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天国はここにある

履修者用メルマガでは、皆さんにお知らせし、生徒さんの間ではご存じだった人も多いと思いますが、ここしばらくというか、この一年、体調不良や、精神的な葛藤が続き、なかなか大変な時を過ごしておりました。

そんな中でも、できる範囲でタロットの講義やタロットリーディングを続ける中で、仕事の立場としましては、もちろん、こちらがサポートしたり、知識や技術を与えていったりする側ですが、むしろ、逆にクライアントや生徒さんから、大きな力を得ていたところもありました。助けられていたと言ってもよいです。

こういうことを経験していくと、現実世界での役割とか、立場とかはあっても、本当に人は真の意味で平等なのだと思うことがあります。言ってみれば、みな、アクター(演者)であり、観客と言っていいのかもしれません。

それでも、たとえ、この世界が映画のような舞台だとしても、楽しい、苦しいという実感があります。(それも幻想かもしれませんが、味わうことは確かです)

楽しいことはよいのですが、人生には苦しみ、悲しみ、つらいこともあります。むしろ、多いと言ってもいいほどです。

そうやって実際に生きづらさを感じたり、何か自分を生きていないと思ったり、生活(生きること)自体が苦しいと感じていたりする人も少なくありません。そういうい人は、私もそうでしたが、この世は地獄ほどではないにしても、修羅的な生きにくい世界だと思っていることでしょう。

心の持ちようや、経済的な補助、あるいは成功を収めたりして、それを減らすことは可能かもしれませんが、完全に滅するというのは難しいと思います。

現実に、やはりこの世には、理不尽なところがあると思わざるを得ないところが、どうしても私の中にもあり、しかもマルセイユタロットが示すと言われるグノーシス的な思想によって、この(現実の)世界が、偽物の神によって創造されたという説話(神話)を聞くに及び、ますます地上(現実)と天上(理想・イデア)との調和について、混迷が深まってくるのでした。

このため、私は何度か、精神的・霊的ともいえる危機や迷いの道に入り、おそらく今年もそうした中の大きな段階にいたと考えられます。

ところが、昨日、ふと、抜けた感じというか、新たな気づきが生まれました。

私の場合は、思考をつきつめ、さらに感情を味わい、葛藤を続けていくことで、ついにある瞬間、さらにその上を行く直観をもたらせることで、真の気づき(と思えるもの)が出ます。(人によって、また自分の特性によって、(深い)気づきの方法は人それぞれになります)

それで得たものは、「天国はここにある」という言葉でした。

これは、別に新しい考えでも、驚くような発見でもないのですが、結局のところ、自分の内に天国はある、あるいは天国を作ることが先決という確信に近いものが出たわけです。

マルセイユタロットでいえば、まさに「吊るし」と「世界」との関係です。

よくスピリチュアルな世界では、内なるものの投影として外なる現実や環境となっていると言われますが、これは心理的な意味だけではなく、霊的な事実というか、観点として、正しいのではないかというのが、思考よりも、直観として感じられるものになってきました。

変な話にはなりますが、感覚的には、グルリと内と外を、まるでリバーシブルするかのように感じられるわけです。

そうなりますと、いかに自分が大切か、自分の幸せ(これには段階や種類があることも重要です)や、天国を自分にもたらすことが、結局世界としての救いになるのだという意味に気が付いてくるわけです。

ただ、これは現実への妥協とか、迎合とかという意味でもないですし、精神や感情的な話の段階でもないのです。(無関係ではありませんが)

気づきは散歩中に訪れたのですが、家に戻ってから、、改めてマルセイユタロットを見直してみました。

すると、なんということでしょうか、タロットにはすでにそのことは描かれていたというか、私の理解がまだまだ浅かったことに気がづき、タロットの見え方自体も変わっていたのでした。(こういうことは、マルセイユタロットをやってまいすと、大なり小あり、あります)

当たり前ですが、マルセイユタロットも形や構造は、いつも同じ(絵に変化はないこと)なのですが、ステージ、段階、レヴェル、次元によっては、見え方や、理解が異なってくるのです。それは、この世の仕組みと同様と言えます。

天国の話に戻りますと、いつでもどこでも、そこ(自分に)天国はあるのですが、その天国のレヴェルや段階(のイメージ・理解・認識)が低いほど、幻想として、地上的なものとして天国が見えてきます。言い方を変えれば、外側の環境にある比較される対象として、天国が感じられるということです。

