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タロットリーダーになりたい人に

私のもと(講義)には、タロットリーダーになりたいという人も来られます。

そういう方には、是非、タロットを学んでもらって、最初の意思を貫いてタロットリーダーとなって、人々の問題をサポートしたり、癒したり、成長や発展に寄与していただければと思って指導をしております。

ところで、世にタロットの先生と呼ばれる人は、自称・他称も含めて、本当にたくさんの人がいらっしゃると思います。当然ながら、いろいろなタイプの先生(タロットを教える人)がいらっしゃるわけです。

そして、タロットを習う側の人は、どうしても大なり小なり、教わる先生からの影響を受けます。その中でも、一番最初に受けた(習った)先生は、その先生のレベルや考え方などとは関係なく、のちのちに生徒さんに(タロット関係において)大きな影響を及ぼすことは確実だと思っています。

やはり、最初というのはそれなりにインパクトがあり、生徒さん当人には自覚がなくても、無意識のうちに影響があるのです。(これは他所で学ばれた生徒さんを見ていて、私自身も感じることです)

しかし、同時に、人は変わっていくことのできる存在ですから、最初の先生と合わなかったり、自分の求める教えではなかったりした場合でも、次以降の先生によって、修正したり、補強したり、刷新したりすることも可能です。

どちらにしても、生徒さん当人がどう思うと、究極的な目線からすれば、どの先生に学んでもいい・悪いはなく、すべて経験として蓄積し、当人に活かすことができると思います。

ただし、現実的な、制限された視点になれば(たとえば期間を限定した見方であったり、経済的効率性で見たりするような視点)、そこにいい・悪いという評価が、当人に感じてしまうこともあるかしもれません。

ということでは、習う側としては、どういったタロットリーダーになりたいのか、どのよなうタロットリーダーを目指すのかというビジョンを、ある程度持っておいて、学んだほうがよいということが言えます。

もちろん、最初はタロットリーダーになるなど考えていなくて、タロットを学んでいるうちに、これを人に役立てたいと思い、タロットリーダーになる(なりたいと希望する)という人もいます。(私の講座では、こういう傾向の人が多いかもしれません)

それとは別に、初めからタロットリーダーになることを決めていて学ぶ場合は、時間やお金などの点も計画的に考慮する必要がありますが、それよりも、自分のなりたいタロットリーダー像を固めていくことも大事だと思います。

これは言い方を換えれば、「タロットリーディング」という技術をどう使うのか?ということのイメージ・ビジョン・計画です。

例えば、すでにヒーリングや対人援助的な相談を何かやっている場合、そのメニューのひとつ、あるいは、組み合わせ技術として、タロットリーディングを行うというパターンがあります。

また、タロット占い師として自宅、または、占い事業者のもと(占いの館とか電話占いとかを経営しているところ、占い師を雇える場所)で、タロット占いを提供するパターン。

(イベントなどの場所で)ボランティアや、友人その知人たちを中心に、趣味的なタロットリーディングをして、とにかく自分が何か人に貢献できる実感を味わいたい方

など、まずタロットリーディングを行う場所やサービス方法が検討されます。

そして、同じタロットリーディングと言っても、どういった質のものを提供するのかという、リーディングスタイルのことも重要です。

それは、占い中心のスタイルでやるのか、カウンセリング的な、メンタルや心の領域まで踏み込んでリーディングするのか、何かの目的(恋愛や結婚、仕事など専門相談目的分野)を中心にして専門リーディングをするのか、スピリチュアリティや霊的なレベルも考慮してリーディングするのかというような例で考えられます。

その前にも、ビジネスとして行うのか、あくまで趣味やボランティアでやるのかということも、大事です。

それらについて、最初からはまだ決められなかったり、よくわからなかったりすることもあるでしょう。

ですから、タロットを学んでいる最中にでも、少しずつ、このようなことを決めていくとよいのです。習い終わってからでは遅いこともあります。(スタートがその分遅れ、迷っているうちに、情熱も冷めて、結局、タロットリーダーになることをあきらめてしまう場合があります)

