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マルセイユタロットを教えたい人のために
マルセイユタロットは、最近は使う方も増えてきましたが、まだまだ日本ではマイナーと言えます。
以前にも書きましたが、独学するにしても、まず、マルセイユタロット関係の日本語の本があまりありません。
最近、サビアン占星術などで有名な松村潔氏の「タロットの神秘と解釈」や、幽体離脱を研究されている大澤義孝氏の「タロットの謎」というマルセイユタロット関係の本も出版されましたが、どちらも面白い本てはあるものの、オーソドックスにマルセイユタロットを入門から学ぶのには、不向きなところがあるかと思います。つまりは、一定のマルセイユタロットの基本知識があれば、より深く楽しく読める本だということです。(あくまで私の印象ですが)
かといって、ほかのタロットと同じように解釈できる入り口的な本も、それは何もマルセイユタロットでなくてもよいので、やはりマルセイユタロットを独学するには物足りないところがあるでしょう。
ということは、マルセイユタロットを知る人に教えてもらうのが、遠回りなようで、一番早いと考えられます。
しかし、先にも述べたように、タロット界においても、マルセイユタロット自体があまり普及していない現状では、使い手はもとより、教え手も少ないのは当然です。
そして、これはマルセイユタロットに限らずですが、教え手の方は、皆さん、まったく同じことを伝えるのではありません。そこには個人の体験や解釈、いわば教える人の個性が出るわけです。
教える人の中には、知識よりの人もいれば、リーディングや占いの実践に重きを置いている人もいますし、自分の信じている考えや思想を、タロットに置き換えて伝えている人もいるでしょう。(例えば、僧侶がタロットを使って仏教の道を伝える、スピリチュアルなことをタロットを通して教えるなど)
さらには、学ぶ側、教えられる側の人にも個性や好みがありますから、結局、人を介してのタロット学習とは、考えてみれば、極めて偶然(のような必然)が重なっての選択ルートを通って、つながった関係だと言えるのです。
特に、マルセイユタロットはニッチなだけに、そこに至る道は、あみだくじ的に言えば、いくつもの線と橋を通過してつながったものと例えることもできるでしょう。
そういう迷路を通っての出会いも、宝探し的で面白いものですが、逆にもっと広い道のルートがあってもよいかとも思います。
それは、言ってみれば入り口の扉を大きくするか、多数にするかになってきます。
このうち、後者の多数にするというものでは、例えば、私のことで言えば、私一人だけで教えているより、タロットを学びに来てくれる方がさらに発展して、自分でも教られるようになるほうが、より多くの人の目にふれる機会もあるわけです。
そういうことで、私は数年前より、マルセイユタロットを教えられる人の育成も考えるようになりました。
教える人を教えられるほど、自分が優秀だとは全然思いませんが、それでも、現状、少ないマルセイユタロットの教え手を、もっと拡大させる一助にはなれるのではないかと思っているところがあります。一応、私も曲がりなりにも、それなりの年数で、それなりの人を教えてきた自負と経緯がありますし、マルセイユタロットへの思いと情熱には熱いものがあるからです。
教えるということは、実は、意外に難しいものです。スポーツなどでも同様だと思いますが、実践の経験が豊富であったり、優れた結果を残している人であったりしても、教える技術はまた別ものになります。
名選手、必ずしも名コーチ・監督にはならないように、あまりに実践で優秀すぎると、普通の人の気持ちや学びの感性が、本人(名選手)にはわからないことがあります。特にいわゆる天才型の人は、自分が簡単にできてしまうので、なぜ、それができてしまうのかを説明しにくくなるわけです。
タロットはまた、感性や感覚が重視されがちですが、人は思考と感情がセットで納得できた時、本当に腑に落ちたような理解が可能になりますので、感性・感情面だけでは、わかりづらいところもあるのです。
反対に、知識・頭の思考ばかりでは退屈で、うんざりしてきます。いわゆる“お勉強”は誰でも嫌なものですよね。(苦笑) 従って、その両面をバランスよく見て、教える必要があります。
つまり感覚だけ、知識だけ、経験だけで教えても、伝わりにくいところがあるということです。
タロットの中でも、マルセイユタロットは独特の知識と経験を有し(必要とし)ます。それは、先述したように、知識を得ようにも、それが書かれたものが少ないうえに、使い手そのものが少ないので、使い方や教える手法も、あまり世に出ていないことがあるからです。
幸い、私はマルセイユタロットの使い方は当然として、教え方、効果的な学習法なども、基本はもとより、独自なものまで追及してきたところがあります。まだ習っている比較的早い段階から、すでに教えることを意識した学び方をしていたこともあります。