それは地上と天国が文字通り、地と天の別の場所にあると分離して見てしまうか、地上に、それこそ天上を無視した地上だけの意味の天国を見出そうとしたり、作ろうとしたりすることにもなります。

しかし、自分の内なる気づきや段階が進むと、天国の見え方の構造も変わり、次第に現実とは別の意味で、リアルに自分の中に天国が存在してくるようになると考えられます。

天国というのは、いわゆる幸せ感覚に近く、まつたく違う部分もあるのですが、似たところもあるのです。

厳しい世の中に自分を同調させ、自分が感じた悲惨でつらい世の中として、同様に自分を痛め、悲しめ、苦しませるのは、自らで地獄を作っているのと同じです。

残念ながら、世界には、そうしたネガティブで自らを苦しめる思想・観念・エネルギーが残存し、それを私たち善良なるものが受けてしまうシステムが働いています。また、実際に、いまだ厳しいところが多いのも、現実的には事実です。

自分の中に天国があること、天国に近づけることを、少しずつでも感じていき、内と外の反転の実体を叡智として学び、あるいは感覚的なものとして実感していった時、まず自分の(外の)世界は大きく変わるでしょう。

この天国(カードとしては「世界」)に近づく段階こそが、マルセイユタロットの絵の象徴でもあるのです。

さきほど、述べたように、宇宙は根本構造として同じではあるのですが、次元やレヴェル別に変えていかないと、同じ階層同士では通じ合っても、階層が違うと、そもそも理解が難しくなり、それどころか、反発したり、誤解してしまったりすることがあります。

高邁な理想も、現実の場面では何の解決にもならないということはよくあることです。「えらそーなことを言う前に金くれ」とか、「こっちは生活がかかっているんだ!」「背に腹は代えられん」・・・みたいな話になるわけです。

そういう意味では、とにかく、自分の小さな天国、あるいは、幸せや満足だと思える状態を実現していくこと、その実現を阻む障害や考え方、縛りをはずしていくこと、浄化していくことが大切となります。

そうしていくうちに、自分の思っていた最初の天国(満足・幸せ)がちょっと違っていたこと、次に想像した天国もまたレヴェルが違っていたことなどに、気づいていくことになるでしょう。

その繰り返しで、本当の天国が、やがて現れてくるのだと思います。それこそが言い換えれば、グノーシス(自身の神への認識)に至ること(過程でもあること)だと、理解してきました。

まずは、自分の状態、レヴェルにおいて、幸せになること、自分を痛めつけないこと、卑下しないこと、自分をもっとねぎらい、いたわり、大事にし、尊重することが、天国への入り口となるでしょう。

私自身も、そして皆さんへも、天国に至る道を、マルセイユタロットを使いながら、その人自身の段階でサポートしていければと思います。


タロット 三枚リーディング

タロットの展開法には、有名なものは、いくつかに分類されますが、無名なもの、オリジナルなものなども入れるとなると、それこそ、数えきれないほどあると思います。

現に私も、自分で考えた展開法をいくつか(というより、結構)持っています。(占いとしての展開法もありますよ)

とはいえ、やはり、有名でメジャーなスプレッド(展開法)というものがあって、それが使われることは多いです。

その中のひとつに、スリーカードと呼ばれる、いわゆる三枚引き、三つのカードを引いて占ったり、リーディングしたりする方法があります。

三枚引く方法は、いわば基本形みたいなところがあり、そこからさらにいくつかカードを加えて(引いて)解釈するというやり方もあります。

という数は、よくと比べられますが、4と比較した場合、3はモデルや型アイデアや理想を示すのに対し、4は3のモデル、理想を現実に形として示すようなものとなります。3の話を具体的にしてみると、4というもうひとつの数が必要になるみたいなことです。

しかし、あえて4と比べず、3だけの単体で見た場合、3にも現実的なところがあります。

それは、時間との関係です。時間は実体としてはとらえられませんが、数で表すことで、数量的に把握が可能となり、さらに、その数に進行を与えると、時間経過として私たちは感じることができるようになります。

簡単に言えば、過去・現在・未来となる話です。ここで、過去・現在・未来と3つのパートが出たのに気が付かれたでしょう。

そう、3つのパートを時間(の種類、固まり)として考えることで、現実の時間の流れとして(それが真実かどうかここでは問いません、あくまで私たちの現実感覚でのことで述べています)、感じることができるのです。

つまり、時間の種類は3つあれば、私たちは時間の中に生きられるというわけです。(これはマルセイユタロット「運命の輪」とも関係します)

