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問題解決のアプローチ
「問題」、これが一体何なのか、定義しだすと様々な意見や考え方があって、人によってそれぞれと言えましょう。
そう、問題と言っても、まったく同じ状況が起こっても、ある人には問題とはならなかったり、軽い問題に思えたりしても、別の人には大変深刻な問題となることもあるでしょう。
そういう意味では、問題は「本人・自分」が困ったり、異常事態と認識したり、何か悩みごと、心配ごと、気になっていたりすることという意味になるかもしれません。
まあともかくも、今回は問題の意味を探るのではなく、問題の解決方法の迫り方、アプローチについてとりあげます。
タロットリーディングのひとつの作用・目的に、やはり問題の解決ということがあります。
従って、タロットの読み方も、当然当人(クライアント、相談者)への問題解決的な読み方になります。
私はもともと、カモワン流(カモワン版マルセイユタロットの創始者のうちの一人、フィリップ・カモワン氏のタロットメソッド)から学習した者ですので、そのリーディング方法として、問題カード・解決カードという展開技術があったことで、はじめのうちから、そうした問題と、それに対する解決、ソリューションを意識した見方をしていました。(ただ言っておきますと、こうした見方が、必ずしもよいわけではありません)
そのような、カード展開メソッドから問題と解決策を考えやすく(読みやすく)する技術もあるのですが、一方で、カードそのものとは別の、いわゆるアイデア(発想)や思考としての解決に迫るやり方があります。
タロットカードを見ても、その象徴する意味や絵柄から何かは浮かんできますが、それを問題の解決として、問題を解いていく(修正したり、よい方向にしていくための)アイデアとして思いつくようにするには、ちょっとしたコツがいるわけです。
言ってみれば抽象的なレベルの解決策を、もう少し具体的なものにまで落とし込む発想技術という感じです。
ところで、マルセイユタロットには、この世界や人を見る時、物質的・心理的・霊的な次元やレベルとして、階層を意識する考え方があります。
まあ、これはスピリチュアル的な視点や論理としては、ごく当たり前のことなのですが、通常は、常識や目に見える範囲、いわゆる科学的目線での解決策を、問題に対して見るのが普通の人の発想です。
病気で言えば、病院に行って、細菌やウィルス、肉体的損傷などの原因とその治療を(現代医学として)行うというようなものです。
ただ、皆さんの中にも経験があるかと思いますが、医学的検査をしても、特に異常や問題が見当たらないのに、自分としては痛みや不調を感じているという場合があります。要は医学的には原因不明で、よって治療もわからない、治療するに及ばず、みたいなことです。
この場合だと、たいてい精神的・心理的なことが原因ではないかと言われることがありますが、たとえそうであっても、なぜ精神的なことで、今の病状を呈しているのかという因果関係がわからないこともあります。それでも、深く見ていくと、それがわかる場合も出てきます。ただ、現代医学的には、その因果関係が解明できない、はっきり説明できないことも多いわけです。
ということで、一口に「問題」と言っても、その解決には、ただの物理的、肉体的、目に見える範囲からアプローチしても、よくならないこともあります。
ということは、私たちは、タロットやスピリチュアル的な見方で言えば、少なくとも、三つの階層によって、問題を見て、解決も図らねばならないと言えます。
三つというのは、先述した、物質・精神・霊です。言い方を換えれば、現実的・物理的観点、心理的・サイキック的観点、霊的・魂的観点です。
そして、これがすなわち、問題解決へのアプローチ(と発想)となるのです。
さすがに、昭和のバリバリな物質的観点中心のアプローチから、平成には、精神や心の理解、アプローチが増えて、もはや問題の原因や解決にも、心の分野があることは常識となりました。(しかし、迷信や非科学的にものを排し、物質的・合理的・科学的なアプローチを極めていくためにも、物質的観点は必要なものと言えました)
例えば、私がかつて公務員時代、うつ病になった当時、今ほど精神の理解は少なく、心の問題や病気は、かなりの面で、古典的な精神病扱いが多かったように思います。うつなどの言葉自体も、一般的にはまだ特殊なものでした。それが、今や当たり前の常識みたいになっています。
ただ、平成時代に向かった内的方向性、精神・心側への問題に対するアプローチは、令和になり、そろそろ別の転換が求められるようにも思います。ある意味、すべてを「心理的な問題」とする傾向に、拍車がかかり過ぎているようにも思うからです。
