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タロットへの質問 いろいろな考え方

タロットへの質問(クライアント、自分がタロットに聞きたいと思っている問い)について、これまでも何度かこのブログで書いてきました。

私の考え方としては、一見、矛盾するようですが、タロットへの質問は、あまり意味を持たない(いらないわけではありません)という立場と、質問の工夫によって、タロットをうまく活かすことができるという立場との両方が混在しています。

アメブロで、1年前に書いた記事が自分のページに提示してくれる機能があり、偶然かシンクロか、ちょうどその1年前に書いたものとしてあがってきた記事が、後者(質問の工夫によってタロットリーディングも変化し、機能すること)について、わかりやすいと思いますので、それを再アップしておきます。

この過去記事では、まず、占い的な「なになにはどうなりますか?」のような受動的な問いより、「なになにする(なになにを実現する)にはどうすればよいか?」という能動的な質問にすることで、創造的な視点に変換できることを述べています。

当然、タロットからの指針も、「運命的にこうなる」というのではなく、自分が思い、行動するためのメッセージ、情報として扱うことができ、主体は自分自身であると自覚することができます。(タロット占いへの依存や、変に神秘性にあこがれるような事態になりにくい)

また、この記事には書いていませんが、質問そのものを絞ったり、具体的にしたりすることで、本来抽象的ともいえるタロットの絵柄とその意味を、現実的なもの、判断のしやすいものに落とし込むことができます。(しかし、これには問題もあり、そのことは後半の記事に関係してきます)

あと、記事では、タロットに質問をするのではなく、タロットの象徴性が自らに問いかけているという「リヴィジョン的な見方」のことも取り上げています。

たとえ、タロットへの質問があったとしても、タロットの意味に質問をあてはめるのではなく、質問そのものをタロットの象徴でもう一度見直す(ゆえにリヴィジョンと言われる)方法です。

これ(リヴィジョン)は、質問を工夫することの一種でもありますが、最初に述べた「タロットへの質問は、あまり意味を持たない」という立場にも近い技法と言えます。

では、その、「タロットへの質問は、あまり意味を持たない」という考えについて、一部になりますが、お話します。

とりあえずは、よく混乱するケースで、見てみましょう。それは言葉の問題が原因のものです。

例えば、「この講座を受けることはよいですか?」というタロットへの質問を行うとします。

そして、出たタロットによい・悪いという意味があったとします。すると、明確に、よい意味のカードが出れば、講座は受けたほうがよいという判断ができますし、その逆に、悪いカードが出れば、講座は受けないほうがいいとなります。

ところが、同じような質問ですが、ちょっと違う言葉(文章)になった以下の場合はどうでしょうか?

この講座を受けるのはよくないですか?(講座を受けるのは、自分にはあまり価値がないことですか?)

これに対し、よい、イエスと思われるタロットが出れば、講座を受けることがよいのか、あるいは、「受けることがよくないのでは?」という質問なので、質問自体に「イエス」と答えているとみて、つまりは、「受けることはよくないですか?」「はい、よくないです」という読み方をしてしまうことも考えられます。

また、カードの正逆と、吉凶的な意味のよい・悪いを入れた見方をする方法を取るならば、ますますこの混乱が顕著になります。というのは、正逆で意味がまったく反対になると見るものがあり、それだと、悪い意味のカードの逆向きはよいことになり、言葉だけで見ていると、質問に対しての答えがわかりづらくなります。

この問題の解決は簡単なことです。第一には、カードを吉凶、よい・悪いで決めつけた見方を採用しないことです。

もうひとつは、要は、否定の問い方をしなければよいということです。「なになにするのは悪いこと(よくないこと)なのか?」「なになにするのはダメなのか?」みたいな否定の問いかけをすると、カードが否定の肯定をしているのか、否定の否定をしているのか、それとも質問内容そのものの肯定なのか否定なのか、わからなくなってしまうわげす。

まるで、バカボンパパの「賛成の反対、反対の賛成なのだ(賛成の反対に賛成する、結局反対のこと)」みたいな感じです(笑)。(ちなみにバカボンパパのこの言葉は違う解釈もあって、意外に含蓄があり、なかなか哲学的・スピリチュアル的には面白いです)

次に、たいていの具体的な質問は、二元的な判断によるものがどうしても多くなります。それは、人間の現実生活が分離(どちらかの)判断基準を強いられる世界が常だからです。

ですから、生身の質問、現実(生活)の悩みから出る質問ほど、どちらがいいかとか、どうすれば(一般的・現世的な意味で)幸福になれるか(つまり、幸か不幸の)二元的選択の問いになります。また具体的でもあるということです。

ところが、言葉としての問いは確かにそうではあるものの、自分、あるいはクライアントが本当に求めている質問や、知りたいこと、気づきたい内容は別にあることが多いのです。

もう少し違う言い方をすれば、二元的な判断を求める自分も存在しますが、ほかの質問と答えを欲する自分、さらには、答えはもともと知っていて、質問と答えをまるで自問自答、自作自演のようにして楽しんでいる自分などがいるのです。

いわば、複数の自分が内に存在し、それぞれ、求める質問と回答が異なるのです。

そのため、一般的な、よく占いであるような現実的・二元的質問と答えは、確かに、ある自分を満足させはしますが、一方で、ほかの自分は不満であったり、もっと別の回答を求めていたりするので、そうした(別の)存在が自分の中に重要となってきた人には、もはや、通常の質問と答えのレベルでは、違和感を覚えたり、どこか納得しないところを感じたりするのです。