時間とお金が有り余っている人は別ですが、たいていの人は、ある程度、何らかの制限・条件があるはずで、そうした観点で言えば、先にも述べたように、それらを無駄にしない、目的に沿った選択と学習が必要なケースがあるでしょう。

目的・将来のビジョンがあやふやなままだと、自分探しの旅みたいになって、いつまで経っても決まらず、時間とお金を浪費してしまうことにもなりかねません。

私の場合、特にタロットリーダーを目指したいという人で、私の教えられるスタイルが、その方の望まれるスタイルとは大きく異なっている場合、あるいは、こちらのスタイルを学ぶのには向いていないと思われる方には、講座のステップアップをお断りさせてもらう場合もあります。(両者の相談と納得のうえで)

そうしないと、お互いに時間やお金を浪費はすることになったり、精神的につらくなったりするからです。

最初にも述べたように、先生側にも個性とか、培って来た(教えられる)スタイルというものがあり、それは先生によって様々です。

大まかには、教えられているメインのタロットの種類によって決まっていることもあるのですが、それでも、同じタロット種の先生でも、タロットに何が描かれているのか、それを何ににどう活用するのかの主義主張、思想、価値観などによって、まったくスタイルの違う教えとなることもあります。

ですから、教わっている側にも、先生との相性とか、自分の目的にかなう、かなわないという部分が出てきます。

それを無理して(ごまかして)、先生色に染める(染まる、悪く言えば洗脳する)必要もなく、逆に、自分の個性や目的に応じて、自分自身を活かしたほうがよいと思います。(先生に逆らうとか、けんかするということではなく、相手を尊重しつつ、自分自身も大切にするということです、そはれ先生自身にも言えます)

この世界では、一人ひとり全く違う個性を持ちます。それを活かし合うのが、現実という世の中だと思います。あなたにはあなたにしかできないタロットリーディングというものがあり、あなたのリーディングを待っている将来のクライアントさんもいるのです。

最初は先生の真似から入っても、やがては、あなたオリジナルのリーディングに必ず向かうことになります。

伝えられるのは、そのタロットにおける共通的な認識の象徴性であり、もし先生から受け継ぐものがあるとすれば、その先生が目指そうとした精神や高次の目的といったものになるでしょう。

それは、あなた独自の表現をもって、また別の人に伝わり、伝えられたその方も、その人の表現でもって違う人に伝えていくことになるのです。

それでも、よい先生(自分の目的や精神に合う先生)に出会うのは、これまた縁と言えますが、出会えれば僥倖と言えましょう。たとえその先生に自分が気に入られなかったとしてもです。

表面的なことよりも、あなたの魂のようなものが求めていて、それが時間的には一時的な師弟関係であっても、魂の必要性の出会いであれば、自分の魂が発動し、その後の人生観の変化などが顕著に起こることでしょう。それはまさに、そう決まっていた運命のようなものなのです。

タロット学習を志す時、タロット(種)の縁もあれば、教わる先生との縁、さらには一緒に学ぶ仲間たちとの縁もあり、それらはきっと意味あるものとして、あなたの運命と縁に関係しているのだと感じます。


「戦車」に見る成功の考察

「成功」という言葉で、マルセイユタロットから連想されるカードには、「戦車」があります。

タロットは重層的、あるいは言語的使い方ができますので、例えば、成功ということを「戦車」が意味するとすれば、ほかのカードは、その成功に向けた補助や方法を伝えてくれると読むことが可能です。

つまりは(技術的には)、「戦車」とその他のカードの組み合わせ(コンビネーション)によるタロットの読み方ということになります。

一方で、成功と一口に言っても、いろいろな形(状態)があり、必ずしも、「戦車」だけで象徴できるものではありません。ほかのカードによって表現される成功というものもあるはずです。

このように考えていくと、成功の概念そのもの、また、同じ「成功」という概念を示していても、それに至る方法なども、様々であることがわかります。

さて、成功という言葉が出たので、これについて、ちょっと考えてみたいと思います。

さきほど、成功にはタロットで考えると、いろいろな形があることがわかりましたが、それでも、いわゆる今の私たちが思う、一般的に共通する成功イメージというものがあります。

