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「戦車」に見る成功の考察
「成功」という言葉で、マルセイユタロットから連想されるカードには、「戦車」があります。
タロットは重層的、あるいは言語的使い方ができますので、例えば、成功ということを「戦車」が意味するとすれば、ほかのカードは、その成功に向けた補助や方法を伝えてくれると読むことが可能です。
つまりは(技術的には)、「戦車」とその他のカードの組み合わせ(コンビネーション)によるタロットの読み方ということになります。
一方で、成功と一口に言っても、いろいろな形(状態)があり、必ずしも、「戦車」だけで象徴できるものではありません。ほかのカードによって表現される成功というものもあるはずです。
このように考えていくと、成功の概念そのもの、また、同じ「成功」という概念を示していても、それに至る方法なども、様々であることがわかります。
さて、成功という言葉が出たので、これについて、ちょっと考えてみたいと思います。
さきほど、成功にはタロットで考えると、いろいろな形があることがわかりましたが、それでも、いわゆる今の私たちが思う、一般的に共通する成功イメージというものがあります。
それは、ほぼ経済的に成功していることが主題となっているものです。
経済的な成功以外では、名誉的なもの、有名になったというものとか、夢がかなった状態とか、よきパートナーや家族に恵まれたなどあるかもしれませんが、やはり、経済的な豊かさ、大きさを獲得していないと、成功とはなかなか言い難いのが、普通でしょう。
しかしながら、この経済的成功は、資本主義社会で成立するもので、全員が経済的に大きぼ意味で成功する(端的に言えばお金持ちになる)ということはありえず、いわゆる、勝ち組と負け組いうことで、まるでイス取りゲームのように、成功するものと成功しないもの、一部とそれを支える多くの者たちという図式(構造)になっています。
言ってみれば、経済的な成功者という存在は、ほんの一部しかいない(多者になりえない)というわけで、ポジションが限られているのです。言い方は変ですが、マイノリティです。(笑)
まあ、負け組の、まさに負け惜しみと言ってしまえばそれまでですが(苦笑)、普通は、負け組になる場合が多くなる(負け組がマジョリティである)のが、今の経済システムの構造上、仕方ないところもあるわけです。
それでも、頑張って成功者を目指すのもよいでしょうが、多くの人は、その限られたイス取りゲームの競争から脱落し(意図的に脱落する場合が多い)、違う質の成功を追い求めるようになります。
成功する者、成功したい者からすれば、「なぜ努力しないんだ」とか、「やり方(情報)を知ってきちんと行動すれば成功できる」と思う人がいるでしょうが、世に成功パターンや法則はあまた教えられている(紹介されている)のに、いまだたくさんの人が成功者になっていないのは、さきほど述べたように、もともと構造上の問題として、成功者のポジションが限られているというのがあるのと、努力や成功法則だけでは成功できない部分がある(つまり誰でも等しく、画一的方法で成功できる保証的な方法がない)からでしょう。
例えば、生まれた境遇とか個人の資質、また運と呼ばれる要素も大きいのではないでしょうか。
よって、一般的に言われる経済的成功を目指すには、なかなか難しいところがあるのが当然と言えます。
ということで、先述したような、成功は成功でも、違う質の成功を考えるようになるわけです。
要するに、成功したいと思えば、ひとつは、普通の経済的成功を目指すか、成功という概念を自分の中で変えて、その成功を目指すかということになるでしょう。
後者は成功という質、意味を変えるということに近いですし、たくさんの人にとって、こちら側を目指すほうが構造的には楽だということです。
なぜなら、その質の違う成功のポジションは、一般的意味合いの経済的成功とは違い、ひとつか少数と限らているわけではなく、いわば、人の数だけ、成功という思いの数だけ存在するからです。
タロットや、スピリチュアル的な統合観点で見れば、人には、三つの魂があると言われます。(詳細になれば7つや21とも言われます)
それは肉体の魂、精神の魂、スピリットの(霊的な)魂です。
魂というより、レベルや次元という表現のほうか適当かもしれません。このうち、特にスピリットの魂に目覚めよというのが、マルセイユタロットの教義のひとつになっているのですが(それはほかの魂を捨てるということではありません)、とにかく、違う質の魂をひとりの人間のうちに持っているという考えがあるのです。(キリスト教の三位一体教義とも関係します)