あるいは、別の自分の存在がまだそれほどではないにしても、一般的な質問と答えの繰り返しでは、同じ次元をループするだけのことになり、特に、精神的・霊的成長が望みにくくなります。

言い換えれば、その場限り、一代限りの自分が物質的に満足すればOKみたいなことです。(それが悪いわけではないですが、全体的、中・長期的に見れば問題であり、実は大きく現実的問題にも関係して来るのですが、そのことはいずれ別の記事で述べるとします)

ちょっとわかりにくくなりましたので、カウンセリング的なケースで簡単に説明しますと、例えば、恋愛の質問で「彼ができますか?」という人がて、それに対し、「いついつの恋愛運はよいですから、可能性があります。場所はこういうところで、相手はこのような人です」と占ってもらうことはあるでしょう。

しかし、実際にそのようなタイミングで、希望する人に出会え、恋仲になったとしても、すぐ別れてしまい、また、占い師のもとに、「次の出会い、彼はいつ現れますか?」と聞いて、同じように教えてもらったとしても、再び別れてしまったのなら、このクライアントの問題は、出会いとは別のところにあるのかもしれないことが予想できます。

このクライアント、彼女の質問は、現実的なものであり、彼との出会いについての質問ですが、それにそのまま答えることは、当人はおそらく満足し、実際に出会いがあれば、歓喜するかもしれません。

しかし、先述したように、これまでも、そして今後出会いがあったとしても、恋愛やあつきあいがいつもうまくいかないとすれば、本人の内面や、何か本人も気づていない問題データが残っているからとも考えられます。

このクライアントの質問自体は出会いへの方法やタイミングではあっても、本当の問題解決には、その質問を超えたレベルのものが求められることになります。

これは極端な例ではありますが、このように、当人の質問の言葉(当人が発する今の望みや疑問)をそのままをトレースして回答することは、一時的な満足や対処療法的なことになる場合があるわけです。

従って、「タロットへの質問は、あまり意味をなさないことがある」のも、これでわかると思います。

タロットへの質問はあくまで導入であり、そこから本人の気づいていないところまでアプローチし、最初の言葉とは別のレベルの回答を(本人がタロットリーダーととに)導き出すことも可能なのです。そのほうが、本質的に、タロットリーディングというものに近いと言えましょう。

ただし、必ずしもそれがよいと言っているわけではなく、ケースバイケースであり、現実的・二元的な質問に答える技術、タロット占い、タロットリーディングもありますし、それがクライアントの満足と救いのプロセスに乗せるきっかけになることもあります。

そして、最初に述べたように、質問に意味があるという立場を取ることもでき、それは質問、問い方によって、タロットをより活かすこともできるためで、ひいては、問い方そのものが、自分の人生を決めて行くことすらあると言え、その意味では、質問は非常に重要なものとなります。


現代の自分探し

自分を知りたい、自分らしくありたい、こういう望みを持つ人は増えたのではないかと思います。

昔から、いわゆる「自分探し」という名前で、自分が何者なのか、自分は何のために、どんな目的で生きているのか(生きて行けばよいのか)と、世界を旅する人がいました。

そして、精神・心理の世界で、自己表現の大切さが謳われようになり、また別の形で、それを求める人が増えたように感じます。

しかしながら、かつての「自分探し」の旅で、よくある結論・結末としてあったのは、結局、自分はここにいた、というもので、世界など旅する必要はなかったのだという「幸せの青い鳥」のような話でした。

まあそれでも、考えようによっては、世界を旅したからこそ、身近なこと、本当に大切なものがわかったということもあるので、探求したり、放浪したりすることは無駄ではないと思います。

そして、現在は、自己表現ということで、自分の個性、自分らしさというものに注目する人が多くなったのは、先述したとおりです。

これは裏を返せば、自分を押し殺し、無意識的に人の言いなりになって、何か社会や組織、大きな存在や常識と言われるものに自分をあてはめて生きようとし過ぎ、自分が本当にどうしたいのか、どう生きたいのかを見失っていた人がたくさんいたからだと考えられます。

ところが、ネット社会になり、SNSや動画などで、簡単に自分を発信・表現できる時代になり、自分自身を見る者、自己表現の方法と世界は増えたものの、他人から認められたいという欲求が増加したり、自分のことがますますわからなくなった、個性がみんなのようにうまく出せない(埋没した自分を感じる)という人も少なからずいるのではないかと思います。

コミョ障を自覚する人も増えたのは、こうあるべきとか、人はどんな場合でもうまく円滑にコミュニケーションすべきという観念のようなものがある中で、そうなれない自分が余計気になるようになったからではないかと思います。

言い換えれば、情報が多く、一般化(情報が伝わりやすく、形だけは共有)するシステムが作られているため)しやすくなったことで、自分がそのイメージとはそぐわないことが際立つ(実際の自分と、理想で語られるイメージとの乖離が強くなる)ようになったということです。

情報が一般化されてくると、このように、昔は考えもしなかった(情報として入らないか、少ない例しか見ないので、気にする範囲が狭かった)ことが、いろいろと嫌でも目に付いてきて、気になるのです。

もちろん、かつてあった地域の年齢階梯的な集団制度も崩れ、少子化で部屋にこもりがちな人が増えたり、あまり他人とコミュニケーションせずとも、お一人様でも生きていける環境が整ってきたりしたことことの弊害もあるでしょう。

