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自分の信念(体系)を治癒するもの
今年の夏は異常に暑く、体調を崩す人も多かったのではないでしょうか。
そして、いまだ体調が思わしくない人もいらしゃるかもしれません。
私も昔は暑さには強いほうと思っていたのですが、そこそこの年齢になってきて、普段、あまり体力的なケアをしていないこともあってか、今年の暑さはかなり堪えています。いろいろと体に不調が出て難儀していたところです。
まあ、私の信念体系の中のひとつに、「自分は体が弱い」というものが入っているので、何かとその通りになるわけで(苦笑)、これもいわば、自らのせい、自分が起こしているといえばそうなのかもしれません。
ただ、自分が大変さを経験していることもあり、信念うんぬんはともかく、何か起こっていることで、つらい、苦しいという問題状況にある皆さんの実際の気持ちは、よくわかるものです。
たとえ心のデータがそれを起こしていたとしても、痛さやつらさへのケアも必要になります。
こういった信念体系(平たく言えば思い込み)は、実際に何か「あること」が生じて、その印象が、心のデータに刻み込まれるという仕組みがありますから、まったくの妄想や事実とは異なる想像によって、というものは少ないかと思います。
要するに、その人の思い込みは、それを信じ込むに至る何かの事象があったわけです。
ただ、それが、それ以降の人生にも「事実」として必ず法則のように起きるのかというのは、また別で、最初に起こった時はまさにそうであっても、その後も、すべてはそうなるとは限らないという、打ち消しデータが入らず、消されなかったということですね。
強い信念・思い込みになるためには、繰り返しも重要で、人間、三回、同じようなことが起こると、「これは偶然てはない」と思い、四回目になると、「これはもう間違いない」と確信します。(必然、運命であると思い込む)
私の場合も、実際に一般の人より、自分の体が弱いと思える事柄や事件を積み重ねてきたところがあるから、信念となってしまっているわけです。(笑)
そんな中で、その強化された信念体系を崩していくのは容易なことではありません。
なぜなら、それは、その人自身の個性やアイデンティティにもなっているからです。ある信念を抱くことは、今までの自分の歴史の証明みたいなもので、自我として、「わたし」であることを強く意識させているもののひとつです。
信念を失うことは、自らの歴史を手放すようなもので、つまりは、守ってきた自分を捨てることでもあります。
それが不幸や失敗、生きづらさを現状では引き起こすことが多くなっているのに・・・です。
もういらない信念、バージョンアップや浄化・消去しなければならない潜在的なデータは誰にでもあるものてすが、なかなかこれの処理がうまく行かないのも、まず信念だと気づかせないようにする働きもあるからと考えられます。
こういったデータの気づきや変換、浄化は、心理的な専門家やスピリチュアルな方のサポートでうまくいったり、自分自身がそうした(内的)構造を学んだりすることで、活路が開かれることはよくあります。
やっかいなのは、自分自身のデータ・信念だけに終わらず、それがいわば、人類の集合的な(無)意識の構造ともつながってしまっていて、自分の気づきだけでは処理しきれないことがある場合です。(一度変換・消去したと思っていたのが、再発するようなもの)
まあ、これも先に集合意識のデータがあり、それと似たような環境や事件、問題に遭遇したがゆえに、自分の個人的部分と共鳴して、集合的意識のデータが自身に強く刻み込まれたということも考えられ、後先(原因と結果)が逆だとも見込まれるのですが、どちらにしても、結果(現れている問題状況)としては同じだと思います。
このように根深いものとつながっているものは、通常意識の部分ではどうすることもできない(行動したり、判断したりはできるものの、根本の浄化にふれられない)ことが多く、それは結局、神性的な何か、いわゆるスピリチュアルでいう高次の存在、エネルギーによらねばならないことがあると考えられます。
いや、そもそも通常の意識は、起こっていることを感情的、あるいは思考的にただ味わうか、せめて信念を言葉(つまり人間的思考)としてつきとめるくらいだけで、その根の部分の浄化や消去、変換自体はできないのではないかと思われます。
たとえカウンセラーやセラピストなどの方に手助けしてもらうにしても、最終的に治癒を施すのは、自分自身の神性的な部分、力でないかと想像しています。