そして、成功や幸福というものに対しても、それぞれの魂レベルでのものがあり、いわゆる、普通の成功とか幸福概念で語られるのは、肉体レベルのものがほとんどと言えるでしょう。
スピリチュアルに傾き過ぎると、これを軽視しがちですが、私たちは現実の世界で肉体をもって、形ある世界で生きていますから、この「肉体魂」ともいえるものの幸福を追求しないと、健康を害して、簡単に死んでしまったり、生活そのものができなくなったりします。
しかし、これにとらわれすぎると、ほかのふたつの魂の幸福はないがしろにされることもあります。
一般的な成功ではなく、質を変えた、一人ひとりの個人が思う成功を考えた場合、これは精神や心の魂の幸福を求めていくことに同意義となるでしょう。
そして、さらにはスピリット次元までの成功を目指すと、人生の質そのもの、生き方そのものまでかなり変わってくるかもしれません。なぜなら、それぞれで重きを置く価値基準が異なってくるからで、つまりは、世界の見方も変化するからです。
それでも、さきほども指摘したように、肉体レベルの成功・幸福をまったく無視するわけにはいきません。三つの魂の調和とバランスということが大切となってきます。
人によって、その配分やバランスは違うとはいえ、それをうまくコントロールして生きていくのが、現実の人生といえます。(実際を生きる私たちの課題であり、試練であり、楽しみでもある)
さてもう一度、タロットの「戦車」に戻りますと、(マルセイユタロット」)の「戦車」の図柄は、一人の御者が、二頭の馬を操って(手綱はありませんが)いる図柄です。合計三つの生き物がいます。
ということは、さきほど述べた三つの魂と関連づけることもできるでしょう。
この「戦車」は、冒頭で、成功がもっともイメージされる(そういう意味を持つ)カードだと書きましたが、それには、一般的イメージの成功ということもあったのですが、こうして絵柄から見ていくと、実は、もっと深い意味の成功が隠されている、ほかのレベルの成功も意味しているのでないかと推測されます。
たったひとつ、あるいは、いくつかの極めて少数のイスを奪い合うような経済的成功を目指すのも、スリルと冒険、そして達成感があって、またよいものでしょう。
一方で、限られたイス取りゲームに参加するのではなく、別のフィールドでは、人それぞれが、自分のイスに座って会話や食事を楽しんだり、イスを交換したりして、循環していくようなゲームの世界を選んでもよいのかもしれません。
成功というものを量や大きさではなく、質から見ていくと、一般的にいう(経済的)成功というのも、あくまで、たくさんある成功の状態のひとつです。この世界の今システムでは、それがもっとも価値あるものとされていますが、そう信じ込まされているかもしれないのです。
もっともよいものと示されたものに向かう、目指すのは自然なことのようにも思えますが、そもそも提示されものが本当にもっともよいものなのかどうかは、実はわからないものです。
最初から示されたものに到達するという方向性ではなく、それぞれが新たに創造したり、発見したりしたものが結果的に目指していた成功だったと見ていく、逆の方向もあっていいでしょう。
そういう意味では、「戦車」のカードには、御者の肩に、ふたつの顔が描かれているのも面白く、成功の見方の方向性に、複数あることがわかります。
カードの(が)守護神、守護天使
台風が続き、本当に今年は天変地異と言いますか、災害が多い年です。
これだけ続くと、前々から言われているように、地球規模の環境変化、何らかの全体性の問題も考えられます。また非科学的ではあっても、何か大いなるものの警告のような、超越的な意味合いも感じさせます。
いずれにしても、一面から見るだけではなく、多面的な考察視点があってもよいかと思います。
例えば、災害(の危険のあること)が起きますと、最初は個人(自分)の生活が心配になりますが、やがて、個人を離れた、日本全体とか地球全体とかの関心・意識に変わってきます。
災害は、場合によっては生命の危機もあるわけですから、日常の些細な個人的問題とか悩み、または、モノを中心とする豊かな充実した生活へという思いも、人によっては薄くなるのではないでしょうか。
そして、助け合いとか協同意識が強くなり、個人というより全体で安心でき、再建できる社会システムの求めが、今まで以上に起こってくると思います。
また災害が起きることで、本当に生きていることの有難さ、日常の普通の暮らしができる大切さにも気づき、ただ個人の欲望や自我(エゴ)の拡大と現世利益の満足を追求していく目的・暮らしから、反転したものに意識が変化していく可能性を秘めています。
