ブログ

タロットと三か月の期間

初級、基礎の段階のタロット講義において、よく受ける質問のひとつが、タロット占いやタロットリーディングの期間効力についてです。

裏を返せば、「タロットはどれくらいの期間を想定して占えるのか、リーディングできるのか」ということになります。

これには、一般的には(何をもって一般的なのかは難しいのですが(^^;)、タロットの世界でよく言われている説という意味にします)、三か月の期間だと言われます。

タロットを習う生徒さんにも、そういう話はすでに誰かに聞いているのか、「タロットは三か月しか占えないんですよね」とか、「三か月はこのまま(出たカードの内容)なんですよね」と話す方もおられます。

これについては、私自身は、三か月というのには、ある条件があってそう考えるのが適当としています。

つまり、逆を言えば、三か月がタロット(リーディング)の有効期間とは限らないという立場でもあります。(また同じ質問は、三か月経過しないとしてはならないという立場とも違います)

このブログを読まれている皆さんは、タロットに興味があっての人が多いでしょうから、その皆さんにもお聞きしますが、ではなぜ、一般的に三か月という期間が言われているのでしょうか?

タロットの学習に限らず、ただ機械的に、「そう言われているから」とか、「そう習ったから」とか、「みんながそう言っているから」という姿勢で、何も考えず、疑問も持たずに、そのまま暗記するような態度は問題と言えます。

なぜなのだろう?と思えば、自分で調べたり、教えてもらっている先生に聞いたりすることで、より納得もできますし、知識も広がりと深みが増します。(しかし先生は場合によっては質問について、懇切丁寧に全部教えることはかえって生徒さんの成長の妨げと考えて、わざとヒントしか教えないこともあります)

ですから、タロットの有効期間についても、三か月ということを鵜呑みにせず、自分で考えてみるとよいでしょう。

一応、私の見解をここで今から述べますが、それはあくまで私の考えであり、正しいか間違いで見るものではないと思ってください。

先生や本、色々な人からの意見は参考にしつつ、最終的には自分で考え、判断を下し、そして実際に活用していくことに意味があるものです。

さて、タロットの有効期間三か月説ですが、これは、おそらく人の意識が関係していると考えられます。

コンサル系のブログタイトルなどでも、一時期流行りましたが、皆さんも「90日で〇〇できる」とか「90日で結果を出す」とか見たことがあると思います。

そう、90日はおよそ三か月です。

この期間こそ、私たちが何かをしようとか、変えようとか、やってみようと新しく望む時の意識継続時間と言えるのです。

もっと言えば、これくらいの期間において、あることを強く意識し続けると、思考や感情のパターンに刻印され、習慣化したり、実現に向けて意識がそれに変わってきたりするのです。

これには、占星術的な話にもなるのてすが、惑星の回転や周期と、私たちの人間の意識がリンクしていたり、関係していたりする前提で見ておくと、その理由がなんとなくわかると思います。(ここでは詳しくは述べません)

90日、三か月というのは、単数の数で言えば「」が基本になっています。この3が、また意識と関係しているのですが、現実性においては、もうひとつ数が加わる「4」の象徴性が必要で、そのため、90日、三か月というのは、現実というより、イメージや意識のうえで効力が働く期間だと言えるのです。

翻ってタロットを見た場合、タロットは絵柄でできている象徴のカードです。それはイメージや見えない世界、意識や心の部分で強く働き(印象を残し)、影響を与えます。

たとえタロット占い師やタロットリーダーから言葉で何かを言われたとしても、絵としてのカードを見ているわけですから、言葉とともに絵の効果で、クライアントの心に響きます。

そして、タロットを受けた人は、90日程度、タロットで出たものを(無意識も含めて)意識し、イメージの世界にそれを置くようになります。

こうして、タロット占い、タロットリーディングで出た内容が、私たちの意識に三か月程度影響するという話になってきたのだと推測されます。(タロット占いで、経験側的に、三か月の効力期間を感じ、それが法則化されたということもあり得ます)

しかし、この考えに立てば、タロットのことをどれだけ意識と無意識のうえで、刻印するか、されるかの程度によって、三か月の期間効力はあやふやなものにもなります。

強く影響されれば、もっと長期の場合もあるでしょうし、タロットカードをほとんど意識しない、または当たらないとか、迷信の類としてまったく意識的にスルーした(される)場合は、三か月はおろか、一日すら効果がないかもしれません。

また、タロットが意識に影響するという見方ではなく、逆にタロットが意識の何かしらを表すという、方向性を反対にして見ることも可能です。

ただその場合でも、あることを人が(同じように)意識するスパンが90日、三か月だとすると、その三か月以内の意識の状態をタロットが表していると見て、結局、三か月の効力説に行き着きます。