ということで、マルセイユタロットを使い、そしてそれを教えたいという目的や希望のある方は、ぜひ、こちらの門戸を叩いてほしいと思います。
ただ、私がマルセイユタロットを使い、マルセイユタロットを教えてるのも、ここで何度も書いているように、占いがメインではありません。ですから、あくまで占い師になりたい、タロット占い師の師範になりたいという方を指導するものではないのです。
マルセイユタロットに描かれている、内在する神性を開花し、それぞれ自らを高めていくため(究極的には人類の調和的発展)の目的でやっています。もちろん、その目的をもって、「占い」という方法を選択されるのも、人の自由ですが、趣旨(目的)が異なれば、占いの選択はない場合もあります。
私のところでは、教え手の方は、基本、独立を目指すことを想定しています。独立とは、簡単にいえば、自分ひとりでマルセイユタロットを教えていくこと(プロデュース・マネージメント)ができるということで、それはビジネスの形もあれば、ボランティアの形もあり、それはその人の選択によります。
しかし、そのためには、いきなり一人で、すべて一からやるというのは、大変なことです。
前に述べたように、教えること自体の技術・知識もいるからです。最初からそれらの自信があって、ひとりで全部できるという人は、別に入門したり、指導を受けたりする必要はないと思います。
どなたかに学んだり、本を読んだりして、基本を身につけ、リーディングなどで実践し、教える自信と方法があれば、自由に(教えることは)やればいいと私は思います。
ですが、知識と実践の経験はあっても、それを教えていく、伝えていくというのには、モデルや型、指導が必要という人もいらっしゃるわけです。むしろそのほうが普通かと思います。
そういう人のために、私は力になれればと思っているのです。教えることがある程度できるようになるまで(独立の自信がつくまで)、指導していき、あとは個性を活かして、自分なりの方法でマルセイユタロットを伝えていってくれればと思っています。
すでに語ったように、教えることにも個性がありますので、基本は同じでも、自分がマルセイユタロットを通して伝えたい本質と、それを表現する講義の方法に、自分なりの工夫とアレンジ、オリジナリティを出していただければよいかと思います。
実践をバリバリやるより、教えることのほうが向いている人というのがありますし、それ(向き不向き)自体が自分ではわからないところもあります。
最初は教えることなんて全く考えていなかった人でも、やっているうちに、これを人に伝えたい、教えたいという気持ちが出てくる場合があります。
またリーディングを多くしていると、「あなたにこのタロットを教えてもらたい」と、クライアントから言われることもあります。
それは、あなたのリーディングによって、クライアントが感動し、自分もこのタロットを学びたい、使いたいと思ったからであり、それならば、目の前の感動を与えてくれた人に教えてもらいたいと思うのも、人の気持ちの自然の発露だと思います。
そう言われて、クライアントの方に対して、教えるからには、いい加減な教え方はできないと思うこともあるでしょう。
そして、意外にも、簡単なものならば教えられると思っていても、いざ、やろうとすると、自分では無意識にやっていたようなことが、教えるとなると、その意味が理解できてない、説明できないことが頻出してくるようになります。
その時はじめて、教えることの難しさを知るのです。誤解されがちですが、何事も、内容が簡単・平易でも、教えることはそれに準じる(簡単な)わけではないのです。それに、浅い段階で教えると、当然背景も浅いものになるので、せっかくのツールも、その浅いままの状態で終わるのです。
伝える人の奥底に深いもの、広大なものがあれば、たとえ、内容的に浅いものを教えていても、人はその背後の深淵さを感じるものです。「これ(タロット)はただものではない」という雰囲気とでもいいましょうか。
もし完璧なテキストを作成したとしても(それはそれですばらしいですが)、内容もあまり知らない人が、それを借りて棒読みで話す人と、テキストを作った者が、感覚的にも思考的にも深いものを感じさせて話す人のものとでは、伝わる効果もまったく違うものになるのはわかると思います。教えるとはそういうことです。
最後に、マルセイユタロットの「法皇」と「恋人」の並び(数の順になります)で配置してみます。
「法皇」は、見ての通り、教え伝える人です。それが、複数の人と天使(キューピッド)のいる「恋人」のカードに向いているように見えます。
ここに、教え・教えられる状況(設定)の象徴性の深さが示唆されていると考察できます。
簡単に言えば、教え・教えられるのも、人(人間)と神、天使との融合によって行われるのです。そう、天と地の邂逅なのです。
マルセイユタロットと関係するものたち
マルセイユタロットには、古代からの密儀や秘められた歴史の象徴性が詰まっていると言われています。
