ブログ

タロット学習におけるメモやノート

タロットを学習するとした場合、皆さん、ノートやメモを取りますか?

自分のこととして振り返った時、私はたくさんノートを取っていたと思います。

まあ、字が汚いので、あとで読むと自分でも何を書いているのかわからず、困る事がよくありますが。。。(^^;)

それから、これは、フランスで受けたカモワン・タロットの講義の時のことです。その時受講生用に用意されていたボールペンでノートに書いていたのですが、それがどうもインク性能が悪かったのか、あとでノートを見ると、文字が薄く消えかかっていたものがあり、これはちょっとショックでした。(苦笑)

タロットは、絵の象徴の学習であるので、あまり文字を書くこと、ノートを取ることに集中し過ぎても、かえって絵柄から関心をはずしてしまい、よくない場合があります。

日本人の、中年以降の人の学習・勉強方法のスタイルは、学校教育の時に身に着けたものがほとんどで、そのため、先生が板書して、それをノートに書いて、あとでテストの前に暗記する・・・などの形式に慣れてしまっている(固まってしまっている)ところがあります。

ですから、どの勉強でも、そのスタイルが出てきて、結局、ノートに取る事が勉強の中心になるケースが多いのです。

これの欠点は、ノートに書くことによって、いかにも勉強した気分になっしまうという点です。

書いた内容をまだ覚えてもないのに、ペンを動かし、筆記したことで、何か作業した気持ちになり、また講義を聞いているのも事実ですから、自分としては学んだ気分になっているのです。

けれども、その時点では書いた内容を覚えているわけでもありませんし、先述したように、書くことに意識が取られ過ぎていて、肝心の話や、絵・ビジョン・視覚、その他、書く以外で入る情報を見逃してしまうおそれがあります。

従って、タロットに限らず、学習の際に、先生や学校によっては、ノートに取ることを禁止している場合もあります。(その場合は、資料があとで配られることがあり、文字情報は補填されることがありますね)

講義によっては録音が認められることもありますので、書くことにとらわれ過ぎず、講師の話している内容や示される図などに、集中するほうが、受ける講義としては充実していることになるかもしれません。

まあしかし、長年の学校教育の癖はなかなか変えることが難しいので、無理やり、ノートを取らずに話から覚えるという方法をやり過ぎても、かえって、その人にとっては効率が悪いこともあります。

人間、慣れた方法を採るのが楽で、効果的という場合もあるのです。

それでも、タロットを学習する場合は、ノートに書くことだけではなく、やはり、先生の話とともに、タロットそのもの図柄・絵をよく見ていただきたいと思います。

その時、講義の話題やテーマになってるカードを、自分のタロットできちんと手に取り、確認し、見ることです。

時には、先生の説明している以上のものが浮かんてくることもありますし、これまで気が付かなかった絵の象徴、細かな部分などが発見できる可能性もあります。

その時の驚きやインパクトはなかなかのものがあり、そうしたことが印象として刻まれ、ただ単にノートを読み返すよりも、ライブ感覚の学習として効果があるわけです。

特にタロットは絵のカードですから、学習している時、講義を受けている際のシーンも、あとで同時に思い出すような形式にすると(つまり、イメージとして講義全体をとらえること)、さらにタロットの学びに、生き物的な感覚が出てきます。

講師側でも、あまりホワイトボートに書くことをし過ぎると、それを筆記しようと、もう自動的に生徒さん側で働くことがありますから、それを防ぐためにも、講師や先生のほうも、書くことに対しての配慮が必要かと思います。

しかし、逆を言えば、たまに書くこと、あるいは、強調して大きく書いたり、声や話とともに、「これはメモしておいてください」というようなものは、「書く必要が重要なことなんだ」「これは覚えておかねばならないことなのだ」と、聞いているほうも意識しますから、「書く」ことを、どう演出するのかも、大事なことではあるでしょう。

そして、講義を受ける側にとっても、書くことの工夫が求められると言えます。

漫然と、ただ板書されたものを筆記したり、話の内容をそのまま書いたりしていると、それこそ、書くことだけで時間が終わります。

重要なことだけを書くとか、その場合でも、あとでなぜ重要なのかがわかるような、何か意味や目印をつけておくと、なおいいでしょう。

もともと、書かないで学習するほうが好き、そのほうが学びのスタイルとして向いている(体験・実践型)というタイプの人もいらっしゃるので、人は人、自分は自分として割り切って、自らの効果的な学習スタイルを知り、構築し、実践することは大事です。

