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タロットが読めないと思っている人に
このブログでも、何度かお話したことがありますが、私は最初、まったくタロットに関心がありませんでした。
ですから、タロットの世界(業界)に入ったのも、偶然と言えます。(ただ、見方を変えれば必然ではありますが・・・)
ましてや、タロットにたくさんの種類があること、そして自分が初めて学習したタロットが、その中の古典的なマルセイユ版であることも知りませんでした。まあ、結局、私はマルセイユタロットしかやらないことにはなりましたが。
そんな私ですから、初期の自分のタロットリーディングも惨憺たるありさまで(苦笑)、意味を学んでも、カードがほとんど読めませんでした。
自分はタロットリーダーには向いていないとつくづく最初の講座中思ったもので、リーディングのできない自分が恥ずかしくもありました。できれば講座を途中でキャンセルして帰ろうかとも思うほどでした。(笑)
しかし、当時の先生から聞かされるタロットリーディング以外の神秘学的内容や、古代象徴系の話はとても興味深く、タロットを通して本当の自分や宇宙を知るという教説には、自分の好奇心・探求心に火をつけるワクワク感がありましたし、実はタロットを習うこと自体はとても楽しい面もありました。
ちょっと話はそれるのですが、この受講中の楽しさは、もしかすると自分の特質とも大きく関係しているのかもしれないと思うところがあります。
これまで、ほかのセミナーや講座を受けることもありましたが、タロットの学びは格別でした。
それは人見知りのある私でも、タロット仲間には、気の合う人が多かったということもありますし、その自分の特質というのが、知識などを学ぶことが好きであるということもあったからです。
そして、これらをさらに自分の内的なデータとして掘り進めていくと、仮に過去生というものがあるのなら、私は修道院や僧院のようなところで学ぶ形式と生活が過去にあったのかもしれず、しかもその繰り返しが結構あり、それゆえ自分にはなじんでおり、たとえそれが(経済や自由さにおいて)苦しいものであっても、精神的には楽しく、充実していたのではないかと思うところがあります。
そうした(大人になっても続けていく)学院形式は、悪く言えば現実逃避の部分もあったでしょう。修行生活と言っても、実生活で自ら働いて生活していくのとはまた別で、おそらく、寄付とかお布施とかもあって、稼ぐという行為は、托鉢的なものや半ボランティア的な行為、院による作物や食物の製造(西洋だとワインとかチーズ)などで、院生活のための収入を得るものになっていたかもしれず、いずれにしても、外の社会で働くのとは違っていたと考えられます。
私にはもともと現実逃避的な性質があります。(苦笑) それが先述したように、何かを学んでいる時と、その仲間との交流の時間は、自分の精神としては、現実を忘れるほどの喜びと楽しさを感じることがあり、そのため、今述べたような過去生データのスイッチが入るのではないかと推測している部分があるのです。
話を戻します。
タロットリーディングが、技術的にもまずかった当初の私ですが、ある時を境に、急に視界が開けたように、タロットが読めるようになりました。
いったい何が起こったのでしょうか?
それは、訓練を続けたことと、コツをつかんだということにあります。私の先生も述べていましたが、タロットリーディングは一種のアートなのです。日本語では、芸術というより、「芸事」の「芸」というのに近いでしょう。
芸事ですから、よほどの才能がある人とか、霊感的な特殊能力のある人(そのような人は、タロットを読むのではなく、自分の特殊能力でチャネリングすることが多いのですが)以外は、やはり師匠(先生)について学ぶほうがよく、しかもただ学ぶだけではなく、一人の時も、よく訓練しておく必要があります。
また師匠・先生に言われたことだけをするのではなく、自分なりに創意工夫し、常にリーディングの向上に努めることが求められます。思考だけしていても始まらず、人に見せる実践トレーニングも芸事には大事です。(カードで言うと「手品師」)
このあたりが普通の勉強とは違い、芸事の習得の特徴でもあるでしょう。何よりも、タロットという芸を愛している(好きである)ことが重要です。
一方で、芸やスポーツには、確かにセンスの問題というのもあるかもしれませんが、私自身はセンスはあるほうだとは言えず、普通だと思います。それよりも、「コツをつかむ」ということに集中してトレーニングすることです。
