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先生・師を持つか、持たないか。
前回の続きの記事ですが、厳密には同じテーマではありません。
前回は、いわゆる創始者とか発明者の立場・タイプと、それを受け継ぎ、一般に広める立場の人たちとの間では、発想も行動もタイプも違ってくるので、教え・教えられる関係性においても、そのことが考慮されるという話でした。
今日は、学び・教えの中で、先生や師のような人を持ったほうがいいのか、あるいは独学で学んで行ったり、技術を身につけて行ったりするのがいいのかということを、特にタロットの学習においてということで、取り上げたいと思います。
まず、ここにも、前回のテーマで語ったタイプ的な違い、立場的な違いによって言えることがあります。
従来のタロットや、すでに一般に売られていたり、流布したりしているタロットではなく、自分で創作するタロットを使って活動したいという人は、当たり前ですが、自分がオリジナルになるので、そもそも誰も学ぶ人がいません。いきなり自分が創始者・創造者になるわけで、つまりは最初から生徒ではなく、先生になる運命です。(笑)
ですが、こういう人でも、タロットのタの字も知らない段階では、創作しようにも、タロットカードというシステム(タロットカードという概念そのもの)の発想が知識としてもありませんので、タロットに接する機会は必要てす。言ってみれば、タロットは何か、どんなものかを知る機会です。
それが、ある先生から(知る)という場合もあれば、書籍やネットから知るということもあるでしょう。しかし、このようなタイプの人は、一時的に先生はいても、あくまで自分の発想のための刺激やきっかけに過ぎず、師という感じは持ちにくいでしょう。
従って、創造者タイプの人には先生や師は必要ないと言っても過言ではないですし、下手に自分の主義主張を押し付ける先生に当たれば、むしろ自分の良さを打ち消される弊害さえあるかもしれず、基本、独学の立場でよいのではないかと考えられます。
一方、これは言うまでもないことでしょうが、最初からきちんと順を踏んで教わりたい、その道(すでにあるタロット)の専門家に詳しく教えてもらいたいという人は、やはり、先生・師を持ったほうが学びやすいでしょう。
また、独学でやってきたものの、壁に当たってなかなか越えられなかったり、やればやるほど混沌としてきたりした人も、初心に戻り、基礎から専門の人に学び直すのも手です。
結局、自分だけではわからないところがあるから、壁にもなっているわけで、質問・疑問に答えてもらい、客観的目線で指導してもらえる人が必要となってきます。
次に、タロットの使う目的による観点です。
タロットを趣味や手軽な遊び的目的で使うだけなら、別に先生もいらないでしょう。カルチャーセンター程度の先生から学んでもいいですが、特に師事するとか、本格的に先生ついて教わっていくというのも、目的が異なりますから、先生を持つのはお金と時間の無駄になることもあります。
逆に、タロットを象徴ツールとして、深く学んでいきたい、自分や他者にタロットリーディングなどを行い、問題解決や人生のサポートをしたいという目的の場合は、やはり先生・師を持って学んだほうがいいかと思います。
また、タロットを通じて霊的成長を求める人、西洋魔法的な道に入る人は、最初は人間の師匠を持って、次には自分の高次の(人の次元とは異なる)師匠が現れると言います。
ただ、場合によっては、占い師で実践活動・営業活動したいという人は、必ずしも、タロットの先生を持つことがいいとは限りません。それは当てる才能や直感性が、教えられる類のものではないからです。(トレーニング方法はありますが)
これはカードとともに、自分の直感性・才能を磨いたほうがよく、それは人から教えられるより、自分のやり方のほうが合っていることもあるのです。
そして何よりも、基本がわかれば、実践をどんどんしていく中で、占い師としての蓄積と成果を上げて行くことで、自分の独自性・ウリが確立されるようになります。
先生の二番煎じとか、マネでは、その世界では売れないわけで、つまりは、強烈な個性、オリジナリティが求められ、それは前の記事のテーマでいう、「創始者・創造者」タイプに近くなってくるのです。
だから、先生に学んだとしても、こういう場での活躍を期待する人は、早く先生から離れたほうがいいこともあるのです。
しかしながら、カウンセリング的な方法で、特に心理分野にフォーカスしてタロットを使って相談する場合は、占い世界とはまた別になってきますので、こちらはカウンセラーへのスーパーバイザーが必要なように、先生から指導してもらえる環境があったほうが、自分を中立に見たり、また相談者として成長していくことの指針を与えてもらったりできます。
