ブログ
コメントリーディングの結果から。
先日、イベント企画で、コメントによるリーディングを実施しました。(アメブロのブログのほうです)
16名という比較的たくさんの人数の枠をご用意しましたが、予想以上にすぐ埋まってしまいました。
今回、この企画を行った意図は、もちろんたくさんの人にリーディングをサービスしようという思いもあったのですが、質問はそれぞれ別であっても、出るカードや内容に、何か共通したことが出るのではないかと考えたからです。
そして、その共通するものこそが、今の全体の課題として浮かびあがり、何らかの示唆になるかもしれないと思ったことによります。
さて、展開は一枚引きではありませんので、共通するカードという観点からは、なかなか難しいところがあったのですが、それでも、全体としては、「戦車」のカードが多かった気がします。また「太陽」もよく出たように記憶しています。
さらに言えば、両極端ではあるのですが、剣を持つカードと壺を持つカードも、目立ったように思います。
まず、「戦車」と「太陽」から見ますと、皆さん、実はかなり潜在的な能力があるのに、自信が持てていない気がしました。
「戦車」には、二頭の馬がおり、それをうまく御することで、成功に導かれるという意味にもなるカードです。この二匹の馬には、いろいろな解釈ができるのですが、今回の場合は、自分に眠る(二種の)力というようにとらえられました。
また、車のアクセルとブレーキで例えられるように、その力を暴走させているか、抑圧しているかの違いはあっても、自分の力に気づかず、そのまま出るに任せて放置していたり、わかっていても自信がなくて押さえつけていたりしているかのような感じを抱きました。
一方、「太陽」もふたりの人物がいます。
ここで「戦車」とつなげると、自分の力をコントロールし、うまく出すには、相手から認められるような体験、受容性が必要なのかと想像します。承認欲求的ではあるのですが、それよりも、自分を受け止めてもらえる誰か別の人を欲しているという印象です。
これ(「太陽」の人物)は前の記事にも書いたように、別のもう一人の自分と取ってもいいわけですが、現実の中の個性を持つ一人の人間として見ると、やはり、他者との関係で、認めあえる二人、仲間、パートナーという感覚があります。
その人は、現存しなくても、魂のような関係でもありなのかもしれません。そして、相手から認められるのには、自分も相手を認めていくことが必要です。ただし、支配を受けたり、共依存関係のようなものだったりするのではなく、互いに自立した関係なので、自身の自立、独立、個性の確立が求められます。
つまりは、自分が自分であることの意義を自分で認めるということであり、以前の流行りの言葉で言うのなら、「ありのままの自分」「他者に依拠することのない自分」という存在です。
こうすると、「戦車」の御者として自立し、馬をうまく操縦できるようになり、前進性(成功性や確信性)が高まるでしょう。
シンプルに言えば、自分(我)であることを許可する、赦すということにもなります。
それから剣のカードと壺のカードについてです。
剣は「正義」とか「13」(こらちは鎌で剣とは厳密には違いますが、刃物的なものとして共通します)などにあり、壺は、「節制」とか「星」などのカードに見られます。なお、壺は端的には杯(カップ)、水を象徴するものでもあります。
タロットの小アルカナの特質である「4組」では、剣・杯・杖・玉というものがありますが、これは大アルカナの中にも入っています。
中でも、剣と杯は、正反対の性質ともいえ、剣が男性的なもの、合理・論理・決断的なものを示すのに対し、杯は女性的なもの、感情・赦し・受容的なものを示します。
このバランスが崩れていたり、重視するほうが反対になっていたりするケースが目立ったようにも思います。
おそらく女性の質問者が多かったので、当然、杯的な水の要素が性質としては強いのですが、そのために、場合によっては、剣的なものを恐れていたり、それをふるう(決断する)ことに躊躇していたりするようなところもうかがえました。
また逆に、いつも剣を自分か他人かにふるい、自分(あるいは他者)の杯の容器を壊してしまって、水が溜められなくなっている人もいます。
壊れた容器にいくら愛情や癒しという水を注いでも流れる(漏れる)一方なのです。その流れた水の行方が他人を潤すことになっている場合もあります。(自己犠牲による一時的な満足感)
誰かが何とかしてくれるのではなく、自分が何とかするのであり、何とかできるのです。
しかし、この世知辛く、複雑な世の中、人に頼りたい気持ち、自信のない状態もわかります。
ここで言っていることは、自分ひとりで何でもしてしまいなさいと述べているのではないのです。
