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吉野の蔵王権現とタロット

マルセイユタロットにはいろいろな使い方があります。

そのひとつに、たとえ信仰や宗教は違っても、マルセイユタロットの描かれている図像が、共通的に、ある種の神仏のエネルギー(本質と表現)とリンクし、カード自体をミニ像と見立てることができることです。

ところで、先日のGW中、最後の日でしたが、奈良の吉野に行ってきました。

吉野と言えば、が有名であり、吉野を訪れる観光客のほとんどが、桜の時期に占められるというほどです。

まあ、そんなわけで、桜のシーズンは吉野は激混みするわけですが、それでも上千本、奥千本と上に行けば行くほど、人も少なくなってきますので、場所を選べば、観桜期でも落ち着いて見られるところもあるかと思います。

と言っても、やはり桜目的でなければ、桜のシーズンは、はずしたほうがゆったり観光できます。今回の私の目的は、観桜期の四月とGWに特別に開帳される秘仏・金峰山寺の金剛蔵王権現拝観です。

当初は、ほかの神社・仏閣に参る予定でしたが、いろいろとあって、あるいは呼ばれたのか、ここになりました。五年前にも、観桜目的ではありましたが、吉野に来ていて、その時初めて拝観させてもらっていました。ただ、今回はこちらの参拝が主ということが違います。

というのも、この秘仏(写真撮影が禁止されていますので、HPをご覧ください)、巨大なうえに三体あり、しかも最大の特徴と言ってよいのが、ほぼ全身が「青色」に塗られているのです。その迫力は、実際に拝観すればわかりますが、すごいものがあります。

私が特に興味持ったのは、三体であることと、やはり青い色であるということでした。

青い色の神となれば、インドのヒンドゥー系の神によく見られ、シヴァ神や、クリシュナなどが有名かもしれません。

これらのヒンドゥー系の青い神は、実は本来は黒い色をしていると言われ、つまりは(をつかさどるもの)の象徴と考えられます。

また「3」ですが、インドで、神による3区分となると、そのシヴァ神を含んでのブラフマー、ヴィシュヌの創造・維持・破壊三神が浮かびます。このうち、シヴァ神は破壊(と再生)を担当すると言われます。

つまり、インドのヒンドゥー系を中心にして、青い神とは、宇宙の死と再生のシンボルでもあるわけです。

そして、マルセイユタロットにもこのような空色に近いブルーが使われており、私たちの間では、これが霊性を示す色だと伝えられています。

特に、大アルカナの中で、その空色(水色ぽいブルー)を見ていけば、私たちが、いかに霊性を取り戻していくかの過程がわかると言われます。

さきほど、インドの青い神は死と再生の神だと述べましたが、タロットがヨーロッパだけではなく、地中海湾岸、北アフリカ、中東、中央アジア、果ては中国などの思想や表現も入っていると考えると(その証拠はあります)、インドとの関連も十分に考えられます。

すると、私たちが霊性を獲得したり、その状態に回帰したりすることは、死が必要であることがわかります。ただ、その死は肉体の死の意味というより、象徴的な死、自我の死と言ってもいいかもしれません。

そして、死だけではなく、再生という意味も併せてあるように、私たちは不死鳥のように死んでも蘇る必要があるのです。

おそらく、黒は完全なる死を象徴するでしょうが、空色的なブルーで表現されるということは、そこに光や白が入っているから、その色になるのであり、それは象徴的にはあ叡智や再生の光ということになるでしょう。

空色(青い色)の仏像は、私たちの中にある死や恐怖、ネガティブなもの、自我の深い欲求なども表すと同時に、そこに取り込まれず、むしろ逆に力と変え、美なるもの、真なるもの、智慧なるものとして輝き、再生(本当の霊的な自分に生まれ変わること、悟れること)の可能性が自らに眠っていることを告げていると考えられます。

マルセイユタロットでは、「審判」に描かれている真ん中の人物、天使からラッパを鳴らされて目覚めたとも、覚醒したことで天使が祝福のファンファーレを鳴らしたとも取れるその人物が「空色」なのです。これぞ、本当の意味で蘇ったことを表し、仏教的には仏になった姿と言えるかもしれません。

ちなみに三つというのは、時間とも関係し、過去・現在・未来を意味します。

私たの世界は、時空認識をもとに、現実を主体としたところにいます。言い換えれば時間がある、時間が進んでいるという意識の世界です。

時間を認識するためには、今述べた三つ捉え方(過去・現在・未来)がないとできません。しかし本質的には時間はないと言われており、時空認識が超越したところに神や仏の世界があります。

