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あえて、足掻き、もがいてみる。

よく言わるように、水鳥は、水面上では穏やかに泳いているように見えて、水面下では、もがくように、バタバタと足掻ていると言われます。

見えないところでは努力しているとか、平気な顔をしているようで、実は頑張っているのだというたとえにも使われます。

ただ、私たち人間は、だいたい水鳥で言うと、水面下と水面上の区別がなく、必死でやっていることは、ほかの人にもわかることが多いですね。(笑)

ただ、この「水面」というのを、また別のたとえでしますと、人間にとっての「意識」と「無意識」の境界線みたいなことでも表現できそうです。

自己啓発では、もはや常識のように、無意識や潜在意識のことが取り上げられ、私たちには自覚できない意識層があり、そこにあるデータを書き換えたり、消したりすると、(自覚)意識にも影響し、行動とともに現実も変わると言われています。

そのことは、もっともだと思うところもある反面、無意識や潜在意識というのは、自覚できないからわからないのであって、いったいどういう構造になっているのか、どこにどのような情報が存在しているのかなど、詳細な地図などのようなものは明らかにされていません。

人間として、全員同じ構造は持つと予想されますが、一人ひとり、中身は違うことは容易に考えられ、それは遺伝子構造は同じでも、配列や情報の働き(スイッチが入る、入らないなど)が異なるのと同様なのかもしれません。

ということは、無意識や潜在意識と言っても、万人に共通するような確かな書き換え方式などというのは、あるようでない(個別、オーダーメイドである)、逆に構造的には、ないようである(全体としては通じることもある)とも言えそうです。

だから、自己啓発で、講師から、この方法でうまく行くと伝えられても、それは講師の方と周辺が成功した事例であって、すべての人が適応できるとは言えず、たまたま合う人もいれば、そうではない人もいると思います。

とにかく、まだまだ私たちは無意識のところは、一般的には、よくわかっていないのが実状でしょう。(古代や現代のすごい人では、わかっている人も個別ではいらっしゃるでしょうが、一般化の意味ではまだまだかと)

しかしながら、何となくでも、自分の自覚している意識(自覚する思考や感情パターン)だけでは、自分というものは形成されていないだろうとか、自分の預かり知らないところで、自分の意識や行動というものが影響されているのだろうということは、多くの人には、理解(想像)されているのではないかと思います。

少なくとも、自分ひとりで生きてきた人は誰もいないのですから、親や、これまで生きてきた中で関係した人たちの影響が知らず知らずあることは、普通に予想がつくことです。

マルセイユタロットのを心理的に扱う場合は、こうし影響をタロットの図面の象徴として浮上させ、無意識を意識化することで、心の整理と浄化を果たしていきます。

ただ、先述したように、無意識層というのは、自覚できない層であり、その構造やデータのありか、在り様などをはっきり確認できるわけではありません。

いろいろな技術で、確かに無意識にあったものの一部が意識の表面に上がってくることや、それを上げていくことはできますが、すべてとは言い難いでしょう。

また、「これが無意識や潜在意識に刻み込まれた問題だった」と、たとえ確定したとしても、それが今の問題の全部の根であったという保証はありません。

それがわかるのは、結局、自意識が問題だと思っていたことが実際に消失したり、自分の自覚する思考・感情の中で気にならなくなった時でしょう。

言ってみれば、未来によって、過去の要因がはっきりするようなものです。(この話をしていくと、ちょっと時系列を超えた不思議な話になってきますので、それはまた別の時にでも記事にしたいと思います)

今日言いたいことは、タイトルにもあるように、無意識や潜在意識の構造はなかなかわかりづらいことろがあるので、その中にあるデータが問題の原因だとしても、それを確認したり、本当に問題の原因なのかを特定したりすることは、「今」の時点ではわからないので(わかるのは未来)、とにかく、思いつくものは色々やってみると、奏功することがありますよ(あるかもしれませんよ)、ということです。

まあ、反対に、あまりジタバタするのも、余計混乱を生み出す元になるので、マルセイユタロット的に言えば、「吊るし」のような態度も重要なのですが、何が原因なのか、いろいろと調べてもわからないような問題の場合は、原因追求していくより、行動やプロセスを重視、やれることを、すべてと言いませんが、とにかくひとつとひとつやってみることが打開策になる場合があります。