モノをたくさん持っていても、失えば元も子もありませんし、生活再建的にも使えなくなったモノは、処分に面倒な話となります。
さらに言えば、モノ(のあるなし)を基準とする豊かな生活とは、モノが安定的に供給できる社会・暮らしがあってこそのものであり、災害で非日常のようなことになると、ともかくも生きていくのが精いっぱい、元の状態へ回復することが大事となります。
結局、スピリチュアル的に言えば、今起こっていることも、個別意識で分離され、モノやお金のあるなしの価値判断で競争される意識から、精神や霊的な質を元とした、統合的な意識に移行する準備のためとも考えられるわけです。
さて、話は変わりますが(実は奥深くではつながっているのですが)、マルセイユタロットでは、特に大アルカナと呼ばれる22枚のカードが、様々なレベルの象徴を示します。
そういったいろいろな見方のひとつに、カードを神や仏、天使や聖霊、菩薩などの化身・象徴として見るというものがあります。
マルセイユタロットでは、外にそういった神なるものがいると考えるのではなく、内(自ら)にそれが宿るという思想を持っています。
ということは、端的に言えば、私たちには、みな、タロット的には22の神や仏(あるいは天使とか菩薩とか)の崇高な存在がいると見ることができるわけです。
このうち、「悪魔」というカードもあるのですが、それも神の化身と見れば、名前は悪魔でも、違った見方もできるでしょう。
それはさておき、ある問題や、不安・恐れもある状況に陥った時、タロットをシャッフルして、一枚、カードを引きます。
その出たカードが、今自分に必要な神や仏(の表現)なのだと思うことができます。
ただ、それだけではちょっとわかりづらいかもしれません。ですから、こう思うとよいです。
それは、自分の(その苦境に対する)守り神(助けてくれる仏、縁ある菩薩、天使)であると。
ところで、宗教によっては偶像崇拝を禁止していますが、普通は、神や仏を絵にしたり、像を作ったりして、私たちはそれに拝み、祈ります。
これは一見、外に神がある(自分の外に神が存在する)ような印象受けますが、見方を変えれば、内なる神性・仏性を引き出すための装置とも言えます。
言い換えれば、外の絵や像を通して、自分の内なるその存在を思い出す(引き出す)わけです。
例えば、観音様の像に祈れば、自分の中の観音力(かんのんりき)が発動し、自らを救う縁と力を呼び起こすというわけです。
これと同様に、もしタロットカードを神や仏の化身のように見れば、引いたカードがあなたの守護神となり、そしてそれは、自分自身の内なる神性をカードの形として見せてくれているのだと考えることができます。
ですから、まずは、単純に「外の神」として、そういう神様が私にはついているとか、そういう神様で表現されているようなエネルギーが必要なのだと見てもよく、やがて、それが自分自身の力であったということを気づき、悟って行けばいいわけです。
まさにタロットカードを、エンジェルカードや神様カードのように見るようなものです。
外側が不安定な状況にある時、カードで示される存在があなたを守り、自信を与え、癒し、調和させていくことになります。そして、それは、あたにも、相手にもある力であり、存在そのものなのです。
マルセイユタロットを持っているあなた、さあ、あなたの今の守り神として、一枚引いてみましょう。
またいつかの機会に書きますが、同じ大アルカナでも、それぞれによって、神(と見る方法)の性質や表現が違ってくるので、それはそれで分析してみれば面白いものとなります。
それから、特定の宗教に縁があったり、信仰したりしている人は、そこで言われている神様や高いレベルの存在を、タロットであてはめてみるのもよいでしょう。
興味深いことに、自分に縁のある神や仏は、タロットでも同じように縁があることが多いのです。
話す領域の違い 「法皇」と「恋人」
コミュニケーションは、一方通行なものではなく、双方向であるのが普通です。
つまり、聞くことと話すこと、どちらの役割もお互いに交換しあうわけです。これも究極的には、陰陽、二元表現の形といえます。
マルセイユタロットでも、例えば、聞く役割を中心として象徴させている「斎王」(一般的な名前では「女教皇」)と、話す役割が主な「法皇」(一般的には「教皇」)とセットになっているカードがあります。
そして、今日はこのうちの「法皇」の表す、「話すほう」について取り上げたいと思います。
「話す」ことは、言語やその他に障害がなければ、誰でもできることです。しかし、時と場所に応じて適切に話すということになると、難しくなってしまいます。