これをもし、マルセイユタロットで表現するとすれば、「力」「吊るし」「13」「節制」の数の順に並ぶカードたちになるでしょう。
中でも、「吊るし」の状態が重要で、ある程度の探求(原因追及)のあとには、すべてを内なる神性に任せる、ゆだねることにより、神性的な「力」(フォース)が発動し、自身だけではなく、集合的意識の部分まで介入し、そぎ落とし、浄化し(13)、救済が働く(節制)と見ることができます。
しかし、人は、いきなり、ゆだねる気持ちになりにくいのもありますから(疑いや不安がつきまとうもの)、先述しように、通常意識・表面意識での、無駄とも思える探査とか追及をしていくことで、最後には、ついに、自分をゆだねなければならない心境になることがある気がします。
もちろん、最初から瞑想的な境地になり、すべてを大いなるもの、神性的なものにゆだねられる状態になる人もいるでしょう。
結局、その人に応じた気づきや浄化のプロセスというものが、すでに組み込まれているのかもしれません。
またサポートしてくれる人との出会いも、縁や見えない自分自身の内なる働きがあり、一回ですべてよくなるとか、その人がすべて苦しみを取ってくれるなどというのは「悪魔」的であり、自分の「神の家」(神性)に気づくためには、むしろ、自身の力を(段階的に)目覚めさせるサポートがよく、一回ですべて解決することが必ずしもよいとはいえないと思います。
それはタロットリーディングにも言えることではないかと、私は思っています。
大アルカナを小アルカナ化する。
タロットは、通常78枚あり、大アルカナと小アルカナというパートに分かれています。
マルセイユタロットでは特に小アルカナの数カード(数札)の絵柄が記号的(それでも記号ではなく象徴ですが)なものになっていることもあり、意図的に大アルカナと小アルカナに違いを持たせていると考察することができ、私は講座では、このふたつのアルカナの違いを明確に意識しつつ教えています。
しかし、タロットへの考え方、扱い方は、それこそ扱う人の数だけあると言ってもよく、大と小を区別なく使う方もいらゃっしゃいますし、絵柄から見ても、その違いがあまり意識されない種類のタロットもあります。
前述したように、私は両アルカナを区別していますが、それは、使い方というより、使う目的により違えていると言ったほうがいいかもしれません。
ここでも何度か書いているように、私は、大アルカナは天に向かう方向、言い換えれば現実からの開放や離脱を目的にするアルカナたちで、小アルカナは、反対に地に向かう方向、地上生活に適応するための便宜的な指針を得るアルカナたちと考えています。
私自身は、人生の目的が、すでに大アルカナ的なものになってきておりますので、自分に対しての小アルカナの活用をあまり重視していないところがあります。(他人リーディングでは別です)
ただ、人の好みは、その魂の目的も含めて、まさに人それぞれでしょうから、きちんと小アルカナについても、講座ではお伝えしておりますし、それを活用して、現実生活を充実させていくことにタロットを使うのもよいと思います。
それで、極端に現実・地上生活に、タロットの指針を活かそうという人は、やはり、タロットカードの全セット(デッキ)、つまり78枚のフルセット、フルデッキを積極的に使っていくほうがよいと思います。
従って、その場合、絵柄に大と小のあまり区別のないタロット種を使うのがよく、マルセイユタロットのことをここで書いていてなんですが(苦笑)、そういう目的の人は、マルセイユタロットではないタロットを選択すると、目的とツールがなじむ(適合する)のではないかと思います。
まあ、不思議なもので、自分に合うタロットの種類を自然に選んでいるもので、たとえ最初に選択が違っていても、学んでいる途中、あるいは最初から違和感を覚え、自分にふさわしいタロットに変えていくことは、実際によくあることです。(ですから、今使用したり、学んだりしているタロットに対し、違和感が激しい場合は、タロット種を変えることも検討すればいいと思います、習う先生も、そのタロット種を使う専門の人に変えるとよいです)
タロットで現実をよくしたいと願う人は、いわば、小アルカナ的な世界観でもって動く人になり、だからこそ、メインは小アルカナの活用が望ましく、もっと言えば、大アルカナを小アルカナ化することで、さらにカードの象徴性を具体化することができます。(現実に活きてくるということ)