まさに、水鳥の足ではありませんが、足掻いてみるのです。

ところで、マルセイユタロットの「恋人」カードには、三人のやり取りしているような人間たちと、上空のキューピッドや天使と思われる、異次元存在が描写されています。

この三人は、人間の知るうる情報と方法で、様々なことをやり取りしている、行動しているとも考えられます。

つまりは、目に見える世界のことであり、意識と無意識で言いますと、自覚する意識の部分と言えましょう。

一方、上空の天使は、目に見えない世界(の存在)であり、無意識も象徴していると考えられます。

この天使(キューピッド)は、通常ではなかなか見えないものとされているわけで、だから、私たち人間では、自分たちのわかる(自覚する)世界での選択や行動をしていくわけです。

そこでは、おそらく、間違いをしてしまうこともあるでしょう。(正しくは間違いや失敗だと、自分の価値で認識する事象の経験)

三人での図像を見て、悪く考えると、誰かに言いくるめられたり、お金や時間を無駄にするような情報も入れられたりするかもしれません。

しかし、逆によいこともあり、それこそ、問題を解決に導いたり、クリアにする情報というものを教えてくれたりする場合もあります。

そういう、ひとつひとつは、天使側から見ると、低い次元の話や方法だったり、無意識や潜在意識の層には、何ら効果のないものもあったするかもしれません。

それでも、コツコツと、あるいはバタバタと(笑)足掻いて、必死でいろいろなことを試したり、行動したりして行けば、この「恋人」カードの図像にもあるように、上空の天使(キューピッド)の背後の光のようなものと接触し、天使(キューピッド)に伝わり、矢が放たれるかもしれないのです。

矢が当たると、それは、実際や現実の効果として、確実に変化が生じます。

私たちの目の前には、もしかすると、空からたくさんのお試しのような、あみだくじ的なロープが垂れ下がっているのかもしれません。

そのほとんどは、はずれくじでしょうが(笑)、数当たるうちに、当たりを引くこともあるのではないでしょうか。あるいは、ひとつだけ輝いているもの、正解としてのものが、引っ張るくじでわかるようになるのかもしれません。

また、失敗くじも、チャレンジしただけ、ご褒美とか、再チャレンジ券とかが配られる可能性もあります。(笑)

ともかく、失敗・はずれも、上空の天使次元から見ると、無駄ではないはずなのです。

もがき、足掻ているうちに、いつか、ふっと、気づく瞬間がやってきます。

それは、「なんでこんなことしているのだろう」というおかしさに気づくことだったり、やっているうちに、「これだ!」とひらめいたりすることで、現れることもあります。

現実的にも、問題の原因は、抽象的にはひとつであっても、具体的には、複合的にからみあって生じていることが多いものです。

カルマ的なことも入れると、それは、もう、一人の人間の浅知恵では、なかなか判明のつかないことです。

ならば、原因を突き止めようとするより、改善しようという行動やプロセス自体が重要であり、それを神や天使が(自分の魂)が、促しているということもあるのではないかと想像します。

今、問題状況にある人は、あせり過ぎず、でも足掻くように、ひとつひとつ可能性のあるものを試して行くと、やがて何らかのよい状況を招くことができるのではないかと思います。


マルセイユタロット 数カードの一考察

タロットの構成にある、大アルカナと小アルカナ

私はマルセイユタロットをしておりますが、すでに何度も書いてきているように、最初はカモワン・ホドロフスキー版のマルセイユタロットから入り、いわば、通称カモワンタロットと日本で呼ばれるタロットでの学習でした。

それが結構長く続いたので、かなり「カモワン流」という方法がしみついておりました。

今のカモワンスクールにおいてはわかりませんが、昔のカモワン流では、小アルカナをあまり使わないこともあり、小アルカナの実際の活用や、その研究に対しては、どうしても後回しとならざるを得ない状況がありました。

ただ、カモワンタロットが、ホドロフスキー氏によっても作られていることは当然知っていましたので、ホドロフスキー流のタロットの使い方はどうなのかということも気になっておりました。

そこでフランス語で出ていた本を見たり(フランス語はできませんので、読むというより見るです(笑))、氏のタロッリーディング動画や映画の解説で時折出てくるタロット観などにふれたりして(カモワンタロットの講習時に、フランスでも直接ホドロフスキー氏のセミナーを見たことがあります)、氏がカモワン氏と違い、小アルカナも重視しているところは感じておりました。(ただ、一般的に今見られる動画では、ホドロフスキー氏も、実践において、大アルカナが中心のようにも思います)

とにかく、マルセイユタロットに関しては、日本での文献は極めて少なく、ましてや、さらに小アルカナパートとなると、その解説はあるにはありますが、実質的には、今もって皆無に近い状況と言えます。

