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令和スタートに向けて。人生について。
令和の時代になりました。
平成から令和の交替時は、メディアも人も、まるで年末年始、新年を迎えるかのような感じで、見ていてとても面白かったです。
私自身は、それほど意識はしていなかったのですが、それでも思うところはありました。
特に今後のことで、令和で自分の生きる時代が終わるのか、あるいは、次の元号を経験することもあるのかと、ふと考えたところがあります。まあ年齢的に見て、令和で終わりかと思いますが。(苦笑)
今現在は老け込む年でもありませんし、かといって若いという年齢でもありません。
別に長生きしたいわけではなく、むしろ、もともと地上や現実に生きるということに、かなり昔から違和感を覚えていたり、ここに居場所がない、本当の場所は別にあるなどという逃避的な思いを抱いてきたりしたので、人生や命を大切に思う人には申し訳ないのですが、早く去りたいという感覚もありました。
この思いは、スピリチュアルな学びをしていく中で、変化がありつつも、完全に消えたわけではありません。
しかしながら、こうしたタロットなどの学びや気づきによって、生きる意味も見出すことになり、そうすると、地上の経験というものが、逆にとても貴重なものに思えてくるようにもなりました。
魂は永遠とよく言われますが、確かに、大きな次元の観点から見れば、そして、形というモノに囚われなければ、私たちは皆、永遠なる存在なのでしょう。言い換えれば、固定的な形ではないエネルギー存在では永遠だということです。
たとえ「無」になったとしても、おそらく“無という状態の存在”であるとも言え、無の中にはすべてがある「空」のような概念だと思うと、やはり私たちは消えることはないのだと考えることができます。
しかし、先ほど、形に囚われなければ・・・と述べたように、逆に言えば、ある一定の形というものでの存在にこだわれば、それは限りあるものになります。
具体的には、肉体と個(私)と言う意識と形を持って生きる現実のそれぞれの人生ということになります。
ということは、私たちは一面(現実意識)では有限であり、反対に魂や個を超えたもの(超越意識・神性意識)では無限の存在なのだということになります。
前にも書いたのですが、この有限と無限の意識の違いが時間感覚を変え(生み出し)ているとも考えられますので、いわば、ふたつの視点によって自分の人生というものを見ていくことができるのです。
それは、有限なる今の自分としての個の人生と、超長期的な永遠なる魂の人生というもの(視点)です。
どちらも大切なものだと思いますが、どうしても私たちは、前者の、個の人生、限定的な視点で見てしまいます。
それも当たり前で、超長期的な人生なんて、自分・個としてはほぼ関係ないと思えるものですし、そういうものは抽象的になりますので、具体的に自分(の有限の人生)に関係することを想定することができないからです。
ただ、こうした時代の切り替えの時には、たまには(超)長期的、個を超えた流れ、言ってみれば「宇宙」とか「全体」的視野で自分の個の人生も見ていくようなことがあってもいいものと考えます。
意外に思うかもしれませんが、個の悩みは、全体としてのレベルや、今述べた長期的視野から見れば、まさに取るに足らないものとなるので消失しやすいのです。
限定というものは、限定であるからこそ、一時的なものになります。こだわりを捨てれば、あるいはもっと大きく長い目で考えれば、今の自分の狭い視野から生まれた悩みなど、いつかは変化するものてあったり、雲散霧消したりするものと考えられます。
しかし、誰もが、「個」「わたくし」という自分を感じているのも事実(現実)です。
何かを残したい、“わたくし”として味わいたい、経験したい、蓄積したい、成長したいという、具体的な個の思い・欲求が誰にでもあります。
そして、それ(思いと実現、あるいは経験)があってこその個の人生と実感とも言えます。
個の人生は有限です。ですから、こちらの視点になれば、限りある時間となり、無駄なことやダラダラとした効率の悪いことを続けていったり、無為に過ごしたりするわけにはいかなくなります。
だから、何もやっていない、何も残していない、何も経験していないということは、個の人生では大変損失のように思えます。
ただし、ここが重要ですが、個の人生は有限で、だからこそ限りある中で個が充実する働きをする必要が、上に述べたようにあるわけなのですが、あくまで個(わたくし)の人生と感覚ですから、すべては自分次第なのです。
ところが、自分次第なのに、現実(地上世界)のおかしなからくりとして、個の世界はまさに個性の世界(一人ひとり違う世界)のため、人と比べる競争的意識が出てしまいます。
悲しいことに、私たちは、人と比較される人生を歩まされ、それによって、人との差、モノや能力などのあるなしの差によって自分を評価してしまうことが起きます。
つまり、自分の個の人生の充実度が、他人との比較によって生み出されているという仕組み(実は幻想)があるのです。