人が書くから自分も書くという態度ではなく、自分にはこれは書かなくていい、重要ではないと思えば、無視すればいいですし、人が書いていなくても、自分にとっては大切だと感じれば、自分流の形でメモすれば(頭や心にすることもあります)いいと思います。

私の場合は、自分が昔の学校教育に毒されたというか、染まり切ったタイプだということを自覚しているので(苦笑)、ノートを取ることもします。

ただ、やはり、講義やセミナーというものは、せっかく講師と対面してのよい機会ですので、もちろん「これは」という時には、手を止めて、話にも集中します。

また、タロットをするようになって、あまりノートとかメモを取ることは少なくなったのも事実です。それはタロットという象徴ツールを手に入れているので、いわば、タロット自体にメモしているようなもので、タロットを見れば思い出すようになってきているからです。

これ(講義内容を筆記するノート)とは別に、創造的ノートというものがあってもいいと思います。

それは講義が終わったあとで、自分が学習を見直し、自分の気づきや学んだ内容を、新たに書き起こしたようなノートのことです。

例えば、タロット学習の場合、タロットの象徴の意味など、講義で習ったこと、先生が話された内容はノートに書いている場合が多いでしょう。

しかし、自分であとで気づいたことや、自分にとってのカードの意味とか、体験から出てきた内容などは、講義の時ふっと出てきてはいても、なかなか同時に書き留められるものではないでしょう。

そこで、とにかく、講義後の別のノートを作り、自己学習としての創造的ノートを作っていくのです。

こうすると、ノートを取る意味もまた変わってきますし、ノートはただ話や板書されたものを記録していくものではなく、自分の思いや気づきを記録しつつ、そこからアイデアを出したり、自らの(実はもともと持っていた)深い認識を、思い出すため、取り出すための道具として使うことができるのです。

普段ノートを取らない人でも、書く作業によって、現実とのつながりを意識することができます。

いざ、書いてみると、話をするのと同様に、実は自分がわかっていると思っていることでも、あまりきちんと書けないことに気づきます。

抽象的に漠然としたことが、書くことで整理され、つまりは、あなたの想念・思念が降りてきて、現実の世界の枠組の中に入るということなのです。

書くだけで願望実現に近づけるという人がいますが、それはこの仕組みがあるからです。

タロット学習は人それぞれです。グループや集団で講義を受けている際は、先生からの講義は皆に向けて同じでも、受ける側は、自分に合うやり方で受容し、工夫して学んで行けばよいのです。


自分の願望のカードが出ると思っている人に。

タロットリーディングやタロット占いを行う場合、相談者(クライアント)側がカードを選ぶにしろ、タロットリーダー側がタロットを引くにしろ、どちらにしても、タロットをシャッフルして(くって)、偶然にカードを出します。

それを相談者(クライアント)の問題や課題、話す内容に照らし合わせて、象徴的に解釈を行って、相談者に気づきを与えるのが「タロットリーディング」であり、よい未来や選択の判断、運勢や具体的なことを当てていく、見ていくのが「タロット占い」だと言えます。

この時、タロットリーダーではなく、クライアントがカードを引く場合、こういう疑問を投げかける方もいます。

引いたタロットカードは、クライアント(自分)の希望するカードが出ているのではないかと。

実際に、何人かの人は、自分の思うカードが出ることが結構あると聞くことがあります。これは裏を返せば、その人にとっては、自分の希望したカードが出るに等しい感覚になると言ってもいいでしょう。

では、希望するカードを出すという芸当は、もしかすると、訓練すればできるのではないかと考える人もいるかもしれません。

私は生徒さんの勉強会やイベントで、カード当てゲームをすることがあります。

この目的は、いつと違った感覚でカードと親しんでもらうことや、直感力をあげることなどがありますが、一回くらいのゲームでは、なかなか皆さん、どのカードが出るのかを当てるのは難しいのが実状です。

それでも、その日、直感がさえている人は、結構当てる人もいたり、ちょっとしたきっかけで、それまでまった当てられなかった人が、当てられるようになったりするケースもあります。

サイコロも、強く念じれば希望する目を平均値以上に出すことが可能と言われています。(まあ、結局、たくさんの回数ふっていくと、平均値に収まると言われますが)