タロットリーディングが芸事であっても少々やっかいなのは、タロットの種類や展開の方法によっては、そのリーディング方法も異なってくることと、教える人の言うコツと、本人のつかむコツというのが合わないと言いますか、噛み合わないことがあるのです。
まあ、ほかの芸、たとえば踊りとかでも、流派があるように、タロットも一種の流派や流儀の違いがあります。
さらに、先述したように、教える方は、自分のコツを伝えようとしますが、それが人によってはコツとはならないことがあるのです。
従って、先生の言われる方法だけでは、本人としてのコツがつかめないこともあるわけです。ここが、自分なりの工夫がいるという理由なわけです。
それでも、あきらめないことが大事です。コップの水で例えれば、タロットの知識やリーディングの訓練が、次第に自分というコップの中に溜まっていき、いつかあふれ出す時が来ます。
私が急にタロットを読めるようになったのは、コツをつかもうとトレーニングしてきたことと、それらが一定の蓄積を超えて、リーディング脳とも言える、脳内や精神的内部のタロット的思考のネットワークがつながったからだと思っています。
それが突如、読める感覚となって現れます。いわばタロットリーディングにおける開眼みたいなものですが、それにはきちんとした蓄積があってのものなのです。(開眼にもレベルがあり、また次の段階で読めない(これまでのコツでは通用しない)状態が現れ、それを乗り越えて、さらに高度なリーディングに変容していきます、その繰り返しみたいなものです)
タロットとの会話と言いますか、タロットか好きで、タロットをさわっていると、向こうから語りかけてくような感覚も出ます。それらも、蓄積によって現れると言えます。
開眼する前にも、その過程では、「あっ、いい感じで読めている」という、コツをつかみかけるような時があります。その感覚を忘れないことですし、そうしたことが次第にたくさん起こるようになってくるとよいのです。
読めない時はがっかりしたり、自分にダメ出ししたりするかもしれませんが、多くの生徒さんは、できないことにフォーカスしがちで、できていることに意外に無関心なのです。
自分ひとりでトレーニングしていても、比較の意味でわからないことがありますから、やはりタロットを学習する仲間とか、友人とタロットリーディングをし合ったり、勉強会などか開催されると参加したりして、自分ができていること、読めていることを人から評価してもらう機会を作るのもよいでしょう。(当然、できていない部分も見えますが、そこは落ち込まず、冷静に受け止めて、向上させればよいのです)
あと、なるべく具体的な目標も大切で、例えば「いついつのイベントまでには、出演できるよう、読めるようにしておく」という決意と実行が、具体的目標・節目となって、現実に作用しやすくなります。
ほかにも、他人リーディングの修行ということで、一か月何人見るとか、合計〇〇名の人をリーディングするというような目標を立てて、実行していくのもよいでしょう。
ただし、この数稽古形式は、慣れとかコツをつかむきっかけになることもある反面、数さえ満たせばうまくなると思って、検証や理論なしで、ただがむしゃらにやり続けても、ますます混乱を来したり、変な固定的な読みの癖がついたりする恐れがあるので(リーディングが占いレベルオンリーになりがち)、注意が必要です。(「手品師」や「皇帝」だけはなく、「斎王」や「女帝」も必要だとマルセイユタロットでは例えられます)
プロでやっている人でも読みづらいこともありますし、うまく行かないこともあるのですから、反省はしてもダメ出しはせず、コツをつかんで自信をつけ、よきリーダーになっていただきたいと思っています。
あなたのタロットリーディングによって、救われる人もいるのです。
波に乗る 乗らない
量子力学的な引用で、この世界(素粒子レベル)は波動と粒子の両方の性質を持つと言われます。
とぢらでもあって、どちらでもないわけで、それは少し古い言い方にはなりますが、「観測者(の存在)によって変わる」という、一見不確かなようにも見える世界でもあるということです。
ともあれ、粒子とともに、波動、波としての状態もあるということはわかります。
ということは、私たち自身が波であるのか、はたまた粒子であるのかによっても、見え方、感じ方といいいますか、世界そのものの在り様も変わるのではないでしょうか。
私たちはよく波に乗るという言い方をします。