大アルカナを小アルカナ化する方法は、いくつかあるのですが、まずは、さっきも述べたように、逆の発想になりますが、小アルカナの絵柄が大アルカナとあまり違いのないものになっているタロットを選ぶとよいです。
一見、これは小アルカナの大アルカナ化のように思えるでしょうが、実は逆で、マルセイユタロット的に見れば、小アルカナ(特に数カード)に大アルカナのような絵がつけられた感じになり、結局は絵によって、象徴性がより具体的になっているわけで、モノ的なカードの数が増えたことになって、実情は小アルカナ的なものが増加したことになるわけてす。(小アルカナは具体的世界を象徴しますので)
もうひとつは、大アルカナを4組に分けて活用するという方法があります。
小アルカナの基本の枠組は、四つのグループに分けられていることです。それは四大元素(風・水・火・地)をモノとして象徴化した形です。(剣・杯・杖・玉、一般的な名称ではソード・カップ・ワンド・コイン)
一方、本来、大アルカナは、この四大元素を超えるものとして認識しなくてはならないのですが、あえて大アルカナの小アルカナ化となれば、大アルカナを逆に4組に分けるということが方法論として出てくるわけです。
しかし、大アルカナは22枚あり、4組に分けるとしても、割り切れません。そこで、「愚者」と「世界」の二枚を例外のカードとし(その二枚はオールマイティ扱いとする)、残りの20枚を5枚ずつに分けることで、4つのグループに配分することができます。
どの大アルカナを、どの四大に入れるのかは、これも様々な考え方があるので、一概には言えませんが、四大元素の性質の特徴や象徴が色濃く描かれているものを見つけたり、例えば天使や壺が水、剣が風のように、もともと大アルカナの中に描かれている四大元素の象徴を取り出して、分けてみるのもありでしょう。
ほかには、意味を具体化することによって、大アルカナを小アルカナ化することもできます。これは、さっき述べた大アルカナを4組に分ける方法とはまた別のやり方で、大アルカナを4組の意味に置き換えます。
つまり、剣・杯・杖・玉の4組別に、さらに大アルカナの22枚に意味をつけていくという方法です。
例えば、玉はお金や経済を示すものとして、そのお金に関する典型的な意味を、大アルカナの絵と象徴性を利用して、22枚別にあてはめると同時に、数カード10枚別にも細かな意味を設定し、宮廷カードにも人物的な意味を付与しておきます。すると、お金の問題には、誰がいつどうすればよいかという、具体的方法や解決策が自動的に出てくる(占える)ようになります。
こういった大アルカナの小アルカナ化は、まさに占い向きであり、どんなことが起きるの(現れるの)か?とか、どうすれば(現実の意味で)幸せの道が選択できるのか?といったことに、非常な効果を発揮すると考えられます。
それはもともと、絵柄としてある(絵のつけられている)大アルカナの具体性に(断っておきますが、大アルカナの本質は抽象性にあります)、小アルカナの細分化する具体性が加わって、いわゆるカードがモノ化、言葉化するために、この現実世界に適用するシンクロを起こす(具体的なシンクロ性に気づく)からと考えられます。
つまり、現実のサイクルや流動を、日常的なものや言葉で具体化・可視化することになって、現実の運命の波に乗りやすくなるわけです。
言っていることがよくわからないかもしれませんが、具体的な言葉やモノとしての絵があれば、日常もイメージしやすいので、普通の生活での(通常意識では気づけなかった)運命の流れや関連性、気づきが発見されやすいということなのです。まあ、平たく言えば、カードが示す内容が、当たると感じることが多くなるということです。
これは、言ってみれば、日常に適応した特殊能力を持ったり、第六感的な新しい感覚器官を持ったりすることに近くなるのです。(しかしあくまで、現実の範囲内でのもの)
小アルカナ的に使えば使うほど、現実との適合精度やシンクロ率も上がってくると思えますから、ますます、タロット使いが未来予測や幸せ選択のエキスパートになってくるかもしれません。
ただ、自分のために使用すると、欲やエゴが強くなって、いくら具体的な指針であっても、冷静に判断したり、選んだりすることができなくなることもありますから、人のために使うほうが、効果的だとは思います。それに具体化するテクニックは、なかなか技術もいるものなので、経験や直感性も上げていく必要はあるでしょう。