それから、将来的にタロットを教えたいという目的を持つ場合、これもいろいろと意見はあるとは思いますが、個人的には、先生・師がいたほうがいいと思っています。
その最大の理由は、先生としてのモデルがあるからということです。最悪、自分の学んだ先生に問題があったとしても、反面教師という言葉があるように、自分が教える立場になった時には、それを改善してよくすることもできます。
教えること、伝えることというのは、前にも書いたことがありますが、マルセイユタロットで言えば、「法皇」にあたるもので、タロットを読むのが「斎王」だとすれば、それぞれのカードが違うように、そのふたつには技術的にも精神的にも違いがあるのです。
いくら自分がタロットリーダーとしてよく読めるとか、実践経験を踏んできたと言っても、教える側、伝える側に回った時は、また別種のものが必要なことを痛感します。
そういう時、先生から教わってきたことを思い出し、先生はあのように教えていた、あのように指導していたと、モデリングすることによって、自分の教える道・方法を自ら作っていけるようになります。また先生によっては、教えることを教えてもらえる場合もあります。
アニメや実写化もされた競技かるたの漫画のシーンで、師匠のいない天才的な競技者を見て、ある先生が「師を持たない者は、誰の師にもなれない」とつぶやくものがあったのですが、先生・師のいない人、モデルのない人とは、まさにこれだと言えましょう。
天才型の人は、前の記事でも述べたように、独自のものを創設する力に満ちていますが、反面、それを伝えていくというのは苦手なところもありますし、破滅型として、無茶や特殊なことをやって終わってしまうこともあります。
しかし、こういう人においても、師があれば(いれば)、それなりにモデルや伝え方の方法がわかり、何とか、次代の人に継続して行ってもらえる可能性や、すばらしい弟子たちを作り上げる期待もでき、さらには、師から戒めとか愛を送られて、破滅から救われることもあるでしょう。
それから、先生が複数いるのがいいのか、一人の人のほうがいいのかですが、これもどちらがいいかは、一概には言えないと思います。
タロットにおいて考えると、知識(技術の知識も含む)を入れることをメインにすると、複数の先生でもいいと言いますか、そうなることが多いかと思います。
例えば、マルセイユタロットを知識的に探究したい、あらゆることを知りたいとなれば、Aさんというマルセイユタロットの講師から学び、Bというマルセイユタロットを教えている学校の先生から学び・・・ということも考えられます。
一人の先生だけではどうしても視野やパターンが同じになりますし、先生それぞれが独自の研究もされていて、発見や解釈もまた異なるものがあり、生徒としての立場からすれば、いろいろな方から学ぶことがで、知識として、より広くしていくことができます。
けれども、逆に言えば、統一的、段階的に学ぶことができず、バラバラな感じで散漫な状態にもなる危険性があり、知識はついたものの、実際には使えないとか、本質的には何もわかっていない状態となることもあります。
また先生によっては、他所で学ぶことを嫌がる人もいます。(それは感情的・ビジネス的なことで言っている人もいますが、論理的に統一性が取れないとを危惧している場合もあるでしょう)
その道の専門家で、しっかりとした先生であれば、その人のもとだけで学んでいても、十分なものは得られると思います。むしろ、混乱せずに済んで、ぶれなく学べ、よいこともあります。
ただ、あまりに先生・師を尊重し過ぎて、もはや崇拝の状態、心酔しきってしまうようでは、「悪魔」のカードでたとえられるような、依存や囚われの身と言えますから、それは危険でもあります。
「先生のおっしゃることはすべて正しい」「先生の言うことは絶対服従」「先生の指示・命令は必ず聞かなくてはならない」・・・みたいな状態です。
「そんなことには私はならない」と思っていても、意外に気が付かないまま、尊敬が崇拝になっていることがあるので、時に冷静に自分を振り返ってみることです。
先生から嫌われたくない(普通の感情以上に思う場合)、先生のグループから排除されるのは怖い・・・という感情が出てきている時は、すでに崇拝や依存の世界に入っていると見てください。(これは心理的には、先生を親やパートナーとして扱っている構造が隠されていることがあります、しかし段階的には、必ずしもそれも悪いわけではありません)
反対に、先生側がやたらと、これをしろ、あれをしろとか命令・強制してきたり、特に金銭的なものやセクシャル的なものを要求してくるような場合は、注意する必要があり、離れたほうがよいでしょう。
一言でいえば、先生・師に愛があるか、であり、支配や強制ではなく、成長や自由のためを思って生徒さんに接しているかになります。しかし、盲目の愛や、甘い言葉、慰め、耳によい言葉(だけ)ではなく、愛にも表裏の表現方法があり、自分にとって時には痛いことや、厳しさで表されることもあるのです。