人の意識とタロットの象徴性がリンクする、リンクさせるとすると、タロットで見てみたいと思う期間やスパンの違いによって、タロットはそれぞれの象徴性を示すことも考えられます。

つまり、今年とか来年の象徴として、一年スパンもあり得ますし、明日の状態は?という一日単位のこともありうるわけです。

簡単に言えば、質問によって、タロットはいかようにでも象徴性の期間を変えることができますし、それはまた人の意識(設定)次第だということです。

しかし先ほど述べたように、三か月説にも根拠があり、それは一年のスパンでいうと四半期、春夏秋冬の季節の巡りにも相当します。

これはいわば、3という数と4という数の共同作業であり、イメージや(無)意識、心の世界、あるいは理想や計画上の世界を、現実・形の世界に落とし込んだり、実際に効力と影響を及ぼしたりする仕組みでもあるのです。

タロットを展開する時、それは三か月スパンの私たちの意識や、見えない世界の運勢、予想の投影や象徴として受動的に見るか、三か月にわたるこれからの意識改革の期間として能動的に見るかは、占いか創造的にリーディングするかの違いでもありますが、やはり、90日・三か月とタロットの象徴の示すものは、私たちの意識と関係が深いと言えます。

三か月のスパンに相性がよいスプレッドは、そのままズバリ、三枚のスリーカードを基本とするものでしょう。

三枚を引いて、一枚ずつがひと月分を表すと見てもいいですし、改変(創造)や切り替えのシンボルとして、三か月間の目標とするものと見たり、行動するパターンとか、会ったり、話したりする人の像が出ていると見たりしてもよいでしょう。

タロットと宇宙、人との関連を入れ子構造的に考察するのなら、たった一枚のカードの中にも、自分の一年、数か月、一日というミクロ方向から、逆の、一生や惑星・恒星の周期の壮大なものにまでマクロ的に広げることも可能でしょう。

一説では、例えば、大アルカナ22枚のひとつが、500年から1000年を示すというものさえあります。

それは、先ほども述べたように、宇宙が入れ子構造、ホロン構造的に、ある種の同じ型やパターン、法則性でもって貫かれているからです。

タロットと期間の、皆さんの考察の参考になれば幸いです。


チャネラータイプとタロット

私たちは「斎王」と呼びますが、一般的には大アルカナナンバー2の「女教皇」と呼称されているカードが今日のテーマと関係します。

今回、なぜこのカードを取り上げたのかと言いますと、タロットとチャネリングの関係を少しお話したいと思ったからです。

チャネリングが何であるのか、これにも定義や解釈が色々とあるようですから、細かく言い出すときりがないので、ここでは簡単に高次の存在や(心)霊的なもの、目に見えないものからの情報をキャッチできる能力としておきましょう。

名前の通り、見えない何かの情報とチャンネルを合わせることのできる能力、あるいはそうする行為というわけです。

現実でも、テレビや携帯などで、チャンネル・周波数、情報階層を合わせないと見ることも聞くこともできず、通信が成り立たないですよね。でもチャンネルを合わすと通じるわけです。それと同じようなことです。

そして、マルセイユタロット的には、チャネリングを行う(行える)人の象徴を、この「斎王」で表すわけです。もちろん、チャネリングの象徴は、他のカードでも示すことが可能で、「斎王」だけというわけではありません。

ただ、マルセイユタロットには、システマチックに考えられる要素があり、それによれば、この「斎王」がまさに現実の世界で、人間として(通常や常識範囲の人間)のレベルでは見えない、わからない情報を受容することのできる存在に、全体のカード構成からも言えるものなのです。

このカードは、大アルカナが22枚もある中で、数的には二番目に位置するということは、非常に大きな意味があるのではないかと推測されます。

端的に言えば、おそらく古代では、私たちが意識する日常生活とは別の次元(レベル・世界観)と、普通にチャネリングのようなことができる人たちが多くいたのではないかということです。

もっと言うと、それは難しいことではなかったと想像できるのです。(タロットのナンバーが少なめ、最初のほうに出ていることは、そういう意味も言えるかもしれないということです)

しかしながら、やはり誰にでもできるわけではなく、「斎王」が女性で描かれているように、まず性別として女性である必要があったと思われます。

タロットを見ていると、人間としての平等観、統一感(ひとつなる存在感)は強調されつつも、むしろ性では、その差や役割、別の特質が、よりはっきり区別されているように感じられます。

タロット的に言えば、画一的に男女を等しく扱うことは、逆に差別的になるような気がします。

やはり、女性には女性性としての、そして男性には男性性の、性による違いと役割があり、それらが森羅万象の二元表現とリンクし、最終的には、ふたつが統合されるところに真の平和と神なる次元の具現があるのだと、タロットからは考察されます。