ですから、タロットでスリーカードとなれば、(占われる人の)過去・現在・未来を、それぞれの一枚ずつが表すという解釈もありますし、むしろ、それ(そういった時系列解釈)は(タロット占いの世界では)普通かもしれません。

一方で、3は理想や聖なるもの、現実にはまだ起こっていないモデルや型、プラトン的に言えば「イデア」も示す数であり、ふたつ(2という分離の数)の葛藤や対立を調和させる第三の力も持ちます。

また、現実とイメージの狭間においてのエネルギー、混沌とした次元(ある種の非現実な空間)として見ることもできる数です。

ということは、三枚引いたカードの中には、クライアントの夢や希望、あるいは理想、さらには現実化できない不安や要因なども、象徴的に現れている場合もあるのです。

時間は現実感覚で、過去・現在・未来と流れているのに、クライアントのイメージや心の中、空想では、逆に動いていたり、バラバラだったりすることもあるのです。

これは引いた三枚のカードが、時間の流れとして正常に見えているようで、実はそうではなく、心のイメージが投影されていることもあり、本来の現実と調整するために、カードの入れ替えが必要となる場合があります。

言い換えれば、時間が自分の中で変形し、止まっている(停滞したり、そうだと思い込んでいたりする時間の)ものがあり、それを修正していくことで、現実の時間と一緒にスムースに流れていく(心のイメージの時間が現実のものと調和していく)ことが可能になります。

私は、もともとはカモワン版マルセイユタロット、いわゆるカモワンタロットから始め、カモワン流の動的展開法といわれるものを中心に、実践でも展開してきました。これはこれで、本当にすばらしい技法です。

そして、同じタロットのもうひとり製作者であり、セラピスト、映画監督でもあるアレハンドロ・ホドロフスキー氏の方法にもふれ、さらに自分なりに、マルセイユタロットを研究し、実践していく中で、リーディングセッション中に、様々なオリジナルなものも含めて、その人に必要と思われる展開を採用していくようになってきました。

究極的に言えば、セッションの目的(クライアントの癒しや問題解決、前に進んだり、楽になる術を得ることなど)が大事で、どの展開法が正しいかとか、優れているとかいったものはないと考えています。

ただ、そのタロットリーダーが得意とするもの、相性のいいもの、そのタロットにおいて、特に活かせるものはあるとは思います。

同時に、クライアントの問題や状態によって、その時に適切で合う展開法というのもあると考えられます。

そのため、展開法をひとつだけにこだわり過ぎても、よい結果が出ないこともあります。と言っても、逆に、たくさん持ちすぎて、結局何がなんだかわからない、焦点がぶれてしまっては本末転倒の話になりますから、やはり、自分が核となる展開法(自信をもって展開し、読むことができ、アドバイスできる展開法)は習得しておいたほうがいいでしょう。


人は悩むことを使命としている(されている)

私たちは悩むことが仕事である、もっと言えば使命であると述べれば、怒る人もいらっしゃるかもしれませんし、何を言っているのかわからないと思う人もおられるでしょう。

それでも、ちょっと通常の観点を変えて、人間の生活を見れば、そのようなことも、あるいは言えるのかもしれないと、気づくこともあるのではないでしょうか?

あくまで想像にはなりますが、きっと原始的な共同社会では、今ほどの悩みはなかったように思います。

社会システムが複雑になればなるほど、様々な具体性や種類のものが登場し、扱う物事の数も複雑さも前時代の比ではなくなってきます。

それだけ、毎日、思い考えなければならないことが莫大に増えているのが現代社会の人々と言えます。

便利な道具も増えたにもかかわらず、世の中が複雑になり、むしろ助け合いや協力的なことは、実感として希薄な感じであり、人の温かさにふれるということもあまりなくなってきました。

昔は、助け合わなければ(民俗学でいうユイやモヤイ的な共同作業をしなければ)生活ができなかった時代であったからということはあるでしょう。

しかしながら、今は、別の意味での協力はあっても、所属するコミュニティ・社会全員で協力的に仕事を行わなければ、個々の生活ができないという状況ではありませんので、人に無関心にもなりますし、個人の勝手や自己責任という考え方が増えていくのも当然かと思います。

皮肉なことに、所属成員の生活がかかっていたために、共同的にならずにはいられなかった時代は、そのおかげで、成員全体での援助やケア、時には相談や癒しもあったのだと推測されます。

