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ひもつきのカード

マルセイユタロットの大アルカナで、ロープやひもが描かれているカードがあります。

どれが、ひも・ロープなのかは、様々な見方はあると思いますが、一応、目立って明らかにひも・ロープ(の描写があるもの)だと考えられるのが、次の三枚ではないでしょうか。

●「正義」

●「吊るし」(一般には吊るされ人などと呼称されるカード)

●「悪魔」

これらのひもには、それぞれ固有の意味があるものと推測されますが、この三枚のひも・ロープ(以降、「ひも」と書きます)を「ひも類」とひとまとめにしつつ、同時に、各々の「ひも」の違いを見ると、面白い考察ができます。

そのひとつとして、「ひも」を「私たちを縛るもの」の例えとして見て、そのテーマで書いてみます。ただし、全部、意味とか象徴性を詳しくはあえて書きません。読んでいる皆さま自身にも、考えてもらいたいためです。

 

では、三枚のひもについて、その観点で見て行きましょう。

まず「正義」です。「正義」のカードでは裁判官のような者が、首に「ひも」をかけています。

次に、「吊るし」

このカードでは、「ひも」は吊り下がった逆さまの人の足にくくりつけられている感じです。

そして、「悪魔」のカードでは、悪魔(厳密には悪魔が載っている台のようなもの)に人間とおぼしき者が、「ひも」によってつなげられています。

 

どの「ひも」も、そんなキツそうではないので、「縛る」というテーマで考えることは適当ではないのかもしれません。しかし、キツさ・緩さに関係なく、「ひも」である以上、縛っていることも確かです。

このうち、縛っている(縛られている)ことを自覚しているものと、そうではないものに分けてみると、「正義」と「吊るし」は自覚があり、「悪魔」カードの悪魔自身は自覚しているものの、つながれている二人の人物は自覚していないと想像されます。

いや、もしかして、「悪魔」のカードにいる人物たちも、つながれているのは自覚しているのかもしれません。

普通、ひもで縛られるというのは苦痛であったり、自由を奪われたりして、よいものとは思えない状態です。

それでも、たまに縛られることがうれしい、心地よいという人もいます。いわゆるマゾ的な人ではありますが、もっと広い意味でとらえていくと、つながれていることに安心感を得ている人や状態とも言えます。

縛られることがよい、そんなことってあり得るのかと思うかもですが、例えば、会社につながれることで、給料が安定するのなら、そのほうがよいという人もいますし、自分が尊敬したり、すごいと思っていたりる人、その仲間やグループの集団につなげられているのは、安心だと思う人もいるでしょう。

一方、「正義」のひもはこれは「悪魔」とは逆で、もしかすると見た感じ、無自覚である可能性もあります。

裁判官として考えるのなら、裁判官としての一種の資格や立場を表す「ひも」なのかもしれませんが、裁判のルールを作ったり、そもそも裁判というその形式、行為自体を統括し、演出するもの(行わさせているもの)が、裁判官の自覚・無自覚に関わらず、ひもを結わえている(縛っているもの)とすると、この裁判官とひもが、それ(裁判すること自体)を示す様式や制服の一部になっているのではと推察されます。

言ってみれば、「ひも」そのものが権威や力を象徴し、自他ともに縛るものとして、まさに象徴としての見た目の効果もあるということです。

さて、「吊るし」ではどうでしょうか。

「吊るし」のひもは、一見、とてもキツいように見えます。逆さまの人を縛っているのですから、それは強烈なものではないかと想像してしまいますが、「吊るし」の人物をよく観察すると、苦しそうなどころか、笑みを浮かべているようにも見えます。

ということは、案外、この「ひも」は緩いのかもしれません。でも、足をひっかけているだけのようにも「吊るし」の図像からは見えますので、「ひも」が緩いとすると、物理的な力で「ひも」と人物がつながれているわけではないということがわかります。

いずれにしても、「吊るし」の人物は、「ひも」によって縛られていることは嫌ではなさそうで、少なくとも早く解放されたい、逃れたいと思ってはいないように感じます。

ということは、あえてこのひもでつながれる状態を望んているのか、何か意図があって、この状態にしていることが予想されます。

つながれていることが苦痛ではないということでは、三つのカードともに共通していますが、特に、「悪魔」と「吊るし」は、縛られている当人は楽しそうにさえ見えます。

「吊るし」が「悪魔」の「ひも」と違うのは、つなげている(縛っている)ことを見ているほかの存在(「悪魔」のカードでは、まさしく悪魔)がいないことと(つまり「ひも」と、それにつながっている者という関係だけが強調されている)、当の人物が逆さまであるということです。

また、「吊るし」は絵柄全体からも、何か囲まれている感が強いです。すると、「ひも」と合わさって、牢獄や、何か、逆さ吊りの刑を受けているようにも見えて、「ひも」が拷問用具にもなってきますが、先述したように、当人は気楽な感じさえします。