要するに、今の社会、昔の自分探しとはまた違った意味で、自分を探さなければならない状況に追い込まれている人がたくさんいるのです。

そして、皮肉なことに、その探している自分は、情報化社会にある無機質とも言える集合概念のような“他人”に対して受けのいい自分、かっこいい自分、何か注目を浴びる自分という、本当の自分かどうかは疑わしい存在なのです。

また、精神・心理系の人が探す自分というのは、言葉では本当の自分、ありのままの自分というものですが、これも、抑圧している(されている)自分でない部分の自分ということで、本当の自分の一部でしかないのが実情でしょう。普段演じている自分も、大きな自分の中の一部であり、結局、どれもが自分なのです。

ですが、抑圧されている自分がそのままだと気持ち悪いですし、いつか暴発しかねませんので、その抑圧されているほうの自分を発見したり、コントロールしたり、浄化したりする必要はあると思います。

自我の二重構造と表現できるかもしれませんが、人に見せやすい自分と、見せにくい自分に対立・葛藤をさせてしまうと、エネルギー消費も無駄に巨大なものになり、歪みも起こしているので、心身に悪影響が出るのは必然でしょう。

よって、そのねじれや二重構造は解消するか、葛藤するふたつの自分を協議・調整させておくことは望ましいです。

とはいえ、あまり情報に踊らされて「自分を探す」ことは、やり過ぎないように注意したほうがよいです。

中には、それ(自分探しの手伝い、コーディネート)をわざと商売にしている人もいます。(そういう仕事があってもよいと思いますが、目的が別にある悪徳的なものも存在するからです)

さきほども言いましたように、自分が表現する(している)自分というのは、全部自分(トータルな自分の一部)ですから、あれが本当でこれは偽物と区別する必要もないでしょう。

マルセイユタロットで言えば、大アルカナ22枚に象徴される人格が自分の中にすべているみたいな話で、さらに小アルカナ的にいえば、それらが4つのシチュエーションや性質、10の段階などにも分かれるという感じです。これもすべて自分の中にあるものです。

タロットを知れば、少なくとも78枚(の象徴)の自分がいることがわかります。

ペルソナ、仮面というものがあり、ここからパーソナリティと言葉も出るように、私たちは全員、いつもペルソナでいるようなものです。本当の自分は仮面をはがした者ではなく、仮面全部を統合した者と言ったほうがいいかもしれません。

会社にいる自分、家庭にいる自分、友人といる自分、パートナーといる自分、趣味の時間にいる自分・・・たぶん、皆さん、それぞれの顔や態度は微妙に違うでしょう。解離性同一性障害(多重人格)ほどではないにしても、普通の人にも、いろいろな自分がいるのは確かなのです。

(演技や功利的な意味で)わざとやっている人もいるでしょうが、大半の人は自然に相手や状況に応じて、それにふさわしいと思う自分が出ています。

そもそも劇や映画などで演技が成り立つのも、演技者(人間)の中で、そういう人格を一時的にも形成できるからで、もちろんそれは演技者本人とは別人ですが、演じることができるのは、その性質を持つからと言えます。

だから、誰れしも、悪人にも善人にも、ヒーローにもヒロインにもなれる気質があるということです。

現実には、様々な条件やカルマ等もあり、すべての人格を思い通りに出せて、なれるわけでありませんが、人とはそういうもの(あらゆる人格の可能性を持つ者)だと思うと、自分探しというものが無意味であることがわかってくるでしょう。

あえて言うのならば、この(その)時代に生きることの意味や、生き甲斐を思える自分というものを作り上げることが「自分探し」と言えるかもしれません。

探すのではなく、作り上げるのですから、選択も創造も可能なのです。

性格や経験というベースがあるので、まったく新しい人物を創造することはなかなか難しいですが、結局、自分の生きる価値・生き甲斐ができれば、それは自分らしさとか、自分の個性とかになってきますので、自分探しは、自分なりの生き甲斐、この生(せい)のある人生に自分価値が持てるかにかかっているというわけです。

ですから、死ぬ前なら、いつでも間に合うわけで、この意味において、自分探しに遅いはないのです。

この人に出会えたことが良かったとか、この仕事ができて良かった、このチームに入れて良かった、この動物を飼って良かった、ここに来られて良かった・・・こういう瞬間や状況でも、自分の生き甲斐を感じることができれば、その時の自分は自分を探せていると言ってもよいです。

ということは、「自分探し」で見つけようとしている自分は、自分単独だけの存在(自分ひとりで見つけたり、見つかったりするもの)ではなく、相手や状況など、自分以外のものとの、相対的・関係的な形としての「自分」でもあるのです。

本当の自分とは、全体(世界)とのトータルな自分と、自分単独と思っている自分の両方の接点にあるものだと言っています。

自分らしさにこだわっても、それは本来の自分ではないのですから、あまり悩まなくてもよいです。

逆に、この現実世界では、自分らしさは、抑圧される自分が調整されている(規範性・社会性と、自我・エゴ性の自分がうまい具合に調和しているか、バランスが取れている)自分であり、他者との違いをペルソナ的に持ち、それが生き甲斐になっている自分なので、それはそれで、追求していく(その意味で自分探しをする)のは、現実を生きる意味ではよい(生きる意味を現実に見出す)ことだと思います。