「一念岩をも通す」ということわざがある通り、何らかの強い思念は、実態・現象に影響を及ぼすこともあるかもしれませんし、スピリチュアルな世界では、強いイメージや想念が現実を引き寄せるという考えもあります。

もし、全部ではなくても、ある程度、自分の希望するカードが思いだけで出せてしまうのであれば、偶然出たタロットカードをもとにするタロットリーディングや占いは、そもそも成立しないのではないかと考えられる部分もあります。

ここで、占いとリーディングの違いを、再度見ることにより、この問題は、「占い」では問題になるけれども、「リーディング」においては、必ずしも問題とはならないことを説明したいと思います。

最初のほうに、タロット占いとタロットリーディングの違いを述べました。それをもう一度、上の文章に戻って読み直してください。

「タロット占い」では、出たカードは、未来予測や選択、現状の良し悪しの判断の根拠になる重要なものになります。もしこれが、クライアントの強い念で、その人の希望するカードを出していたということになりますと、それは占い(占うため)のカードではなくて、その人の希望がただ出ただけに過ぎないものとなります。

占い師が「あなたの未来はこうなると、カードに出ています」と答えても、クライアントの願望を言ったのと、実体は変わらなくなります。

もし、クライアントが自分の希望するカードをイメージしていても、あくまで偶然出たのだという認識であれば、まだ「占い」としての余地はあるかもしれませんが、クライアント自身がすでに予見していたかのごとく、「ああ、やっぱり私の希望したカードが出た」ということであれば、これは、占いをしていると言えるかどうかは難しいと思います。

翻って、「タロットリーディング」の場合はどうでしょうか。

タロットリーディングも、やり方自体は、タロット占いとあまり変わりありませんし、偶然出たカードというものが根拠になるのも同じです。

しかし、カードに対する解釈や扱いが占いとは異なります。

出たカードはあくまで、クライアント当人にとっての「象徴」であり、極端なことを言えば、質問の具体性を超越し、クライアント自身の今の状態を全体(でありながら個別も)象徴していると考えます。

ですから、仮に、クライアントが強い念をもって、自分の希望するカードを出したとしても、その一連のことが、すでに象徴であり、すなわち、このクライアントにとって、その希望するカードそのものが、非常に重要な象徴的意味合い(具体性や現実で起こることを意味するようなものではないこと)をなしていると言えるのです。

要は、希望する・しないに関わらず、出したカードを象徴として検討することに意味があると見るのです。

自分(クライアント)が強く希望しているカードであり、それが当人も自覚しているのならば、そのカードはかえって、本人を見る(自分を見つめる)上で、強烈な意味を持つことになります。

言ってみれば、わざわざシャッフルしなくても、もともとそのカードを強く意識しているのなら、タロットリーディングの場合において、偶然出す必要もないくらいです。

例えば「戦車」を出したいと思っていて、それが出せるくらいの人ならば、もう最初から「戦車」を出しておいて、「戦車」というカードから、クライアント自身を見つめ直す、問い直すということをしてみればよいのです。

ですから、クライアントの希望するカードがたとえ出たとしても、リーディング(タロットを使った対人援助)という観点や方法では、必ず問題になるというわけではないのです。

さらに、それでも、タロット占いやタロットリーディングにおいての偶然性を出したい場合は、タロット占い師、タロットリーダー側が、なるべくフラットな気持ち・状態を保って、カードをくったり、シャッフルしたりしてカードを引くことで、相手の念が入らないカードを出すことが可能になります。

それでも、能力者ばりに(笑)、タロットリーダーがシャッフルしているカードを念操作して、タロットリーダーに自分の希望するカードを出させるほどの人は、もう占いやリーディングするより、自分で思い描くイメージ、想念でもって、願望実現したり、人生をいい方向にコントールしたりできるはずですから、それをトレーニングしたほうがいいでしょう。

それほどまでではないにしても、自分がタロットを引くと、いつも思っているカードが出てしまって、偶然性の中の必然性のシンクロニシティやインパクトが感じられないという人は、タロットをイメージやビジョンのトレーニングツールとして活用することをお勧めします。

自分が成し遂げたいことを、タロットに投影して、そのカードを出せる自分と、現実に成し遂げたいことが現実化できるという確信とを、リンクさせていくわけです。

カートをシャッフルして引くのではなく、最初から願望実現や目標のための、設定装置・イメージやビジョンの強化装置として使うという感じですね。

このようなタイプの人は、サイキックな力も強いので、いろいろとサイキック的な力の影響とコントロールも、人によっては難しいこともあるかもしれませんので、サイキックにおける師匠のような人を持つとよいかもしれません。

