ブログ
タロットから見る自力と他力
マルセイユタロットでは、すでに結構知られているところではありますが、大アルカナと呼ばれるパートのタロットたちが、数の順に、ある種の成長や拡大を象徴させているという考えがあります。
ただ、これには、様々な見方と解説、秘密があり、それがわからないと、単純に「ふーん、そうなんだ」みたいな感覚だけで終わってしまいます。
まさにタロットがアルカナ(隠されたもの、秘密、神秘などを意味します)と言われるゆえんです。
マルセイユタロットの大アルカナの図は、様様なものが詰まった宝庫といえるもので、これまで私の見た限り、世の中に披露されている教え、教説、概念、思考、パータンなどが、図像としてほぼ網羅されていると見ることができます。
ですから、マルセイユタロットの、特に大アルカナの図像を観察することは、自らに小さなものから大いなるものまで、たくさんの気づきを与えることになるのです。(ただし、一枚一枚について、知っておくべき知識は必要ですし、先述したように、全体図としての見方のコツのようなものを把握しておくことも重要です)
さて、そうした気づきのひとつとして、今日は自力と他力のようなことをお伝えしたいと思います。
さきほどお話したマルセイユタロットの一枚一枚の図像の印象を辿っていきますと、数の少ないもの(カードに付されている数が小さいもの)は、人物が単独で描かれていることが多く、数が増えれば(大きくなれば)、人は小さくなったり、多数の者(人間とは限らない存在)たちが現れたりしています。
このことから、自力の部分と、他力も必要とされる、何かの違いがあるのがわかります。
私たちは、人生で、自力だけで生きていくのは不可能です。そもそも、生まれてからしばらくというか、かなり長い年月、親や養育者がいないと、人として成長どころか、生存することすらできません。
しかし、普通は自立を求められ、または欲し、庇護者から離れて、独力で生きていくようになります。平たく言えば、成人・大人としての独立です。ただ、最近ではニートの人たちも増え、なかなか簡単には独立することができなくなっている状況はあります。(ニート問題については、一般とは見方を変えた私なりの持論がありますので、いつか紹介したいと思います)
それはともかく、常識的には、大人になれば自力で生活していくことになり、それが死ぬまで続くという感じです。
言ってみれば、人は他力で最初は生きていき、やがで自力に切り替え、人生が終わるというプロセスです。
しかし、タロットの図像で見ていくと、なるほど、最初は確かに自力が中心と見えるような、人物がメインとして描かれるカードが並び立ちますが、数が進行していくに連れ、さきほども言ったように、他者存在というものも現れてきて、むしろ、後半は他力中心のようにも見えます。
もし、カードの順序が、人の一生を示すものだとすれば、これは常識的には逆みたいな印象を受けます。
それでも、もっと深く考えていくと、タロットは表面的な生き方、人生だけを象徴しているのではなく、精神や霊的な部分まで表していると見ると、また意味合いは変わってきます。
例えば、私たちは、確かに大人になれば、自活していくのが当たり前で、自力で選択したり、行動したりします。
しかし、人によっては、それが過剰になり、「すべて自分でやらなくてはならない」と、何もかも自力で処理しようとする人がいます。言い方を換えれば、他人に頼らない、任せない人ということです。
これは、成育歴の中で、そうしなければならなかった事情というものが多分に影響していると考えられますが、とにかく、自分が何とかするという態度に固まり、それによって、異常に一人で頑張ったり、仕事を抱え込んでしまったりします。
本当にすべてを一人でできてしまえばいいのですが、実際には、なかなかそうもいかないことは多いです。私たちは(外的な)神ではないからで、自ずと限界があります。
あまりに自分が頑張りすぎるから、逆に、余計に仕事をしなくてはならなくなったり、場合によっては、本来、他人がすべき仕事や(取るべき)責任まで知らず知らず引き受けて、自分どころか、他人にまで無意識的に迷惑をかけている(それに、自分も他人も気づかない)ケースもあります。
大人になり、自立していくということは、何も、全部自力でできることを意味するわけではありせん。
精神的には、むしろ、自分と他人(できることとできないこと)とをうまく切り分け、任せるものは任せ、自分でできないものは他人にやってもらうという、まさに「分別のつく」状態を意味していると言えます。