これは調子がいい時や、何か幸運をつかむような時の表現でも言われます。
反対に、調子が悪いと、波に乗れないとか、波からずれている、はずれている、落ちている、合っていないというような言い方もします。
波に乗る、乗らない(乗れない)という表現で、イメージされてくるマルセイユタロット(大アルカナ)と言えば、やはり「運命の輪」でしょうか。
「運命の輪」には、その名の通り、運命を象徴するような輪があり、それに「乗る」ような形で、三匹の動物が描かれています。
そして下には大海のようなものがあり、この輪のマシーン的なもの自体が海に浮かび、波に揺られている状態で、つまりは、波(乗り)との関係性が二重で示されていることになります。
この「波乗り」の二重性は、なかなか興味深いところです。
まず、輪のほうの「乗り」で見ますと、やはり、三匹の動物たちの乗り方が特徴的です。向かって左側の動物は輪からずれたり、降りようとしていたりするようにも見え、方や、向かって右際の動物は、必死で振り落とされまいとしがみついているようにも見えます。
さらに、一番上の動物は、悠然と構えていて、輪の「乗り」を楽しんでいるか、まったく回転を意に介さないかのような印象です。
もし輪がそのまま文字通り、運命を示すのであれば、私たちはこれらの動物のように、ある時は運命の流れから落とされるかのように感じたり、またある時は、必死で運をつかもうと作為したりするかのように見えます。
そういう中で、真ん中の動物だけは、運命を知っているのか、そういうものを意識し過ぎないのか、輪自体には確かに乗っていますが、回転の影響は受けていないので、ある意味、「乗っていない(動いていない)」とも言えます。
ただ、この真ん中の動物としても、下の大海の上下のような波の運動は感じているかもしれず、その影響はあるようには思います。
それでも、まるで海を進む船が、この船は大丈夫だと確信しているかのように、大海の波乗りと、輪の波乗りのふたつを同時に楽しんでいるかのようです。
一方、輪の中の左右二匹の動物たちは、おそらく大海の波の動きには関心がなく、それを感じてはいても、輪の回転、輪の動きだと誤解したり、混同したりして、波乗りについては、輪のほうに意識が偏っていると推測されます。
私はあえて、大海が何であるかとか、輪が何であるかということを答えのように、ここでは示しません。さきほど、「輪は運命だとしたら・・・」と表現こそしましたが、それはそうかもしれませんし、そうでないのかもしれないのです。
ここは皆さん自身で、自分なりの回答とか、象徴しているものの意味をつかんでほしいと思います。
もう一度、大切なことなので、「運命の輪」から見えてくる構造を、「波乗り」を、描かれている動物を比喩にして書きます。
●回転する輪に翻弄され、それに乗ろう(落ちまい)とする動物と、輪からはずれたり、落ちようとする(落ちてもいいかのような)動物
●輪の回転に影響されないが、輪には乗っている動物
●大海の波を知りつつも、動揺しない動物(輪の上の真ん中の動物)
●大海の波の運動を、輪の左右二匹の動物は知らないか、感じ取りにくい(輪の波乗り、波降りに集中している)
ここで、最初の話に戻ります。
すでに古典的なものではありますが、量子力学では、波動と粒子の二重性が言われていて、もし私たちに波動か、粒子かの選択があるとすれば、波動状態そのものであれば、実は波を実感することはできず、粒子であれば、つまり物質的な形のようなものであれば、逆に波は感じられるのかもしれません。
しかし、波の運動によっては、私たちは、自分が小舟のように右往左往してしまうかもしれず、何とか、うまく波乗りしようと頑張って、上手に乗りこなしていると見える時と、まったく波と合わずに、サーフボードから落下してしまったり、船が沈没してしまったりするかのようなこともあるでしょう。
「運命の輪」の真ん中の動物は、なぜ回転の輪の波乗りを平然とこなすことができるのか、そして、大海の波に翻弄されることがないのか、このことは、「運命の輪」のカードそのものからの重要な示唆であると考えられます。
輪の二匹の動物は、絵としての二次元表現でも、動いているように見えます。
それは輪(の絵)とともにあるからとも言えます。ちなみに、輪をよく見ると、マルセイユタロットでは、「運命の輪」が立体的、三次元にも見えるのですが、その三次元感覚でさえ超えるような、不思議な描かれ方もしています。(例えば、輪の中の向こうの景色、背景が見えないなど)
