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小アルカナ 人の4つの道
一般的に、タロットは78枚の構成でもって、大アルカナと小アルカナと呼ばれるパートにわかれています。
もっとも、最近では、たくさんの創作系タロットがあふれており、タロットいう概念・定義が、ほとんど「絵のついたカード群」みたいになってきているので、そのような枚数と構成でさえ、あやふやになっているのが実状です。
よって、そもそもカード構成・内容に、ほとんど違いがないものが多くなっているわけです。ところが、マルセイユタロットは、明らかに大と小の違いがあり、特に数カードとほかのカードパートとでは、絵柄がまったく異なると言ってもよいくらいです。
古いタロットでも、今もよく使われているウェィト版では、確かに大と小の絵柄に違いはあるのですが、どちらかと言うと、デザイン・絵柄の感覚は同じだと判断してもよい印象になっています。
成立した年代でいえば、マルセイユタロットのほうが古いので、やはり当初タロットは、大アルカナと小アルカナとでは、何らかの形で別々にあり、特に数カードは、あとで追加されたか、たとえ同じ時代にあったとしても、違う意図で使われていたのではないかと推測できます。
ただ、現存する最古のタロットと言われる15世紀のヴィスコンティ・スフォルツァ版タロットの時代においても、すでに小アルカナは大アルカナとセットになっており、その大アルカナよりも、むしろ小アルカナのほうがマルセイユ版に近い印象があります。
タロットの歴史は不明なところが多く、大アルカナと小アルカナが最初からセットであったのか、あとで一緒にされたのか、難しいところですが、タロットに意味があるならば、絵柄の違いにも何か意図があったのではないかと想像はできます。
ただし、あくまでタロットがカードゲームの道具だとすれば、ゲームのための工夫(得点力やゲームにおけるカード特性の違いを出すため)で、絵柄・デザインを違えたのだと考えることもできるので、タロットに何か特別な意味が込められていたと思うのは、実は近代以降になってたからの話なのではないかという説もあります。
前置きが長くなりましたが、何が言いたいのかといえば、マルセイユタロットの構成と絵柄のデザインから見て、大と小のアルカナの違いによって、それぞれ別の世界を象徴していると思うのは自然(あくまでマルセイユタロットを対象とした場合)だということです。
さて、その大と小ですが、今日は小の世界に少しふれながら、人の生きる道の型について考えたいと思います。
小アルカナは、私の考えでは、私たちが生きる実際の世界、現実生活を象徴するものと思っています。簡単に言えばリアル・物質(精神も含むものの、それは人間の実際感覚に基づく精神)の世界です。
ここは分離・個性の世界であり、人間としてもまさに人の数だけ個性があり、モノの多様性はとても数え切れないほどです。ただ、こうした数多の状態をまとめて象徴するには、何か共通の型をもって整理する必要があります。
それが小アルカナで採用されてるいる4組の概念です。もとは、西洋の古代思想、四大元素(風・水・火・地)から来ているものです。
つまり、私たちの現実世界は、人も含め、無数に分離した(個に分かれた)モノの世界ですが、その無数の分離をタロット的に4つ型で示したということです。これは、逆に言えば、私たちの現実世界は、4つに分けて考えることができることにもなるのです。
私たちは生まれてくると、この現実世界の住人となります。赤ん坊のまま放置されると死んでしまいますが、普通は親や養育者が育ててくれて、その人なりの人生を歩んでいくことになります。言わば、一人一人、固有の人生があり、その人の人生の道(生き方)があるのです。
さきほど、小アルカナは現実生活を示し、4つの型に分けることができると言いました。ですから、それを適用すると、私たちは一人一人違う人生ではあるものの、あえて大きく分けるとすると、生きる上で4つの型、4つの道を持つことになります。
4つとは、タロットの小アルカナ的には「剣」「杯」「杖」「玉」で表されますが、その本質は先述したように、「風」「水」「火」「地(土)」という元素・エレメントにあります。
言って見れば、風の道、水の道、火の道、地の道があるわけです。それでは、その4つの道を例えてみます。(なぜそのような道の意味になるのかは、ここでは説明を省きます)
以下の4つの道は、言い換えれば、自分の一生における社会や世界への主要な貢献の方法(示し方)であり、自己の充実を感じる道・表現と言えます
●風の道 探求、研究、思索の道
●水の道 融和、援助、平和の道
●火の道 達成、使命、冒険の道
●地の道 安定、経済、利便の道