精神と物質は別ではなく、つながっていること、根本的には同じものであること(同じところから出ていること)が次第に解明されつつありますし、多くの人がその関係性が分離できないものに気づいていますが、それでも、どうしても、そのふたつを統括的・統合的には見ることができず、別々のアプローチになってしまいます。
例えば最初に出した病気の事例でも、今の治療の扱いでは、内科・外科など各科ごとに分離されていて、特に精神・心療関係と、その他の病気や不調は、病院・診療所として別であることがほとんどです。統合的に見るような場所は一般的ではありません。
これからは、病院で言えば、それぞれの専門性、科として独立しなからも、同時に連携して統合され、情報が共有されつつ、診断と治療が行われていく方向性に進むか、進んてほしいという希望があります。マンガ・アニメの「攻殻機動隊」に出る概念ですが、「スタンドアローンコンプレックス」、独立したものでありつつも、ネットワーク的な集合的情報共有意識を持つみたいな感じです。
さて、結局、問題へのアプローチについては、すでに述べたように、私たちは物質的・物理的・科学的アプローチを持つのは当然としても(宗教やライトスピリチュアルに傾倒してしまうと、このレベルを疎かにしたり、否定したりしてかえって問題を悪化させてしまうことがあります)、精神や心の面から見ること、さらにはもっと大きな魂や霊的なレベル、個人のカルマ的な意味で見たり、さらには人類全体の進化のような視点から見たりすることなどで、これまで膠着状態にあった問題が解決に向かう場合があります。
それぞれにはそれぞれのまた専門性と階層性があり、宇宙や世界の入れ子構造(ホログラフィクでホロン的な構造)を思えば、私たちの現実の世界と人間にも、その専門性と階層性が存在していると見ることができます。
ということは、問題を肉体的・物理的なアプローチで見て解決してくのを得意とする人、心理・精神・サイキックを得意とする人、霊的なレベルで見ることを得意とする人がいて、その世界観があると言えます。
それでも、結局、統合する(本当の意味で問題を解決する)のは自分自身ではあるでしょう。
それから付け加えておきますと、これはあくまで私の考え方ですが、物質的、精神的、霊的という階層において、問題の捉え方も変わりますので、その解決や解決状態というのも、それぞれに違ってくると思っています。
極端に言えば、物理的な解決は良し悪しがはっきりしており、直った(治った)とか良くなったというのが明確なものになります。運の良し悪しでも見るような世界です。
翻って精神や霊的な方向性の解決は、それらが一見普通の人の感覚からすればあいまいで、良くなったのかそうでないのかという見方ではなく、何かの気づきであったり、問題はまだあったとしても、問題として認識しなくなっていく(問題とは思えなくなる)ようなものであったりします。
言ってみれば、より高次的な解決になればなるほど、問題そのものを現象として扱わず、認識への変容として、外的より内的に向かうというもので(しかし、すべての原因は自分にあるというのではなく、外と内の統合性に向かうもの)、認識が変われば、今までのレベルでは問題は存在しても、それはあたかも存在しないかのようになるので、実際に当人から観測されず、観測されないからこそ、問題は現実レベルでも消えてしまうこともあるわけです。
マルセイユタロットでは、「吊るし」や」節制」、「月」などのカードが、問題解決の意識変換と特に関わっており、それゆえに、発想を変えたアプローチが、解決として求められます。
「押してダメなら引いてみな」という言葉があるように、ただひとつのアプローチだけてはなく、ほかの階層から働きかけることで、解決に進展することがあります。自分一人では無理な場合(なかなか解決しない問題は特に)、先述したように、それぞれの専門性の人がいるので、援助をいただくのもよいでしょう。
「問題」は、最終的には問題として起こっている意味に気づくようになっていますので、それは「問題が問題ではないという意識に変わること」でもあり、言わば、「問題」と「解決状態・問題のない状態と」が等しいと認識できる意味にもなりますから、それはすなわち次元上昇を意味し、グノーシス(神性・完全性への回帰の認識に至ること)の過程と言えるのです。
タロットが読めないと思っている人に
このブログでも、何度かお話したことがありますが、私は最初、まったくタロットに関心がありませんでした。
ですから、タロットの世界(業界)に入ったのも、偶然と言えます。(ただ、見方を変えれば必然ではありますが・・・)
ましてや、タロットにたくさんの種類があること、そして自分が初めて学習したタロットが、その中の古典的なマルセイユ版であることも知りませんでした。まあ、結局、私はマルセイユタロットしかやらないことにはなりましたが。
そんな私ですから、初期の自分のタロットリーディングも惨憺たるありさまで(苦笑)、意味を学んでも、カードがほとんど読めませんでした。