ということは、三体の仏像は、現世とあの世(此岸と彼岸)、現実の苦しみや楽しみが時間によって生み出される世界(つまり現実)と、そこから超越している永遠の世界を、暗に示しているとも言えます。

こうした見方で、改めて吉野の秘仏を拝観しますと、両端の仏像が真ん中に統合されるようにも見えますし、左右の性質を分離させることで、身近に私たちの権現としての仏・神を感じることができるような仕組みになっているのに気づきます。

つまりは、私たちは実はひとつで、自分の中にある神や仏を、目の前の三つの仏像に分離されたものとして見ることで、現実の自分(自我)としての親和性が生み出され、三つのうちのどれかに親しみや会話をしたくなる傾向が出るのです。

それは時間として、過去の自分、今の自分、未来の自分とも言えます。あるいは両端のふたつとしては、女性性・男性性とか、能動・受容、ペルソナと本質などの二元性の自分も見ることがあるでしょう。

そして最終的には、どれか(特に真ん中)の存在によって、一度、象徴的な死を与えられ、最終的には三つが統合されて、(内なる)仏や神と邂逅することになるのです。

それは「宇宙」と言ってよく、だからこそ、東大寺の大仏(廬舎那仏)のように巨大でもあると言えるのです。

こうした仕組みは、光がろうそくのみで照らされる夜間拝観の時のほうが、よく感じられるかもしれません。

あと、個人的に思うのは、この吉野の蔵王権現、死と再生の色であることから、真剣に参ると、カルマの浮上と浄化、まさに自分の中での何かの破壊と再生が起きる気がします。くすぶっていたものがついに開かれ、強引にでも浄化や再生の道に進まざるを得なくなる感じと言えましょうか。そういう意味では不動明王的でもあります。

マルセイユタロットを通した、神仏像の考察の記事でした。


カウンセリングか、タロットリーディングか。

私の扱うマルセイユタロット(の活用)は、ずばりと、当たりはずれや吉凶を占うようなものではなく、どちらかといえば、カウンセリング的によく話を聴き、相談に乗りながら、タロットからの示唆を伝えるようなものになります。

黙って座ればピタリと当たるというものではないのです。従って、相手方の情報も必要ですし、ただカードを読むだけとは違う、コミュニケーションとしてのやり取りが重要な要素を占めることがあります。

まあ、タロットの市場として「占い」があるのも確かですし、占い現場というものが、現実的にはいまだタロット(リーディング)を活かす場所になっているのも事実ですから、占いの現場では、当てなくてはならないことや、まさに占い的な質問や方法を実践していかないと、仕事にならない部分もあるでしょう。

私も、かつて、占いの館的なところに出ていた時は、お客様が何も情報を言わずに、「何が質問したいかを当てるのも占い師でしょ?」と言われたこともあります。(笑)

占いの現場は、本当にいろいろな人が来ますし、同業者同士の醜い争いも場所によってはありますので、“人間”というものを知るにはよい場所ではありますが、中には耐えられない人もいるかもしれません。それでも市井の人々の悩みに向き合い、答えようとするまじめな占い師の方々はすばらしいと思います。

さて、話を戻しますが、私たちは、先述したように、タロットを用いた相談ということでは、カウンセリング的な手法を用いることがあります。むしろ、そういうのを使うのは、当然のことと言ったほうがいいかもしれません。

ただ、だからこそ、少し区別も必要だと思うのです。

これは私の生徒さんにも考えてもらっているところてすが、自分はタロットリーダーとしてカウンセリング的な技術を取り入れるのか、逆に、カウンセラーがメインで、カウンセリングテクニック・道具の一環として、タロットを使用するのかという区分け(をすること)です。

私自身は前者(タロットリーダーが主で、カウンセリングテクニックは、タロットリーディングをスムースに進めるための一技法としている)という位置づけをしています。

しかし、中には、もともとカウンセラーをしていて、そこにタロットなどを取り入れるという人もいるでしょう。

あるいは、カウンセラーという名称や中身ではなくても、たくさんの技術を用いて、人の問題や悩みの相談に当たるという人ならば、タロットというものは、その補助道具のひとつということになります。

タロットリーダーがメインであるならば、あくまでタロットカードの象徴性や示唆が中心となり、クライアントの話を受け入れ、心情に配慮するということはあっても、タロットから伝えられることを言うのが目的となりますので、時には厳しいこと、クライアントが聞きたくないようなことも述べることがあります。