それは、ほぼ経済的に成功していることが主題となっているものです。

経済的な成功以外では、名誉的なもの、有名になったというものとか、夢がかなった状態とか、よきパートナーや家族に恵まれたなどあるかもしれませんが、やはり、経済的な豊かさ、大きさを獲得していないと、成功とはなかなか言い難いのが、普通でしょう。

しかしながら、この経済的成功は、資本主義社会で成立するもので、全員が経済的に大きぼ意味で成功する(端的に言えばお金持ちになる)ということはありえず、いわゆる、勝ち組と負け組いうことで、まるでイス取りゲームのように、成功するものと成功しないもの、一部とそれを支える多くの者たちという図式(構造)になっています。

言ってみれば、経済的な成功者という存在は、ほんの一部しかいない(多者になりえない)というわけで、ポジションが限られているのです。言い方は変ですが、マイノリティです。(笑)

まあ、負け組の、まさに負け惜しみと言ってしまえばそれまでですが(苦笑)、普通は、負け組になる場合が多くなる(負け組がマジョリティである)のが、今の経済システムの構造上、仕方ないところもあるわけです。

それでも、頑張って成功者を目指すのもよいでしょうが、多くの人は、その限られたイス取りゲームの競争から脱落し(意図的に脱落する場合が多い)、違う質の成功を追い求めるようになります。

成功する者、成功したい者からすれば、「なぜ努力しないんだ」とか、「やり方(情報)を知ってきちんと行動すれば成功できる」と思う人がいるでしょうが、世に成功パターンや法則はあまた教えられている(紹介されている)のに、いまだたくさんの人が成功者になっていないのは、さきほど述べたように、もともと構造上の問題として、成功者のポジションが限られているというのがあるのと、努力や成功法則だけでは成功できない部分がある(つまり誰でも等しく、画一的方法で成功できる保証的な方法がない)からでしょう。

例えば、生まれた境遇とか個人の資質、またと呼ばれる要素も大きいのではないでしょうか。

よって、一般的に言われる経済的成功を目指すには、なかなか難しいところがあるのが当然と言えます。

ということで、先述したような、成功は成功でも、違う質の成功を考えるようになるわけです。

要するに、成功したいと思えば、ひとつは、普通の経済的成功を目指すか、成功という概念を自分の中で変えて、その成功を目指すかということになるでしょう。

後者は成功という質、意味を変えるということに近いですし、たくさんの人にとって、こちら側を目指すほうが構造的には楽だということです。

なぜなら、その質の違う成功のポジションは、一般的意味合いの経済的成功とは違い、ひとつか少数と限らているわけではなく、いわば、人の数だけ、成功という思いの数だけ存在するからです。

タロットや、スピリチュアル的な統合観点で見れば、人には、三つの魂があると言われます。(詳細になれば7つや21とも言われます)

それは肉体の魂、精神の魂、スピリットの(霊的な)魂です。

魂というより、レベルや次元という表現のほうか適当かもしれません。このうち、特にスピリットの魂に目覚めよというのが、マルセイユタロットの教義のひとつになっているのですが(それはほかの魂を捨てるということではありません)、とにかく、違う質の魂をひとりの人間のうちに持っているという考えがあるのです。(キリスト教の三位一体教義とも関係します)

そして、成功や幸福というものに対しても、それぞれの魂レベルでのものがあり、いわゆる、普通の成功とか幸福概念で語られるのは、肉体レベルのものがほとんどと言えるでしょう。

スピリチュアルに傾き過ぎると、これを軽視しがちですが、私たちは現実の世界で肉体をもって、形ある世界で生きていますから、この「肉体魂」ともいえるものの幸福を追求しないと、健康を害して、簡単に死んでしまったり、生活そのものができなくなったりします。

しかし、これにとらわれすぎると、ほかのふたつの魂の幸福はないがしろにされることもあります。

一般的な成功ではなく、質を変えた、一人ひとりの個人が思う成功を考えた場合、これは精神や心の魂の幸福を求めていくことに同意義となるでしょう。

そして、さらにはスピリット次元までの成功を目指すと、人生の質そのもの、生き方そのものまでかなり変わってくるかもしれません。なぜなら、それぞれで重きを置く価値基準が異なってくるからで、つまりは、世界の見方も変化するからです。