自分はタロットリーダーには向いていないとつくづく最初の講座中思ったもので、リーディングのできない自分が恥ずかしくもありました。できれば講座を途中でキャンセルして帰ろうかとも思うほどでした。(笑)
しかし、当時の先生から聞かされるタロットリーディング以外の神秘学的内容や、古代象徴系の話はとても興味深く、タロットを通して本当の自分や宇宙を知るという教説には、自分の好奇心・探求心に火をつけるワクワク感がありましたし、実はタロットを習うこと自体はとても楽しい面もありました。
ちょっと話はそれるのですが、この受講中の楽しさは、もしかすると自分の特質とも大きく関係しているのかもしれないと思うところがあります。
これまで、ほかのセミナーや講座を受けることもありましたが、タロットの学びは格別でした。
それは人見知りのある私でも、タロット仲間には、気の合う人が多かったということもありますし、その自分の特質というのが、知識などを学ぶことが好きであるということもあったからです。
そして、これらをさらに自分の内的なデータとして掘り進めていくと、仮に過去生というものがあるのなら、私は修道院や僧院のようなところで学ぶ形式と生活が過去にあったのかもしれず、しかもその繰り返しが結構あり、それゆえ自分にはなじんでおり、たとえそれが(経済や自由さにおいて)苦しいものであっても、精神的には楽しく、充実していたのではないかと思うところがあります。
そうした(大人になっても続けていく)学院形式は、悪く言えば現実逃避の部分もあったでしょう。修行生活と言っても、実生活で自ら働いて生活していくのとはまた別で、おそらく、寄付とかお布施とかもあって、稼ぐという行為は、托鉢的なものや半ボランティア的な行為、院による作物や食物の製造(西洋だとワインとかチーズ)などで、院生活のための収入を得るものになっていたかもしれず、いずれにしても、外の社会で働くのとは違っていたと考えられます。
私にはもともと現実逃避的な性質があります。(苦笑) それが先述したように、何かを学んでいる時と、その仲間との交流の時間は、自分の精神としては、現実を忘れるほどの喜びと楽しさを感じることがあり、そのため、今述べたような過去生データのスイッチが入るのではないかと推測している部分があるのです。
話を戻します。
タロットリーディングが、技術的にもまずかった当初の私ですが、ある時を境に、急に視界が開けたように、タロットが読めるようになりました。
いったい何が起こったのでしょうか?
それは、訓練を続けたことと、コツをつかんだということにあります。私の先生も述べていましたが、タロットリーディングは一種のアートなのです。日本語では、芸術というより、「芸事」の「芸」というのに近いでしょう。
芸事ですから、よほどの才能がある人とか、霊感的な特殊能力のある人(そのような人は、タロットを読むのではなく、自分の特殊能力でチャネリングすることが多いのですが)以外は、やはり師匠(先生)について学ぶほうがよく、しかもただ学ぶだけではなく、一人の時も、よく訓練しておく必要があります。
また師匠・先生に言われたことだけをするのではなく、自分なりに創意工夫し、常にリーディングの向上に努めることが求められます。思考だけしていても始まらず、人に見せる実践トレーニングも芸事には大事です。(カードで言うと「手品師」)
このあたりが普通の勉強とは違い、芸事の習得の特徴でもあるでしょう。何よりも、タロットという芸を愛している(好きである)ことが重要です。
一方で、芸やスポーツには、確かにセンスの問題というのもあるかもしれませんが、私自身はセンスはあるほうだとは言えず、普通だと思います。それよりも、「コツをつかむ」ということに集中してトレーニングすることです。
タロットリーディングが芸事であっても少々やっかいなのは、タロットの種類や展開の方法によっては、そのリーディング方法も異なってくることと、教える人の言うコツと、本人のつかむコツというのが合わないと言いますか、噛み合わないことがあるのです。
まあ、ほかの芸、たとえば踊りとかでも、流派があるように、タロットも一種の流派や流儀の違いがあります。
さらに、先述したように、教える方は、自分のコツを伝えようとしますが、それが人によってはコツとはならないことがあるのです。
従って、先生の言われる方法だけでは、本人としてのコツがつかめないこともあるわけです。ここが、自分なりの工夫がいるという理由なわけです。
それでも、あきらめないことが大事です。コップの水で例えれば、タロットの知識やリーディングの訓練が、次第に自分というコップの中に溜まっていき、いつかあふれ出す時が来ます。
私が急にタロットを読めるようになったのは、コツをつかもうとトレーニングしてきたことと、それらが一定の蓄積を超えて、リーディング脳とも言える、脳内や精神的内部のタロット的思考のネットワークがつながったからだと思っています。