いわば、分離があるからこそ統合に向かい、その統合感の喜びもまた、分離していた分、大なるものがあるのだと想定できます。

それはともかく、今日の主題は、実際にチャネリング的な能力がある人が、タロットを使う場合の話です。

私のタロット講座にも、いわゆるチャネラータイプの女性が学びに来られることがあります。そういう人は、タロットに呼ばれたとか、自分のチャネリングによって、このタロットとの縁を知ったとか、マルセイユタロットを学べと言われたとか、いわゆる狭義のスピリチュアル的な理由で来られることが多い気がします。

けれども、私自身は男性であり、教え方や教える内容も、タロットという、一般的には直感的なツールと思われているものでも、論理的なほうになります。

だから、もしかすると、チャネラータイプの人には合わないのかもしれませんが、幸い、私の講座は少人数制やマンツーマンが多いので、その人の個性に応じた配慮もすることができます。

ですから、チャネラータイプの人には、特にタロットリーディングにつきましては、普遍的な基礎技術はお伝えしますが、結局は、チャネラーとしてのタロット使いの推進をサポートする方向になって行きます。

ちょっと前に、カウンセリングとタロットリーディングの違いを書きましたが、チャネリングとタロットリーディングも、ふたつは似ているところはありますが、やはり違うものなのです。

まず、チャネラーの人が、チャネリングをメインとしながら、タロットを補助道具として使用するケースがあります。

逆に、タロットリーダーの中(タロットの情報を中心にリーディングする場合)に、チャネラー的素養があり、タロットを読みつつも、別のところから情報を得ている人もいます。ただ、これを自覚している人といない人がいます。

チャネラーを主とする人は、本来、タロットがなくても現実を超えた、あるいは現実の次元とは異なる情報を自らのチャネリング能力によって得ることができるはずですが、タロットを学習して使うことで、利点もあるのです。

それは、まず、何も道具がなく、直接自分の能力で、ある情報次元につながることは、結構なエネルギーを使うことでもあり、慣れないチャネラーや、エネルギーコントロールの未熟なチャネラーでは、かなり疲れてしまうことがあるわけです。

そこにタロットというツールを間に入れることで、緩衝材のようになり、チャネリングの情報(エネルギー)を、カードに一度グラウンディングするかのように落とし込んで、相手に伝えると、自分の負担が減るのです。

相手(クライアント)もカードを見るので、カード自体の象徴性と情報もありますから、チャネラー本人がすべて読む、情報を降ろすということをしなくても、クライアント自身で気づいてもらう、情報を得てもらうことも起こります。

また、もう少しチャネラーが慣れてくると、タロットの象徴システムを利用して、自分のコンタクトしている次元にリンクさせて、タロットカードをコンタクトゲートやプロトコル、パネルのようにしてしまうことも可能です。

こうした場合、タロットの意味というより、タロットを通して降りてくる情報を、相手に伝えるというような形になります。こうすると、情報ダウンロードの時点で、雑音や混信も少なくなるのではないかと予想されます。

タロットを通信道具の逆方向(地上から天上・別次元への方向)として使うこともでき、それは、タロットを通して、バランスの崩れた現実次元の情報を高次元に送ることでクリアにしたり、調整したり、昇華したりしていくように持っていくことができるでしょう。

これはタロットをヒーリング装置に使うことでも、同じようなことが言えます。

結局、チャネラータイプの人は、タロットは自分のチャネリングの時の消費エネルギーを減らしたり、安全にチャネリングを行ったりする補助・整理ツールとして使え、さらには、チャネリング能力を磨くための途中の過程として、タロットを能力の磨き砂ように使えます。

ですから、最終的には、タロットはいらなくなると思います。

これとは別に、タロットリーダーではあるものの、チャネリング能力も開花させていく人は、タロットの象徴と、自分がコンタクトする次元の情報とを合わせて、クライアントに伝えていくということになり、個性ある独特なタロットリーダーになっていく可能性があります。(またチャネリング能力の向上が飛躍的に進んで、タロットから離れて、純粋なチャネラーになる方も人によってはあるでしょう)

広義の意味では、誰もがチャネラーと言えますが、やはり職業的・プロ的なものを求められるとなると、それなりの修行や能力の向上、様々なもののコントロール技術も必要となるでしょう。

そのためのプロセス、安全段階として、タロットを使うこともある得るのです。

それと、チャネリングとはまた違う話になりますが、「斎王」は女性にとっての聖性や巫女性を象徴し、この部分を回復させることは、女性性においても、またパートナーとの関係においても重要となりますから、普段日常にまみれ(現実に振り回されて)ギスギスしてしまっている人は、「斎王」というカードを大切にしてみるとよいでしょう。