ふたつの悪魔

マルセイユタロットの「悪魔」のカードは、読みにくい(意味が分かりにくい)カードかもしれません。

特に、タロットカードに吉凶判断や、いい・悪いをあてはめて解釈する人には、「悪魔」という名前と、一般的な感覚からして、なかなかフラット(中立)に見たり、ポジティブに読んだりすることはできないでしょう。

これは「名前のない13番」のカードにも言え、こちらのほうは、絵柄の印象がネガティブなものを想起させる感じです。

一方、「悪魔」は、上述の通り、悪魔という一般イメージそのものが、このカードに、いわば、悪いもの、悪意のようなものを見てしまうからネガティブになりやすいと言えます。でも、「悪魔」の絵柄自体は、13よりも強烈ではなく、むしろ愛嬌があるくらいではあります。(笑)

とはいえ、「悪魔」のカードが何を表しているのか、やはり悪魔だけあり、このカードはなかなか一筋縄ではいかないものがあります。

「悪魔」に、ネガティブなイメージが一般的にあるのは当然ですから、無理矢理ポジティブに読もうとせず、そのまま悪い印象を受け入れて見ることで、理解を深めることができることを紹介いたします。

さて、皆さんは悪魔(カードの「悪魔」ではなく、悪魔という言葉)にはどんなイメージがあるでしょうか。

人をそそのかし、悪いことをさせる存在、欲望を焚きつけ、堕落させる存在。犯罪や戦争など、人類のネガティブなものを操作する存在・・・いろいろ一般的にはありますね。

結局、一言でいえば、悪いことと結びつく存在です。

ところで、悪いというのは、逆に、よいこと、正義という概念があってのことです。正義と悪という対比でよくされます。

面白いことに、「7」という霊的成長の段階を示すと言われる数をもとにした場合、マルセイユタロットでは、「正義」が8で、これの7段階あとが15の「悪魔」となっています。ちなみに、「正義」の7段階前は1の「手品師」で、大アルカナの数では、「愚者」を除いて最初の数のカードになります。

タロットカードは、人類全体としての象徴の型を示すと同時に、それゆえ、個人一人ひとりの心理構造のような、見えない世界をも象徴します

そこで、「正義」と「悪」というものを個人の中に見た場合、これは誰しも持っている価値観のようなもの、信念体系になっているものと言えます。

全員、自分の中において、「正しいこと」と、それに対比される「悪いこと」の区別・考えがあるはずです。(これは、逆もそうで、悪いと思うものがあるから、いいもの、正義と思うものもあることになります)

ただし、一人ひとり個人で見た場合、その区別や線引きは、まったく同じ人がいないのも確かでしょう。すなわち、悪魔は(正義も)誰しも同じでないのです。

あなたの心の悪魔と、相手の心の悪魔は別なのです。しかしながら「悪魔」としては共通しています。

一人ひとりの中に住む悪魔、これはあなたが思っている「悪」というものの概念(というより観念や信念に近い)の権化と言えます。

さきほど言ったように、悪は正義と一対のものになりますから、あなたの正しさ、よいと思うものも、あなたの中に同時に住んでいます。ただ、マルセイユタロットの数的な象徴性から言えば、むしろ、悪(悪魔)が正しさを規定していると言ってもよいのかもしれません。

従って、あなたの悪魔が非常に(あなたの考え方や行動を規定するものとして)大事になるのです。

悪魔はあなたの中の正しさの裏返しであり、正しくあろうとするものに対して、反抗やレジタンスを担う存在でもあります。

あなたがあなたの価値観で正しくあろうとすればするほど、または正しいと判断(ジャッジ)すればするほど、反対の振り落とされた悪いもの、「悪」は、あなたの中に潜在的に蓄積されていきます。

本来、あなたの線引き・価値観を取り除けば、判断される物事というものは中立で、よいも悪いもありません。別の人からすれば、そのことは、あなたの反対のことと判断されるかもしれないものです。

ということは、本質的には中立で、どちらでもない(どちらでもある)ものが、白黒のように分けられると、元のひとつに戻ろうとする働きも起こるのではないかと予想されます。

あなたが切り分けた悪と正義も、ひとつのどちらでもないものに結合しようと、いつかは動くのかもしれず、その時、かつてふるい落とされた「悪」側のほうは、その存在を主張するために、何らかの形で現れる(アピールされる)ことになるでしょう。

物語風に言えば、魔王の復活であり、正義に対して、戦いを挑んでくるみたいな話です。

勧善懲悪のストーリーでは、悪(魔王)は正義(の味方)に返り討ちにあい、めでたしめでたしとなるのかもしれませんが、そんな単純な話ではスカッとするだけで、話や人間性に深みがないのは、ご承知の通りです。

むしろ、悪が一時的に正義を支配し、時には今まで正義と思っていたものが悪で、悪にも理由があり、見方によっては正義にもなり得、さらには正義と悪が統合されて、新しい考え・境地・世界に至るというほうが、物語的にも面白いです。

悪魔を中心として見ると、あなたか悪いと思って避けていたもの、見下していたもの、あるいは、本当は魅力を感じたり、そこに大きなエネルギーを見たりしていて、しかし、それに引き込まれるおそれ(強大なので翻弄される危険性があること)によって、あえて拒否していたもの「悪魔」にあるのです。

正しいと今まで信じてきた世界に自分を押し込めてはいたものの、次第に狭い世界に自分がいることに気が付いてきて、悪魔の呼びかけが起こっていることに悩みながらも、殻を破ろうという力が出できます。