それらは、マルセイユタロットそのものではありませんが、マルセイユタロットが何の目的で作られたのか、何を伝えようとしているのかを考察するうえでは、大変重要なものになります。
ただ、普通では、タロットはカードゲームの一種として作られ、使われたと見るのが正当なものになっていますし、占いに使う道具だという認識でさえ、結構新しい時代のものだと考えられ、やはり、タロットに何かの教義や思想、哲理、宇宙的な法則のようなものを見出すのは、異端といえば異端なのでしょう。
異端といえば、マルセイユタロットに関連するもので、中世ヨーロッパ、特に南仏地方を中心に広く信仰されていた異端キリスト教、カタリ派が思い浮かびます。
同時に、ほぼ同じ時代にヨーロッパで活躍していた神殿騎士団(テンプルナイツ・聖堂騎士団)も、最終的には異端派とされましたから、カタリ派とともに、中世ヨーロッパの裏面を見るには、また、マルセイユタロット的にも、はずせない派・団だと言えます。
私のタロット講義においては、当然ながら、カタリ派と神殿騎士団についても詳しく話しますが、このほかにも、隠されたものとしては、マグダラのマリア(イエス・キリストの妻であったと秘教的にはされている人物)関連の話、それに続く、一連の太古から続く女神崇拝、そして、グノーシス(神性の内在性を認識する教え)、聖杯伝説など、結局のところ、すべてはつながってくる話となります。
元をたどれば、この手の話は、エジプト、メソポタミア地方などの、古代の聖性や儀式、秘匿された高次の知識・智慧に行き着きますし、さらにいえば、最後には地球そのもの、宇宙そのもの、人とは何かということまで考察することになってきます。
ただの絵のついたカードというのに、見ようによっては、はなはだ壮大な世界観が内包されていると言えるのが、マルセイユタロットなのです。
ちなみに、今、日本でもっとも(占いに)使われているカードは、おそらくウェイト版(別の言い方ではライダー版)のタロットですが、そのタロットにしても、作られたのは20世紀初頭の話で、作成した人も団体(組織)もはっきりわかっている代物ですが、マルセイユタロットはそれに遡ることおよそ200年前であり、しかも誰が最初に基盤を作ったのかは、よくわかっていないところがあります。
それだけ、マルセイユタロットは古い時代の、普遍的でいながら、隠された何かを伝えているのだと考えられるわけです。
もちろん、古いものがいいと決まっているわけではなく、現代人の価値観では、むしろ新しいほうがよくて進んでいるという感覚でしょう。
私自身も、無条件に古いものがいいと言っているわけではなく、今の人が失った体系(システム・考え方・認識方法)が昔にはあり、それをそのまま復活させるのではなく、今とこれからに向けて、リニューアル・リバイバルさせ、かつてとこれからを今に融合・統合させて、真の意味でバランスのよい進化を果たしていこうという思いでいます。
そのツールとして、最適なもののひとつに、マルセイユタロットがあるということです。
そして、古いものと新しいものという考え方そのものが、過去から現在、未来へと、直線的な時間の流れで見ていく価値観に沿っています。
時間と空間は密接に関係しており、時間の感覚が変われば空間認識も変化すると予想されますので(その逆も言えます)、古代のものを今によみがえらせること(古代の認識のシステムを今に思い出すこと)は、これもまたひとつの「統合」といえるもので、二元の異質なものが統合されれば、新しい何か(境地・次元)として、一段上に進むことができると考えられます。
古きを知ることは、実は新しい流れに向かうことにもづながるのです。まさに温故知新というところでしょうか。
ところで、カタリ派と神殿騎士団には、日本に関連しての、ちょっとスピリチュアル的・メルヘン的な話があります。
まず、ふたつについて簡単に説明しますと、
カタリ派というのは、人間や世界を物質と霊の二元として分け、自身を浄化し、霊的なものに回帰することを説く、グノーシス的色彩を帯びた中世ヨーロッパのキリスト教異端派を言います。
清める意味のカタリから名前が付けられ、当時は南仏を中心に、かなりの信仰者がいましたし、一種の民衆運動、地域の独立運動のような状況にもなっていました。
一方、神殿騎士団は、キリスト教の聖地エルサレムを奪還するために組織された十字軍を機に、エルサレムの神殿(ソロモン王の神殿)あとで結成され、その後、中世ヨーロッパで大いに権勢をふるったと言われる騎士階級を中心とする組織です。
神殿騎士団は、最終的に異端派とされて、逮捕のお触れが教皇庁から出されましたので、騎士団たちの信奉している教えは、キリスト教(カトリック)のそれではないと噂されています。その教えが、やはりグノーシス的な異端のものであったのではないかと考えられているところがあるわけです。
それで、前世療法をする方に聞いた話では、不思議と、このふたつのどちらかに属していた過去世を持つ、日本人の方が少なくないというのです。