でも、よく考えてみてください。
先ほど指摘したように、個の充実は、自分がどう思うかの世界でもあるので、繰り返しますが、自分次第なのです。
人との比較をするのではなく、自分が良かった、満足した、何か結果を残した、経験できた、味わった、楽しかったなどが感じられれば(決められれば)、個としてはOKなのです。
ですから、有限なる自分の人生をよくするのも悪くするのも、自分の思いだということです。
さらに、超長期的、魂的視点になれば、有限ではなく無限になりますから、有限(時間限定や個としての現実意識)においての悲喜こもごもなこと、特に有限時間内で見える形で得るものなどは、意味をなさないことになります。
もし意味をなすとすれば、形のないものが中心であり、それは精神や心ということもできますが、心は変わるものなので、もっといえば霊的な成長という意識と(見えないエネルギー的)蓄積と言えるでしょう。
皆さんの個としての有限人生は自分次第なのですから、やはり「よく生きた」と思えるものにして行きたいものです。また、時折、魂の永遠性の視点も思い出してみてください。
永遠性の視点は、個を超えていますので、全体として、生きとし生けるものすべてのものからの見方です。神(性)の愛の視点と言ってもよいでしょう。
そうすると、無限の愛が、有限の愛として流れ、結局、自分自身で愛し愛されの壮大な演出のもとで生きていることに気がついてきます。
令和の時代、有限の人生においては、他人と比べることでの自己評価も続いていくとは思いますが、それは魂的には演出のひとつであり、本当(最終的に)は、自分が自分の人生の価値を決めるのだと思って、柔らかく生きて行きましょう。
あなたがよいと思えば、あなたにとってよい人生であり、しかも、他の人からもよい人生となるのです。
平成とマルセイユタロット
今日で平成が終わります。
平成のブログとしては最後となることを思うと、感慨深いものがあります。
平成は30年間でしたが、短いようて長く、また長いようで短いとも言えます。今回は天皇崩御での改元ではないので、新しい年号も一か月前に発表されたことで、混乱よりも、前向きに明るく受け入れた方も多かったのではないかと思います。
と言っても、今日と明日というのは、西暦的には、4月から5月に変わる単なる月の切り替えであり、改元に伴う感覚は、日本人であるがための思いでしょう。
つまりは、ある世界観を共有している者たちの間で、同じ感覚を得ることができるというものなので、逆を言えば、世界観やルールが違えば、その人たちは影響を受けないことになります。
今でこそ、クリスマスとかハロウィンなど、西洋系の(厳密には、その起源や象徴性をたどると別のところだとも考えられますが)特別な祝祭日も、日本人にはなじみにはなりましたが、先ごろあったイースター(復活祭)については、キリスト教圏ではメジャーですが、まだ私たち日本人にはそれほど広まってはいないものです。
マルセイユタロットを見た場合、イースターに関連すると思われる象徴性や表現が見られます。
しかし、すでに述べたように、これが世界観として共有できないと、それに意味が出てこなくなります。
マルセイユタロットは、ヨーロッパのフランスを中心に、17から18世紀にかけて主に作られたカードたちの総称(同じコンセプトの絵柄によるもの)です。
従って、当然、絵柄は西洋・ヨーロッパの人物とか宗教とか風習になっています。
ところが、私たちは東洋の日本人なので、ばっと見だけでは、描かれているものの意味や内容を理解するこができません。時には、西洋の歴史とか常識を知らないで、日本人風に解釈してしまい、誤解することもあります。
ヨーロッパではキリスト教、特にカトリックが、宗教というより日常のルール、規範、行動を決めるバックグラウンド、精神的法典で、支柱のようなものにもなってきた歴史があります。
ヨーロッパで作成されたタロットが、キリスト教と無縁であるはずがないのです。
だからと言って、私たちの扱うマルセイユタロットは、キリスト教の教義を絵で示したものというわけではありません。
歴史的に見れば、昔は文字が読めない人も多かったので、よく宗教的な話などを、絵で表示していたことがあったと聞きます。紙芝居のようなものですね。
ここから考えると、タロットというものも、その絵は、ローマ法王のように見える絵とか、最後の審判をイメージさせるものなどありますから、キリスト教の教えを伝える役割があったのではないかと想像することもできます。
また宗教だけではなく、「女帝」とか「皇帝」の絵もあることから、権威や身分、社会の仕組み(平たく言えば誰がえらいのか、支配しているのか)を教育するためのものであったと考えられなくもないです。
※一応、タロット史としては、タロットはゲームのための道具であったとする見解がノーマルです。
ともあれ、ヨーロッパの人がマルセイユタロットを見れば、キリスト教を中心に、その絵は、自分たちの日常的なものとして(作成され、一般的に流布していた)当時は見られたのは当然だということです。そして解釈も、その当時の常識や風習、宗教の掟などに基づくようになっていたことでしょう。