ここから考えると、やはり、「吊るし」の人物自身が望む意図的な縛り、あるいは、見た目とはまったく違う、「ひも」の機能や状態があると見て取れます。このような変わったことをする理由があるわけです。

「吊るし」と「悪魔」のひもでつながれた人物の共通点として、後手にしているというのがあります。

ここにもし、手を縛っている別のものがあるとすれば、隠された「ひも」があることもイメージできます。それは手錠のようなもので、拘束具となっている可能性はありますが、「吊るし」のカードでは特に、イリュージョン的ショーみたいに、縄抜けをして楽しませている(楽しんでいる)かもしれません。(笑)

「ひも」は、自分で縛ることもできますし、他者から縛られることもあります。「悪魔」の項目で述べたように、縛られることがよい場合もあると同時に、やはりそれは人を拘束し、自由を奪い、苦痛や制限を与えるものにもなります。

さらに、「ひも」がないと、例えば、高所の作業などては危険でもありますし、モノを運ぶ時にも縛らないと中身が出てしまうおそれがあります。ということでは、「ひも」によって便利になったり、安全になったり、団結・関係性を強めたりすることもあるわけです。

人は基本、縛られることを嫌いますが、場合によっては、縛られる期間・状態を必要とする時があります。

それから、「ひも」を別の意味にすると、自分で稼がない男性のたとえでよく言われるように、いわゆる「誰かのヒモとして暮らしている」みたいに、ぶら下がるもの、依存するもの、すがるもの、余分なものの象徴の場合もあります。

こうして、「ひも」を見ていくと、それぞれ三枚のカードのひもの意味、そこからくみ取れる私たちの自由や縛りとの関係性が見えてきます。

すると、この三枚のうちのどれか、あるいは、二枚の組み合わせなどによって、どういう状態の「ひも」が必要なのか、望ましいのか、リーディングとして活かすこともできます。

ひもつき(笑)のカードは、自分自身を見つめる意味でも、とても興味深いと思います。


実践は型にこだわらなくてもよい

「そのようになるよ(そのようなことが起きるよ)」

「そのようになるように頑張ってみようよ」

「そのようになれるよ」

「そのようになるのは(それは)嫌なのかな?」

「そのようになりたいと思っている?」

「そのような気持ちがあるのよね」

「そのように見てみる(考えてみる)のはいかが?」

「そのようなことは無視していいんじゃないかな」

 

これは何なのかと言いますと、タロットリーディングにおけるカードの読み方の一例です。言い換えれば、カードからの情報の取り方でもあります。

 

このほかにも、もっとたくさんあるでしょうが、だいたいこんなパターンでカードについて読んでいるのではないかと思います。

 

私はタロットリーディングと占いとを区別した書き方をこのブログでもよくしていますが、その二つは、ある観点からすれば、同じようなものにもなるのです。

 

「リーディング」は創造的で、クライアント自らの気づきを促すのに対し、「占い」は断定的、クライアントには受動的で、未来予測が中心になると定義することもできますが、それもあくまで一例に過ぎません。

 

上記のように、リーダーの質問や読み方のパターンをこうして列挙してみれば、何のことはない、カードから読み取っている情報という意味では、すべて同じようなものと言えます。

 

強いていうならば、読み取った情報が運命的・決定的なニュアンスなのか、流動的、あるいは、これから作り上げていくか(実現させていくか)の違いみたいなところがあります。

 

ということで、カードからの情報でクライアント・相談者をよい方向に導いたり、癒しや気づきを与えたりするというところでは、やり方やアプローチが違うだけで、実は占いもリーディングも同じ面があるわけです。

 

しかし、その違いを見ていくのもまた有意義で、それはクライアント側からということもあるのですが、むしろ、リーダー側についても言えるのです。

 

というのは、例えば、タロットを読む人、タロットからの情報を扱って、どのように人に提供し、人様の役に立つのかという、自分のタイプとか、向いている方法を知ることができるからです。

 

自分が占いタイプの読み方、情報の与え方をしたほうが、クライアントのためになるという人(それでクライアントに満足してもらう人)もいれば、タロットによって、心理的な内面のブロックや葛藤、トラウマなどに気づいてもらい、それの解放や調整に向けてサポートするという読み方をするのが向いている人もあり、さらには、一種のコーチのように、実現したい目標や状況を、カードの情報や象徴を利用しセッティングして、達成しやすくさせるという方法が向いている人など、いろいろ、個性によってあるわけです。

 

これに、タロット以外の技術を学んでいることもあるでしょうし、自分の興味や関心から、どんなことをしたいのかによっても、またさらに自分のスタイルが決まって来ます。

 

もちろん、方法や技術は目的に適っていれば、数種類を混合させることもできますし、どんなやり方をやってもOKというところがあります。

 