だいたいにおいて、自分にとって正しいと言われている世界は、誰かから押し付けられた信念・ルールであることか多く、それは依存幻想でもあるのです。

「悪魔」自体、依存性や幻想世界への囚われを象徴するカードですが、逆に、私たちが誰かからの「正義」によって、悪魔につながれたことと同じようにされている(している)場合もあるのです。

その意味においては、「悪魔」は解放者となります。

要するに、「悪魔」は、あなたの正しくあろうとするものの破壊者であり、救済者でもあるのです。

そのレジンタンス性は、正しさの世界ではテロリストみたいなものにも見られるかもしれませんが、あなたの信じる狭い正義のために、あなたが窮屈になって、自由と自立心を失っている状態へ、強烈なカウンターとして、悪魔があなたを救いにやってきているのです。

その時は、あなた自身が悪魔になります。

それまでは、あなたの中に、別の悪魔がいるかもしれません。それはある面では、あなたを支配する存在で、もしかするとあなたのあこがれであったり、あなたに強い影響を公私ともに及ぼしている実際の人、あるいは体制とか組織かもしれません。

その「悪魔」は、あなたを保護してくれますが、あなたを利用しているか、あなた自身がその人に支配されたり、依存していたりすることも考えられます。

それでも、居心地はよく、あなたも正しい世界、安心できる世界にいると思っているでしょう。

もし、どこか今の世界に疑いを持ってきたり、今まであこがれていた人、安心だと思っていた状態に対して、何かしら疑念のような変化の心が出て来たりしたのなら、あなたの中にある「悪魔」が存在を主張し始めたのかもしれません。

こうして、ふたつの「悪魔」によって、あたたは成長していくのです。


選び、選ばれる存在 生きる価値

私たちは本来、何者でもないのだと思います。

これは色で言えば、色がない、ある特定の色ではないという意味に近いです。

つまりは、個性がないということです。しかし、それはまったく何もないという「無」の状態ではなく、限定した個ではないという意味で、言い換えれば「すべてある」「すべての個が含まれる」というものです。

要するに、「すべて」だから「ひとつの限定した者」や、何か「特定なものである」と言うことができないのです。それが「何者でもない」という意味です。

しかしながら、現実世界で生きると、個性を誰しもが持つことになります。そもそも肉体としての姿かたちが、もうすでに個性(一人ひとり違うもの)ですから、当然です。

従って、現実世界では、「私は何者なのか?」ということが、まさにこだわりを持って追求され、語られます。それ(個性)こそがひとりの人生と言ってもいいかもしれません。

人と違う人生を生きている、私は私であるという実感を強く持てれば、その人(の人生)は充実するのですが、皮肉なことに、人との違いは競争や比較をもって見られることが多いですから、優劣、持てる・持てない(モノや人気)などの感情を持つことも普通になります。

そして、それにより、自分が他者より劣っていると感じたり、無個性(強い個性をいい意味で自覚できない、持てない)を感じ、自分の人生がつまらないもの、取るに足らないものに思ってしまうきらいもあります。

強い個性のためには、人と違わなければならないわけで、多くの場合は、それはポジティブな賞賛を勝ち取ることで得ようとしますが、中にはネガティブな評価や見方をされることよって、それ(個性)を得ていく人もいます。

後者では、犯罪などの潜在的要因になっていることもあるのではないかと思います。

さらに、日本では、むしろ個性を出すことより、皆と同じでいることが無意識のうちに強要されるような社会でしたので、その矛盾性はねじれとなって、深層心理に根付いているのではないかと思います。精神を病む人が多くなるのも当然かと思います。

それでも、時代が進むにつれ、自分から発信することが容易になってきましたので、個性を出すことが、昔よりかは機会もツールも多くなったと思います。それによって、個性を出したくても出せない人や、個性がないと思っていた人が、今は生き生きとしている場合も増えました。

その反面、個性を認めてくれという承認欲求的なものも過度に膨れあがり、個性の表現と承認の応酬が激しく繰り返されている状況でもあります。

もちろん、そうしたもの(応酬パターン)に入らず、淡々と生きている人もいるでしょう。ただ、個性を出しやすくなった分、そんな中でも自分の個性を表現できない、他者から個として強く意識されないというのは、以前よりも深刻になり、自分の価値を小さく感じている人も、かなり多いのではないかと推測しています。

先ほども述べたように、この現実世界では、いかに自分に個性があり、人と違った「自分(他者と違う自分という存在)らしい人生」が過ごせるかによって、充実度が決まると言ってもよいので、自分の価値(個性としての)がないと思えば思うほど、自分の人生の意味は薄く、生きている実感も弱くなります。

セラピーなどでは、自己の価値を高めること、自尊の大切さが謳われますが、それは確かにそうではあるものの、こういう個性こそが現実みたいな世界のシステムの中では、自己の無価値観、空虚さが出やすくなるのも、致し方ないところがあると思います。

まあ、逆にいえば、だからこそ、自尊ができる、自己の価値を取り戻せるセラピーというものが、普通の人にとっても大事になりますから、生きづらさ、空しさを感じている人は、自分の価値を高めるためのセラピーや心理療法を受けるのはよいことだと思います。

そして、セラピストや人の相談をしている方は、その個人の悩みや問題を解消するだけではなく、実は、そうした人々へ自分自身の存在価値を高める仕事をしているのだと自覚することも重要です。