タロットにおいても、魔術(西洋魔法)的な分野が合っている可能性もあります。(しかし、よい指導者や組織と出会えるかはあなたの縁次第でしょうし、能力や力を欲しての、安易にサイキックや魔法の世界に入るのは危険です。またそういう目的では、学ぶことは認めてくれないでしょう。黒魔術の世界は別とししても)

ちょっと横道にそれましたが、自分の願望でタロットが出てしまうと思うような人は、まずはタロットリーダーや、占い師側にカードを引いてもらうことで、少しは和らぐ思いますので、そうしてみるとよいでしょう。

あとは、早く、占いレベルのタロット扱いを脱却することですね。


タロットの時系列リーディング 過去

タロットの展開法では、時系列、特に過去・現在・未来を、出すカードの位置で決めている場合がよくあります。

例えば、スリーカード、三枚引きの技法では、単純に見て、向かって左のカードが過去、真ん中が現在、右が未来を示す(象徴する)カードだという具合です。

この時系列の方向性も、なぜ左が過去で右が未来なのか、考えてみると面白いのですが、残念ながら、カード単体と全体も含めて、その方向性に統一性があるシステムを持つカードは少ないかなと思っています。

その点、マルセイユタロットは、左と右の方向性には時系列的な意味合いもあるので、展開法においても、左側から右側にかけて時系列が進むと考えるのも妥当になります。

さて、こうしたタロットの時系列展開で、よく質問があるのは、「過去のカードの意味は何か?」「そもそも過去のカードは引く必要がないのではないか?」というものです。

過去はもうすでに終わったことであり、今更、カードを引いて読んだところで、何の意味があるのかというニュアンスですね。

これは、いわゆる「タロット占い」の観点であれば、そうかもしれません。

占いの質問では、クライアントの焦点・関心は、現在のことから未来にかけてが大半だからです。

占いの場合、だいたいにおいて、今の問題や悩みごと、迷いがあり、それを未来にはよくしたい、自分の思い通りにしたい、よい運勢の方向・選択を(未来においてなるように)選びたいという気持ちで、タロット占いを求める・行うからです。そこに過去への関心はほぼありません。

もし占いで、過去のカードに意味をもたせるとするならば、今までの選択パターンを見たり、占い師がクライアントの過去を当てて、その占いに信頼や神秘性をクライアントに抱かせたりする効果があるというものでしょうか。

ですから、クライアントにとってというより、占いの場合、当たることで評価が意識されるものは、過去のカードの読みは、占い師にとって重要(自身の力量か試される試験紙のようなもの)と言えるかもしれません。

しかし、占いというより、心理的なリーディングということになってきますと、がぜん、過去のカードは重要な意味を持ってきます。

占いの場合でも、過去のカードに、クライアント(質問者)のパターンを読むことがあるとは言いました。

そのパターンが、意外にもクライアント本人には、気がついていないケースもあるのです。

いつも同じような恋愛をしている、似たような恋人を選んで別れているとか、困難や苦痛の場面に遭遇すると、同じ反応をしていた・・・など、自分では盲点になっていて、改めて指摘されると驚くことがあります。

また同じパターンに気がついていても、それに意味が特にあるとは思っていないとか、隠したい、人には言いたくない部分であるとかの場合もあります。

そうした、自分のある種の反応・行動パターンを、過去のカードが表していると読み、それに気づいてもらって、現在以降に活かしてもらうことができます。

ほかにも、過去のカードを出してリーディングすることにおいて、とてもたくさんの意味があります。それらは私の講義で説明しております。

しかしながら、展開法(スプレッド)によっては、過去のカードはあまり枚数を出さないことのほうが多い気がします。それはやはり、タロットとその展開法が、占いとして開発・発達してきたところが大きいからと考えられます。先述したように、占いだと、現在から未来にかけて焦点が向くからです。

たとえ過去を読むことに意味があると認識したところで、上記で述べたように、展開法自体が過去のカードの枚数が一枚とか、二枚とかの少ない状態では、あまり詳しく見ることができないのも事実です。

心理的なリーディングをするには、それでは少し物足りないと言えます。

ですから、オリジナルな展開法でもよいので、もし心理的な意味でタロットを使おうとするのなら、過去を象徴するカードを、ある程度枚数を出すようにしてみてもよいかもしれません。

