小アルカナの数カードが、マルセイタロットの場合、例えば日本で広く使われているタロット、ウェイト版(通称ライダー版)タロットと比べ、絵になっていない、記号みたいでイメージしにくいというのがあり、言わば、絵柄のない記号カードのようになっていて、タロットらしくない(トランプに近い)感じがあるからだと思われます。つまりは読みにくい、質問に当てはめにくいので使いづらいということです。
ということで、現状、日本でのマルセイユタロットリーダーの多くは、ほとんど大アルカナ使用中心になっているわけです。
しかし、タロットは78枚で一組(デッキ、セット)になっているものです。特に、マルセイユタロットは一枚一枚の絵の象徴も、また全体としての構造も、ロジックな根拠があることがわかっています。(例えば、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」など読めば、そのすごさの一端はわかるでしょう。)
ということは、78枚でなければならないきちんとした理由があり、もちろん、小アルカナははずせないものであるはずなのです。
必要なパート(部分)であるのなら、当然、リーディングにもそれに応じた理由で、(小アルカナとして)使うことができると考えるのが普通になってきます。
私は、このこと(マルセイユタロットで小アルカナの必要な理由)を研究の末にいくつか見出していますが、リーディング方法となると、まだまた研究・開発の余地はたくさんあると思っています。
ここで(マルセイユタロット・小アルカナの)リーディング方法の全部をご紹介するのは紙面(ネットですが)上でも難しく、また講座とブログは異なりますので無理ですが、すごく当たり前で、基本的なことを少し、書いてみましょう。
小アルカナの基本構造・基本コンセプトは4組であり、これは四大元素を象徴しています。小アルカナのリーディングの鍵は、この4組を理解することにあります。
これに人物のイメージを重ね合わせるのが、宮廷(コート)カードの読み方になりますし、数(の意味)をかけ合わせると、数カード(数札)の読み方になります。
ただ、この4組のイメージと考え方が、案外、難しいのです。数や人物のイメージの前に、まずは、ここをしっかり押さえておく必要があります。
厳密に言えば、四大元素と4組は同じようでいて、実は異なります。いや、本質的・象徴的には同じであるからこそ、4(つ)なのですが、カードに表されている4組はモノになっています。すなわち、剣・杯・杖・玉(一般的にはソード・カップ・ワンド・コイン)です。
一方、四大元素は、風・水・火・地(土)です。これは自然のものと言いますか、より本質(根源)を示します。
風とか、水だとかは、自然物としてイメージではわかりますし、実際に水などは水道や、ボトルに入った水とか、雨とか、海・湖沼とかで見ることができますが、ひとつのモノとして固まっているわけではありません。風が一番いい例です。そもそも風は目に具体的には見えません。(四大元素は、自然の中で私たちが見ている風・水・火・地とはまた別とも言えるのですが、ここではわかりやすく、自然のものをあげています)
ところが、タロットカードの小アルカナ4組となれば、モノになるわけで、とても具体的になります。ですから、四大元素の自然的な本質性(それは抽象的でもあります)よりも、もっと具体的でイメージしやすいモノになっているのです。この違いが、誤解を生じやすくします。
つまり、四大元素のイメージや意味と、モノである4組から出る具体的なイメージ・意味には、違いが出て当たり前であり、同時に、本質・抽象概念としては同じであるわけです。
何が言いたいのか言えば、リーディングにおいては、考え過ぎると小アルカナは余計わからくなる(読めなくなる)ということです。
風・水・火・地と4組とのイメージを何とか合わせようとか、大元があれだから、こういう意味になるのでは・・・と思考を巡らし過ぎると、ますますわからなくなってくるのです。
だから、四大元素の理解は必要ではあるのですが、単純に4組のモノとしてのイメージから出る意味や感じを出すほうが読みやすくなります。
大アルカナでは、キーワード的に、一枚一枚、ガードから出る意味や言葉を覚えていくと、実は、かえって読みにくくなってしまうことがあります。
それは大アルカナの絵が具体的でありつつも、表している世界は多様で重層的(言い換えれば具体性と抽象性の両方を含むもの)であるからです。簡単に言えば、見える世界も見えない世界も、現実も精神も、すべて象徴するみたいなものです。
ですから、最初から言葉(意味)を決めつけ過ぎると、その豊かな象徴性が制限され、固定化した読みに囚われやすくなります。結局、絵を見ても、覚えた言葉が邪魔をし、絵のイメージから出るほかの意味と混乱を来し、固まるようなことになります。
一方、小アルカナ、特に数カードはその逆とも言え、マルセイユタロットでは記号的な模様になっていますので、絵のイメージはどうしても限られます。もそもそイメージせよ、というのが無理です。
だからむしろ、記号的な意味(キーワード的なもの)をあてはめて覚えたほうが早いのです。イメージを使うとすれば、先述のモノとしての4組であり、剣・杯・杖・玉のイメージと(そこから派生する)典型的な意味を覚えて、リーディングをしていくとよいのです。