ここで最初の話に戻ってきますが、まず、マルセイユタロット(などのタロットは)、キリスト教中心の当時のヨーロッパの風俗・習慣的な要素という、共通する世界観でカードをとらえていたということになります。端的に言えば、キリスト教カードみたいなものです。
ところが、私たちに伝えられているものは、別の側面のことでした。
それは、むしろ反キリスト教、異端キリスト教ともいえる、古代からの秘密の教えでした。これも、「ある世界観」だと言ってしまえばそれまでです。ただ、こちら(秘密)側の世界観になるには、同じカードであっても、別体系の意味を知らなくてはならないことになります。
それが秘伝であり、暗号にもなっていたということなのです。
このように、タロットカードは、マルセイユタロットを例にしますと、一般的に共通する世界観での意味と、隠された特別なグループに口伝的なもので伝えられてきた意味によって見えてくる世界観とを、ともに内包しているのです。
加えて、もし日本人の私たちが、日本(人)的な解釈も加算していくとなると、カードは、また別の世界観を持つことになります。
ほかにも、カバラー的(古代ユダヤの)世界観、占星術的世界観、ピタゴラス的数秘術世界観など入れていきますと、それぞれがまた別ものとして浮かび上がってきます。
これができるのは、マルセイユタロットならではの、根源的な型をそのシステムに有しているからだと言えます。別の言い方をすれば、どの体系や世界観にもなじむように、うまく作られているということです。
さて、平成という時代の終わりでマルセイユタロットを振り返ると、昭和の時代、世界的にメジャーであったグリモー版を中心に、本当にマイナーな感じで日本では使われていたように想像します。
しかしやがて、日本で言うところのカモワンタロット(ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット)が、ある機関(旧タロット大学)によって日本に流入しました。西暦では、ほぼ2000年前後(カモワンタロットができたのは1998)のことで、平成にすると10年からの数年になります。
ここから約10年にわたって、カモワンタロットが日本でのマルセイユタロットとして普及してきた経緯があります。もちろん、グリモー版など、ほかのマルセイユタロットを教える人もいらっしゃいましたから、カモワンタロットオンリーではありません。
それでも、カモワンタロットの威力は大きく、ウェイト版(ライダー版)に比べると、まだまだ微々たるものではありましたが、以前より、日本でのマルセイユタロットを使う人、知る人の比率がかなり上がったと思われます。
こうやってみると、平成の時代は、タロット界でも、カモワンタロットを中心に、マルセイユタロットが大きく進展、一般化した時代だとも言えます。
その後、カモワンタロットを普及・教育していた機関が分裂したため、今は混沌とした状態になっていますが、下地として、日本でマルセイユタロットが多く知られるようになったという功績は、大きかったのではないでしょうか。
このことを、視点を変えて考えてみますと、日本の平成の時代に、この西洋のカード、マルセイユタロットが広まる理由・目的・使命があったのではないと推測することもできます。
広めたという見方だけではなく、広まることを求める層や人々が、この日本に多く存在した(無意識的にも)ということです。なぜ日本なのかということも、不思議と言えば不思議です。
物質を拡大し、多く持てばよいという昭和から、平成は物質的には縮小を余儀なくされた時代でもありましたが、逆に言えば、精神性の熟成が、昭和よりも進んだように思います。
まだまだ物質的観点や競争意識が強くはありますが、昭和の高度経済成長のような時代から思うと、平成はインターネットも出てきたことで、情報の共有も飛躍的になり、物質だけではない精神や心、個性の観点も増幅したように見えます。
平らかに成ると書く平成は、まさに文字通り、平たくつながるネットワーク的な情報交換と、その中継点・発信点である個も際立つ結果となりました。
少しずつ、ただの塊、モノ、物質、それが多い少ないという評価から、質や中身、精神、心、あり方というものに価値が移行してきたのが平成だとも言えます。そういう時代に、マルセイユタロットが広まってきたというのも、何か大きな流れや意図のようなものを感じます。
そして、次は、「令和」の時代です。
もしかすると、タロット的には、あるタロットが消えるようなこともあるのかもしれませんし、今のような占いの道具とする使い方は、変わっていくのではないかという気もします。
タロットというモノがなくなっても、タロットが示唆していた「ある世界観」を、私たちは受け取り、いや思い出し、より霊的な覚醒、進化へと歩みを進めるのではという思いがあります。
果たして、令和の時代に、マルセイユタロットはどうなるのでしょうか。興味深いところです。
占いコーナーはいらない?