それでも、さきほども指摘したように、肉体レベルの成功・幸福をまったく無視するわけにはいきません。三つの魂の調和とバランスということが大切となってきます。

人によって、その配分やバランスは違うとはいえ、それをうまくコントロールして生きていくのが、現実の人生といえます。(実際を生きる私たちの課題であり、試練であり、楽しみでもある)

さてもう一度、タロットの「戦車」に戻りますと、(マルセイユタロット」)の「戦車」の図柄は、一人の御者が、二頭の馬を操って(手綱はありませんが)いる図柄です。合計三つの生き物がいます。

ということは、さきほど述べた三つの魂と関連づけることもできるでしょう。

この「戦車」は、冒頭で、成功がもっともイメージされる(そういう意味を持つ)カードだと書きましたが、それには、一般的イメージの成功ということもあったのですが、こうして絵柄から見ていくと、実は、もっと深い意味の成功が隠されている、ほかのレベルの成功も意味しているのでないかと推測されます。

たったひとつ、あるいは、いくつかの極めて少数のイスを奪い合うような経済的成功を目指すのも、スリルと冒険、そして達成感があって、またよいものでしょう。

一方で、限られたイス取りゲームに参加するのではなく、別のフィールドでは、人それぞれが、自分のイスに座って会話や食事を楽しんだり、イスを交換したりして、循環していくようなゲームの世界を選んでもよいのかもしれません。

成功というものを量や大きさではなく、から見ていくと、一般的にいう(経済的)成功というのも、あくまで、たくさんある成功の状態のひとつです。この世界の今システムでは、それがもっとも価値あるものとされていますが、そう信じ込まされているかもしれないのです。

もっともよいものと示されたものに向かう、目指すのは自然なことのようにも思えますが、そもそも提示されものが本当にもっともよいものなのかどうかは、実はわからないものです。

最初から示されたものに到達するという方向性ではなく、それぞれが新たに創造したり、発見したりしたものが結果的に目指していた成功だったと見ていく、逆の方向もあっていいでしょう。

そういう意味では、「戦車」のカードには、御者の肩に、ふたつの顔が描かれているのも面白く、成功の見方の方向性に、複数あることがわかります。


カードの(が)守護神、守護天使

台風が続き、本当に今年は天変地異と言いますか、災害が多い年です。

これだけ続くと、前々から言われているように、地球規模の環境変化、何らかの全体性の問題も考えられます。また非科学的ではあっても、何か大いなるものの警告のような、超越的な意味合いも感じさせます。

いずれにしても、一面から見るだけではなく、多面的な考察視点があってもよいかと思います。

例えば、災害(の危険のあること)が起きますと、最初は個人(自分)の生活が心配になりますが、やがて、個人を離れた、日本全体とか地球全体とかの関心・意識に変わってきます。

災害は、場合によっては生命の危機もあるわけですから、日常の些細な個人的問題とか悩み、または、モノを中心とする豊かな充実した生活へという思いも、人によっては薄くなるのではないでしょうか。

そして、助け合いとか協同意識が強くなり、個人というより全体で安心でき、再建できる社会システムの求めが、今まで以上に起こってくると思います。

また災害が起きることで、本当に生きていることの有難さ、日常の普通の暮らしができる大切さにも気づき、ただ個人の欲望や自我(エゴ)の拡大と現世利益の満足を追求していく目的・暮らしから、反転したものに意識が変化していく可能性を秘めています。

モノをたくさん持っていても、失えば元も子もありませんし、生活再建的にも使えなくなったモノは、処分に面倒な話となります。

さらに言えば、モノ(のあるなし)を基準とする豊かな生活とは、モノが安定的に供給できる社会・暮らしがあってこそのものであり、災害で非日常のようなことになると、ともかくも生きていくのが精いっぱい、元の状態へ回復することが大事となります。

結局、スピリチュアル的に言えば、今起こっていることも、個別意識で分離され、モノやお金のあるなしの価値判断で競争される意識から、精神や霊的な質を元とした、統合的な意識に移行する準備のためとも考えられるわけです。