これは私の考えですが、個人の特定の問題や悩みも、その人の個性を訴えているものであり、言ってみれば、「私はここにいる」「私は生きている」「私は無視される存在ではない」「私はよく生きたい」というものの現れでもあると思っています。ですから、その訴えを解決するのももちろん重要な目的ですが、何よりも話を聞くことが大切なのです。

 

さて、もうひとつ、こういう現実のシステムの中で、少しは楽になる方法があります。

それはマルセイユタロットでは、「恋人」カードが示すものです。

このカードでは、三人の人物がいて、真ん中の人が、どちらかの女性を選ぼうとしているように見えます。

このことから、「選択」というキーワードも出るのですが、これが私たちの人生を形作っていると言えます。すなわち、私たちは、毎日、一瞬一瞬、あることを選択しながら生きているわけで、特に人間関係の、選び・選ばれで、自分の人生の色合い(彩)が決まるようなものと言ってもよいでしょう。

私たちは、生まれるのも親のもと(親たち自身の選択)からですし、誕生以降、関わる人によって、自分の存在も決められてきます。もちろん、自分の意志はありますが、まったく人に無関心、関わりなく生きられる人は、特に現在では皆無と言っていいでしょう。

そして、これまで述べて来た、個性が人生という(他者評価と自己評価が結びつくシステムの)意味においては、選ばれる・選ばれないとう視点が出てきます。

つまり、選ばれる自分こそが優れている、よいことだと思うようになるわけです。たとえ自分が選ぶのだとしても、相手がそれ(選ばれたこと)を受け入れないと双方向にはなりませんので、結局それは、相手から選ばれるかどうかという意味にもなるわけです。

こうして、自動的に、私たちは、選ばれるという意識を強く持つようになってしまいます。しかし、当然ながら、選ばれることがすべて自分の希望通りには行かないのが現実でもあります。むしろ、自分が選ばれることのほうが少ないと言えます。そのため、自分から選ばれるように、アピールする人もいるわけですが・・・

この仕組みを理解したうえで、「恋人」カードの上部に描かれている天使(キューピッド)を思います。この位置は、三人の人間たちとは違い、俯瞰した視点になります。言ってみれば、選ばれる・選ばれないの次元ではないのです。

この天使的視点を持つと、一番最初に書いた「私たちは何者でもない(裏を返せばすべてである)」という状態を思い起こすことができます。

天使目線になると、選ばれる・選ばれない、選ぶ・選ばないという人間たちの行為が、言い方は軽いものになってしまいますが、一種のゲームのように見えて来るのです。

選ばれることが大事ではなく、関係性そのものが自分の色をつけ、さらには色を変えていることがわかってきます。個性は色付けもされ、脱色もされ、さらに塗り替えもされるのです。

「何者でもない」のは、実はもう「何者でもある」ということと同意義であるのだと気づいてきます。

あとは、この理不尽とも皮肉ともいえる現実システムの中で、いかにゲームを楽しむか、味わうかになります。

否応なく、ゲームの世界に来ているのですから、イベントに参加しているのに、自分は無視を決め込むというようにしていても、もったいないと言いますか、それではますます空しくなるばかりです。

天使の視点を持つということは、傍観者になれと言っているのではないのです。ゲームに放り込まれたら(あるいは進んで参加したのなら)、ゲーム設定の世界を味わうしかない、それ(ゲーム)をしたほうが面白く過ごせるのは必然だということです。

ただし、もうひとつ道があります。ゲームであると知ったのなら、ゲームをするのではなく、ゲームの仕組みを解き明かす、ゲーム世界からの脱出(可能かどうかはわかりません、通常は死をもって一時離脱となりますが)を目指すのも、ひとつの楽しみ方(笑)でしょう。

話を戻しますが、結局、個性というものは、この現実世界においての特徴的システムであり、それは仮のものでもありつつ、人間関係のつけ方によって、結構可変的に組み替えることができるのだと思えば、個性を他者からの評価によってもらうループ地獄に、はまり過ぎることは少なくなるでしょう。

心理学的、あるいは霊的に言えば、セルフアイデンティティ(自意識)は、他者評価がすべてではないということであり、もうひとつ、「別意識」によってもセルフアイデンティティは構築されていることに気づくという点です。

その別意識とは、「恋人」カードでは、天使に描かれている領域であり、他者視点ではない世界、つまり、自分の奥(本当の自己)の世界、霊的な空間といってもいいものです

古代や伝統的な社会では、それは神聖なものと呼ばれるものでした。従って、昔の人は、聖域や神聖な場所を、日常と並行して持っていたのです。

こうしたところにつながる機会を持つことで、私たちは他者目線の世界で自分が評価されるオンリーの仕組みから、逃れていたと言えます。いわば、自分で自分を評価する世界観です。(高次の自己が、低次の自我を統合していく瞬間)

すると、生きていることと生かされていることの両方の感覚が出てきます。

また、現実世界においても、選ばれることで誰しもが自分の評価を得ているのなら、あなたが誰かをよい意味で選ぶことで、その人が個性を自覚し、生きる実感を増す(自己価値を増す)ことかてぎます。しかし、現実的・物質的価値に傾きすぎた打算的な選び方では、それは脆いものとなるおそれがあります。

「恋人」カードの天使の矢のように、天使的な、いわば愛の視点で相手を選ぶと、それは強い絆となり、相手にとっても自分にとっても強い個性をもたらすことになるでしょう。

何者でもなかった者が、相手にとってかけがえのない確かな存在、愛する人、愛される人となるのです。色がなかった人に、生き生きとした色がつくようなものです。それはよく例えられるように「バラ色」と言えるかもしれません。