生存的な(食べていくことの)悩みは今よりもっと深刻にあったでしょうが、精神的な混迷とか、生きづらさの悩みは少なかったように想像します。

そうして、時代が進むつにつれて、生存的な悩みは改善されてきましたが、先述したように、社会やシステムが複雑になり、機器も発達し、人口自体多く、価値観も多様になってきたことで、情報は洪水化し、あらゆる選択肢は増えたものの、反面、どれを選択し、どれが正しいのかが余計わかりづらくなっています。

要するに、(時代の)進化に従って、精神的な悩みがより複雑化してきたということです。単純に、時代が進めば人類も進化するとは言い難いとは思いますが、一般的に言って、文明は発達してきたと考えてもよいでしょう。(超古代など、まだ科学・歴史的に証明されていない時代などは除いて)

ということは、悩みを深める、増やす、複雑化するということが、もしかすると、人類の使命になっているのかもしれないということです。時代や文明が発達すればするほど悩みも増えるのですから、そう見てもおかしいとは言い切れないでしょう。

人類や文明が進化すれば、悩みごとはなくなるか、少なくとも、昔より減っていくのが普通ではないでしょうか。

それなのに、今の人たちの苦悩は、皆さん、表に出さないだけで、実は相当大変で深刻なものになっているのではないかと感じています。(もちろん、悩みごともなく、幸せいっぱいの人もいらっしゃるでしょうが)

ならば、私たちは、悩むことが課さられている種(人間・生き物)なのだと考えてみるわけです。それがつまりは、冒頭で述べた「悩むことが、私たち人類の仕事・使命」だという意味です。

では、なぜ、悩むことを、私たちは仕事としなくてはならないのでしょうか? ここを考えることが、非常に重要ではないかと思っています。

人によっては、そのテーマは、哲学的になるかもしれませんし、スピリチュアル的なことで見ようとするかもしれません。また、心理的な意味(個人とその個人を超えた領域も含むトランスパーソナルな意味においても)で考察するのも面白いでしょう。

私の考えを少し言いますと、まず心理的には、自分が自分であるための証明を発したいという意味の理由があると考えています。

世の中が複雑になればなるほど、実は標準化されるといいますか、皆さん、個人が全体の巨大なネットワークの中で埋もれた状態になっていきます。いわば、ネットワークシステムの中の、ただの中継地点みたいなものです。

時には、中継地点のレベルを超え、自らが発電や起点になるかのような、大きな個性を持つ場合もあるでしょうが、それも大きなネットワークの中で見れば、やはりただの、少々目立つ点(ポイント)に過ぎません。

そんな中で、点としての一人ひとりが、自分の存在をネットワークに響かせるには、イレギュラーを起こして、アラームを鳴らせることが考えられます。ほかにも方法はあるでしょうが、注意を全体に促す方法(つまりは注目してもらうための方法)としては、効果的だと言えます。

ひとつの点であっても、それがシステムエラーを起こすと、全体としての機能に問題が出るかもしれないからです。(実際は、切り捨てられたり、ほかの部分でカバーできたりするので、全体からすれば真の問題とは言えないのですが)

それが、一人ひとりの問題や悩みです。

「僕は、私はここにいる」「僕は僕です」「私は私なんです」「こんな私を無視しないでください」「私に注目してください」という、悲痛ともいえる心(自我として)の叫び、訴えのようなものと言えます。

ひねくれてきますと、一筋縄ではいかない問題として起こしてきます。

「そうはいっても・・・」みたいに、なかなか問題を解決させようとしません。ひとつ解消しても、次々と新しい悩みや問題を認識させようとします。

簡単に悩みとか問題が解決すれば、自分の存在価値がなくなってしまうからです。(自分が埋もれてしまう)

そうして、何度でも、悩みは形を変えて、内容を変えて、自らの中に起こってきます。

このような、自己の存在価値、自我としての個性を訴えるために悩みや問題が起きる(起こす)という説がひとつです。

時代とともに、より個性を出したい思いも強くなり、単純な問題よりも複雑で難しく、こじらせた問題にもなってきます。あるいは複数の悩みを同時に抱えた状態にもなります。

しかし、一方で、ネットワークシステム全体(側)から見た場合、さきほど、それは真の問題にはならないと言いました。

システム全体が親のようなものとして仮定すると、一人ひとりの存在の叫び(悩みとしてのエラー・アラーム)は、ネットワークを介して、自然に修復する力を持ちますし(よしよし、わかったよとなだめるみたいなもの)、難しい問題でも、何とかしようと全体で演算処理するよう働きます。