さて、こうして見ていくと、「波に乗る、乗らない」という表現と態度は、もしかすると、逆に私たちを波から遠ざけているのかもしれないのです。
しかし、また反対に、その表現があるからこそ、実体として見えない運命のような波、何かの流れ、波動のようなものを感じ、外に表現することができるとも言えます。
ここに、物質性と精神性、または霊性とのつながりが見え隠れするのです。
ちなみに、「運命の輪」は、詳細は言いませんが、時間とも関係するカードです。
流れる時間と空間の感覚こそが三次元を生み出しているとも言え、波乗り、波降りに振り回される二匹の動物がごとく、私たちは、時間と空間の中で、もがいているようにも見えます。
ところで、大アルカナは22枚ありますが、ある分け方をしますと、10枚×2の分類で、残り二枚が「愚者」と「世界」になるというものがあります。つまりは、「10」という数と括りが、セットやサイクルを象徴することになります。
その数を持つ「運命の輪」が、重要な位置(終わりと始まり、プロセスの重要な転換点)にあるのは想像できます。
運に対しての私たちの考え方も、言葉で言えば、運に乗る、運をつかむ、運から見放される、運に振り回される、運がない、運がよい・悪いという、運をあたかも客観的に自分とは別に存在するかのような表現をよくします。
これがもし主観的なものだったら、どう表すでしょうか。
こうしたことも、波とそれに乗る者、扱う者との関係性で、「運命の輪」をもとにして考察できると思います。
タロットリーディングの二方向性
タロットリーディング、タロットを読む方法、そのアプローチの仕方というものは、かなりたくさんあると考えられます。
絵から直感的に読むもの、絵を何か現実のものにあてはめて読むもの、タロットの(象徴的)システムや体系から読むもの、タロットの意味から読むものなど、様々です。
最初は教えられる先生や学ぶ本、動画などからの、いわば教科書的・共通的なリーディング方法を取り入れますが、次第に個性的なものと言いますか、自分らしい読み方に固まってくるものです。(固まり過ぎても問題ではありますが・・・)
まあしかし、最初に教えられる先生、初めに学ぶ元となる教材からの影響はかなり大きく、たとえあとで先生を変えても、その影響は自分の個性的な読み方を形成していく(形成される)うえでも、核となって残っていると感じます。まるで生まれたばかりのひなが、最初に見たものを親やモデルとするかのようです。
それはともかくとしまして、今日の話題は、タロットリーディングにおいて、大きく分けるとふたつの方向性があり、その、普段は気づきにくい、もうひとつの種類の読み方があるということと、それを意識してみるのもよいのではないかという提案です。
普通私たちが行っているタロットリーディングは、最初にも述べましたが、あくまでタロットを自分がどう見るのか、見えるのかという、自分側が中心のスタンスです。
直感的であるにしろ、論理的であるにしろ、対象としてのタロットカードがあり、それを自分が見ているという方向性のものです。
しかし物事の見方は少なくとも二方向、いや、本当はもっと多様なものがあると考えられます。
つまり、タロットとタロットリーダーの関係で言いますと、少なくとも、もうひとつ、タロット側を中心にした視点があるということです。
タロット側の視点とは何か?と考えた場合、これもいろいろな意見はあるかもしれませんが、私は、これがいわゆるタロットの精霊とのコンタクト的なリーディングになるのではないかと推測しました。
ちょっとサイキックや霊的な世界、技法的には西洋魔法的なタロットとの関わり方やタロットリーディングの方法の感覚に近いと思います。
あえて簡単に表現すれば、タロットの精霊が私たちに語りかける、情報を教えてくれるみたいな感じでしょうか。
ということは、タロットリーダーがタロットを見てどう思う、どう見るというのではなく、反転して、タロットが私たちをどう見る、どう思う(笑)みたいなものになります。
これと少し似ているのが、タロット的な象徴や意味から問題を見てみる、捉えてみるという、リビジョン的なタロットリーディングです。
この場合、例えば、「戦車」というカードが出れば、問題を「戦車」のカードの意味に当てはめるて解釈したり、リーダーの見え方で考察したりするのではなく、その問題は「戦車」の視点を必要としている、「戦車」がその問題を扱う、という逆の発想になります。
