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マルセイユタロットと関係するものたち

マルセイユタロットには、古代からの密儀や秘められた歴史の象徴性が詰まっていると言われています。

それらは、マルセイユタロットそのものではありませんが、マルセイユタロットが何の目的で作られたのか、何を伝えようとしているのかを考察するうえでは、大変重要なものになります。

ただ、普通では、タロットはカードゲームの一種として作られ、使われたと見るのが正当なものになっていますし、占いに使う道具だという認識でさえ、結構新しい時代のものだと考えられ、やはり、タロットに何かの教義や思想、哲理、宇宙的な法則のようなものを見出すのは、異端といえば異端なのでしょう。

異端といえば、マルセイユタロットに関連するもので、中世ヨーロッパ、特に南仏地方を中心に広く信仰されていた異端キリスト教、カタリ派が思い浮かびます。

同時に、ほぼ同じ時代にヨーロッパで活躍していた神殿騎士団(テンプルナイツ・聖堂騎士団)も、最終的には異端派とされましたから、カタリ派とともに、中世ヨーロッパの裏面を見るには、また、マルセイユタロット的にも、はずせない派・団だと言えます。

私のタロット講義においては、当然ながら、カタリ派と神殿騎士団についても詳しく話しますが、このほかにも、隠されたものとしては、マグダラのマリア(イエス・キリストの妻であったと秘教的にはされている人物)関連の話、それに続く、一連の太古から続く女神崇拝、そして、グノーシス(神性の内在性を認識する教え)、聖杯伝説など、結局のところ、すべてはつながってくる話となります。

元をたどれば、この手の話は、エジプトメソポタミア地方などの、古代の聖性や儀式、秘匿された高次の知識・智慧に行き着きますし、さらにいえば、最後には地球そのもの、宇宙そのもの、人とは何かということまで考察することになってきます。

ただの絵のついたカードというのに、見ようによっては、はなはだ壮大な世界観が内包されていると言えるのが、マルセイユタロットなのです。

ちなみに、今、日本でもっとも(占いに)使われているカードは、おそらくウェイト版(別の言い方ではライダー版)のタロットですが、そのタロットにしても、作られたのは20世紀初頭の話で、作成した人も団体(組織)もはっきりわかっている代物ですが、マルセイユタロットはそれに遡ることおよそ200年前であり、しかも誰が最初に基盤を作ったのかは、よくわかっていないところがあります。

それだけ、マルセイユタロットは古い時代の、普遍的でいながら、隠された何かを伝えているのだと考えられるわけです。

もちろん、古いものがいいと決まっているわけではなく、現代人の価値観では、むしろ新しいほうがよくて進んでいるという感覚でしょう。

私自身も、無条件に古いものがいいと言っているわけではなく、今の人が失った体系(システム・考え方・認識方法)が昔にはあり、それをそのまま復活させるのではなく、今とこれからに向けて、リニューアル・リバイバルさせ、かつてとこれからを今に融合・統合させて、真の意味でバランスのよい進化を果たしていこうという思いでいます。

そのツールとして、最適なもののひとつに、マルセイユタロットがあるということです。

そして、古いものと新しいものという考え方そのものが、過去から現在、未来へと、直線的な時間の流れで見ていく価値観に沿っています。

時間と空間は密接に関係しており、時間の感覚が変われば空間認識も変化すると予想されますので(その逆も言えます)、古代のものを今によみがえらせること(古代の認識のシステムを今に思い出すこと)は、これもまたひとつの「統合」といえるもので、二元の異質なものが統合されれば、新しい何か(境地・次元)として、一段上に進むことができると考えられます。

古きを知ることは、実は新しい流れに向かうことにもづながるのです。まさに温故知新というところでしょうか。

ところで、カタリ派と神殿騎士団には、日本に関連しての、ちょっとスピリチュアル的・メルヘン的な話があります。

まず、ふたつについて簡単に説明しますと、

カタリ派というのは、人間や世界を物質と霊の二元として分け、自身を浄化し、霊的なものに回帰することを説く、グノーシス的色彩を帯びた中世ヨーロッパのキリスト教異端派を言います。

清める意味のカタリから名前が付けられ、当時は南仏を中心に、かなりの信仰者がいましたし、一種の民衆運動、地域の独立運動のような状況にもなっていました。

一方、神殿騎士団は、キリスト教の聖地エルサレムを奪還するために組織された十字軍を機に、エルサレムの神殿(ソロモン王の神殿)あとで結成され、その後、中世ヨーロッパで大いに権勢をふるったと言われる騎士階級を中心とする組織です。