それが突如、読める感覚となって現れます。いわばタロットリーディングにおける開眼みたいなものですが、それにはきちんとした蓄積があってのものなのです。(開眼にもレベルがあり、また次の段階で読めない(これまでのコツでは通用しない)状態が現れ、それを乗り越えて、さらに高度なリーディングに変容していきます、その繰り返しみたいなものです)
タロットとの会話と言いますか、タロットか好きで、タロットをさわっていると、向こうから語りかけてくような感覚も出ます。それらも、蓄積によって現れると言えます。
開眼する前にも、その過程では、「あっ、いい感じで読めている」という、コツをつかみかけるような時があります。その感覚を忘れないことですし、そうしたことが次第にたくさん起こるようになってくるとよいのです。
読めない時はがっかりしたり、自分にダメ出ししたりするかもしれませんが、多くの生徒さんは、できないことにフォーカスしがちで、できていることに意外に無関心なのです。
自分ひとりでトレーニングしていても、比較の意味でわからないことがありますから、やはりタロットを学習する仲間とか、友人とタロットリーディングをし合ったり、勉強会などか開催されると参加したりして、自分ができていること、読めていることを人から評価してもらう機会を作るのもよいでしょう。(当然、できていない部分も見えますが、そこは落ち込まず、冷静に受け止めて、向上させればよいのです)
あと、なるべく具体的な目標も大切で、例えば「いついつのイベントまでには、出演できるよう、読めるようにしておく」という決意と実行が、具体的目標・節目となって、現実に作用しやすくなります。
ほかにも、他人リーディングの修行ということで、一か月何人見るとか、合計〇〇名の人をリーディングするというような目標を立てて、実行していくのもよいでしょう。
ただし、この数稽古形式は、慣れとかコツをつかむきっかけになることもある反面、数さえ満たせばうまくなると思って、検証や理論なしで、ただがむしゃらにやり続けても、ますます混乱を来したり、変な固定的な読みの癖がついたりする恐れがあるので(リーディングが占いレベルオンリーになりがち)、注意が必要です。(「手品師」や「皇帝」だけはなく、「斎王」や「女帝」も必要だとマルセイユタロットでは例えられます)
プロでやっている人でも読みづらいこともありますし、うまく行かないこともあるのですから、反省はしてもダメ出しはせず、コツをつかんで自信をつけ、よきリーダーになっていただきたいと思っています。
あなたのタロットリーディングによって、救われる人もいるのです。
波に乗る 乗らない
量子力学的な引用で、この世界(素粒子レベル)は波動と粒子の両方の性質を持つと言われます。
とぢらでもあって、どちらでもないわけで、それは少し古い言い方にはなりますが、「観測者(の存在)によって変わる」という、一見不確かなようにも見える世界でもあるということです。
ともあれ、粒子とともに、波動、波としての状態もあるということはわかります。
ということは、私たち自身が波であるのか、はたまた粒子であるのかによっても、見え方、感じ方といいいますか、世界そのものの在り様も変わるのではないでしょうか。
私たちはよく波に乗るという言い方をします。
これは調子がいい時や、何か幸運をつかむような時の表現でも言われます。
反対に、調子が悪いと、波に乗れないとか、波からずれている、はずれている、落ちている、合っていないというような言い方もします。
波に乗る、乗らない(乗れない)という表現で、イメージされてくるマルセイユタロット(大アルカナ)と言えば、やはり「運命の輪」でしょうか。
「運命の輪」には、その名の通り、運命を象徴するような輪があり、それに「乗る」ような形で、三匹の動物が描かれています。
そして下には大海のようなものがあり、この輪のマシーン的なもの自体が海に浮かび、波に揺られている状態で、つまりは、波(乗り)との関係性が二重で示されていることになります。
この「波乗り」の二重性は、なかなか興味深いところです。
まず、輪のほうの「乗り」で見ますと、やはり、三匹の動物たちの乗り方が特徴的です。向かって左側の動物は輪からずれたり、降りようとしていたりするようにも見え、方や、向かって右際の動物は、必死で振り落とされまいとしがみついているようにも見えます。
さらに、一番上の動物は、悠然と構えていて、輪の「乗り」を楽しんでいるか、まったく回転を意に介さないかのような印象です。
もし輪がそのまま文字通り、運命を示すのであれば、私たちはこれらの動物のように、ある時は運命の流れから落とされるかのように感じたり、またある時は、必死で運をつかもうと作為したりするかのように見えます。