書いただけ(文章から)では、違いがわかりづらいかもしれませんが、要するに、自分が中心となるよりも、タロットの象徴や枠組が中心になるという発想です。
しかし、このリビジョン的な見方と、タロットの精霊とのコンタクトによるリーディングとでは、タロット側が中心の立場としては同じようでいて、厳密には違うものだと思います。
これも言葉では説明しづらいのですが、タロットの精霊とのリーディングということになれば、タロットの世界に自分が入り混むと言いますか、タロットと一体となって読むみたいな感覚となるでしょう。
例えるならば、自分が中心のタロットリーディングは、昼間の顕在意識が強い私たちの意識の世界、タロットの精霊関係のリーディングは、夜、寝ていて夢を見ている潜在(別の)意識も含む状態の意識の世界みたいなものでしょうか。
ゆえに、後者は、論理性や常識的な因果性が少なく、通常感覚での説得力に欠ける場合もあったり、理解しづらいところもあったりするでしょう。
しかしながら、タロットというものをあくまで、絵のついたカード(モノ・対象物)として、それを自分が見ているという感覚だけで続けていると、タロットの物理的(三次元的)な枠組から出ることができず、当たり前のリーディングや、現実的・現世的な意味での吉凶解釈のリーディングになりがちだと思います。
大アルカナのカードでいえば、こうした精霊的、タロット中心的なアプローチの象徴は、「月」のカードにあると私は見ています。このカードこそが、タロットリーディングの意味において、最も奥義を持つものではないかと想像しています。
月には二匹の犬のような動物、さらには、奥にはふたつの塔、それらが微妙にずれながらパラレルに描写されつつ、水たまりには第三者的なザリガニがいます。
さらに、月自体、顔をもって描かれ、月そのものから視線を受けている構造が見えます。いわば、私たちが月を見ているのではなく、月が私たちを見ているのです。
実際の天体としての月を見ている時(あるいは見ていない時のほうが強いかもですが)、皆さんの中にも、月から見られている感覚を得たことのある人がいらっしゃるのではないでしょうか。
元に戻りますと、タロットの精霊の住む世界や、この通常次元とは異なるタロットの世界があると思うような一種のメルヘン的な想像が、実はこの三次元認識の世界観を壊し、新たな世界に飛翔するためのヒントになることでもあると感じられます。
ただし、あくまで、現実(三次元)意識も保ちながらというのが重要で、完全にあちらの世界に浸かってしまうような感覚だと、これはこれで幻想空間にいるようなもので、問題となるでしょう。(自分が支配されるかのようになります、ルシファー的な悪にとらわれます)
錬金術の言葉でははありませんが、「解体(分離)して統合せよ」というように、タロットリーディングにおいても、タロットを見て自分が読む意識と、タロットから問いかけられている、タロットがささやく(攻殻機動隊の「ゴーストのささやき」を思い出します)、タロットがこちらを見ているといような、あちら側からのものの意識とのふたつを分離しつつ、共同作業にすると、本当に統合されたリーディングができるのかもしれません。
最初にも述べたように、タロットリーディングは個性的な読み方に結局はなっていきますが、その中でも、二つの方向性の読み方を意識しておくと、普遍的なもの(全体的なもの)に近づけたり、修正したりできるのではないかと思いますので、覚えておくとよいでしょう。
縁と行動とタイミング
今日のタイトル(縁、行動、タイミング)は、マルセイユタロットで言えば、「恋人」、「皇帝」、「運命の輪」という感じです。
ただ、レベルが変われば、例えば、縁は「審判」とも言えますし、「運命の輪」でも表せるほか、別の見方では、もっとほかのカードでも象徴となります。
もちろん、行動、タイミングも同じようなことが言えます。(タイミングだけは、かなり「運命の輪」に絞られてきますが・・・)
また、実は「恋人」カード一枚に、この縁、行動、タイミングのすべてが入っているとも言えるのです。どれがどれなのかは、図柄の詳しい説明をしないといけないので、ここでは省きますが、少しだけ述べれば、恋人の三人の人物が行動、上空のキューピッドが縁、タイミンクは秘密としておきます。(笑)
同じようなことでは、「運命の輪」でも、縁、行動、タイミングを一枚で表せます。
ところで、この「縁」「行動」「タイミング」についてです。
人生をそれなりに生きてきますと、これらが重要な要素を占めているのが、おそらく皆さんにもわかってきているのではないでしょうか?