なお、マルセイユタロットの数カードでも、4組のイメージがしやすいように、1の数(エース)は、大アルカナや宮廷カードのように絵になっているのも、まるでこう使ってくれ、といわんばかりの配慮になっています。
あと重要なのは、4組は、単純に4つに分けたものではないということです。最初は分けたほうがわかりやすいのは確かですが、その分け方にコツがあると言いますか、分かれる考え方が、普通の常識とは違うのです。
私たちは、通常、分けるということを思った場合、その数の分だけ、区分けするというイメージがあります。
例えば、饅頭が8個あり、それを4つに分けてくださいと言えば、2個ずつ分けるでしょう。もしここで、10個の饅頭があり、それを4つに分けてくださいと言えば、割り切れないから無理です、となります。
ただ、饅頭の種類で10個を4つに分けるとすれば可能かもしれません。つまり、この場合は、種類で分けており、数ではないのです。
饅頭の種類で分けることにより、4つに何とか分けられましたが、種類ではなく、大きさとか、中に入っているものとか、色とか、製別とか、いろいろ分ける方法はあります。
仮に、まったく同じ饅頭ばかりでも、自分が決めた方法で、何とか分けることができるかもしれません。
話を戻しますが、小アルカナの4組とは、上記の、数で分けるのではない饅頭のように、質や種類、4つのルールで「分けられるもの」であり、「分けたもの」ではないのです。
哲学的には、分けているのはこちら側で、あちら側が分かれているわけではないというの本質です。(ここは難しいので、リーディングのコツとは別だと思ってください)
要するに、こちら側の分けるルールの統一が必要だということです。
4組は四大元素から来る意味や性質がありますが、それは基本ではありつつも、4組に、共通したステージやレベルを設定しておかないと、具体的に何を読んでいいのかわからくなります。逆に言うと、多くのレベルやステージが、4組としてあるのです。言い換えれば、4組が何重にも入れ子構造・フラクタルになっているのです。(4つの中にさらに別の4つがあり・・・みたいな連綿と続く構造)
例えば、こういうことです。
お金の問題がテーマだとしましょう。
お金と言えばコインであり、4組の玉で象徴されます。
しかし、お金を稼ぐための仕事は?と、さらに具体化していくと、玉の中の剣(コインでありつつ、ソード)、玉の中の杯(コインでありつつ、カップ)、玉の中の杖(コインでありつつ、ワンド)、玉の中の玉(コインの中のコイン)という感じで、4組構造から重層的にアプローチすることができます。
この場合、玉という設定とともに、(お金を稼ぐ)仕事というステージをさらに設定することで、具体化し、読みやすくなるわけです。
この設定をしているのはこちら側だというのが、さきほど述べた、「分けているのはこちら」というのに関係します。
ちょっと講座的になりましたが、私の講座では、このように、考察性と活用性との両面で、タロットを解説しています。
やり方を教えるのはもちろんですが、それだけではなく、なぜこのように使えるのか、使うのかという理由づけと、その理由を見ていくと、自然に深いものに接するようになってきて、タロットのすごさを知ると同時に、自身のスピリチュアィにもふれていくことになるのです。最終的には、タロットを通して、あなたの神性・霊性を発見し、向上させていくことが目的です。
タロットカードの人物像
タロットは、人物が描かれていることの多いカードです。もちろん人物以外の絵柄もあります。
特にマルセイユタロットの場合は、小アルカナと呼ばれるパートの、数カード(数札・スート)の絵柄は、記号模様みたいになっていて、人物などまったくイメージできません。ただし、逆に、小アルカナでも、宮廷カード(コートカード)のほうは、人物ばかりの絵柄になっています。
そして、大アルカナのパートでは、ほとんどが人物と言ってもいいくらいの絵です。
しかし、その大アルカナの中でも、人物とは見えないカードがあります。まるでマシーンや物体のように見えるのです。
マルセイユタロットでの大アルカナにおいて、具体的に、そのようなカードはどれかを指摘しますと、10「運命の輪」、16「神の家」、18「月」というところでしょうか。
まあ、このうち、「月」のカードは、文字通り、天体の月(本当は私たちの知る物理的な天体の月とはいえないところもあるのですが)がメインであり、ほかに犬やザリガニのようなものがいて、動物も目立つということでは、物体的ではありません。
それ以外の二枚、「運命の輪」と「神の家」は、どちらにも動物のようなものや、人間に見えるものが描かれているので生物感はありますが、物体・マシーンのほうが目立ちます。
ここから、この二枚には、生き物的なものよりも、機械的な何かが象徴されていると考えることもできるのですが、今日のテーマはそれではありません。
むしろ逆で、人物(像)の話になります。
宮廷カードも人物なのですが、今回は大アルカナに絞ります。