そういう中で、真ん中の動物だけは、運命を知っているのか、そういうものを意識し過ぎないのか、輪自体には確かに乗っていますが、回転の影響は受けていないので、ある意味、「乗っていない(動いていない)」とも言えます。
ただ、この真ん中の動物としても、下の大海の上下のような波の運動は感じているかもしれず、その影響はあるようには思います。
それでも、まるで海を進む船が、この船は大丈夫だと確信しているかのように、大海の波乗りと、輪の波乗りのふたつを同時に楽しんでいるかのようです。
一方、輪の中の左右二匹の動物たちは、おそらく大海の波の動きには関心がなく、それを感じてはいても、輪の回転、輪の動きだと誤解したり、混同したりして、波乗りについては、輪のほうに意識が偏っていると推測されます。
私はあえて、大海が何であるかとか、輪が何であるかということを答えのように、ここでは示しません。さきほど、「輪は運命だとしたら・・・」と表現こそしましたが、それはそうかもしれませんし、そうでないのかもしれないのです。
ここは皆さん自身で、自分なりの回答とか、象徴しているものの意味をつかんでほしいと思います。
もう一度、大切なことなので、「運命の輪」から見えてくる構造を、「波乗り」を、描かれている動物を比喩にして書きます。
●回転する輪に翻弄され、それに乗ろう(落ちまい)とする動物と、輪からはずれたり、落ちようとする(落ちてもいいかのような)動物
●輪の回転に影響されないが、輪には乗っている動物
●大海の波を知りつつも、動揺しない動物(輪の上の真ん中の動物)
●大海の波の運動を、輪の左右二匹の動物は知らないか、感じ取りにくい(輪の波乗り、波降りに集中している)
ここで、最初の話に戻ります。
すでに古典的なものではありますが、量子力学では、波動と粒子の二重性が言われていて、もし私たちに波動か、粒子かの選択があるとすれば、波動状態そのものであれば、実は波を実感することはできず、粒子であれば、つまり物質的な形のようなものであれば、逆に波は感じられるのかもしれません。
しかし、波の運動によっては、私たちは、自分が小舟のように右往左往してしまうかもしれず、何とか、うまく波乗りしようと頑張って、上手に乗りこなしていると見える時と、まったく波と合わずに、サーフボードから落下してしまったり、船が沈没してしまったりするかのようなこともあるでしょう。
「運命の輪」の真ん中の動物は、なぜ回転の輪の波乗りを平然とこなすことができるのか、そして、大海の波に翻弄されることがないのか、このことは、「運命の輪」のカードそのものからの重要な示唆であると考えられます。
輪の二匹の動物は、絵としての二次元表現でも、動いているように見えます。
それは輪(の絵)とともにあるからとも言えます。ちなみに、輪をよく見ると、マルセイユタロットでは、「運命の輪」が立体的、三次元にも見えるのですが、その三次元感覚でさえ超えるような、不思議な描かれ方もしています。(例えば、輪の中の向こうの景色、背景が見えないなど)
さて、こうして見ていくと、「波に乗る、乗らない」という表現と態度は、もしかすると、逆に私たちを波から遠ざけているのかもしれないのです。
しかし、また反対に、その表現があるからこそ、実体として見えない運命のような波、何かの流れ、波動のようなものを感じ、外に表現することができるとも言えます。
ここに、物質性と精神性、または霊性とのつながりが見え隠れするのです。
ちなみに、「運命の輪」は、詳細は言いませんが、時間とも関係するカードです。
流れる時間と空間の感覚こそが三次元を生み出しているとも言え、波乗り、波降りに振り回される二匹の動物がごとく、私たちは、時間と空間の中で、もがいているようにも見えます。
ところで、大アルカナは22枚ありますが、ある分け方をしますと、10枚×2の分類で、残り二枚が「愚者」と「世界」になるというものがあります。つまりは、「10」という数と括りが、セットやサイクルを象徴することになります。
その数を持つ「運命の輪」が、重要な位置(終わりと始まり、プロセスの重要な転換点)にあるのは想像できます。
運に対しての私たちの考え方も、言葉で言えば、運に乗る、運をつかむ、運から見放される、運に振り回される、運がない、運がよい・悪いという、運をあたかも客観的に自分とは別に存在するかのような表現をよくします。
これがもし主観的なものだったら、どう表すでしょうか。
こうしたことも、波とそれに乗る者、扱う者との関係性で、「運命の輪」をもとにして考察できると思います。
タロットリーディングの二方向性
タロットリーディング、タロットを読む方法、そのアプローチの仕方というものは、かなりたくさんあると考えられます。
絵から直感的に読むもの、絵を何か現実のものにあてはめて読むもの、タロットの(象徴的)システムや体系から読むもの、タロットの意味から読むものなど、様々です。