それも、日本の東では神殿騎士団、西ではカタリ派の記憶やデータを持つことが比較的、傾向としてあるようです。
カタリ派の滅亡のことを小説として書いた、佐藤賢一氏の「オクシタニア」という本がありますが、その中で、面白いことに、カタリ派の人が、関西弁でしゃべっているシーンがあります。
日本人は、南仏に、あこがれや憧憬のような気持ちを持つ人もいて、前にも書きましたが、日本の女性に商品の購入者が多いと聞く、南仏発のコスメティックの会社ロクシタンも、そもそも「オクシタニア」という南仏の地域を指す言葉から来ています。(オック語が話される地域)
まあ、こうしたものは単なる偶然や、冷静に考えれば、たいした話でも何でもないのかもしれませんが、マルセイユタロットを愛好する者としては、何かの因果や因縁、つながりを感じるものです。
もう少し、非科学的、メルヘン的な話をしますと、世界にはおよそ、表と裏に分かれる、二元の関係性があり、それは立ち位置というか、好みと言いますか、輪廻転生を過程しても、どうも、表で普通に暮らしたり、支配構造に回る人たちと、裏で支える側とか、秘めていく側に回る者たちがいるように思います。
もちろん、バランス的には、その立ち位置を変えて、過去世から相互に繰り返していることも考えられますが、それでも、何か個人の特質のようなものがあるように思うわけです。
マルセイユタロットを好む人は、このうち、裏や影側といいますか、カタリ派や神殿騎士団のことを見ても、異端として弾圧される側に回ることが多かったので、どうしても、そういうデータを受けついでいるところがあるように思います。
それは、よい面も悪い面もあるでしょう。
もっと細かく言いますと、二元の中に、さらに二元の立ち位置があり、表でも裏の人、裏でも表の人、表中の表の人、裏中の裏の人という次元や立場があるものとも想像できます。
それによって、時には、表面的には裏切り者となったり、スパイになったりというネガティブなこともありますが、深くには、両面のバランスの調整ための重要な役割になることもあり、ポジティブなケースで言えば、異端ながら組織や社会に貢献する人(普通とは違う発想や行動力があることで、発明や革新をもたらすことができる人)になる場合もあるでしょう。
さて、あなたはどちらの傾向にひかれたり、実際の立場として置かれたりすることか多いでしょうか?
そんなことも夢想(笑)できるのが、マルセイユタロットの面白いところでもあります。
占いから離れるタロットの見方
タロットを占いから切り離す方法(占い以外での活用を目指す方法)には、いろいろと考えられます。
タロット占いにもよいところはありますが、どうして未来の予言を期待したり、表面的な欲求にかなう方向や結果を(相談する側が)求め過ぎる傾向が出て、問題の本質に気づいたり、時間の概念を超えた(つまり直線的に未来の結果を知ることを目的とするような態度から離れて、過去や現在にも注目し、それらが関連し合っていることを知る)考察に行き着かなかったりすることがあります。
要するに、形を変えた問題のループに、占い的な使い方ばかりをしていると、陥るおそれがあるということです。
ただ、優れたれ占い師は、よき導き手、カウンセラーである場合もありますので、それは占いの技術を、相談者・クライアントにどう活かすかの問題にもなってくるのですが。
それでも、今回は、占い師側の能力とか態度に注目するのではなく、純粋に技法・技術として、タロット占い的なものから視点をはずしてみる方法をお話したいと思います。
まずはじめに、質問の方法を変えるということが考えられます。
一般的に、占いでは、「どうなりますか?」「どうなのですか?」「どちらがいいですか?」という、状態や状況を判断したり、区別したりするものが多くなります。
具体的には、「あの人の気持ちはどうなのですか?」(私のことをどう思っているのですか?)とか、「この仕事を続けるのか、辞めるのか、どちらかよいでしょうか?」「私の今後(恋愛、仕事、健康、金運など)はどうですか?」という感じになるでしょうか。
これは、人間が生活していく中で、人間として悩みがちな事柄であり、正直な気持ちのままに質問すると出てくるような形式です。ですから、質問自体によいも悪いもなく、普通に悩みを持つ人間であれば誰でも抱くものてあり、それが占い形式では、当然多くなるのです。
占いは遊びの面もあるとはいえ、現場では、まさに生身の人間の、現実で生きていく人の悩みに答えるところでもあり、哲学的な回答とか、あいまいな答えは、ほとんど求められていないのです。だからこそ、質問もストレートで具体的、人間の生々しさを表したものとなります。(ただし、最初の質問は、様子見のための漠然とした質問になることもあります)
ですが、占いから離れることを意図すれば、質問自体を意識的に変える必要があります。逆に言うと、質問を変えるだけで、占い(的)にならなくなるのです。
どう質問を変えるかについても、実は色々とあるのですが、ここでは簡単にひとつ挙げるとすれば、「どうすればいいか?」という質問に変えることを推奨します。