話し方教室というのが実際にあるように、人は話の訓練をしなければならないこともあります。
いわゆる慣れや経験も、話すのをスムースにするには必要です。となると、純粋に話し方の技術というものもあるでしょうが、結構、話すことで問題となるのは、精神面が大きいということです。
誰でも緊張していると話しづらいですし、逆に、不安や恐れがなく、リラックスした状態だと、なめらかに話すことができます。
たとえ、かんだり、とちったりしても、また話す内容が整理されていなくても、話している本人が気にしていなければ、饒舌なものとなります。
コミュニケーションの意味においては、最初に述べたように、双方向と考えると、話している自分だけが楽しくても、相手の気持ちがよくなかったり、内容が伝わっていなかったりすれば問題ではあります。
とはいえ、まず、なにはともあれ、話すことができなければ、相手に伝わる伝わらない以前の話になりますから、いかに自分が精神的に話せる状態にしておくか、そういう気持ちになるかということが大事な要素になるでしょう。
逆に言えば、話せる環境や状態に、聞く側も整えたり、誘導したりすることで、話し手は、より話しやすくもなることが考えられるわけです。(従って、聞く技術、聞く側の要素もコミュニケーションでは大きいのです)
さて、「話す」ことといえば、「法皇」のカードだと言いました。
この「法皇」の数は5であり、次の6の数を持つカードは「恋人」です。このふたつを並べることは、以前もコミュニケーションや伝達において、ある示唆があることは書いたことがあると思います。
今回もこの二枚を数の順に並べてみましょう。
すると、「法皇」は「恋人」カード全体を見ている、指し示しているように見え、その中でもとりわけ、「恋人」カードの天使(キュービッド・クビド)に視線が注がれているのがわかります。
「恋人」の天使の図像の意味は、様々に考えられるのですが、「恋人」カードには、ほかに三人の人間たちも描かれており、これとの対比で見てみますと、天使は(通常の)人間とは異なる存在や性質を表していると考えることができます。
簡単に言えば、「人間」たちが、普通や常識、目にみえるようなことを意味し、「天使・キューピッド」がその反対の、普通ではないもの、常識外のもの、目に見えないようなことを示していると取れます。
「法皇」は、先述したように、この天使に注目しているのであり、「法皇」が話すこと、伝えることなどを意味するのであれば、その重要性は、天使側の領域にあるのだと言っているように思えます。
これには、いくつかののこと(意味・示唆)が考えられます。
ひとつは、話す主体(つまり「法皇」)は、天使を意識して話せということです。この場合の天使は、外側や仮面(見てくれ)、常識的条件で計るような自分、エゴのような自分ではなく、純粋な部分の自己、高次の自分を象徴していると想像できます。
また、これは、話し手自身のことだけではなく、話す相手、話される対象側の人間においても、見えない領域が意識されることを含むと取れます。
いわば、話すほうも、聞くほうも、見えている人間に向けてコミュニケーションするのではなく、見えていない部分の本当の自己同士のコミュニケーションをすることで、通常のコミュニケーションを超えた作用がもたらされることを表していると思えます。
同時に、私たちは、言葉(外に現れるもの、形や音が聞けるもの)以外の要素でも、コミュニケーションしている(話をしている)のだということも、ここからイメージすることが可能です。
それから、話さなけば、天使の矢が動かない(放たれない)ことがあることも、想像できます。
それは、誰かに自分の気持ちをきちんと伝えないと、縁が現実的に発生したり、動いたりしにくいということです。
現実の世界は、「恋人」カードの三人で示されるような、言葉や形(音で確認したり、目で見たりすること)でコミュニケーションがなされる世界です。
それこそ、願うだけの天使任せ、神様任せみたいなことでは、何も現実が変わらないということはあるわけです。
天使を動かしたければ、実際に言葉にすること、文字で表すこと、行動で示すことが、言われているのではないでしょうか。
しかも、天使の意味をもっと考えれば、自分自身とのコミュニケーションにおいても、偽りの気持ちや、ごまかしでいては、本当の通じ合いができず、いつも、他人の顔色をうかがって生きねばならない(「恋人カードの真ん中の人物と、両端の二人の人物の様子を見てみましょう)ことが伝わってきます。