最初は教えられる先生や学ぶ本、動画などからの、いわば教科書的・共通的なリーディング方法を取り入れますが、次第に個性的なものと言いますか、自分らしい読み方に固まってくるものです。(固まり過ぎても問題ではありますが・・・)
まあしかし、最初に教えられる先生、初めに学ぶ元となる教材からの影響はかなり大きく、たとえあとで先生を変えても、その影響は自分の個性的な読み方を形成していく(形成される)うえでも、核となって残っていると感じます。まるで生まれたばかりのひなが、最初に見たものを親やモデルとするかのようです。
それはともかくとしまして、今日の話題は、タロットリーディングにおいて、大きく分けるとふたつの方向性があり、その、普段は気づきにくい、もうひとつの種類の読み方があるということと、それを意識してみるのもよいのではないかという提案です。
普通私たちが行っているタロットリーディングは、最初にも述べましたが、あくまでタロットを自分がどう見るのか、見えるのかという、自分側が中心のスタンスです。
直感的であるにしろ、論理的であるにしろ、対象としてのタロットカードがあり、それを自分が見ているという方向性のものです。
しかし物事の見方は少なくとも二方向、いや、本当はもっと多様なものがあると考えられます。
つまり、タロットとタロットリーダーの関係で言いますと、少なくとも、もうひとつ、タロット側を中心にした視点があるということです。
タロット側の視点とは何か?と考えた場合、これもいろいろな意見はあるかもしれませんが、私は、これがいわゆるタロットの精霊とのコンタクト的なリーディングになるのではないかと推測しました。
ちょっとサイキックや霊的な世界、技法的には西洋魔法的なタロットとの関わり方やタロットリーディングの方法の感覚に近いと思います。
あえて簡単に表現すれば、タロットの精霊が私たちに語りかける、情報を教えてくれるみたいな感じでしょうか。
ということは、タロットリーダーがタロットを見てどう思う、どう見るというのではなく、反転して、タロットが私たちをどう見る、どう思う(笑)みたいなものになります。
これと少し似ているのが、タロット的な象徴や意味から問題を見てみる、捉えてみるという、リビジョン的なタロットリーディングです。
この場合、例えば、「戦車」というカードが出れば、問題を「戦車」のカードの意味に当てはめるて解釈したり、リーダーの見え方で考察したりするのではなく、その問題は「戦車」の視点を必要としている、「戦車」がその問題を扱う、という逆の発想になります。
書いただけ(文章から)では、違いがわかりづらいかもしれませんが、要するに、自分が中心となるよりも、タロットの象徴や枠組が中心になるという発想です。
しかし、このリビジョン的な見方と、タロットの精霊とのコンタクトによるリーディングとでは、タロット側が中心の立場としては同じようでいて、厳密には違うものだと思います。
これも言葉では説明しづらいのですが、タロットの精霊とのリーディングということになれば、タロットの世界に自分が入り混むと言いますか、タロットと一体となって読むみたいな感覚となるでしょう。
例えるならば、自分が中心のタロットリーディングは、昼間の顕在意識が強い私たちの意識の世界、タロットの精霊関係のリーディングは、夜、寝ていて夢を見ている潜在(別の)意識も含む状態の意識の世界みたいなものでしょうか。
ゆえに、後者は、論理性や常識的な因果性が少なく、通常感覚での説得力に欠ける場合もあったり、理解しづらいところもあったりするでしょう。
しかしながら、タロットというものをあくまで、絵のついたカード(モノ・対象物)として、それを自分が見ているという感覚だけで続けていると、タロットの物理的(三次元的)な枠組から出ることができず、当たり前のリーディングや、現実的・現世的な意味での吉凶解釈のリーディングになりがちだと思います。
大アルカナのカードでいえば、こうした精霊的、タロット中心的なアプローチの象徴は、「月」のカードにあると私は見ています。このカードこそが、タロットリーディングの意味において、最も奥義を持つものではないかと想像しています。
月には二匹の犬のような動物、さらには、奥にはふたつの塔、それらが微妙にずれながらパラレルに描写されつつ、水たまりには第三者的なザリガニがいます。
さらに、月自体、顔をもって描かれ、月そのものから視線を受けている構造が見えます。いわば、私たちが月を見ているのではなく、月が私たちを見ているのです。
実際の天体としての月を見ている時(あるいは見ていない時のほうが強いかもですが)、皆さんの中にも、月から見られている感覚を得たことのある人がいらっしゃるのではないでしょうか。
元に戻りますと、タロットの精霊の住む世界や、この通常次元とは異なるタロットの世界があると思うような一種のメルヘン的な想像が、実はこの三次元認識の世界観を壊し、新たな世界に飛翔するためのヒントになることでもあると感じられます。