ところで、日本では、タロットと言えば、通称ライダー版と呼ばれる、ウェイト氏の作成したウェイト版が有名で、メジャーに使われています。

このウェイト版のタロットは、枚数、構成としてはマルセイユタロットと同じですが、小アルカナ(の中の数カード)に関しては絵がついていて、4組ごとのシリーズ・物語のようになっています。

従って、絵による物語があるために、大アルカナのように読みやすく、イメージもしやすいという利点があります。

一方、マルセイユタロットの小アルカナ(の中の数カード)は、一見すると記号のような模様の図柄がついているだけで、絵というにはほど遠い図像になっています。見ようによっては、タイルとかモザイク模様に近いです。

幸い、マルセイユタロットの数少ない解説本の中で、数年前出版された、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」という本がありますから(実は私がフランスで購入していた本の日本語版です)、それには結構詳しく、小アルカナの意味や解説も掲載されていますし、この本をもとに、松村潔氏が、独自の解釈を含めて、大アルカナとともに、小アルカナについても詳細に書かれている「タロットの神秘と解釈」という書籍もあり、今はそれらを読めば、大きな参考にはなるとは思います。

私自身も、独自でマルセイユタロットの小アルカナについて、成り立ちとか歴史とかよりも、特に読み方や活用を研究してきたところがあります。

それは、小アルカナの活用分野として、大アルカナ以上に、私たちの現実と呼ばれるフィールドにおいて使うものだからと認識しているからです。

小アルカナもタロットなので、確かに象徴なのですが、霊的(スピリチュアル的)・心理的レヴェルや、漠然したものを見るというより、具体性や選択性を示していくものと考えたほうがよく、そうだとすると、ただ考察や思考をするだけではなく、読み(タロットリーディング)をして、実践活用していくことが求められるというわけです。

しかも、その読みは、占いに近いもののほうが、小アルカナに関しては、シンクロすると言いますか、なじむと思います。

ただ、マルセイユタロットの場合、先述したように、小アルカナの数カードが記号的な図像なので、具体的な事柄をそこから想像して読むというのは、かえって難しい傾向があります。

ここが、あまりマルセイユタロットの小アルカナが実際に使われない理由のひとつにもなっているのだと感じます。

ということは、マルセイユタロットの小アルカナ、特に数カードについて、ふたつの見方ができます。

ひとつは、まさに模様を眺めるためにあること。

何のために眺めるのかといえば、イスラム教を考えればわかりますが、神というものを具体化・偶像(絵や銅像など)化しないためです。正しくは、神を具体化・形には「できない」のです。

マルセイユタロットには、自らの内に神性が宿るということを教義として持っています。

それは例えば、イエス様のように、具体的な神様像ではなく、内なる魂や霊の次元における(それを通して知るともいえる)神なのです。神というより、宇宙や完全性、大いなる何か、根源といった、スピリチュアル的な言い方のほうが的を射ているかもしれません。

ゆえに、この内なる神は抽象的で、具体的にはとらえがたいものなのです。

だからこそ、小アルカナでは、その内なる神・神性を、ある宇宙的なデザイン・模様として描いているわけです。いわば、神のオーダー・秩序が示されているのです。それが私たちの(現実)世界にも及んでいることを知るために、小アルカナは存在します。

この見方がひとつです。

もうひとつは、大アルカナや、皆さんが思う、リーディングや占いとしてのタロットとは別の使い方があるために、このような絵柄になっているという見方です。

ズバリ言ってしまえば、カードゲームのためのセットだということです。

ただし、この場合は、通常、大アルカナも含んでの、タロットのデッキ一組がカードゲームのセットになっています。ですから、小アルカナだけがゲームのためのカードというわけではないのです。

けれども、明らかに、大アルカナ、そしてコートカード、または宮廷カードは、同じような具体的な絵になっており、数カードの図柄とは異なっています。

皆さんがトランプゲームをした時に覚えがあるように、絵札というものはゲームにおいて強い力・得点力を持ちます。

それに比べて、小アルカナの数カードは、ゲームにおいては弱いと言いますか、得点が低く設定されているものがほとんどです。ただし、エース(それぞれの組の1)は、マルセイユタロットにおいても絵札となっており、トランプのエースと同様、結構強い設定です。

要するに、絵札と数札の違いがあるということです。それはゲームにおいての得点や、力の区分けにもなっているのです。

ということは、もしゲームのためにタロットができたと見れば、ゲームを面白くするため、あるいは得点の計算をわかりやすくするため、小アルカナの、特に数カードは作られ、そう(ゲームの切り札てはなく、使いやすい駒として)使うことにあると考えられるのです。