風の道は、現実(今自分の生きている時代や感覚)を超えたものに進みたい、探求したいという性質を持ち、その方法として知的探求や学問、個人的にこだわりを持った追求へと働きます。チームとしても動きますが、孤独もいとわず作業します。また普遍的なルールや法則を発見したいという気持ちも持っています。職業としては学者、研究家、専門家、教師、作家、宗教家のような傾向になるでしょう。
水の道は、人々の心の交流と世界の平和を望み、助け合い、人との結びつき、協同作業、サポート、救済という表現を取り、人の役に立ちたい、人助けしたいという道に向かいます。職業・活動としても、医者、看護師、介護士、セラピスト、福祉、通訳等コミュニケーター、ボランティア・慈善事業的、海外的なことに関わる傾向があります。
火の道は、この世界で何かを成し遂げたい、使命感をもって活動したい、自分の好きなこと、情熱のままに生きたいという性質があります。そして活動として、会社を興して大きくしたり、未踏の地や誰もやっていないようなことを目指して冒険したり、自由な生活を試したり、常識外を楽しんだりしますが、自分なりの使命感があることが重要です。職業としては起業家、スポーツ選手、芸術家、創作家、冒険家、通常の仕事でもひとつところに収まらず転職したり、企画的なことを望んだりする傾向があるでしょう。
地の道は、今自分が生きている時代を、より安心して楽しく暮らせるようにしたいという性質があり、いわば実生活の安定や利便性に向かって活動します。職業としても、経済や商売活動にダイレクトに携わる傾向があり、その時代におけるもっとも安心・安全な環境・方策(例えばお金と時間を持つこと)に注力していきます。娯楽・飲食・癒し・服飾などのサービス業ほか、人間生活に直接ふれたり、関係したりする仕事に就きやすいですし、人によっては大きく成功し、社会に還元し、人々に生きる喜びの可能性を見せる者になります。
上記は、かなり大きな枠組・次元で見たものですが、庶民的レベル(笑)まで落として考えると、風の道は学んでいることに自分の充実を覚え、水の道は仲間と一緒にいる(する)ことで自分を充実させ、火の道は、より自由(自分らしく)に活動している時に充実を感じ、地の道はお金やモノを持つこと、生活の安心によって充実を得るみたいなことと言えます。
すでに気がついた人もいるかもしれませんが、4つの道の充実は、どれかひとつに決まるものではなく、人の中に4つの可能性や循環があり、例えば、さきほどの例でも、同じ人の内にも、学んでいる時が楽しいと思う時もあれば、別の時間では仲間とワイワイ過ごしているのは楽しいと思う時があります。それでも、自分の傾向というものが4つの型の中で、強弱、得意不得意、好き嫌い、みたいなものがあるわけです。それが個性でもあります。
ということは、私たちは、この現実の世に生まれた時点で、4つの世界の魂をもった(分けられた)ことになり、それぞれの役割・個性があるので、単純な平等論(すべて同じという見方)で見るより、適材適所、楽しみ方や苦しみ方(笑)の特質がそれぞれにあると理解したほうが、調和しやすいことになります。
すると、何よりもまずは、自分の傾向・特質を知ることも大事だとなるのです。
あと、今日は書きませんが、この4つを統合していくこと(またはひとつを突き詰めて超越していくこと)で、大アルカナの世界に入ることになって、自分の運命も変わってきます。それは、自分の今の運命は、この4つが同じレベルでループしていることを意味するからです。このことについては、また機会があればお話したいと思います。
幸せは、自分が幸せになることでしかない。
スピリチュアル系、あるいは心理系の話で、自分が幸せになること、イコール、世界の平和、他者の調和にもつながるというものがあります。
簡単に言ってしまえば、何より自分が幸せになること、自己の幸福感が第一だということになります。
ところで、仏教用語に「天上天下唯我独尊」という言葉があります。これを、ある悟り的な境地を示すとするか、戒め風な解釈と取るかについては、出典はともかくとして、人それぞれだと思います。
なぜ、この言葉を出したのかと言いますと、さきほどの、自分の幸せが第一ということの意味について、まさにこの言葉と関係すると言いますか、その解釈の違いで似たことになるからなのです。
もし、「天上天下唯我独尊」が、天上・天下(天地あらゆる世界)において、私という存在はただ一人であるという意味だとして、その一人というのが、個性やオリジナリティを象徴するのか、はたまた、すべての人は私であり、あなたであり、ただひとつの存在でしかないのが本質だとするのか、さらには、ワールドイズマイン、世界は私であり、私は世界なので、私を中心にすべてが回っているから我に従えというような、傲慢な態度、自己陶酔の極致を示すのかによって、まったく解釈が変わってくることになります。
同様に、自分の幸せが第一という意味も、別の解釈をしていくと、