「どうなるか?」「どうなのか?」ではなく、「どうすればいいか?」「どういう状態や気持ちであればよいか?」という質問にしてみるのです。
例えば、「仕事はうまく行くのか?」と質問するより、「仕事をうまく行かせるためには、どうすれはよいか?」とか、「結婚できますか?」に対して、「結婚するにはどうすればよいですか?」などのように、変えるわけです。
やってみればわかりますが、前者(どうなりますか?)の時は、結果や状況の推移を見ようという受動的なものとなり、後者(どうすればよいか?)の時は、解決や処理について、能動的に見ていくことになります。
タロットの場合、前者はカードからの結果の予想を期待することになり(お告げ的)、後者は、カードの象徴・指針をアドバイスとして、自らで創造的に人生の選択と行動をしていこうという傾向になります。
次に、(占いから離れる方法として)カードを読む姿勢(視点)を変えるというものがあります。
普通、タロット占いでは、問題や質問を、出たカードの意味にあてはめて占ったり、リーディングしたりします。
そうではなく、カード自体の象徴性を質問者に問うというスタイルを取り入れます。
端的に言えば、「あなたは(私は)、出たカードである」と、カードそのものを自分視するようなものです。
質問に関わらず、「あなたの今はこれなのですよ」とか、「あなたの問題はこのことがテーマです」として、その「これ」とか「この」に当たるのが、出たカードということになります。
ただし、質問に意味がないわけではありません。質問は、そのテーマを示す導入になりますから、質問することは必要です。この場合の質問は、占い的な、「どうなの(なるの)か?」というものでも構いません。
重要なのは質問の内容より、出たカードの象徴性をそののま自分に投影して、考察するという姿勢です。
例えば、「あの人との関係はどうなのか?」という質問で、(名前のない)13というカードが出たとします。
占い的には、カードの意味合いから、別れるべきとか、関係を終わらすべきということ、ほかのタロット種のこの数を持つカードでは、「死神」と呼ばれて不吉な感じで見ることもありますから、そこからでは、この関係はよくない(結果的に別れること)、相手か自分が傷つくことになるなどと読まれることもあるでしょう。
それでも示唆を得ることはできますが、先述した視点に置き換えますと、別れるとか離れるだけではない意味も出てくると思います。
それには、自分がこの「13」であると想像してみるのです。
この鎌は切るためだけのものでしょうか? もともとは農作物を収穫する鎌ですので、刈り取ったり、耕したりすることも考えられます。
鎌(場合によってはスキやクワ)のふるい方も、人によっては必死でやっているように見える人もいれば、収穫するものを自覚して、淡々と鎌をふるっているように見える人もいるかもしれません。(13に自分の姿を見ることによって、自分の滑稽さや、逆に頑張りも見られて、自らを癒したり、冷静に見ることができたりします)
また自分が、このように骨と皮みたいになっている姿を見て、何をイメージするでしょうか?つまりは服も肉もまとっていない(素に近い姿なっている)のです。
そうすると、素直な自分の気持ちとか、この関係性から得られる大事なものとか、結局は自身の何らかの変容や変革に関係していることだと見えてくるものがあります。
結果ではなく、むしろ過程の重要さに思い至るのです。
それぞれの人で、置かれた環境や個性の違いがあるので、具体的な方策とか取るべき行動は異なってくるでしょうが、それでも13の絵と象徴性から出てくる何か共通したテーマは理解できるでしょう。
こうした、引いたタロットそのものから逆に質問や自分を見直してみる方法は、タロット研究家の伊泉氏らの言葉を借りれば、リビジョン(視点の修正・見直し)的タロットの見方となります。
タロットを精神的、霊的に活用していくには、占い的な見方の方法から離れ、タロットの象徴性そのものに回帰しながら、タロットが私たちに語りかけている、質問していると見る逆の発想も求められるのです。
「愚者」が出れば、「旅行に行きましょう」とか、「自由になるのがいいですよ」と読むのが普通の占い的な見方ですが、逆のタロットから語りかける見方とは、「あなた(自分)にとって自由とは何か?」「君(自分)は、どこに行きたいのか?」と問い、表面や建前ではなく、自らの奥底で、それに答えるものなのです。
感情の表出と共感
私は入り口的に、タロットの体験会をしたり、今はやっていませんが、以前はいくつかのカルチャーセンターでタロットの講義を行ったりしていました。
その時に、まず、タロット(マルセイユタロット)の印象を聞いてみることがあります。
たいていの人は何かを答えてくれるのですが、たまに、まったく何も思わない、感じられないという人がいました。