けれども、カウンセラーという立場が中心であると、カードは一部の参考に留め、あくまでクライアントの心の負担の軽減、治療に重きを置き、その過程では、タロットに出ていることをそのまま伝えるということはしない(段階を踏んだり、趣向を変えたりする)場合もあるでしょう。

このあたりは、自分がタロットリーダーなのか、カウンセラーなのかで、似ているようで違うところがあります。

それでも、人は論理だけでは生きていませんので、人の相談を行う以上、心や感情に配慮していくのは当然となり、その結果、タロットリーダーがメインと言えど、カウンセリングやコミュニケーション技術を使うことがあるわけです。

ところで、「公認心理師」という心理職の公的資格の試験が、去年から実施されています。

これまでも、民間の臨床心理士の資格などありましたが、いよいよ、公的な資格として心理部門に出てきたということです。

すると、カウンセリングという定義や名称も、このような公的な心理関係の資格をもった人が使うことに限られることになるかもしれません。

安易にタロットを使ってカウンセリングをしています、などと言えない(今の使い方も注意する必要があると思いますが)時代は来るでしょう。

人の心を扱うのは、何の勉強も実践もしていない素人では危険を及ぼすこともあります。

しかし、その反面、私自身も神経症やうつ病など、心の病で経験しましたが、理論を学んだ専門職の人であっても、例えば大学院を出て社会経験がほとんどない頭でっかちの人のカウンセラーでは、問題が軽減したり、癒されたりするどころか、かえってその時間は苦痛だったこともあります。

案外、アカデミックな心理関係の人より、民間の自称資格のカウンセラー、占い師さんに癒され、快方に向かうこともあります。

それに、民間の治療的カウンセリングは、一般的になかなか高額で、回数がいるのが普通です。

カウンセリング効果が不確かであるように思えることも少なくなく、一般の人がそう簡単に受けられない現状もあります。

とはいえ、これからはもっと心理職の人の制度や資格の整理も行われ、タロットをしている自分がいうのもなんですが、「タロットで(心理)カウンセリング」など簡単に言えないようになるほうがよいと思います。つまりはきちんとした住み分けが重要だと言っているのです。

そして、多くの人の心がもっと楽に、解放に向かうように、まともな心理の相談が受けられやすくなり、同時に、いろいろなレベルの相談フィールドもあっていいと思います。

これから、他人に向けてタロットリーディングを行おうとする人、タロットを使って相談をして行こうとする人も、自分が何を行っているのか、何をしたいのか、自分の立ち位置を探り、人を惑わしたり、怪しいものと思われたりしないように、活動していくことが求められるでしょう。

「占い」というものも、身近な相談場所として、残っていくとは思いますが、経済原理にさらされているからとはいえ、アテモノ的なもの、ただ吉凶的なものを占うだけのものから、もっと高いレベルへと、目的意識を変えたものへとシフトしていく時代になってくるように思います。

結局、最後には、タロットも他人に使うというより、自分に活用するようなことに変化していくのかもしれません。

私自身は、すでに何年の前から、そうした(自己や社会、霊的な成長としての)もの(目的)を中心にして、タロットの活用を考えています。


ボランティアタロットリーディング

タロットを習う人の目的のひとつに、人に対してタロットリーディングやタロット占いをして、役に立ちたいというものがあります。

たいていは、自分がリーディングを受けて、その体験がすばらしかったからとか、すごく救われたとか、自分が変わったり、癒されたりした経験があって、自分もやってみたい、できるようになりたいと思われることが多いです。

そして、人に提供するタロットリーディング・占いは、それをビジネスや営業として有料で行うのか、無料やそれに準ずるボランティア的な形式で行うのかという分け方ができます。

好きなことを仕事にしたいという人は、タロット(リーディング)が好きであれば、当然前者の、有料でビジネスとして行うという選択になってくるでしょう。

ただ、現実的なことを言えば、令和になったこの時代でも、いまだ競争による経済社会であり、有料で営業していくとなると、それなりの努力や覚悟、さらには自分のサービスを買ってもらうオリジナリティと工夫など、タロットのスキルだけでは不十分なこともあります。

そういう意味では、タロット一本で稼ぎ、経済的基盤を持つ仕事にできている人は、正直、かなり少数だと言えるでしょう。

従って、安全策と言いますか、補助的なやり方として、経済的には別の仕事を確保し、タロットはその仕事の休日や余暇を利用して、サブで行うという方法があります。

しかし、このやり方で、いつかタロットメインに移行させようとするにしても、よほど計画的にやっていかないと、つい通常の(経済確保の)仕事に追われ、心身疲れて、余暇は普通にリフレッシュしたり、遊んだり、休養したりする時間になり、結局タロット活動ができなくなるというループにはまることがあります。