1.自分が幸せになることで、すべてが幸せに見えてくる
※裏返しで、自分かせ不幸だから、他者も不幸に見える、不幸な出来事にフォーカスされる
2.自分の幸せが一番だから、他者は私が幸せになるよう貢献・奉仕すべき
3.自分はすごい幸せな人なので、自分についてくればあなたも幸せになれる
4.世界・宇宙は自分というか、ただひとつなので、自分の幸せは、ほかの幸せとならざるを得ない
5.自分の幸せは他者から与えられるものではなく、自分自身によるもの
などが考えられます。
おそらく、どれが正しいとか間違いなどはないと思います。例えば、アンケートをしてみて、一番多いものが正しいのかといえば、そうではないでしょう。
結局、自分が一番しっくりするものが、あなたの答えとなるわけです。
ただ、このように列挙すると、パターンは見えてくると思います。
1と4は本質的には似ています。自分の思い込みで悟りもどきというか、自己洗脳みたいにするレベルか、もっと高いレベルで「一」なるものを実感するかによる違いと言え、どちらにしても自他一体感の中に幸せの波動の同調性を生み出している感じがします。しかし、一歩間違えれば、先述したように、洗脳や陶酔、熱狂を生み出しかねない姿勢です。
2と3はタロットで言えば、「悪魔」のカードのようなもので、自己存在(エゴ)を強固に拡大、肥大させたもので、自分の独特の世界を作り、自分の幸福感に他者を巻き込ませるような形です。ただ、巻き込まれている人も、一種の幸せ感を味わっており、見ようによっては、関わっている人、皆幸せであると言えます。(つまり、本当の世界の幸せではなく、中心人物が作りだした世界観においての世界(幻想・内部世界)での幸せを共有している状態)
そして、5は心理的な見方・要因で考えたものと言えます。力(タロットの「力」とも関係)の扱いや自他の責任といったことにも関連します。
他人や外の環境・状態から幸せが与えられると思っている人は、幸せの拠り所が外側なので、いつまで経っても外の状況に自分の幸せ感が左右されるという、根本的な幸せ感の心理的所在問題について言及しているものです。
結局、自分が幸せを選択すること、他人や外の状況にかかわらず、自分自身が幸せだと思う状態になればよいわけで、それは自分の側に選択権や力のコントロールレバーがある状態です。ということは、自分の幸福・幸せが第一だと言い換えてもよくなります。
しかし、1から5のどれをとっても、自分の幸せが第一というのも、強く思いすぎると、バランス的におかしくなるおそれは秘めています。簡単に言えば、低次のわがままを生み出しかねないということです。
それでも、究極的なことを言えば、幸せとは、現実に生きている限り、自分が感じるものです。たとえ他者が幸せであることを第一だとしても、それは、「他者が幸せであることが自分の幸せ」(と自らが感じること)なのですから、つまるところ、自分の感覚によるわけです。
すると、万人が幸せになるという(客観的な)ことは、現実的にはあり得ないことがわかります。なぜなら、幸せとは先述したように、個人的な思い・感覚の中にあるものだからです。どんなに環境を整えても、誰か一人はそれを幸せだと思わない人が必ずいるはずです。
ですから、言い換えれば、幸せは主観でしかなく、その(幸せの)存在は一人一人の内にあるのです。
そこで、さらに考えてほしいことがあります。
例えば、世界でも人気の「ナルト」という忍者漫画・アニメでは、最終戦争みたいな時に、地上の全員が幻想の幸せ感・イメージの世界に取り込まれるという敵の忍術が出ました。それは一人一人、幸せ・幸福だと思えるエピソード・ストーリーに閉じこめられるというものです。ですから一人一人、幸福のストーリーは違うわけですが、それでもその術がさめない(解けない)限り、一人一人は確実に幸せを味わっているのです。
主人公たちは、これは空しい仮の幸せだと嫌い、正しい元の世界を取り戻そうとしますが、その状態は果たして完全に不幸、悪だと言えるのでしょうか? 確かに他者から与えられているので、先述した5の理由としては、間違っている幸せですが、それでも、偽・仮想ではあっても、それぞれ本人が感じている意味では本物の幸せなのですから、あながち、間違っているとも言い難いです。
「マトリックス」という映画でも、卵状のカプセルに一生閉じこめられ、エネルギーを奪われる代わりに、幻想の世界で喜怒哀楽、悲喜こもごもを味わえる仮想現実世界に、人類が取り込まれていたことが描かれました。
もしその仮想世界で、一人一人、幸せになる物語を経験できることになっていたら、それは万人に共通の幸せ王国、天国になっているかもしれません。その他、映画やアニメなどでは、バーチャルな世界での幸せと、現実での幸せについて描き、幸せの定義を投げかけている作品は多くあります。