人間は弱い存在でもあります。ですから、人の援助や助けを受けてもよいですし、人は一人だけで生きていけるものではありません。
しかし、あなたは本当はもっと力があり、強く大きな存在でもあるのです。自分しか自分を助けることができませんし、また助けることのできる力や智慧があるのです。
弱さを認め、それでいて、自分を大切にし、自分が何とかするという意志を持つことです。助力を得ないといけないものは得て、また、自分ができることで、他人に手を貸せる(与えられる)ものは貸して(与えて)みましょう。(自分なり範囲のことでいいのです)
前世や多次元という概念がたとえあったとしても、この次元でのあなたという個性の瞬間は、今のあなたでしかないのです。自分自身を生きようとすることで、きっと自信や希望も出てくるでしょう。
もうひとつ、よく出ていたカードを思い出しました。それは「愚者」です。
自由をもっとも象徴するカードと言え、まさに人生を旅するカードとも言えます。
皆様にエールを送りたいと思います。
「太陽」のカードに思う二人
マルセイユタロットの「太陽」のカードを見ていて思うことがあります。
私たちは誰に会いに、この世に来ているのか、ということです。
「太陽」のカードには、二人、手を取り合うかのような人物たちが描かれています。
心理的な意味や、スピリチュアル的な意味で見ると、これはもう一人の自分との融合・統合を果たしていると見ることができます。
この「もう一人の自分」というのには、いろいろな考え方があるでしょうが、ともかく、もう一人の統合すべき自分がいるわけですから、それはすなわち、私たちという人間には、見失っているもう一人の自分、あるいは、分裂(分離)した別の自分がいることになります。
詳しくは言いませんが、大アルカナの数の増加ごとに、ある種の成長や完成の段階を示していると取るマルセイユタロットの考え方を入れるとすれば(「太陽」の数19は、21の「世界」のカードという最後のほうに近い)、私たちの多く(完成していない多くの人間たち)は、本当の自分でははなく、片割れ、半分の自分で生きていることになります。
ですから、マルセイユタロット的に言えば、最初の問いに答えるとすれば、それは「もう一人の自分に会いに来た、探しに来た」と言ってもいいのかもしれません。
または、もともと分離していない状態であるものの、この現実の世界で生まれると同時に、意識・認識において割かれた(分かれた)ようになっていると言うこともできます。
ですから、実は、もう一人の自分を探しにこの世に来ているのではなく、あえてもう一人を置いて来て(あの世に置いて来ているのか、この世のどこかに隠されているのかわかりませんが)、「半自分」のままの経験をするのが目的という可能性もあります。
いや、これ(体験すること)を目的とするのか、忘却させられている仕組みに囚われている(体験ではなく堕落であり、真の気づきに回復していくことが目的)と見るのかで、また世界観も変わるでしょう。
実はグノーシス(自身の中に神性や完全性の認識していく)思想は、後者の考え方に立っています。ただ、グノーシスを深く見ていくと、前者・後者どちらでもあるということも感じてきますが。
さて、ここで、観点を変えまして、「太陽」の二人を片方を、もう一人の自分ではなく、すごく親しい人(親しくなる人)、自分にとって特別な出会いと関係の人と見てみるとどうでしょうか。
そうしますと、具体的には、家族やパートナーということもあるかもしれませんし、人生で一番印象の残る特別感のある恋人、あるいは、まさに親友と呼べる人ということもあるでしょう。
ロマンチックに言えば、ソウルメイトとか魂の伴侶、ツインソウルの一人という人もいるかもしれません。
いずれにしても、それはこの世界では、たとえ自分の分身のように感じてはいても、自分とは別の人間、「他人」として現れる人です。だから、その人なりの個性を持ち、自分とまったく同じというわけではありません。性別が違ったり、年齢が違ったり、性格や好み、そして当然ながら両親や育ってきた環境も違うはずです。
それでも、自分の人生において特別な人だと感じ、唯一(ではないかもしれませんが、それくらいの感覚)の人と思える、何か引きつけ合うもの、関係性を持っています。
それを一言で「縁」と言ってしまえばそれまででしょうが、そこにはほかの人とは違う、何かスペシャリティーがあるわけです。
ということは、出会いの縁はまったくの偶然ではなく、この世で、その人に会うために来ているということも考えられなくはないです。
※逆(相手も自分に会うために来たということ)もまたしかりのようですが、そうとも言い切れません。相手側がどう思うのかは、また別の話でもあるからです。まあしかし、たいていの場合は、相手側もそう感じることでしょう。