あと、お金か何か換金のための記録道具みたいな意味もあったのかもしれません。麻雀の点棒みたいなものです。いずれにしても、ゲーム関連での扱いだったと推測されます。

このように考えますと、マルセイユタロットの小アルカナ、特に数カードに関しては、大アルカナの秘儀をシステムとして基盤模様(マトリックス)で示し、宇宙を考察する装置のセットであると見るか、あるいは、割り切って、ゲームのための道具だと見てしまうかにあります。

そして、そのまま、もしこれをリーディングや占いという方法のフィールドにあてはめていくと、小アルカナを使わないか(ただし大アルカナの補助としては使える)、使う場合でも、ゲーム的に(ライトにとか、現実を楽しむためにとかで)活用していくかというやり方が想像されます。

これはあくまで、私の説・考えなので、ほかにもいろいろと考察もできるでしょうし、まだまだ謎の多いマルセイユタロットの小アルカナと言えます。

なお、リーディングに、小アルカナをどのように使うかは、基礎講座から、段階的にお伝えしています。


「世界」のカードと現実の世界

タロットカードで伝統性を受け継いでいるものなら、大アルカナの最後にして最終の到達地点、かつ最高の境地といわれる「世界」のカードがあります。

この「世界」を文字通り、私たちの今の現実の世界と取るか、そうではない別の世界や次元を描いていると取るのかでは、大きく解釈も違ってくるでしょう。

最初の一文で書いたような解釈(到達地のようなイメージ)では、後者、今の現実の世界の状態よりも、もっと高いレベルの世界であると考えられます。

しかし、普通に、そのまま私たちの世界を示す、としてもよいわけです。

そして、実は、両方の解釈を成り立たせることもできます。

この現実の世界は、一見すると、無秩序で混沌としており、完全とは言い難い、不公平や問題が山積された世界のように見えます。

それでも、もし「世界」のカードが示すように、この現実世界さえも完全で、最高の状態(の世界)であるとすれは、いったい(この矛盾を)どう受け入れればよいのでしょうか?

ひとつには、全員が一致して世界を見るのではなく、一人一人が自分の見る“世界”として感じることで、その説明が可能になります。

個人なら、世界が完全だと思うこともできますし、逆に不完全だと見ることもできます。要するに、あなた次第、自分次第で、この世界をいかようにでもとられえられる、解釈することが可能という見方です。

これは極めて心の問題、物事の考え方によることになります。平たく言えば、気の持ちようというレベルの話にもなってきます。

それだけに、誰でも、思考さえ変えれば、世界は完全性をもって現れるということになり、あとは平穏や完全を、結構なレベルで感じられる(思考できる)メソッドを身に着ければよいことになります。(よくあるのは瞑想など)

この方法が通じるのは、かなり自己洗脳に近いくらいの強烈な思い込みや信念がないとできないかもしれません。それに、人には不完全さに偏る思考や感情が常に働きますから、なかなかやっかいです。

それでも、あまたの人が、完全や平穏に(比較的)日常的になる方法を開発し、披露したり、教えたりされています。

そうやって、心のコントロールというようなものに成功すれば、まさにいつも天国状態、何があっても、それはネガティブや問題として感じるのではなく、エンターテイメントとして楽しむことができ、自分の世界が現実世界となり(自己のリアリティが現実のリアリティと一致する)、完全なる「世界」という思いで、現実を生き生きと過ごしていくことができるでしょう。

さて、もうひとつの矛盾統合的な方法は、パラレルワールドや次元別世界を設定することです。

普通、私たちの今の世界(過去の世界も、歴史を知るうえでは)が完璧、完全だとは、なかなか思いにくいのが通常でしょう。

自分ひとりだけではなく、周囲の人、地域、国、地球全体を見渡しても、平和で何の問題もない世界であるとは、よほど能天気な人しか思えないはずです。

先述したように、それでも、一人の個人的な観点であれば、自らの内に、あるいは高次の存在として、天国や神、仏、天使などの観念をリアリティをもって信じていた場合などで、「この世は、いかなる時も神(最高の存在・状態)の思し召し、意志、計らいによる完全」を表していると、信念として思い込むことも可能でしょう。これは、宗教的な見方と言ってもいいです。

ただ、多くの人はそうではありません。冷静かどうかは別としても、客観的に外を見て、自分だけではなく、世界には問題が様々にあり、完全なる世界とは言い難いと見ているでしょう。