私が実際にタロットリーディングする時でも、最初に書いたような読み方(情報の取り方)のパターンを各種織り交ぜ、時に未来予測的で断定的な占いになることもありますし、心理的な(葛藤や問題パターンに陥らせている)データの気づきに導くこともあります。また、目標を定めるための指標やモデルとしてカードを扱うこともあります。

 

カードリーダーの中には、かたなくなに自分が習った方法に固執し、これでないと絶対にうまく行かないというような人がいますが、それはあくまでその技術や方法の「」を高めることでは有効ですが、実際の相談者に対して、まさに「相談」したり、「セッション」したりして、クライアントのために役立つ情報提供や施術をするということでは、無意味になる(こだわりがかえって問題をややこしくさせる)こともあります。

 

私のブログを読んでいて、タロットの占い活用はダメだと思っている人がもしかするといるかもしれませんが、決してそんな単純な話をしているわけではないのです。

 

確かに、今のタロットの一般的な認識や占いとしてのツールで多く使われる現状を肯定しているわけではないのですが、私も実際に占いの館のようなところに出てタロットリーディングしてきたをことを思い出して見ても、現場のリアルな世界では、本当にいろいろな方が、それこそ「人間らしい」問題や悩みごとを抱えて相談に来られます。タロットの占い活用が、多くの人の役に立っていることがあるのも事実です。

 

予約紹介制ではない、ランダムに市中の人が来られる現場では、机上の空論みたいなものとか、座学で勉強していた読み方など、吹き飛んでしまうこともしばしばです。

 

そこにはどす黒い情念のようなものも渦巻いていますし、逆にあまりにも空虚で機械のような感じになってしまっている人もいます。

 

カードを簡単に定義づけたり、またクライアントの問題のパターンを形式的に当てはめ過ぎたりして、人(やカード)をモノのように扱っていると、とんだしっぺ返しをくらいます。

 

人にはがあり、さらには魂、霊があります。どんな人にも崇高な部分と、低次で貪欲な部分、あるいは破壊や消滅のような願望も眠っている場合があるのです。

 

そんな実際の現場、人を相手に、小賢しく考えた「型通りの理論」など、通じないことがほとんどです。(しかしタイプや型の学習が無駄と言っているわけではありません。それはそれで必要でもあります)

 

タロットで相談していると、人として生きる悲しさや苦しさも思う反面、いつも人の可能性や偉大さも思い知ります。そして、自分など、ただのサポート者に過ぎない、たまたま何らかの縁で関わらさせていただいた立場・存在なのだと謙虚になることもできます。

 

そうですね、いわば、マラソンランナーに対して沿道で声援を送る者で、偶然声が届いたとか、支援する側で水を手渡すことができた人みたいな感じです。主人公はあくまでランナーのほうですし、ランナーがゴールを目指して自分で走っているのです。

 

これは講師として講義をしていても同じで、教えているようでいて、本当に教えられていることが多く、私自身、生徒さんから救われていると実感することはいつもです。ありがたいことだと真に思います。

 

タロットリーディングを営業でやるようになったり、講師のように教える立場になってきたりしますと、どうしても「先生」などと言われ、人によってはえらそーな感じに見えたり、傲慢になってきたりする方がいます。また、逆に「先生」であろうと、必要以上に自分を縛ってしまう方もいるかもしれません。これはどちらも問題でしょう。

 

それでもまだ、自分が先生と呼ばれる立場になったことを自覚して、よい意味でクライアントや生徒さんの(模範や温かく見守るような)先生であろうとすることは悪いことではないと思います。

 

人を救うというのは大げさで、おこがましい表現ですが、仮にも人様から相談を受けようという人は、自分も相手も同じ人間であることを思い、勉強してきたからとか、人生経験・年齢が上だからとか、相談技術を身に着けたからと言って、上の立場でえらそうにしても始まらないのです。

 

共感と言われますが、人は苦しみをわかってもらえたり、悩みを受けて入れてもらえたりして初めて、次の段階に進むことができます。

 

そういうことでは、占いがどうの、リーディングがどうのという違いにこだわることは必要ないです。(違いを意識したり、明らかにしたりすることは、別の意味では重要にはなりますが)

 

タロットを学び、タロットリーダーとして、誰かにの役に立ちたい、リーディングを仕事にしていきたいという方は、あなたなりのやり方で、人様に向き合い貢献し、、クライアントはもちろんのこと、自分自身も成長していくことができればよいかと思います。

 

最初の基礎や技術の型は大切ですが、あなたがどうしたいのか、最初の気持ちでもいいので、そのことをよく思い(出し)、やがては自分流の方法で相談スタイルが出来上がっていくことでしょう。型破りと言われる段階と所以です。

 

その過程は、マルセイユタロットの「手品師」から「戦車」に描かれているように思います。(そして、背景や高いレベルに、ほかのカードたちがあるという印象)