だからと言って、全員がそういう相手に出会う(出会える)ということではないようにも思います。もし、輪廻転生説を取り入れるとするならば、今生では、そういう選択のない人生なのかもしれないからです。
そして、そのような特別な相手と出会う人生というのは、それ相応の意味があると見て、相手や関係性からの学びが必ずあるのだと考えることができます。
それは甘美な思いだけではないでしょう。あまりにも特別であるだけに、もしかすると、別れたり、誤解があったり、争いがもし二人の間に生じたりすれば、それだけショックも大きいことになります。
つまり、分離と統合の感覚が、このような特別な関係においては、強烈な体験となって現れるということです。
それに耐えられるかどうかも試されるでしょうし、俯瞰してこうした関係性からの学びを見ると、結局、「太陽」のカードのテーマに見える「統合」を、自分自身に深く認識させるためのものである気がします。
この統合というのは、相手との統合だけを意味するのではなく、全体との統合、つまりは宇宙への回帰、一体感のようなものも示します。
愛しい人、特別に親しい人との共有体験は至福でしょうが、逆に分離、別れ、喪失はものすごい苦しみでもあります。だからこそ、最終的には、その愛しい人(のみ)を超えて、人類全体の統合へと、自己の(統合的)境地は行き着いていくのではないかと思います。
もちろん、それには並大抵のことでは難しいかもしれませんが。
一方で、幸いにして、愛しい人と別れずに済む人は、個性の違う二人が共有し合う愛の響きを、ほかの人に与えていく、シェアしていく役割があるのかもしれません。
人は死ぬと魂になり、亡くなってしまった人や別れた人でも、魂レベルで再会することができるという説があります。ただ、その時に現世での個性を持ったままかどうかはわかりません。
ところで、アニメーションで「伝説巨神イデオン」という、それこそ伝説級の(笑)アニメがあります。あのガンダムの富野氏の手によるものです。
このアニメでは、もともと同種であった人間が、異星人同士になって争い、また同じ星同士の人間でもいがみ合い、憎悪と争いを起こしてしまうという悲惨な話なのですが、最終的には巨大なある力で何もかも滅ぼされ、皆、魂だけの存在になった時、本当に分かり合えるという(救い、救済の)描写があります。
私は、このようなことが「死」とともにあるのではないかと感じます。
ましてや、生前、交流し、愛し合った者同士(それは恋人だけの話ではなく家族や友人の愛など、様々なものを指します)ならば、もっと確実ではないでしょうか。(死後分かり合える、出会える)
ですから、特別に親しい(愛しい)関係になる人と出会えることを、この世での喜びとして深く味わい、またたとえ何かのことで別離してしてしまうようなことがあっても、きっと別の世(死後の世界や、別の次元の世界)で、もっとわかりあえる形で再会できるかもしれませんので、そちらの喜びも待っていると思うと、「太陽」のカードに感謝や、二重の歓喜のような、不思議な感じを覚えるのではないかと思います。
そして、その特別な人は、やはりあなたを救いに来ているわけで、最終的には、もう一人の自分の別の姿だったと気づくのかもしれません。
出会いは嬉しく、別れはつらいものですが、この世とあの世、この次元の世界と別の次元の世界を想定すると、こちらの世界では分離していることが普通で、両方の世界でもって初めて、統合・完全になるのがわかり、この世での親しい人との関係を通して、現実感覚や肉体次元を超える時、もうひとつの世界に架け橋する可能性を見ることができるのだと思います。
そのことが霊性回復にもつながり、月並みな言葉ですが、愛は世界(自分)を救うという意味合いになってくるものと考えられます。
純粋に自分の中にいる、もう一人の自分を探す旅をしてもよいですし、自分とは違う人であっても、「太陽」のような感覚を持てる人を見つけ、親しく関係していくことで、スピリチュアルな意味で自己を回復することができるかもしれませんので、その時その時、それぞれの人生において、自分に合った道を選択するとよいのではないかと思います。
極端な二元リーディングの世界
タロットカードの読み方で、一番シンプルに読めるのは、極端な二元性で見る方法でしょう。
簡単に言えば、よい意味と悪い意味を分けて読むこと、吉凶判断みたいなやり方です。
これをカードの正逆というポジジョンであてはめるか、カードごとにいいカード、悪いカードみたいに区分けするかによりますが、いずれにしても、正反対の意味をカードにあてがうことで、読みとしてはとても簡単に行うことができます。