そこに愛があるかは、受ける側の神性・魂なら判断できることで、間違いやすいのは、感情・心で判断し、結局、心地よいか悪いかで愛を見てしまうことに曲解のおそれがあります。
まあ、先生も人間ですので、感情もあれば、論理もあり、いい面・悪い面は必ずあるものです。そいうバランス性を大切にして、見ておくことでしょう。
それはともかく、普通はやはり、先生や師がいたほうがよく、反対に、早くから独立心があり、オリジナリティが問われる競争フィールドで活躍したいという人は、独学もよい場合があるということです。
マルセイユタロットの絵柄と象徴性で見ても、人の成長のルートとして、「法皇」や「隠者」が待ち構えていますので、先生・師を持つことの意味は、大きなものがあると考えられるのです。
教え。最初の人と、それを受け継ぐ人
何かの技術や知識を身につけるのには、先生や師と呼ばれる人に教わるか、独学で学ぶかということになります。
しかし、最初は独学でやっていても、本格的に習得したいとなれば、普通は、やはり教室や学校などに通うか、伝手を頼って、その専門家など、教えられる人を紹介してもらうかでしょう。
ただ最近では、オンラインでの学びも多くあり、将来的には、AIとか、人ではないものが教師になることもありそうです。
そうした人間ではないものの先生は別として、ある技術を教える人(先生・教師・師と言われる人)は、まじめといいますか、その技術に熱心に打ち込んできた人や、努力型みたいな人のイメージがあります。
反対に、その技術で現役の人や、スーパーな実践力を持つ人は、先生というより、天才型の偉人みたいな感じで、日常の生活、行動ぶりも、時に奇行的なエピソードなどがありそうです。それでも、そういう人は、その分野で特段の優れた技術を持ちますので、周囲の人が放っておかず、乞われて教えることもします。
まあ、言ってみれば、教える人にも、努力型や秀才型みたいな人と、まさに天才型、才能型の人がいるというわけです。
またその教え方も、きっちり系統立てて、あるいは論理立てて、基礎からじっくり積みあげさせていくタイプと、行き当たりばったり、自分の感性や直感に任せて教えていくタイプの人がいます。
もちろん、両方を兼ね備えた人もいるでしょうが、結構、どの分野にしろ、タイプ的にはどちらかに分けられる気がします。
そして、ここが不思議と言えば不思議で(よく考えると当然のことですが)、意外に実態なのが、最初の開祖の人、その技術を世に知らしめた人、それを創作した人は、概して天才型であるということです。(ただし、その技術を高めるためにはすごい努力をするので、努力型のところもありますが)
創作(創造)するということは、アイデアの力、想像力と創造力が必要であり、それは、従来の決まりきったパターンや思考・習慣・規則の中にいては、思いつかない類のものです。
言ってみれば、既成概念を打ち破る、革命的・破壊的なものを持っていないと、新しいものは生まれにくいわけです。何かの創造者(発明者)に、奇人変人が多いのもこうした理由からだと思います。
従って、初代・宗家・世にそれを生み出した人は、天才的で破天荒なイメージの人が多いのだと推測されます。
しかし、その思いついた技術や知識がいくらすごいものであっても、それを受け継ぐ人がいないと、一般には広がりません。そして、それが人々を救ったり、豊かにしてくれたりするものであれば、なおさら、多くの人に理解と習得ができなくてはなりません。
ほかの人にもわかりやすくするため、シンプルさも求めれるかもしれませんし、テキストやテンプレート・型のような、普遍的に伝えられるもの(手段)が必要な場合もあるでしょう。
そこで、二代目とか、継承する弟子筋の人などが、改善し、そうした普遍化を図っていくことになるわけです。
しかし、ここで初代の創造者のものとは、必ず違う置き換えや変換が起こってきます。
それは、専門的で直感的とも言えた初代のもの(産物)に対して、今度は、多くの人に習得してもらうためには、一般的で論理的になる(言語化される)必要があるのと、学んだ側の人にとっては、師その人とは個人としての人間が違いますから、それぞれ別の世界観によって受け継がれるからです。
また、教えるために組織化されていくと、様々な維持のための現実的なしがらみやルール、お金のこともからんでくるようになります。
さらには多くの人が集まると、人間の感情的な部分も出てきますし、何より、それぞれの正義(どれが正しい、どれが正当なものなのか)というような争いも現れてくるようになります。
こうして、教えられる内容は、その意思や形も変えながら、様々な流派も生み出し、時に争い、時に協力しあいながら、次代に伝わっていきます。(消滅していくものもあります)