タロットをすることが、その人にエネルギーを与え、休養にもリフレッシュにも真になっているのなら、やがてタロットメインに移行させていくことも可能かもしれませんが。

あるいは最初から掛け持ちでやる、ふたつの仕事という生活サイクル、ライフスタイル自体を目的とすることも考えられます。

ということで、タロットリーディングを有料でメインの仕事にしていくというのは、そのような目的を最初から持って、いろいろと考え、実行していくことが必要かと思います。

まあ、運と実力を頼りに、がむしゃらにやっていっても、やれる人はやれることもありますが・・・そんな人もやはり少数でしょう。

これとは違い、そもそも有料での営業、ビジネス、仕事にタロットはしないと決めて、ボランティアや生き甲斐、趣味の延長としてやっていくという方法ももちろんあります。

むしろそのほうが気分的にかなり楽で、自分の学びになることもあります。

前にも書きましたが、自己研鑽、自己洞察、自分の成長にタロットを使う目的の人であっても、できれば、他人に対してタロットリーディングをしてほしいと私は思っています。

というのは、自分だけでタロットを見ていても、なかなかよい発想が出たり、刺激を受けたりすることが少ないからです。まさに独りよがりの思考に陥ることがあるからです。

それに、この世界の仕組みにおいて、自分の見ている世界と、他人から見られている世界というふたつがまずあり、その統合的な行先に、私たちが(霊的に)認識しなくてはならない境地の入り口があると推測されるからです。

ということは、他人からの視点も意識したり、経験したり、想像したりする体験が求められるのです。つまりは、それが他人リーディングで養われるというわけです。

そのほか、他人のことをリーディングするというのは、少なくともコミュニケーションがタロットと自分だけではなく、自分とクライアントという人と人の世界にまで広がりますから、引きこもりのような状態にはならず、現実・社会との接点もできます。

タロットなどをする人は、人に敏感な人や、現代社会の人付き合いに疲れ気味の人もいます。疲れたら、籠って休む、自然の中で過ごすということはよいことで、これはタロットの「吊るし」などにも象徴されていることです。

しかし、ずっとそのままでは、逃避になってしまい、ますます人や社会とつきあうのが怖くなり、自分に強固な卵の殻を作ってしまうことになります。

タロットや錬金術の象徴にも、ある卵の世界から孵化しなくてはならないことが語られます。自由に空(宇宙)を飛べる鳥になる必要があるのです。

他人をリーディングすることは、他人の卵の殻を破ってあげる力になることでもあり、逆に、自分自身の卵の殻も、人につついてもらい、破ってもらえることになるのです。

他人の悩み・問題は、タロットリーダーとしての自分の経験とは違うのが当たり前です。それは、この世界が誰一人として、まったく同じ人がいない個性の世界だからです。

従って、人の話を聴くことは、自分の世界を広げることにもなります。

と同時に、タロットを通して見た場合、象徴として、別の体験でも同じ本質が共有できてきます。

人に起こっているそれ自体は、人それぞれですが、悲しみ、苦しみなど、人として、皆、同じ感情や思考の本質を味わっているのです。それがタロットを使った相談の場合、自分にわかるのが大きいです。

いわば、他人の体験を通して、自他の世界をシェアリングしているのです。それはお互いの成長や癒しにもなりますし、救済にもなります。(互いの智慧や経験を出し合い、相互に救いあう、カードの「節制」の象徴)

不思議なことに、他人リーディングは、自分の今の問題と関係する人がやってきます。要は質的に同じ悩みや問題を抱えた人が、あなたの分身として現れるようなものです。

たとえリーテイングがうまく行かなかったとしても、カードを展開する時、お互いに何らかの示唆はある(与え合うの)です。言い方を換えれば、そこには、なにがしかの縁が働いており、出会う理由があるのです。

ボランティアリーディングは、経済的なことをあまり考えずに行えますので、競争的なものに自分が巻き込まれずに済みます。

だから、純粋に人に対してタロットリーディングを提供することができます。また、稼がなくては・・・という思いがないですので、自分の心にも余裕ができます。

ということで、ボランティア的な他人へのタロットリーディングを活用することで、タロットを自分の成長に役立てることができるわけです。

これはすでに述べたように、仕事にする目的とは、また別の他人リーディングです。

タロットを習って、自分に活かしたいという人、有料や仕事ではないボランティアリーディングをやってみることをお勧めします。

一方、仕事にしたいという方は、タロットスキルを磨くのは当然で、それがスタートラインだと思ってください。

他人からお金をいただくわけですから、お金を支払ってもいいと思えるレベルのリーディングができるのが当然です。そして、それはプロとしてやる方の当たり前のもの(レベル)です。

