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初心と思い出話

人間、慣れてきたり、上の立場に立ったりすると、初心を忘れ、ちょっと独りよがりや、傲慢になることがあります。

特に先生と呼ばれるような状況になりますと、自分は謙虚にいようと思っていても、知らず知らず、上から目線になり、学びの気持ちが薄れていくこともあります。

私もタロットを教え、指導することをしていますが、そういうことにならないよう、自分が下になることを意識しています。

自分が下になるようなことと言えば、いろいろと方法はあると思いますが、やはり、自らが学ぶ立場になること、そういう機会を作ることです。

もちろん、何かの先生や指導者になっても、その専門分野においてさえ、まだまだ学びは続ていくものです。

これで完成と思った時点で、技も知識も成長を止めてしまうことにもなりかねません。(段階別に完成を意識することは悪いことではありませんが)

しかし、専門以外のことで、新たに学びの徒、生徒になることのほうが、初心の気持ちに戻る機会が実際にありますから、有意義でもあるでしょう。

ということで、趣味でも何でもいいので、新たに別分野の初心の生徒になってみるのが、下の立場の気持ちになるひとつの方法です。

また、たとえ専門のことであっても、今までとは別の、ほかのアプローチで技術なり知識なりが研鑽できないかと試行錯誤してみたり、専門分野において実践活動するものがあれば、それを実際にやっていったりすることを絶やさないことも重要かと思います。

例えば、タロットでいえば、タロットの指導者であっても、タロットリーディングを、先生的な立場で行うのではなく、一介の名もなきタロットリーダーであるかのようにして、タロットをほかの人に役立てるようなことをします。

また、セラピストやヒーラーなら、自分自身が、ほかの(友人とか知人ではない)人の施術を受けてみるというのもありでしょう。

たとえその結果(受けた内容)がよくなかったとしても、自分の気持ちを新たにするという意味では、得られるものは小さくはないはずです。

ほかに、初心を思い出すため、その時、活動や学びをしていた頃の場所やイベントなどに足を運んでみるというのもいいかもしれません。

私の場合、メールや出張にてのタロットリーディング、タロット占いが実践活動としての最初でしたが、たくさんの人を一気にリーディングしたという初めての経験では、イベントでのものがありました。

それは、今も各地のホールなどでよくやっています、スピリチュアル関係のイベント、マーケットみたいなものです。

申込者にテーブル仕様のブースが割り当てられ、たくさんの出店者たちの人とともに、お客様をお出迎えします。フリーマーケット会場をイメージしていただければ、雰囲気はつかめると思います。

私は地元の神戸のイベントで、同じタロットの学びをしていた友人と一緒にブースを借りて出ました。

友人は、頭を剃っていましたので(修行者ではなく、友人の単なるスタイルです)、あえて着物を着ることで、お坊さんやえらい東洋占術関係の人に見えました。(笑)

で、私のほうはと言えば、これまた、わざとスーツを着て、まるで銀行員のようなスタイル(笑)で出たわけです。

同じブースに一人は着物姿のお師匠さん・お坊さん風、もう一人はお堅い公務員か銀行員みたいな雰囲気で、なぜか二人とも、同じタロットをしているというおかしな組み合わせでした。(苦笑)

これが良かったのか、両方ともお客さんは結構来られました。

面白いことに、友人のほうには、男性客がほとんど、私のほうはほぼ女性客でした。こういうイベントは、女性がほとんどなので、むしろ数少ない男性を集める友人はさすがと言ったところです。やはり恰好が男性をひきつけたのでしょう。

余談として、この時、友人のほうに来られた男性のお客様の一人が、何度か個別にリーディングしてほしいと、友人に依頼があったとのことです。恰好だけではなく、中身と技術も信頼されたのだと思います。

私も占いの館に出た経験があるのでわかりますが、男性はあまり、占いとかスピリチュアル関係には関心がないことが多いですが、一度信用する人を見つけると、口コミはあまりしませんが、すごいリピーターになってくれることがあります。人によっては、中小企業の会社の社長さんなんかが、一年契約で見てくれ、と依頼することもあるほどです。