もし一日でタロット占い師(プロというのではなく、あくまで雰囲気みたいなことですが(笑))になろうとすれば、上述の、いい・悪いの意味をカードごとに決めるか、正逆で正反対の意味(正立はそのカードのよいこと、逆位置は悪いことみたいなもの)を決めて、それを暗記すれば、占えることはできると思います。
78枚を暗記するのが大変であれば、大アルカナの22枚でも大まかには可能でしょうし、それが、とにかく占えるようにしたいというのなら早道になると思います。
こうした、極端な二元性をカードに意味づけすると、確かに物事の良し悪し、それをしてよいかどうかとか、可能性があるのかないのか、吉なのか凶なのかという、当然ながら二元価値観での判断もスピィーディーに行うことができます。
しかしながら、あえてギャグのように言いますが、それだと、コインの表裏や、エンピツころがし、靴飛ばしの表裏などでも、二元、つまりいい・悪いは占えることになります。
結局、占う道具に信頼性や何か神秘性、超越性を持たせることで、そのいい・悪い判断に、特別なリアルな感覚が得られるかどうかにかかっているように思います。
ということは、使う道具と自分との間に信頼感や親近感、特別感があったほうがいいわけです。
タロットが占いの道具によく使われる理由のひとつとしては、こうした特別感や神秘性をカードに持ちやすく、さらに自分(占い師)の手の中で扱える道具であり、カード自体、そこそこの数と絵の種類があって、単純さと複雑さの絶妙なバランスにあるからだと推測されます。(人は単純すぎても、また複雑すぎても、リアルさを感じないものです)
さて、こうしていいか悪いかをカードに意味づけて、占っていくことで、さらにそれが実際の占いデータとして蓄積されて来ますと、今度は「占い」の逆転現象が起きるようになります。
最初は、カードを引いてその意味よって、事柄(問いについて)のいい・悪いみたいなことを判断していたものが、次第に、このカードがこのように出たので、こういうことが起きるはずというように、事件や事柄をカードが引き寄せるかのようになっていくのです。
言わば、「ある事柄→カードの意味合い」の方向性が逆転し、「カードの意味→その意味合いの事柄の発生」というものになるわけです。
※(ただし、これはよく考えると、観点の違いだけであり、どちらも本質的には同じなのですが、なかなかわからないかもしれません)
こうして当たる占い(師)というものができあがっていくことがあります。(当たる占い師は、こうしたことだけではなく、よく言われる霊感のようなもの、特殊能力によって、ある種の見えない情報を取得できる場合があります)
こうなってきますと、占いをしているのか、自分(占い師)が現象を引き起こしているのか、よくわからなくなってきます。
「現象を引き起こしている」とした場合、よいことを示唆すれば、それが引き起こされるわけですから、もしかすると、それこそ、とても「よいこと」なのかもしれません。
しかし、カードを二元的に読んでいる場合、当然、悪いことの意味のカードも出ることがあるわけですから、その意味を告げるとすれば、カードが現象を引き起こしている場合には、悪いことをその人に起こしてしまう事態にもなりかねません。
たとえ、「こういう悪いカード出ましたので、注意してください、そうすれば大丈夫です」と言った場合でも、人は表面的な言葉の意味よりも、感情的なもの、潜在意識に強く残るものなどのほうに本当の意味でリアリティを感じますから、もし、言われたことやカードの絵柄を見て、強い恐怖や不安を覚え、悪いことが起こるということだけが印象的に残っていれば、そのほうの実現性が高くなるおそれもあります。
少なくとも、自分に嫌なこと、悪いことが起きれば、普段は何とも思わなかったものが、占い結果と関連づけてしまうこともあり得ます。
とは言っても、人の悩みは現実世界において、二元で分離されたものの、どちらがいいか悪いかなどの選択のことが多くなりますから、その判定を占いに求めるのもわかりますし、占い師としても適切な現実的(功利的)アドバイスを与えられる能力と、営業のためには、いいか悪いか、吉凶的判断の即決を求められ、それを実施していくのも当然としなければならない事情もあるでしょう。極論すれば、それが現場の占い師の重要な仕事だと言えるかもしれません。
生身の人である限り、いいか悪いかの現実的価値の判断をする、このレベルの占い・アドバイスは必要でしょう。
しかしながら、人は肉体・物質レベルだけで生きているのではありません。
こちらのほうが稼げると言っても、あちらのほうがやりがいがあって、自分らしく生きられるとなれば、あえて後者の選択をする人もいるはずです。