ところで、さきほど、パラレルワールドや次元を設定するという話をしました。

これは、今、私たちが実際で現実だと感じている世界のほかに、別の世界や、レベルの違う世界が同時に存在していると見る方法です。あるいは、同時ではなくても、「世界」というものには、レベルの違いがあるのだと、ただ想定してもよいです。

そして、ここが矛盾統合で一番重要な点ですが、どのパラレル、または次元の違う世界においても、やはりそのレベルにおいて完全なのだという認識をすることです。

「世界」(の種類)には、非常に高度な発達と調和を遂げた天国的レベルの世界から、かなり低レベルの、見た目は争いや問題の絶えない修羅や地獄のような世界まで存在し、しかしながら、そのどれもが、そのレベルにおいては完全になっているという考えです。

ただ、レベルの違いがあるので、上から下を見れば、下はとんでもなくひどい世界と感じ、逆に、下から上を見れば、上はすばらしき世界、理想的で完全だと思えるような世界に見えるわけです。

言ってみれば、地獄は地獄なりに、完全なる世界として調和しているということです。(笑)

この完全と調和という概念は、理想やイデアというより、そのレベルにおいて過不足なしとか、バランスが取れているという意味であると思っていただいたほうがよいです。

地獄にたとえお花畑があったとしても、それは天国とは違う、地獄にふさわしい花が咲いているというようなもので、それでも地獄の花は地獄の花として、それなりの(地獄としてのバランスのための)役割があるということになります。

翻って、私たちの現実世界を考えますと、問題がある、おかしい、解決すべきことが多いと感じている場合は、どこかもっとレベルの高い世界を知っている可能性があります。

それでも、今の私たちの(集合)意識レベルでは、この世界しか作ることができず、そして、さきほども言ったように、この世界はこの世界のレベルにおいて完全なのです。

私たちが選択し、表現している層の世界が、今のこれなのです。

個人レベルで、この世界は神の創造した世界であるから完全なはずとか、モノの見方・考え方次第で天国にも地獄にも世界は映るという話はしましたが、多くの人は、この世界に矛盾を感じたり、発展途上的な思いがあったり、もっとすばらしい世界にできるのではないかと思っていたりするのではないでしょうか。

ということは、ほとんどの人は、別のレベルの世界を知っているのです。少なくとも、この今の世界の表現においてのレベルと調和・完全性において、全員満足しているとは言い難いのです。(もちろん満足している人もいると思いますが)

言わば、「レベルにおいて、どれも完全」という世界説を取ると、私たちの世界はこれが限界なのです。というより、いつも、いつの時代も、その時点の世界は最高で完全なのです。

ただし、レベル違う世界の移行を思えば、天井はありませんし、上から下を見るような感覚になって、成長の余地が意識されます。

それにしても、私たちはなぜ、別のレベルの世界を知っているのでしょうか?

普通に人の持つ向上心や、文明の発達という概念だけでは説明できないところもあるように思います。

マルセイユタロットも語るように、実体、現実としての形が現れるのは、その前にイデアとしての発想、ビジョン、イメージを想起したり、キャッチしたりする必要があります。

行動の前には、確信のイメージがあると言われるものです。

ということは、私たちの中に、世界のイメージ(様々なレベルの世界イメージ)がもともとあるのではないでしょうか。

それは心が知っているというより、魂・霊が知っているような気がします。

ということで、私たちの世界は、もっと上のレベルの表現(これは現実という意味と同じです)ができるためには、さらに多くの人のイメージ・意識として共有する必要があると思います。

そして、これも矛盾のような、おかしな話に聞こえるかもしれませんが、ひとつのレベルを超えるためには(移行するためには)、今の表現レベルを十分に自覚し、この時点でも完全であることを認識することが重要になると考えられます。

ひとつのレベルの世界を表し尽くすと言いますか、この今の世界が、不足や過剰、問題ある世界と思ってしまっては、逆にそこに留まざるを得ない仕組みがあるように思います。

ピースがそろって初めて次に進めるかのように、今の世界での完全性をできるだけ感じ取れる認識力が十分に発達すれば、やっと、次のステージの世界の表現の道ができるという意味です。

従って、問題意識を放置したたま、やたらと上を目指すより、遠回りなようで、一人ひとりが自分の問題と向き合い、完全性(の認識)を取り戻すことができてくれば、結局それが早道となって、別次元の世界に到達すことができるようになるのではないかと、マルセイユタロットの「世界」を見て思うのです。