神殿騎士団は、最終的に異端派とされて、逮捕のお触れが教皇庁から出されましたので、騎士団たちの信奉している教えは、キリスト教(カトリック)のそれではないと噂されています。その教えが、やはりグノーシス的な異端のものであったのではないかと考えられているところがあるわけです。

それで、前世療法をする方に聞いた話では、不思議と、このふたつのどちらかに属していた過去世を持つ日本人の方が少なくないというのです。

それも、日本の東では神殿騎士団、西ではカタリ派の記憶やデータを持つことが比較的、傾向としてあるようです。

カタリ派の滅亡のことを小説として書いた、佐藤賢一氏の「オクシタニア」という本がありますが、その中で、面白いことに、カタリ派の人が、関西弁でしゃべっているシーンがあります。

日本人は、南仏に、あこがれや憧憬のような気持ちを持つ人もいて、前にも書きましたが、日本の女性に商品の購入者が多いと聞く、南仏発のコスメティックの会社ロクシタンも、そもそも「オクシタニア」という南仏の地域を指す言葉から来ています。(オック語が話される地域)

まあ、こうしたものは単なる偶然や、冷静に考えれば、たいした話でも何でもないのかもしれませんが、マルセイユタロットを愛好する者としては、何かの因果や因縁、つながりを感じるものです。

もう少し、非科学的、メルヘン的な話をしますと、世界にはおよそ、表と裏に分かれる、二元の関係性があり、それは立ち位置というか、好みと言いますか、輪廻転生を過程しても、どうも、表で普通に暮らしたり、支配構造に回る人たちと、裏で支える側とか、秘めていく側に回る者たちがいるように思います。

もちろん、バランス的には、その立ち位置を変えて、過去世から相互に繰り返していることも考えられますが、それでも、何か個人の特質のようなものがあるように思うわけです。

マルセイユタロットを好む人は、このうち、裏や影側といいますか、カタリ派や神殿騎士団のことを見ても、異端として弾圧される側に回ることが多かったので、どうしても、そういうデータを受けついでいるところがあるように思います。

それは、よい面も悪い面もあるでしょう。

もっと細かく言いますと、二元の中に、さらに二元の立ち位置があり、表でも裏の人、裏でも表の人、表中の表の人、裏中の裏の人という次元や立場があるものとも想像できます。

それによって、時には、表面的には裏切り者となったり、スパイになったりというネガティブなこともありますが、深くには、両面のバランスの調整ための重要な役割になることもあり、ポジティブなケースで言えば、異端ながら組織や社会に貢献する人(普通とは違う発想や行動力があることで、発明や革新をもたらすことができる人)になる場合もあるでしょう。

さて、あなたはどちらの傾向にひかれたり、実際の立場として置かれたりすることか多いでしょうか?

そんなことも夢想(笑)できるのが、マルセイユタロットの面白いところでもあります。


占いから離れるタロットの見方

タロットを占いから切り離す方法(占い以外での活用を目指す方法)には、いろいろと考えられます。

タロット占いにもよいところはありますが、どうして未来の予言を期待したり、表面的な欲求にかなう方向や結果を(相談する側が)求め過ぎる傾向が出て、問題の本質に気づいたり、時間の概念を超えた(つまり直線的に未来の結果を知ることを目的とするような態度から離れて、過去や現在にも注目し、それらが関連し合っていることを知る)考察に行き着かなかったりすることがあります。

要するに、形を変えた問題のループに、占い的な使い方ばかりをしていると、陥るおそれがあるということです。

ただ、優れたれ占い師は、よき導き手、カウンセラーである場合もありますので、それは占いの技術を、相談者・クライアントにどう活かすかの問題にもなってくるのですが。

それでも、今回は、占い師側の能力とか態度に注目するのではなく、純粋に技法・技術として、タロット占い的なものから視点をはずしてみる方法をお話したいと思います。

まずはじめに、質問の方法を変えるということが考えられます。

一般的に、占いでは、「どうなりますか?」「どうなのですか?」「どちらがいいですか?」という、状態や状況を判断したり、区別したりするものが多くなります。

具体的には、「あの人の気持ちはどうなのですか?」(私のことをどう思っているのですか?)とか、「この仕事を続けるのか、辞めるのか、どちらかよいでしょうか?」「私の今後(恋愛、仕事、健康、金運など)はどうですか?」という感じになるでしょうか。