タロットを仕事として成立させるには、そこからプラスαが必要です。

それはタロット(のスキル)というより、自分としてのウリとか個性とか、提供方法のやり方などに関わってくるでしょう。別スキルと言ってもいいかもしれません。

タロットを仕事にするために、そのような、タロットとは別のことでも楽しく、あるいは苦労もいとわず頑張っていこうとやれるかどうかです。

面倒だなとか、好きなタロットなのにいろいろと営業宣伝したり、集客の工夫をしたりしていくのはやりたくないなあ・・・みたいに思っていては、普通に雇用される仕事をするほうが経済的には安定しますし、よいかもしれません。

好きだからこそ、それで稼ぐこと、仕事にしていくためのことは苦にならない、楽しい、やってみる価値はあると思える人は、仕事としてやっていける可能性があると思います。

また特別な人の場合、人助けの仕事として、何らかの使命が与えられ、自分の思いより、環境が無理矢理にでも、その方向性(人助けの仕事に向かうよう)に仕向けられることがあります。霊的な存在を感じる人とか、サイキックな能力や血筋の人には結構あります。

自分の強固な意志と実行で仕事にする人と、自分の思いとは別の強い何かのもの(存在や意思)の働きで、タロットを仕事にする人があるわけです。

いずれにせよ、自分の人生は自分のものです。どのようにしようと自分次第です。

タロットを仕事にするのか、ボランティア的にやっていくのか、自分のライフスタイルや目的に応じて、臨機応変に考えてみましょう。


自由・不自由 個人と全体の幸せ

心理・スピリチュアル系でも、自由を説く人は多いですね。

もっと自由になっていいんだ、自分のルールや心を解放しようという主張がよくあります。

それはもっともなことだと思います。

一方で、社会的には法律やルール、規則があり、これは順守しないといけないところがあります。

そうしないと、自分も皆も生活に困るからです。

自由の意味は様々に定義できますが、たいていのもの(言葉・状態)には反対の意味があるからそれが出るように、自由に対して不自由(束縛)があるからこそ、自由がわかるという仕組みがあります。

ということはまったくの自由というものは、もしかすると存在しないというか、私たちは捉えることができない(自由という意味さえわからなくなる)のかもしれません。

逆説的ですが、自由を知るには不自由を経験しないといけないわけです。

自由の主張で、「自分(一人)は自由に、好きなままに行動(生活)することができているので、自由は大切とか、自由になることは誰でもできる」と言う人がいますが、それは多くの不自由にいる人、不自由とは感じなくても、ルールや規則を守っている人がいるからこそ、それが可能になっている(全員が勝手気ままにすると成立しない世界)という、当たり前の社会構造が意識のうえで欠落している場合があり、それは子どもならまだしも、大人としては未熟なことだと言えます。

あと、この上記のような自由を叫ぶ人の論理では、わがまま、嫌なことから逃げることが自由と誤解していることも結構あります。

自らは既成の制度やルールを破壊することで悦に入るような、昔の中学生の不良のような幼い自我の人もいます。

ルールや規則を破つたり、変えたりしたいのなら、その代案や、皆がそれで暮らしやすい社会のプランを作ることが求められます。

俺流、ワタクシ流で「こんなやり方でも生活できる、自由に生きている、だから君もできる」という論理(理屈)は、先にも言ったように、まじめにルールを守っている人がいるからこそ成りたつもので、多くの普通の人の恩恵のうえでの自由と例外であり、都合のよいわがままに過ぎないことがあります。

しかしながら、やはり、従来の規則・ルール、仕組みを守るだけがよい生活を作るとは言えないところもあります。

私たちの生活はなるほど、確かにかなり便利にはなりましたし、日本は特に安全で清潔、サービスもすばらしいところがあります。

けれども、多くの人の労働や暮らしの実態は、非常に厳しいものがあり、日本は一般のサービス水準の要求が高いだけ、労働環境と条件もキツくなっているという、自己矛盾的なおかしな構造も抱えています。