 

さて、話は変わりますが(実は奥深くではつながっているのですが)、マルセイユタロットでは、特に大アルカナと呼ばれる22枚のカードが、様々なレベルの象徴を示します。

そういったいろいろな見方のひとつに、カードを神や仏、天使や聖霊、菩薩などの化身・象徴として見るというものがあります。

マルセイユタロットでは、外にそういった神なるものがいると考えるのではなく、内(自ら)にそれが宿るという思想を持っています。

ということは、端的に言えば、私たちには、みな、タロット的には22の神や仏(あるいは天使とか菩薩とか)の崇高な存在がいると見ることができるわけです。

このうち、「悪魔」というカードもあるのですが、それも神の化身と見れば、名前は悪魔でも、違った見方もできるでしょう。

それはさておき、ある問題や、不安・恐れもある状況に陥った時、タロットをシャッフルして、一枚、カードを引きます。

その出たカードが、今自分に必要な神や仏(の表現)なのだと思うことができます。

ただ、それだけではちょっとわかりづらいかもしれません。ですから、こう思うとよいです。

それは、自分の(その苦境に対する)守り神(助けてくれる仏、縁ある菩薩、天使)であると。

ところで、宗教によっては偶像崇拝を禁止していますが、普通は、神や仏を絵にしたり、像を作ったりして、私たちはそれに拝み、祈ります。

これは一見、外に神がある(自分の外に神が存在する)ような印象受けますが、見方を変えれば、内なる神性・仏性を引き出すための装置とも言えます。

言い換えれば、外の絵や像を通して、自分の内なるその存在を思い出す(引き出す)わけです。

例えば、観音様の像に祈れば、自分の中の観音力(かんのんりき)が発動し、自らを救う縁と力を呼び起こすというわけです。

これと同様に、もしタロットカードを神や仏の化身のように見れば、引いたカードがあなたの守護神となり、そしてそれは、自分自身の内なる神性をカードの形として見せてくれているのだと考えることができます。

ですから、まずは、単純に「外の神」として、そういう神様が私にはついているとか、そういう神様で表現されているようなエネルギーが必要なのだと見てもよく、やがて、それが自分自身の力であったということを気づき、悟って行けばいいわけです。

まさにタロットカードを、エンジェルカードや神様カードのように見るようなものです。

外側が不安定な状況にある時、カードで示される存在があなたを守り、自信を与え、癒し、調和させていくことになります。そして、それは、あたにも、相手にもある力であり、存在そのものなのです。

マルセイユタロットを持っているあなた、さあ、あなたの今の守り神として、一枚引いてみましょう。

またいつかの機会に書きますが、同じ大アルカナでも、それぞれによって、神(と見る方法)の性質や表現が違ってくるので、それはそれで分析してみれば面白いものとなります。

それから、特定の宗教に縁があったり、信仰したりしている人は、そこで言われている神様や高いレベルの存在を、タロットであてはめてみるのもよいでしょう。

興味深いことに、自分に縁のある神や仏は、タロットでも同じように縁があることが多いのです。


話す領域の違い 「法皇」と「恋人」

コミュニケーションは、一方通行なものではなく、双方向であるのが普通です。

つまり、聞くことと話すこと、どちらの役割もお互いに交換しあうわけです。これも究極的には、陰陽、二元表現の形といえます。

マルセイユタロットでも、例えば、聞く役割を中心として象徴させている「斎王」(一般的な名前では「女教皇」)と、話す役割が主な「法皇」(一般的には「教皇」)とセットになっているカードがあります。

そして、今日はこのうちの「法皇」の表す、「話すほう」について取り上げたいと思います。

「話す」ことは、言語やその他に障害がなければ、誰でもできることです。しかし、時と場所に応じて適切に話すということになると、難しくなってしまいます。

話し方教室というのが実際にあるように、人は話の訓練をしなければならないこともあります。

いわゆる慣れや経験も、話すのをスムースにするには必要です。となると、純粋に話し方の技術というものもあるでしょうが、結構、話すことで問題となるのは、精神面が大きいということです。