ゆえに、二元性を極端に分けたカード判定ばかりでは、相談レベルにおいては、ある一面や少ない階層、限定したレベルでのものになるので、タロットなら別のレベルで読むことも身に着けていったほうがよいわけです。
実際の優秀で頼れる占い師ともなってきますと、実は、吉凶やいい・悪いの判断は当然として、それ以上(別のレベル)の助言を同時にしていることが多いものです。
それは、極端な二元性レベル(判断)から離れたものになりますので、二元価値で分けるというものとは反対の、分けられない価値での相談になってきます。
一言で言えば、統合へ向かうための助言になりますが、二元価値で分けにくいレベルや階層となりますと、目に見える物質的、常識的価値判断のフィールド・次元から、まずは個人的レベルの内的なものに入っていくことになります。
わかりやすくいえば、個人の心・感情の世界です。
ここは、一般的にはいい(悪い)ということが、個人の心では反対のこともあり、結局、そのいい・悪いは、個人が決めていることに至る視点でもあります。
そうすると、当然、カードごとの吉凶、いい・悪いは決められませんし(決めてしまうと、個人の心もそれに倣ってしまい、自己の価値観=他人や世間の価値観となります)、正逆において正反対の意味になるというように意味を分け過ぎても、かえって読みにくくなってしまいます。
タロットカードたちに、いい・悪いの意味を与えるのではなく、それぞれのカードによる象徴性を見て、カードのフラットな基準から個人の心を観察するような見方になってきます。
それでも、これはカードの使い方(読み方)の中レベルみたいなものです。
次には、個人から全体にさらに転換し(しかし、常識レベルの全体性とは別のもの)、霊的な視点でカードを読むというレベルになってきます。
しかし、巷の占い現場では、その読み方は求められていないのが普通です。ですから、必ずしも高度な読みがタロットリーディングの必要条件とは言えないこともあります。
タロットリーディングやタロット占いは、多くの人はいろいろなレベルを混同させたままにやっていて、自分がどの層の読みをしているのか、クライアントはどのレベルを求めているのかわからず、ただカードの一般的な意味を読んでいるだけということがあります。
他人へのタロットリーディングの目的として、クライアント、相談する者が満足できればいいわけなのですが、自他ともに成長し、拡大していく視点を持つと、それだけでは一時的なものになってしまったり、固定した世界観に囚われてしまったりすることがわかってきますので、タロットリーダー側も、多様性と多元性を理解しておく必要があるかと思います。
モノから心、そして霊の時代へ。
先日、マルセイユタロットの体験会を行いました。
体験会でお話する内容は、その時の時代性、集まっていただいた人の傾向などによっても、話すことが変わってきます。
今回、個別リーディングの前に、一人ひとりのために、タロット(大アルカナ)を引いてみたのですが、全員、数が上のほうのカードであったのは、少し驚きました。それらのカードは特定次元を象徴し、いわば霊的なもの(階層)を示唆するカードたちでもあったからです。
そうすると、やはり時代的には「令和」の響きの通り、霊性の目覚めに、より向かっていく時代になっていることが、このような場でも示されているのかもしれないと感じました。
タロットのような象徴カードは、個人的に出したカードでも、全体システムと関連して考察することができ、全と個、同じ構造の中にレベルや階層、見え方、表現を変えて、それぞれの世界があるとし、「タロット」という構造・象徴を通して、個人と全体を見ることになるのです。
従って、たとえ個人的なことでも全体として、あるいは、その逆の全体的・社会的なことであっても、個人と関係して読むことができるのです。
そして、今日のテーマもそのことになってきます。
先日の体験会でも実はお話したことであり、私のタロット学習のグループの方にも、メルマガやグループコミュニケーションツールを通じて伝えていますが、時代の流れが、モノから心(精神)へ、そして霊(魂と表現できる場合もあります)へと中心がシフトして行っているように思います。(ただし、単純な横の流れではなく、繰り返しや循環のある流れ)
これは、日本の時代で言いますと、昭和・平成・令和以降の区切りとして考えられますが、もつと長期的・世界的な時間の流れで区分することもできます。
モノの時代とは、物質至上主義みたいなもので、目に見るモノや能力の多寡(多い・少ない)での評価が中心となります。そして個人の価値観が、社会の全体的な価値観とも一致することが普通でした。