一方、女性は気軽に占いには来られますし、口コミも流していただけますが、意外とあっさりされているところもあるように思います。

それはさておき、こうして初イベントは、一応の成功を収め、それから何度かイベントには出ました。

リーディング内容はつたないものだったと思いますが、何よりも、たくさんの人の悩みや問題をリーディングし、喜ばれた経験インパクト大で、タロットを以後もやっていこうというモチベーションになったのは確かです。

タロットの生徒さんにも、学びは続けていても、他人へのリーディングは勇気がないとか、自信がないと言って、やりたい気持ちはあっても、長いこと躊躇される方がいます。

しかし、どこまで行っても完璧と言う感覚を得られることはありません。

というのは、理想は、その都度、自分のレベルに応じて変わっていくからです。つまり、技量が上がっても、また次の理想が出てきてしまうので、「これで完璧だ」という気持ちは現れにくいのです。

であるならば、基礎技術・知識が得られた時点で、実践をスタートしていくほうが、慣れにもなって、自信をつける意味でもよいわけです。

もちろん、うまく行かない時はあるでしょう。それでも、何事もやってみないと始まらないのです。

今日は初心をテーマにしていますが、逆に、初心を早く脱するためには、実践をする、自分から行動を起こす、勇気をもって飛び込んでみることも大切だということです。

わかったと思うことと、実際にやるということとは違います。この世の中は実の世界です。わざわざここに来ているのは、たとえ自分でなくても、何(何者)かが望んでいるからでしょう。

ということは、実の世界を経験することが、ひとつの重要課題なのだと推測できます。結果ではなく、ただ経験をしたがっている何かがあるのだと感じます。

それが、もしかすると、カルマの解消や霊的な自己成長につながっているかもしれないのです。


数の関連性で読むリーディング例

マルセイユタロットには、がふられているものがありますが、その数はローマ数字で表されています。

数字は、ただその数・ナンバーを示す記号的なものだけではなく、象徴としての意味も含まれるところが重要です。

数を象徴として見るというのは、簡単に言えば、例えば、私たちが“ラッキーセブン”と言って、「7」に特別な感じを持たせているのと似ています。

つまりは、番号とか数量のための意味だけではなく、何かしらのシンボルになっているということです。

ということは、マルセイユタロットのローマ数字は、「絵」として考えることもできるわけです。

そこで、絵として見た場合、同じ形のものを含む数は、共通のシンボルを含むという考え方ができます。

例を挙げれば、「5」という数は、ローマ数字では「V」になりますが、「15」においても、「V」が入っているため、「5」としての共通の意味合いが出るということになります。

もっとも、この場合は、算用数字の「5」という文字が「15」でも見えるので、ローマ数字でなくても同じことは言えます。

しかし、例えば「19」だとしても、ローマ数字では「V」が入ってきますので、一見、算用数字では関係なさそうな数同士でも、ローマ数字の文字を象徴として見ると、何か関連性があるものと、とらえることが可能になります。

そういう意味で観察しますと、マルセイユタロットの「運命の輪」と「審判」は普通の(算用)数字で言いますと「10」つながりで、ローマ数字では「」の文字つながりと言えます。

通常、マルセイユタロットの審判の意味は、中央人物が箱(棺)のようなものから立ち上がっていて、大きな天使がラッパを鳴らしているその絵柄からして、復活とか再生、気づき、覚醒などが言われます。

天使のラッパによって目覚めたのか、覚醒したことにより、ファンファーレのように、新たな誕生の祝いを天使がラッパで鳴らしているのか、それは両方解釈できるかもしれません。

いずれにしろ、何らかの目覚めがあると見られます。

ここに、先ほどの数の関連で、「運命の輪」と照らし合わせてみます。

絵柄的には、ほとんど共通点は見られません。

ただ、注意深く見ると、マルセイユタロットの版にもよりますが、などにシンクロ性が見て取れることもありますし、「運命の輪」も、「審判」も、三匹の動物・三人の人物という似たところはあります。

ここは絵柄そのもののよりも、そこから見い出せる意味合いとしてのシンボルの共通性を見ていくほうが、数つながりではわかりやすいです。

運命の輪」は、詳しくは言いませんが、「時間やタイミング」の象徴性が強くあり、そこから見ていくと、「審判」にも「時間やタイミングに関わる何らかの象徴性があると考えられます。