すると、本当のところは、どの先生に教えてもらったところで、真には伝わらないものであり、結局、初代・オリジナルから、人を介した分だけ、変わってきているところがあるわけで、最初の創造者がこの世にはいなくなっていると、もうどうしようもないということになります。ましてや、文書や言葉だけで伝えられているものには、かなり、最初のものからかけ離れているところも、特に精神的にはありそうです。
それでも、「魂を伝える」「その心は伝える」みたいな言い方が、特に日本ではされるように、形がたとえ変わってはいても、目に見えないデータ・教え・エッセンスというものが、受け継がれていく何かがあるのかもしれません。
これは民俗学でも「ムラの精神」などと言われ、時代が変わっても、その地域に連綿として受け継がれている何か、ムラ(村)全体の意思のようなものかあると考えられていました。
技術継承においても、霊統とか、縁による出会いとか言わるように、形だけではない、目に見えない重要な働きがあると言えそうです。
話を戻しますが、初代(創造者)からそれを受け継ぐ側の者に回る人は、それはそれで役割があり、社会に伝わりやすいように調整したり、パターン化したり、テキストを作成したりしていくわけで、そうした人は、むしろ天才型よりも、努力型とか秀才型の人のほうが向いているでしょう。
そして、受け継がれていく中でも、中だるみや、あまりにパターン化してしまって、その最初の精神性・創造性ともいうべき力が衰えた時、中興の祖のような、これまた天才型の人物が現れ、初代を彷彿させるかのように、それまでのものを使いながらも、斬新な改変・創造も行われ、まるで新しい技術が生まれたかのように、フレッシュさを伴って出てくることがあります。これも、そうした人でないと、再興できないという、役割的なものだと見ることができます。
ですから、私たちも、誰かに何かを教わったとしても、もともとの性格とか気質と、その時々の役割などが相まって、それをぶち壊すかのように、オリジナル風にしてしまう人もいれば、その技術をきちんとまじめに、次の世代や多くの人に伝えていくという役割で、コツコツ取り組む人もいると考えれば、自分のタイプに応じて、今度、自らが先生や師となる時に、立ち位置や取るべき方法などが、客観的にわかります。
スポーツの分野では顕著ですが、現役時代の天才プレーヤーが、必ずしも名コーチ・名指導者にはならず、逆に普通の選手とか、特に現役の時に有名だったり、世界で活躍したりする人でないほうが、教えるのがうまいこともあります。
それは天才や直感型の人は、自分がなぜそれができてしまうのか、どういう具合でそれをやっているのか、人に説明できないからです。説明できなければ、教わるほうも難しいのは当然です。
ということで、天才型の人は、ちょっとだけ教えてもらったとしても、先生を言うことを聞かなかったり、あっという間に師を超えたりして、独自の道を歩むことがあるわけです。むしろ、最初から独学で、誰にも教わらないほうがうまく行く場合もあるかもしれません。
さて今回は、教え・教わることをテーマに、創造者タイプと、それを継承していくタイプとの違いや役割を見たわけですが、今度は、先生や師をもったほうがいいのか、あるいはたくさんの先生を同時にもったほうがいいのか、または独学でもよいのかなど、特にタロットを学ぶことを中心に見ていきたいと思います
続きは次の記事で。
自分の見方・考え方が変わっていくタロット
マルセイユタロットをやってきて、良かったと思える点はいろいろとありますが、年々、そのシステム(構造)がわかってくるにつれ、改めて、マルセイユタロットは実によくできているものだと感心しますし、自分の認識力が変わってくる(上がってくる)ことを実感します。
それがマルセイユタロット(を学び、扱っていく)ことの良さとしてあげられます。
その理由のひとつは、物事を一面から見なくなってくるということです。いわば、一度自分への解体が起こり、さらにはそれが統合されたものになる繰り返しなのです。
私たちは、ともすれば、ひとつのモノの見方(感じ方もあります)、自分のこれまでの経験や常識として教えられたこと、自分の築き上げられた価値観によって物事を見たり、判断したりします。
それはそれで、普通のことではありますし、慣れた見方で処理していくのが、楽(言ってみればオートマチックな状態)でもあります。
しかし、ずっと同じ見方・考え方をしていては、問題が生じたり(新しいことにうまく対処できない)、自分を成長させたりすることがてぎなくなります。他人や世の中の見方も変わらないままです。例えば、自分にとっていい人と悪い人の線引き、物事の良しあしも同じなままです。
でも、もしかすると、あの人はあなたが思うような人ではない(厳密にいうと、違う部分を持っている)のかもしれませんし、あなたが知っている今まで報道されてきた世界の状態には、嘘があるのかもしれません。