マツコ・デラックスさんが、「もう、そろそろいらないもの」というテーマで、「朝の占いコーナー」を、そのひとつにあげられていたということです。
テレビだけではなく、最近ではブログとかSNSでも、毎日のように占いをして、掲載されている方がたくさんいらっしゃいます。
その目的は、毎日占いをして、純粋に皆さんに何かの参考にしてもらいたいと思っている人もいれば、自分が占い師であったり、占いサロンなど経営されたりしていて、占いビジネスに関わっていることで、その集客や宣伝のためという場合もあるでしょう。
また、自分の占い技術を高めるために、修行的な意味でやっていらっしゃる方もあるかもしれません。
そして、見ているほうも、テレビや雑誌等で、たまたま流れていたり、書かれていたりするため、なんとなく目に入ってしまうという人、いつの間にか習慣のようになってしまって見るようになった人、占い好きで、自ら好きな占い師さんや、興味のある占い技術のページを積極的に見て参考にしているという人など、受ける(占いを見る)側にも理由は様々です。
占いを提供する方・される方、どちらにもいろいろな目的や理由があるので、いわゆる「世界のバラエティさ」として、材料や情報はたくさんあったほうが選択の幅とか、文化の多様性とか、そういう観点でも面白いと思いますから、占いを提供する・見ることが日常的にあってもいいとは思います。
しかし、中には、科学的に見て、何の根拠もない占いを垂れ流しているのはどうか(特に放送では)、という意見があるのもうなずけます。
まあ、占術を勉強していくと、それは今の見方では非科学的ではあっても、象徴システム、別の体系と論理では合理性があることがわかってくるのですが、それは今の時代のノーマルでは理解できない話なので、一般的にはうさんくさいものと思われるのも仕方ないところがあります。
それでも、テレビなど、メディアがやるということは、単純に言えば、それだけ需要がある、つまり一般でも見たいと思う人がたくさんいるからだと推測されます。
巷でも、占いサロン・占いの館は、まだまだビジネスとしても成り立っており、それだけ消費者、占いに行く人、占いで自分のこと(悩み)を見てもらいたい人は多いということです。
これに個人でやっている占い師、趣味で占いを勉強したり、実践したりしている人も含めると、占いフィールドというものはなかなか広く、市場としても無視できないところがあるのだと言えます。
どんなものでもそうですが、占い(それ)そのものより、占いを提供する側の姿勢や思い、使い方によって、受け取る側、提供される側の影響も変わってきますし、反対に受け取る側の思いと活かし方によっても、占いの意味が変化します。
今のように、エンターテイメントや視聴率稼ぎ、または枠埋め、つなぎのために、占いが利用されているのなら、マツコ・デラックスさんが言われるように、もうやめてもよいのではないかと個人的には思います。
なぜなら、テレビで提供される朝の占いなどの「占い」の質は、精度としも一般化しているために薄まっていますし、ランキングみたいに、運の良し悪しが強調される方法が取られることが多く、運に左右される人生という側面を無意識的に強化してしまうことがあるからです。(また、占いでさえも常に勝ち組・負け組のようにランキングされる、視覚的提供の問題性があります)
占いは、確かに占術によっては、運の流れを見ますが、良し悪しを判定するのが目的ではありません。
良し悪しに見えるのは、波のような「流れ」や「(宇宙の)法則」であり、それを良く取るのか、悪く取るのかは、置かれている状況、何を人生のその局面において重視し、達成したいかによって変わってきます。つまり、人間が自分の価値や生活状況によって、運というものの良し悪しを決めているのです。
運そのものにいいも悪いもなく、先述したように、それは、ひとつの法則であり、よいか悪いかは、繰り返しますが、社会の状況や個人が決めるようなものなのです。
最初はあまり気にしなくても、日常、習慣的にテレビをつけているうちに、占いコーナーを見るようになり、いつしか、とても気になるようになっていくと、それは、その人の中でリアリティを持ってきます。