これは、人間が生活していく中で、人間として悩みがちな事柄であり、正直な気持ちのままに質問すると出てくるような形式です。ですから、質問自体によいも悪いもなく、普通に悩みを持つ人間であれば誰でも抱くものてあり、それが占い形式では、当然多くなるのです。

占いは遊びの面もあるとはいえ、現場では、まさに生身の人間の、現実で生きていく人の悩みに答えるところでもあり、哲学的な回答とか、あいまいな答えは、ほとんど求められていないのです。だからこそ、質問もストレートで具体的、人間の生々しさを表したものとなります。(ただし、最初の質問は、様子見のための漠然とした質問になることもあります)

ですが、占いから離れることを意図すれば、質問自体を意識的に変える必要があります。逆に言うと、質問を変えるだけで、占い(的)にならなくなるのです。

どう質問を変えるかについても、実は色々とあるのですが、ここでは簡単にひとつ挙げるとすれば、「どうすればいいか?」という質問に変えることを推奨します。

「どうなるか?」「どうなのか?」ではなく、「どうすればいいか?」「どういう状態や気持ちであればよいか?」という質問にしてみるのです。

例えば、「仕事はうまく行くのか?」と質問するより、「仕事をうまく行かせるためには、どうすれはよいか?」とか、「結婚できますか?」に対して、「結婚するにはどうすればよいですか?」などのように、変えるわけです。

やってみればわかりますが、前者(どうなりますか?)の時は、結果や状況の推移を見ようという受動的なものとなり、後者(どうすればよいか?)の時は、解決や処理について、能動的に見ていくことになります。

タロットの場合、前者はカードからの結果の予想を期待することになり(お告げ的)、後者は、カードの象徴・指針をアドバイスとして、自らで創造的に人生の選択と行動をしていこうという傾向になります。

次に、(占いから離れる方法として)カードを読む姿勢(視点)を変えるというものがあります。

普通、タロット占いでは、問題や質問を、出たカードの意味にあてはめて占ったり、リーディングしたりします。

そうではなく、カード自体の象徴性を質問者に問うというスタイルを取り入れます。

端的に言えば、「あなたは(私は)、出たカードである」と、カードそのものを自分視するようなものです。

質問に関わらず、「あなたの今はこれなのですよ」とか、「あなたの問題はこのことがテーマです」として、その「これ」とか「この」に当たるのが、出たカードということになります。

ただし、質問に意味がないわけではありません。質問は、そのテーマを示す導入になりますから、質問することは必要です。この場合の質問は、占い的な、「どうなの(なるの)か?」というものでも構いません。

重要なのは質問の内容より、出たカードの象徴性をそののま自分に投影して、考察するという姿勢です。

例えば、「あの人との関係はどうなのか?」という質問で、(名前のない)13というカードが出たとします。

占い的には、カードの意味合いから、別れるべきとか、関係を終わらすべきということ、ほかのタロット種のこの数を持つカードでは、「死神」と呼ばれて不吉な感じで見ることもありますから、そこからでは、この関係はよくない(結果的に別れること)、相手か自分が傷つくことになるなどと読まれることもあるでしょう。

それでも示唆を得ることはできますが、先述した視点に置き換えますと、別れるとか離れるだけではない意味も出てくると思います。

それには、自分がこの「13」であると想像してみるのです。

この鎌は切るためだけのものでしょうか? もともとは農作物を収穫する鎌ですので、刈り取ったり、耕したりすることも考えられます。

鎌(場合によってはスキやクワ)のふるい方も、人によっては必死でやっているように見える人もいれば、収穫するものを自覚して、淡々と鎌をふるっているように見える人もいるかもしれません。(13に自分の姿を見ることによって、自分の滑稽さや、逆に頑張りも見られて、自らを癒したり、冷静に見ることができたりします)

また自分が、このように骨と皮みたいになっている姿を見て、何をイメージするでしょうか?つまりは服も肉もまとっていない(素に近い姿なっている)のです。

そうすると、素直な自分の気持ちとか、この関係性から得られる大事なものとか、結局は自身の何らかの変容や変革に関係していることだと見えてくるものがあります。

結果ではなく、むしろ過程の重要さに思い至るのです。

それぞれの人で、置かれた環境や個性の違いがあるので、具体的な方策とか取るべき行動は異なってくるでしょうが、それでも13の絵と象徴性から出てくる何か共通したテーマは理解できるでしょう。

こうした、引いたタロットそのものから逆に質問や自分を見直してみる方法は、タロット研究家の伊泉氏らの言葉を借りれば、リビジョン(視点の修正・見直し)的タロットの見方となります。