いわゆる経済的な成功についてもそうですし、健康問題、人間関係など、およそ、生きていくうえで人が関心を持ったり、問題となったりすることのほとんどが、実は、これらの三つに左右されるのではないかと想像できます。
簡単にひとつひとつ見て行きましょう。
まず「縁」です。
縁、特に人の縁がつながって、人が紹介されたり、出会ったりすることで、その人の人生は大きく変わります。あの人との出会いがなければ今の私はなかったとか、あのこと(縁)があったので、このような仕事に就いているとか、パートナーや家族になったとか、あるわけです。
時には病で、ある縁がつながって、名医や適切な治療ができる病院を知って、命が救われたという場合もあるでしょう。
それだけ縁は大事だということです。まあ、カルマ的な話を持ち込めば、縁も自分でつけることのできる縁以外に、見えない力やデータが働いて、つけられる縁もあるということで、まさに良縁は自分のよい思考や行いに由来するとも言え、逆に悪縁もしかりで、自業自得なところもあるのかもしれませんね。
ということは、良縁を望むということは、現実での普段の考え方、行為とともに、天・宇宙・先祖など、見えないものに対する感謝のような気持ちも大きな要因となりそうです。
さて、縁の中で「行為」という言葉が出たように、次は、「行動」についてです。
いくらよい縁がつながったとしても、自分がその人に会うとか、そこに行くなど、何か行動しないと、何も始まらないわけです。
これは腰の重い人や考えすぎ傾向の人には結構あることで、せっかくよい縁が来ているのに、疑ったり、面倒になったりして、行動を起こさず、みすみすチャンスを逃してしまうことがあります。
それに、たとえ悪縁であっても、行動次第では悪縁を断ち切り、よいものに替えていくことも可能です。
私たちは想念だけの世界に生きているわけではなく、現実の形ある世界にいるのですから、そこに実際に働きかけること、行動を起こすことをしないと、形としての結果は変わらないことが多いわけです。
そして、最後は「タイミング」です。
これはいわば、縁と行動の両方に関わる(ついて回る)ことと言ってもよいでしょう。
よい縁があり、そしてそれに向けて行動したとしても、タイミングが悪いと、出会えなかったり、効果か薄かったりすることもあります。
また、言い方を換えれば、よい縁とはよいタイミングであるとも考えられ、さらに行動が重なると、グッドなことが起こると想定できます。
ということは、逆に言えば、自分の成すタイミングがよくなればなるほど、良縁に恵まれ、行動と結果もスムースになり、望んだもの(人生)になっていくと言えます。
自分の「タイミングがよい」ということはどういうことでしょうか?
ひとつには、自然や宇宙の流れと一致している(大きなズレがない)ということがあるかもしれません。それならば、自然・宇宙の流れとは何なのかということを知る必要があります。
もうひとつは、現実次元において、スピード(間)が適切であるということでしょう。俗に「間が悪い」とか「間に合う」という言い方をするように、間・間隔、時間の刻み方、速さが、物事のタイミングと合っているわけです。
人の場合だと、その人の望むタイミングでこちらも連絡したり、会ったりできるという感じで、要するに、シンクロ率の高さ、上昇とも言えます。
間(ま)、タイミングは、万人に共通な時計時間の世界において、それぞれの内的な時間が関係していると考えられ、それはカイロス時間、精神時間とも表現することもできます。
タロットで言えば、大きな時計時間(クロノス時間)の回転の中で回っている、別のそれぞれの内的な時間(カイロス時間)という感じです。
その内的時間同士が合いやすいというか、合わせやすい人は、タイミングがよく合う人、よいタイミングで動く人と言えます。
現実世界は、分離世界といえ、タロットで言うと小アルカナの四大元素、4組の世界です。
4組は、風・水・火・地のエレメント(元素)を象徴する剣・杯・杖・玉(ソード・カップ・ワンド・コイン)で示されています。これらがバラバラで分かれているように思える世界が現実世界で、人で言えば、全員個性があって同じ人がいないという感覚のものです。
ですから、土台、現実世界では分離、バラバラなものなので、「合う」ということが難しいのです。
そういう中で、たとえ偶然でも「合う」というのは、一種の奇跡が働いているようなもので(神の力で起こっていると見れば、「奇蹟」になります)、すごいことなのです。
古代ギリシアでは、四大元素の集合離散について、愛・憎によって起きていると考える人がいました。(エンペドクレス)
最初は?と思うでしょうが、四大元素や宇宙の仕組みを知ってくると、なかなかに興味深い説だと思います。
この説からすれば、四大が分離した世界、つまりは私たちの認識する現実世界において、愛があれば、響き合い、統合していくものと考えることができます。
つまり、タイミングについても、シンクロしたり、合ったりするには、愛が重要な鍵となるのです。