誰でも緊張していると話しづらいですし、逆に、不安や恐れがなく、リラックスした状態だと、なめらかに話すことができます。

たとえ、かんだり、とちったりしても、また話す内容が整理されていなくても、話している本人が気にしていなければ、饒舌なものとなります。

コミュニケーションの意味においては、最初に述べたように、双方向と考えると、話している自分だけが楽しくても、相手の気持ちがよくなかったり、内容が伝わっていなかったりすれば問題ではあります。

とはいえ、まず、なにはともあれ、話すことができなければ、相手に伝わる伝わらない以前の話になりますから、いかに自分が精神的に話せる状態にしておくか、そういう気持ちになるかということが大事な要素になるでしょう。

逆に言えば、話せる環境や状態に、聞く側も整えたり、誘導したりすることで、話し手は、より話しやすくもなることが考えられるわけです。(従って、聞く技術、聞く側の要素もコミュニケーションでは大きいのです)

さて、「話す」ことといえば、「法皇」のカードだと言いました。

この「法皇」の数はであり、次の6の数を持つカードは「恋人」です。このふたつを並べることは、以前もコミュニケーションや伝達において、ある示唆があることは書いたことがあると思います。

今回もこの二枚を数の順に並べてみましょう。

すると、「法皇」は「恋人」カード全体を見ている、指し示しているように見え、その中でもとりわけ、「恋人」カードの天使(キュービッド・クビド)に視線が注がれているのがわかります。

「恋人」の天使の図像の意味は、様々に考えられるのですが、「恋人」カードには、ほかに三人の人間たちも描かれており、これとの対比で見てみますと、天使は(通常の)人間とは異なる存在や性質を表していると考えることができます。

簡単に言えば、「人間」たちが、普通や常識、目にみえるようなことを意味し、「天使・キューピッド」がその反対の、普通ではないもの、常識外のもの、目に見えないようなことを示していると取れます。

「法皇」は、先述したように、この天使に注目しているのであり、「法皇」が話すこと、伝えることなどを意味するのであれば、その重要性は、天使側の領域にあるのだと言っているように思えます。

これには、いくつかののこと(意味・示唆)が考えられます。

ひとつは、話す主体(つまり「法皇」)は、天使を意識して話せということです。この場合の天使は、外側や仮面(見てくれ)、常識的条件で計るような自分、エゴのような自分ではなく、純粋な部分の自己、高次の自分を象徴していると想像できます。

また、これは、話し手自身のことだけではなく、話す相手、話される対象側の人間においても、見えない領域が意識されることを含むと取れます。

いわば、話すほうも、聞くほうも、見えている人間に向けてコミュニケーションするのではなく、見えていない部分の本当の自己同士のコミュニケーションをすることで、通常のコミュニケーションを超えた作用がもたらされることを表していると思えます。

同時に、私たちは、言葉(外に現れるもの、形や音が聞けるもの)以外の要素でも、コミュニケーションしている(話をしている)のだということも、ここからイメージすることが可能です。

それから、話さなけば、天使の矢が動かない(放たれない)ことがあることも、想像できます。

それは、誰かに自分の気持ちをきちんと伝えないと、縁が現実的に発生したり、動いたりしにくいということです。

現実の世界は、「恋人」カードの三人で示されるような、言葉や形(音で確認したり、目で見たりすること)でコミュニケーションがなされる世界です。

それこそ、願うだけの天使任せ、神様任せみたいなことでは、何も現実が変わらないということはあるわけです。

天使を動かしたければ、実際に言葉にすること、文字で表すこと、行動で示すことが、言われているのではないでしょうか。

しかも、天使の意味をもっと考えれば、自分自身とのコミュニケーションにおいても、偽りの気持ちや、ごまかしでいては、本当の通じ合いができず、いつも、他人の顔色をうかがって生きねばならない(「恋人カードの真ん中の人物と、両端の二人の人物の様子を見てみましょう)ことが伝わってきます。

実は、話すということについては、チャクラとの関係も含めて、「法皇」のその前のカードたちとのつながりやシンボルが描かれているのですが、それは口伝や秘密として、隠されている状態です。