タロットを精神的、霊的に活用していくには、占い的な見方の方法から離れ、タロットの象徴性そのものに回帰しながら、タロットが私たちに語りかけている、質問していると見る逆の発想も求められるのです。

「愚者」が出れば、「旅行に行きましょう」とか、「自由になるのがいいですよ」と読むのが普通の占い的な見方ですが、逆のタロットから語りかける見方とは、「あなた(自分)にとって自由とは何か?」「君(自分)は、どこに行きたいのか?」と問い、表面や建前ではなく、自らの奥底で、それに答えるものなのです。


感情の表出と共感

私は入り口的に、タロットの体験会をしたり、今はやっていませんが、以前はいくつかのカルチャーセンターでタロットの講義を行ったりしていました。

その時に、まず、タロット(マルセイユタロット)の印象を聞いてみることがあります。

たいていの人は何かを答えてくれるのですが、たまに、まったく何も思わない、感じられないという人がいました。

まあ、初期の頃は、こちらの説明とか、言い方とかがまずくて、わざと抵抗気味にそうしている人もあったとは思いますが、前向きに講座に参加している人の中でも、そういう方がいらっしゃることがあります。

その場合、考えられるのは、ひとつには、絵の印象を言葉で語ることに慣れてないというケース、ほかには、自分の感情の表出を抑圧している人というケースです。

前者は、絵に限ったことではないですが、人前であまり自分のことを言葉にして語るのは苦手という、いわばコミュニケーションの問題です。

たとえ人とのコミュニケーションに問題がないという人でも、「絵」や「シンボル」のような、人間ではない静止像に対しては、どう思えばいいのか、たとえ何か感じたとしても、それをどう言葉にして伝えればよいのか、混乱してしまうことがあるわけです。

これは、ただ言葉にできない、言語化できないというだけで、感じてはいるので、それほど問題ではありません。時間が経ったり、場に慣れて来たりすれば、きちんと言葉に表すことも可能になります。

問題は後者のほうです。すなわち、感情表現を抑圧しているタイプの人です。

怖いことに、これは本人に無自覚の場合もあるのです。

「別に・・・」とか、「「何も思いません」とか、一見、冷静な答えをして本人は納得しているかのようですが、実は、感じていることをそのものを拒否してしまって、それが習慣化し、何も感じないのが普通だと錯覚しているような状態です。

例えれば、ひどい肩こりなのに、肩こりすらも、もはや感じる取ることができなくなるほど、(心が)固まってしまっているというようなものです。

心理的に言えば、これも抵抗や自身の防衛ではありますが、このまま放置すると、身体症状が出たり、いつか限界が来て、抑圧されもののはけ口を求めて、感情と行動で暴発してしまったりすることがあります。

ですから、タロットを別にしても、日常で何も感じないという人は、精神・心の危機が訪れているかもしれないと思ってみましょう。

まだ痛みや悩み、不安など、感情的に揺れ動いて、何かを感じていたほうがましであるということです。

そこで、タロットですが、こういう人でも、タロットの象徴性を知り、思考から入ることで、固まった感情が動きを出すことがあります。

感情を抑圧している人は、思考で補い、頭で考える癖になっていることがあります。ですから逆に、思考からは入りやすく、物事も見やすいわけです。

マルセイユタロットには論理的な観察もでき、ある意味システマチックなタロットと言えます。

このため、感情が最初はあまり働かなくても、頭で見て行きつつ、そのうち、少しずつ、水が浸透していくように、意識や感情に働きかけていく作用が出ます。マルセイユタロットはそのようにできているのです。

この場合、ただ眺めているだけではだめで、さきほども言ったように、思考が働くような作業が必要です。

たとえば、ある課題や実際的な質問を、タロットで読み解いていく(つまりはタロットリーディングしていく)、タロットの絵図の様々な意味の考察を思ってみたりするなどのことがあります。

こういう時は、むしろ自分のことより、他人のことでタロットを展開したほうがよいでしょう。

すると、他人ごとなので最初は冷静に見ていられるのですが、そこに人としての感情のパターンが現れていることに気づいてきます。当初は思考での気づきですが、それが、感情的にもつながってくるように「感じ」られてくるのです。

簡単に言えば、タロットを通しての共感です。

こうなると、堰を切ったように、抑圧し、忘れていた感情が、タロットを見て流れ出します。

急に涙が出てしまったり、怒りや苦しみの感情が放出してきたりするかもしれません。それはタロットを通して、少しずつ防壁していたものが開かれていく、いい意味で壊れていくような感情の現れです。