と、書いてきましたが、私自身は、このような大アルカナの小アルカナ化的な使い方は、好みでもないですし、おすすめしないことでもあります。あまり言いたくはないですが、幻想を強化することになるからです。ここでいう幻想とは、「現実」と皆さんが思っている通常の感覚のことで、インド哲学的にはマーヤーと呼べるものです。
とはいえ、きっと、そうした使い方をしていくと、人生は楽しく、エンジョイできますし、気の合う仲間も増えてくるとは思います。
もちろん、大アルカナと小アルカナを分けて使い、大アルカナメインの方向性を選択していくことも、それはそれで、本人にとっては、別の意味でエンジョイなのです。(笑)
つまりは楽しみの質と方向性が、大アルカナと小アルカナでは違うわけです。
だから最終的には、タロットは、使う人の思い・目的・好み次第と言えるのです。
「気づき」について。
気づきというものは面白いものです。
気がつくのですから、今までは気がついていなかったことを示すわけですが、単に忘れていたことに気がつくという場合もあるので、知らなかったことを知るというニュアンスとは違うところもあります。
そして、私たちは、気づきといいいますと、一回で起こるとか、今気がついたことが「気づき」だと思うことか多いですが、「気づき」は必ずしも一度で起こるとか、今の気づきが最初で新しいものというわけではないのです。
実は、今気づいたことに対する、小さな気づきの過程が、何度もすでに起こっていて、そのことを忘れていただけかもしれないのです。
人によっては、その小さな気づきの最中に、あとで(最終的に)気づく大きなものに、まさに「気づいて」しまうこともあるかもしれません。
一回で大きな気づきを得たという(思う)ほうが、劇的で、さも、その「気づき」がすごいものかのように感じられるので、無意識に、自分の気づきを演出している場合もあると考えられます。
その演出が、細かな気づきや、その過程の忘却という形で行われることもあるでしょう。
例えば、人の書いたブログとか、SNSの投稿で、「私は気づきました!」と書いている内容のものをよく見かけますが、その人の過去の投稿などを読んでいますと、すでに、その気づきの状況は起こっていたり、内容は同じなのに、自分は「気づき」として書いていなかったり(まさに「気づいていなかったり)する場合を見かけます。
他人から見れば、それはもう以前にあなたは気づいていたのでは?とか、すでに前に気づいていても、おかしくはなかったのでは?と思うようなことがあるわけです。
つまりは、本人自身の気づきは、本人でしかわからない、本人のタイミングで起こるとも言えます。(そう自分が演出していると言い換えることもできます)
ですから、いいように考えれば、何かのセミナーを受けたり、学びをしたりしても、一緒にやっている人が、「気づいた」とか「変化した」とか言っていても、それはあくまでその人、本人のペースで起こっていることであり、自分自身はまったく気づきがないとか、何も変わらないと思うようなこともあったりしてもよいのです。
それでも、少しずつ、自分の中(自分のペース)では、ある気づきや変容に向かって、準備が進んでいるということも考えられることになります。気づきというものは、マイペースなのだと思うとよいでしょう。
マルセイユタロットでは、自分を「愚者」と見立て、その「愚者」が21枚のほかの大アルカナカードで象徴させられることを旅したり、経験したりするという考え方があります。(これに基づくと、小アルカナは、さらにその旅や経験の細かな方法など示す、という考えにもなります)
この場合、大アルカナの数の順番とは関係なく見ることも可能で、いわば、21枚のカードを縦横無尽に、あるいはランダムに経験していくとも言え、もし、「気づき」をテーマとすると、その「愚者」が飛んだカードの気づきが訪れる、あるいはヒントや過程になると考えることができます。
タロットリーディングで、自分にとって、違う質問でも、同じカードがよく出る場合がありますが、これなどはわかりやすく、そのカードに関する気づきや学びが、今テーマとなっていると考えることができます。
しかし、そういうわかりやすい形だけではなく、いわゆる気づきの方法や表現をカードが象徴させていることもあり、それだと、カードの種類は違うことが出るのが普通です。
言い換えれば、、ある気づきのテーマや目標に対して、カードはそのステップにおける小さな気づきや、気づくための場所や方法、人物などを表すことがあるわけです。
私たちは、スピリチュアル的にいえば、皆、神性を宿す存在です。ということは、気づきというのは、先にも言ったように低次の自分の生活を劇的にするための演出にしか過ぎず、神性的な高次の自分は、当然ながら、すべて知っているわけです。ですから、気づきという概念そのものが起きません。