話はそれましたが、このように自分の幸せというものを見つめていくと、いろいろなことに気がついてきますし、時には、わけがわからなくなることもあります。
究極的に自己が幸せと感じるもの、判断することが、どんな幸せの種類であろうと左右しているのであれば、自分が幸せになることが第一という考えは、間違ってはいないことになります。いや、それどころか、それしかない(自分が幸せになることしか、幸せになる方法はない)と言ってもいいかもしれません。
と同時に、他者・外部という存在があるからこそ、不幸を感じることもでき、幸せというものは、不幸という反対の定義で二元一対になっていると見れば、自他の違いが不幸と幸せを感じさせていることになります。
これは別の見方をすれば、不幸と幸せは同じものと、一見不可解な結論にも導かれます。
あとは、皆さんにおいても、考えてみてください。
「法皇」、「隠者」に見る老い
人間、誰でも健康でありたい、豊かでありたい、自由でありたいと思うところはあるでしょう。
しかし、年を取ってきますと、豊かさはともかく、健康でなくなってきたり、肉体的自由度が少なくなってきたりします。
これは人というか、生物として生まれた宿命のようなものかもしれません。
ところで、物事・自然にはサイクルがあります。何かが始まり、次第にピークを迎え、やがて衰え、終わっていったり、滅んだりしていくサイクル・回転です。ただ、終わるだけではなく、さらに新しい形で再生・復活する(また始まる)ことも一連の流れにはあります。
人の一生もひとつのサイクルとして見れば、若年から青年、熟年、老年へと変わっていくのは、まさに私たちも自然の一部である証拠と言えましょう。
と言っても、最近はアンチエイジングなどで、肉体的にも若さを保ついろいろな方法が試されていますし、科学や医学が発達すると、SFばりに肉体を交換したり、衰えた部分を自分の細胞から新たに創ったりして、補完するということもあるかもしれません。
するとサイクルはどこかで停止したものになり、人は自然とは切り離された何か特別な存在、異物のようなものになっている可能性もあります。それは幸せなことなのかどうか、議論の分かれるところでしょう。
とにかく、現状では年を取れば、どうしても肉体的には衰え、劣化は否めず、やがて死を誰もが迎えるのは必然です。いわゆる老いと死の問題は、否応なく訪れ、向き合うことになります。
鍛え方や健康に留意する人の程度にもよりますが、年を取ってくれば、何かしら毎日、どこか調子がおかしい、万全ではないという状態になってきます。
若い頃にはどこか変だという時は、明らかに病気やトラブルであり、逆に言えば原因と対処(治療)もしやすく、また治りも早いのが普通です。従って日常的に違和感を覚えるのは極めて少なく、もともと病気や障害がある方は別として、普通はほぼ毎日健康、という感じです。
しかし、老年、いや最近では中年以降の場合でも、病気というほどではなく、かと言ってやはりどこか痛いとか、おかしいという感じがあり、病院へ行くかどうか悩む、あるいは行ったところで年齢による衰えが主要因というもので、結局すっきりしないままの日々が続くということが多くなるかと思います。
話は変わるようで実は変わらないのですが(笑)、マルセイユタロットの大アルカナの絵柄で、老年の人に見えるカードは、「法皇」と「隠者」が顕著です。
もしかすると「13」や「皇帝」も、見ようによっては老人的に見えるかもしれませんが、誰が見てもというレベルで言えば、やはり「法皇」と「隠者」の二枚となるでしょう。
カードには数があり、「法皇」は5で、「隠者」は9です。マルセイユタロットをもし数秘的に見るとすれば、そのひとつに「10」のサイクルで見る方法があります。つまり、1から10までの順や流れを数の意味的に見ていく考え方です。
すると、「法皇」と「隠者」では、5よりも9が進んでいることになり、「5」の象徴性に、4の加算、段階としては3つ進み、「9」という数になっていて、しかも10という終わりや完成のひとつ前にもなっています。
ここから、5の「法皇」は老年と言っても、まだまだ自らが現役の部分もあり、また現役の人たちと接するところもあるように想像できます。最近の高齢者のような感じですね。
実際、マルセイユタロットの「法皇」の絵柄も、弟子とも、聴衆とも考えられる何人かの人たちが集まって、法皇とおぼしき人物の話を聴いているように描かれています。
一方、「隠者」はただ年老いて、杖もついている人物がただ一人、孤独にいるだけです。けれども、意気消沈したような顔ではなく、ランタン(灯火)を掲げて、何かを探していたり、人を待っていたりするかのようにも見えます。
「法皇」と比べると、さきほどの数の話にもあったように、もっと年齢が進み、あまりほかの人と交流もしないよう(行動的にできなくなってくるとも言えます)になっているのかもしれません。