ただし、あくまで、現実(三次元)意識も保ちながらというのが重要で、完全にあちらの世界に浸かってしまうような感覚だと、これはこれで幻想空間にいるようなもので、問題となるでしょう。(自分が支配されるかのようになります、ルシファー的な悪にとらわれます)
錬金術の言葉でははありませんが、「解体(分離)して統合せよ」というように、タロットリーディングにおいても、タロットを見て自分が読む意識と、タロットから問いかけられている、タロットがささやく(攻殻機動隊の「ゴーストのささやき」を思い出します)、タロットがこちらを見ているといような、あちら側からのものの意識とのふたつを分離しつつ、共同作業にすると、本当に統合されたリーディングができるのかもしれません。
最初にも述べたように、タロットリーディングは個性的な読み方に結局はなっていきますが、その中でも、二つの方向性の読み方を意識しておくと、普遍的なもの(全体的なもの)に近づけたり、修正したりできるのではないかと思いますので、覚えておくとよいでしょう。
縁と行動とタイミング
今日のタイトル(縁、行動、タイミング)は、マルセイユタロットで言えば、「恋人」、「皇帝」、「運命の輪」という感じです。
ただ、レベルが変われば、例えば、縁は「審判」とも言えますし、「運命の輪」でも表せるほか、別の見方では、もっとほかのカードでも象徴となります。
もちろん、行動、タイミングも同じようなことが言えます。(タイミングだけは、かなり「運命の輪」に絞られてきますが・・・)
また、実は「恋人」カード一枚に、この縁、行動、タイミングのすべてが入っているとも言えるのです。どれがどれなのかは、図柄の詳しい説明をしないといけないので、ここでは省きますが、少しだけ述べれば、恋人の三人の人物が行動、上空のキューピッドが縁、タイミンクは秘密としておきます。(笑)
同じようなことでは、「運命の輪」でも、縁、行動、タイミングを一枚で表せます。
ところで、この「縁」「行動」「タイミング」についてです。
人生をそれなりに生きてきますと、これらが重要な要素を占めているのが、おそらく皆さんにもわかってきているのではないでしょうか?
いわゆる経済的な成功についてもそうですし、健康問題、人間関係など、およそ、生きていくうえで人が関心を持ったり、問題となったりすることのほとんどが、実は、これらの三つに左右されるのではないかと想像できます。
簡単にひとつひとつ見て行きましょう。
まず「縁」です。
縁、特に人の縁がつながって、人が紹介されたり、出会ったりすることで、その人の人生は大きく変わります。あの人との出会いがなければ今の私はなかったとか、あのこと(縁)があったので、このような仕事に就いているとか、パートナーや家族になったとか、あるわけです。
時には病で、ある縁がつながって、名医や適切な治療ができる病院を知って、命が救われたという場合もあるでしょう。
それだけ縁は大事だということです。まあ、カルマ的な話を持ち込めば、縁も自分でつけることのできる縁以外に、見えない力やデータが働いて、つけられる縁もあるということで、まさに良縁は自分のよい思考や行いに由来するとも言え、逆に悪縁もしかりで、自業自得なところもあるのかもしれませんね。
ということは、良縁を望むということは、現実での普段の考え方、行為とともに、天・宇宙・先祖など、見えないものに対する感謝のような気持ちも大きな要因となりそうです。
さて、縁の中で「行為」という言葉が出たように、次は、「行動」についてです。
いくらよい縁がつながったとしても、自分がその人に会うとか、そこに行くなど、何か行動しないと、何も始まらないわけです。
これは腰の重い人や考えすぎ傾向の人には結構あることで、せっかくよい縁が来ているのに、疑ったり、面倒になったりして、行動を起こさず、みすみすチャンスを逃してしまうことがあります。
それに、たとえ悪縁であっても、行動次第では悪縁を断ち切り、よいものに替えていくことも可能です。
私たちは想念だけの世界に生きているわけではなく、現実の形ある世界にいるのですから、そこに実際に働きかけること、行動を起こすことをしないと、形としての結果は変わらないことが多いわけです。
そして、最後は「タイミング」です。
これはいわば、縁と行動の両方に関わる(ついて回る)ことと言ってもよいでしょう。
よい縁があり、そしてそれに向けて行動したとしても、タイミングが悪いと、出会えなかったり、効果か薄かったりすることもあります。
また、言い方を換えれば、よい縁とはよいタイミングであるとも考えられ、さらに行動が重なると、グッドなことが起こると想定できます。
ということは、逆に言えば、自分の成すタイミングがよくなればなるほど、良縁に恵まれ、行動と結果もスムースになり、望んだもの(人生)になっていくと言えます。
自分の「タイミングがよい」ということはどういうことでしょうか?