この世界と、その表現を決めているのは、私たち自身です。

ただ、もうほとんどの人は、忘却していた、もっと上の次元の世界と表現のイメージや感覚、あるいは人によっては故郷のような郷愁をもって、思い出しているのではないでしょうか。

そんな、時代の移行点に来ていると個人的には思います。


関心の方向性と、そのバランス

マルセイユタロット、中でも、私が特に使用しているのは、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットです。

このタロットは、その名前の通り、アレハンドロ・ホドロフスキー氏と、フィリップ・カモワン氏の共同作業による、いわば、リニューアルされたマルセイユタロットです。

従って、現代の技術も使われていますので、カードは、より詳細で、鮮明な画像になっています。

その鮮明さの中のひとつに、カードの人物の視線の明確さ(の復活)があげられます。つまりは、人物がどの方向を見ているのかが、はっきりわかるのと、鋭くなっているということです。

この視線にも、大別すると、三つの方向性があります。それぞれにもちろんが意味がありますし、解釈次第では、多様な見方ができます。

そこで、少し前に起こった事件とともに、この視線方向の三つをヒントに、ある考えが浮かびましたので、書いてみたいと思います。

さて、兵庫県明石市という市があります。対岸に淡路島を望む海辺の町で、神戸市と隣接しながらも、風光明媚なところもある海岸線を主体とした細長い市です。実は私の住んでいる市でもあります。(笑)

余談ですが、東経135度の通る場所として日本標準時の町であり、「ガイアの法則」という本では、地球の経度位置による衰退と発展が周期的に繰り返されると示され、東経135度が将来(未来)的に重要な意味を持つことで、スピリチュアルに関心のある人にも、興味をもって見られているところです。

その明石市の市長の、部下に対する問題発言と、それに関係しての市長の辞任の話題がありました。

最初は、ただ(前)市長の暴言のみがクローズアップされていたこともあり、市長は批判されていたのですが、後日、全文と言いますか、その時のトータルな発言も出ることで、一転して、市長を擁護する人も増えました。いずれにしても、発言があまりにも強烈で、問題性があったので、ご本人から辞任されたという終幕を迎えました。

この前明石市長は、割と市民の間、特に若いご夫婦や小さいお子さんのいる家庭では評判がよいところもあると聞きます。

それは、そういう方々への施策を次々と実行されていたからです。また、駅周辺の再開発や、図書館の駅前への移転など、市民にも便宜を図ることをされていたので、一般市民的にも評価される向きもありました。

ただ、明るみに出た部下への暴言、パワハラ的な態度は、やはり問題があると見られているところもあり、その責任を取って辞任されたわけです。

この(前)市長の場合、どの方向に主に関心が向いていたのかといえば、一般市民の暮らしや生活、利便性などであり、言ってみれば市民に対しての方向性が中心だったわけです。

それは市長という立場では当然のことではあるものの、問題となった部下への扱いから考えますと、職員への関心と気遣いは、あまりなかったか、あっても、ちょっと方向性や熱意の示し方として違っていたものがあったのかもしれないと推察されます。

企業にあっても、社長やトップの立場にある人が、どの方向に関心や注意を払っているかによって、企業の性格はもとより、その発展や存続にまで影響するのではないかと考えられます。(これも当然と言えば当然ですが)

それで三つの方向性です。

企業を例に取ると、ひとつはお客様や消費者中心の視線、もうひとつは、その企業で働く従業員・社員への視線、さらに三つ目は、自分、あるいは私的物と見てしまうような場合の企業(会社)への視線です。※ここで言っている「視線」は、関心ととらえてもよいです。

これは個人の場合でも言えます。

すなわち、自分と関わる他人への視線(公的視線)、家族や近しい人に向けての視線、自分自身に対する視線の三つです。

これらがバランスよく、あるいは順序を間違えない視線と関心があればよいと思いますが、得てして、どれかひとつに偏る傾向があります。

企業の場合、トップが、あまりにお客様志向、お客様のためと思い過ぎて、何もかも犠牲にし、滅私奉公のような状態で、社員にも奉仕を要求し、しかもサラリーに努力や結果が反映されないとなると、これは辞めていく社員も多くなるのでないかと思いますし、辞めなくても社員は疲弊し、モチベーションや、やりがいもなくなっていくでしょう。

しかし、反対に社員ばかりに気遣い、お客様の声を無視していては、会社の売り上げは上がらず、結果的に社員への給料も払えず・・・となるおそれがあり、本末転倒です。

また、自分だけしか目が行っていなく、悪く言えば、自分が大事、自分がかわいい、自分さえよければよいというような態度では、そもそもトップが務まるとも思いませんし、私利私欲で会社を動かしていることになってきます。