また、何より、自分はこれだと思っていた自分自身が異なっていたり、さらには、自分にはほかの部分(人格やキャラクター、能力、その他)があることにも気付かないかもしれません。
これが、マルセイユタロットの象徴で見ていくことにより、物事の見方・考え方に多様性が出て、いわば、観察眼として、タロットの数だけ持つようなことになり、表だけではない裏の姿、形や物質だけにはとらわれない性質や意識、エネルギーのようなものも、カードの象徴として見ることができるようになります。
すると、自分の外側の世界、つまり他人や外に見ているリアル(現実の)世界、そして内側の世界、意識や精神・心、魂の世界とが、一面的なものではなく、いろいろのもので構成されている(ように見える)ことがわかってきます。
ただ、その過程においては、一時的には自分の実体、自分自身が何者なのかわからなくなって、現実逃避的になったり、空虚な感じになってしまったりすることもあります。それは一度、固定観念のようなもので縛られていた自分、これまでの体系でできていた自分(常識の価値観に染まっていた自分)の解体(破壊)が始まるからです。
しかし、肉体を持つ私たちは、結局は再び(精神・心が)地上に戻り、現実的に生きられるようになります。ただ、タロット的に解体、再生した形になっていて、今までの自分とは明らかに変化し、モノの見方・感じ方・考え方も変わっているのです。
そうしていくと、例えば、何かを選択すること、迷っていることがあった、起きたとして、「恋人」のカードや「運命の輪」の象徴で表せる考え方が、自分の中に生まれてきます。
選択の悩みにある時、たいてい人は、AかBかのようなことで迷っているわけです。また、そもそも何をすればよいのか、何を選べばよいのかがわからないという場合もあります。
通常、どちらかを選ばなくてはならない時、どれかや何か選び、決めなければと思っている時は、自分の利益を得たり、よい運になったり、とにかく自分の人生にとって悪くないほう(よいほうを選ぶこと)にするのだと考えています。
あなたがもしマルセイユタロットを知り、その象徴性で自分と世界を観察していくようになれば、先述したように、まさにタロットで描かれているような見方が現れてきますので、選択時にも何種類かの考え方、モードのようなものでもって見ることができ、悩む自分を客観視するような姿勢になります。
いくつか例をあげると、「何を選んでも、もともと選ぶことは決まっている」という考え方や、「選ぶ時、自分は何をもっとも重視しようとしているのか」という観点による見方などがあります。
もし前者の見方があれば、結局、あれこれ悩んでも仕方ない(結果はすでに決まっている)という境地になり、選ぶこと、悩むことそのものが一種のゲーム、演劇的表現であることに気づき、選択で悩む自分を救済することになります。こちらはスピリチュアルと言いますか、統合的観点です。
そして、後者は、いわば分析的観点であり、分離的観点と言え、先ほどとは逆で、自分が今悩んでいること(現象)の要素を分けて理解することで、今の選択の基準を明確にする(例えば、今はお金・経済的なことがメインだと考えるような)ことができます。そうすると、判断、決定もスムースに行くことがあるのです。
これらは、タロットを知らなくても、仕事や生活での経験的学びで出てくることもありますが、タロットを知るほうが、より体系的で整理されており、何より絵としての象徴がありますので、視覚的にも思考・感情を実体化(表面化)できるという効果があります。
ただ、タロットならば何でもよいのかと言われると難しいところで、マルセイユタロットは、とてもシステマチックにできているので、こうしたモノの見方を深めたり、高めたりすることでは、やりやすいように構築されていると、私自身は思っています。
そもそも、マルセイユタロットは、カードを引いて占うことに使うのではなく、一体と個別のシステム(象徴モデル図面)として見立て、宇宙や人間の構造を把握していくためのもの、言い換えれば、自己を知り、他人を知り、世界や宇宙を知り、それらは最終的には同じであり、しかし現実では違う表現であると理解して、この現実世界を楽しむためとも言えますし、より自由や解放的に生きる(無謀や放浪生活をするという意味ではありません)ため(現実を超越すること)に使われていくものだと思えますから、今日述べたような変化のためには、最適なツール(タロット種)だと言えるのです。
全体と個性 自分のバランス性
マルセイユタロットにも「太陽」と「月」というカードがあるように、人や物事には二面性があると考えられます。
天体の太陽も月も、一日の昼も夜も、なくては困るように、それは、どちらも必要なのもので、また、本当はどちらかで決まるものではなく、ひとつのものがふたつの表現を取ったものに過ぎないと、最近では多くの人に理解され始めています。