逆に、「審判」の「覚醒」的な意味合いが、「運命の輪」においてもあるのではないかと推測することも可能です。

それが、先述したように、「10」という数のつながりがあるので、その数の意味も関連させて、両者を結び付けると、その違いと共通性が浮かび上がるわけです。

例えば、「10」には完結するという数の意味があります。何かの終わりと、また新たな始まりを示唆すると言ってもよいでしょう。

ということは、時間やタイミングにおいて、「運命の輪」も「審判」も、そうした終わりと始まりの象徴性があると読むこともできますし、同時に、そのニュアンス、レベルなどが、双方では異なるのではないかと想像することも可能です。

果たして、「運命の輪」のタイミング、「審判」のタイミングの違いは何なのか? そういうことを、「10」の完結性において考えるのです。

あるいは、覚醒における、「審判」と「運命の輪」の違い、そのタイミングの次元やニュアンスの違い・・・こうしたことも考察すると、数つながりによるカードの読み方にも幅が出ることでしょう。

すると、実践リーディングにおいて、「運命の輪」が出るのと、「審判」が出るのとでは、時間やタイミング、覚醒の意味合いにおいて、違いを考慮しながら、適切にリーディングできるのです。

それは具体的な例示になると、スピードや処理効率、情報を得るレベルの違いについて言及することができ、小アルカナも駆使して、お互いに(リーダーとクライアントが)話し合うことで、かなり密で、その人(クライアント)にとって実際的な意味が出てきます。

いわば、一枚のカード(の意味)は、ほかの関連あるカードによって、さらに個性的・目的化される(よりはっきり意味がわかる)わけです。

ですから、常に、カードは単体だけではなく、全体やユニットとしての構成を見て省察しておく必要があるのです。

マルセイユタロットは、このように絵柄だけではなく、数も含めて、膨大な知識と情報の関連性よって成り立っており、それを読み解くことで、私たちの問題の解決、浄化、覚醒に活かすことができます。

ただ、実践においては、あまり知識や細かいことにこだわり過ぎると、せっかくカードの象徴としての情報がありながら、まさに木を見て森を見ずのようになってしまい、出たカードによる、全体としての意味合いや本質が、なかなか把握できないジレンマに陥ってしまうこともあります。

こうしたことにならないように、カードを頑張って読もうとせず、カードからの声を聴くかのようにカードに自分を委ねてみる、または、自分の直感を大切にするということも、タロットリーディングには大切な姿勢になります。

そして直感や霊感みたいなものに頼り過ぎても、それはしょせん人間レベルのものですから、日時や場、体調によってブレがあります。言ってみれば、アンテナの受信状況に、混信が多い日と、クリアーな日とがあるようなものです。

その混乱をフォローしたり、判定基準が不安定にならないようにしたりするため、象徴の知識的なものを学び、その関連性を発見していく意味があるのです。

人には自分の得意な読み方(読みのタイプ)があるのが普通ですが、それに偏り過ぎず、バランスを図っていくことも、タロットを使う時には考慮しておくことと言えます。


タロットリーディングとストーリー(物語)

人は、自分のストーリー(物語)で生きていると言えます。

それぞれが自分の培ってきた価値観、善悪、良し悪しの基準などによって、起こる現象に判断を下しているので、当然一人ひとり違ったものの見方になり、それに伴う行動も異なってくるわけです。

そして、導かれる結果も違います。

また、そのプロセスと結果についても、また個人別で見方・価値が違いますので、まさしく、その人のストーリーで人生が組みあがっていくことになります。

ストーリーはストーリーであるだけに、書き換えることも可能なわけです。

もしかすると、土台や大きなスクリプトのようなものは決まっているのかもしれません。しかし、細かいとところや、演出は変えることができると考えられます。

このストーリーは自作自演(笑)なので、物語の当事者・主人公としての(演技をしている)自分と、それを見ている観客としての自分もいるわけで、そのどちらも変えることは可能と考えられますが、特に観客側の立場として見た場合、そのストーリーに何の意味を見出すのかなど、物語の観点・捉え方によって、ストーリーへの価値の変化も大きいかと思います。

さらに言いますと、演技者や、どっぷりストーリー・物語に浸かっている観客とは別の、さらに第三者的な観察者とでも申しましょうか、そういう者が、ストーリーを俯瞰し、ストーリー全体を透徹した目で見て、この物語が演じられるそのこと自体を評価している(別の表現で言えば、愛している)という気もします。いわば、自分自身の中の高いレベルの存在、魂のようなものでしょうか。