大アルカナには、先述したように、人物に見えないカードもあるものの、ほとんどが人物(像)に見えます。(人間とは限らないものでも、一応、人物的な存在とします)
心理的には、これらのカードに描かれる人物は、一種のパータン(型)であり、人類に共通する人間像とも言えます。世界中の物語に現れたり、実際の人々を典型的な性格や特徴などに強調したりした人物でもあります。
従って、大アルカナを人物として把握していくと、世の中の人間のパターンがわかってきます。同時に、ここが重要ですが、これらの類型パータンは、実は、一人の人間の中にも存在するキャラクター、性格、パーソナリティ、特質とも想定することができるのです。
これも心理的(あるいはスピリチュアル的)な話になりますが、面白いことに、入れ子構想やホロン構造のように、一人の中にいる複数のキャラクターたちが、外の世界にも同じようなパータンの人たちとして存在し、内と外とが同じ構造、もしくは投影しあっていると見ることができます。
例えばカードの「隠者」は、あなたの中のアドバイザーとか智慧者、孤高を望む人物像かもしれませんが、外の実際の世界においては、あなたのメンターや先生として現れているかもしれないのです。
逆を言えば、その人に自分の智慧ある存在のような人物を投影している、当てはめているとも言えますし、そのまた反対に、外の実際の人物によって、あなたの中のそれに似た存在・キャラクターが息づき始める、見出されるということになるのです。
ほかのカードの例でも考えてみましょう。
「節制」は天使の姿が描かれていることで、救済者であり、セラピストのような人でもあります。
もし、あなたがセラピー受けて、そのセラピストの技術や人物に感銘し、自分もこの人のようなセラピストになりたいと思ったとすれば、その人によって、あなた中にいた同じような人物(性格)が発動したと言えるのです。
つまり、あなたの中の「節制」が見出されたのです。
もしかすると、あなたが受けたセラピストの人は、もともとあなたの中にいた「節制」の天使であり、あなたがそれに目覚めるために、待っていた外側の「節制」の天使とも言い換えることができます。
この場合、例えば、「節制」は14の数を持ち、その前の数のタロットは「名前のない13」です。この「13」と「節制」は、マルセイユタロット的には、セットやペアを形成し、救いと、その前の困難、試練と救済を示唆します。
ということは、あなたがもしセラピーを受けなくてはならない何か悩みや問題を抱えていたとすれば、それは「13」の状態であると言え、そのためにセラピスト(14「節制」)に治療を受けに行ったわけですが、この仕組みには、先述したように、自分の中のキャラクター・人物と、外の実際のキャラクター・人物とがいて、外の人物が中の人物の覚醒に関わっていたとすると、あなたの悩みや問題は、そのために実は起こっていたと考えることもできるわけです。
見た目は問題とその治療ですが、背景には、内と外の共鳴による、内なる人物の覚醒があるわけです。(セラピスト側には、「13」のほうの覚醒が促されることもあります)
カードの人物像とその性格を知っておけば、こうした仕組みにも気づくことかあります。
また、タロットリーディングにおきましても、展開の中の重要なカードと思えるものに、まさしく、その人物像が強調されることがあります。
もし問題の解決とか癒し、変革に関わるのならば、その重要なカードの人物像は、あなたが目指したり、行動したり、その性格になったりすべき人物(キャラクター)と言えます。
あなたは自分の性格はこうだとか、こういうタイプだと思っているものがあるでしょう。それは誰しも大人であれば、今までの経験から、何となく自分を想定しているところはあるものです。
しかし、タロット的には、あなたの性格はそれだけではないのです。少なくとも、大アルカナの数、22の性格(キャラ)があるとも考えられます。一応、ノーマルモードのあなたとして現れるのが、自分がそうだと思い込んでいる、あるいは、成育的・経験的に培われた性格です。
あなたが問題状態にある時は、ノーマルモードだけでは対処できないことがあるのです。また、今までのバージョンのあなたでは追いつけない、無理がある、古くなっているということもあります。
従って、そうした時は、別モードのあなたが必要となるのです。それを示すのが、問題に際して現れる(アドバイスとして引く)カードの人物と言えます。
宮廷カードの場合は、それがもっと現実的(外の世界の人物)であることが多いのですが、大アルカナの場合は、外の人であることもあれば、自分自身の内的な別の性格を意味することもあります。
そのカードになり切った時、あなたに現れるイメージは何か、この人物ならばどう考え、どう行動するのか、それを想像することです、
いや、実は、想像するというより、会話するというほうが近いかもしれません。タロットのそのカードの人物と話をしてみるのです。擬人化する感じで、タロットの人物とコミュニケーションすれば、きっとあなたにアドバイスが届くでしょう。
サイキックなタロットリーダーやタロット占い師の場合、実際にカードを読むというより、カードの人物(精霊となります)と話をしたり、カードの人物同士がまるで生きているかのように会議している内容を聞いて、クライアントに伝える人もいます。