タロットリーディングにおいても、問題を解決したり、占いとして、何か答えを出したりするものだけではないのです。

その大きな意味のひとつとして、感情の表出、気づきというものがあります。

言い換えれば、クライアントの様々な気持ちを出す(気づく)ためのサポートがタロットリーディングでもあります。

そして、クライアントだけではなく、タロットを読むタロットリーダー側にも、タロットの象徴性を通して、感情がよみがえってくることがあります。

他人をリーディングしながら、自分を浄化していることもあるのです。

相談の場では、同じ体験をしていないと、本当の気持ちはわからないと言われることはあります。

失恋したことがない人には失恋した気持ちはわからない、親の介護を経験していない人には、その大変さはわからない、子育てしたことがない人に、その苦労はわからない、お金で追い詰められたことがない人に、貧乏や借金の苦しみは理解できない・・・などなどです。

確かに、その通りです。私も児童相談所時代、若い時でしたから、結婚もしておらず、当然子供もいませんでしたので、「あなたには、親の気持ちはわからない」と言われたことがあります。

ただ、今にして思えば、それは、本当の意味で相談をしていなかったからだと思います。まだまだ未熟だったのです。もっと言えば、共感の仕方を間違えていたとも言えます。

人はまったく同じ人生の人などいません。誰もが違う人生と経験をしています。ですから、同じ体験のままの共感を求めると、それはもともと無理な話となります。

ではどうればよいのか? それは、個々の体験や具体性に落とすのではなく、抽象度をあげて、いわば、「人間としての悩み、苦しみ、葛藤」として、とらえるのです。

つまり、フォーカスするのは、悩みの具体性ではなく、悩み苦しんでいる人の、その感情そのものなのです。

それができた時、(相談をする)人は受け入れられ、思いが伝わった、わかってくれたと感じられます。

そして、人の気持ちや感情がわかるのは、自分の感情自体に素直になり、それを抑圧せず、表出していくことが必要です。(暴走させることとは別です)

自分の感情に鈍感であったり、自分自身を傷つけていれば、当然、人のことに気遣うこともできません。

マルセイユタロットは自分の心の表出、感情の浄化に役に立つことがあります。

先述したように、自分の感情が抑圧されていても、象徴としての意味を学び、他人のケースを通して、タロットから、同じ「人」としての痛みや喜びを、まさに象徴だから感じ取ることができるようになります。(思考から感情へ移行するう方法)

その人とは同じ体験ではなくても、たとえば「13」のカードが出れば、自分にとっての「13」で象徴できるような感情が沸き起こってくるのです。そこがタロットを使う意味にもなります。(ただ、個人的には、タロットであればどれでもいいというわけではないと考えています)

マルセイユタロットが、心理的な意味でのリーディング効果がある理由のひとつは、こういうこと(タロットの絵から感情にスイッチが入ること)からも言えるのです。


人間関係の問題

相談ごとで多いもののひとつが、人間関係の問題です。

タロットリーディングでも、やはりこの問題を扱うことがあります。

タロットの場合、タロットそのものを人間と見立てて、関係性を客観視することもできますし、その関心の方向性や内容についてまで、タロットの象徴性を利用して、本人にはわからないことも推測することができます。

これは恋愛の好き嫌いの状況判断から、家庭、学校、職場のリレーションシップまで、タロットで見ることのできるもの(ただし、あくまで象徴とタロットからわかる予想の範囲で、です)は幅広いです。

それはともかく、人間関係の問題は、人がひとりで生きているわけではありませんから、人間である限り、ずっといつもつきまとうものです。

ですから、実践的にも、心理的にも、いろいろな方が様々な方法・対処の仕方を人間関係の問題において考えられ、披露されています。

それらを読むだけでも、実は結構な指針となったり、解決の糸口をつかめたりすることがあります。

人間関係の問題は、人が人たるゆえんに起因しており、それは、簡単に言えば、人はだれかと一緒にいたい、他人に理解してほしい、分かち合いたいという共同や共感、愛着の欲求がある反面、一人にしておいてほしい、パーソナルスペース(自分のスペース・平穏)を乱さないでほしい、人とは違う部分で一目おいてほしいという、相反するような欲求もあるからです。

まあ、言ってみれば、ひとりだと寂しいのに、自分という個人、一人を尊重してほしいというわがまま性が、誰にでもあるからなんですね。人間とは困った存在です。(笑)