昔はそれでも、そこそこそこの給料対価と、雇用の安定ということで、それらが我慢できる状況もあるにはありましたが、今はそれさえ崩壊していると言えます。

こんな中で、人間性や創造性が失われていくのも当然と言えます。世の中の人たちはますますギスギスし、イライラし、余裕というものが感じられなくなっています。

こうした中で、もっと自由に、楽に、生きたいように生きるという人たちが現れるのも、むしろ自然の流れかと思います。

ところで、「楽して儲けてはいけない」みたいな言い方もありますが、よく考えると、お金(キャッシュであれキャッシュレスであれ、お金としての価値のあるもの)さえに入ればいいという状況に、現代社会がなっていますから(つまり法律に違反しなければ、お金を稼いだり、手にしたりすることは、その過程が精神的に評価されることはあっても、物理的・数量的に多くしたものが実質的には価値がある・勝ちという実態なので)、賢い人は、労働で非効率に稼ぐより、お金を動かして楽に稼ぐという方法を選択するのも当然なわけです。

これは、モノと精神・霊が切り離されている今の時代だからこそ、そうなるのが当たり前なのかもしれません。

ですから、とても大きな視点で見れば、わがままだろうと、楽に走ろうとする人であろうと、なにがしかの現代社会へのアンチテーゼ、警鐘・警告の現れだと見ると、当人が自覚・無自覚かに関わらず、どの人も役割があるのだと見ることができます。

多くの不自由な人の中で、自由を選択していく人も、不自由な人に自由をもう一度考えさせ、社会変革の兆しとして、影響を与えていると考えることができます。

すべてはバランスではありますが、そのバランスのレベルを向上させていくことが今求められているように感じます。

どの時代も、どの状態においても、バランスは究極的には取れているのかもしれませんが、それぞれにおいて、レベルや次元が異なるのです。

例えば、今の時代のバランスが3段階目のバランスだとすれば、せめてあとふたつくらいあげて、5段階レベルバランスにしたいところです。

別の言い方をすると、自己犠牲を必死にして何とかバランスを取っている段階から、皆がもっと自然体に楽にしても社会全体と生活のバランスは取れているというレベルへの引き上げです。

そのためには、ただライトスピリチュアル的に精神論ばかり述べていてもだめでしょうし、特別な人だけが自由な生活というものを実践していても、それは先述したように、多くの不自由な暮らしを選択している人の犠牲で成りたつもの(結局勝ち組・負け組と同じような構造です)ですから、自由の象徴や刺激としての意味はあっても、皆のレベルを上げる具体論にはなりにくいです。

と言っても、政治家になって具体的な政策などを考えましょうと言っているのではありません。

まずは、今の社会や全体の暮らしにこれでいいのかという疑問を持つことが重要です。ただ従来の政治思想やカルト的なもの、果ては子どもじみた陰謀論からは距離をおいてです。

ちょっと前までは、個人の幸せや心の解放がよく言われていましたが、これからは、全体としての視点も持ち、皆のレベルが向上する暮らしや社会とは何かをイメージしていくことが大切だと思います。

そして、そのイメージの共有と実現性へのシフト(あきらめから可能性、実際性へと変化させていくこと)を目指すのです。

しかし、やはり個としての解放も同時進行で大事で、自分の心を縛り過ぎていては、全体としてのレベル向上のイメージを持つことが困難になります。(自己の解放より社会や全体の解放を先に志向し過ぎると、テロリストのような過激思想にとりつかれたり、すべては外の仕組みのせいだと人任せや、責任転嫁をしたり、虚無感にとらわれたりしがちになります)

また、心の解放の過程では、自分を鍛えるというのと、自分をいじめるというのでは別だという区別も大事です。そこに「自分を愛する」「自分を大切にする」という視点があるかどうかです。(ただ、楽にすることだけが解放ではありません)

精神とモノを切り離さず、モノの背景に心があること、心がモノを動かしていること、この意識も回復していくことも重要です。一言で言えば、失われたスピリチュアリティ(霊性)の回復です。

そうすると、物質だけ、精神だけに偏り過ぎず、統合のとれたバランス性を取り戻していくことができます。

一人ひとりにおいては、よいこだわりと悪いこだわりも分けていくとよいでしょう。

よいこだわりとは、好きなものとか、探求へのこだわりというもので、それをやっていて、周囲に迷惑はあまりかけずの、自分として幸せで楽しいものです。(周りの人も和やかになったり、勇気をもらえたり、知識や技術を与えてもらったりできるもの、または無害なもの)