世界はモノで満ち溢れていますが、すべて生命を持つと考えれば、カードだけではなく、あらゆるものと会話が可能になるかもしれません。
一番最初の話で、大アルカナの中で、マシーンや物体のようなカードがあると述べたのには、これと関係するところがあります。
ともあれ、カードの描かれてい人物像、キャラクターをあなた自身の中に発見してみてください。
それには、やはりタロットカードを知る必要はあるでしょうが、直感の優れている人は、カードの絵柄を見ただけで、人物を推し量ることができます。それもまた、(マルセイユ)タロットのよいところです。
現実での移動、ふたつの地点
マルセイユタロットの「節制」のふたつの壺と水にも言えるかもしれませんが、「ふたつの世界」の混交・交流というのが確かにあると感じます。
この「ふたつの世界」というのは、スピリチュアル・心理的には、意識と無意識の世界、見える世界と見えない世界、物理的な(ことが中心の)世界(観)と精神・霊的な(ものが主体となる)世界(観)というのが、このブログを読んでいるような人には想像されると思います。
しかし、現実的な意味での、ここの地点とあそこの地点(こちらとあちら)、A地点とB地点というような言い方も、もちろんできます。
私も含めてですが、この現実的なふたつの世界(地点)についての視点のことが、意外に欠落している(ほとんど意識されない)のに気づきます。
私たちは、日常的に、無意識と言いますか、それほど自覚なく、流れ作業のように、今いる地点と、これから向かう先の地点(移動先)を動き続けています。
毎日の出勤もそうですし、もっとミクロで言えば、家の中とか、職場の中においても、細かく言えばきりがないほど移動しています。
さらにもっとミクロに見ると、腕や指、足も動かしているわけですから、つまりはじっとしていることなどありえないということです。たとえ寝たきりでいようが、肉体の何かがわずかでも動いていることは確かでしょう。
タロットでは、「吊るし」という停止を象徴するカードもありますが、このカードも宙づりの状態にあり、もしかすると、微妙に風にゆらめいて動いているのかもしれません。
そこから考えると、私たちは完全停止ということはありえないのではないかと思います。移動というテーマで言えば、いつも移動していて、同じところ(同じ形)が永続していることはないわけです。
マクロで考えてみても、私たちは地球の上にいるのであり、地球が自転し、太陽の周りを公転しているとなれば、じっとしているように見えても、これまた実は常に移動していることになります。最近、よく言われるように、太陽自体も何かの周囲を回っているともし考えるのなら、地球も(太陽系自体)、前と同じ場所にはいないことになります。
こうして見ると、私たちは、まるでタロットの「愚者」のように動き続ける(移動し続ける)存在であることがわかります。
しかし、そんな動く私たちでも、常識的な感覚で言えば、どこかには必ず(一瞬でも)落ち着いている場所や時間というものがあります。それは移動する前の地点です。
細かく言えば常に動き続けている私たちでも、感覚としては、「ここ」から「あちら」というように方向性があり、移る前には、停止している場所、留まっていると感じるポイントがあるのです。
そこが、「現在」「今」と感じる場所であるのもわかると思います。
ところが、その場所も、実はマクロな意味、あるいはミクロな意味で動いていることがわかりました。すると、私たちの「今」というのは、どこにあるのでしょうか?
結局、文字通り、今いる場所、今自分が止まっていると思える場所こそが今という感覚になりますよね。
スピリチュアルな世界では、時間は「今」しかないとか、今この瞬間が大事だとか、今にすべての創造があるとか言われます。
では移動している時というのはどんな時間・状態なのでしょうか?
場所が動いていますから、「今」とは言えない気がします。
それでも、例えば電車に乗って移動していれば、自分が止まっているように思う場所、つまり電車の中にいる自分の場所が今であり、時間(と場所)は移動しているものの、今・この瞬間は電車の中にあるという不思議なことになります。
もしスピリチュアル的な人が言うように、時間が今しかなく、今にすべてが創造されているのなら、電車の中の例でいうと、電車の移動も、周囲の風景も疑似的なものであり、自分のいる場所の瞬間瞬間こそが実在みたいになってきます。
別の面白い言い方をすれば、電車が移動するごとに、景色がその都度創造されているようなものです。それもあなたの意識が外に向けられた瞬間のみですが。(笑)
よーく考えていくと、本当は移動もないのかもしれません。
電車の例えが出たので、また電車のことで示しますが、乗っている電車と同じ速度の電車が外に平行して走っているのが見えれば、あちらの電車に乗っている人と自分が、まるで動いていない、止まっているように感じますよね。
でも実際は、どちらの電車もかなりのスピードで動いているわけです。
これと少し似たような話で、もしも自分が動いているのではなく、景色のほうが動いているとすればどうでしょうか?