結局、そのため、たいていのアドバイスとしては、人間関係を割り切る(区別する)か、愛をもって自分と他人をあまり区別しない方向に持って行くかのふたつの方法がメインとなってくるのです。

前者(割り切り)は、仕事のためとか、たまたま集められた人たちだとかと思って、自分を守るために他人とは区別してつきあい、必要以上にお互い干渉し合わないという方法です。

意識としては、自分の方に強く向いていて、ひたから「自分」のスペースの快適さを、心の内から確保していくというやり方です。

後者は逆に、自分と他人とは違う存在ではなく、痛みとか喜びとかを共有できる同じ「人間」だとして扱い、平たく言えば愛をもって、他人に接するというような方法で、できるだけ、自分と同じ部分を他人のうちに見つけていくことで、共感を得ていくというやり方です。

これは意識では、自分よりも他者に向かうという感じで、ちょっと修業的なところもなきにしもあらずですが、うまく行けば、人類みな兄弟という感覚になり、他人がどうあれ、自分の心理(気持ち)としては、理想的な環境を得られやすくなります。

どちらがいいかですが、通常は、前者の道を選択するほうが楽だと思います。

自分が壊れてしまえば元も子もありませんから、他人に気に入られようとするより、自分が安心安全であること優先して、まずは自分の身を守ることをするわけです。

だからと言って、別に他人に冷たくしたり、孤独でなければならなかったりというわけではなく、公私混同をなるべく避け、一緒に活動することが円滑にできるよう、礼儀と必要な関係構築だけはしておき、それ以上のプライベートなことに関わったり、親密になろうしたりするようなことは、自分が嫌ならば、特にしなくてもよいということです。

それでも、他人からいじめを受けたり、理不尽な関係性を要求されたりすることはあります。自分で自分を守れない時は、ほかの誰かに助けを求めることも必要となります。

そしてこれも割り切りの道のひとつですが、関係性があまりに苦痛な場合は、そこから立ち去るということも選択に入れます。

確かに、仕事とか住居の場合、なかなか転ずることは難しいこともありますが、それでも、自分が壊れるよりましで、思い切って移動してしまうということはありかと思います。

兵法でも、有名なことわざ、「三十六計逃げるに如かず」と言われるように、逃げたもの勝ちという場合もあるのです。

生き方や過ごし方は、自分が思っているより、いろいろな方法はあるものです。もしかすると、これまでのあなたの生き方よりも、もっと楽でよい道があることを、人間関係の悪さで、天が示してくれているのかもしれません。

人間関係に限らず、ひとつ(ひとり)だけにこだわるのは、苦痛の原因となることが多く、ほかの場所や方法、人間はいくらでもある(いる)のです。たまたま、今のあなたには合わない場所、人がいたということだと思えばいいでしょう。

※ただし、心理的・霊的には、パターンやデータとして、自分の中に根源の問題があって、それに気づくために、同じような問題がどこにいても起きる場合があります。

とはいうもの、実際には割り切るのも簡単なことではありません。

それは、今、特に人間関係に苦しんでいないか、他人からどう見られようと大丈夫だという強い自立心を持っている人くらいが、「割り切ればいい」と簡単に言えるのです。

特に注意したいのは、若者、学校に通っている子どもたちに対してです。

「学校で友達なんかいなくていい、一人で淡々と過ごしていればいいんだ」みたいなアドバイスをする人がいますが、それは大人からの視点だからできるのです。

思い出してください、学校にいた頃を。自分は一人でいいと割り切って過ごすことが、どれだけ困難なことであるかを。

今もどうかはわかりませんが、体育の時間とか授業においても、いろいろな場面で、人と組になったり、グループを組まされたりします。それも、子どもの自由性を尊重しているのか、「自由に好きな者同士で組みなさい」とか言われることがあり、それはいじめを受けている子、友達がいない、作りにくい子には地獄のような仕打ちです。

そもそも周りの視線が気にならないくらいなら、人間関係で悩むようなことはないのです。それは大人の場合でも言えるでしょう。

友達を作らなくていいのではなく、「・・・しなくてはならない」という観念の縛りを解く説明と理解(認識・自己改革)がいるのです。

先述したように、人は誰でも、共にいたい、自分を人に理解してほしい、愛し愛されたいという気持ちがあるので、誰も友達や話す相手がいないということは、それだけでつらいものなのです。