とにかく、「法皇」と「恋人」を見て、単なる表面的なコミュニケーションや話し(方)だけではなく、もっと別の次元の話し、コミュニケーションがあることを意識すると、自分が本当に話したいこと、伝えたいことがわかってくるでしょう。

聞くだけばかりでもダメで、話すばかりでもいけませんが、それでも、自分の話したいことを話すのは、人として、自分を大事にするということにおいても、大切だと思います。

あのことが伝えられなかったと後悔するより、たとえ自分が傷ついても、人生全般(一生)で考えれば、伝えることに意味があったと思うこともあるでしょう。

そして、一方では、目に見える現実世界では、伝わらなかったこと(伝わらないこと)も、実はすべて、他の世界では伝わっていたということもあり、今はあなたの本当の気持ちがわかってくれなかったとしても、無意識の精神領域、霊的な部分では、すでに通じ合っていることもあるのだと思います。

それは、実際の結果とか、現象とは関係なく、まさに気持ち、エネルギーの伝わりなので、ひとことで言えば、真心(真の心)・純粋な気持ちが通じ合うので、いい意味でも、悪い意味でも隠し事はできない素のコミュニケーションだと言い換えることもできます。(自分と他人だけではなく、自分ともう一人の自己との間でも言えます)

おそらく、そのことは、通常、死後にわかるのでしょうが、生きている間にも、もしかすると、そういう伝わりの部分があるのかもしれないと意識すると、何かが変わってくるかもしれません。


タロットの相反する意味を理解する

タロットカードを活用する時、たいていは、そのカードの意味を理解しよう(覚えよう)とします。

ここで、意味を覚えたほうがいいのか、覚えないほうがいいのかの議論はしません。

しかし、常識的に考えて、意味を覚えないまま、タロットを使うことは難しいと思います。

タロットはその絵柄の象徴性を活用するものだからです。その象徴性を知るためには、ある程度の知識が必要であり、知識というものは、人間生活の中では、覚えることによって活かされるからです。

問題は、覚えた意味を固定してしまうことにあり、象徴を単なる言葉暗記に貶めてしまうのが問題なのです。

さて、そのタロットの一枚一枚の意味ですが、先ほども言ったように、タロットは象徴ですので、ひとつの意味に決まってくるものではありません。

しかも、時々、意味がまったく正反対なのに、同じカードから両方読み取れることもあります。

いや、実は、すべての(特に大アルカナの)カードは、相反する要素や意味を持っていると言ってもよいでしょう。むしろ、相反する意味を見出せない段階では、まだそのタロットカードの理解は浅いものであると認識してもよいくらいです。

例えば、マルセイユタロットでは、「悪魔」のカードがあります。

「悪魔」と言えば、一般的なイメージでは、悪い存在、私たちを悪の道に誘ったり、そそのかしたりするもの、という印象があるでしょう。(第一段階)

一方で、タロットは絵柄なので、その絵柄を観察することによって、出てくる意味があります。例を挙げれば、縛られている(束縛されている)とか、笑っている悪魔や人たちのイメージから、何か面白いこというような意味が出るようなものです。(第二段階)

さらに、その絵柄から出てきた意味や印象と、カードの象徴の詳しいことを学ぶことによって、自らの状況や問いについて考察する視点と言いますか、新たな意味合いも生じてきます。(第三段階、具体例は後述)

この第一段階(つまり、そのカードの持つ一般的イメージとか、名前からくるような常識的観念)と、特に第三段階との間で、相反するような意味が出がちなのです。(時には、第二段階との間でもあります)

「悪魔」の場合、第一段階だと、悪い存在、悪い状態の意味だと思うでしょうが、第二、第三となってくると、それとは正反対の意味、つまりよい状態とか、悪ではなく、正義ということもありえるのです。

これは、「悪魔」の正反対の意味のカードだとイメージされる「正義」と対比すると、さらにわかりやすいかもしれません。

「悪魔」は、詳しくは言いませんが、人によっては、経験したほうがよいこと、悪と思っていることを表現したり、見直したりすることを示している場合もあるのです。

もう少し、わかりやすく説明すると、一般的に悪いことと信じられている概念が、あなたを縛っていることもあるということです。それを「悪魔」のカードが、あなたにわからせようと見させていると考えるわけです。

あなたにとって、本当にそれは悪なのか?