実は、話すということについては、チャクラとの関係も含めて、「法皇」のその前のカードたちとのつながりやシンボルが描かれているのですが、それは口伝や秘密として、隠されている状態です。
とにかく、「法皇」と「恋人」を見て、単なる表面的なコミュニケーションや話し(方)だけではなく、もっと別の次元の話し、コミュニケーションがあることを意識すると、自分が本当に話したいこと、伝えたいことがわかってくるでしょう。
聞くだけばかりでもダメで、話すばかりでもいけませんが、それでも、自分の話したいことを話すのは、人として、自分を大事にするということにおいても、大切だと思います。
あのことが伝えられなかったと後悔するより、たとえ自分が傷ついても、人生全般(一生)で考えれば、伝えることに意味があったと思うこともあるでしょう。
そして、一方では、目に見える現実世界では、伝わらなかったこと(伝わらないこと)も、実はすべて、他の世界では伝わっていたということもあり、今はあなたの本当の気持ちがわかってくれなかったとしても、無意識の精神領域、霊的な部分では、すでに通じ合っていることもあるのだと思います。
それは、実際の結果とか、現象とは関係なく、まさに気持ち、エネルギーの伝わりなので、ひとことで言えば、真心(真の心)・純粋な気持ちが通じ合うので、いい意味でも、悪い意味でも隠し事はできない、素のコミュニケーションだと言い換えることもできます。(自分と他人だけではなく、自分ともう一人の自己との間でも言えます)
おそらく、そのことは、通常、死後にわかるのでしょうが、生きている間にも、もしかすると、そういう伝わりの部分があるのかもしれないと意識すると、何かが変わってくるかもしれません。
タロットの相反する意味を理解する
タロットカードを活用する時、たいていは、そのカードの意味を理解しよう(覚えよう)とします。
ここで、意味を覚えたほうがいいのか、覚えないほうがいいのかの議論はしません。
しかし、常識的に考えて、意味を覚えないまま、タロットを使うことは難しいと思います。
タロットはその絵柄の象徴性を活用するものだからです。その象徴性を知るためには、ある程度の知識が必要であり、知識というものは、人間生活の中では、覚えることによって活かされるからです。
問題は、覚えた意味を固定してしまうことにあり、象徴を単なる言葉暗記に貶めてしまうのが問題なのです。
さて、そのタロットの一枚一枚の意味ですが、先ほども言ったように、タロットは象徴ですので、ひとつの意味に決まってくるものではありません。
しかも、時々、意味がまったく正反対なのに、同じカードから両方読み取れることもあります。
いや、実は、すべての(特に大アルカナの)カードは、相反する要素や意味を持っていると言ってもよいでしょう。むしろ、相反する意味を見出せない段階では、まだそのタロットカードの理解は浅いものであると認識してもよいくらいです。
例えば、マルセイユタロットでは、「悪魔」のカードがあります。
「悪魔」と言えば、一般的なイメージでは、悪い存在、私たちを悪の道に誘ったり、そそのかしたりするもの、という印象があるでしょう。(第一段階)
一方で、タロットは絵柄なので、その絵柄を観察することによって、出てくる意味があります。例を挙げれば、縛られている(束縛されている)とか、笑っている悪魔や人たちのイメージから、何か面白いこというような意味が出るようなものです。(第二段階)
さらに、その絵柄から出てきた意味や印象と、カードの象徴の詳しいことを学ぶことによって、自らの状況や問いについて考察する視点と言いますか、新たな意味合いも生じてきます。(第三段階、具体例は後述)
この第一段階(つまり、そのカードの持つ一般的イメージとか、名前からくるような常識的観念)と、特に第三段階との間で、相反するような意味が出がちなのです。(時には、第二段階との間でもあります)
「悪魔」の場合、第一段階だと、悪い存在、悪い状態の意味だと思うでしょうが、第二、第三となってくると、それとは正反対の意味、つまりよい状態とか、悪ではなく、正義ということもありえるのです。
これは、「悪魔」の正反対の意味のカードだとイメージされる「正義」と対比すると、さらにわかりやすいかもしれません。
「悪魔」は、詳しくは言いませんが、人によっては、経験したほうがよいこと、悪と思っていることを表現したり、見直したりすることを示している場合もあるのです。
もう少し、わかりやすく説明すると、一般的に悪いことと信じられている概念が、あなたを縛っていることもあるということです。それを「悪魔」のカードが、あなたにわからせようと見させていると考えるわけです。
あなたにとって、本当にそれは悪なのか?