 

特に「戦車」になるためには、その前の(数の)段階、「恋人」が重要だと思います。

 


タロットの逆位置(リバース)

タロットの展開法、タロットのスプレッドには、たくさんの種類があります。

有名で、よく使われているメジャーなものもありますが、タロットリーダーやタロティストのオリジナルなものも少なくないでしょう。

かく言う私も、オリジナルスブレッドはいくつか持っています。その中でも、リーディング用と占い鑑定用みたいに分けているものもあります。

ただ、もともとカモワン流のマルセイユタロットから入った口でもありますので、カモワン流のカード人物の視線を追う流動的スプレッドに慣れていたこともあり、いわゆる固定スプレッド、例えばケルト十字などのタロット界ではよく使われている方式は、逆に違和感があったのも事実です。

まあ、展開法、スプレッドというものは、目的のための手段ですから、目的からはずれていないのであれば、やり方、方法としては何を選択してもOKだと思います。

要するに、自分かタロットの種類に合っていて、使いやすく(読みやすく)、タロットを使うその目的に適っていればいいのではないでしょうか。

さて、そうしたタロットの展開法の中で、カードを正立に置くか、逆位置(リバース)に置くかという違いのもの(種類)があります。

私自身は、正立だけの方法と、逆位置も出す方法との両方を使い分けています。このブログで、時々やっている企画モノでは、正立だけ置く方法を採用していることが多いですね。

間違っているかもしれませんが、私が調べたり、聞いたりした話では、タロットの逆位置(リバース)をリーディングや占いで取るようになったのは、それほど古いものではない(新しいものだ)ということです。

マルセイユタロットを見てみれば、小アルカナの数カード(数札)は、正逆が一見しただけではわからないものもありますし、説によっては、正立と逆位置が反対のものさえあります。(ある正立状態が実は逆であるという解釈が存在しています)

おそらく、デザインから見ても、マルセイユタロットの数カードは正逆で見るものではないと私は思っています。

大アルカナや小アルカナの宮廷カード(コートカード)は、明らかに正立がどの状態かが見てわかるような絵柄ですから、これに逆位置のケースを考えるのは、あってもいいかもしれません。

ともかく、いつの頃からか、タロットでは逆位置・リバースを見るようになり、正立の場合との解釈や意味を変えるようになってきました。

その理由として考えられるのは、私の推察ではありますが、やはりシンプルに判定がしやすくなるという利点があったからではないかと思います。

つまり、正立は良し、逆位置は悪い、または、正立の意味と逆位置の意味では真反対になるという読み方です。

逆位置を採用することで、カードそのものを読むよりも、正逆の位置だけで良し悪しが最初にわかるというのは、鑑定的な意味では効果的だったと考えられます。ということは、パフォーマンス(的意味合い)も大きかったのだと推測されます。

そういう意味では、やはりタロットが占い(の道具)としてよく(メジャーに)使われるようになってきたことが、逆位置・リバースの取り入れにつながってきたと考えられます。

あと、ウェイト版(ライダー版)の登場により、小アルカナの数カードにも絵がつけられたことで、正逆を判断しやすくなったこともあるのかもしれません。そのウェイト版が、占いで多くの場や人に使われるようになることで、さらに逆位置解釈も拡大して行ったと思われます。

逆に言えば、もともとタロット占い、タロットリーディングにおいては、逆位置(解釈)はなかったのではないかと想像できます。

ましてや、占い・リーディング以外での活用になってきすと、ますます正逆の区別は意味がないということになります。それよりも、カードの図像そのものや、構成に注目するのが自然です。

ともあれ、今やタロットでは、逆位置・リバースを取ることが、普通になってます。

ただ、その解釈はまちまちでもあります。

さきほど述べたように、正立では良い、逆位置では悪いと解釈するものと、正立の意味と逆位置の意味が正反対で読むものがまずあり、これはタロットの逆位置解釈では、一般的と言えるかもしれません。

これに対して、あくまで正立の解釈を基本として、逆位置は正立を阻害したり、ブロックしていたり、正立からのズレ・不調和を来している状態と見る方法があります。

これだと、逆位置は必ずしも悪いという意味にはならず、また正立の反対の意味というわけでもありません。いわば、一時的な「正立の別状態」で、何かの気づきや修正が図られれば、正立に戻すことができることになります。

逆位置の解釈は、すでに書いたように、タロット活用が自分の目的に適っていれば、どのようにしてもよいとは考えますが、個人的な意見としては、正立を良い、逆位置を悪いとしてしまうのは、少々問題があるのではないかと思います。

もちろん、正立が良いこと、逆位置が悪いことと設定していれば、カードの位置だけでもおよその判定をすることができて、特に占いには便利であるとは考えますが、この解釈方法は、そもそも良し悪しとか、善悪という二元的価値を強く植え付けてしまいがちで、つまるところ、カード自体にも良し悪しをつけて見るようになってしまいます。