自分自身はただその場で足踏みしているだけで、周囲の景色が映像のように動いていく感じを想像してみてください。
すると、おそらく、ものすごいリアルな景色(映像だけではなく、音とか雰囲気とか、匂いとかもリアルなもの)の場合、自分が本当に移動しているような錯覚を起こすのではないかと思います。
最近のバーチャルリアリティの世界はかなり発達してきていますので、自分はただ装置をつけたり、そういう仕掛けの中にいるだけなのに、世界を旅行したり、とんでもない経験をしていたりするような感覚になります。
話を戻しますが、結局のところ、自分の肉体の場所というより、自分が思う意識のうえでの「ここ」というポイント・地点が重要なのではないかと思います。
今・ここが大事だと言われるのも、意識がここを決めるからで、「ここ」がまさに自分の世界の中心になっており、「ここ」は動いておらず、周囲のほうが創造的に移動している(ように見える)からだと感じます。
唯心論の立場からすれば、心が世界を創っていることにもなり、そこまで言わなくても、自分の今・ここという感覚が周囲に関係すると言えそうで、その意味では、やはり自己が自己たる感覚、土台、確立、確信が重要となり、思いが世界を変えるにも、しっかりとした自分中心感覚が必要であることがわかります。
言い換えれば、逆に、移動する感覚に振り回されないこと、どこにいても「ここ」であり、世界は自分の中にあるという感覚に近いものでもあるでしょう。
例えとしては変ですが、巨大な自分と、小さな自分が常に回転しながら同調しつつ、巨大な自分が小さな人形のような地図上の小さな自分を動かしているような感じです。
ですから、物質と霊というふたつの世界の見方の前に、現実の中にも、ふたつの世界がすでにあり、私たちはその間を行き来しているようで、実はしていなく(笑)、「節制」の壺の水のように、交差している真ん中の地点にリアリティを感じているという話です。
結局、現実のふたつの世界(ふたりの自分とも言えます)も、「霊と物質」のようなふたつのことと同じなのだと思います。
今回の話は、私自身も気づき始めたばかりのことで、まだ完全にうまく説明することはできませんが、本当はシンプルな話で、今いる「あなたのそこ」「私のここ」がすべてを回しているような話なのです。これは「運命の輪」や「世界」のカードとも関係してくるように思います。
皆さんも、時々、立ち止まっている時、動いていない時の自分と、移動している時の自分、目的地に到着した時の自分などに、意識をそれぞれ向けて見てください。
動いているのは物理的には自分ではありますが、本当にそうなのか、移動しているものは肉体と言えるのか、特に移動している時の「今」「ここ」「私自身」はどこにいるのか、考えてみるとよいでしょう。
こうなると、マルセイユタロットで言われる「愚者」と、そのほかの21枚の大アルカナとの関係性も、また、とても興味深いものとなります。
タロットを活かす、過去と未来の方向性
タロットに興味を持つ方で、タロットと自分に対するスタンスといいますか、関係性においては、人それぞれと言えます。
大きく分けて、その関心の中心として
●占い
●魔術(魔法関係)
●心理
●自己啓発
●スピリチュアル
●歴史
●遊戯ゲーム・カード
などがあると思います。
一般的に多くは占いのツールとして扱うというもの、最近ではライトなスピリチュアル的関心からのもの、自己探求・心理関係的な象徴道具としての扱いが増えて来たように思います。
占いにタロットが使われるようになったのは、古いようで、実は新しいという説がありますが、これも諸説あります。
そして、意外に(一般的に)知られていないのは、魔術(開発)道具としてのタロットで、今、世間で多く普及している通称ライダー版、ウェイト版のタロットなどは、実はこれの代表みたいなものです。
ですから、どうしても、タロットというものを見ていくと、西洋魔法との関連は避けて通れないところがあります。(「魔法」というと奇妙奇天烈、不可思議なイメージがありますが、「近代魔術」で調べていただくと、一般に想像する、おとぎ話とかに出てくるようなものではないことがわかるでしょう)
しかし、これは私見ですが、西洋魔法とタロットとの関係は、西洋魔法においてタロットは、あくまで魔法のためのいちツールであり、タロットが魔法に必ず必要かと言われるとそうではないと思います。
個人的には、魔術的(系)タロットとは別物として、タロットを扱っています。
といっても、タロットの精霊とのコンタクトとか、タロット瞑想の技術などは、ほとんどが西洋魔法のものがベースになっていると言え、見えない世界とタロットということを結び付けていくと、西洋魔法的な技術を知らず知らず使っていることもあるのだと思います。