テレビなどの占いコーナーは、すでに述べたように、運の良し悪しを際立たせる傾向が強いので(これもエンターテイメントとの兼ね合いがあります)、例えば、西洋星占いで、今日の自分の星座は最低の運でランクされていたとなると、気分的にも悪く、実際に自分で一日を悪くしてしまうことになるのです。
これが占いを見ていない時、あるいは、占いを信じていない時、または占いを見ていても、ただの番組の一コーナーとしてしか意識がない時は、運の良し悪しも気にせず、ニュートラルに、その日を過ごすことができます。
今の占いコーナーは、少なくとも、運勢的にネガティブな要素を必ず放送しますから(要するに、今日、運勢の悪い人というものがあるということ)、それに属するかなりの多くの視聴者が、気分を悪くして出かけたり、一日を過ごしたりすることになるわけです。
逆に言えば、運が良い人の分も放送されるので、そういう人たちは、ハッピーで過ごせるかもしれませんが、その人たちでも、明日になると、運勢は悪い部類に入れられるかもしれないのです。
結局、朝の占いを信じれば信ずるほど、毎日それに振り回されていくことになります。悪い言い方をすれば、洗脳であり、自分の行動や気分は、朝の占いが決めていることになります。
ここで当たり前のことを問いますが、皆さんそれぞれの、人生の「主人公」は誰で、人生は誰のものですか?
そう、自分自身ですよね。
それならば、たかが朝の占いコーナーで、自分の人生が決められるというのは、どうなのでしょうか?
いやいや、そんな大げさなことではなく、占いなんてちょっと参考にするだけで、影響はほとんどない(気にしていない)ですよ、という人が大半だと思います。
しかし、知らず知らず、毎日見ている中で、一部の人は、気にするようになり、それがリアリティを持つようになるのです。正しくは、自分が現実感を持たせるのです。
そうなると、文字通り、その人の「現実」に影響してきます。
一部の人と書きましたが、テレビなどのマスメディアになってきますと、そもそも見る人の数自体巨大です。一部であっても、無名の個人が書くブログなどの読者の比ではありません。
ライトなエンターテイメント、ただの番組のつなぎと提供側は思っているかもしれませんが、実は、意外に影響大なのが「占いコーナー」だと言えるかもしれません。
ポジ・ネガ(占い運勢情報)で、クルクル回されるよりも、朝からニュートラルな気持ちで、よいことも悪いことも最初から判断せずに、経験していくほうが、霊的・統合的な成長観点からもよいと、私自身は思います。
もし、占いコーナーをやるにしても、むしろ、ポジティブなことだけを放送する内容にしてみてはどうでしょうか。
例えば、月生まれ占いでも、一月生まれの今日のよいことはこれですとか、こういう見方をするとよいですとか、何かアドバイスになったり、発展的・創造的になったりするようなものを放送されるほうが、同じ洗脳されるにしても(笑)よいかと思います。
確かに人生はよいことばかりではなく、悪いと思うこと、ネガティブなこともありますし、注意や備えをしていたりしたほうがよい場合もあります。
だからネガティブな内容の占いも、注意喚起や修正の意味で、まずいわけではありません。
しかし、人類は全体的には、あまりにも今までネガティブなことをやったり、思ったりし過ぎたように思います。
だから、せめて占いにおいても、明るいこと、ポジティブなこと、良い方向になることを記したほうがいいのではないでしょうか。
あるいは、もういっそのこと、マツコ氏が言われるように、占いコーナーなどなくしてしまったほうが、本質的・全体的にはよいことになるのではないかと思います。
それは占いのフィールドとか、業界においても、長い目で見ればよいことだと感じます。
純粋でいること、いないこと。
人は純粋なものにあこがれます。
純粋といえば、混じりけのないピュアのものというイメージがあり、何か「それ唯一」という崇高さも漂います。
「極める」ということでも、至高の純粋さと同意義で見られる場合もあります。
ですから、何らかの技術や知識においても、ただ一筋に求めていくということが、いかにも正しい道、清いやり方のように思われる節があります。