カルト映画の巨匠にして、タロット研究家、マルセイユタロットリーダーでもあるアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、この「隠者」は後ろ向きに進むという話をされています。
バックしながら実は進んでいるというのは奇妙な感じですが、数のうえでは、次の10に向かっているわけで、しかし、進み方が後ろ向きであるということです。
このイメージから、スーと幕引き、引退、表舞台から消えていくような感じも受けます。
そこで、最初の老いと死の話に戻ります。
私たちは、年を取っていくと、人間のサイクル(それは数では10で例えられる)の終わりに向かっていき、肉体的には衰えていきます。最初(初老)は、「法皇」のように、まだ体も思考も働いていて、現役の人たち、若い人たちと一緒にいて、自分の経験を伝えていくことができますし、そうすべきであろうとも言えます。
しかし、さらに年を重ねていくと、もう肉体的にはかなりキツくなり、思うように行かないことが増え、行動は制限されます。すると、したいことや欲求は物理的にはかなわなくなることが多く、当然、それにこだわればこだわるほど、苦悩や飢餓感が増します。
従って、よく言われるように、執着を捨て、肉体的・行動的なものから出る欲求は浄化・昇華していく必要が出てきます。「手放し」のようなことですね。言わば、「隠者」のようにスーと幕引きしていく準備がいるわけです。
しかし、マルセイユタロットの「隠者」のアルカナ・秘伝には、いろいろと、「隠者」の名の通り、文字通り隠された意味や象徴性があります。
何もしないわけではありませんし、すべてを諦め、いい加減になって引退するわけでもないのです。
彼にもやれることはあり、肉体的な不自由があるからこそ、精神的・霊的な自由を、より実感し、解放することができるようになるのです。彼はもう現実の些末なことにとらわれことはなくなり、ひたすら魂の求めに応じ、肉体世界の感覚から逃れ、本質的な自由を探究している存在なのです。
10という一つ人生の終わりに向かう直前で、極められたのが「隠者」です。あとはスーと、サイクルの終わりに後ろ向きに進んでいきます。
それでも、消滅ではありません。先にも述べたように、サイクルは回転し、再生・復活を遂げるもの(新たな創造を行うもの)です。マルセイユタロットは、11からもカードがあります。これが何を意味かるのか、考察するととても面白いことになるでしょう。
老いは私たちの誰にでも確実にやってきて、最後は死ということになるのですが、肉体的衰えはあっても、いやそれがあるからこそ、精神や霊的な開発、充実を逆に図るチャンスでもあり、現実を超えた世界に(通常は死後の世界とも言えます)参入する準備をします。それは現実的には年を取った老人ではありますが、反対に、霊的には若者になることでもあります。
事実、10「運命の輪」を超え、11の数を持つ「力」の女性は、若々しい姿で、マルセイユタロットでは描かれているのです。
統合による豊かさ、分離による豊かさ
マルセイユタロット的には、この世界と言いますか、宇宙には、いわゆる陰陽とも表現できる「二元」の質、エネルギー状態があるととらえられます。
それは、「ある」というより、そのような「見方のほうがある」と言ったほうがいいかもしれません。
それでも、おそらく、私たちがリアルに体験している(住んでいる・存在している)この現実世界の中では、ふたつの違うものが対立(分離)したり、混合したり、循環したりすることで、様々な違いと、時に一体感も味わえるのだと思います。
つまりは、私たち自身が自分として存在していると感じるためには、少なくともふたつの違う性質の表現が必要であるということです。
考えてみれば、例えばデジタル・電気信号の世界でも、オンとオフ、1とゼロ、電気が流れているか流れていないかみたいな、ふたつの状態で、画像とか動画など、リアルと見えるあらゆる世界を表現しています。これもただ一種類だけなら、映像も見ることができないわけです。
つまるところ、これかあれかの違いが、すべての差異・個性を生み出していて、逆に言えば、すべてはひとつの、それぞれ違う表現に過ぎないと言えるのかもしれません。
マルセイユタロットはこの二元の統合、一なるものに回帰する思想を持ちますが(と言っても、あくまでそれもひとつの考え方で、絶対ではありません)、同時に、逆方向とも言える、ふたつからさらに分かれていく方向性も示唆していると見ることが可能です。
これは小アルカナを含むトータルなデッキとして見れば、よくわかることです。言わば、大アルカナに向かう方向性と、小アルカナに向かう方向性の違いです。
一般的なスピリチュアルな(ことに興味のある人の)関心は、分離から統合、すべてがひとつになるような、全一的境地、いわば悟りのようなものを目指す方向性にあるようです。