自己評価が低い人、生きる価値を見出したい人

自分の中に高次な存在がいるとか、内なる神性が宿るという話は、精神世界、スピリチュアルに関心のある人には、半ば常識的なものです。

私の使うマルセイユタロットも、そうした思想のもとに作成されていると考えられます。

しかし、同時に私たちは普通の人間として、肉体的・精神(心理)的に悩み、迷い、苦しみ、また苦痛から逃れ、快楽や安楽などの利己的な欲求をかなえようとする存在でもあります。

いわば低次と高次、その中間の状態などが混在し、それらの葛藤の中に実際の「生」や「現実」があると言えます。

難しいことを考えれば高次の状態に至るわけでもありませんし、かと言って、単純に、自分の気持ちのままに生きるということも、どこまでが通常の状態の欲求から来ているのか、高いレベルの成長につながる求めになっているのか、わからないところもあります。

ですから、あまり低次・高次などの区別をつけ過ぎず、様々な自分がいることを認め、前のブログでも書いたように、それぞれの状況によって、各種モードの自分でもって対応していくというのが、現実的・臨機応変的生き方になると思います。

とは言え、この時代、いくらたくさんのコーチとかセラピストとか、カウンセラーとか、セミナー講師とかの方々が、自己評価を上げること、セルフイメージを高めることの重要さ、その方法を述べているにも関わらず、なかなか自己の価値を十分に認めることのできる人は少ないのではないでしょうか。

悪い言い方をすれば、自己評価が低い人は自己評価の高い人に、ビジネス的に搾取されるところもあるような気がします。

さらに社会全体や世界レベルで考えると、なかなか普通の人が、自分が(特別に)貢献しているなどとは思えにくく、むしろ、生きていることすら価値がない、無駄かもしれないと落ち込むような状況・人間は、結構多いのではないかとも想像します。

一言て言いますと、現実は、自己評価を高められるほどやさしい社会(世界)ではないということです。

もちろん情報や方法次第で、生き方も楽になったり、成功したり、それに伴って自己評価をグンと上げることのできる人もいるでしょう。

よく、社会や人のせいにするな、すべては自分の問題だと言われますが、ある面ではその通りではあるものの、物事は一面たけでは推し量れず(ひとつだけの原因や要因とは言えず)、環境や仕組みのほうが、自分に問題を引き起こさせていると取ることも可能だと思います。

学力やスポーツ、そして経済など、すべてにおいて激しい競争や他者との比較評価に成り立つこの世界では、自己評価を高めたり、自分が役に立っていることを真に感じることなど、至難の業ではないかと思うほどです。

と言っても、現実は現実、社会は社会です。こういう世界であっても、生きていくことを、私たちはおそらく選択して誕生しています。

ということで、たとえ自己評価が低く、生きる価値があるのだろうか?とか、自分が何か役に立っているのだろか?と思っている人がいても、ある考え方をすることで、何とか生きていけるかもしれない方法を、私なりに、簡単に伝えたいと思います。これは、何よりも、自分に言い聞かせているものでもあるのです。

それは自分自身に意味や価値を見出そうとしたり、発見したりしようとせず、生きるプロセスをただ続けるということです。

それでは空しいばかりと思うでしょう。

ここで言う「ただ生きる」というのは、何もしないのではなく、ある目的を持って生きるということです。

それは「真理を追究する」という目的です。ただ、真理と言っても、たぶん、真理などというものは見つからないかもしれませんし、ないのかもしれません。

それでも、違う言い方をすれば、「どうしてこのような世界・システムになっているのか」「なぜ生きる(生きているのか、生きなければならないのか)」ということを、「生」の状態をつつけながら追求していく態度のことを述べています。

必ず答えを出さなくてはならないというものでもありません。たぶん一生かかっても、明確な答えは出ないでしょう。また、よく一般的に言わるような「自分の生きる意味(価値)を考える」というものとも、少しニュアンスか違います。

自分(だけ)の生きる意味を考えるのではなく、社会・世界全体としての生きるシステムについて、どういうことだろうかと思考してみるということです。哲学的と言えば哲学的かもしれません。

そうすると、安易に死ぬわけにもいきませんし、漫然と受動的に生きるのも問題となります。

平たく言えば、自分に深く追求するテーマを持って生きるということで、日々がそのテーマを深め、構築してくプロセスとしての道になるということなのです。それでテーマとして、「自分の生」を考察モデルとし、「人生」と「宇宙システム」みたいなものを設定して考察してみましょうというわけです。

ですから、人に役立つとか、自分に価値があるかないかとなどとは無関係になります。

けれども、ずっと(寿命まで)生きなくては。ある程度の答えを得たり、テーマを深めたりすることができないものです。年齢や経験を重ねることで、こういった考察はさらに進んでいくものでもあります。

ところで、この世界を例えばゲームのような仮想世界だとすれば、ゲームの設定を最大限に活かして自分が楽しむというケースと、もし他者と協力してゲームを楽しむことが目的であれば、そうした同作業によって、ゲーム設定内の目標を達成していくというやり方もあるでしょう。