タロットを魔法的な感覚(その世界観と技術)で使うとなると、本当は魔法団体に入り、師匠や兄(姉)弟子のもとで修業していく必要はあるでしょう。占い師の中でも、あるいは、そのクライアントやタロットを習いたいと思っている人にも、タロット扱いの理想として、この魔法的なタロットの力を想像している人が少なくないと思います。
ただ、それは先述したように、きちんと(団体や師匠のもとで)習得していく魔法技術の段階があり、素人的な見様見真似では、危険なところもあり、やはりいい加減にはできない、特別な世界と言えます。
自分の目指すタロットの道が、どんなものなのかは、最初はわからないにしても、少しずつ理解し、ライトに楽しむか、覚悟を決めて取り組むのかのところは、やがて直面する時が来ると思います。
一方で、アカデミズムと言いますか、見えない世界ではなく、見える世界でのタロットへの関心が強い人もいます。先に挙げた、カードの歴史とか、カードの芸術性などに興味のある人たちです。
こういう人は、カードそのものが好きということで、タロット占いやタロットリーディング、タロットを通した精神的霊的世界に参入するというようなことにはあまり関心がなく、カードの成り立ち、変遷、絵柄、種類、図像の解明などに楽しみを覚えます。これはこれで、タロットとの関わり方のひとつで、面白いものだと思います。
タロットとの関わり、興味は人によってそれぞれであり、このようにたくさんあるのですが、逆に言えば、タロットというものが、それだけ多様に扱える普遍的な象徴性・ツール性を持つ存在と言えます。なかなか、これだけいろいろな意味で関心を持たせるものもないでしょう。
さて、タロットを、特に、精神的・霊的な探求、向上の意味で、自他ともに使っていくものとするのなら、見える世界と見えない世界の統合も意味していくことになり、だからこそ、ふたつの方向を常に診ていくことが求められるように思います。
実は、この「ふたつ」というのには、様々な意味があります。見える世界と見えない世界のことだけでもないのです。
タロットを使うということは、タロットをよく知らねばならず、そのための「ふたつの方向」で言えば、タロットの成り立ちや込められた思想の背景、象徴の意味など、いわば学術的、歴史的内容含めた蓄積された内容を学ぶ必要があります。
ただ、この場合は、カードコレクターとか、カードそのものの歴史を解明していくような興味の人とは違うので、詳しすぎる必要はないと思います。あくまで思想や哲学、背景の流れというもの、重要なものを押さえるということです。
西洋で作られた(完成された)タロットであるのなら、やはり中心は西洋の歴史、思想背景(秘められたもの、あまり知られていないものの、タロットと関係していると考えられる事柄が特に重要)となります。
しかし、結局、それを辿っていくと、西洋だけに収まらず、図像にある象徴の源流ともいえる古代エジプト・メソポタミア、今でいう中東や古代のインド、中国などの思想・宗教・世界を、ある程度知っておくこと、さらに深いものとなってきます。
いわば、これらは過去方向の知識とか蓄積を知るということです。これを知っているのと、知らないのとでは、カードの力の発露に違いが出ます。
例えば、人間でも、いろいろと苦労したり、経験を積み重ねて来た人には深さや味わいがあり、問題を解決したり、癒したりする力も強くなります。逆にペラペラな薄い人では、それこそチャラい感じで、相談に乗ってほしくはないですよね。(笑)
タロットも、何も知らない段階では、ただの紙切れであり、カードに罪はないにしても、その段階では薄ペラなものでしかないのです。これにさきほど述べた象徴や背景などの深い知識が加わってくると、カードに封じ込められていた数千年(マルセイユタロットの場合)の象徴・歴史の流れにあったものにスイッチが入り、カードはがぜん厚みを持ちます。
タロットを勉強しなくてはならない理由のひとつは、ここにあるのです。
そして、もうひとつの方向性は創造していく未来方向です。
タロットの過去方向での歴史、蓄積、思想背景、象徴性の意味などを知ることも重要ですが、今度は、それを現代(今)と未来に向けて、どう活かすのか、未来をどう創造していくのかを、タロットを通して考え、実践していくことも大事です。
でないと、昔はすごかった・・・だけの過去礼賛に終始し、過去と今をループするだけの、歴史探訪、ただの知的好奇心を満たすだけのものになりがちです。
今は、ある意味、ツールとしては何でもそろっていて、もはやAIでさえ機能しようというこの時代に、なぜタロットを使うのかという意味を見出せないと、視線は過去方向だけにとどまってしまいます。
温故知新という言葉があるように、失われた何か重要なものが、タロットには描かれていると見て、それをもとに、忘却されたものを再発見し、それを今や未来に向けて、わかりやすくふさわしい形で再構成(再生、リニューアル)することが求められているように思います。