安易に「友達は必要ない」という助言は、言い方を慎重にしないと、学生には、特に誤解されるおそれがあります。

そういう意味では、やはり、ひとりひとりの心のケアや、自己と他人のバランスのために、学校以外、仕事以外でクオリティが発揮できたり、尊重されたりする時間・空間、人間が必要かと思います。

また、割り切る方法(自分と他人の責任と自由性の範囲を正しく理解する方法)を実践的に教えてくれる講演・セミナー、話し手、その心境を構築してきた経験者から伝えられる機会が、学生時代からあればいいかと思います。

個人的には、中二病のようなことも、精神衛生上では、時にはあってもよいかと考えています。あれは一種の自己防衛でもあるのです。

大きな話で言えば、おそらく、人間は個として自立したり、強くなったりする必要性が霊的な流れとしてあり(つまり分離の流れ)、それが確立したうえで、今度は統合に進むのだと考えられます。

人間関係での衝突・悩みは、私たちが個性を持つがために(成長の意味でも)起きることで、まだ認識が低いレベルでの自分と他人というもので止まっているからだと推測されます。

マルセイユタロットでも示されているように、統合の前には、分離として、それぞれの性質を深く認識できる状態が前提となります。

私たちが人間関係で苦労しているのも、大きな理由で言えば、人類の進化のための過程で起こっていることだと考えられます。

しかしながら、すでにその流れはそろそろ反転していてもいいかと思います。

その意味ては、割り切りの対応もいいのですが、そろそろ、自他が融合するような、愛の方向性で、人間関係も変わっていくとよいかなと願っていますし、きっとそうしたものに、今後はなっていくものと思います。

もちろん、ただ放置するのではなく、ひとりひとり、自他の調和を心がけることも、その進化の度合いを加速するうえでは重要かと考えます。

つまりは、現実的対処(それはそれでOKで緊急の場合はよいと思います)のさらに奥の、高次で霊的な視点の目覚めが求められてくるように思うのです。


自分の夢は他人が叶えている

近畿の台風、北海道での大地震と自然の猛威が続き、日本に不安も広がっています。

災害で被害を受けられ方のお見舞いを申し上げるとともに、お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたします。

もはや、日本のどこにいても安心できない状況ですが、個人的には、個々人の限界もあるので、全体で日本を支え合うシステムが必要かと思っています。

あと、私は、昔、祈りなど現実的には効果がないと思っていた時代もありますが、心の不安は、少なくとも身体に影響はしますし、祈りによって、心が穏やかになるのであれば、たとえ現地や災害当事者方々に効果はなくても、祈っている本人には、何らかの落ち着きに向かわせるものがあると考えられますから、決して全くの無駄ではないと思います。

ただ、祈りのスピリチュアル的な効果から見ますと、不安のままに祈るより、まず気分を静めて、まだ大丈夫で守られている自分を思い、その感謝の気持ちのようなものが起こってから、土地や現地の方々のために祈るのがよいのではないかと思います。

つまりは、不安や恐怖の気持ちで祈ると、そのまま反映されてしまう恐れがあるということですね。これは、マルセイユタロットでの「」を見て感じたことです。

人々の思念は、何らかの形では現実に反映されるのは、非科学的なようでいて、いずれ、その仕組みがわかる日が来るのではないかと思いますし、古代の人が大地を静める儀式をしていいたのも、迷信でやっていたわけでない、何らかの根拠があるはずだと想像できるからです。

さて、今日のテーマです。今日は、「自分の夢は他人が叶えている」のではないかというお話です。

若いうちはまだわかりませんが、中高年の年齢になってきて、ふと、自分の周囲(友人や知人など)を見ますと、意外なことに気づくことがあります。

それが、先述の、自分の夢が、他人によって叶えられているということです。これは負け惜しみとか嫉妬の気持ちでの、悪い意味で言うのではありません。

ここで言いたいのは、自分と他者のつながり、全体性の不思議さというものです。

タロットからでも言えることですが、よく、「他人は自分の心の鏡」ともたとえられ、そのようなことが、自分の抱いていた夢でも現れるのかもしれないという印象です。

皆さんもちょっと考えてみてください。自分がこういう職業につきたかったとか、こういう生活をしたかったとか、こういうことを叶えたいと思っていたことが、おそらく、自分の周辺で、まずそのひとつを叶えている人を見つけられるのではないかと思います。

また、もし世界中にその範囲を広げてみれば、誰かがきっと、あなたの夢を実現している人がいるはずです。

当たり前といえば、当たり前のような話なのでずか、それにしても、ちょっと不思議に思う話でもあります。

果たして、自分の夢や願望というものは、いったい、どこから来ているのでしょうか?