わかっている、知っているのに気づくというのは、忘れさせられているか、忘れているふりをしているからです。
また、こうとも言えます。
気づきとは、自分の中のモードのチェンジであると。
先述したように、人間の中には、高次で神性的な部分と、普通で、忘却状態にある低次部分とがあると考えられます。
通常は、後者のモードで生きていますが、何かの瞬間に、前者のモードにシフトしたり、そのほうが強く出たりすることがあり、そうすると、「知っていたということを知る(戻る)」という感じになり、それがすなわち、低次モード側からすると、「気づき」として表現されるものになるということです。
気づくと安心したり、穏やかな自分になったり、癒しや治療が発生したりするのも、元の自分といえる高次の自分の状態に一時的に回帰したからともいえます。
心理的には、自分の不足を周囲に投影して補おうとしますので、周りの人間や物事から気づき(不足していた、わかっていなかったと思えること)を示唆されたり、与えられたりすることもあるわけです。
要するに、それは自己の完全性が、分離しているよう感じているだけの話です。(完全性の中には、光も影も含まれます)
となれば、気づきの方向性は内(に向かうこと)でもいいですし、外(を観察したり、もたらされたりすること)でもいいことになります。
「気づき」も「自分で気づかねばならない」とか、「この自分に起こっていることは何? 何を私に知らせようとしているの? そのことに何とか自分で気づかねば・・・」と、あせる人が見受けられます。
これまで書いてきたように、「気づき」は、普通モードの自分では、小さな積み重ねの結果とか、環境や他人が知らせてくれたり、教えてくれたりすることもあるわけです。
今その時に絶対に気づかないといけないというわけでもありませんし、わからないならわからないで、放置していても、自分のタイミングによって、やがて気づくことがあると思います。
ロールプレイングゲームの世界では、ピースがそろってはじめて、本当のイベントが発生する仕組みになっています。
「気づき」にも、そうしたことがあるのかもしれません。ある条件が整って、大きな気づきが訪れることもあります。
それから、タイミングだけではなく、気づきのレベル(深さ)もあります。
気づいたと思っていたことが、あとで、実はまだ浅かった、それはそれでよかったのだけれども、別の意味もあったのだと、新しくさらなる奥底の(あるいは、上の)気づきに至ることがあります。
てすから、注意点としては、浅い気づきを連発している場合もあって、それは、堂々巡りに近い状態のことがあるのです。
言ってみれば、城の外周ロードだけグルグル回り続け、いつも城があることは見えていて、それが気づきだと思っている状態(最初に城が見えた感激、気づきは大きかったかもしれませんが、同じ気づきレベルで足踏みしている状態)に留まっているわけです。
もうそろそろ、入り口を見つけて、城、本丸に突入していくことが求められているのです。
それは、「気づき」という言葉を、免罪符や逃避に使わないことでもあります。そういう人は、おそらく、自分でも、その気づきはもう卒業して、次の段階の気づきに進まねばならないことは自覚しているはずです。
二階に昇る(あるいは地下に降りる)梯子は見えているのに、そこに手や足をかけようとしない状態です。勇気をもって、気づきの梯子を昇降することも大切になります。
あせらず、深刻にもなり過ぎず、しかし、真摯な態度で、気づきを求めていくとよいでしょう。マルセイユタロットは、その力になってくれると思います。
人間関係と時間
人間関係について、悩む人は多いです。
おそらく相談事でも、かなりメジャーな内容のひとつでしょう。
人間関係と言っても広く、言ってみれば、人同士の関係が生じるものは、すべてそれだと考えられますから、ケースや場面としても多いので、問題となるのも致し方ないところかもしれません。例えば、恋愛にしても、つまるところ、人間同士の関係の問題といえるわけです。
人間関係についての悩みの解消には、いろいろな方が様々な方法を解説されていますから、ここで具体的に述べることはいたしませんが、タロットから気づいた、ちょっとした観点を述べておきたいと思います。
以前、ある方が、「私はもう、自分が好きな人か、自分にとって有益となる人以外とは関わらないことにしました。だって、時間は有限ですから」と述べていました。