まさに、カードで言えば「審判」です。
キーワード的に言えば、その重要なものとは、「霊性」ということになるのですが、その霊性の復活がなぜ必要で、そのつながりをタロットでどう蘇らせるのかということでもあります。
例えば、マルセイユタロットは、「グノーシス」と呼ばれる古代思想と密接に関係すると考えられますが、そのグノーシスにしても、昔のものをそのまま現代に説いても、あまり意味は持ちません。(ただ、先述したように、過去方向の蓄積として知る必要はあります)
しかし、象徴的な意味では、昔も今も変わっていないところがあり、古い時代のグノーシス思想を知ったうえで、そこから抽出される、ある種のイデアとか型が、現代に活かせるものになる、そのヒントになるのだと考えるようなことです。
従って、あまり具体的過ぎても本質を見失うので(時代ごとに形、やり方は違うので、それに囚われていると本質が見えなくなるという意味)、象徴としての抽象的表現でもって、核のようなものを見ていく必要があります。ここにタロットが活かせる理由が見つかるのです。
一人ひとりの具体的、個人的願望や幸せは、タロット占いなどでサポートは可能かもしれませんが、そのレベルとは別のもので、特に未来に向かっては考えていく必要があり、言わば、私たちの霊性を回復していくうえで、個別でいながら、全体的な視点が必要となります。
こういうところに、タロット(マルセイユタロット)が使えるのだと思います。
タロットは古い道具で、紙に印刷されたカード(昔は型紙で刷っていた)というアナログ的な、もはや時代遅れの代物のように見えますが、実のところ、描かれているものは、未来的でもあると私は考えています。
友だちはいなくてもいいけれど。
マルセイユタロットの大アルカナでは、数の順に成長していくという考えがあります。(小アルカナ数カードでも、ある視点からは言えることですが)
その観点でカードを観察すると、いろいろなことに気づくと思います。
そのひとつに、タロットの絵柄に出てくる人や動物の数の違いがあります。
全体の傾向として、数の小さいカードよりも、大きいカードのほうかそれらの数は多くなるように見えます。もちろん、数の小さいカードたちにも、人が多いもの(例えば「恋人」カード)もあります。
実は、そうした例外にも意味はありますが、今回は、この人や動物のようなものの数が増えていくことをヒントに、私たちの生き方について、考えてみましょう。
私たち人間は、ややこしい生き物と言いますか、たいてい、二律背反のような、別の心とか考えを併せて持ち、それらが葛藤することもあれば、どちらかのひとつを場面やシーンで選択して生きていることが多いものです。
そして、このこと(ふたつの相反する状態)は、一人のほうがいいと思うか、誰かと一緒にいたいと思うかという、誰しもよくある気持ちでも表されます。
性格や好みの差も当然あります。孤独を好む人、一人でいたほうが落ち着く人もいれば、常に誰かといなければ安心できないという人、大勢でにぎやかに過ごすのが楽しいと感じる人など、様々です。
しかし、たいていの人は、一人になりたい時もあれば、誰かと一緒にいたいと思う時もあるというのが普通でしょう。
これを、どらちかにしなければならないと思い過ぎると苦しくなります。
コミュニケーションの上手下手や、人間の価値を計る意味から、孤独、いわゆるボッチ(笑)を忌避したり、逆に、群れ・グループに入ることで、自分の存在を確認したりするようないびつな考えでは、自分が人とどう距離を保てばいいのかわからなくなって、不安になることでしょう。
タモリ氏も、「友だちなんかいらない」と述べたように、誰かといなくてはならないとか、友だちがいなければ人からなんと思われるだろうかとか、友だちから悪く思われないよう異常に気遣ったりするとかで、自分を見失い、自分が楽しく、あるいは穏やかに生きられないようでは、自分の人生なのに(他人のために生きるみたいで)本末転倒になってくるわけです。
その意味では、孤独、一人でもよしと割り切ったほうが楽かもしれません。
また、西尾維新氏のライトノベルで、アニメ化もされて人気になっている「化物語(ばけものがたり)」の主人公、阿良々木暦(あららぎこよみ)君も、最初は、「友だち作ると人間強度が下がる」という理由で、孤独を選んでいました。
これは、孤独の選択による精神性を中心とした強さが養われるという考えによるものと思われ、友だちを作ると、なるほど、友だちとの楽しい時間はあるかもしれませんが、反面いろいろと人間関係でわずらわしいところが出たり、気遣いするところがあったりで、自分というものが弱くなる(自分中心で決めらず、自分でいられなくなる)ということでしょう。