悪いこだわりは、簡単に言えば、それによってますます自分が不幸になったり、視野が狭くなったり、周囲の人を悪くしていったりするものです。

簡単に言えば、選択の幅を増やすということが、解放につながってきます。

マルセイユタロットでも、現実の世界で霊的な意味を帯びてくるカードの象徴は「恋人」が顕著です。「恋人」の図像は、迷いのようにも見えるカードですが、迷いがあるということは、選択肢があるからこそとも言えます。

ですから、前向きに解釈すれば、選択が増えることが、現実(現状、今の状態・レベル)を超えるきっかけにもなると読めます。

迷いなく決定できることはすばらしいことですが、それは選ぶことがひとつしかないことでもあり、新しい変革はその場合、生まれにくいわけです。

ということで、迷いや悩みから、実はあなたや社会の変容か始まりつつあると見れば、問題もまた別の視点で見ることができますし、一人ひとりの問題・悩みを通して、選択の幅が増えることで、社会の選択肢も増加していくことになり、膠着した時代に変革がもたらされて、もしかすると、社会全体のレべルが上がるきっかけとなるかもしれないのです。

自分の幸せが全体の幸せとどうつながり、関係するのか、交互に思いながら、自己(それはイコール他人でもある)の本当の幸せを求めていく時代が来ているのだと思います。


マルセイユタロット、光の象徴。

アメブロの機能で、数年前に書いた同時期(月)の記事が自分のページにクローズアップされるものがあります。

それによると、私は以前、この時期に「隠者」のカードの光について書いたようです。

ようです・・・って、自分で書いた記事を覚えてないの?と思われるかもしれませんが、私自身は何を書いたのか、過去記事はほとんど覚えていないのです。(苦笑)

このブログは、タロットを見ていて降りてきた内容とか、近辺の日々で思っていたことなどを記事にしているので、自分でも、あまり書いたものは記憶していないのです。

さて、過去記事のタイトルを参考に、今日は「隠者」だけではない、マルセイユタロットにある光について、見ていきたいと思います。

ところで、「」というものを象徴的に解釈すると、統合や完成の状態であると言うこともできます。

ただ、二元論的な概念になりますと、光に対して闇という、対抗や相反するものが出てきます。

これは案外重要なところで、光の象徴を二元としての闇との対比で用いるのか、一元的なもの(状態・究極)の象徴として見るかは、区別しておく必要があります。

多くの人(特にスピリチュアルに関心のある人)は、このふたつを混同して見ている場合があるのです。

今回とりあげる光の象徴は、闇との比較のものではなく、主に統合や究極、完成の意味での光、もしくはそれに至るための叡智や導きのようなものとしてとらえていただきたいと思います。

では、具体的に、マルセイユタロットの大アルカナで「」が描かれているものを見て行きましょう。

数(カードの番号)の少ない順から行きますと、「恋人」における天使(クピド)背後の光、「隠者」のランプ(しかし光自体は隠れています)、「悪魔」の松明、「神の家」での降下する巨大な光、「」での星々の輝き、「」の月の裏に見える光、「太陽」の太陽そのものの光、「審判」の天使の背後の光、といったところでしょうか。

このほかにも、秘伝・暗号的には、実はたくさんの光の象徴性がその他のカードにもあるのですが、これは「秘密」としておきます。実は、いわば、すべてのカードに光の象徴はあると言えるのですが、この場合は、闇との対比の光も含まれることになります。

話を戻しますと、カードに直接描かれている光(見てわかる光)は、先述のカードたちにあるものですが、それをさらに細かく分けてみますと、何かの光芒としての光天体の輝きそれ以外と分類できるかもしれません。

ほかの分け方をすると、天使的なものに付随する光(「恋人」や「審判」の背後の光芒など)、ある人物や存在が手に持つ光(「隠者」のランプとか「悪魔」の松明)、そして天体的なもの自体の輝きの光という見方もできるでしょう。

この中で、異質なのは、光を手に持つ存在と、その光自体ですが、これは先に述べたように、「隠者」と「悪魔」に顕著です。しかし、厳密に言えば、「隠者」の光はカバーで覆われたランタンの中にあると“推測されるもの”で、見た目にはわかりません。

そして、「悪魔」の松明も、マルセイユタロットにおいて、だいたいは赤く塗られており、光というより、火のように見えます。そもそも松明ですから、火と見たほうが自然かもしれません。

この「隠者」と「悪魔」の光の描かれ方からでも、その違いが見て取れますので、それぞれを比較することで、光の与え方、受け取り方の意味合いを、皆さんも汲み取ってほしいところです。

最初に、光は統合や完成、究極、(神性なものの)叡智の象徴だと言いました。それでも、闇と対比される光という二元もあることも指摘しました。

「悪魔」は一般的には、悪い存在として見られていますが、「隠者」よりも数においては上に位置し、マルセイユタロットでは、大アルカナの数の進行が、そのまま自己や全体の成長を示すという伝承があります。

ては「悪魔」の松明の光(火)は、「隠者」より優れたものなのでしょうか? もしかすると闇にも関係するのでしょうか?