むしろ、逆に、その悪の定義があなたを拘束する縛りとなり、無意識のうちに、自分の自由を狭めていないだろうか?ということも、問いかけられている可能性があります。
「正義」についても同様で、純粋な正義という意味そのものは、誰にとっても、いつ・いかなる時も「正義」かもしれませんが、自分にとっての「正義」と、他人にとっての「正義」は別物にもなります。
極端なことを言えば、立場や考え方が変われば、正義は悪と入れ替わることもあるのです。
「悪魔」に戻りますと、一般的に、悪魔は神(あるいは天使)との対比で例えられます。まさに悪いものとよいものの対比です。影と光というイメージでもあります。
ここで、よく言われるように、光は影があるから認識できる(存在する)のであり、両面を見ること(受容すること)が大切というのもあるでしょう。
それはそれとして、こうも考えられます。
(あなたや一般の思う)悪魔は神であり、神は悪魔ではないかと。そう、要するに、まさに正反対だという主張です。
あなた自身、あるいは、私たちが常識的に抱いている悪いこと、「悪魔」で象徴されているものは、神とつながっているどころか、隠された真の神ではないかということ、逆に、よいこと、いい神だと思っている存在・象徴こそが、私たちを縛る悪魔であること、そういう発想も芽生えるのです。
単純な二元の世界観で見ていると、このような発想自体、神を冒涜するとか、悪魔礼賛につながるとか言って、忌避されるものでしょう。
しかし、そうした疑いも「許されない」という思い自体が、それこそ悪魔につながれている状態かもしれないのです。
「悪魔」と「正義」を例にしましたが、ほかにも、タロットカード(マルセイユタロット)は、同時に、それぞれ相反する意味はもとより、多重の意味を想起することができるように設計されています。それは象徴となるよう、意図的に絵柄が作られて)いるからです。
言ってみれば、一度、私たちは自分の思い(常識・信仰・理解したと思っているもの、思い込み)を、タロットの象徴を通して解体し、もう一度再構築することが、タロット活用の目的のひとつなのです。
再構築していく中で、偏りのない純粋なのもの、さらには真理というものが見えてくるかもしれません。
もちろん、人は思い込みや自分のストーリーをもって生きていく存在です。その意味では、まったくの中立とか、真理に目覚めるということは難しいでしょう。
ただ、それでも、認識の誤謬による諸問題は、たくさん起こっているはずですから、タロットをもってその修正に役立てることは、少なからず、できるはずです。
そのためには、タロットの絵柄だけからのイメージ想起だけではなく、きちんと象徴の知的理解が求められます。
そうしないと、感情によって左右されてしまったり、常識的定義に支配されてしまったりして、「悪魔」のカードは悪いもの、「13」は死神だから、怖いことが起こる意味だと、単純なひとつの偏った意味、もしくは感情的に信じ込んだ意味で覚えてしまい、自己(の精神や魂)を解放・成長させていくことに、使えなくなるのです。
タロットなんて学ばなくてもできる、象徴の意味を知らなくてもOKと言っている人は、ただ絵のついたインスピレーションカードだと、タロットを決めつけているからです。
あるいは、遊び気分でタロットを使っており(それが悪いことでありませんが)、真剣にタロットの象徴性を(知的に)学ぼうという精神がなく、言い換えれば、難しいことや勉強するようなことまではしたくはないという、快楽的気分によることがあるでしょう。
そうだとすれば、何もその人は、使うツールとして、タロットでなければならない理由はないと言えます。
話を戻しますが、タロットの理解が深まれば深まるほど、カードからの多重の意味を見つけることができるようになります。
それには先述したように、相反したり、矛盾したりする意味もありますが、奥底では、つまり象徴の根源性としては、どの意味も間違いないではなく、すべてつながっている、同じものなのだということがわかってきます。
そして、そういう学びや気づきの過程が、あなたの認識を変え、霊的な成長へと推し進めていくのです。
本来、タロット(マルセイユタロット)は、そのためにあると、私は考えています。
マルセイユタロットを教えたい人のために
マルセイユタロットは、最近は使う方も増えてきましたが、まだまだ日本ではマイナーと言えます。
以前にも書きましたが、独学するにしても、まず、マルセイユタロット関係の日本語の本があまりありません。