しかし、マルセイユタロットで描かれる成長や完成の過程においても、またそれぞれの単独の絵柄においても、そのほとんどは、何かと何かの融合であったり、多彩で多様な要素が見られたりします。
ということは、まさに“純粋な”意味で「純粋なカード」はないことになります。
ここから見ても、私たちはむしろ、純粋ではないほうがよいとさえ言えます。
単純に考えても、私たちが生まれて成長し、死んでいく過程(すなわち人生ですが)において、ただひとつだけとか、単一の要素(ひとつの経験・知識・蓄積)だけで生きられるわけではなく、いろいろなことを体験し、学び、混在して「一人の人間」が存在していきます。
免疫の面でも、多少の雑菌にふれているほうが体は強くなりますし、精神においても様々なシーンを体験していたほうが、折れにくくなる傾向があります。
純粋さは美しいものではありますが、現実の世界では、すでに述べたように、反対に交じりものであるほうが強くたくましく生きられるわけです。
つまりは、純粋さは、古代ギリシアの哲学者プラトンの言葉を借りれば、「イデア」であると言え、現実や実際とは異なる世界にあると見たほうがよいのです。
恋愛で考えましょう。
恋愛の純粋は、いわゆる純愛という言葉で表現できますが、純愛を維持することは実際にはなかなか困難であることは、皆さん承知していると思います。
もちろん、純愛を貫き通す人たちもいますが、どちらかと言えば、映画や小説、物語・創作の世界においてがほとんどでしょう。
結局、純愛は、現実よりもイデアの世界に型があるのです。マルセイユタロットで言えば、「女帝」と「恋人」カードがつながっているようなものがイデア的純愛と言えましょうか。
では、純粋さは必要ないのかと言えばそうではありません。
さきほど、純粋はイデアと述べたように、イメージや想像の世界で純粋さを思えるがために、現実での汚れや、同じ世界・発想で停滞してしまうことを回避できる構造ができるのです。
イデアは、真なるもの、善なるもの、美なるものという定義もあり、いわば、完全で美しい世界なのです。それは、まさしく純粋な神の世界と言えるでしょう。
私たちは、なるほど確かに肉体を持って三次元感覚の現実世界にいます。そこでは純粋さはかえって害(弱体や逃避の要因)となることもあるわけです。
しかしながら、精神と物質を統合し、自分をもっと広い世界に飛翔(霊的に成長することや覚醒することに近いです)するためには、現実意識ばかりにとらわれていては、それこそ籠の中の鳥のままです。
イデアを見る(想起する)ことで、私たちは現実を超えた世界があることを思い出し、そのあこがれに魂を燃焼させていくようになります。鳥は籠の中から外に飛び立てるのです。
言い方を換えれば、今(現実)を超えた理想を見ることで、実は自分の現実を変えることができる(ということな)のです。
恋愛の話でまた例えましょう。
純愛は現実では確かに維持することは難しいかもしれませんが、純愛という理想的な概念(イデア)があるがために、私たちは恋愛を冷めたつまらないものにせずに済みますし、恋愛の相手を尊重し(相手に自分の理想を見ようとする)、より恋の炎を燃やすことができるのです。
これが最初から現実的なことばかりを考えて恋愛に臨んでいたら、恋愛モードにおける異次元感覚(一種の変性意識状態)を経験することができず、恋愛による自己の変容が起きにくなってしまいます。
恋愛における変容とは、一言でいえば、それまでの自分(の世界)を大きく変える、一種の強制的破壊であり、かつ、創造です。
恋愛に限らず、イデアを見ないもの、純粋さをバカにするものは(現実や実際の成果ばかりを重視する姿勢)、実際での一時的・物質的幸せはあるかもしれませんが、心の幸せが少なかったり、何より、常識や今の現実を超えた成長や発展が阻害されたりするおそれがあります。
最初のほうにも述べたように(マルセイユタロットが示唆するように)、混ぜ合わすことで私たちは強くなります。(「節制」の天使の表現)
ただ、それは一時的な作業、プロセスとしてのものであり、本当は純粋さに回帰すると言いますか、真に純粋なものを抽出する、いわば錬金術的作業をしているのです。