そして、霊的な面で言いますと、自分という存在は、他人から見えている単一の存在だけではなく、様々な自分がおり、最も高次なものでいえば、それは神性や仏性ともいえる存在が内在していると考えられます。
さきほど、「人は神ではないから自分ですべてはできない」と言いましたが、それは一般的にいう全知全能的な、外にイメージする「神」です。
それとは反対に、私たちには完全性としての神性なる部分を自分や他人の中に見ることができると言っているわけです。
ですから、反転すれば、自分を自分として自覚している肉体的な自我の部分が、「すべてやらねばならない」と思うのではなく、内なる神性の部分が、すべてをプロデュースしてくれるかのような、任せる、委ねる感覚に変わっていくわけです。
すると、霊的な成長というのは、表面的な自力に頼るのではなく、自分の神性を含む、全体的、統合的な、トータルな他者をも含む自力を信頼するという方向性だと気づいてきます。
ということは、普通に思う自力とは、むしろ自分を信頼していない他力に近く、逆に、本当の自力とは、自分も他者も貫いている、全体性の力を確信して出る力であって、一見、他力に近いようで、とても大きな意味での自力だとわかります。
奇しくも、肉体的にも、私たちは年を取りますと衰えてきます。要するに、年々、自分の肉体的、表面的な力や知識だけには頼れなくなってくるというのが自然だということです。
ということは、それ以外の自分の力(精神や霊的なもの、頭の知識だけではなく智慧のようなものがあげられます)や、他者(これは人間とは限りません)の力も使わないと、生きていくのが難しくなるわけです。
だからと言って、悪い意味での依存、収奪をしてよいということではなく(依存は必ずしも悪いとは限りませんが)、先述したように、分別というのも持たないといけません。自分のできることと、できないことを冷静に観察し、分析する力も必要です。
それでも、いまだ大人になっても、表面的な自力で頑張ってしまっている人は、早く、本当の他力を知り、まずは、無理をしている自分を解除し、実際に、任せられるものは任せてみて、捨てられるものは捨てることです。
ここで「捨てる」と書きましたが、それは、変な押しつけの期待や、依存をしないことにも関係します。(よく恋愛や親子関係には現れます)
それは自分を真に信頼することや赦すことにつながります。(一見、他者への信頼に思えますが、結局は自分への信頼と赦しなのです。それがないから、自分ですべてやろうとしてしまうのです)
楽に生きられないことの理由には、ひとつには社会や現状の集合意識的選択のシステムとしての人類全体の問題がありますが(経済問題や、格差社会、組織的人間関係の問題などに関係します)、まずは、自分自身の生き方の問題もあるわけです。(このあたりは、これまでの自戒もありますが・・・(苦笑))
そして、その自分の問題の多くには、抵抗やこだわりがあったり、ここで述べたような、自力での思い込み(自我としての思いの強さ、自分で何とかしなくてはならない、あるいは逆に自分ではどうしようもできない(しかし救いを信用していない自分)という強迫観念)のようなものが影響していたりすることがあります。
そういう人は、自力から、もっと他力へ切り替え、最終的はに真の自力へと発展、目覚めていくことがよいと思われます。
自分を出す(取り戻す)ことの意味
タロットを心理的な象徴として見る場合、いわば、自分の(あるいは他者の)心の鏡として読むことができます。
その理由はいつくかあるのですが、やはりタロット(マルセイユタロット)が、人々の意識のパターンのようなものを描いているからだと考えられるでしょう。
いずれにしても、そうやって、心の中の投影像のような形で、タロットを観察していくと、自然に自分の心と向き合うことになります。
すると、タロットで表される数の「自分の心」があることになり、自分(の心や気持ち)というものは、ひとつではないことか如実に理解できてきます。
こうした、言ってみれば、自分の中にあるたくさんの人格や感情、思考パターンのようなものが、その時々で姿を現し、問題や現実の出来事に対処しているわけです。
ところが、こういった自分の中のたくさんの心には、いいものもあれば、悪いものもあります。
いや、おそらく、すべてはいいも悪いもないのでしょうが、バランスを欠いたり、極端になったり、場面によっては適切ではないものが出てしまつたりすることで、悪いものと、とらえられる心になってしまうと考えられます。