一方で、否応なくゲーム参加してしまったとか、ゲームそのものを楽しむ目的ではなく、ゲームの状態はどうかとか、ゲームの出来具合をチェックする側として参加した場合もあるかもしれません。

さらに言えば、非常に高度なゲームとして、自分自身がゲームプレイヤーであることと、ゲームの世界にいること自体を忘却するようなシステムのゲームに自分を入れて、どうやってゲームであることを自覚するか、ゲーム世界から脱出するかを課している、ちょっとアブナイ(笑)ケースで参加していることも、突飛ではありますが考えられます。

上記の場合、もしかして、何かの罰や刑として、そうしたゲームということを忘却させられる世界に放り込まれていることも考えられます。

どうしても、何をやっても、自分に価値が認められないという人は、案外、この最後の方に述べた、忘却ゲームに危険を呈して参加した人か、刑罰的意味や、試験のように送り込まれた人なのかもしれません。

それは自分に価値がないのではなく、このゲーム世界においてのキャラクターになっていることが認められない、あるいは、何か問題がある(という設定となる)ということです。この違いは大きいです。自分は本来価値があるのに、ないと思えるところに来てしまっているわけですから。(苦笑)

それでも、ゲームの外の本来の自分からの声や通信が届くことがあるような気がします。本来の自分もまた何かのことで眠らせされているのかもしれませんが・・・とにかく、ゲームの内と外で響き合う、何かの手段があるように思われるのです。

それが高次の声とか、内的なメッセージとか、神性の力という表現で見られるものではないでしょうか。

ここで、(生きづらく思っている)皆さんに、提案があります。

ブログでも何でもいいので、自分に対して何かメッセージを書いてみてください。

毎日でもいいですし、数日おきとか一週間に一回でもいいです。メッセージは励ましとか、他人に向けた自分の気づきのようなことが望ましいかもしれません。

ネガティブなものとか、愚痴ような人間的なつぶやきというより、自分向けではあっても、誰か近しい人とか、親しい人、そんな人がいないとしても、過去の困っている自分に向けたものの感じで意識して書くとよいです。

そうしておいて、かなり間を空けて、過去書いた自分のメッセージを何気なく読んでみてください。タイトルをつけておくと、タイトルに引き寄せられて、自分の書いたものを過去ログから読むことができやすくなるでしょう。

少なくとも、半年とか一年はやってみて、それくらいのスパンを空けて、過去のメッセージを改めて自分で読んでみます。

すると、たいていは書いた内容は忘れているものの、そのせいもあるのか、不思議と自分の書いたものとは思えない感覚で、まさに自分に向けたメッセージとして深く入ってきます。

これは、未来へ向けた自分へのメッセージとも言えますし、その逆とも言えます。

例えば、今自分が過去の(苦しい時代の)自分をイメージして書いていたとしても、そのメッセージを読んで役立つのが、意外にも未来の自分の場合もあるのです。

ということは、すべてはつながっているのです。つなげているのは、内なる高次の自分と言えます。

このようなことでも、生き続ける可能性を感じさせます。

誰にも神性があります。だからこそ、それが発露する可能性はあるのです。自分が自分を導いたり、教えたり、サポートしたりすることは、マルセイユタロットの「太陽」の絵柄のごとく、ありうる話だと思います。

真理を追究するという話をしましたが、これは言い換えれば、高次の自分と低次の自分との共同作業や接触を、生きながらに増やしていく感じに似ています。

高次の自分に励まされながら、価値が低いと思っている(低次の)自分が、何とか酷なマラソン(笑)を続けていくようなものです。

マラソンは時に大変で、そして、なんでこんなことしているのたろうと思うかもしれませんが、応援してくれている者が、何よりも自分自身なので、続けて行かざるを得ないのです。

ゴールした時、そのもう一人の自分は、とてもねぎらってくれるでしょうし、今回のマラソンレースの本当の意味を教えてくれるかもしれません。

でも、走行中でも、少しずつ走っている自分が、このレースの謎解きをやりながら続けていくと、もう一人の自分もヒントを与えてくれるかもしれません。そして、コース自体が当初の予定から変わって、特別なルートに導かれることも考えられます。

それはこの世界(ゲーム)の出口(ログアウトポイント)なのかもしれないのです。

没頭するゲームプレイヤーではなく、観察者である自分ならば、ゲーム内での自分に価値があるかないかよりも、観察することそのものに意義があることになり、究極的には自分の存在の価値よりも、世界のあり方のほうが重要だということになってきます。

そして、おそらく、世界や宇宙のあり方の探求は、回りまわって、自分の価値の評価につながってくることになるでしょう。

そう、あなたがまだ自分に価値がないと思っているのは、(世界や宇宙に対しての)勉強不足のなせるわざなのです。たぶんね。(笑)


タロット、ビブリオマンシー

皆さんは、ビブリオマンシーというものを知っていますか?