ここで言う「金」とは金属・ゴールドとしての金のことではなく、究極の状態の象徴や比喩です。
混ざり合うことで、純粋さはひと時消えてしまうのですが、同時に多要素によってもっと磨かれ、あらゆるものが統合され、光の原理と同じく、白(色のない状態)で例えられる純粋なものに回帰します。
これは「空」の概念とも言え、すべてないようですべてある、すべてあるようですべてないという究極状態でもあります。マルセイユタロットでは「世界」と「愚者」が合一した状態として表現されます。
何が言いたいのかと言えば、私たちは現実を生きる中で、まずはこの現実をたくましく泳ぎ、楽しんでいくためには、様々なものを取り入れ、純粋さよりも混交させていくことのほうが求められつつも、イデア(理想)としての純粋さも常に失わず、強さとともに現実を超えたものをやがて志し、本当(一般に言われる純粋さとは別)の意味で、純粋さに辿りつきましょう、ということです。
簡単にいえば、現実的には「何でもあり」でありつつ、精神・霊的には、より純粋でいようとする態度です。
矛盾した言い方になりますが、純粋でいるためには、不純を行使する決意がいるのです。
間違いやすいのは、どちらも純粋であろうとか、どちらも現実的であろうというものです。(責任も取らない子ども的であろうとする態度か、自分を殺して生きようとしたり、人の夢を批判したりして、下手に大人になろうという態度とかです)
目的と手段と言ってもよいですが、純粋な目的のために、手段は濁ったり、混ざったりしてもありなのだという姿勢ていくとよいということですね。
最後に、純粋というものは、本当は決して弱いものではなく、自由になることとイコールであり、だからこそ束縛から離れた強いものであるこも付け加えておきます。
先ごろ、パリのノートルダム大聖堂(寺院)で火災があり、尖塔や屋根の部分が焼け落ちました。
フランスの方々、関係者の方々にはお見舞いを申し上げたいと存じます。
この寺院には、私も以前カモワン版マルセイユタロットのフランス講座の際に訪れたことがあります。
フランス・パリでは有名な建物で、一大観光地でもありますが、いわばフランス国民の精神的なシンボルでもあり、キリスト教の人にとってはフランスの聖地でもあるでしょう。
それが象徴的な形で崩れた(火災による)のですから、フランスの方々、クリスチャンの皆さまには、相当ショックなことだったかと思います。
実は、マルセイユタロットと、ノートルダム寺院やこういった大聖堂(特にゴシック建築様式のもの)とは深く関係していることもあり、先述したように、タロット講義における旅においても訪問するほどの場所ですので、私たち、フランスのタロットを扱っている者にも、衝撃的なことでした。
ヨーロッパ(あるいは南米など)のカテドラルと呼ばれる聖堂に入ると、クリスチャンではない日本人であっても、荘厳な雰囲気を感じ取るができると思います。
私もフランスだけではなくスペインなどでも、カテドラルでは同じような特別な感覚になったのを覚えています。
これには、もちろん、宗教的施設であるので、毎日祈りが捧げられていますし、それが何百年と積み重ねられているわけですから、場としての人々の思念の蓄積に相当なものがありますので、当然雰囲気も敬虔で重厚なものになっているという理由があるでしょう。
ただ、ヨーロッパの大聖堂は、石造りを基本としつつ(これがまたある種の重力・重みを出しています)、上から見ると、形はキリスト教のシンボル・十字架になっており、建てる方向性・方角も決められていて、何よりも、特にゴシック建築においては、その設計・建物様式に緻密で特別な計算と、天上世界(神)を意識させる非常に高い天井と塔の構造になっているのが特徴で、いわば、天と地のコントラストが私たちの通常意識を、天上なる神の意思へと浮上させるような装置になっています。
日本の神社とはまた違った構造で(しかし実は奥底には同じものもあると考えられます)、神(天)を意識させるようになっています。