これはさきほどの、二元分離(ふたつの性質の表現)が個性やバラエティを生み出すということから考えると、ふたつを統合してひとつになることは、逆に個性がなくなる、味気(色が)ないものになる世界を目指すということにもなりかねません。
ところが、スピリチュアルといわれる(内容やタイトルにある)人達のブログやSNSなどのものでは、よく豊かさということが言われ、その実現方法や目的が書かれているようにも思います。
この「豊かさ」というものが、“すべてある状態”だと仮定すれば、それは確かに「すべてある」のですから、豊かと言えなくもないでしょう。
ただ、「すべてある状態」とは、必ずしも、私たちが思う物質(モノ)や形の状態ではなく、まだ何ものともつかぬ原初のエネルギー状態だとすれば、それは「すべてである可能性」とは言えるものの、物質の形では顕現している状態ではありません。
ですから、「豊かさ」という定義が、あくまで物質の形まで変化している、物質の次元(物質としての表現の形を取ること)においての豊かさでなければならないとすれば、それは豊かさとは言えないのではないでしょうか。
言い換えれば、ひとつになるという統合の方向性は、物質の形を希薄化していくようなものと想像することもでき、もしスピリチュアルに関心のある人が、統合と同時に物質の豊かさも実現しようというのであれば、そこには矛盾があるようにも思えます。
それでも、こうも考えることができます。
統合やひとつの方向性は、すべての可能性に戻ること、その状態そのものになることだと言え、すると、すべての可能性そのものになるわけですから、文字通り、すべてを実現する「可能性」は高まるわけです。(高まるというより、それそのものになるわけですが・・・(笑))
「ひとつ」という状態では、物質という形はなくなるのかもしれませんが、物質の元にはなるわけですから、ここから次元を下降していけば(状態を変化させて行けば)、物質化していくことも可能です。
しかし、もともと物質的、分離的世界にいて(それが通常の現実認識の世界)、その状態がノーマルで固定されていると、自分の中での認識もそれで常識化され、二元分離が普通であり、結局は、自分と他人、自分とその他もろもろ、いろいろの世界という図式になります。
それは、自分にはこれが足りない、他人にはあれがあるとか、自分はこれが優れている、他はあれがダメだとか、そういう差異、差別、区別が明確に意識される世界観となります。
この状態は、自分で制限をかけていると言ってもよく、自他が分離しているからこそ、限界というものを認識(設定)しがちです。
つまりは、この世界は豊かではない、限界である、特に自分は・・・と区別(制限)して見てしまうのです。
実際、形がメインの世界ですから、形、物質としての豊かさの表現が自分にない(自分が持てるようにならない)と、まさにリアルに豊かさなど実感しようがないのです。
さらに、他人の物質的な豊かさを見せつけられると、それと比較して、自分のほうはそこまででは「ない」という状態が、よりフォーカスされてしまいます。
これも分離の意識と、物質・形が豊かさによって「ある」ということを認識する世界だからです。
しかし、統合方向に認識をシフトしていくことで、物質的な形は希薄化(抽象化)していきますが、かなり究極まで近くなると、先述したように「豊かさの可能性そのもの」、原初の状態に回帰してきますから、実感という表現とはちょと違うかもしれませんが、認識の確かさとして、分離していた時よりも、はるかに豊かさがあること、豊かさ(エネルギー)そのものに接するようになる(そのものになる)と思います。
例えれば、金塊の形でしか「金」だ思わなかった人が、溶解した液体のような金も、実は金であることを知るとか、固体から液体、液体から蒸発して見えなくなった気化状態のものも、空気中には存在していることを実感するという感じでしょうか。
これを思考はもとより、感情も体感も含めて、トータルに実感する(すなわち、それ自体が統合ですが)ことで、ただ空想とか、夢想とか、理屈とかだけで理解するのでない状態にもっていくことが、統合による豊かさ(霊としては濃く、モノとしては希薄)と、実際のモノの豊かさ(モノとしては濃く、霊としては希薄)とを共存させていく鍵になるのではないかと推測します。
おそらくスピリチュアリストの方が、スピリチュアリズムで覚醒していくと、精神や霊(スピリット)だけではなく、物質的な豊かさの実現も可能だと述べられるのは、普通は矛盾するようなことではあっても、そうした、「豊かさの可能性の次元」を実感するレベルまで高めてのことを言っているのだと思います。
それは意識においての分離の統合とも言え、別の言い方をすれば、制限されていた枠の解除です。
こう書けばシンプルではあるものの、実際にはそう簡単なものではないでしょう。