その結果、全体システム側は、点の一人ひとりの悩みを解決するため(存在を認めてあげるため)、ほかの適切な人(点)に会わせたり、状況(全体の中での、色分けされた小規模のネットワークの構築)を作り出したりします。

この一連の働きが、ネットワークをというか全体の知能を進化させているように思います。

問題は、点としての我々を、本当に機械的な点にしてしまおうというネットワークに発達してしまうのか、個として独立しながら(個の存在を認めながら)、ネットワークにつながることによって、全体そのものが巨大な集合個でありつつ、ネットワークとしての点(個)としても機能するという、入れ子構造的個とネットワークの発達に向かうのかということです。

私たちは悩みや問題を通して、どちらを選択するのだろうかというテーマ(課題)がありそうです。

前者は、機械的な全体管理主義的な話となり、私たちの人としての個性は消え、機械の一部として機能するようなものとなりますが、それはそれで、便利で合理的なシステムとなって、悩みは少なくなる方向も期待できます。(悩みという概念が、そもそも消失していく世界)

後者は、個としての人を保ちつつ、共同システム的な能力・体制にも対応することができるという感じでしょうか。

SF的なスピリチュアル風にいえば、前者は個性を消す代わりに、ひとつりの巨大な機会人間として、合理的に悩みのないワンオーダーな世界を作るということになりますし、後者は個はあくまて残しつつ、個と個がつながる次元を作ることによって、そこでお互いを認識し合い(よって孤独という感覚や、自分を訴える必要性が少なくなる)、便利さの追及や問題の解決を、全体のつながりで図っていくというような状態で、いわば、人でありながら神(宇宙)のようにひとつになるような状態です。

いずれにしても、人が悩むことは必然のようなものになってきており、それも、より複雑化しているわけで、これは一面、人としての進化の側面を持っている(進化が急速に進んでいるともとれる)という話です。

しかしながら、この先、私たちの選択によって、悩みの解消として新しい方向性が結実していく時、今述べたような、大きくわけてふたつの道に分かれていくような気がします。

悩みの中に、ただの現実的観点だけではなく、精神はもとより、霊性や魂の進化の観点を入れておかないと、この先、私たちは、「自我意識」をもたない機械的存在として、ある空間に押し込められたままのおそれもあるかもしれません。

マルセイユタロットを見ながら、そういうことが浮かんできた次第です。

いちテロティストの戯言、ただの妄想と思っていただいても構いませんが、個人的には、とても重要なことを述べさせていただいていると思っています。


焦り、そして危機という変容に対して。

本来スピーディーな印象のカードや、逆にゆっくりすることが求められるカードが、警告として出てくる場合、その多くは、焦りすぎ、急ぎすぎという内容て解釈するとよい場合があります。

たとえば、前者では「戦車」のカード、後者では「節制」などが、あげられるでしょうか。

カードの読み方の技法はいろいろとありますが、単純なものには、吉凶、いい・悪いに分けて読むもの、そしていいも悪いもカード自体にはないものの、そのポジションの出方(正逆など)や、直感的な印象によって、カードの表すノーマルな状態に、アンバランスな力やエネルギーが働いている(自分がそうしている)と読む方法もあります。

最初に述べた、警告的な見方は、カードそのものにいい・悪いを見るのではなく、カードの象徴性のノーマルさが崩れたものとして、自分の問題をとらえるやり方です。

さて、今回の趣旨は、カードの読み方の技法をとりあげるのではなく、人の焦りについてのことです。

なぜ、人は焦ってしまうのかと言えば、予測がつかないことが起こった、今までの経験やデータではわからないことが起きている、早く結果を出さないといけない差し迫った状況にある・・・など様々ですが、逆に言えば、落ち着けない、安心できないからで、一言でいえば、「自分を見失っている」からだと言い換えることができるでしょう。

焦らないためには、どんなことが起こっても、大方の予想ができる自分の経験値や能力を高めておくことがまず考えられます。これは状況に対応できる力を養うという意味で、物質的というか、現実的な対策と言えましょう。

しかし、いくら経験や能力を高めても、わからないことはあり、突発的に焦ってしまうことはあるでしょう。そうすると、今度は、メンタル・精神を鍛えたり、何が起きても動じない精神の状態をキープできたりする、内面や心のほうからの対処も考えられます。

極端なことを言えば、悟った人になれば、おそらく焦るなんてことはないのでしょう。ここまで来ると、もはやメンタル次元を超えたところに自分がいて、いわば、すべてがわかるような状態になっているので、焦ることはないのだと思います。