これほど、極端ではなくても、確かに、嫌な人、問題ばかり起こす人と、あえて関係を続けているのは、時間の無駄かもしれませんし、何より、体力・精神力ともに疲弊も大きいです。
しかし、プライベートではともかく、仕事ではそういうわけにもいかないのも事実です。嫌だと思っても、相手をしないといけないことは普通にあります。
また、最初は嫌と思っていても、つきあつていけば意外にいい人だったとか、自分にあえて厳しく教育してくれていたとか、最初にはわからない真の関係性もあります。
ましてや、自分にとって有益か無益か、よい人なのか悪い人なのかなど、実は本当のところではわからないものです。当初の印象や感情だけで決めてしまっていては、むしろ、人生の損をしている場合もあるかもしれないのです。
ということで、ここで提案したいのは、時間をキーワードにして、人間の関係性を見てみる、考えてみようということです。
マルセイユタロットで「時間」といえば、「運命の輪」のカードによって、よく象徴されますが、その「運命の輪」からのヒントとも言えます。
私たちは通常、時間はひとつと思っていますが、見方によっては、いくつもの種類があると考えられます。
例えば、誰にも共通している時計時間と、一人一人が心で感じる、いわば精神時間は、時間の流れとしては違うものになっています。
それから、瞬間とか永遠とか、時間のないような世界、止まっている時間というのもあれば、私たちが通常感じる、昨日・今日・明日と一方向に流れる(動いている)時間というものがあります。
それはともかく、人間関係において時間を考えた場合、自分の一生の時間で見るか、ある限定的な時間で見るかによって、その関係性のとらえ方が変わってくるのです。
この場合、時間というより、期間と言ったほうがいいかもしれません。
その人は、一生の時間(あるいはかなりの長期)で見られる人なのか、あるいは、この人は、ある期間限定で関係する人だと見るかの違いです。
前者だと思う人へは、それこそ心や本音、ありのままの自分で対応してもよく、後者だと思う人へは、ペルソナや建前、社会上の役割として関係していけばいいわけです。
これを無目的と特定目的と分けてもいいのですが、それを時間換算するようなものです。
と言っても、初めから明確に区別がつかないこともあるでしょうから、しばらく様子見して、特にやっぱり後者だと判定した人へは、きっぱりと時間限定的な意識を取るとよいです。
もっと言えば、人間関係で悩む多くの人は、時間操作(区別意識)をしておらず、ずっとそれが続くものとして意識のうちに、その人との関係のイメージを残しています。言い換えれば、精神時間で、その人との関係をとらえているほうが強いのです。
これを時計時間にしてしまい、仕事での時間だけ、時計の進む限定時間だけと割り切って意識すること(切り替えること)です。文字通り、機械的に進む時計のようなものです。
精神時間は伸び縮みしますので、つらいと思えば長くなり、楽と思えば短くにもなります。
精神時間的人間関係を続けると、生き生きとして生命のように波を持ちつつも、つらい関係の場合は、普通の時間の何倍もの時間を過ごすかのように感じます。
ですから、つらいと思う関係は機械的に割り切ることが非常に大切で、精神として過度に取り込むと、時間が精神化して、先述したように、時計時間よりも長く苦しい時間をその人と過ごすことになります。
また本当につらい関係の人とは、できるならば、自らを時計時間の関係にしてしまうかのように、限定時間に自分でするという方法があります。
平たく言えば、その人と付き合わない、その人と関係する場所や会社から離れる、辞めるみたいなことです。
タロットの「運命の輪」には、輪の中でグルグル回っている犬と猿、そして輪の上にいるスフィンクスが描かれています。
このうち、輪の中にはいないスフィンクスは、剣を持っており、断ち切ったり、時間を切り取ったりする(限定させる)能力を示しています。
それから、時間限定で割り切るだけではなく、変わった方法としては、期間限定としながら精神時間化することで、すごく濃密な時間を過ごすこともできます。
限定されているから、集中する、燃え上がる、モチベーションが上がるわけです。
実は一生の時間で見ても、一生そのものが今生としての時間限定だとすると、どの人間関係も貴重で、無駄とは言えないのかもしれません。
そして、ちょっとロマンチックになりますが、一生の時間以上の長さで見る関係というのも面白いです。