ビブリオは書物、マンシーは占いのことで、つまりは、本を使った占いです。

簡単なやり方としては、本を無作為に開いて、出たページに書いてあることが、質問の答えやメッセージだと見ます。

この時大切なのは、ビブリオマンシーに使う本の選別です。

どんな本でもできないことはないのですが、やはり、使う本自体に信頼を置いていることが重要で、占いとは関係ない本だとしても、自分がその本と内容に信頼や愛着がありよい言葉とか文章が書かれているものを選ぶことがポイントです。

いわば、本を神託の出所とするわけですから、それだけ本への神聖さというか、大切だと思えるものが望ましいわけです。

純粋な占いの意味でやってもいいのですが、私はシンクロにニシティ(偶然の一致、偶然性にある必然性)を見るために、たまにやることがあります。

まあゲーム的なことで、行うこともありますが。

私の場合、マルセイユタロットの本も利用します。

タロットの本には、最低でも、大アルカナの一枚一枚の説明ページがあることがほとんどです。

そのため、偶然開いたところが、どれかの大アルカナのページであることもよくあるわけです。これは、言ってみれば、タロットの一枚引きをしているのと同じになります。

そして一冊の本だけではなく、三冊くらいの本を使います。すると、大アルカナとか小アルカナとか、都合三枚くらい現れることになります。

同じカードで、重なることもあると思われるでしょうが、それはそれでシンクロ的な意味が強まりますから、よいと思います。

私の場合は、カードが重なることはあまりありません。だから、三枚引きしているような形になります。

ただ、面白いことに、似たような意味やニュアンスのカードがそれぞれに出ることが多く、本質的には同じことを言っているのだろうと推測することができます。

ここで、気づいた人もいるでしょうが、それならば、何も本を開かずとも、タロットを引けはよいのではないかと。

その通りです。(笑)

私が言いたかったのは、タロット占いは、見方によっては、実はビブリオマンシーの一形態と言えることもできるということなのです。

タロットは一種の書物なので、製本されて本の形になっていないだけで、1ページ1ページが本から離れて、自由に選んだり出したりすることのできるのがタロットと言えましょう。

ということは、78枚のページがあることになり、それをすべて読まないと、タロットという本を読了したことにはならないわけで、タロットを本という目で見ると、全体的・組織的・マクロ的な視点でもって扱うようになるのです。

同時に、タロットは本とは違い、ページそのものを本から独立させることもできます。

本のページは切り離されてしまえば、意味をなさないことがほとんどですが、タロットは、独立でも意味をきちんと持って、活用できるところが違います。

小さな者たちの集合体でありつつ、一人ひとり一騎当千の実力を持って独立した動きもできるという、恐ろしい軍隊です。(苦笑) あなたは軍師として、この軍を動かすことができます。

本といえば、マルセイユタロットで関係の深いカードに、「斎王」(一般名では女教皇と呼ばれるカード)があります。彼女は、その手に本を持っています。

このカード自身が「タロットという書物」の一部(一枚のカードと象徴)を示しながら、同時に、タロットの全体、一冊の書物としての重要さも表しているという二重構造になっています。

タロットは「宇宙の書」と言われています。精巧なタイプのマルセイユタロットの場合、この宇宙との関連を強調するため、「斎王」の持つ本の行数に、ある数を示して、宇宙との関係の意味を持たせています。

この行数は案外重要で、「斎王」を(主人公として)使った特殊なリーディング技法では、この数に応じたシャッフルや段階を経て、本の左右に置いて、自分の読むべき(入れる)知識と直感性(ふたつで二元性)を示唆させることがあります。

スピリチュアル的には、「斎王」の本は、実際の書物というより、ある種のエネルギーや波動ということも考えられます。本の行が波打っているところが、それらしく感じさせます。「斎王」自身も、自分の手にしている本に目をやっていません。

読まなくても、その内容がすでにわかっているのか、はたまた自分の手に余る特殊な文字やエネルギーで刻印されているので、その解読できる人を待ち受けているのか、いろいろな解釈ができます。

ビブリオマンシーのことに戻りますと、ビブリオマンシーは一人でやってもいいのですが、仲間とともにやってみるのも楽しいです。

グループで、ビブリオマンシーに使う本を選択し(一冊か数冊)、質問者と本を開く人を決めて、全員でやってみるとよいでしょう。

カードが描かれている本でもよいのですが、普通に文章だけのものでも面白くなります。

質問とはまったく関係ない本やページのはずなのに、そのページを読むと、不思議と、占ってもらっている人は、自分に関係していることを言われているように聞こえてくるでしょう。