ということは、「大悟する(大きく真に悟る)」というのと同じですが、そこまで行かないにしても、精神的・メンタル的には、具体について悩むのではなく、もっと次元を上げたところに問題を置くと、今悩んで焦っていることのレベルが消え、焦りそのものが消失するということもありえます。

例えば、「これを明日までにやらなくてはならないが、時間がない」と焦っている時に、その作業を明日まで仕上げられるかどうかという時間的作業的問題(具体的問題)に対して、焦っているわけです。

その問題観点(次元)を別にしてしまうと、まず、明日までという制限は絶対なのか?伸ばすことは可能ではないのか? 明日までというのはもともと無理ある話だったのではないか? というような、小さな次元移行でもって考察することができます。

さらに大きな次元移行になりますと、そもそもこの作業をやらなくても生きていけるのではないか? できないと非難や損害は被るかもれないが、自分自身の本質は何も傷つかないのではないか?みたいな話にもなってきます。

もちろん、社会でのルール、責任というものもありますので、なんでも次元や大元を変えればよいというわけではなく、当然、自分が超越した状態に移行するには、その分の責任も取る覚悟、本当の自由を選択するそれ相応の責任も生じます。

さて、焦りについて、ちょっと違う話もしたいと思います。

人はずっと同じ状態が続くわけではないのは、皆さんも気づいておられると思います。肉体的にもそうですし、スピリチュアル的にも、(魂の)成長のために、いろいろな事件や変化が自分に起きてきます。

見方を変えれば、(高次の)自分が起こしていると言ってもいいのですが、このような時、たいていはピンチや危機、試練のようなものとして本人には感じられます。要は大変だと実際に感じることなのです。(こじつければ、大きな変化なのて「大変」とも言えます)

大きな意味(魂的な目)で見れば、それは成長や今までの殻を破るための変容ステップだと言えるのですが、当人には何が起きているのかよくわからず、肉体的・環境的など、いろいろな実際の試練・苦しさなどとして経験します。

予測のつかないこと、わからないことは焦りの原因でもあることは、先述した通りです。

そのため、自分でいろいろ調べたり、誰かに相談したり、見てもらったりと、いろいろと駆けずり回る人もいます。

試練は、ただその人にその状態で放置されているだけのものではなく、タロット的に言えば、救いの天使(現実ではあなたを援助する人ということになります)のサポートや、気づきを与えるインスピレーションが与えられやすい状況になっていったりと、何らかの「神性」からの手助けがセットで施されています。

よく言われるように、当人に越えられない試練はないみたいなことです。(援助とセットになっている)

ところが、人間である私たちは、これまで経験したことのないようなこと、理由がわからないようなこと、まったくの混乱状態に陥ったりしている時などは、どうしても焦ってしまい、ただでさえ、物事の見方が偏っているのに、もっと狭い偏見に近いほどのモノの見方になり、思考や感情を冷静に保っていられず、いわゆるパニックのような状態になることがあります。

普段は隠れていた自分の弱さが、拡大されて出てくるようなものです。

この状態では正確な判断ができにくいことは、普通に考えてもわかることです。まさに、自分を見失っている状態なのです。

焦りでもっとも危険なのは、こうした正常で冷静な判断力が失われ、別の人に依存的であったり、攻撃的であったりする、自分の影の人格のような自分が憑依することです。(それが現れてしまうこと)

この場合、象徴的な言い方になりますが、天使より先に悪魔が入り込みやすくなり、ますます焦りが増幅され、誰かに極端に依存したり、ひとつの答えしか見えなくなったりして、それでしか自分は救われないと意固地になります。

さきほど、試練は救済とセットになっていると述べたように、象徴的には天使も見守っているのですが、天使的な守護を得るためには、自分(の中にあると言ってもいい、天、神性、宇宙など大いなるもの)を本当の意味で信頼し、辛抱強くあることが必要です。

そして、自分の判断やエゴ的(欲求解消、快を求めたり、苦をすぐになくすためが中心の)感覚だけに頼らず、現実的でまともに相談できる家族や専門家の意見も求めることです。もっというと、奇跡(奇異というものに近い奇跡)やとんでもを求めすぎないということです。

そうすると、直感ではなく直観として、あなたの中に安心できるコアのようなものが見つかっていくでしょう。

苦しいことはとてもわかりますし、すぐさま何とかそこから助けてほしいという気持ちになるのはもっともですが、それだけに、あなたの焦りによって、変容を遅らせたり、ますます泥沼にはまらせる存在を引き寄せてしまうこともあるのです。