もし、スピリチュアル的に、過去世とか未来世などを仮定すれば、それも含む時間での関係の相手となると、うまくこの人生(今世)では結ばれなかった(関係できなかったり、別れてしまったりした)人でも、可能性が残されている、希望はあると見ることができます。
ただし、逆に、「またしてもこの人ととか・・・」「もう、うんざり、これは腐れ縁か?」(笑)みたいなものにもなりますので、超長期時間目線では、いいことばかりとは限りません。
今日は時間で人間関係をとらえるという話をしましたが、「恋人」カード的に言えば、自分が選べる人間関係と、自分が選べない人間関係という分け方もあります。
自分が選べる関係の領域を、なるべく心地よいもの、我慢しないものにしておく(断ち切ることも含めます)と、楽にはなりやすいです。
それでも、天の配剤のような、選べない関係というのもあり、それはやはり地上的な見地からだけでは推し量れない、まさに特別な縁、何かの意味があるものなのでしょう。
自分や地上観点だけではわからない関係があるからこそ、人間関係は面白いとも言えるのです。
この世には、自分とまったく同じ人はいませんので、他人との違い、軋轢があるのも当然といえ、そんな中でも、通じ合う、協同するというのは、奇跡を見ているようなもので、そこにエネルギーの反発や交流による、ダイナミックな動きを見て取ることができます。
それはおそらく、宇宙的に非常に大切なエネルギーなのだと推測されます。
霊的に見れば、誰がとか誰にという個別的なことは問題となってこないのかもしれません。違うものの中に同じものを見、また同じものの中に違うものを見る、一人一人の存在を俯瞰する意識が重要のように思われます。
ネガティブを弱めるグッズ
人は想念の世界にも生きていますので、その(想念の)力が現実に作用することがあります。
精神やサイキックの世界では、そうしたことが普通に行われているものです。まあ、もちろん、悪用する人もいれば、よいことにも使えるわけで、力自体は中立であり、要は、その人の使い方次第、つまりは思い方次第ということですね。
皆さんも、心や思い方で、自分が変わって、それに伴い、人生や現実も変わるという話は、よく聞いたことがあると思います。
それだけ、人の持つ想念や心の力は強いものがあるわけです。
しかし、どういうわけか、人間は、ポジティブに思うことが難しく、逆にネガティブに思うことは易しいという特徴があります。
おそらく、これはもともとのことではなく、人間の歴史が作り出してきた、想念の癖のようなもの(になってしまっているもの)ではないかと推測されます。
本来は中立といいますか、むしろ愛や喜びで満たせる(満ちている)存在が人間だと思います。ただ、何かの影響で、不安や恐怖、心配などのネガティブなほうに誘導しやすい心の作用が働くようになっているのでしょう。
それに対抗するには、根本では、ネガティブ思考に舵を切らせている「何か」に気づき、それを浄化・解除する必要があると思うのですが、これはたぶん、一人だけの問題ではなく、人類全体に関わる大きな意識層のブロックがあると考えています。
それでも、一は全、全は一といわれるように、自分の解除が、全体の解除に結び付くこともあるのではないかと思います。
しかし、今日は、そういう全体的な話というより、個人それぞれができる簡単なことを述べてみたいと思います。
まず、考えとして大事なのは、常識を疑うということです。
タロットカードの「吊るし」ではありませんが、逆や反対のことはどうなのか? それは間違い、いけないことと必ずなるのか?と思うとよいでしょう。これはひねくれてやる(自分の正しさを主張するためにやる)のではなく、純粋に、素直に逆さまも考えてみるということです。
みんながそう言っているからとか、それが普通でみんなやっているからとか、そういう「みんな」は現実にはいないもので、いわば集団幻想規範のようなものです。
あなたはあなたという個性を持ち、みんなは違うのがこの世界でもあります。ということは、あなたの世界はあなたにあるわけです。
そうした見方が、ネガティブに誘導されるエネルギーからの解除のきっかけになることもあるでしょう。
あと、具体的には、幸運グッズを持つこともよいです。
あ、これは、よく雑誌の巻末とかに広告で掲載されている、お金を引き寄せる財布とか、恋人ができるアクセサリーとか、そういうものを言っているのではありません。しかし、ちょっと似ているところはあります。(苦笑)