これが抑圧された心や、傷ついた心、高いプライド、自己卑下してしまう気持ち、罪悪感など・・・として、ネガティブにいろいろと表現されます。
最終的にはそれらを調整し、浄化し、バランスを働かせて、統合していくことが求められるのですが、タロットを見ていると、まずは、つべこべ言わず、難しいことを考えず、素直に自分の心(本当の気持ち)を知ることが大切かと思うことがあります。
精神世界・スピリチュアル系ではよく伝えられていますが、もうこれからは、自分の気持ちに嘘をついたり、抑圧したりして生きていくと、かえって生きづらくなるのではと言われています。
これは「自分の好きなように生きる」と言ってしまえばそれまでですが、ロマンチストながら、現実派・リアリスト的(笑)なところもある私としては、みんながみんな好きなことして生きていけるわけがないと思ってしまうところもあります。
ただ、これは、今の社会状況やシステムが変わらないという前提、あるいはその中の範疇や現状イメージでとらえているから、そう思ってしまうというところもあるのです。
つまりは、今の現実という枠の中でしか(または、その延長線上でしか)、物事が考えられないから、最初から否定感覚が出てしまうということです。
現実を打破したり、超越、変容したりするためには、タロットでいうと、「愚者」の姿勢が大切です。
実は「愚者」そのものは、実体(愚者という存在)というより、移行するエネルギーそのものが疑人化されたようなものと言え、形や今の現況に留まる状態とは正反対、別のものになってきます。
タロット的に言えば、現実を変えるために「愚者」になるというより、「愚者」に自分を乗せると言ったほうが近いかもしれません。これは「戦車」のカードも別の意味で、乗るということに関係します。
話を戻しますが、自分の気持ちに正直になって生きるということを進めていくと、結局、自分の好きなことで生きていくという表現にはなりますが、それは今の枠組みで考えてしまうと、すぐ限界や無理だという思いに至ってしまうこともあるということです。
それと、好きなことで生きていくというのが、経済や仕事の観点のみにフォーカスしてしまうのも問題です。
結果的にそうなる(好きなことで経済的に生活できる)人もいるかもしれませんが、プロセスとしては、そうではないこともあります。
タロットの小アルカナ的に言えば、剣・杯・杖・玉で分かれる分野があり、経済的な面で見るのは、このうちの「玉」(一般的にはコイン)の部分となります。しかし、それ以外の三つもあるわけです。
要するに、自分自身を生きるためには、小アルカナ的には4組で表される方法や分野があるということで、まずはそのひとつでもいいので、自分を自由に表現させてみるということが、自分らしく生きるということのプロセスにもなってきます。
例えば、「剣」として思考とか、「杯」としての感情とかがあります。自分らしく生きるというと、心に重点が置かれ、感情的な意味での好きで楽しく心地よい気持ちに注視するみたいなことがよく言われますが、感情以外に、思考の分野もあるのです。
それは、自分らしい思考の仕方というのも知ったり、認めたりするとよいでしょうし、思考そのものを、学びことによって、こだわりから解放させていくという意味にもなります。(他人や常識的思考を解除し、自分の思考を取り戻すこと)
もちろん、感情的なことでは、好き嫌いレベルからでも、自分の気持ちを確認しておくことも最初はよいと思います。
欲求や欲望を出すのはまずいと言われがちですが、確かにそれらは低次のものが多いとはいえ、低次は高次と必ずつながっており、まずは順序として、自分の素直な欲求、欲望、願望も認め、満たすことに応えるというのもあるかと思います。(「悪魔」のカードとも関係します)
結局、自分の中には、最初にも言ったように、いろいろな自分(の心)があるので、それを無理からに押さえつけるより、勇気をもって出してみる方向性によって、隠されていた、あるいは表面意識的にはわからなかった自分の姿というものが見えてくるわけです。
そうする中で、「自分の中の思いと言っても、単なる食欲だった、性欲だった、寂しい気持ちからだった」などいうものがわかってきて(淘汰されてきて)、もっと上のレベルの、それこそ、本当に自分がしたい、生きたい、表現したいと思うものが見つかるようになってきます。
そうやって、自分らしさ、自分というものを受け入れ、認めていくと、ついには、自我(自分を自分だと思う、他人と分ける気持ち)を超えていき、低次で言っていた自分らしさではない、高いレベルの自分らしさ(それは自分の望みと表現が、全体と調和しているようなものと言えます)も現れてくると考えられます。