ですが、もうひとつ、私の経験から言いますと、迷いに迷って、焦りに焦って、いわば迷い焦り切ってしまうことも、必ずしも悪いばかりではないと思います。

助けを求めて、いろいろなところへ出かけたり、人に会ったりしていくことで、結局、何をやっても誰によっても、自分自身が本当のことに気が付いていなければ、自分は変わらないのだと、やがて何か、憑き物が落ちたかのようにわかる時がやってきます。

それに気が付き始めた頃に出会う人や、仕事、技術は、(当人への救いとして)本物であることが多いような気がします。

しかし、これは諸刃の剣で、あなたが弱り、焦りのエネルギーを食らおうとする(それは肉体的エネルギーのこともあれば、あなたのお金の場合のこともあります)存在もいますので、危険といえば危険なところもあります。

どんなに落ち込んでも、必ず救いはどこかにあるのだと信じる(自分の中に持っておく)ことで、救いの道は、時間差はあっても訪れます。

この現実世界は、時空を感じられる空間のため、時間差や空間的距離などの差があり、それが直接ですぐの救済がもたらされにくい要因ともなっています。

自暴自棄になって、自分など生きる価値がないと思ってしまうことも、人によってはあるでしょう。私にもそんな時はあります。

それでも、試練と救いはセットになっており、時間差や距離感はあっても、救いと成長のシステムがあるのだということを信じる(つまりは自分の中にその物語をセッティングする)ことで、道は開かれると思います。

宗教的に神に祈るという行為も、祈るという行為そのものが、救済の装置(仕掛け)をあなたの内面にセッティングしているのです。本気で祈りを繰り返すことで、自身の神性的な力も発動することでしょう。ですから、祈りも無駄ではないのです。


タロットとの問答・会話

タロットを自分で使うコツは、タロットと問答することです。

少し前、「独りよがりが問題」であるという内容の記事を書きました。

結局、自分中心(といっても、本当の自分ではない自分)にいる時、人は悩み、迷い、苦しみます。

簡単な理屈でというと、本当の自分ではないから、二人の自分で対立することになり、すつきりしないのは当然なのです。

しかし、なかなか、自分一人だけで、この見せかけの自分に陥っている自らの状態から脱することが難しいのですね。

深い話で言うと、タロットの大アルカナ、上のほうの数(数の多いほう)のものを見ていると、私たち人間は、常に幻想空間の中にいて、それを現実だと思い込んでいる節があるのですね。

それはそのように設計・計画されているのかもしれませんが、とにかく、元の世界が本当のものかどうかは別にしても、自分たちで本来あるべきものとは別の空間を作ってしまって、その中で暮らしているようなものだと考えられるわけです。

そして、その際たるものが、自分(と信じ込んでいる自分)だけで物事を見てしまう、判断してしまうという誤謬です。

「いやいや、私はほかの人の目を意識してますよ、自分だけで勝手に思っているわけではありません」と言う人もいるかもしれません。

実はそれこそが、自分だけの世界にいる状態なのです。

この場合の他人の視点というのは、自分がイメージしたり、自分が目で見たり、心で想像したりの他人です。その他人も、本当の意味での他人(その人本人)とは言えず、本当の他人を見ていないと言えます。(ただし、他人のアドバイスを素直に聞く時は、本当の他人が現れて、共同的・統合的問題解決に向かうことがあります)

と、これ以上、考察していくと、ますますわけがわからなくなってしまう人も出ると思いますので、元に戻りまして、要は、私たちは、自分の妄想みたいなものにはまる(はまりがちな)構造の中に生きているとだけ言っておきましょう。

タロットには、時空を超越するため・・・と言えばちょっと大げさになり過ぎるので、別の言い方にすると、常識的感覚から解放し、本当の自分に戻るヒントを与えるための視点として、大アルカナのカードが提供されています。(小アルカナはまた別の機能と働きがあります)

中でも、マルセイユタロットは、人々の意識の元型をわかりやすい図像で象徴させていますので、特定の信念や思想、欲求に偏り過ぎない画像になっています。

自分が嘘の自分に陥り、悩んでいる時、大アルカナ22枚と問答していくとよいです。

この問答の方法には、人によってやりすいやり方と、逆に間違うと、まったく問答ができなくなってしまうタイプの方法があります。それは、個性によるからです。

平均的に皆さんがやりやすいのは、カードを人間のように扱う方法です。

カードそれぞれを人間のように見立て、それと会話していくというものです。(全部でなくても、数枚シャッフルして選んでやるとよいです)