この考えでいくと、太陽も月も同じものということになります。面白いことに、太陽のほうがはるかに巨大なのに、地球から見た場合、太陽と月は同じ大きさに見えるようになっています。これがただの偶然なのか、神のデザインなのか、とにかく興味深いところです。
余談ですが、皆さんは常識的な科学知識・天文学にふれているので、太陽と月の大きさの違いがわかっているため、たとえ同じ大きさに見えたとしても、それは遠近感によるものだということがわかっています。
しかしながら、果たして本当にそうなのでしょうか?という問いかけも、あるにはあるのです。
私たちが普通に三次元感覚で見ていると、宇宙の天体に限らず、地上の建物や景色についても遠いものは小さく、近いものは大きく見えています。
それでも、純粋に目の前に見えている景色自体の存在を認めると、別の言い方をすれば、キャンバスに絵が描かれているようかのように見ると、立体的ではなく、平面的に景色があると感じ、距離によって物体の見え方(大きさ)が変わるのではなく、私たちが物体の大きさを変えているという反転した見方もできます。
まあ、それは錯覚で、バカげた話だと笑っていただいてもいいのですが、ここで言いたいのは、私たちの通常的・常識的な観点は正しいのか? 見え方というのはひとつしかないのか?ということを問題提起しているわけです。
占星術の真の見方も、今、表立って伝えられているものとは逆の観点になるのだと私は思っていますが、それを説明しても、物質的・三次元感覚にとらわれている間は、なかなかわからないと思います。
話を元に戻します。いずれにしても、二面のものであっても、さらには多数のひとつひとつが違うものであっても、それらは究極的にはひとつからの別の表現であれば、全体としてはバランスが取れていると言えます。言い換えれば、それぞれが役割や機能をもっていることになります。
まさに、全体でオーガナイズされながら、一人ひとり、ひとつひとつ、役割や表現、個性をもって流動していくという世界観が見えてきます。
ここで、問題なのは、「全体」と「個別」の齟齬といいますか、アンバランス性が生じる場合です。
「全体」は、すべてを統括し、いわばひとつの存在みたいなもの、神のようなものと言えますから、それ自体がアンバランスになることはありえないと考えられます。
ですから、問題となるのは、個別側のアンバランス性です。
天体でいえば、例えば月がその役割を忘れ、太陽になったり、ほかの惑星になったりしてはまずいわけです。同じように、私たち一人ひとりも、何らかの役割・機能があり、そこから大きくはずれた状態になってくると、その存在性が危ぶまれることもあるかもしれません。
しかし、ここにも全体のオーガナイズが働き、あるもの、ある人がアンバランスになっても、スライドするかのように、ほかのものや人が調整すれば、全体とししてのバランスは保たれます。
人間個人の肉体や精神にも、このことが言えるかと思います。
どこか不都合や不具合が起こっても、しばらくは、ほかの部分でカバーさせ、何とか調整を図り、やがて機能が戻れば、もとのバランスに回復するという仕組みです。
ケガをしたり、病気になったりしても、健康を取り戻せることができるのも、このようなバランス調整・回復機能があるからと言えるでしょう。逆を言えば、それは「全体」としての何か、私たちを統括する何か(脳なのか魂なのか、それはわかりません)があるということです。
ところが、元に戻せないほどの衝撃、不均衡、問題が起これば、悪くすれば、生物の場合、死んでしまいます。その個別の存在表現のバランスが崩れ、もはやその状態では保てなくなって、別の形態、すなわち死ということで、全体とのバランスを取るのだと考えられます。
ですから、極端にポジティブ、必要以上にネガティブみたいな、無理やりな転換、行為というのは、時には自分の中で不均衡を生じさせ、その回復に大きな反動が来たり、ひどい時には、精神か肉体の病気になったりすることもあるわけです。
自分にとってのバランス、役割というものが個々にあるので、それからあまりにかけ離れたことを行うと、バランスが壊れ、その修正に時間がかかったり、大変な状況になったりするわけです。
ただし、これは自分を変えてはいけないということではありません。
自分を変える場合、今のバランス性というものがあるのですから、そのバランス性を保つと当時に、次のレベルへと上昇、拡大していく必要があるのです。
それは、今のバランス性を無自覚から自覚的なものへと変えていくことなのです。これはマルセイユタロットでは、「運命の輪」で象徴される、ひとつの術のようなものになりますが、要するに、自分における二面性の潜在的なものを、表面化して目に見えるようなものにする、自覚できるようにするということです。自分のおける、プラス・マイナス、いい・悪い、表と裏、ポジとネガを認識して統合(裏の発見と受容)するみたいなことです。