それは、タロットにはよいカード・悪いカードがあるという前提になり、吉凶判断に囚われた見方になるのです。

タロット、特に大アルカナは、二元を統合する方向性にあると私は見ていますので、あまりに吉凶のような二元分離の価値観にはまってしまうと、自己の成長や拡大、意識の向上が滞ってしまうおそれがあるのです。

良し悪しというのは、見た目や形ある世界のルール、一般的価値観(世間体や外の人、環境から押し付けられた価値観)であることが多く、これが個人の心理・精神の世界になってきますと、一概に良し悪しは決められなくなってきます。

またスピリチュアル的に言えば、高次意識になればなるほど、善悪、吉凶の境目はなくなり、すべては同じ(金太郎アメみたいなコピー的な同じという意味とは別です)という思考・感覚になると言われ、つまりは、同じレベルの価値観からいい悪いを判断していては、そのレベルの世界観でしか物事を見ることのできない人間で固定されてしまうことになります。(言い換えれば、霊的な成長が見込めない)

ですから、正逆を採用した展開を用いるにしても、その解釈に、単純に正立が良い状態・良いことが起きる、逆はダメ・悪い状態というような見方をしていては、まずいこともあるわけです。

また正逆で正反対の解釈するもの、例えば悪い意味のカードと決めているものは、逆になればよいことになってしまいます。これもちょっとおかしな話で、結局その違和感は、もともとカードに吉凶的な解釈をしてしまっていることにあると言えます。

ということは、正逆解釈問題に関わらず、カードごとに善悪、吉凶、良し悪しを意味として決めていることが根本的な問題だとなるでしょう。

そのほうが読みやすく、スピードも速く、何かと便利であるのもわかるのですが(そして実際に、いいこと・悪いことはカードの通りに起こるという人もいるでしょうが)、そうした(吉凶)次元を超えて解釈する読み方に慣れていくほうが、長い目で見れば双方(クライアント・リーダー)のためになるかと思います。

とはいえ、正立だけの展開法を推奨している(逆位置採用を否定している)わけでもありません。

何度も言うように、展開法は手段であり、目的ではありません。正逆を採用することで、リーディングがしやすくなり、総合的なセッションとして見た場合、効果的になることもあります。

それに、案外、正立だけで読むというのは、あらゆる要素(ポジティブ・ネガティブ)を考慮に入れて読まないといけないので、実はかえって高度な場合もあるのです。

ただ、正立だけ出す展開の良さもあります。

タロット界では、もはや正逆両方を取ることが普通になっているので、やってもらうほうも、逆位置(リバース)は何か悪い意味ではないかとマイナスにとらえてしまうことが多くなっており、逆が出ただけで恐怖や不安に駆られる人も少なくないのです。

それに対し、正立だけ出るということは、見た目の安心感がかなり大きくなります。言ってみれば、自然にポジティブな気持ちにさせるわけです。

聞くところによれば、あのホドロフスキー氏も、正立だけのものでしかカードを展開しないのは、心理セラピストでもあるホドロフスキー氏にとって、クライアントに余計な不安を与えない配慮もあるということです。

タロットカードの正逆の展開、あなたはどう採用し、どのように解釈しますか? それを決めるのもあなたの自由です。


正義と悪魔 罪悪感

マルセイユタロットの「正義」のカードと「悪魔」のカードでは、まったくの正反対の意味のように思いますが、この両者は、ある心理的な観点からすると、関連性を持って見ることができます。

それは罪悪感にまつわることです。

罪悪感がない人、持ったことのない人は、中にはいるかもしれませんが、普通は、皆さん、何らかのことで抱いたことはあると思います。

それはまさに文字通り、「悪いこと、罪だと感じる感覚」ですので、悪を断じたり、悪いと思うことを自分で認めたり(反省したり)することにもつながりますから、決してダメなことではないでしょう。むしろ人間の成長のためには、よいことなのかもしれません。

しかし何事もバランスであり、歪(ひずみ)をもった罪悪感、本当は持たなくてもよい過剰なる罪悪感であるのなら、それはやはり問題となります。

そもそも「悪」や「悪いこと」と思うには、その反対の正しいこと、正義という基準・価値観がないと生まれません。

ということは、自分にとっての悪は、自分にとっての正義の反対であり、その逆(自分にとっての正義の反対が自分の思う悪)もまた真なりです。

やっかいなことに、個人の場合は、そのふたつの線引き、価値基準が人によって違うことです。

国家的・社会的なものは、一応、明文化された法律・規則というものがありますから、それに反することはたいてい悪(というよりルール違反ですが)になり、順守しているほうは正しいとなります。それが個人的感情として納得するかどうかは別としても、あくまで公式ルールなので、従うしかないわけです。