マルセイユタロットは、その第三者の視点にまで、自我と自己を上昇させていこう、連れて行こうとするものでもあります。

その途中では、自分自身に見られている状態であることに気づく必要があります。

人は、特に問題状況にある時、自己の演技ばかりに集中しています。

これはいい意味での集中というより、むしろ、悪い意味の集中になっていて、他人から自分(の演技)はどう見られているか?ばかり気にし過ぎて、観客としての自分を忘れているようなものなのです。

つまりは、他人の評価や、他人との比較によって、自分の人生を判定しており、それがために、自分を見失い、自分の力、いや自分の人生そのものを、仮の観客のためにささげている状態と言えます。

しかし、その観客は幻想であり、これまた自分が生みだした、自分の思う他人や社会の集合的な観念のようなものです。戦いで言えば、仮想する敵ですが、実在しているわけではなく、あくまでイメージの中の存在です。

すると、自分の演技・ストーリーはこうあらねばならない、こうすべきだという強迫観念にも似たようなことになり、とても苦しい状態が続きます。

もっとも、これは必ずしも悪いことばかりではなく、仮想の他人としての観客を置くことで、自分を律したり、目標に向かっての努力や行動を、一時的に強化したりすることもあります。

他人に褒められる自分、評価される自分に満足するわけてす。しかし、それは実際に評価されたとしても、ひと時のものであり、その評価を永続させようと、あるいは、もっと評価を得ようと、頑張る必要が出てきて、結局、評価の飢餓感に苛まされることになります。

ですから、ここで、自分自身が観客にいたということを思い出すことです。

これはあくまで自己基準からの評価ですので、どれだけの演技でよいのか、物語がどの程度なら満足するのかなど、自分で決めることができます。

自分がよしとすればそれでいいのです。ここで重要なのは、自分がよしとするためには、やはり他人の観客目線をもってきての相対的な比較をしないということです。

あくまで、自分としてはどうなのかというところが大事です。

ただ、やはり、そうは言っても、そもそもこの「観客としての自分」がよくわからないところもありますし、いくら自分で決めると言っても、しょせん、自分というものは、外の人や社会がいてこそ、自分としての個性がわかるものなので、どうしても比較的なものは出ます。

また、自我による良し悪しの判断もありますから、自分の演技については、結局、自我の(エゴ的なものの)都合によってしまい、観客としての自分のわがまま(欲求)から、演技者としての自分を苦しめてしまうことがあります。

この状態を表すのが、私の使うマルセイユタロットリーディングにおいての、一次的展開における展開(第一次作業による、タロットを引いて並べた)図面になります。

一言で言えば、問題(として思っている)状況を示す展開図と言ってもいいでしょう。

これは先述したように、演技者としての自分と、観客である自分、それに幻想として観客集団(他人目線の)からの要求の統合が図れず、それぞれがバラバラに主張し合っている、もしくは、気づかない状態で、それぞれの立場だけで、はまってしまっている様態と言えます。

そこで、第二次的な展開を、タロットでします。

この作業は、上に書いた、魂的、第三者的観察者を設定するのに似ています。

要するに、舞台監督、または企画・プロデュースしている者のような目線を作るわけです。

こうすると、それぞれの立場を俯瞰して見ることができますので、その調整と、うまく行けば統合を果たすことができます。バラバラだった視点が、ひとつの俯瞰者による観点で、まとまっていくわけです。

タロット的にいえば、細かな調整については、小アルカナを使うことになりますし、第三者的統合的観点の創設には、大アルカナが活躍します。

ただし、タロットの意味を覚えたり、タロットを引いて出たカードの意味を読んだりする、一般のタロット占いやリーディングとは違い、タロットを引かかないで見ると言いますか、もともとのタロットの構成と象徴を骨子(モデル、イデア)とする基準があり、それと、実際に引かれたカードの意味合いを兼ね合わせることで、こうした、いくつもの視点を切り替えながら、俯瞰するという技法を成り立たせることができます。