昨今の承認欲求オンパレードの付き合い方をしている人の多さを見ると、阿良々木君の主張も当を得ているかもしれません。
しかし、タロットの話に戻りますが、マルセイユタロットでは、先述したように、次第に人(や動物)は多くなっていきます。
それでも中には、明らかに孤独が強調されているカードもあります。例えば「斎王」とか「隠者」などです、「隠者」に至っては、9の数なので、大アルカナでも半分くらいのそこそこの位置ながら、孤独性が謳われています。
昔から、精神的・霊的な成長のためには、俗世や一般の人から離れ、孤独な時間と空間に身を置かねばならないとされ、修行者に実践されてきました。その意味については、あえて今回は書きませんが、マルセイユタロットが霊的な成長プロセスを描いていると仮定するのなら、孤独の絵柄もあってしかるべきです。
一般生活においても、やたらと人と群れるのは、すでに言ってきたように、自分を見失うだけで、一人の時間は、いろいろな意味で必要でしょう。一言で言えば、人に依存しないように、一人になる、一人で生きるというシーンも大事だということです。
ただ、やはり、この世は自分一人だけの存在で成り立っていないのは明らかです。
たとえスピリチュアル的な意味で、「この世界は自分の創造にあり、究極的には自分しかいない」という考えであっても、自らを中心に、多様なものが放射されるがごとく、いろいろな階層・レベル、表現でもって、存在性は分化し、多様に「いのち」として表現されています。
ですから、他は自分でもあり、自らを救うということは他人も救うことになり、その逆もまた真なりで、他者を救うことは自己を救うことにもなると考えられます。
「化物語」の阿良々木君は、当初は人間強度が下がるからと、友だちを作りませんでしたが、本気で思っていたわけではなく、言ってみれば、友だちができない変わり者的な自分をすねていたのであり、孤独である自分を正当化して、かっこいい理屈をつけていたに過ぎません。それは強度どころか、自分の弱さでもあったのです。
結局、阿良々木君は、怪異と関係する者たちとの壮絶な体験を重ねることによって、友だちとも仲間とも恋人ともいえるような存在が増えました。その結果、むしろ彼の人間強度や魅力度は上がったように見えます。
これは、自分の弱さや限界を認め、受け入れることでもありました。
「化物語」はしょせん創作の話で、しかも怪異が出るようなファンタジーで、現実の私たちとは関係ない話と思うかもしれません。
ただ、タロットでも人の数が増えていたように、私たちは、一人よりも、全体(多勢)として見た時、その強さは最強になります。それは、さきほども述べたように、現実世界では、一人ひとりでは限界があり、できないことも多いからです。
霊的覚醒レベルになると、その一人の限界も超えていくようなことになるのでしょうが、現実的な意味においては、私たちが世界(全体)の力を知ることが、タロットからも示唆されているように思います。まさに「世界」と「力」のカードの関係のようでもあります。
私たちが、自分の個性を探求し、それを理解しつつも、同時に限界や苦手なところも知って、その面は、他人が担ってくれることを、「世界」というカードの視点を持つと気づいてきます。
よく言われるように、一人では無力だが、集まると大きな力になり、とてつもないことを成すことができるのです。
「化物語」の阿良々木君の言う、“人間強度”は、他人への依存(または逃避的な孤独)だと確かに下がることになりますが、自分の弱さも強さも個性も認めたうえで、他者を尊重すると、それは他者(が与える力)=自分(を救う力)にもなってきて、カードで言うと、「節制」の協同的力(それは救済力でもあります)が発現されてくるようになります。そうなると、逆に、人間強度は増すのです。
シンプルに言えば、私たち自身が世界であることを知る、世界と人々を好意的に見る(ただし、何でも甘んじて受け入れて支配されること、平均的思考で皆まったく同じになること、無抵抗になることとは別です)という感じでしょうか。
マルセイユタロットの「世界」の真ん中の人物が、周囲の四つの生き物とリースに囲まれて、踊っているように見えるのも、霊的には自分が宇宙になっていることでもあると考えられますが、現実的な話では、やはり、自他の協同、理解、助け合い、学び合い、能力・考えの提供、交換などの、それぞれの個性を活かし、調和する社会(世界)を示しているように思います。それが一人ひとりの強さと自信にもつながってくるのです。
全体で支え合えれば、一人ひとりの安心感も増し、自分自身の人生を豊かに、創造的にしていく機運もますます上がり、さらにはそれが全体の向上へと還元されてくるでしょう。
孤独で生きるのもよいですが、全体へ世界へと意識を向けていくことも、結局、自分のためにとってもよいことになるので、「自分のできる世界への開き方」を考えてみましょう。