恋をすると世界がカラーになり、生き生きとするのには、そうした理由があるとも考えられます。

他者から求められ、評価される世界の喜びも味わいつつ、それがたとえ少ないものであったとしても、天使目線でいると、人や社会との関係性そのものが自分の個性を作っていると見えてきて、その選択のゲーム性を楽しむことができるでしょう。


生と死の世界の考察 救済システム

マルセイユタロットを見ていると思います。

平板(停止のような)な世界と波(動き)のある世界があるのだと。

これは言わば、死後の世界と生きている世界の関係なのかもしれません。

ただ、おそらく、どちらにあっても、動きのある状態とない状態というのは、それぞれの世界なりにあり、しかしながら全体的に見れば、やはり現実の「ライブの世界」のほうが流動的で変化が多いのは想像できます。(死後の世界があるという前提ではありますが)

聞いた話によりますと、死後の世界は本来穏やかで、あまり変化のない世界と言われていますが、生きていた時代に強く執着したり、死を受け入れられなかったりすれば、ほとんど生きている時と同じような状態の世界に住むとの話があります。

これは自分で(カルマ浄化のために必要な)世界を仮想的に作り出す場合と、現実の世界に彷徨う場合とがあると言います。

言い換えればそれは、本当に行くべきところ(例えると成仏したあとの世界)に行っておらず、何かしら別のところに留まってしまっている状態と考えられます。

この留まりの世界は、先述したように、自分が作り出す仮想的な狭間の世界の場合と、そこにすら行けず(創れず)、現実世界のままに死を自覚できなくて、あるいは自覚していても強い執着があって、いわゆる地縛霊・浮遊霊として留まってしまうのでしょう。

どちらにしても「霊体」として存在し、生身の体はなくなってしまうわけですから、特に物質的実感を得ることが困難になると思われます。ただし、自らが作る仮想空間に留まっている場合は、すべてがバーチャルなので、実感に近い感覚はあるかもしれません。

現実空間にいる霊体が、もし執着望みが物質的な実感を伴なわなければならないものであるのなら、それを味わうことができなくなるので、満たされることはできず、飢餓感ばかりが感じられますから、それは地獄と言っていいのかもしれません。

物質的な感覚だけではなく、感情や気持ち的なことでも、生きている人の世界、つまり現実の人に自分の存在や思いは伝えようがないので(特別な方法はあるのでしょうが)、これも苦しいままになるのではないかと思います。

あえて科学的に考えれば、死後は生きている時の存在状態から変化するのだと想像され、分子・原子とか素粒子レベルで見ていくと、すべてのものは同じながら、振動状態などの違いにより、固体で三次元感覚(表現)中心の現実世界では、霊体のような状態になると、固体と気体の違いのようなもので、まさに表現世界も違って、生きている時の感覚とは異なってくるのは当然だと思えます。

結局、自分の状態を真に認識する、理解することが、成仏の近道なのかもしれません。しかし、現実に生きている時の私たちもそうですが、案外、自分の過ちと言いますか、誤認、思い込みを正したり、解除したりするのは、難しいことです。ましてや、世界・状態が違うとなおさらでしょう。

現実世界では他人が固体として実在する感覚がありますから、他者からの影響、働きかけ、交流で、思い込みを解くことが可能です。

ところが、霊体になってしまうと、他の霊体も存在するでしょうが、より現実世界より精妙になり、自分と異質なものは見えないと言いますか、感じられなくなるのではないかと思います。よって、ひどい場合には、自分ひとりしか霊体として存在していない感覚のようになってしまうかもしれません。

誰かにコンタクトを取ろうとしても、状態の異質性によって気づいてもらえず、また誰かからのコンタクトにも気づくことができないおそれが強いです。これもある意味、地獄でしょう。

それでも、例えば日本では先祖供養などあるように、昔の人は、伝統的に、状態の違う存在たちに対してコンタクトできたり、影響を及ぼせたりする方法を知っていた(知らなくても儀式として伝承させていた)と考えられます。

ほかに、現実世界でも、霊体の世界を認識できる(つなげられる)特殊な能力者もいますので、そうした人の手を借りる場合もあるでしょうし、生身の人間本人が自覚なくても、心霊的に波長が合う人には、霊体側から憑くなどして(そういう人は霊体側からすれば、存在を感じ取れるのだと思います)、コンタクトしようと試みることもあるのかもしれません。

さて、現実世界に留まらざるを得ない霊体とは別に、成仏の前に、自分でこだわりをなくすための仕掛けを作り、そこで自己浄化を果たすこともあるのではないかと書きました。現実と成仏世界との間に、自分のカルマに応じた別種の世界を創造するようなことです。

これは人によって異なりますから、まさに、千差万別、それぞれの世界が生み出されていると言えましょう。

中には、自分の理想や願望を満たすための現実と変わらない世界を創ることもあるでしょうし、自らの苦悩、後悔などがあって、それが浄化されていない場合は、その設定を再現する世界を創造するかもしれません。天国のような世界とも言えますし、反対に地獄のような、その人自身しか経験しない不思議なバーチャル世界と言えます、

それでもこれは疑似(バーチャル)世界なので、自分の目的が達成されて、疑似であることに気づけば、成仏空間へ昇天していくのだと考えられます。ですから、この疑似的な創造空間は、それまでの、一種のモラトリアム空間(世界)と言えます。