そして、このことが、今日一番言いたいことであるのですが、過去をリーディングすることによって、クライアントの人生、エネルギーに変化が出ることがあるのです。

それは、クライアント自身が、過去を受け入れることの、サポートができるからです。

ただ、過去を受け入れると言っても、誰かを赦さなければならないとか、自分の過去を称賛したり、感謝したりしなければならないということではありません。(そうできても、よいですが)

ただありのままに、自分の過去の、特にその時の抱いた感情を受け入れるということです。怒りや憎しみ、つらさ、悲しさ、寂しさ、悔しさ、反対に、嬉しさ、喜び、期待感、ワクワク感など、思い出していただくわけです。

過去となってきますと、やはり、親・兄弟・姉妹・家族との記憶、問題がどうしても出ることが多くなりますし、これまでの仕事や恋愛、人間関係においてのインパクトのあるシーンなどが印象としても出て来るでしょう。

それらが、今に全く影響を及ぼしていない人はほとんどいないのではないでしょうか。

過去としての事象は終わったことであっても、心の中の時間では続いているわけです。それが自分ではわからない状態か、認められない状態、逆に気にし過ぎて、葛藤や心理的苦痛・トラウマなどになっている状態、これらが現在の生きづらさ・問題として現れていることが少なくないのです。

過去のカードによって、隠れていたもうひつの時間の流れ、いや停止している時間(そこに過去の感情が貼りつき、固定されている)といってもいいものに入り、その時間を今の時間と同調させるように動かします。これは「運命の輪」の象徴性にも関係します。

過去の誰かや、何かを赦すのはあとでもいいですし、できなくてもいいと思います。

それでも、こうして現在まで生きてきた自分自身を認め、潜在的に止まっていた時間の中で感情を抱え続けていた、もう一人の自分、過去世界の自分を受け入れる(特に評価とか判断とかはしなくてもよく、どちらかと言えば、感情にフォーカスするほうがよいでしょう)のです。

たとえ受け入れられなくても、そうした自分がいたことを、もう一度発見してもらうだけでも、かなり癒しや浄化の面においても、違うことになります。

カードは絵なので、過去の実物の記録フィルム・映像を見せられるわけではありません。そこにも生々しくない(古傷をえぐるような痛さがない)緩和装置が働きますし、マルセイユタロットの図像の力そのものもあり、特殊な効果も期待できる部分があります。

私たちは、完璧な人間など、いません。

悩み苦しみ、迷う人は、ある意味善人であり、完璧や理想を追い求めるのが強いがゆえに、そうなっているとも言えます。

みんな、過去においては、恥部もあれば、間違いをした、失敗したと思ったこともあるはずです。それをいまさら正すこともできませんし、もし自分が害を被った側だとすれば、その気持ちを、無理やり愛や赦しに換えるようなことも難しいでしょう。

ここで言いたいのは、死後に行わわれるというものと近いことです。過去をただ改めて見て、「大変な人生(過去)だったなあ」とか、「あれはひどかった、苦しかった」「あの時は良かった」とか、そういう振り返りを過去カードによって行うというものです。

不思議なことに、それだけで、変容が起きる場合があるのです。その理由は、ここで書いたような、ふたつの時間のシンクロと流れが始まることや、感情の浄化などのことがあるかもしれませんが、ほかの理由もあるでしょう。

過去のエネルギーが戻れば、私たちは心理的に、今と未来に向かって、もっと積極的に、前向きに生きていけるものに変わっていくのです。

占いで、「未来によいことがある」と言われれば嬉しいのはわかりますが、過去のことが置き去りにされたり、抑圧されたりしていると、そのよき未来さえも引き寄せることができない(自分で自分の運命のを変えてしまう、言い換えれば、たくさんの可能性の中から、過去の苦しいエネルギーに引き合うものを選択する)こともあるわけです。

ですから、過去のカードを出すこと、リーディングすることも、決して無駄ではなく、それどころか、人によっては大変重要な意味を持つのです。


問題の認識、その発信と解決

人にとって、何も問題のない状態というのは、なかなかないのではないかと思います。

結局、問題というのは、本人が問題であると感じたり、思ったりしない限りは問題ではないのですから、結局のところは、感情や気持ち、あるいは思考や判断が、問題を決定している、生み出していると言ってよいかもしれません。