まあ、初期の頃は、こちらの説明とか、言い方とかがまずくて、わざと抵抗気味にそうしている人もあったとは思いますが、前向きに講座に参加している人の中でも、そういう方がいらっしゃることがあります。
その場合、考えられるのは、ひとつには、絵の印象を言葉で語ることに慣れてないというケース、ほかには、自分の感情の表出を抑圧している人というケースです。
前者は、絵に限ったことではないですが、人前であまり自分のことを言葉にして語るのは苦手という、いわばコミュニケーションの問題です。
たとえ人とのコミュニケーションに問題がないという人でも、「絵」や「シンボル」のような、人間ではない静止像に対しては、どう思えばいいのか、たとえ何か感じたとしても、それをどう言葉にして伝えればよいのか、混乱してしまうことがあるわけです。
これは、ただ言葉にできない、言語化できないというだけで、感じてはいるので、それほど問題ではありません。時間が経ったり、場に慣れて来たりすれば、きちんと言葉に表すことも可能になります。
問題は後者のほうです。すなわち、感情表現を抑圧しているタイプの人です。
怖いことに、これは本人に無自覚の場合もあるのです。
「別に・・・」とか、「「何も思いません」とか、一見、冷静な答えをして本人は納得しているかのようですが、実は、感じていることをそのものを拒否してしまって、それが習慣化し、何も感じないのが普通だと錯覚しているような状態です。
例えれば、ひどい肩こりなのに、肩こりすらも、もはや感じる取ることができなくなるほど、(心が)固まってしまっているというようなものです。
心理的に言えば、これも抵抗や自身の防衛ではありますが、このまま放置すると、身体症状が出たり、いつか限界が来て、抑圧されもののはけ口を求めて、感情と行動で暴発してしまったりすることがあります。
ですから、タロットを別にしても、日常で何も感じないという人は、精神・心の危機が訪れているかもしれないと思ってみましょう。
まだ痛みや悩み、不安など、感情的に揺れ動いて、何かを感じていたほうがましであるということです。
そこで、タロットですが、こういう人でも、タロットの象徴性を知り、思考から入ることで、固まった感情が動きを出すことがあります。
感情を抑圧している人は、思考で補い、頭で考える癖になっていることがあります。ですから逆に、思考からは入りやすく、物事も見やすいわけです。
マルセイユタロットには論理的な観察もでき、ある意味システマチックなタロットと言えます。
このため、感情が最初はあまり働かなくても、頭で見て行きつつ、そのうち、少しずつ、水が浸透していくように、意識や感情に働きかけていく作用が出ます。マルセイユタロットはそのようにできているのです。
この場合、ただ眺めているだけではだめで、さきほども言ったように、思考が働くような作業が必要です。
たとえば、ある課題や実際的な質問を、タロットで読み解いていく(つまりはタロットリーディングしていく)、タロットの絵図の様々な意味の考察を思ってみたりするなどのことがあります。
こういう時は、むしろ自分のことより、他人のことでタロットを展開したほうがよいでしょう。
すると、他人ごとなので最初は冷静に見ていられるのですが、そこに人としての感情のパターンが現れていることに気づいてきます。当初は思考での気づきですが、それが、感情的にもつながってくるように「感じ」られてくるのです。
簡単に言えば、タロットを通しての共感です。
こうなると、堰を切ったように、抑圧し、忘れていた感情が、タロットを見て流れ出します。
急に涙が出てしまったり、怒りや苦しみの感情が放出してきたりするかもしれません。それはタロットを通して、少しずつ防壁していたものが開かれていく、いい意味で壊れていくような感情の現れです。
タロットリーディングにおいても、問題を解決したり、占いとして、何か答えを出したりするものだけではないのです。
その大きな意味のひとつとして、感情の表出、気づきというものがあります。
言い換えれば、クライアントの様々な気持ちを出す(気づく)ためのサポートがタロットリーディングでもあります。
そして、クライアントだけではなく、タロットを読むタロットリーダー側にも、タロットの象徴性を通して、感情がよみがえってくることがあります。
他人をリーディングしながら、自分を浄化していることもあるのです。
相談の場では、同じ体験をしていないと、本当の気持ちはわからないと言われることはあります。
失恋したことがない人には失恋した気持ちはわからない、親の介護を経験していない人には、その大変さはわからない、子育てしたことがない人に、その苦労はわからない、お金で追い詰められたことがない人に、貧乏や借金の苦しみは理解できない・・・などなどです。
確かに、その通りです。私も児童相談所時代、若い時でしたから、結婚もしておらず、当然子供もいませんでしたので、「あなたには、親の気持ちはわからない」と言われたことがあります。
ただ、今にして思えば、それは、本当の意味で相談をしていなかったからだと思います。まだまだ未熟だったのです。もっと言えば、共感の仕方を間違えていたとも言えます。