このようなものが本当にあるのかどうかはわかりません。本で読んだり、人から話を聞いたりしてイメージしたものです。

また、創作の世界、特にアニメには、このモラトリアムの世界を描ているものが少なくなく(例えば「Angel Beats!」など)、もしかすると、そうした世界の記憶やシステムを、イメージの世界から情報として受け取っているのかもしれず、創作物に接していると、実在性を感じることもあります。

ここで最初の話に戻りますが、固定された状態というのは、このように地獄(人によっては偽物の天国)でもあり、そこに何らかの動き、流動性が生じることで、救済の可能性が出てくるということです。

いわば、違い(同じことが続く中でのイレギュラー)が救いを呼ぶのです。ところが、矛盾するような話ですが、異質(違い)過ぎると、そもそもコンタクトや交流ができず、存在さえ認識することができなくなるのです。

従って、救いのためには、何らかの形で異質なもの同士を同調させる仕組みが必要となります。(マルセイユタロットでは「節制」の象徴性)

言ってみれば、携帯電話を通して別の場所にいる者同士を会話させたり、翻訳機(通訳者)を通じて、違う言語同士を訳したりするみたいな話です。または、見えないものを形にする工夫、例えば絵にしたり、音にしたりするようなこととも言えましょうか。

生の世界と死の世界、生からすると死んだら終わりと思われがちですが、ふたつの世界をシステム的に思えば、両方の世界の必然性も見えてきます。

そのひとつが、今述べた、救済のシステムです。(成長のシステムと言い換えてもいいです)

生の世界、つまり生きている現実の世界は、常に流動する変化の世界で、逆に、死後の世界は、モラトリアムであれ、成仏的な世界であれ、どちらかと言えば、本質的には同じ世界、固定された世界と言えます。

一見、現実世界のほうが残酷に見えますが、もし、死後、ある状態で変化もなく、延々と同じことが繰り返されるのならば、「涼宮ハルヒの憂鬱、エンドレスエイト」の世界ではありませんが(アニメネタばかりで恐縮です・・・)、非常に退屈で、人によっては地獄になります。(繰り返しが平穏であれば、人によっては天国でもあると言えますが、ずっと続くと飽きてしまうでしょう)

その状態に救いをもたらすのは、ライブの世界、変化のある現実です。だからこそ、私たちは輪廻転生するのかもしれません。

逆に、変化や動きが多すぎても疲れてしまいます。ドキドキワクワクは楽しいかもしれませんが、悪く言えば、ハラハラの意味でのドキドキもあり(笑)、現実世界はなかなか気が休まることがありません。この世は生き地獄という人もいるかもしれず、生老病死、苦しみはつきものです。

そこで、死、死後の世界という固定的な世界に移行することで、私たちはひとときの平穏や浄化を経験します。そうして準備ができれば、あるいは退屈すれば(笑)、また現実の生の世界へと旅立つのでしょう。

これは、まるで、タロットで言えば、「愚者」の旅をしているようなものです。

マルセイユタロットでは、「愚者」が私たち自身を象徴し、一枚一枚、カードごとに体験の旅をしているという考え方があります。よく見ると、カードもまさにいろいろ、同じものがなく、これらの象徴を体験することは、変化そのものと言えます。

ただ、そうしたいろいろなカードたちではあっても、ある性質に分類することができます。それが大きくはふたつになります。

すると、ここでも、固定と流動、穏やかさと激しさ、光と影のような、二種の経験があり、旅が円滑に進むよう、活動と休息が交互にやってくるよう、設定されているように見えます。

さきほど、生と死の世界で、救済や成長のシステムが行われていると述べましたが、それをタロットに持ってきますと、タロットの描くところ(「愚者」の旅)は、現実世界だけではなく、死後の世界も象徴しているのだと思うことができます。

生と死というシステムの中では、私たちは両方を実際に体験する必要があるのですが、もっと別の、大きな宇宙的進化の視点で見れば、もしかすると、この生と死も統合されて、また新たな状態の二分による成長や救済のシステムに移行していくのではないかと思います。

カルマ的な表現で言えば、人類全体の旧カルマの浄化を終え、新しいもの(新しい形態の人類、存在)に変化する行先です。

もし進化した宇宙人や天使のようなものがいるとすれば、それは、私たちの今までの生と死の状態を超えた存在になっている者ではないかと想像します。

マルセイユタロットも、生と死の世界を描くだけではなく、それを統合した新しい状態を示唆していると考えらます。生と死を超越すれば、それは永遠の世界(命)で、いわば神でもありますが、その神にもレベルや段階はあるのでしょう。

進化的には、固体(肉体)と霊体というふたつの、かなり異質な状態に分かれる私たちの生と死が、半霊半肉みたいになり、やがて素粒子的な本質、つまり霊に戻る(成長)していくのだと考えられます。

とすると、現実の生の世界にいる中でも、霊的な世界、死後的な世界の状態を感じ始めることが増えていくのではないでしょうか。

変化や流動が過剰になって、疲れている人、止まろうとする人も増えるのかもしれません。マルセイユタロットで言えば「吊るし」であり、そのカードが「13」という死や解体、変容を象徴するカードの前にあるのも意味深です。

ダイナミックに動くだけが成長とは限りません、私たちは、一度立ち止まり、自他ともに救済モードに入る必要もあるのだと、今の時代、感じます。


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