ここ(はっきりとした客観的規則があるもの)はタロット風に言うのなら、4組(四大元素)の剣(風)の世界であり、杯(水)、つまり感情によってゆらめいても、線引きは可能だということになります。

しかしながら、個人の場合は自分の中に法律があるようなもので、しかもそれは明文化されていませんし、主観ですから、ずっと同じ基準で固定されるわけでもなくも流動的です。つまりは、正義も悪も人によって異なり、あやふやで、感情や気分によっても左右されます。

とはいえ今の自分、個人として、なにがしかの善悪、正義と悪の基準を持っているのは確かです。そして、その内なる自分の法律に従い、自らを、あるいは他人や物事を裁こうとします。いわば、誰もが内なる法律の裁判官なのです。

そこで罪悪感です。

罪悪感は、このように、自分の内的な価値基準、内なる法律のようなもので、自分では正しくないと思った(裁いた)こと(悪、悪いと思ったこと)に、刑罰を与えようとします。それが、自分にとっての心理的なバランス調整なのです。(「正義」のカードに、剣と天秤があるのも、極めて象徴的です)

これが自分に向かう場合は、自己を罰することになりますから、いわば大きな意味での自傷行為、自罰行為を成すことがあります。

これは自分に対する罰を自分が行っている(執行している)ようなものです。

例えば、恋愛や人間関係でわざと気まずくしたり、よい関係を壊そうとしたり、仕事では大事なところで失敗したり、無理な案件や内容を自分に課そうとしたり、残業など肉体を酷使したりします。

かなりのパターンであるのは、神経か肉体を痛めさせるというもの(罰)です。つまりは何らかの病にかかる、あるいは病気のような状態を呈するのです。

問題は、この罪悪感から来る自罰行為を、自分の表面的な意識は自分がやっているとまったく思っていないことがあるのです。

人生のシーンで、何かうまく行かない、目標や望みが達成できない、心や体が何か調子悪いというようなことに、こうした罪悪感が関係し、自罰行為のシステムが潜在的に働いている場合があり、それが自分ではわからないというケースが結構あります。

これは、カウンセリング、心理的なことを含む相談やセッション、リーディング、セラピーの過程で判明することがあるので、何となく心当たりがある人は人に見てもらうのもよいでしょう。

一方、これが自分ではなく、他人に向かう場合があります。自分の罪悪感を外に押し付けることで自分の責任逃れや、罪悪感から解放されたいという行為です。

この場合は、他人への嫌悪感(結局、投影に近いことですが)とか、攻撃、批判という形になります。

これとは少し異質なのですが、タロットの「悪魔」と「正義」の並びで浮かんでくることは、罪悪感とは逆の、自分の正しさを保証(意味的には保障にもなります)してくれる人を求めて、悪魔のような強い人、カリスマ的な人の下につながれに行く、つまりは依存するというパターンもあります。

場合によっては罪悪感の裏返しの正義(悪いこととは思っていても、自分は悪くないと思いたいがために、開き直るがごとく、他人を利用して自分が正義であることを守るもの)のために、悪魔的な、一般に影響力の強い人とつながろうとすることもあります。

さらいえば、「悪魔」の下に入った人たちは、傷をなめ合うかのように、自分(たち)は悪くない、正しいんだと思い込んで集団で安心するケースもあります。

ただ、言っておくと、誰しも大なり小なり、この「正義」と「悪魔」との、罪悪感と正しさ(自分は悪くないこと)の調整はやっています。小さいことなら、それこそ無数にあるのではないでしょうか。

そうして、私たちは心のバランスを図っているとも言えます。

しかしながら、自分の内的な法律があまりにも厳しくて、自分を縛り過ぎ、いつも自罰行為をしたり、他人へ批判的になったりしていては、自分で牢獄の中に入っているようなものてす。いわば、自分の法律によって世界をとても小さく、窮屈なものにしてしまっているのです。

しかも、自罰、自傷をしていると、自分にとってよいわけがありませんし、実害が自分だけではなく、他人にもかかってくることがあります。

先にも述べたように、公のもの、社会的に明文化されたルール、法律は変えることは難しく(変えることはできますが)、公共の利益・福祉、皆の生活のためには、従うのは当然のことです。それだけにはっきりしていて、誰にとっても明確で悩むことは少ないでしょう。

けれども、個人の内的なものは、不安定でもあり、その正義と悪、善悪の線引きも可変的です。そのため、悩みや葛藤も発生します。

それでも、一生従わなくてはならないことはなく、自らがどうとでもすることができるのです。法律を作るのはあなた自身であり、裁くのもあなたなのですから。

罪悪感で自分を縛る人は、タロットでいえば、もっと「悪魔」と仲良くなること(エゴ、自分が自分であることを受容すること)であり、その反対の、あまりに緩すぎる人は、「正義」を思う必要があります。