タイミングが合うことを望むのなら、合わせたい人や物事を愛し、時間や縁、運といえるものからも愛されなければならないのです。
ちょっと古いですが・・・サンシャイン池崎氏のギャグ(笑)ではありませんが、人に愛され、縁に愛され、時間に愛されて、ジャスティスならぬ、ジャストタイミングが来るのです。
孤立を深め、エゴの塊になればなるほど、誰からも何からも愛されなくなり、もちろん自分が愛することもできず、四大は分離していきます。
すると、シンクロも起きず(起きていても気づかず)、良縁は来ず、行動はしても一人よがりになって非効率的になり、タイミングはますます、ずれていきます。
ちなみに、「運命の輪」の輪の上にいる動物(スフィンクス)は、統合のシンボルでもあり、輪の中にいる犬と猿とでは次元が異なること示しています。
犬と猿のような状態で、必死にタイミングを合わそうとしたり(犬)、逆に無為無策と言いますか、棚ぼたに期待するような姿勢で幸運を待ち望んでいたりしても(猿)、本当のジャストタイミングになるのは難しく、反対に、二匹のレベルから脱しているスフィンクス状態になれば、自然にタイミングは合うのです。
縁、行動、タイミング、これらがスムースに運ばれ、よくなっていくためには、自他の愛が必要であること、逆に見れば、愛の振り分けが縁となり、行動となり、タイミングを決めていくとも言え、縁だけ、行動だけ、タイミングだけをエゴ的に固執していても、総合的には良く働かないことを、タロット的に述べてみました。
シンクロニシティのちょっと変わった考察
シンクロニシティ、つまり必然性があるかのような意味ある偶然、あるいは偶然の中の意味の取れる必然性というような現象で、スピリチュアルに関心のある人は、シンクロと略しつつ、よくそのことを述べられます。
タロットリーディングにおいても、シャッフルなどして、どのカードかわからない状態のものから引き出したカードが、自分の問題や知りたいことを示していると見るのも、シンクロニシティを前提にしないと成り立たないものです。
ただ、人間は関心を抱いたものを情報として集め、さらに言えば、関心のないもの、今特に(生存において)必要性のないものは逆に遮断する傾向もあるため、言ってみれば、偶然のように起こった意味ある事も、自分があることに関心をずっと持っているため、何を見ても(何が起こっても)自身が関連づけをしてしまっているとも考えられ、極端に言えば、関心事関係しか目に入らない状態、もしくは関連せさてしまう精神状態にあるからと、シンクロ現象を分析できるかもしれません。
となると、シンクロニシティは偶然の必然と言うより、すべて自分が意図的に起こしている必然の可能性もあります。
ところで、シンクロニシティ(以下、シンクロとも表現します)が特にテーマとなってくるもののひとつに、シンクロニシティによる答えや進むべき方向性がわかるかどうかというものがあります。
自分が何かの問題状況にあったり、進路・選択に迷いがあったりする時、およそ関連性のないもの同士の出来事なのに、自分の問題に関して回答を得られたような必然的な意味・関係性を見出せる場合があります。
時計やレシート、車のナンバーなどの数字、看板の文字、カフェやレストランでの知らない人の会話の内容、雲の形、虹の現れ、日が急にさしてくる、風が吹くなどの自然現象等が、自分の問いに対して、なぜか答えや道が示されたかのようなシンクロ性を感じることがあるわけです。
これは、何がシンクロしていると感じるかと言えば、結局、タイミングです。
関係ないことでも、タイミングが自分にとって絶妙だった、タイミング的に偶然とは思えないから意味あるものと感じます。
逆に言えば、タイミングがバラバラで、間が悪い時に起こったことは、シンクロとは感じないことが多いと言うことでもあります。
タイミングと言えば、文字通り、時間に関することになりますが、この時間というものがちょっと曲者です。
時間には種類があると言われます。一般的によく取り上げられるのは、皆に等しく流れる時計的・機械的な時間と、一人ひとり個人の心に流れる精神的な時間です。
シンクロだと感じる場合、この時計時間の中に、精神時間が入り込んで、現象を意味あるもののように結び付けているとも考えられます。
別の言い方をすれば、精神時間に私たちが移行している時、シンクロを感じやすいということです。
マルセイユタロットからも言えるのですが、私たちは時計時間で生きる自分と、自分の中の時計、いわば精神の時間で生きる自分との二人がいて、それが時にはせめぎ合ったり、邂逅(クロス・融合)したりしているように思います。
メルヘン的な言い方をあえてするとすれば、精神時間を駆けている自分が、普通の時間で生きているもう一人の自分に会いに来るわけです。(笑) その瞬間、偶然でバラバラであると見られていた物事・現象が、意味あるものとして結びつきます。
精神時間の自分は、時計(通常)時間で生きているあなたの問い(の答え)を検索している存在でもあります。