ひとつには、自然や宇宙の流れと一致している(大きなズレがない)ということがあるかもしれません。それならば、自然・宇宙の流れとは何なのかということを知る必要があります。
もうひとつは、現実次元において、スピード(間)が適切であるということでしょう。俗に「間が悪い」とか「間に合う」という言い方をするように、間・間隔、時間の刻み方、速さが、物事のタイミングと合っているわけです。
人の場合だと、その人の望むタイミングでこちらも連絡したり、会ったりできるという感じで、要するに、シンクロ率の高さ、上昇とも言えます。
間(ま)、タイミングは、万人に共通な時計時間の世界において、それぞれの内的な時間が関係していると考えられ、それはカイロス時間、精神時間とも表現することもできます。
タロットで言えば、大きな時計時間(クロノス時間)の回転の中で回っている、別のそれぞれの内的な時間(カイロス時間)という感じです。
その内的時間同士が合いやすいというか、合わせやすい人は、タイミングがよく合う人、よいタイミングで動く人と言えます。
現実世界は、分離世界といえ、タロットで言うと小アルカナの四大元素、4組の世界です。
4組は、風・水・火・地のエレメント(元素)を象徴する剣・杯・杖・玉(ソード・カップ・ワンド・コイン)で示されています。これらがバラバラで分かれているように思える世界が現実世界で、人で言えば、全員個性があって同じ人がいないという感覚のものです。
ですから、土台、現実世界では分離、バラバラなものなので、「合う」ということが難しいのです。
そういう中で、たとえ偶然でも「合う」というのは、一種の奇跡が働いているようなもので(神の力で起こっていると見れば、「奇蹟」になります)、すごいことなのです。
古代ギリシアでは、四大元素の集合離散について、愛・憎によって起きていると考える人がいました。(エンペドクレス)
最初は?と思うでしょうが、四大元素や宇宙の仕組みを知ってくると、なかなかに興味深い説だと思います。
この説からすれば、四大が分離した世界、つまりは私たちの認識する現実世界において、愛があれば、響き合い、統合していくものと考えることができます。
つまり、タイミングについても、シンクロしたり、合ったりするには、愛が重要な鍵となるのです。
タイミングが合うことを望むのなら、合わせたい人や物事を愛し、時間や縁、運といえるものからも愛されなければならないのです。
ちょっと古いですが・・・サンシャイン池崎氏のギャグ(笑)ではありませんが、人に愛され、縁に愛され、時間に愛されて、ジャスティスならぬ、ジャストタイミングが来るのです。
孤立を深め、エゴの塊になればなるほど、誰からも何からも愛されなくなり、もちろん自分が愛することもできず、四大は分離していきます。
すると、シンクロも起きず(起きていても気づかず)、良縁は来ず、行動はしても一人よがりになって非効率的になり、タイミングはますます、ずれていきます。
ちなみに、「運命の輪」の輪の上にいる動物(スフィンクス)は、統合のシンボルでもあり、輪の中にいる犬と猿とでは次元が異なること示しています。
犬と猿のような状態で、必死にタイミングを合わそうとしたり(犬)、逆に無為無策と言いますか、棚ぼたに期待するような姿勢で幸運を待ち望んでいたりしても(猿)、本当のジャストタイミングになるのは難しく、反対に、二匹のレベルから脱しているスフィンクス状態になれば、自然にタイミングは合うのです。
縁、行動、タイミング、これらがスムースに運ばれ、よくなっていくためには、自他の愛が必要であること、逆に見れば、愛の振り分けが縁となり、行動となり、タイミングを決めていくとも言え、縁だけ、行動だけ、タイミングだけをエゴ的に固執していても、総合的には良く働かないことを、タロット的に述べてみました。