シンプルに言いますと、自分における次元上昇を目指すということなのですが、それは力ずくで進む(上がる)ものではなく、きとちんとした内的・外的プロセスを辿って行われるものです。
自分に変化がない、自分に変容が起こらないと言っている人は、劇的な変化が短期間で起こるのだと勘違いしていたり(実はすでに少しずつ変容プロセスは進行しています)、本当の意味で、自分の別の(隠れていた)部分を見ようとしなかったり、避けていたりしているおそれがあります。そこに非常に強い、自分の今の自覚意識ではわかりづらい、不安と恐れが隠れていることがあります。根強い信念とか、過去のトラウマなども考えられます。
また、どこかあきらめとか、自己卑下、自分に自信が持てない、生きる価値がないと思っているところもあるかもしれません。結局のところ、物語(作り物)でもいいので、全体に対する自分の役割、使命感、つまりは個性(自分としての)的な生きる意味を見出す(ストーリーとして創造する)ことです。
こう書いていて、ふと思い出しましたが、私の好きなアニメ作品である「化物語」(ばけものがたり)シリーズでは、バランスを崩した存在(この場合は怪異・妖怪のようなものの存在なのですが)は、「暗闇」というものに飲み込まれ、存在が消されるという設定になっており、暗闇から逃れるためには、この世に存在する意義、意味、整合性があればよいということになっていました。この原作者の西尾維新さんには、いつも驚かされるのですが、まさにそのようなことなのです
つまり、自分に生きる意味を創造することで、暗闇(「全体」ともいえますし、自分の破滅願望とも言えます)によって排除されることを防ぐことになるのです。
自分の生きる意味は、他人が創造・付与することができません。自分で見つける(創る)ものです。しかし、他人がいるからこそ、人とは違うと思う自我もあるわけで、自分の個性、役割も他人がいてこそ決められるのです。だから、自分の内にすべてがあるとか思わないで、答えやストーリーの材料は、実は外側にあると考えるのもよいのです。
それは人から自分らしさを言われることでもよいですし、助言を受けることでヒントが出るかもしれませんし、引きこもらず、少しずつでも、これまでとは違った経験や、人と交流していく中で、自分の個性、役割が際立ってくるかもしれないのです。
また、誰か愛しい人のために生きるというストーリーも、自分の生きる意味を見つける最初のきっかけとしてはありなところもあります。
ともあれ、あなた自身が、全体からその状態(つまり生きているあなた自身の状態)でのバランス性が保てないと認識されないように、生きる意味、価値を見出す、作り出すことです。
そして、もっとレベルの違う、表現の違うバランス性が出せないかと、自分を今より上昇、拡大させていくのも面白いでしょう、それがすなわち、成長と言えるのです。
話し伝え、聞き伝わること。
タロットリーディングを行っていると、人間関係においての問題では、コミュニケーションがひとつのテーマになっていることがよくあります。
人間同士のコミュニケーションだと、言葉か文字での伝達、やり取りがあります。そのほかに手振り身振りとか、雰囲気とか、言葉・文字以外のものもありますよね。
しかし、コミュニケーション手段で、普段大きな意味を持つのは、やはり言葉によるものではないでしょうか。
言葉のやり取りは、結局、話す、聞く(聴く)ということになります。ということは、コミュニケーションでも、話す(伝える)ことと、聞く(伝わる)ことが大事になってくるわけです。
マルセイユタロットの大アルカナの象徴を見ていると、この話すこと・伝えること、聞くこと・伝わることが、カードの人物などによって描かれているように思います。
話す、伝えるということで見てみますと、一番、その象徴性があるとうかがえるのは、5の「法皇」でしょう。彼は明らかに話をしており、それを聞きに来ている聴衆のような、弟子のような者たちもいます。
ですから、このカードが出る時は、何か話すこと、伝えることがテーマ・課題・問題になっていることがあると考えられるわけです。
そして、問題となっている多くのパターンでは、話し過ぎること、逆に話が足りないことが挙げられます。つまり、一言多かったり、余計なことをしゃべりすぎたり、話が長すぎて要領を得なかったりという状態か、反対に、言いたいことも言っていない、言いたいことが言えない、もっと話すべき・伝えるべきことがあるはずというような状況です。
もちろん、もともと寡黙な人や、よくしゃべる人がいるように、人には個性があるので、話すことの過不足に明確な平均的指針や基準があるわけではありません。
それでも場面場面、シチュエーションによっては、もっと話したほうがいい、自己主張したほうがいいということもあれば、今は沈黙を保っていたり、余計なことは言わないほうがよかったりすることがあるわけです。