なぜなら、最初のほうから言っているように、自分が自分として存在するために、(二元)分離世界の認識がセッティングされているので、現実の通常意識のままでは、跳躍した感覚が起こりえない(起こると自己崩壊、ゲシュタルト崩壊になる)からです。
意識的(意図的)に、認識を変える努力(修行・修法)をするか、これまでの認識・世界観が激変するくらいの、ものすごいインパクトのある体験をするかということになります。
まれに、前世データのような、時間軸を長大なものに置き換えた(そういうデータを入れることを仮に考えた)場合、今生で努力もなく、簡単に認識が変わったという体験を持つ人もいるかもしれません。また前世とは関係なく、もとともそういう素養というか、特別な人もいる可能性も否定できません。
いずれにしても、統合の方向性は浮世離れしていく(笑)方向性であり、分離感がなくなって、別種の幸せ感(全体としての一体感)を得ていく代わりに、個性や形というものも希薄になっていく世界です。常識やルールも、普通とは変わっていきます。
そこに物質性を入れたり、具体的に表現したりするということになると、そもそもは矛盾していく話なのは前述した通りで、それも理解しつつ、それでも、すべての可能性を実感することで、一度大きな存在になった自分が、再び現実の元の自分に戻ったとしても、その自分は、おそらく内的に意識が拡大した別の自分であり、かつてあった制限ははずされ、物事の形としての実現性も、以前より飛躍的に「ある」「できる」状態になっているのだと想像されます。
ということで、スピリチュアル好きな人に、物質的な豊かさの希望を入れておきたいと思います。(笑)
タロットの展開は真実を示しているのか? その2
お待たせしました。前回の記事の続きです。
まず、コメントをいただきました皆様にお礼を述べたいと思います。ありがとうございました。
このブログ自体は閲覧数も少ないのですが(^_^;)、それでもオープンなものなので、そこに勇気をもってコメントを書き込んでいただく方は、やはり、それなりのものをお持ちの方々だと思います。
そして、お読みすると、皆さんなかなかの根拠と考えで、どの意見も、私自身納得でした。
では、あくまで私の意見となりますが、答え(のようなもの)を書いてみます。
前回の記事では、タロット展開は嘘の話(嘘の問い)で展開した(タロットを引いて並べた)場合、それは嘘の話に基づいた展開なのか、それとも嘘をついている本人(質問者)の何か(本当のこと示しているとか、嘘をついていることを知らせるものとか、その他もろもろ・・・)が出ているのか、皆さんにも考えていただきました。
そして、選ぶ答えの選択パターンとして、
A 質問が嘘であることを示している展開図
B 嘘の質問内容に応じた展開図
C 質問の真偽に関係なく、質問者の何らかを表す展開図
D ケースバイケース 展開の意味は別の要因で決まる
というものを提示しました。
コメントいただいた方の中では、Dはなく、Cが一番多かったようです。
まあ、Cとされた人の多くが、マルセイユタロットを扱う私の生徒さんであるということもちょっと関係している(普段の私の教えを聴いていますので・・・)のかなと思います。では私の答えはCなのかと言えば、そうではありません。Cと多く答える理由がよくわかるということを言いたかったわけです。(苦笑)
では、私の答えは何かというと、反則みたいですみませんが、全部です。(笑)
ですが、コメントいただいた方の、どの答えと意見も賛同しますし、それでいいと私は思います。
と言っても、このまま終わっても中途半端ですので、もう少し説明を続けます。
結局、この問題は、突き詰めると、タロットの展開(図)は何を表しているのか? さらに、タロットの意味は何で決まるのか?ということになってきます。
タロットはあくまで、真実を語る、本当のことを出すのだという設定だとすると、答えは、AかCになります。
しかし、Aだとすると、その展開は「この質問者は嘘を言ってますよ」と告げる内容か、「本当の問題とは関係ないデタラメな展開を示している」ということになりますが、いずれにしても、展開されたものは、質問内容とはかけ離れたものであったり、タロットリーダーが見れば、「質問と展開がリンクしない、おかしいのでは?」と疑いを持つ展開図になっているものです。
おそらくタロットリーディングを他人に実践してきている人は、このようなことは経験則上あるのではないかと思います。私もそれは感じます。コメントされた方の中にも、「嘘の質問は出されたタロットの展開を見ればわかる」ようなことを書かれた人もいらっしゃるようにです。
ここから、タロットは嘘をつかない、質問するほうも嘘はつけないということが言える可能性は、確かにあると感じられます。