そして、「隠者」はその名前の通り、なぜか光をあまり目立たせず、覆いのあるランタンによって、光があるかもしれないという示唆に、その表現を留めています。

目立つものと目立たないもの、自身の道を照らようでありながら、まるで誰かに光を託そうとするかの「隠者」、強烈な火の光によって、周囲を照らし、人々を引き寄せる「悪魔」、このような描写から、光と私たちの関係、そして光を扱うものについて、皆さんも考えてみてください。

それから天使に付随する光芒です。これらも色々と考えることができますが、天使は神ではありませんが、通常の人間より高次な存在と見てよいかと思います。

またその言葉通り、天(神)の使いとして考えれば、私たちに(神としての)光を伝えるもの、与えるもの、指し示すものという見方もできますし、天使側からすれば、天・神のサポートを受けている存在、そのエネルギーや意思を背負っている存在だということを想像することができます。

それらの象徴として、光芒があるものと思われます。

ただ、その光に(人間が)気がついているか、気がついていないか(感じられるか・感じられないか)の違いは、例えば、「恋人」と「審判」では違いがあると言えます。

しかし、天使は光をもたらし、また、光を受けながら活動していることがわかります。ということは、天使を自分の中に受け入れることで、光が入ってくることにもなるのです。

ここでいう「天使を受け入れる」とは、象徴的な言い方です。実際に天使を見たり、存在と会話したりしなければならないというわけではないですし、天使を信じなさいと言っているわけでもありません。

信じる信じないの問題ではないのです。そのような態度は物理的に物事を見る現実認識に囚われている世界のもので、光と天使を受け入れるには、現実的な発想そのものを変えないといけません。(ただし、信じてはいけないという意味でもなく、信じることで存在が生み出されることもあるので、信じていくという方法もあります)

最後に、数のうえでは、「神の家」から「審判」に至るまで、光や光芒が連続していることも指摘しておきます。先ほどの「悪魔」も入れると、まさに15番からずっと続くようなものです。

このうち、天体として星・月・太陽は、占星学的な意味合いも考えることができ、光だけではなく光を放つその天体・惑星の象徴性も加味することができます。

しかしながら、マルセイユタロットの秘伝では、そして占星学上においても、これらタロットに描かれる天体が、、今の天文学による物理的な星々ではないことは言っておきます。

そして、「神の家」です。

これこそが、マルセイユタロット的には、光の神髄と言ってもいいものかもしれません。

この光の描写が、単一の色ではないことも重要です。

ほかのタロットなど、一般的には、むしろ災厄のようにとらえられるこの光とカードですが、マルセイユタロット的には名前のごとく、神の光、天からの光が強烈に降ってくることで、むしろ輝かしい祝福になると見ます。

神の光に包まれることは、どれだけの恩寵であるか想像してみてください。

しかし、それはあまりにも強力であり、それが受けきれる状態でないと、危険でもあるのです。

実際的なリーディングにレベルを下げて、この「神の家」の光を解釈するにしても、個人にとっての強烈な一撃であることでしょう。(予想外のこととは限りません。予想されたものというか、自分があえて厳しくも真実の自分の道を意識的に選択する場合ということもあります)

しかし、光として受け取る場合は、真の成長や幸せに導く、あるいは囚われた思考・感情、状況を打ち砕く、神からのまさしく「栄光」なのです。

グノーシス神話では、私たち人間は、天上(神の)世界の光(神性)、その破片を受け継いでいると言われます。

マルセイユタロットをグノーシス的に見る場合は、自分の光の破片をもとに、世界中に散らばった光をもう一度集める作業を描いていると言えます。

それは、それぞれ(関わる人々や経験)が違う色と光を持ち、それらを交換し合うことで、次第に完成された光へと変容・統合していく過程でもあります。

闇と対比すれは、闇へのコンクエスト(征服)であり、光のクエスト(探求)です。

しかしこの闇は悪いものというより、光を光として認識するための光の別要素とも言え、私たちを純粋な光の世界に回帰させるための役割をもっているのです。

すでにあなたは光の子であり、それゆえに、闇と格闘しながらも光に気づき、引き寄せられ、光に満ちようと生きているのです。


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