罪悪感は、宗教的なこと、育った家庭教育の中から生まれていることもあります。一度、本当にそれは自分にとって悪いことなのかどうか、冷静に、いろいろな経験と知識を得た今の自分から検証してみる必要はあります。

同時に、この自分の思う正義、正しいことというのは、どのレベルで言っているのか、ということも考えるとよいでしょう。

よく勘違いされますが、正義や悪は本来ない(人が決めている)のだから、何をやってもいいのだ、自由だという人がいますが、レベルや次元、階層別に、きちんとルールは存在します。

確かに次元が上がれば、その下の善悪、正義と悪はどちらでもないような観点になるでしょうが、上の次元においても、下とは違うものであっても、それなりに善悪はあるはずです。ここは難しいところで、下と上の階層では、二元的なものがまったく逆に入れ替わるようなこともあるのです。

ですから。あるレベルからすると、それは悪いものだよと言われても、また別のレベルでは、必要な良いもの、正義という場合もあるわけですから、一概には決められないと言えます。

言い換えれば、レベルの高い人が言うことは、あなたにとって(あなたの今感じている次元やレベルにおいて)必ずしも、正しいとは限らないということです。

タロットの「正義「と「悪魔」、正反対のようですが、なかなか両者をともに考察していくと、面白いことが見えてくるものです。


問題解決のアプローチ

「問題」、これが一体何なのか、定義しだすと様々な意見や考え方があって、人によってそれぞれと言えましょう。

そう、問題と言っても、まったく同じ状況が起こっても、ある人には問題とはならなかったり、軽い問題に思えたりしても、別の人には大変深刻な問題となることもあるでしょう。

そういう意味では、問題は「本人・自分」が困ったり、異常事態と認識したり、何か悩みごと、心配ごと、気になっていたりすることという意味になるかもしれません。

まあともかくも、今回は問題の意味を探るのではなく、問題の解決方法の迫り方、アプローチについてとりあげます。

タロットリーディングのひとつの作用・目的に、やはり問題の解決ということがあります。

従って、タロットの読み方も、当然当人(クライアント、相談者)への問題解決的な読み方になります。

私はもともと、カモワン流(カモワン版マルセイユタロットの創始者のうちの一人、フィリップ・カモワン氏のタロットメソッド)から学習した者ですので、そのリーディング方法として、問題カード・解決カードという展開技術があったことで、はじめのうちから、そうした問題と、それに対する解決、ソリューションを意識した見方をしていました。(ただ言っておきますと、こうした見方が、必ずしもよいわけではありません)

そのような、カード展開メソッドから問題と解決策を考えやすく(読みやすく)する技術もあるのですが、一方で、カードそのものとは別の、いわゆるアイデア(発想)や思考としての解決に迫るやり方があります。

タロットカードを見ても、その象徴する意味や絵柄から何かは浮かんできますが、それを問題の解決として、問題を解いていく(修正したり、よい方向にしていくための)アイデアとして思いつくようにするには、ちょっとしたコツがいるわけです。

言ってみれば抽象的なレベルの解決策を、もう少し具体的なものにまで落とし込む発想技術という感じです。

ところで、マルセイユタロットには、この世界や人を見る時、物質的・心理的・霊的な次元やレベルとして、階層を意識する考え方があります。

まあ、これはスピリチュアル的な視点や論理としては、ごく当たり前のことなのですが、通常は、常識や目に見える範囲、いわゆる科学的目線での解決策を、問題に対して見るのが普通の人の発想です。

病気で言えば、病院に行って、細菌やウィルス、肉体的損傷などの原因とその治療を(現代医学として)行うというようなものです。

ただ、皆さんの中にも経験があるかと思いますが、医学的検査をしても、特に異常や問題が見当たらないのに、自分としては痛みや不調を感じているという場合があります。要は医学的には原因不明で、よって治療もわからない、治療するに及ばず、みたいなことです。

この場合だと、たいてい精神的・心理的なことが原因ではないかと言われることがありますが、たとえそうであっても、なぜ精神的なことで、今の病状を呈しているのかという因果関係がわからないこともあります。それでも、深く見ていくと、それがわかる場合も出てきます。ただ、現代医学的には、その因果関係が解明できない、はっきり説明できないことも多いわけです。

ということで、一口に「問題」と言っても、その解決には、ただの物理的、肉体的、目に見える範囲からアプローチしても、よくならないこともあります。

ということは、私たちは、タロットやスピリチュアル的な見方で言えば、少なくとも、三つの階層によって、問題を見て、解決も図らねばならないと言えます。

三つというのは、先述した、物質・精神・霊です。言い方を換えれば、現実的・物理的観点、心理的・サイキック的観点、霊的・魂的観点です。

そして、これがすなわち、問題解決へのアプローチ(と発想)となるのです。

さすがに、昭和のバリバリな物質的観点中心のアプローチから、平成には、精神や心の理解、アプローチが増えて、もはや問題の原因や解決にも、心の分野があることは常識となりました。(しかし、迷信や非科学的にものを排し、物質的・合理的・科学的なアプローチを極めていくためにも、物質的観点は必要なものと言えました)