最近、サビアン占星術などで有名な松村潔氏の「タロットの神秘と解釈」や、幽体離脱を研究されている大澤義孝氏の「タロットの謎」というマルセイユタロット関係の本も出版されましたが、どちらも面白い本てはあるものの、オーソドックスにマルセイユタロットを入門から学ぶのには、不向きなところがあるかと思います。つまりは、一定のマルセイユタロットの基本知識があれば、より深く楽しく読める本だということです。(あくまで私の印象ですが)
かといって、ほかのタロットと同じように解釈できる入り口的な本も、それは何もマルセイユタロットでなくてもよいので、やはりマルセイユタロットを独学するには物足りないところがあるでしょう。
ということは、マルセイユタロットを知る人に教えてもらうのが、遠回りなようで、一番早いと考えられます。
しかし、先にも述べたように、タロット界においても、マルセイユタロット自体があまり普及していない現状では、使い手はもとより、教え手も少ないのは当然です。
そして、これはマルセイユタロットに限らずですが、教え手の方は、皆さん、まったく同じことを伝えるのではありません。そこには個人の体験や解釈、いわば教える人の個性が出るわけです。
教える人の中には、知識よりの人もいれば、リーディングや占いの実践に重きを置いている人もいますし、自分の信じている考えや思想を、タロットに置き換えて伝えている人もいるでしょう。(例えば、僧侶がタロットを使って仏教の道を伝える、スピリチュアルなことをタロットを通して教えるなど)
さらには、学ぶ側、教えられる側の人にも個性や好みがありますから、結局、人を介してのタロット学習とは、考えてみれば、極めて偶然(のような必然)が重なっての選択ルートを通って、つながった関係だと言えるのです。
特に、マルセイユタロットはニッチなだけに、そこに至る道は、あみだくじ的に言えば、いくつもの線と橋を通過してつながったものと例えることもできるでしょう。
そういう迷路を通っての出会いも、宝探し的で面白いものですが、逆にもっと広い道のルートがあってもよいかとも思います。
それは、言ってみれば入り口の扉を大きくするか、多数にするかになってきます。
このうち、後者の多数にするというものでは、例えば、私のことで言えば、私一人だけで教えているより、タロットを学びに来てくれる方がさらに発展して、自分でも教られるようになるほうが、より多くの人の目にふれる機会もあるわけです。
そういうことで、私は数年前より、マルセイユタロットを教えられる人の育成も考えるようになりました。
教える人を教えられるほど、自分が優秀だとは全然思いませんが、それでも、現状、少ないマルセイユタロットの教え手を、もっと拡大させる一助にはなれるのではないかと思っているところがあります。一応、私も曲がりなりにも、それなりの年数で、それなりの人を教えてきた自負と経緯がありますし、マルセイユタロットへの思いと情熱には熱いものがあるからです。
教えるということは、実は、意外に難しいものです。スポーツなどでも同様だと思いますが、実践の経験が豊富であったり、優れた結果を残している人であったりしても、教える技術はまた別ものになります。
名選手、必ずしも名コーチ・監督にはならないように、あまりに実践で優秀すぎると、普通の人の気持ちや学びの感性が、本人(名選手)にはわからないことがあります。特にいわゆる天才型の人は、自分が簡単にできてしまうので、なぜ、それができてしまうのかを説明しにくくなるわけです。
タロットはまた、感性や感覚が重視されがちですが、人は思考と感情がセットで納得できた時、本当に腑に落ちたような理解が可能になりますので、感性・感情面だけでは、わかりづらいところもあるのです。
反対に、知識・頭の思考ばかりでは退屈で、うんざりしてきます。いわゆる“お勉強”は誰でも嫌なものですよね。(苦笑) 従って、その両面をバランスよく見て、教える必要があります。
つまり感覚だけ、知識だけ、経験だけで教えても、伝わりにくいところがあるということです。
タロットの中でも、マルセイユタロットは独特の知識と経験を有し(必要とし)ます。それは、先述したように、知識を得ようにも、それが書かれたものが少ないうえに、使い手そのものが少ないので、使い方や教える手法も、あまり世に出ていないことがあるからです。
幸い、私はマルセイユタロットの使い方は当然として、教え方、効果的な学習法なども、基本はもとより、独自なものまで追及してきたところがあります。まだ習っている比較的早い段階から、すでに教えることを意識した学び方をしていたこともあります。
ということで、マルセイユタロットを使い、そしてそれを教えたいという目的や希望のある方は、ぜひ、こちらの門戸を叩いてほしいと思います。