もっと言いますと、自分個人の夢・願望というものは、本当にあなたのものなのでしょうか?

あなたの周囲、あるいは世界の誰かが同じような夢を見ている人がいて、それを叶えている人もいる、ということは、夢や願望は、人類に共通のパターンとかシナリオのようなもの(イメージ・元型)があり、それがダウンロードされて、願望となってくるのではないかと思うこともできます。

それでも、ひとりひとり、願望や夢が違うのは、やはり個性を持って生まれているからで、その中でも、共通した要素で括られて、そのグループ・特徴ごとにダウンロードされる夢のパターンが異なるのだと考えることもできます。

残念ながら、その夢を実際に叶えられるのは、その中の一握りの人なのかもしれません。

もし全体のシステムとして見た場合、その(夢の)データのある大元が「ひとつの巨大な思念体、または中枢コンピュータ」みたいなものだと想定できます。まあ、神とか宇宙とかと言ってもいいのかもしれませんが、そういう個人や時空の枠を超えた大きな何かです。

それ自体が夢を持つ(夢を見る)と考えましょう。想像の創造と言い換えてもよいです。

ただ、人間個人のように、ひとつの夢をその人のやり方で叶えていくだけでは、夢自体の現実的完成が保証できません。たった一人では、それが実現するかは心もとないわけです。(笑)

それで、夢のグループを作り上げ、多くの個性に任せて、どのように夢を現実化するかを見ます。それは保険のようなものでもありますし、一人一人のドラマが生み出される興味や面白さもあるでしょう。

こうして、私たち側からすれば、ひとりひとり、それぞれで頑張って、夢・願望を叶えようとしますが、現実には、うまく行く人もいれば、うまく行かない人もいて、悲喜こもごもの人生が形成されます。まさにひとりひとりの人生劇場です。

きっと、夢の型グループのうち、誰かは叶えられる使命というか宿命はあるのでしょう。ゴールは、ひとつはあったほうがいいでしょうから。

そういう選ばれた(人生の途中からでもありえると思います)人は、夢を現実に叶えることができます。

では、選ばれなかった人、または、頑張っても夢が実現しなかった人はどうでしょうか。

確かに、個人で見ればその通りで、人によっては夢の実現という意味では失敗人生と思う人もいるかもしれません。

しかし、グループや全体から見れば、その人も夢の実現者の一人であり、貢献者でもあるのです。

グループは競争システムで実現を進ませるのではなく、おそらく、共有エネルギー場のようなものがあり、ひとりひとり役割が違っても、元型の夢の実現には役立つようになっているからだと考えられるのです。

夢のグループは、一見、まったく自覚できないように見えますが、裏を返せば、自分がある願望・夢を抱いた時点で、その夢のグループに入っていることになりますから、逆の発想をすれば、簡単にグループを見分けることができます。

自分が夢を抱けば、当然、その夢の実現に対して興味が出ますから、それを実現している人や、実現しようとするための仕組み、事柄に目を向けたり、行動したりしていくことになります。

誰も抱いたことのない夢というのもあるかもしれませんが、それでも似たようなもの、またはヒントになるような発想とか、事象はあるはずです。それが夢のグループとして、見えないところで組織されているのかもしれないのです。

また、夢のグループの中でも、きっと、あなた(自分)にしかできない表現があると思います。それが個性を持っている特色でもあります。

この現実世界は、全体からすれば、半分(一部)しか認識できない(わからない)世界と言われます。逆に言えば、真実は隠されている(認識できない)ところもあるわけです。

もしそれがわかれば、自分の夢や願望が叶わなかった意味や理由もわかるでしょうし、本当は叶っていたことも知るかもしれません。

もっと言えば、グループ、あるいは全体性の意思と合一すれば、それは自分と同意になりますから、自分の夢は叶えられていたことを味わうことができるのだとイメージできます。

修業的なことをしている人では、その境地を、現実の個人で生きている世界において経験できるので、いつも満ち足りた気分になることもできるのではないでしょうか。

そういうことをしていなくても、色々な人を見ていますと、普通の私たちにおいても、思考・感情、人生の経験、その他を通して認識力をあげていくことで、ある程度は似た状態を実感することも可能な気がします。

夢のグループがわかってきますと、不思議なもので、競争意識より、むしろシェア的な気持ちや、人を応援する気分が出てきます。

人々はやはり奥底ではつながっているものだと、こういう面からでもわかることがあるのです。


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