例えば、私がかつて公務員時代、うつ病になった当時、今ほど精神の理解は少なく、心の問題や病気は、かなりの面で、古典的な精神病扱いが多かったように思います。うつなどの言葉自体も、一般的にはまだ特殊なものでした。それが、今や当たり前の常識みたいになっています。

ただ、平成時代に向かった内的方向性、精神・心側への問題に対するアプローチは、令和になり、そろそろ別の転換が求められるようにも思います。ある意味、すべてを「心理的な問題」とする傾向に、拍車がかかり過ぎているようにも思うからです。

精神と物質は別ではなく、つながっていること、根本的には同じものであること(同じところから出ていること)が次第に解明されつつありますし、多くの人がその関係性が分離できないものに気づいていますが、それでも、どうしても、そのふたつを統括的・統合的には見ることができず、別々のアプローチになってしまいます。

例えば最初に出した病気の事例でも、今の治療の扱いでは、内科・外科など各科ごとに分離されていて、特に精神・心療関係と、その他の病気や不調は、病院・診療所として別であることがほとんどです。統合的に見るような場所は一般的ではありません。

これからは、病院で言えば、それぞれの専門性、科として独立しなからも、同時に連携して統合され、情報が共有されつつ、診断と治療が行われていく方向性に進むか、進んてほしいという希望があります。マンガ・アニメの「攻殻機動隊」に出る概念ですが、「スタンドアローンコンプレックス」、独立したものでありつつも、ネットワーク的な集合的情報共有意識を持つみたいな感じです。

さて、結局、問題へのアプローチについては、すでに述べたように、私たちは物質的・物理的・科学的アプローチを持つのは当然としても(宗教やライトスピリチュアルに傾倒してしまうと、このレベルを疎かにしたり、否定したりしてかえって問題を悪化させてしまうことがあります)、精神や心の面から見ること、さらにはもっと大きな魂や霊的なレベル、個人のカルマ的な意味で見たり、さらには人類全体の進化のような視点から見たりすることなどで、これまで膠着状態にあった問題が解決に向かう場合があります。

それぞれにはそれぞれのまた専門性と階層性があり、宇宙や世界の入れ子構造(ホログラフィクでホロン的な構造)を思えば、私たちの現実の世界と人間にも、その専門性と階層性が存在していると見ることができます。

ということは、問題を肉体的・物理的なアプローチで見て解決してくのを得意とする人、心理・精神・サイキックを得意とする人、霊的なレベルで見ることを得意とする人がいて、その世界観があると言えます。

それでも、結局、統合する(本当の意味で問題を解決する)のは自分自身ではあるでしょう。

それから付け加えておきますと、これはあくまで私の考え方ですが、物質的、精神的、霊的という階層において、問題の捉え方も変わりますので、その解決や解決状態というのも、それぞれに違ってくると思っています。

極端に言えば、物理的な解決は良し悪しがはっきりしており、直った(治った)とか良くなったというのが明確なものになります。運の良し悪しでも見るような世界です。

翻って精神や霊的な方向性の解決は、それらが一見普通の人の感覚からすればあいまいで、良くなったのかそうでないのかという見方ではなく、何かの気づきであったり、問題はまだあったとしても、問題として認識しなくなっていく(問題とは思えなくなる)ようなものであったりします。

言ってみれば、より高次的な解決になればなるほど、問題そのものを現象として扱わず、認識への変容として、外的より内的に向かうというもので(しかし、すべての原因は自分にあるというのではなく、外と内の統合性に向かうもの)、認識が変われば、今までのレベルでは問題は存在しても、それはあたかも存在しないかのようになるので、実際に当人から観測されず、観測されないからこそ、問題は現実レベルでも消えてしまうこともあるわけです。

マルセイユタロットでは、「吊るし」や」節制」、「月」などのカードが、問題解決の意識変換と特に関わっており、それゆえに、発想を変えたアプローチが、解決として求められます。

押してダメなら引いてみな」という言葉があるように、ただひとつのアプローチだけてはなく、ほかの階層から働きかけることで、解決に進展することがあります。自分一人では無理な場合(なかなか解決しない問題は特に)、先述したように、それぞれの専門性の人がいるので、援助をいただくのもよいでしょう。

「問題」は、最終的には問題として起こっている意味に気づくようになっていますので、それは「問題が問題ではないという意識に変わること」でもあり、言わば、「問題」と「解決状態・問題のない状態と」が等しいと認識できる意味にもなりますから、それはすなわち次元上昇を意味し、グノーシス(神性・完全性への回帰の認識に至ること)の過程と言えるのです。


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