そして、ここが、今日言いたかった一番のところになりますが、一人ひとりが、自分らしさ、本当の自分自身を取り戻していけば、今の社会システム、常識に揺らぎができはじめ、集合意識的な「愚者」の移行エネルギーが働き、次元そのものが移行し、現実的には無理だと思っていたことが、可能になってくるものと思います。
それは新しいエネルギーシステムの発見であったり、働き方の変化であったり、お金の概念の変容だったりと、いろいろと考えられます。
仕事レベルで自分の好きな生き方ができることを目指すのもよいと思いますが、そうでなくても、どんなレベル・範囲からでもいいので、まずはとにかく自分自身を表すこと、他人や社会の評価、計算・打算ではなく、純粋に自分がしたいことを選択するということを実行していく中で、自分自身を取り戻すきっかけが働いてくるのではないかと思います。
だから、今の仕事や生き方をしながらでも、自分を取り戻していくプロセスは歩めると言え、それを実践していくことで、自分自身が、自分にふさわしい(自分に合い、自分が表現てきる心地よい)状況・環境を作り出していく(引き寄せ系が好きな人は、引き寄せると言ってもいいです)でしょう。
ただ、それは、低次の欲望が満たされる環境や状況とは限らず(現世利益の実現みたいなことで言われるものではなく)、最終的には、自分の個の魂や高いレベルでの心が満たされるものだということも付け加えておきます。(現世利益を表現することが使命の人もいると思いますから、それはそれでOKで、まさに自分の現世的な望みを実現し続ける人生を生きる人もいると思います)
まずは日常生活レベルからでも、個性(自分)を出すこと(自分のしたいこと、やりたいことを表現する)、そこから始めてみましょう。
タロットメッセージ
8月も、もう終わりですね。
まだまだ残暑は厳しいですが、ともかく、暦的には夏から秋へと移行する時で、今年は本当に猛暑というか酷暑であったものの、それもやがて収まってくると思うと、私もそうですが、ほっとされる方もいらっしゃるのではないかと思います。
ということで、このブログを普段ご覧いただいている方に、今悩まれていることや、問題となっていることが、今後どうなるのか、あるいはどうしていけばよいのかを、タロットで展開してみましたので、簡単で抽象的ではありますが、そこからアドバイスしてみたいと思います。
タロットはもちろん、マルセイユタロット(ホドロフスキー・カモワン版)を使い、展開はオリジナルなもので行いました。どんなカードが出たのかは詳細には書きませんが、ポイントにおいては、紹介します。
なにせ、読者皆さんへということで、特定個人へのリーディングではありませんので、具体的になっていないのはご了解ください。(タロットリーディングにおいての具体性を決めるのは、タロットリーダーではなく、本当はクライアント・相談者なのです。ただしタロット占いの場合は別ですが)
ではアドバイスです。
『全体的に、迷いが見えます。迷いの中心にいるのは「愚者」のカードなので、「愚者」の象徴である「自由」や「とらわれのない心、状態」から遠ざかっているのがわかります。
本当はもっと自由に、伸び伸びと過ごしたいのに、または、状況が自分の思い通りになってほしいのに、そうはいかない現実があると感じているようです。
それは、もしかすると、自分のことより、他人や周囲の状況に気遣って、自己犠牲を払ったり、自分さえ我慢すればよいと思っているところがあるからなのかもしれません。さらに、その奥底には、自分が役に立つ人間だ、組織や特定の人にとって重要な人物だと思われたい願望があるようです。言ってみれば、自己価値、自己尊厳の問題です。
一方で、あなたが頑張って、努力してきたことは、人によっては天使、別の言い方をすればあなたの中の高次な存在はわかっており、それを称えています。
また、そうした目に見えない存在だけではなく、あなたの気づかないところで、きちんとあなたを見てくれている(頑張りを評価してくれている)人もいるようです。とにかく、もっと、自分に敬意を払い、自信を持ち、自分の全体を信頼することだと、タロットは言っています。
カードでは、「節制」の天使や「世界」の天使、そして「正義」のカードが、強くそれらを主張しているようです。