しかし、前回の事例では、質問者の嘘は何となく臭ったものの、明らかに嘘だと、会に参加していたメンバー全員が見破ったわけではありません。
でも会のメンバーは、タロットのど素人というわけではなく、皆さん、そこそこリーディング経験のある方ばかりでしたから、タロットリーディングの技術が未熟だったからという理由には必ずしもならないと思います。
となると、嘘の内容をもとにしたタロット展開であっても、展開図そのものが嘘を示しているとは、読んでいるほう(タロットリーダー)にはわからないこともあるわけです。
仮に、質問者の問いが嘘か本当かは置いておき、純粋なケース検討会・勉強会みたいな形で、ただ質問と展開図だけが示され、参加メンバーが課題としてリーディングしていくというスタイルであれば、皆さん、質問の虚実にはこだわらずに、そのまま出された質問と展開を見て読み、それなりの回答(リーディング)を導き出すでしょう。
その出されたリーデイング(内容)は何なのか?ということです。
場合によっては、質問に対するまともなリーディングもあるでしょうから、それは質問そのものに対して誠実に出されたリーディング回答であり、言ってみれば、タロットは嘘の問題に対しても、嘘でありながら真実的な(その質問自体に対して真っ当な展開の)答えを出すと言えなくもないわけです。
このようなことを考えていくと、結局、タロットの表すものが真実かどうかというよりも、タロットを解釈する側、リーディングする側(の思い・直感・知識・情報の入れ方)によって、タロットの象徴性(展開で示される意味)が変化すると見ることができます。
タロットは一枚であっても、数枚であっても、象徴カードでありますので、何らかの象徴を、存在するだけで表し(示し)ます。その象徴性は、根源的(本質的)にはカードごと、あるいは組合せごとにひとつとも考えられますが、具体や事象(実際的な読み解き方)は無数といっていいほどあります。(解釈パターンの多様性)
たとえ同じ展開が出たとしても、読み方の可能性は非常にたくさんあるわけです。
そうした中でも、ある意味が特定的に決まったり、選択されたりするのがリーディングです。
“シュレディンガーの猫”ではありませんが(ちょっと例えとしては違うかもですが・・・)、リーディングする前は、いろいろな可能性(選択)が同一に存在していますが、リーディングをすると、その多くの選択の中のひとつが決まってしまいます。
嘘の質問であっても、タロットは何からの展開を提示し、それを読んだ人・解釈する人が、質問とは違う展開内容だと見るか、嘘であっても本当であっても、とにかく質問者に関係した何らかの象徴性がタロットで表れていると見るか、はたまた嘘で設定した質問内容そのままとして見るか、それはどちらかといえば、リーダー側にゆだねられているわけです。
こうすると、ある意味、答えはDという結論にもなります。
とはいえ、目の前には、全部のタロットが無目的に並べられているわけではありません。
質問者がいて、質問があって、タロットが選ばれ、並べられているわけです。そこには、何段階もの集約、意図的、意志的ともいえる手順がはさまれています。
ということはまったくの無目的なタロット図ではなく、意志の力、意図的な選択の力が働いているのだと見ることができます。
つまりは、選ばれたタロットは、人間の思いとリンクしている可能性が高いということです。言い換えれば、タロットセッション、タロットリーディングにおける質問の意図、質問者の思いが、出たタロット(展開図)には影響していると予想されるわけです。
この問題は、タロットの展開が(質問の)真実を示しているかどうかというテーマもありますが、むしろ、そもそも(選ばれる)タロットは、何を根拠にして選ばれているのか、選ぶのか?という問題になってくると思います。
それについては、色々なタロティストが様々な意見を持っていると思いますが、どれかひとつには決められないでしょう。
ただ、タロットリーダーとしては、前にも書いたように、タロットを信用しないことには始まらないというか、タロットをする(扱う)意味がありません。
だから、今回のケースでは、少なくともCという考えをもっていないと、タロットを象徴カードとしてうまく扱うことができないでしょう。そして、Aも取り入れるとするのなら、タロットの展開図は、質問者の心に応じた内容を表すと考えることができます。
今回の事例でいうのなら、質問者の嘘の質問で、皆をテストするように、ふさわしい展開になっているということです。その意味では、Bにもなっているのです。
質問は嘘だけど、皆でリーディング勉強するのにふさわしい展開図ですよ、みたいなものです。なんとなく嘘くさいけど、質問に応じたそれらしい展開図・・って感じ・・・こう言えばわかるでしょうか。(笑)
はい、これでAからD、すべて出ましたよね。だから、全部答えとしてOKなのです。(苦笑)