その後の心・精神の時代とは、モノや多い・少ないではなく、内面、質に関心が向かい、社会全体よりも、個人がどうなのか、どう思っているか、どう感じているかということが重視されるようになりました。
平成は、まさにこれが進んだ時代と言えます。
ゆえに、問題・解決の視点でも、個人の内面(心・精神)で見ることが進み、その結果、心の問題(うつ病など心の不調問題)がクローズアップされ、世間に普通に認知されるようになってきたと思います。
そしてよい状態、望ましい方向性(問題の解決方向)としても、物質的な成功の方法論の多様化と同時に、心が中心になり、自分の心を見る、心を整える、ということが多くなってきました。
心のアプローチも、心理学的なものもあれば、狭義の意味でのスピリチュアル的なものもあります。(区分けすると、今生での心理的データを扱うか、個人成育歴を超えた多次元や過去生などのデータを入れるかによって違ってくると思います)
いずれにしても、心・精神に観点がシフトしたことて、「自分」「個性」というものも、実はさらに強調されるようになったのです。
だから、「ありのままの自分」とか、「本当の自分」という言葉で、「自分とは何か? 誰か?」「自分は何がしたいのか? どう思っているのか?」ということが、たくさんの人からのテーマとして掲げられるようになったと考えられます。
しかしながら、その反面、今もそうですが、現実での自分と、心にある自分との乖離、葛藤というものも、大きくなる人が増えたかもしれません。
それまでは単純に、モノ的な多い・少ないの社会的価値観を自分にトレースしていれば、目的意識も保て、成功や幸せというのも、ある意味、人(社会)が与えてくれる単純なイメージで良かったところもあるのです。
それが「自分の心」というものに視点が移ってきたので、自分(の中の心)が納得しなければ、満足しないという状況も出てきたわけです。
そもそも自分の心とは何か、本当の自分とはいったいどの部分で、何を求めているのかということも、心は見えない部分だけに、不明瞭で混沌としたところがあります。
そして、自分の心の満足を追求するあまり、快楽と区別がつかず、楽しいということを誤解して、楽であること、すぐに回答が出ること、とにかく“自分”なので、自分さえよければいい、自分の快楽こそが一番先に求められることという風潮に堕ちてきたところもうかがえます。
また、自分の中をあまりに探求し過ぎて、自分(の内面)が巨大な存在になってしまって、掘っても掘っても問題が出現し、心の平静どころか、心の問題の無限地獄のような状況に陥ってしまうまじめな人も出ています。
「自分らしさ」が煽られる時代になり、その自分らしさが結局わからず、他人から評価されることで、自他の区別をはっきりさせ、自分(自我と言ってもいいです)を仮の形で作り上げるようなことも拍車がかかっています。(SNSなどで見られる承認欲求、自分を個性的に魅せようとする傾向など)
心の時代にシフトしたことで、一人ひとりの心を見るようになり、確かにそのことで(自分の)心を大切したり、周囲の価値観をただ受け入れるだけではなく、個人(自分)の思いに気づいたりするように進化したところもありますが、一方で、モノの価値観がまだ基本にあることで、モノと心の葛藤という、複雑な事情を、個人個人が抱え混むような時代にもなったと言えます。
例えば、本当にしたい仕事(心)と経済的(モノ)でやる仕事との間で悩むとか、そういうことです。(昔は経済的事情の仕事が、社会と個人の価値観とで一致し、個人的にも一生の保証と保障になっていたので、心をあまり悩ませることもなかったわけです)
このままでは、自分の心と外側のモノ的な世界とをうまく合わせられた人は(心の欲求が環境的にも叶っていた、叶うことができた人)はよくても、大多数の人は、おそらく自分の心を取り戻していけば行くほど、悩みも増える(外との乖離が激しく感じられる)のではないかと思います。
それを妥協して生けていける人もいるてしょうが、それが私たち全体として積もっていくと、どこかで社会としても悲鳴が上がってくるようなことになる(システム的に限界が来る)ようになるのではないかと予想されます。
ですから、これからは、再度、関心を自分中心から他者や社会、もっというと宇宙のような全体に向ける必要があると思います。
もちろん、個人の(心の)課題を放置してよいというのではありません。自分を見つめながらも、自分だけに固執せず、全体としての視点を持つようにするということです。
タロットリーディングで言いますと、個人的な幸せや解放を意図しながも、全体として、この人の役割は何かとか、一人ひとりが霊的に目覚める方向性を考慮に入れたリーディング視点を持つということになります。