あなたに起こっている試練は、一見厳しいもののようですが、乗り越えられるものであり、束縛や狭い世界観の中で、いかに自分の自由が感じられるか、囚われを解放していくかが試されています。
ルールや規則、地上世界での正しさ(つまりは他者や社会、常識の評価)にこだわりが過ぎないか、確認してみてください。規則破り、型破りも辞さないくらいの、純粋で広い見地で、あなた自身を解放してみましょう。
あなたの魂と、この世(現実)のことは、葛藤するところが多いかもしれません。ですが、あなたの魂は、この世情、現実のことさえ、うまく切り分けられる智慧を持っています。
えらそうにする意味の上から目線ではなく、別の意味での高みの視点を持つとよいでしょう。現実にふりまわされる自分と、それを冷静に見ている自分、その後者を意識するのです。
すべては起こるように起きていると認識していく時、あなたの運命は切り替わっていきます。無理矢理に力を入れるのではなく、自然に自分がやりたい方向、あるいは、したくない方向を思って身を任せ、波に乗るような感覚を持つことです。それは、「運命の輪」と「力」が出ていることからもわかります。
これは、自分を奮い立たせてしようとするのでもなく、また何もせず運を天に任す放置的な態度でもないものです。
自分に起こっていることを冷静に観察し、事件そのものと、自分がどうしたいか、どうすればよいかの感覚は別として切り離し、あせったり、怠惰になったりするのではなく、「諦観しながら機会を待つ」「自然のサイクルに乗って、チェンジを図る」というようなイメージです。
要するに、あなたの内なるもの(声)は、どうすればよいかをすでに知っており、それを聞くことのできるようにするということです。問題は、そのために起こっているとも言えるからです。
それから、どうしても、自分の力では解決が難しい、堂々巡りのような状態が続いている人は、客観的視点、他人からのサポートがあったほうがよいので、思い切って、専門家や、援助をしてくれる人に頼んでみましょう。不明確であるところに、あなたの不安や弱い問題を強い問題としてしまっている点もあるからです。
大丈夫です。あなたの問題は解決に向かうよう、すでに天、あるいは内なる魂は取り計らっています。たとえ時間がかかったとしても、それもあなた自身の計画と言えます。気づきが多くなればなるほど、その時間も速くなります。
あとはあなた自身が、それを受け入れられるか、認めるか、赦すかにかかっているのです。』
以上です。
何かの参考になれば幸いです。
「力」のカードのライオン
マルセイユタロットに、「力」というカードがあります。
ほかのタロット種にもあるカードですが、マルセイユ版の場合、シンプルながらも、女性とライオンの図像がしっかりと描かれている印象があります。
数も、ウェイト版(ライダー版)とは違い、「11」で、そのことにはマルセイユタロットのシステム上、この数と順でなければならない意味があります。
今日は、このカードの図像の最大の特徴とも言える、女性とライオン、中でもライオンについて、心理的、あるいはややサイキック的に見てみたいと思います。(ここで書くのは、講座で説明するもの一部や別の言い方であり、詳細の多くや、本質的な意味は講座で語っています)
ところで、大アルカナの中で、ほかにライオンを明確に描いているのは、「世界」のカードです。
そして、当然ながら、この二匹は関係しています。(マルセイユタロットでは、一枚単体の象徴性と、システム・体系・全体として、図像それぞれが関連し合うように描かれているのが特徴です)
その関係性の詳細は講座に譲るとして、それでも、皆さんも、よくライオンの絵柄に注目してみると、「力」のカードのライオンと、「世界」のカードのライオンとでは、同じライオンでも、微妙に異なって描かれているのがわかると思います。
これは、例えば、「女帝」の鷲と、「皇帝」の鷲にも言え、同じシンボルの「鷲」ではあっても、形態や位置が異なり、共通性と異質性に注目することで、組み合わせとしての意味も出ることがわかるようになっています。
ということは、「力」のライオンには「力」の、「世界」のライオンには「世界」の、それぞれのカードにおける個別の意味と、ライオンそのものとしての共通したシンボル・象徴の意味があるということです。
このふたつのライオンについては、口の開け方に一番の特徴があり、狛犬などと関係していると言えば、すでにわかる人には、その意味がわかるかもしれません。
「力」のほう(ライオン)は、女性によって口を開けられているとも言えますし、自ら開けているとも考えられます。「開ける」ということ、それも「口を開ける」ということは、どんなことなのか、一般的に考えてみてください。