ということは、いかに問題と感じないか、思わないでいられるかということが、楽に生きるコツとなると考えられます。

ここで注意したいのは、起こっている自体そのものは、ただそういう事実というだけであり、それがいいことか悪いことか、はたまた問題であるか否かとは別である、ということです。

例えば、何か病気になった、仕事をなくした、恋人にふられたなどということは、いかにも問題と思えますが、それは先述したように、そういう事象が起こっただけで、問題であるかは、あくまで本人がそう思っているかどうかによります。

さらにいえば、起こっていることで、痛い、苦しいということを感じていても、だからといって、それが問題や悩みと本人が思っているかは別で、たいていは痛みや苦しみがあれば、「問題である」と思う人がほとんであっても、そうではないと(思う)人もいるということです。

思いや判断が問題を決めている(問題として確定させている)とは、そういうことです。

だから、自らの感情や思考のパターンを知ったり、学びをして、変えていったりすることは大切になるのです。

しかしながら、よほどの悟った人くらいでなければ、実際、心や体の痛み、苦しみ、不快さ、現実で起こる不幸のような事態は、普通は問題・悩みとなってしまうのが、これまた人間であるところの特徴とも言えましょう。

その問題や悩みを解決していくこと、軽減していくことを求めるのも、人として当たり前の気持ち、行為と言えます。時には依存になってしまったり、弱気になったりすることも、その本人の苦しみの次第では、仕方ない面もあります。

ここで、全体と個(個人・個性)という、マルセイユタロットでもお馴染みの観点で見れば、ひとりひとりの問題は、困っていることとして感じる「問題」としては同じであっても、内容や程度などはまったく異なるものと言えます。

タロットでの相談においても、大まかに分けると、実は小アルカナに関係する4つの組の問題、さらに言えば、ふたつの問題で大分類できるのですが、こういう共通した「全体的」特質とともに、やはり個人別としての問題の個性も出てきます。

ですから、これは非常に重要なことだと私は思っていますが、問題や悩みに対する、ある種の共通パータンの対応・解決策があると同時に、それが全員にそのままきれいに当てはまるわけではなく、ひとりひとり、個別での対応・治療・解決の状況も存在するということです。

誰かがあれでよくなった、解決したといっても、その方法や内容、日数などは、人によって違うわけですし、自分には効果がないこともありえます。

従って、まさに自分の問題は自分なりのペースや、解決のやり方があり、いわば、問題にも個性があれば、解決にも、個人的(個別)処方箋があるのだと考えれば、何かひとつを信奉しすぎたり、誰かの洗脳にあったりすることは少なくなるのではないかと思います。

また自分に合わないものがあるのも当然で、それで自分がおかしいと思うのではなく、ただ単に、人はこの世界では個性的存在であることが証明されているだけのことです。

かといって、自己流がすべてよいとうわけではなく、人としての共通点があることも先述した通りです。

言い方を換えれば、誰かの問題・悩みは、確かにその人の個別的なものですが、それは私たち全員にとって無関係ではなく、何らかの必要性があって発生しているとも言えるのです。

よって、私はこうも思うのです。

今の情報化社会、いろいろな人が自分で世界に向けて発信てきるようになりました。その情報はまさに千差万別、いいも悪いも、本当も嘘も、まさに玉石混交、様々に存在していることでしょう。

その中で、自己の問題や悩みと、その解決・軽減に取り組んだ過程、結果を(本当のこととして)披露している情報があれば、きっと、誰か、問題を抱えている人に役立つことになるのではないかということです。

さきほど、問題は個別なものであり、解決もその人のオリジナル性があると言ったことと、矛盾しているように感じるかもしれません。

しかし、「問題」は、人として共通の部分もあり、発信した人と見た人の状態が、まったく同じではないのは当然ながらも、そこにやはり軽減・解決・気づきとしての何がしかのヒントも共通としてあると思われるのです。

どんな人でも、人や薬、技術からの援助があったとしても、問題を解決する(あるいは問題認識を消失させる)のは、自分自身の思いや力です。

悩み、苦しんでいる人が、その解決を求め、ネットでの関連する情報を探して、たまたま行き着いたものが、誰かの発信した自分の問題とその対応の話で、それによって、(見ている、読んでいる側の)自分自身の何かの気づきや解決のきっかけ、安寧を得るヒントになることも、今の時代、十分に考えられます。

実のところ、問題は、その人自身のみで抱え込むことによって、大きな困難性として認識され(悪い意味での問題の成長)、余計、石のように固まってしまうおそれもあると考えています。