個人のケースでは、究極的には、全員、自分のために視線や関心をもってやっていると言えますが、それでも、他者を意識し過ぎるか、自分と他者をバランスよく見たり、冷静に区分けして見ていたりするかによっては、変わってくるところもあると思います。

やたら人のために自己犠牲し過ぎるのも問題ですし、人の気持ちもまったく考慮せず、自我を押し通すことも、周囲とトラブルが起こりやすくなります。また家庭・家族、身内などを顧みずというのも、また問題となることが多いでしょう。

やはり、個人の場合、自分を大切にすることは第一かもしれませんが、先述したように、利己主義、わがままになるのとはまた別で、他人や他者との調整、気遣いもある程度は必要とされます。

三方よしではありませんが、関心の方向性として、自分、他人、関係者それぞれがうまく調和するようなものがベストなのかもしれません。

現在、何やらうまく行っていないと思う人(組織)は、自分(中心や方針を決める立場の人)の視線、関心がどこに行き過ぎて、どこに足りなさ過ぎているかを見直して、バランスを図ると、改善されたり、持ち直したりする可能性があると言えます。

これは、本当にケースバイケース、個人や組織で(理想の)バランスも違ってくると考えられますから、一律(パーセンテージや純粋な割合)で言えるものではありません。

ただ、問題というものが発生していたり、自覚できていたりするのなら、こうした関心の方向性のバランスがおかしいのではないかと疑ってみるのは、解決のヒントのひとつになるかもしれないのです。


「神の家」の自信

私たちは普段何も思わない人でも、不安な状況にさらされたり、決断がなかないできない状態や、何をしていいかわからなくなったりすると、迷い・混乱に陥り、自分への自信を失うことが多くなります。

自分ではわからない、自分では決断を下せないのですから、判断のもとたる自分自身に、しゃれではないですが、自信が持てなくなるわけです。

まさに、自身の揺らぎ=自信の喪失とでも言えましょうか。

マルセイユタロットでは、揺らぎのない自分と、自信を獲得した状態は、「神の家」で表されるものと考えられます。

一方、数のうえで、その「神の家」の前のカードに当たる「悪魔」は、悪魔による自信と、ひとつには解釈できます。

「悪魔による自信」とは、カリスマ的な人や、自分が信仰に近い形で敬愛・崇拝している人に寄りそうことで、自分の自信に換えているというもので、よくあるパターンです。

悪い言い方をすれば、“虎の威を借る狐”みたいなところもありますが、よい言い方をすれば、その人をモデルにしながら、自分の中にある自信の部分を見出そう、創り出そうとしている状態とも言えます。

しかし、その悪魔から承認してもらうこと(ほめられたり、評価されたりすること)でしか、自分の価値や自信が持てない状態が続くと、それは依存ということになります。(中には、悪魔側が依存している、つまりは共依存関係もありえます)

自分が悪魔である(この場合の悪魔は、一般に言われる悪の道に誘惑したり、非道を行う悪魔的存在という意味ではなく、マルセイユタロットカードに象徴されるカリスマや影響力のある魅力的な人物の象徴と取ってください)ことを自覚している人(演出している人も含む)の中には、本当に、悪い意味での悪魔になってしまっている人と、共に成長を図ろうとしているよい悪魔がいます。

言い換えれば、わざとか、無意識のうちに依存させて、自分についてくる人のエネルギー(目に見えないものだけではなく、お金、時間、熱意、その他もろもろの形の場合もあります)を奪い、自分をさらに肥大させようとするのが悪い悪魔で、人からエネルギーはもらうものの、それ以上に自分もよい意味で拡大し、力をつけ、それらを人に還元していくタイプがよい悪魔と言えましょう。

この区別には、やはり、「」というものがひとつの基準になると思います。

悪魔中心(悪魔自身に向けられているだけの、自己愛中心)なのか、双方向(自分だけではなく、他者愛)にもなっているかどうかという点が重要ではないかと思います。

ただ、どちらにしても、この「愛」も、情とからむことが多く、従って、「愛情」「情愛」と書くと、よい悪魔との関係も、理性が働かない感情的なつながりが中心(タロット的にいえば、杯であり、剣の力が薄い)状態になっているとも考えられます。ゆえに、その関係性は断ち切りにくいわけです。

そこで、「神の家」です。

「神の家」と書くと、神様が住まう神殿とか神社を想像するかもしれませんが、マルセイユタロットの「神の家」は、神殿というより、文字通り、神の家(フランス語で、カードの名前がそう書かれています)なのです。