中には、まつたくしゃべってくれないカードもあれば、結構いろいろと話してくれるカードもあります。

妄想ではありますが、そもそも先述したように、今の自分こそが妄想世界に入っているようなものなので、逆に、妄想モードみたいになることで、脱出の手がかりをつかむことも可能なのです。

例えれば、夢の中で、現実へのヒントを知ったというような感じです。

こういう、いわばメルヘンチック(笑)ともいえる方法が向いて人もいますが、もっと知的に進めたいという思考中心タイプの人は、タロットの象徴を学ぶことで、タロットを人間化せずとも、それぞれの観点、思考方法として見て、自分と問答することができます。(このほうが好きという人もいます)

さらに、感情中心タイプ(気持ちが納得して理解)の人は、タロットに感情を与えることで、自分の感情を精査したり、過不足に気づかせることもできます。

人の理解、言ってしまえば「本当にわかった!」という感覚に至るには、私が思うに、頭(思考)の理解と心(感情)の理解がともにあって成立すると考えています。(当然これにも、どちらか寄りのような、個性・自分の傾向があります)

ですから、タロットと問答するのにも、タロットをどのようなものにするかによって、問答しやすくなったり、まったくわけがわからなくなったりすることがあります。

さて、独りよがり、自分の世界に入り込んでしまっているための悩みや苦しみは、客観視点があればいいわけですから、自分とタロットとの問答に、さらにタロットが読めるタロットリーダーがいれば、三者(三角)構造によって、新しい創造やアイデアも生み出される可能性があります。

何より、仮の自分枠から脱却しやすくなり、本来の自分を取り戻しやすくもなります。

タロットを学ぶということは、いろいろと目的や結果はあるのですが、ここでいう意味では、一人よがりに陥りやすい考え方から、ニュートラルや本来の自分の戻るための技法を得るということになりますし、その手助けをする援助方法を学ぶということにもなります。

本来の自分に純粋に戻れば戻るほど、高次の自分(完全性の広域的自分)との接触が可能になり、悩みごとの解決方法や視点、現実との調整のヒントも生まれるようになります。

私もこのところの変容中で、改めてタロットの力のすばらしさを実感しているところです。

では、これを読んでいるあなたに、一枚のカードを引きましょう。


私たちマルセイユタロットを扱う者には「手品師」、一般には魔術師とか奇術師と呼ぶ、「1」という最初の数を持つカードが出ました。

皆さん、それぞれで、この手品師さんと会話してみましょう。

彼は何を語って来ていますか? それとも無視して、別の人と会話したり、手品に夢中になっていたりするかもしれませんね。

それでもいいのです。彼のやっている手品をあなたは見ていると想像しても構いません。なにせ、彼は大道芸人ですから。彼の芸に感動して、あなたはお金を支払いたくなるかもしれませんし、誰に習ったの?、私にも教えて!と思わず口走るかもです。逆に、下手だなあ・・・ネタバレてるいよ、とあきれるかもしれません。

テーブルの上には手品道具(のような)ものがたくさん並んでいますよね。気になる道具を彼に尋ねてみてもよいですよ。その道具も、もしかしたら、あなたと何か関係している可能性もあります。

彼はなぜ両足を広げているのでしょうか? それも彼に聞いてみてもいいでしょう。帽子も大きくて妙ですよね。なんでなんでしょう?

それから知識的なことを少し付け加えると、この大道芸人は、彼の仕事でもあるので、彼との会話は、あなたの仕事について、何かテーマとなるのかもしれません。

それは働き方なのか、好きな仕事のことなのか、お金や安定のための仕事なのか、とにかく何かを始めることなのか、問答していると、彼から何かヒントが与えられるのではないでしょうか。

 

このように一人でも問答はできますが、タロットリーダーがいれば、タロットとの問答を、もっとうまく相談者とともに進めていくことができます。(つまりタロットリーダーは調整役、進行役にもなります) そして、クライアント・相談者の悩みの本質を解き明かしていきます。

カードはたった一枚でも可能ですが、複数枚あると、さらに情報は深いところまで届くことがあります。

タロットやカードが好きな人は、カードからも愛されますので、普通の人より、会話もはずむことでしょう。やっぱり自分が一番好きなカードがよいでしょうね。


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