問題を誰かに話し、シェアし、皆でなくしていくような共通な思いというか、つながりができれば、かなりの問題は早く解決し、個性的な対応策が多く登場したり、問題そのものが社会から消失していったりすることも加速するのではないかと想像しています。

ということで、少なくとも、自分の以前の問題が解決したとか、軽くなったとして、問題を過去的なものとして扱える人は、自らその経験を発信していただければよいのではないかと思います。

役に立たないようでいて、きっと誰か、いや、大げさに言えば、人類全体とつながって、見えない形でも役に立つのではないかと思えるからです。

あなたの問題は、あなた個人としては確かに大変だと思いますが、皆の役にも立っているのです。もちろん、あなた個人としての問題がなくなり、楽になることが先決ですが。

皆で楽にしあう」というイメージが、見えないネットワークを稼働させ、個が全体の力になっていくシステムも、実はあるのではないかと思えるわけです。

ということは、逆に、ネガティブなものも、多くの人が思えば、個が全体として増幅されたものなりますので、なるべくなら、そうした思いは出さないほうがよいことになります。

でも、発生する感情そのものはコントロールできませんので(そのあとのコントロールは可能としても)、ネガティブに思うなというのも無理なことです。

ですから、意識的に祈りとか感謝とか赦しとか、そういう感情を、皆のつながりとして思うということをし、個別でもやっていくとよいのではないかと思います。

個でありながら、全体を意識すること(よい意味で)、は、今の時代、特に必要なことではないかと考えています。


小アルカナの剣(マルセイユタロット)

タロットの小アルカナというパートは、4つの組に分かれています。

タロットの種類によって、4組の絵柄は異なっている場合もありますが、だいたいは、英語でいうと、ソード・カップ・ワンド・コイン、私たちは日本語で、剣・杯・杖・玉と呼称するもので成り立っています。

これは、いわゆるトランプの4組と同じで、トランプの一般的な組(スート)の表現として、それぞれスペード、ハート、クラブ、ダイヤとなっているわけです。

ちなみにトランプにおける絵札も、タロットでいえば、宮廷カード(コートカート)と大アルカナの「愚者」と関係し、組の数の1(エース)も絵札なので、ゲームとしては得点力が高く、重要なカードであることがわかります。

ということで、タロットを知れば、枚数の違いがあるとはいえ、構造的にはトランプと同じなので、トランプ占い、トランプリーディングも可能になります。(時々、私も講義の余興としてやることもあります(笑))

と言いつつ、今日の話題はトランプではなく、小アルカナ、中でも、剣の組のことです。

さきほど、タロットの種類によって、4組の絵柄が違うこともあると述べたように、同じ剣(ソード)の組であっても、その剣の絵がカードの種類によって異なるがために、絵柄の印象による読み方の違いも当然出てきます。(これは大アルカナも、小アルカナの剣以外の組もそうですが)

私はマルセイユタロットを使いますので、マルセイユタロットの剣の絵柄で、この組を解釈します。

ただ、日本で、メジャーに使われているタロットといえば、ウェイト版(ライダー版)になりますので、多くのタロットリーダーや占い師たちが、その絵から意味を見出すことになっているのも当然となっています。

ウェイト版の剣の組を見ますと、武器のソードとしての色合いが濃く、中には凶器に見える表現もあります。

私自身はウェイト版の絵柄がとても苦手なので、実はさわることもできないくらいなのですが(^^;)、それほど、マルセイユ版とは違うところがあります。

というより、マルセイユ版の小アルカナ、数の組のカードは、絵というより記号的なものになっており、とてもシンプルです。

ここから絵柄としての意味を読み取ろうとすることはむしろ困難で、従って数の象徴的な意味を理解しないと、なかなかマルセイユ版の数カードは読みにくいことになります。(数だけではない読み方も、当然あります、数も重要ですが、四大元素の象徴を理解することも鍵です)

そして、マルセイユ版の剣の組に着目しますと、なるほど、最初の「1」のカードや、奇数の数のカードには、まっすぐなソード状の、いかにも「剣」というものが上に向けて伸びていますが、偶数のカード、湾曲した半円模様の剣とも何ともつかぬ模様になっており、現代人の私たちが見たら、配線コードのように見えるかもしれません。