ただ、私がマルセイユタロットを使い、マルセイユタロットを教えてるのも、ここで何度も書いているように、占いがメインではありません。ですから、あくまで占い師になりたい、タロット占い師の師範になりたいという方を指導するものではないのです。
マルセイユタロットに描かれている、内在する神性を開花し、それぞれ自らを高めていくため(究極的には人類の調和的発展)の目的でやっています。もちろん、その目的をもって、「占い」という方法を選択されるのも、人の自由ですが、趣旨(目的)が異なれば、占いの選択はない場合もあります。
私のところでは、教え手の方は、基本、独立を目指すことを想定しています。独立とは、簡単にいえば、自分ひとりでマルセイユタロットを教えていくこと(プロデュース・マネージメント)ができるということで、それはビジネスの形もあれば、ボランティアの形もあり、それはその人の選択によります。
しかし、そのためには、いきなり一人で、すべて一からやるというのは、大変なことです。
前に述べたように、教えること自体の技術・知識もいるからです。最初からそれらの自信があって、ひとりで全部できるという人は、別に入門したり、指導を受けたりする必要はないと思います。
どなたかに学んだり、本を読んだりして、基本を身につけ、リーディングなどで実践し、教える自信と方法があれば、自由に(教えることは)やればいいと私は思います。
ですが、知識と実践の経験はあっても、それを教えていく、伝えていくというのには、モデルや型、指導が必要という人もいらっしゃるわけです。むしろそのほうが普通かと思います。
そういう人のために、私は力になれればと思っているのです。教えることがある程度できるようになるまで(独立の自信がつくまで)、指導していき、あとは個性を活かして、自分なりの方法でマルセイユタロットを伝えていってくれればと思っています。
すでに語ったように、教えることにも個性がありますので、基本は同じでも、自分がマルセイユタロットを通して伝えたい本質と、それを表現する講義の方法に、自分なりの工夫とアレンジ、オリジナリティを出していただければよいかと思います。
実践をバリバリやるより、教えることのほうが向いている人というのがありますし、それ(向き不向き)自体が自分ではわからないところもあります。
最初は教えることなんて全く考えていなかった人でも、やっているうちに、これを人に伝えたい、教えたいという気持ちが出てくる場合があります。
またリーディングを多くしていると、「あなたにこのタロットを教えてもらたい」と、クライアントから言われることもあります。
それは、あなたのリーディングによって、クライアントが感動し、自分もこのタロットを学びたい、使いたいと思ったからであり、それならば、目の前の感動を与えてくれた人に教えてもらいたいと思うのも、人の気持ちの自然の発露だと思います。
そう言われて、クライアントの方に対して、教えるからには、いい加減な教え方はできないと思うこともあるでしょう。
そして、意外にも、簡単なものならば教えられると思っていても、いざ、やろうとすると、自分では無意識にやっていたようなことが、教えるとなると、その意味が理解できてない、説明できないことが頻出してくるようになります。
その時はじめて、教えることの難しさを知るのです。誤解されがちですが、何事も、内容が簡単・平易でも、教えることはそれに準じる(簡単な)わけではないのです。それに、浅い段階で教えると、当然背景も浅いものになるので、せっかくのツールも、その浅いままの状態で終わるのです。
伝える人の奥底に深いもの、広大なものがあれば、たとえ、内容的に浅いものを教えていても、人はその背後の深淵さを感じるものです。「これ(タロット)はただものではない」という雰囲気とでもいいましょうか。
もし完璧なテキストを作成したとしても(それはそれですばらしいですが)、内容もあまり知らない人が、それを借りて棒読みで話す人と、テキストを作った者が、感覚的にも思考的にも深いものを感じさせて話す人のものとでは、伝わる効果もまったく違うものになるのはわかると思います。教えるとはそういうことです。
最後に、マルセイユタロットの「法皇」と「恋人」の並び(数の順になります)で配置してみます。
「法皇」は、見ての通り、教え伝える人です。それが、複数の人と天使(キューピッド)のいる「恋人」のカードに向いているように見えます。
ここに、教え・教えられる状況(設定)の象徴性の深さが示唆されていると考察できます。
簡単に言えば、教え・教えられるのも、人(人間)と神、天使との融合によって行われるのです。そう、天と地の邂逅なのです。