精神時間は過去→現在→未来という流れとは限らず、その逆であったり、時間がそれぞれ並行したり、時計時間的には伸び縮みしているかのような感じにもなります。いわば、一定の時間の流れや方向性ではないのです。
ゆえに、例えば、未来や過去の出来事にも問いに対して検索がかけられ、それに見合うものを引き寄せてくるような感じになります。
普通の時計時間的な世界では、過去・現在・未来の流れを中心とした論理性、つまりは因果関係が目に見えて明確な形でないと、それぞれの関連性、結びつきが理解できない、あるいは必然性があるとは考えられないものです。
しかし、精神の時間では、その縛りから解放され、別の論理性や理由をもって、物事に関連性がもたらされます。
言ってみれば、睡眠中に見る、一見混沌とした「夢」に、何らかの意味を見たり、関連を通したりすることができるというようなことに似ています。
シンクロによる問いの回答が正しいのか、そうでないのかは、はっきりとは言えません。
なぜなら、その正しい・間違いの判断の基準が、どのレベル(法則)のものなのかがはっきりしていないからです。
一般的に言われる正誤の判断は、現実の人の多くの一般的価値観の判断によるものと考えられますが、それは個人として見た場合、絶対基準とは言えません。
あの人にとってよいことも、自分にとっては悪いこと、またその逆もあるのです。つまりは、一般的にはそれは正解と考えられていても、個人で見た場合、正解とは言えず、自分なりの正解は別ということも個人レベルでは普通にあるわけです。
シンクロを見て、回答や進むべき道を知るということでも、それはどちらかと言うと、ニュアンス的には個人的レベルなものです。
そうであるならば、シンクロで感じられる答えというのは、個人の中にあるもので、自分がもともと持っている回答とか進みたい方向性と言えます。
ひねくれた言い方をすれば、本当にしたいこと、やりたいこと、あるいはその逆に辞めたいこと、したくないことなどの本音の世界(気持ち)を、シンクロという現象を理由にして(創り出して)、自ら後押しや理由をつけたがっているとも言えます。
ただ、シンクロで知る答えは、本音とは限らないこともあります。
先述したように、シンクロ現象は、精神時間で生きるもう一人の自分による検索や、別の観点による意味付け(別次元の論理)とも考えられますから、抑圧したり、心の奥にしまっておいたりしている潜在的な気持ち、さらには忘れてしまってはいるものの、実は結構重大な情報ということもあり得ます。
要するに、シンクロからの情報による答えが正しいか正しくないかで見るよりも、シンクロとして感じたことは、普段や常識で思考したり、感じたりしている自分とは別の情報ソースの扱いだったり、いつもとは違う答えの導き方として起こっていたりする出来事として見ればよいのではないかということです。
端的に言えば、精神時間の自分からの現実(時計)時間の自分へのアドバイスみたいなものです。ですから、時計時間で生きているこちらの自分との協議であってもいいのです。
ただ、向こう側の自分は、時空を超えた情報世界にいますし、自分の内側をよく知る存在です(実はややこしいですが、自分の真の外側を知る者とも言えます)。
ですから、シンクロと思える情報や感じは、結構深いところを突いていたり、的を射ていたりする場合が多いのです。スピリチュアルな合理性を持つと言ってもよいでしょうか。
ただ、自分の通常意識が関心を持っているから、そのように見えてきたという、単なる意識の特定事項のフォーカスによって、あたかもシンクロのように見えるものとの違いはあると思います。
やはり、その最大の違いは、シンクロの訪れるタイミングであり、ずっと注目していたからやはり現れたというより、むしろ関心事から意識をずらしたり、当の出来事から離れたりしている時に、突如飛び込んでくるものや、あとあとで、意識の上に、まるで一本の線が次々と結ばれていくかのように、バラバラで別々のこと同士がすべて関連づけられて、「ある種の型」とか「象徴的なメッセージ」が形成されてくるのは、シンクロ現象だと言えます。
とにかくも、絶妙なタイミングで起こるものに、これまで述べてきた自分の中の二人の出会いがあると言えます。
マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の回転で象徴され、ふたつの別の「運命の輪」がまさにシンクロ・同調して一致した時、あなたに偶然のような、意味のある必然性が起こるのです。
シンクロで回答を得ることを求めたり(シンクロしたことが正解と思ったり)、必要以上に特別な意味を持たせたりするのではなく、意識上の違いをよく認識し、むしろバランス修正や、統合の視点で見ていくと、シンクロに振り回されることも少なくなるでしょう。
一般の人は、もっとシンクロに意味を見たほうが、特に情緒的世界が広がりますし、逆に、スピリチュアルに傾倒し過ぎている人は、自分の意識が起こしていること(同じように意味付けしやすい心のパターンにはまっていたり、洗脳されたりしている恐れもあります)だというように、冷静に見ることも必要かもしれません。