ここで言っているのは、自分がそれを持っていると、安心したり、落ち着いたり、ポジティブになれたりするグッズです。
じゃ、やっぱり幸運グッズじゃないですか、と言われるかもしれませんが、さきほども述べたように、ああいうものと似ていると言えば似ているわけで、しかし、そんな大金払わなくても、たぶん、皆さんは持っていますよ、ということなのです。まあ、劇的な効果を謳うわけではありませんが。
自分が心配になったり、ネガティブになったりする時に、それを握ると安心するとか、それを見ると落ち着くとか、前にピンチの時には効果があったとか、そういうものが、ここでいう幸運グッズです。
むしろ、幸運グッズというより、精神安定グッズ、中立化グッズみたいなものですし、タリズマン(護符)のようなものと言ってもいいでしょう。
お金や恋人を引き寄せるのではなく、ネガティブな思考を中和させたり、それ以上、ネガティブな想念の力を増大させたりしないためのモノです。
これは心、想念の世界に関係しますから、いかに、自分がそれに対して思いがあるかによって、効果が違ってきます。そういう意味では、自分が信じているモノというのが、いいわけです。
例えば、神社・お寺のお守りなどは、霊的な力もあることはありますが、持つ人の想念のリアリティ感(効果がある、あの神社のお守りだからスゴイとかの実際の思い)が、現実に効果を及ぼすとも言えます。
小さいこどもは、それがぬいぐるみであったり、タオルやハンカチであったりします。これは、母親などの代わりになっているもので、その子にとっては、それがないと安心できないですし、あれば、本当に安らぐわけです。
ですから、大人であるあなたにとっても、それがペンでも、石でも、あなたが安心できる、これはすごいと思えば、それはネガティブ思考の防御になるのです。
ちなみに、私は、タロットがそれにもなっています。その効果は大きく、タロットをさわっているだけで、ずいぶんと心が安定するのを感じます。(マルセイユタロットには単なる心理効果以上のことが隠されてはいるのですが、それは今日は省きます)
タロット好きな人は、たいていそういうところがあるでしょうし、何もタロットでなくても、カード好きの人ならば、自分が使って信頼しているカードならば、自分を守ってくれる天使のような役割をするでしょう。
私も、不安が高い時は、リーディングではなくて、守護としてカードを引き、そのエネルギーを感じて、ネガティブなものを浄化していくことがあります。不思議と、そういう時は、それにふさわしい意味のカードが出るものです。
何度も言いますが、これは、想念の世界とリンクしますので、そのグッズを単なる機械的・物質的なものとして見ていては、ほとんど効果はありません。それへのリアルな思い(感情に近いもの)があるかどうかが重要です。
まあ、しかし、こういうものもあくまで補助ですので、それに依存し、願い事を叶えてくれるみたいな、それこそ、雑誌なんかで宣伝され、けたたましく売られているグッズのように思うと、かえって囚われてしまうので、注意が必要です。
いい機会ですから、ちょっとだけ幸運グッズの弊害を言っておきましょう。
大仰に宣伝されている幸運グッズを持つと、最初は効果があるように思うこともあるかもしれませんが、次第にそのグッズへの過剰な依存になり、実は、自分のエネルギーがそのグッズに奪わていくことになります。
そうすると、グッズのほうはエネルギーを持ってきますが、そういう力が入ると、必ずしも、いい方向にそれが使われるとは限らず、つまり力が強い分、悪いほうへ働く(共鳴する)力も強くなるわけです。
たとえば、お金がほしいと思って買った金運強化財布が、金運というエネルギーではなく、あなたの「お金がほしい」という強烈な想念のエネルギーを吸い、そうしたネガティブ(お金がほしいという、つまりはお金の不足)の状況に共鳴してくるようになるわけです。
まあ、心の底から、楽しくお金を使い、「金運財布さん、ありがとう」みたいな感じでやれる人は、効果もポジティブにあるかもしれません。
でも、たいてい、金運財布を買う人は、お金や態度に余裕がなく、切羽詰まって買う人が多いでしょうから、なかなか効果的なものにするのは難しいわけです。恋人引き寄せみたいなものも同じだと考えていいでしょう。
何より、外のものに依存すると、自分自身の内にある力から遠ざかり、いろいなものに影響を受けやすくなり、ますます自分に自信を失い、自分自身を生きられなくなります。
ということで、安全には、ほっとしたり、中立化したりするくらいのグッズを持つ程度がよいかと思います。