なぜ剣が湾曲したものになっているのかについては、諸説ありますが、ここでは、そういった曲がった剣を使う文化と関係していると言っておきましょう。(ほかの理由も考えられます)

ウェイト版は、小アルカナに絵をつけ、組ごとに、ひとつのスートリーが流れており、10で完成するようものとして構成されているようですが、マルセイユタロットも絵こそありませんが、実は1から10でもって、完結するということは同じだと考えられます。(マルセイユタロットのほうが時代が古いので、ウェイト版がモデルとした可能性もあります)

マルセイユ版の剣の組を数の通りにきれいに横に並べてみると、驚くべき模様というか、全体の絵柄が浮かび上がってきます。

それは半円系の剣を描ているからこそ、半円がふたつ合わさってできる「円」模様であり、さらに円と円とが重なってできる、通称ヴェスカ・パイシズ(ピスカ・ピッシーズ)と言われる魚の浮袋の形も見えてくるのです。

これは秘儀的に非常に重要な幾何学模様であり、剣の組には、この知性を磨くことが伝えられていると考えられます。一言でいえば、それは宇宙の智慧であり、グノーシスをタロットに見ているものは、それでもあると言えます。

マルセイユタロットの剣の組を見ていると、私たちの知性獲得の過程と言いますか、向上の順序が描かれているようにも感じます。

最初は、私たちは無知の状態であり、しかし、ひとつの偉大な神の剣、つまり神的知性は、内奥にはある状態で生まれますが、次第に人間としての生きる知恵、いわゆる普通の知識のほうを自分の中にたくさん入れていきます。(逆に神的知性は隠れてしまう)

現実を生きるうえでは、それは当然の成り行きで、自分を守るため、あるいは現実社会を渡っていくためには、仕方のないことでもあります。

最初「1」のカードに王冠とともに、偉大に華々しくあった大きな神性なる剣も、偶数カード(10は除いて)においては、直線的な剣そのものがなくなっており、奇数カードにあっても細くなり、次第に、湾曲した剣の数は増え、錯綜したものになってきます。

それに伴い、周囲の植物のようなものも、次第にシンプルになり、半ばくらいから色や方向性も含めて、違った雰囲気に変化します。

ここから、私たちは、途中までは、人との交流による知識の受け渡し、学び、実践を経験しつつも、やがては、本当の知性に目覚めることを目指すのだとわかります。

そのためには、「剣」の象徴として、無駄な知識はそぎ落とし、収れんし、本当の知性のための栄養としてささげなくてならないことが示されています。

これは、人間(生活)としての一般のこと、社会のこと、また身に着け、学習した様々な知識が無駄であると言っているのではありません。それが、神性的な知性、智慧を開くための肥しや重要な経験になるのだと言っているわけです。

最初から感性のみを重視する人もいますが、それはそれで個性としてはありだと言っても、マルセイユタロットの剣の組を見ていると、通常の思考や知識においても、やがてそれらがそぎ落とされ、凝縮され、高い波動に至る変容によって、高次の知性にたどりつく可能性も示唆していると言えましょう。

一度隠れた神性なる「1」の剣が、再び磨かれて現れる(10から別のステージの1に進化する)という印象です。

その前の、自分が取り組んでいたステージの完結を意味する10のカードでは、偶数でありながら直線的な剣が描写されており、しかも剣がふたつに分かれて交差している様で表されています。

いわば、現実を超えるための、自分の分身が生み出された瞬間かもしれません。

こういう剣の組の流れから、私たちは、迷いなからも、ひとつのシンプルな答えにだとりつこうとしているのがわかります。

これまで学んできた知識も成熟してくると、切り落とされ、収れんし、シンプルな直観になり、感覚的判断と似たようなものになっていく(しかし通常の感覚的なものとは次元の違うもの)ように予想されます。

しかし一方で、最終的にはひとつというより、もうひとつ(もう一人、もうひとつの世界)に気づくことが、知性の、ある種の到達点であることが剣の組から示されています。

剣の組は、まさに私たちが知性を鍛錬していく様を描写しつつも、孤独や孤高に達するようなイメージではなく、極めてシンプルな法則・リズムに基づきつつ、むしろ、この世界や宇宙が多様で豊か、かつ多次元で、あらゆるものが存在し、共存・関係・影響し合っていることを知るに至るのを語っているように思います。

こうして見ていくと、マルセイユタロットの剣の意味やイメージが、決して武器や凶器のようなものではないことがわかるでしょう。


Top