むしろ、逆に、その悪の定義があなたを拘束する縛りとなり、無意識のうちに、自分の自由を狭めていないだろうか?ということも、問いかけられている可能性があります。

正義」についても同様で、純粋な正義という意味そのものは、誰にとっても、いつ・いかなる時も「正義」かもしれませんが、自分にとっての「正義」と、他人にとっての「正義」は別物にもなります。

極端なことを言えば、立場や考え方が変われば、正義は悪と入れ替わることもあるのです。

「悪魔」に戻りますと、一般的に、悪魔は神(あるいは天使)との対比で例えられます。まさに悪いものとよいものの対比です。影と光というイメージでもあります。

ここで、よく言われるように、光は影があるから認識できる(存在する)のであり、両面を見ること(受容すること)が大切というのもあるでしょう。

それはそれとして、こうも考えられます。

(あなたや一般の思う)悪魔は神であり、神は悪魔ではないかと。そう、要するに、まさに正反対だという主張です。

あなた自身、あるいは、私たちが常識的に抱いている悪いこと、「悪魔」で象徴されているものは、神とつながっているどころか、隠された真の神ではないかということ、逆に、よいこと、いい神だと思っている存在・象徴こそが、私たちを縛る悪魔であること、そういう発想も芽生えるのです。

単純な二元の世界観で見ていると、このような発想自体、神を冒涜するとか、悪魔礼賛につながるとか言って、忌避されるものでしょう。

しかし、そうした疑いも「許されない」という思い自体が、それこそ悪魔につながれている状態かもしれないのです。

「悪魔」と「正義」を例にしましたが、ほかにも、タロットカード(マルセイユタロット)は、同時に、それぞれ相反する意味はもとより、多重の意味を想起することができるように設計されています。それは象徴となるよう、意図的に絵柄が作られて)いるからです。

言ってみれば、一度、私たちは自分の思い(常識・信仰・理解したと思っているもの、思い込み)を、タロットの象徴を通して解体し、もう一度再構築することが、タロット活用の目的のひとつなのです。

再構築していく中で、偏りのない純粋なのもの、さらには真理というものが見えてくるかもしれません。

もちろん、人は思い込みや自分のストーリーをもって生きていく存在です。その意味では、まったくの中立とか、真理に目覚めるということは難しいでしょう。

ただ、それでも、認識の誤謬による諸問題は、たくさん起こっているはずですから、タロットをもってその修正に役立てることは、少なからず、できるはずです。

そのためには、タロットの絵柄だけからのイメージ想起だけではなく、きちんと象徴の知的理解が求められます。

そうしないと、感情によって左右されてしまったり、常識的定義に支配されてしまったりして、「悪魔」のカードは悪いもの、「13」は死神だから、怖いことが起こる意味だと、単純なひとつの偏った意味、もしくは感情的に信じ込んだ意味で覚えてしまい、自己(の精神や魂)を解放・成長させていくことに、使えなくなるのです。

タロットなんて学ばなくてもできる、象徴の意味を知らなくてもOKと言っている人は、ただ絵のついたインスピレーションカードだと、タロットを決めつけているからです。

あるいは、遊び気分でタロットを使っており(それが悪いことでありませんが)、真剣にタロットの象徴性を(知的に)学ぼうという精神がなく、言い換えれば、難しいことや勉強するようなことまではしたくはないという、快楽的気分によることがあるでしょう。

そうだとすれば、何もその人は、使うツールとして、タロットでなければならない理由はないと言えます。

話を戻しますが、タロットの理解が深まれば深まるほど、カードからの多重の意味を見つけることができるようになります。

それには先述したように、相反したり、矛盾したりする意味もありますが、奥底では、つまり象徴の根源性としては、どの意味も間違いないではなく、すべてつながっている、同じものなのだということがわかってきます。

そして、そういう学びや気づきの過程が、あなたの認識を変え、霊的な成長へと推し進めていくのです。

本来、タロット(マルセイユタロット)は、そのためにあると、私は考えています。


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