やっていることは、自分のストーリー、物語を複数の観点から見て、変えられる部分は変えて、自分自身で自らのストーリーを調整して、生きやすくしていくこと、人生をエンジョイ(と言っても、一般的な意味だけでの楽しいということだけを意味するのではありません)したり、充実感を覚えたりしていこうというものです。

究極的には、自分が納得すればOKというのが、自分の人生です。

ならば、納得感をどのように得るのか、というの一番の課題になります。

表(起こった現象、起こした出来事)だけで納得する人もいるかもしれませんが、たいていは裏(起こったことの意味合い、俯瞰・統合する視点)も知らないと納得できないものです。

時系列では、過去には、悔やみや囚われが多く、未来には不安と、やはりここにも囚われがあります。そうしたものが現在の自分の思考・感情として「今」の状態、気分を作り出しています。

それは、納得感ということで言えば、過去も未来も納得できないものがあり、それが今・現在を納得させなくしていると言えます。

だからこそ、今の問題をきかっけにして、自分の人生を過去も未来もストーリーとして俯瞰し、いろいろな立場の自分を見て、調整していくことで納得感を出し、新たなストーリーを創造していくとよいのです。

マルセイユタロットの絵柄は、あえて平板で、普遍的な絵を採用することで、ストーリーを見るには、とても適したものとなっています。

絵を見るだけで、私たちが、人生という絵巻物を演じていることを実感できるのです。


違いと同一感のケース その意味

この世の中は、たくさんの人がおり、それぞれ個性を持っています。

まさに色々、いわば、バラエティある世界になっています。

ところがスピリチュアル的には、「ひとつ」だとか、「全て」、「宇宙全体」というような、分けれられないものというイメージで語られます。

ということは、その観点からでは、当然、私たちそれぞれも、この世界も、すべてはひとつだとまとめられてしまうわけです。

実際には、これだけ多くの違いがあるというか、違いばかりの世界だというのに、ひとつとか、同じとは、これいかに? という不思議なことになるのですが、この「違い」ある世界と、「同じである世界」とがイコールであるという気づきが持てれば、真理のようなものが見えてくるのではないかと思います。

これは、マルセイユタロットでいえば、タロットとして同じひとつのデッキながら、大アルカナと小アルカナの構成に区分されたり、その大や小の中にも、それぞれのカードの個性(違い)があるというのに似ていると思います。

ゆえに、マルセイユタロットは、世界や宇宙を象徴しているとも考えられるわけです。

さて、この世界では、違いがありながら、同じでもあるという矛盾した話の解説は、今日はさておき(笑)、考えや思いとして、違いを意識したほうがいい場合と、同一性と言いますか、共通性、同じを意識したほうがいいケースとで、人生におけるシチューエーションや場面によって、切り替えていくと生きやすいのではないかということにふれたいと思います。

まず、違いを意識したほうがいい時、あるいは人のタイプです。

それは、同調意識が強すぎる時や人の場合です。

人のタイプとしては、簡単に言えば、皆と同じでなくてはならないとか、目立つのは嫌とか、人の頼みは断りにくいとかという感じになる人です。

こういう人は、自己主張が弱くて、他人と自分との境界線があいまいなのですが、逆に言えば、自分のことを意識しすぎて、自分を守ろうとするあまり、人とのトラブルを避けたいと思い、自分が責められたり、悪く言われたり、気分を害されたりするのが嫌なわけですね。

一見、人に気遣いをすごくするようでいて、そのベクトルは、人より自分に向いているという方です。ナーバスな人には、こういうタイプの人が少なくありません。

もっとも、本当に心が優しすぎて、人に気遣ってしまう、自己犠牲で幸福感を得るタイプの人もいるので、必ずしも、自分の方向にベクトルが向いているというわけではなく、反対に、自分のことより、人の幸せを第一に思うという方もいます。

いずれにしても、こういう方々は、他人と自分との違いをもっと意識したほうがよく、一言でいえば、人は人、自分は自分という区分け、峻別をしたほうが、気が楽になります。(自己犠牲で快楽にある人は、最初は苦しくても、やがて、その中毒を解くことにもなります)

実際、自分が思っているほど、人はこちらのことを意識しているわけではありませんし、外国ではありませんが、きちんと自己主張していないと、承諾した、あるいはどうなってもよいということを意味してしまうことにもなりかねないので、嫌なことは嫌、できないことはできない(逆にこれならできる、これは好き)ということを言っておいたほうがいいです。