結局、モノと心が統合できる考えや気づきを、私たち一人ひとりと、大げさにいえば人類全体でもたらす必要が、これからはあるのではないかと言っているわけです。
自分が幸せになるのはもちろん、他人も世界の人も、皆が幸せになるあり方はどうなのか、自分にはそんな大きな話は関係ないと言われるかもしれませんが、まず、視点を変える、そういう個人と全体との接合を思うだけで、だいぶんこれからが違うように感じます。
言葉で言えば、モノと心の根源である霊を覚醒させるという方向性ですが、言うは易し行うは難しかもしれませんし、「霊」というものだけに、心よりもさらに具体性に欠ける嫌いがあります。
それでも、心の時代に、スピリチュアルな志向も以前より顕著になったことで、今後、真の霊的な成長に関心を持つ人も増えてきたように思います。
ただ、ライトにスピリチュアルを思う人は、最初はそれでもよいと思いますが、どうしても受動的精神になりがちで、何か神とか天使とか、特別な高次存在から受け取るみたいなニュアンスが強くなっています。
受け取ることも、もちろん大事ですが、同時に、能動的になる、創造することも重要です。
これは男性性にもつながります。女性性の時代と、今まで男性性の歪な支配的なものからの解放の意味でよく言われていましたが、男性性のよい側面も評価していくこと(男性性の修正と真の回復)も大切です。
女性であっても、自身の男性性はありますし、男性にも女性性があります。霊的向上には、それらのバランスよい統合が求められます。
自分がどう感じ、どう思うのかということは、ある意味、能動的に見えて受動的でもありました。これからは、ただ感じたり、受け取ったりするだけではなく、自分自身が考え、選択していくこと、決断していくこと、創造していくことも重要な転換の鍵になると考えられます。
何といいますか、何か特別な存在から受け取るだけではなく、自分の中に特別な・高次な霊があることを思い、その中心から発動していくという感じでしょうか。
高次と響き合いながら自分の内なるものを目覚めさせ、自分がすでに高次であることに気づくと言い換えてもよいでしょう。
マルセイユタロットでいえば、自分の中に「神の家」を建てる、自分自身が「神の家」になることでもあります。
矛盾をどう解決するのかは、それは、従来の知識や感覚では対立するだけで、埒が明かないものです。つまりは、今いる次元や階層を超えたレベル、知性と感性がいるのです。それが、言わば、霊性の向上、目覚めと同意義になります。
マルセイユタロットの「鷲」の象徴は、そうした智慧とも関係してくるのです。
タロットカードのペア性を見る
私は、経歴や自己紹介のところても書いていますように、もともとフィリップ・カモワン氏の教えていた、いわゆるカモワン流のマルセイユタロットから入った口です。過程としては、当時のタロット大学(現イシス学院)で学んでいます。
ですから、カモワン流の考え方は、私のタロット考察の視点には入り混んでいると言ってもよいです。
カモワン流の特徴のひとつには、カード、特に大アルカナをペアやカップル性で見るというものがありました。むしろ、それこそがカモワン流の、特にリーディングの本質と言ってもよいものだと私自身は考えています。(逆に言うと、カード単体で見るようなものは少ない)
以後、独立してからも、私はカードのペア性を、自分なりにもっと考察していくようにしました。カードをペアで見るというのは、タロットの自己活用や、タロットの象徴性でもって真理を探究していくという意味で、非常によい視点かと思います。
カードのペアは、単純に言えば、二枚組の単位でカードを扱う(見る)ということになりますが、その二枚組のコンセプト、組み合わせの基本・考え方のバリエーションによって、まさにいろいろな見方が存在し、言ってみれば、それが宇宙のルール、構造への気づきと理解になってくるのです。
ペアは、低い次元で言えば、男女の恋愛関係に置き換えることもできますし、次元を上げれは、その関係性が森羅万象の陰陽原理にまで引き上げることができます。
もちろん、陰陽原理だけではなく、あらゆる二元性の見方が、カードの二枚組、ペア性によって象徴され、その組み合わせは有限ではあるものの、非常に多くのものがあります。(もちろんタロットの数、大アルカナに限って言えば22枚ですから、ペアになる数は数学的に出せますが)
二枚のペア、組み合わせを、例えば大アルカナで言いますと、カモワン流なら視線が向き合うものをペアと見ることがありますし(例として「女帝」と「皇帝」など)、カモワン氏、ホドロフスキー氏両氏では、並べ方の上下は違うものの(これには理由がありますが)、10の数(セット)を基本に、1(「手品師」)と11(「力」)、2(「斎王」)と12(「吊るし」)のようにそれぞれをペアと見るものがあります。