これでは、まだわかりづらいですよね。

もうちょっと補足説明すると、「神の家」を、例えば、「田中さんの家」というふうに、「神」の部分を固有名詞にして比較すれば、言っていることが、わかってくると思います。

上述の、「田中さんの家」と書けば、それは田中さんの住んでいる家、もしくは田中さんの所有する家と思うのが普通です。しかし、これを「田中さんが家」だとすると、まったく変わってくると思います。

そう、「神の家」も「神が家」と言い換えた、いわば反転した言い方をすれば、「家が神」ということになります。

この(神の)家も建物(メゾン・マンション)みたいなイメージが、マルセイユタロットにはありますから、神の家が建ったというような感じであり、しかも、「神が家」という言い方をすれば、まさに、家=神、建物=神の状態なわけですから、神が来た、神になる、に近いのです。

そして、この神とは誰か?です。

もう皆さん、おわかりかと思いますが、この神とは「自分」です。もともと自分の内にあった神性が、長い間の気づきや修行を経て覚醒し、自分が神であることを認識する強烈な変化が起きたのです。

ここで、やっと、最初の話に戻ります。

こうなると、自分が神(これは、おごった言い方ではなく、完全性の悟りや宇宙、大いなるものと一体化することとイメージすればよいでしょう)になることに覚醒したわけですから、その自信は、もはや人間レベルの比ではないことがわかります。

本当の意味での自信、誇りに目覚めたのです。

「悪魔」では、誰かを悪魔(仮託する存在)にして、自信(自身)を承認してもらう必要がありました。あるいは、自分が悪魔となって、つき従う人のエネルギー、状態を感じて(自分に流入させて)、悪魔としての自信を得ていたとも言えます。

それが、「神の家」になると、完全に自立し、もう、悪魔は必要なくなり、自分の神性そのものによって支えることができるようになっています。描かれているような、揺るぎない強固な建物の自信です。(ちなみに破壊されているように見える上部の王冠も、一説では、天からの戴冠と言われます)

そして、悪魔と情で結びついていたとしても、その悪魔からの自立、解放、脱却ができるのです。

日本語は面白いもので、自信、自身、自神と同じ発音をします。ちなみに地震もそうですね。(笑) これらは、深くわかってきますと、すべて「神の家」のカードに、まるで偶然のように、凝縮されているようにも読み取れます。

ところで、「神の家」と数のうえで関連性のあるカードと言えば、「恋人」カードがあげられます。この二枚は、ローマ数字の「6」で共有していることを示しています。

恋人カードでは、人間が相談していたり、迷っていたりするようにも見えますし、上空には異次元的存在ともいえる「天使」「キューピッド(クピド)」がいます。

一方、「神の家」にも、ひっくりかえった人間のような二人がいて、さらに強烈な光が建物に降下していて、これも異次元的な影響が上には感じられます。

どちらにしても、二枚における(普通の)人間と思える人たちは、揺るぎない状態とは、とても思えませんし、自信という観点からしても、それが強くあるようには見えません。

このことから、私たちの通常状態、普通の人である時は、迷うのが当然ともいえ、時に自信も失いますが、別の見方をすれば、自信を持つということは、段階やレベルに応じたものが存在していると考えられることです。

最初から、揺るぎない自信(=自身)を得られるわけではないのです。

しかし、内奥には、神性なる自分神である宇宙的な自信が存在し、言い換えれば、宇宙そのものである自分がいるため、自信がないとかあるとかの問題ではなく、すべてはありのままで安心立命の境地そのものだとも言えるわけです。

そのことを思い出す旅をしているのが、人生なのかもしれません。

どんな人にも悩みや迷いはあり、その度(旅)に、自信を失うことはあるでしょう。

また、悪魔の登場によって、つながれたり、承認されたりする形ではありますが、他人からの影響と学習で、自信をつけていくこともあるでしょう。

様々な状況の中で、私たちは、本当の自信(自身)を構築していくのです。それが「神の家」を目指す作業とも言えます。

頼り・頼られしながらもありだと思います。人は一人では生きて行けません。

あなたが、誰かの自信を回復させたり、得たりするためのサポートやきっかけとなるかもしれませんし、反対に、自分の自信喪失を、誰かに取り戻してもらったり、与えてもらったりすることもあります。

人を助けるのもいいですが、ますば自分を助けて、自らが自信を持つことが、ほかの人の自信を取り戻させる流れとなるでしょう。

そのように、マルセイユタロットは全体像から語っています。


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