人はまったく同じ人生の人などいません。誰もが違う人生と経験をしています。ですから、同じ体験のままの共感を求めると、それはもともと無理な話となります。
ではどうればよいのか? それは、個々の体験や具体性に落とすのではなく、抽象度をあげて、いわば、「人間としての悩み、苦しみ、葛藤」として、とらえるのです。
つまり、フォーカスするのは、悩みの具体性ではなく、悩み苦しんでいる人の、その感情そのものなのです。
それができた時、(相談をする)人は受け入れられ、思いが伝わった、わかってくれたと感じられます。
そして、人の気持ちや感情がわかるのは、自分の感情自体に素直になり、それを抑圧せず、表出していくことが必要です。(暴走させることとは別です)
自分の感情に鈍感であったり、自分自身を傷つけていれば、当然、人のことに気遣うこともできません。
マルセイユタロットは自分の心の表出、感情の浄化に役に立つことがあります。
先述したように、自分の感情が抑圧されていても、象徴としての意味を学び、他人のケースを通して、タロットから、同じ「人」としての痛みや喜びを、まさに象徴だから感じ取ることができるようになります。(思考から感情へ移行するう方法)
その人とは同じ体験ではなくても、たとえば「13」のカードが出れば、自分にとっての「13」で象徴できるような感情が沸き起こってくるのです。そこがタロットを使う意味にもなります。(ただ、個人的には、タロットであればどれでもいいというわけではないと考えています)
マルセイユタロットが、心理的な意味でのリーディング効果がある理由のひとつは、こういうこと(タロットの絵から感情にスイッチが入ること)からも言えるのです。
人間関係の問題
相談ごとで多いもののひとつが、人間関係の問題です。
タロットリーディングでも、やはりこの問題を扱うことがあります。
タロットの場合、タロットそのものを人間と見立てて、関係性を客観視することもできますし、その関心の方向性や内容についてまで、タロットの象徴性を利用して、本人にはわからないことも推測することができます。
これは恋愛の好き嫌いの状況判断から、家庭、学校、職場のリレーションシップまで、タロットで見ることのできるもの(ただし、あくまで象徴とタロットからわかる予想の範囲で、です)は幅広いです。
それはともかく、人間関係の問題は、人がひとりで生きているわけではありませんから、人間である限り、ずっといつもつきまとうものです。
ですから、実践的にも、心理的にも、いろいろな方が様々な方法・対処の仕方を人間関係の問題において考えられ、披露されています。
それらを読むだけでも、実は結構な指針となったり、解決の糸口をつかめたりすることがあります。
人間関係の問題は、人が人たるゆえんに起因しており、それは、簡単に言えば、人はだれかと一緒にいたい、他人に理解してほしい、分かち合いたいという共同や共感、愛着の欲求がある反面、一人にしておいてほしい、パーソナルスペース(自分のスペース・平穏)を乱さないでほしい、人とは違う部分で一目おいてほしいという、相反するような欲求もあるからです。
まあ、言ってみれば、ひとりだと寂しいのに、自分という個人、一人を尊重してほしいというわがまま性が、誰にでもあるからなんですね。人間とは困った存在です。(笑)
結局、そのため、たいていのアドバイスとしては、人間関係を割り切る(区別する)か、愛をもって自分と他人をあまり区別しない方向に持って行くかのふたつの方法がメインとなってくるのです。
前者(割り切り)は、仕事のためとか、たまたま集められた人たちだとかと思って、自分を守るために他人とは区別してつきあい、必要以上にお互い干渉し合わないという方法です。
意識としては、自分の方に強く向いていて、ひたから「自分」のスペースの快適さを、心の内から確保していくというやり方です。
後者は逆に、自分と他人とは違う存在ではなく、痛みとか喜びとかを共有できる同じ「人間」だとして扱い、平たく言えば愛をもって、他人に接するというような方法で、できるだけ、自分と同じ部分を他人のうちに見つけていくことで、共感を得ていくというやり方です。
これは意識では、自分よりも他者に向かうという感じで、ちょっと修業的なところもなきにしもあらずですが、うまく行けば、人類みな兄弟という感覚になり、他人がどうあれ、自分の心理(気持ち)としては、理想的な環境を得られやすくなります。
どちらがいいかですが、通常は、前者の道を選択するほうが楽だと思います。
自分が壊れてしまえば元も子もありませんから、他人に気に入られようとするより、自分が安心安全であること優先して、まずは自分の身を守ることをするわけです。
だからと言って、別に他人に冷たくしたり、孤独でなければならなかったりというわけではなく、公私混同をなるべく避け、一緒に活動することが円滑にできるよう、礼儀と必要な関係構築だけはしておき、それ以上のプライベートなことに関わったり、親密になろうしたりするようなことは、自分が嫌ならば、特にしなくてもよいということです。