また、一般にはあまり知られていないかもしれませんが、たいてい宗教的な施設がある場所は、もともと特別なポイントであることが多く、ある宗教の前に信仰されていた土着の宗教や、征服される前の民族の神が祀られていた場所であることが普通です。
ですから、ノートルダム寺院の建物の下には、別の宗教の神が眠っている可能性も高いわけです。
さて、今回のノートルダムの火災について、タロットを展開してみたのですが、これもまたさすがに驚くような内容てした。
すでに、私の学習グループでは、その展開を見てもらって、皆さんに感想を述べていただきましたが、おおむね、皆さん、似たような意見でした。
全展開を披露することはあえてしませんが、基本のスリーカードだけ記すと、向かって左から17の「星」、真ん中に16の「神の家」、右に15の「悪魔」で、すべて逆位置でした。※なお、今回は正逆を取る技法を採択しており、逆位置は問題状態として現れます。
これを見れば、事の深刻さ・重大さと、タロットそのもののすごさを実感できると思います。
当たり前ですが、展開において何も私は操作していません。「ノートルダム寺院の火災について意味するところ」というテーマで、ただタロットをシャッフルし、展開しただけです。
ブログをご覧の皆さんは、カードを見てどう思われるでしょうか。
ノートルダム大聖堂は、ヨーロッパで、いや今の世界の標準ともいえるキリスト教(特にカトリック)世界観の宗教施設です。
そのシンボルであるラテン十字のクロスする部分、つまりは尖塔のところが焼け落ちました。
キリスト教を批判するものではありませんが、世界のあり方として、キリスト教をバックにした国々、勢力がやってきことの功罪はどちらも大きなものがあります。
ノートルダムとはフランス語で、「われらが貴婦人」という意味であり、狭義的には聖母マリア様を意味すると言われます。
しかしながら、聖母信仰のその源には、女神、大地、女性性の癒し、包み込み、和する、崇高で偉大なエネルギーの象徴性が存在します。
すでに述べたように、ノートルダムの地下には、(組織的・支配的には男性的な)キリスト教の下で眠らされた何か大きな女性性的なエネルギーがあるのかもしれません。
奇しくも、日本では「令和」という音的には霊和ともとらえられる時代が始まります。
ノートルダム寺院の火災はすべてが焼失したわけではありません。重要な遺産や、中の十字架、バラ窓などは幸いにして残りました。
見ようによっては、屋根という覆いがはがれ、中身そのものがむき出しになったと言えます。(そして残ったものも逆に明確になっています)
それは象徴的にはどう言えると、皆さんは思うでしょうか?
普通に物理的に見れば、ノートルダム大聖堂の火災も、何らかの事故による火災です。そこに象徴的なほかの意味を見るのは各人の自由であっても、そういう理由(想像する象徴的な意味合い)で火災が起こったわけではないと考えるのが科学的な態度でしょう。
しかし、フランスの人にとっては、単なる家や施設が焼けたというものではないのは明白です。世界的に見ても大きな事件です。
やはり、人は物理的な見方だけではない精神的・霊的な意味を、起こったことに対して見ようとするものです。
何かが失われるということは、人や生物だけではなく、モノや施設においても、私たち人間は思いを感じます。(ましてや、親しい人、身近な人を失った場合、どれほどのショックがあるのか想像に難くないでしょう。それが突然であればなおさらなのです)
一方で、すべてのものは生々流転、創造されたものはやがて破壊、死滅へと移行していきます。それが世の理です。
形や現実にあるもの、存在している状態を強く願ったり、また逆に、存在していることが当たり前で、ほとんど意識することがなかったりした時、それを失った場合には、とても強烈なショック、悔恨が来ます。
それでも、形や実際ではなく、精神や魂、エネルギーとして見れば、それは永遠であり、分離や消滅もしておらず、自分と結合・統合していることにも気づきます。
失うことは、矛盾のような話ですが、逆に失っていないことを私たちに意識させるのです。
それが、マルセイユタロットでいえば深い意味で、「審判」のカードの示唆するところともいえるでしょう。
“ノートルダム”の再生、復活を期待いたします。