お勧めは、ページごとにポエムのようなものが書かれている本がよいかもしれません。

例えば、私は今、ちょっと本棚を見て目についた、カルロス・カスタネダの「時の輪」という本を手に取り、私と読者の皆さんに、任意でページを開いてみます。(ビブリオマンシーをするということです)

皆さんも、何か質問とか悩みを思い浮かべてみてください。

さて、無作為に開いたページに書かれている言葉を載せてみます。

「悲しみとあこがれのない完璧さなどありえない。なぜなら、それらがなければ、まじめさもないし、いたわりもないからだ。いたわりのない知恵も、まじめさのない知識も、使いものにはならない」 (カルロス・カスタネダ著「時の輪」北山耕平訳 p216 より抜粋引用)

全然ピンと来ない人もいるかもしれませんが、もしかすると、皆さんの中の誰かは、このビブリオマンシーの言葉が、自分の悩みとか問いの参考になったかもしれません。私自身はちょっとびっくりのシンクロでした。

ビブリオマンシーを楽しみつつ、その一種でもあると言えるタロットマンシーも味わってみてください。(笑)

こうしたことができると言いますか、信頼するかどうかも、自分の見ている・経験している世界すべてが、繋がっている、関係しているという前提あってのことです。

世界がバラバラで無関係であり、ただの物質と目に見えている世界だけということしか信じられない人は、そもそも、こういうことをしても意味はないでしょう。(バカバカしいと思うだけです)

さらに、ただの占いで楽しむだけではなく、自分のしている行為が、高次の視点、真理を追究する観点では、どういったことなのかということも、必要なものだと思います。


多様なるモードの自分

マルセイユタロットを心理的に見る場合、カード自体が私たちの心や姿を象徴していると読むことがあります。

カードに自己を投影すると言ってしまえば簡単ですが、ちょっとニュアンス的には投影とも違います。

まあ、しかし、そこは難しく考えず、あえてシンプルに、カードが自分の気持ちなどを表していると見ることもある、とします。

一般的には大アルカナ22枚が、マルセイユタロットの場合、絵もついていてわかりやすいので、大アルカナを心理的に見るほうがスムースですが、小アルカナも、宮廷カード(コートカード)が人物絵になっていますし、数カード(数札)は記号的ではあっても、特に数の意味を見ていくと、これも何らかの形で自分を表していると取ることができます。

マルセイユタロットは極めて優れた象徴システムを持ち、大アルカナは心を動かし、小アルカナは現実や具体に焦点を合わせ、つまりは現実を動かすことができるような設定になっています。ただし、両者を組み合わせることが重要です。

この意味(だけではありませんが)で、やはりタロットは78枚なくてはならないというのが私の持論です。

さて、そのような、いわば、「自分」を多面的に象徴する(ことのできる)「タロット」なわけですが、ここで一度タロットから離れて、「自分」というものを考えてみましょう。

では、これから、素朴な質問で、なおかつ、深淵ともいえる質問をいたします。

「自分」とは何ですか? あるいは、「自分」とは誰ですか? どの時・どの姿が「自分」なのですか?

自分って、「このわたし」でしょ? と言う人がいるかもしれませんが、では、その「このわたし」とは誰で、何なのでしょうか?

結局、これらの答えはなかなか出ないと思います。

よく本当の自分とか、ありのままの自分とか言いますが、それもたくさんの自分の姿や思いの中のひとつに過ぎないのかもしれません。

だいたいは、自分の気持ちに正直になっている自分とか、嘘をついていない自分、一番ストレスフリーのリラックスしている自分・・・というのが、ありのままとか、本当の自分とかでとらえられていることが多い気がします。

しかし、それもよく考えれば、「そういうモードの自分」と言えなくもありません。ということは、他のモードの自分は別人なのかということです。

確かに、何も気遣わない自分というモードは、外や他に向けて変形しなくてもいいので、それが本当の自分に近いのかもしれません。

ただ、突き詰めてしまえば、どの人も、外部的なものにまったく無関心で無頓着、反応しないようになっている(そうしていい)自分というものになれば、電源オフのロボットや機械のような代物になるのではないでしょうか。もっと言えば、判で押したような金太郎アメ人間ばかりになる気がします。

こうして見ると、おかしな話ですが、ありのまま自分の究極とは、無個性の人間で、皆同じ人になってしまうことも考えられるわけです。

逆に言えば、私たちは自分の様々なモードを持つことで、個性が保てている、多様性が存在しているとも言えます。

そして、ここが重要ですが、自分が多数の顔や姿、心を持つということは、他者との比較や外からの刺激があってこそのものです。

先にも言ったように、外に反応しない自分は、行き着くところまで行けば、スイッチオフの無個性な自分になるおそれがあります。

違う言い方をすれば、他人と比べることができないので、自分が区別できなくなるわけです。それは、つまり、自分(自我)が失われるという意味に等しいです。

よって、あまり、ありのままの自分を探そうとしたり、こだわったりしたりせず、リラックスモードとか、他人にあまり気遣わない意味の正直モードの自分というものが多くの自分の姿の中にいて、それが抑圧され過ぎていないか、そのモードになることを否定しようとしていないかを見るくらいの気持ちがいいのではないかと思います。