自分の見ている世界と、他人の見ている世界は違うのだということを、改めて、自分に問う(そういう視点を持つ)と、過ごしやすくなります。

また、ケースとしては、いわゆる「ウリ」を出したい時にも、違いは意識したほうがよいですよね。特に商売やコンペティションなど、多くの中から選ばれなくてはならないような状況では、ほかとの違いや個性が重要になってきます。

これは何も、勝ち負けだけのことではありません。

生き方として、私は私、俺は俺、自分は自分という道、ライトには趣味や嗜好、重くは使命などのようものに至るまで、人とは違うものを意識したほうが、より人生に目的や張りができたり、やはり、生き方としても楽になったりする場合があります。

いわば、自分としての絶対値、いや、絶体位置を持つということで、他人と比較したり、周囲の影響をあまり受けたりせず、マイペースな、まさに自分の人生を自分のものとして生きていくことができるのです。

では、次に、違いではなく、同じを意識するとよい場合とは、どんな時や人でしょうか?

これは、まず、共感を得たほう(共感が持てたほう)がよいケースの時と言えます。

例えば、自分、またはほかの人が傷ついたり、ショックのような状態であったりした時、共感を持つ(得る)ことで、慰められ(慰め)、ほっとした安心感に抱かれます。

マイナスな感情を抱いたり、落ち込んだりした時、ピンチや困難な状況に遭ったりした時もそうです。

「ああ、自分だけではなく、ほかの人もそうなんだ、同じなんだ」と感じることで、人は癒され、勇気も出てくることがあります。

それから、まったく知らないグループに入る時とか、初対面の人と会う場合なども、お互いの共通点や同じところがわかると、安心することができます。

例えば、好みの作品や食べ物が同じとか、同じ出身地であるとか、外国でなら、日本人に会うなどで、ほっとすることもあるでしょう。

また、人のせいにばかりしている人、ベクトルが外に向きすぎている人にも、他人と自分の同じ点を顧みる、発見してみるのはよいことです。

自分自身が気が付かねばならないことがあるから、他人のことで不快になったり、怒りが出たりすることもあるからです。まさに他人の振り見て、我が振り直せというわけです。

あと、やはり、スピリチュアル的な進化とか霊的・統合的視野を広げたいという時も、究極には「すべてはひとつの宇宙」みたいな感覚が必要と言われますから、少しずつでも、自他の境界線をなくして、自己が拡大し、自我そのものか解体していく過程で、より(霊的に)発展していくと考えられ、そうした目的を持つ人は、違いよりも同じところを意識していく方向性になるでしょう。

こう書くと、競争には違いを意識し、和合には同一感を意識するとよいように、一概に言えてしまうようにも思えますが、それだけでは、むしろ問題があると言えます。

上記のような定義にしてしまうと、どうしても、違いを意識した時、比較しての競争や分離意識を持ってしまい、自我・エゴの肥大、他人への無関心などを生み出してしまいかねないからです。

また、同一を意識し過ぎると、全員、金太郎アメのように一緒でなければならないという、強制的な同一感に支配され、差別と区別を混同してしまい、個性が認められない、あるいは、向上心が失われる怠惰で窮屈な世の中になってしまいます。

そういうことで、意外に、局面・場面における、違いの意識と、同一意識とで、どちらが重要であるかということが自分ではわからないことがあります。

マルセイユタロットでは、カードの個別的な違いと、全体的な統一性があるので、ある問題やケースでは、それぞれのカードの象徴性を見れば、違いを意識したほうがいいのか、そうでないのかがわかりますし、同時に違いの中での共通(同一)性や、反対に、同一性の中の違い(異質性)についても判断することができます。

このような作業は、つまりは、心理(学)的に言えば、ユングの個性化を知るようなことでもあり、自己の統合を図りながら、やがて全体(社会)の中で、自己の個性を活かす最善の道が見えてくるようなことと等しいと言えるでしょう。

結局、全体と個ということで、宇宙から生かされている自分、全体からの分離意識を“分け与えられて”、自分自身の人生を生きるプロセスが、この世界での人生であるように思えてきます。

ですから、何の個性もないとか、特徴もない、つまらない自分だとか思う人があっても、おかしな表現になりますが、「生きているだけで自分を生きている」ことになり、とにかく生き切ることが全体に対しての使命になっているのではないか想像できます。

そのうえで、できれば、「自分が幸せであること」を人生で表現できれば、なおよいかと思います。違いから同一へと観点を変えれば、そのことが、結局、全体・宇宙としての幸せとイコールになるからです。


万策は尽きたのか?