それでも、他人からいじめを受けたり、理不尽な関係性を要求されたりすることはあります。自分で自分を守れない時は、ほかの誰かに助けを求めることも必要となります。
そしてこれも割り切りの道のひとつですが、関係性があまりに苦痛な場合は、そこから立ち去るということも選択に入れます。
確かに、仕事とか住居の場合、なかなか転ずることは難しいこともありますが、それでも、自分が壊れるよりましで、思い切って移動してしまうということはありかと思います。
兵法でも、有名なことわざ、「三十六計逃げるに如かず」と言われるように、逃げたもの勝ちという場合もあるのです。
生き方や過ごし方は、自分が思っているより、いろいろな方法はあるものです。もしかすると、これまでのあなたの生き方よりも、もっと楽でよい道があることを、人間関係の悪さで、天が示してくれているのかもしれません。
人間関係に限らず、ひとつ(ひとり)だけにこだわるのは、苦痛の原因となることが多く、ほかの場所や方法、人間はいくらでもある(いる)のです。たまたま、今のあなたには合わない場所、人がいたということだと思えばいいでしょう。
※ただし、心理的・霊的には、パターンやデータとして、自分の中に根源の問題があって、それに気づくために、同じような問題がどこにいても起きる場合があります。
とはいうもの、実際には割り切るのも簡単なことではありません。
それは、今、特に人間関係に苦しんでいないか、他人からどう見られようと大丈夫だという強い自立心を持っている人くらいが、「割り切ればいい」と簡単に言えるのです。
特に注意したいのは、若者、学校に通っている子どもたちに対してです。
「学校で友達なんかいなくていい、一人で淡々と過ごしていればいいんだ」みたいなアドバイスをする人がいますが、それは大人からの視点だからできるのです。
思い出してください、学校にいた頃を。自分は一人でいいと割り切って過ごすことが、どれだけ困難なことであるかを。
今もどうかはわかりませんが、体育の時間とか授業においても、いろいろな場面で、人と組になったり、グループを組まされたりします。それも、子どもの自由性を尊重しているのか、「自由に好きな者同士で組みなさい」とか言われることがあり、それはいじめを受けている子、友達がいない、作りにくい子には地獄のような仕打ちです。
そもそも周りの視線が気にならないくらいなら、人間関係で悩むようなことはないのです。それは大人の場合でも言えるでしょう。
友達を作らなくていいのではなく、「・・・しなくてはならない」という観念の縛りを解く説明と理解(認識・自己改革)がいるのです。
先述したように、人は誰でも、共にいたい、自分を人に理解してほしい、愛し愛されたいという気持ちがあるので、誰も友達や話す相手がいないということは、それだけでつらいものなのです。
安易に「友達は必要ない」という助言は、言い方を慎重にしないと、学生には、特に誤解されるおそれがあります。
そういう意味では、やはり、ひとりひとりの心のケアや、自己と他人のバランスのために、学校以外、仕事以外でクオリティが発揮できたり、尊重されたりする時間・空間、人間が必要かと思います。
また、割り切る方法(自分と他人の責任と自由性の範囲を正しく理解する方法)を実践的に教えてくれる講演・セミナー、話し手、その心境を構築してきた経験者から伝えられる機会が、学生時代からあればいいかと思います。
個人的には、中二病のようなことも、精神衛生上では、時にはあってもよいかと考えています。あれは一種の自己防衛でもあるのです。
大きな話で言えば、おそらく、人間は個として自立したり、強くなったりする必要性が霊的な流れとしてあり(つまり分離の流れ)、それが確立したうえで、今度は統合に進むのだと考えられます。
人間関係での衝突・悩みは、私たちが個性を持つがために(成長の意味でも)起きることで、まだ認識が低いレベルでの自分と他人というもので止まっているからだと推測されます。
マルセイユタロットでも示されているように、統合の前には、分離として、それぞれの性質を深く認識できる状態が前提となります。
私たちが人間関係で苦労しているのも、大きな理由で言えば、人類の進化のための過程で起こっていることだと考えられます。
しかしながら、すでにその流れはそろそろ反転していてもいいかと思います。
その意味ては、割り切りの対応もいいのですが、そろそろ、自他が融合するような、愛の方向性で、人間関係も変わっていくとよいかなと願っていますし、きっとそうしたものに、今後はなっていくものと思います。
もちろん、ただ放置するのではなく、ひとりひとり、自他の調和を心がけることも、その進化の度合いを加速するうえでは重要かと考えます。
つまりは、現実的対処(それはそれでOKで緊急の場合はよいと思います)のさらに奥の、高次で霊的な視点の目覚めが求められてくるように思うのです。