自分の生活環境が、リラックスモードの自分、心が軽いモードの自分をかなりに出しにくいことにしているのであれば、それは変えたほうがいいかもしれません。

また、環境の問題だけではなく、たくさんの自分の姿の中で、権力を握っているものや、多く出る時間を与えてしまっているモードの“自分”を、他のモードの自分たちと調整・修正していく必要があるとも言えます。

簡単に言えば、暴走している自分を、ほかのモードの自分によってコントロールしていくということです。

それには、多様性ある、多くのモードの自分を認めることが大事です。自己受容が、自己変革や自己の調和につながる意味も、ここにあるのです。

そして、もうひとつ大事なのは、先ほど述べたように、自分は他人との比較によって「自分(自我)」というものができあがっています。

ということは、他人との関係は、自分をいい意味でも、悪い意味でも、大きな影響を及ぼし、自分(自我・個性)を作り上げる要素となります。

個性は、パーソナリティといわれるように、ペルソナ、仮面という言葉から来ています。他人や環境によって、仮面を付け変えて(つまりはモードチェンジして)生きるているのが、普通の私たちです。これは機能に過ぎませんし、またこれがあるから生きられるようなものです。

ただ、この現実の仕組み中では、個性は機能たけではなく、自分の役割や使命のようなもの、生き甲斐、自分の存在価値にも関わってくることがあります。

個性・パーソナリティが、他人や周囲よって規定されてくることが多いのであれば、それに振り回されるだけでなく、意図的に自分の環境や人との交際を選択することによって、他者からの影響を変え、結局、自分のパーソナリティモードも増やしたり、変えて行ったりすることも可能になるわけです。

単純なことで言えば、落ち込んだり、自分の価値が低いとか、否定的なモード、ネガティブモードの自分になっている時は、他人から励まされたり、いいことを指摘してもらったり、勇気づけられたりすることで、自分のモードが肯定的なものに変わることは、誰しもが経験していると思います。

つまりは一人だけで悩み、落ち込んでいても、その悩みモードの自分の中だけで堂々巡りするだけで、なかなかモード変換、モード脱出ができないわけです。

自分の個性は自分だけではなく、他人や環境によって決まってくるのですから、一人で閉じこもることは、かえってそのモードの固定化を招きます。

※ただし、自分の中で次元(レベル)を変えた他者モードを登場させることができる場合は、むしろ一人になって、その状態を出すほうが問題解決になることもあります。いわば瞑想などによって、高次の自分・ハイヤーセルフと会話するようなものの場合です。

他者からよい影響を受ける場合でも、人のモードの共通的パターンを知っておくとよいことがあります。

自分自身の中で、暴走モードの自分、抑圧モードの自分を知ることもできますし、人を見て、自分にとってはあまり出ないモードの自分を見分け、その人からの刺激で発動させる(よい意味で)こともできます。

そのようなパターン・モードの整理、モデルとして、マルセイユタロットが使えるということです。

世の中にはポジティブーモードの人もいますが、自分を否定したり、価値がないと言ったりして、ネガティブになりがちの人も少なくありません。

でも、それも一種のモードなのです。ただ、自分がなりがちなモードがそれだということです。

無理に「こうしなくてはならない」とすれはするほど、劇でいえば、ひとつのモードは(あなたの人生という)劇からの退場に抵抗します。(だって、誰でも主人公で長く出たいでしょ?(苦笑))

よく出るモードの自分が、俺が、私が主役だと言い張るわけです。

ですから、そういう自我モードの自分を認めることと、無理に退場を願わないということです。主役で楽しんでいるそのモードの自分の演技は、十分やれば自然に終わってきます。

あるいは、ほかのモードの自分を抑圧したり、役を与えないようにしたりせず、いつでも主役になれるよう、少なくとも、自分の中にいることを発見し、認めておくことです。

それには、他人からの指摘というか、評価も必要なことがあります。(あなたはこんないいところがあるんだよとか、あなたすごいですよとか、評価される自分の経験や、生きていることを受け入れてもらえる他人からの態度とか言葉)

そうして、自分の中にあるいろいろなモードの自分を、自分の劇場でまんべんなく演じさせていくと、いつしか、劇を超えたもの、モードを作り出している次元が見えてくるでしょう。そこにこそ、本当の意味での自分が存在するのです。

だから、あなたは現実では、どんなモードの自分にもなれますし、どのモードであってもいいのです。


Top