「SHIROBAKO」というアニメがあります。

アニメーション制作の現場から見た物語で、とても面白いですし、感動もするので、おススメいたします。

そのアニメ「SHIROBAKO」の登場人物が、アニメ制作の過程で困難に遭い、「もう無理だ、納期までに納められない」と絶望する時に使う有名なセリフとして、「万策尽きたぁ~!」と叫ぶものがあります。

まあ、結局、そうは言いつつも、何とかなってしまうのですが・・・それが物語というところです。ただ、本当にアニメ制作の現場は大変らしく、そのようなことは、事実としてあるんですよね。

ここでアニメ話をしようというのではありません。

この「万策尽きた」が今日のテーマとなるので、引用したまでです。

人間、人生の中で、一度や二度は、ものすごいピンチの状況という時はあるものです。まさに「万策尽きたぁ~!」終わりだぁ」と叫んでしまいたくなるようなことがあります。

まだ叫ぶくらいの元気があるうちは、実はまだ余力が残っていることが結構ありますが、状況・環境も最悪で、自分の生命エネルギー自体もなくなっているような、いわゆる極度のうつ状態にまでなっていますと、叫ぶ元気さえもなく、本当に「死」というものを考えてしまうことがあります。

私自身も恥ずかしながら、うつ病などの時代、その他の時でも、死を思ってしまったことが何度もありました。

しかし、マルセイユタロットを学習し、その象徴性を知るにつれ、どん底、絶望のような時でも、救いがあるのではないかと、少しでも光を思う機会が出るようになってきました。

それは、意外に思われるかもしれませんが、タロットを展開してリーディングするような形ではない、光や救いの希望なのです。

タロットの活用といえば、タロットリーディングのことを想像される方が多いでしょうが、他人に対してはそうと言っても過言ではないところがあるのですが、自分にとっては、タロットを展開してリーディングするというより、タロットそのものの象徴性を思うことで、助かったり、楽になったりすることがある気がします。

それは通常の方式の自己リーディングでは、なかなか客観的にはなりにくいからです。

ところで、マルセイユタロットには、「吊るし」というカードがあります。

ほかのタロット種の解釈では、このカードは、「吊られた男」とか、「吊るされ人」と呼称され、まるで拷問や逆さづりの刑にでもされているかのような、苦しさや犠牲のようなイメージがされています。

しかし、私たちのマルセイユタロット解釈では、この人物は自ら逆さのスタイルを取って、むしろ悠然と楽しんでいると解釈するのが基本です。

いわば、能動的かつ、変則的待ちの状態です。

ただ、マルセイユタロットの「吊るし」においても、やはり、つながれている、困難で苦しい状態と読むこともあります。

「吊るし」の人物の手は後手であり、足も組まれていて、ひもにひっかかってはいますが、縛られていると見る人もいるでしょう。

言ってみれば、手足の自由を奪われ、狭い二本の柱の間に押し込められているようにも見えるのです。

となると、この人物にとっては、「万策尽きた」状態となっていることも考えられます。

確かに、漢字の囚人の囚の字(人が囲われた中にいる、閉じ込められている)に見えなくてもないですよね。

いや、果たしてそうでしょうか? 本当にこの「吊るし」の人物は、出口や解決策が見つからない状態なのでしょうか?

もう一度、よく「吊るし」の図像を見てみますと、彼(男性であるとは限りませんが)の逆さに向いた頭の方向は、木で囲われていません。なるほど、三方は囲われていますが、ひとつ、下の方は開いているのです。

実は、ここにはすごい秘密があり、詳しいことは口伝的な秘密なので明かせませんが、普通に考えても、頭の方向が開いているということは、「考えれば出口はある」という象徴として、見ることも可能でしょう。