また、ホドロフスキー氏は、足して21の合計になる数のペアカードも挙げていますし、ある説では、足して22になる組み合わせのカードで見ることもあります。(その他、数をもとにペアで見る組み合わせはいろいろあります)
それらのペアのコンセプト(組み合わている理由)として、何を意味する(している)のか、そのことを考察するだけで、かなり深いところに気づくことができるでしょう。
大アルカナは、そもそも22枚でできていますし、小アルカナも4組を基本とし、宮廷カード16枚、数カード40枚の構成なので、数の上てもペアとなることが可能で、それぞれパートごとに、偶数として二枚で割り切ることができます。
ということはタロットの構成自体、ペア概念をもとにしていると見ることができます。
大アルカナで見れば、構造上、「愚者」と他の21枚のカードと分けることができるのですが、21枚だと奇数ですから、二枚ペアにはなり得ません。
しかし、それぞれ数の順ごとにペアを形成していくと考えれば、ペアは可能になります。
これは「愚者」と「手品師」、「手品師」と「斎王」、「斎王」と「女帝」・・・というように見るような方法です。
この見方は、私たちに、ペアそれぞれにある固有の特質とともに、全体として循環しながら成長する宇宙の原理・運動のようなものを見て取ることができます。最後の「世界」も、「愚者」とペアになれば、最初に戻って、また新たな循環が始まるからです。
カードのペアは、占い的に見ることてもできますし、エネルギーや動きとして、もう片方を要求したり、必要としたりしているもの、欠けているものとしてタロットを出して考察することも可能です。
例えば、一枚、大アルカナからカードを引き、そのペアとなるものということで、残りのカードからまた一枚引いてみます。
最初の一枚は自分の今の状態や特質、持っているもの、わかっているものを示すとし、あとで引いた一枚は、それを補うもの、足りていなかった部分を満たすもの、補い合う人物(他人の場合もあれば、自分の中の違う自分と取ることもできます)やエネルギーとして見ます。
もう少し複雑になれば、最初のカードと次のカードの二枚セットで調和や完全性を示すものと見て、どちらか、あるいは両方において過剰になったり、不足していたり、不調和を来すもの、アンバランスになっている状態の要因としてみて、二枚のエネルギー、表現を正常にすることで、問題を解消していく見方ができるようになります。
私たちの現実意識は、スピリチュアルではよく言われるように、分離した感覚を持ち、それにより、個別性や独立性を味わえることになるのですが、一方で対比することで現れる欠乏感、不安感、問題感も出てきます。
要するに、ペア性の分離感みたいなものです。ふたつのものが反発し、対立し、争うことで、問題や居心地の悪さ、苦しさがあると見ることができます。
それらか調和し、相補し、統合が取れた見方になれば、分離感の苦痛から、満たされた幸せ感に変わるとも言えましょう。
もとは分離していないものではありますが、そういう(分離)感覚に現実世界ではなるのが普通ですから、私たちは、常に相方、もうひとりの自分、もうひとつのエネルギー、表現を求め続けるようになります。いわば、自分の分身であり、「恋人」である存在を探しているのです。(マルセイユタロットの「恋人」カードにも関係します)
そのカードでの表れが、二枚のペア性のカードとなります。
先述したように、二枚の組み合わせは数多くありますが、その時その時に出るカードのペアでもって、いつもは分離している見方(意識)を、二枚同時にセットでとらえることによって、統合した感覚(意識)に引き上げます。
こうして、少しずつ、自分の中に分離した、もうひとつの自分・恋人と出会うことをやっていくわけです。
つまりは、いつも本当は存在している片割れを、タロットによって見出すというか認識するようなことでもあります。
ですから、タロットは、単体で見るよりも、少なくとも二枚で見たほうが、よいこともあるのです。
ただし、二枚を同時に見る、ペア性を意識するということは、単体自体をよく知っていないと始まらないこともあります、よってカード単体の理解はとても大切なのです。
人生で例えれば、独身である自分をよく知ることで、つきあい、結婚する相手と出会え、そして結婚したあとも、お互いの未知であったことを深く知ることになり、さらに子供ができたり、年を取って行ったりして、不調和もあれば(離婚される人もいるでしょう)、問題を乗り越えて、もっと融合した境地へと進んでいくこともあるという感じです。
今、あなたを表し、そしてあなたを補助していくもうひとつのカードは何か、カードの束から引いてみると面白いでしょう。