カードの良いところは、自分ではなかなか気づかない、状況による伝達の適度な仕方を、例えば「法皇」のカードの出方によってわかるということなのです。
一般的な傾向としては、話が多すぎるタイプは、自分にベクトルが向き過ぎており、エゴの主張が過剰になっています。ということは、聞く(聴く)という反対側の態度が苦手であり、「人の話を聞かない」「途中で人の話をさえぎってまで自分が話したがる」というなこともあるでしょう。
逆に、言葉足りない人、あまり話をしたがらない人の中には、ベクトルが他人側に行き過ぎており、人に気遣うあまり、言いたいことも言えない、言ったら人間関係がギスギスしてしまうかもしれない・・・と思って、口をつぐんてしまうわけです。しかし、その分、人の話をよく聞く(聴く)ことができ、人から話がしやすい、よい人と思われる場合もあります。
ということで、話しの多い人は関心のベクトルが自分向き、話が足りない人は他人向きということなのですが、実は、よく考えてみると、両方ともベクトルは(過剰な、アンバランスな)自分向きなのです。
特に、他人や周囲に気遣って、あまり話をしない人、言いたいことも言えない人は、一見、人に配慮しているようで、本当のところは、トラブルや面倒を起こしたくない、事なかれ主義でとにかく穏便に済ませたい・・・という思いがあり、それは、つまるところ、自分を守りたい、自分を壊し(変化させ)たくない、もっと言えば、自分がかわいいということになってくるのです。
確かに人と争ってまで、何かをしたい、処理したいというわけではないという、その気持ちは優しい性格からのものと言えますが、いつまでも自分の殻に閉じこもって、自分がどうしたいのか、何がしたいのか、どうしてもらいたいのかなど、自分を主張しないと、何も意思を持たない人と扱われ、外国ではありませんが、否定もしないということは、すべて同意したとみなされることもあるわけです。
自分を変えることは怖く、勇気のいることですが、トラブルがあろうとも、時には本気で自分の思いを伝える、話すことで、相手も本気で応えてくれるようになるのです
そうして、最終的には、ぶつかりあいからでも、新しい何かや、たとえ妥協点であっても、お互いが伝え合った結果として、双方の気持ち的にも納得したものが生まれ、真のコミュニケーションが成立するケースがあります。
要するに、話す、伝達の問題は、どちらにしても自分側に関心のベクトルが向き過ぎており、その理由が、他人への無関心か、他人への過剰な配慮によるものかということなのです。コミュニケーションは双方の通じ合いあってのもので、やはりバランスの問題でもあるのですね。
ところで、マルセイユタロットでは、「法皇」とペアの概念を取るカードがあり、それが2の「斎王」です。ふたつのカードが並ぶと、まさに、話し、聞く(聴く)態度が見て取れます。
コミュニケーションの成立が、単純なこと、つまり、話し、聞くことであるのがわかるのですが、それゆえに、話す(主張する)だけではなく、聞く(沈黙している)態度も重要で、逆に聞くだけではなく、話すことも必要なのが、当たり前ですが、こうして画像で示されると、妙に納得できます。
話す「法皇」が男性で、ほかの複数の人間たちも描かれているのに対し、聞く「斎王」が、女性で、一人であること、書物らしい何かを持っていることも、きちんとした理由がタロット的にはあります。
だからと言って、別に女性は聞き役に回るべきというのではありません。これは実際の性のことよりも、性質・表現として見ることなのです。
タロットリーダーを目指す人は、まず、聞く(聴く)ことが大切で、普段、話過ぎる人、おしゃべりな人は、少し自分を抑えて、人の話を聞く態度に徹する時間がいります。
そして、やはり聞くだけではだめで、「法皇」として、話す、伝えるスキルも重要です。ただ、確かに言葉でもって伝えるのが一番伝えやすいでしょうが、自分の個性によっては、文章とか、態度も交えて伝えたほうがやりやすいという人もいますので、言葉のコミュニケーションスキル向上が必ずしも効果的であるとは限りません。また、言葉の内容そのものだけではなく、話すスピードやリズムなども、伝達手段の要素としては無視できないものになります。
相談やタロットリーディングの実践に限らず、話すこと、聞くことは、最初から言っているように、基本のコミュニケーション方法です。
人間、一生は長いようで短いものです。自分の思いを伝えないまま、この世を去るのも後悔するかもしれませんし、また、人の話をもっと聞いてあげていれば、誤解や争い、別離はなかった、もっと仲良くなれたかもしれないと悔やむこともあるかもしれません。
ということで、話すこと、聞くことを、もっと大切に意識してみるとよいでしょう。言葉では伝わらないものがあるのも確かですが、言葉でしか伝えられないもの、口(音声・響き)や文字にして伝えてほしいこともあるものです。