しかも、彼は逆さの姿勢なのですから、まるで天地が逆転したかのような見方をしているわけです。この象徴性をよく考えることです。

なぜ、あなたは万策尽きたと思ってしまっているのか、なのです。

そう、「万策尽きた」「もうダメだ」と思っているのは、あなたの中の現実が、です。

見方によって、現実は変わります。本当は、策がないのではなく、策がないように思い込んでいる、思い込まされているだけかもしれないのです。

そうは言っても、現実は自分の現実認識として、とても強固なものになっているので、どうしようもないと思うわけですよね。

ここで、マルセイユタロットの大アルカナ、それぞれのカードが生きてくるのです。

特に、マルセイユタロットでは、数の順に偉大なる智慧が隠されています。

「吊るし」の場合、その数の前後などのほかのカードを見ていくことで、「吊るし」状態の良し悪し、打開策を発見することができます。

特に、次の「13」と「節制」については、その象徴性を学べば、本当に救いになってきます。この二枚のカードの組み合わせが偶然ではなく、意図して配置されているのが、よくわかるのです。

何度、この組み合わせに救われてきたことかと思うほどです。

また、「吊るし」単独だけでも、困難さと同時に、その解決や解除策も示唆しています。

それはほかのカードでも同様で、それぞれのカードは、それぞれのカードによって修正されることもあるのです。言い換えれば、一枚一枚の象徴性において、問題と解決が同時に示さているということなのです。

「吊るし」では、出口の話や姿勢の話をしました。ほかにも、「吊るし」における問題性の解決は、「吊るし」自身に示されています。

よく言われるように、「神は、私たちに越えられない試練は与えない」と言われます。

また、カルマ論などをあえて用いるとすれば、今の苦難は、霊的・魂的には、その解消や浄化の大チャンスともいえるわけです。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もあるように、まだやれることや救いを求められる対象・方法がないか、頑張って探して見ましょう。

もちろん、本当に万策尽きたと思われる状態に陥ることもあるかもしれませんが、自ら死ぬことは最後の「策」ではなく、むしろ、さらなる縛りをかける、自分への長い呪い行為になると考えられるので、よい意味でのあきらめ、自分への完全承認みたいな、一見、放棄のような受容をしてみると、逆転や救いの可能性も出てくるのではないかと思います。

例えば、マルセイユタロットの「力」から「13」の流れには、「吊るし」を真ん中に挟んでという配置になっています。

一度、この三枚を並べてみるとよいです。

「力」は「吊るし」を見ており、さらにその先には、大きな鎌をもった「13」が見えます。「力」と「13」は数が進む方向性を見ています。

二本の木で囲まれている「吊るし」は、もしそれが困難な状況を表しているとすれば、「力」と「13」によって、どうなっていくことが望まれるでしょうか?

私たちの中には、計り知れない神性のエネルギーが流れている(存在する)とされています。この力を信じて、自分を貶めず、神(性)と通じるのなら、すべての問題は解決していくと言われています。

あなたの問題や苦しい状況は、あなた自身の歪みでとらえた現実にあると心理的・霊的には例えられますが、そうであるならば、歪めさせられているあなたの自我を赦し、解放し、新たな世界を創造していけばよいわけです。(それゆえ、「吊るし」と「世界」は共通した絵図であり、テーマがあります)

言うは易し、行うは難しかもしれませんが、マルセイユタロットの自己成長の象徴性を深くインプット、いや、そのプログラムを思い出すことで、それらが自動的に働くようになっているように感じます。

従ってマルセイユタロットの学びは、苦しい時もあるかもしれませんが、歪んた自分というものが少しずつ浄化、解体されていき、本当の意味で楽になっていく方向へ、自らの神性が導ていくのだと思います。

好き嫌いではなく、本当に自分がこれは苦しい、つらいと感じることと、心地よい、少しはましであるという境界線を、落ち着いて見極めていくことです。その線引きがあいまいになっていて、ただしなくてもいい苦労や、本当は楽になっていくはずの方向性を、自らで見えなくしていることがあります。

ほかの世界、次元に移れば、今まで思っていた「万策尽きた」状態ではなくなります。新しい世界では、昔の世界とは見方も考え方も、利用できる資源さえも変わってくるからです。

万策尽きたのなら、その(あなたを形成させている、これまでの認識)世界では限界だという意味でもあります。

ならば、次の変容(13)へ自分を進めさせる必要があるのです。

その勇気は、力とともに、あなたの中にあるはずなのです。


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