まず、言葉や音を発する時に、口を開けるでしょう。モノを食べたり、飲んだりする時も開けますね。動物だったら、かみつく時も開けるでしょう。ここに、表現する意思、あるいは、生命力を維持するかのようなパワーの摂取ということが想像できます。
さて、力には、そのライオンだけではなく、何といっても、それより上部にいるかのような「女性」の存在が大きく描写されています。この女性は、大人であろうと考えられるライオンより、かなり大きく描かれており、何かしらの力の巨大さ(を持つこと)を示しているようです。
ただ単に体が大きいから、ライオンを扱えているとは考えられず、おそらく、彼女は、ライオンをコントロールできる、文字通り何か未知の「力」やコツを会得している、発していると見て取れます。
そうでないと、ライオンは、あまりに従順というか、彼女に抵抗する様子もなく、猫のようになっていないでしょう。
この女性とライオン、そして女性の扱うエネルギーや力の秘密には重大なものが隠されていると思いますが、ここでは、あえてそれにはふれず、先述したように、心理・メンタル的な観点で見てみます。
すると、ライオンは、何かコントロールされなければならない動物的ともいえる衝動や欲求、女性はのほうは、それを無理矢理押さえつけるのではなく、いなしながら、あやしながら、うまく収めている状態と考えられます。
ライオンと女性は、なるほど、動物と人間ですが、このライオンも自分(人間)の一部だとすると、結局、どちらも別でありながら同じ自分であると見ることがてきます。
ほかのカードでも、似たよう表現で、例えば「愚者」において、犬と旅人の姿で、動物と人間を表しつつ、実は、犬も自分の一部かもしれないと匂わせています。(もちろん、それぞれ別の存在として認識したり、読んだりすることもあります)
私たちの心の中には、荒ぶる魂のようなものがあり、神道の魂的な表現では、荒魂(あらみたま)と呼ばれる部分とも言えます。これに対し、やはり神道では、和魂(にぎみたま)という優しく平和な面があり、これが力の女性の部分に該当するのかもしれません。
マルセイユタロットは自身の神性の回復、発露を教義として持つカードたちですから、神道的な見地からすると、荒魂と和魂としての神性の両面性(統合性)を、「力」のカードからも見て取ることができます。
もう少し次元を下げますと、女性とライオンは、まるで親子(母子)のようにも見えてくるので、ライオンが、暴れ、訴え、言うことをなかなか聞かない子供、女性が、それをあやす母親として見立てることができ、そうなると、インナーチャイルド的な「ライオン」と、現在の大人の自分が「女性」の姿として心理的には考えることも可能です。
自分の中には、癒されない子供のような部分とか、愛されていないと思って、すねていたり、消耗・弱体化していたりする部分があり、それが時にライオンとなって、荒ぶることが出てくるわけです。
それを常識的でわかった風な大人の今の自分が、無理矢理押さえつけようとしたり、無視しようとしたりすると、ますますライオンは巨大になって、手がつけられなくなってきます。
「力」のカードに描かれているライオンは、大人の(たてがみのある)雄ライオンですが、図像の雰囲気では、女性にあやされているような、身を完全に委ねているかのようにも見え、言ってみれば、大人であっても子ライオン的な様子です。
しかし、大人ライオンであるということも絵的には事実ですので、このふたつのことを考慮すると、やはり、自分の子供心を大人のように平等に大切に扱うということが浮かんできます。
実はその子供心は、自分のエネルギーやパワーにもなるもので、いつの間にか、常識や社会によって、大人部分の今の自分こそが、ライオンのように飼いならされていたことに気づくわけです。
「力」のカードでは、女性とライオンは一体化しているようにも見え、まさに自分の分身であることが、示さているかのようです。
荒ぶるライオンは、自分の中の子供のような心とも言え、あれがしたい、これがやりたい、こうなりたいという、純粋な欲求のパワーも言えます。また逆説的には、飼いならされて、本来の夢や希望、エネルギーを支配されてしまった大人の自分を示しています。
いつの間にか、自分に限界をはめ、世間体や常識、経済観念、穏便な人間関係の維持などで、壁(檻)を作り、自らのライオンを閉じ込めていることが、私たちにはあるものです。
何か得体のしれない、自分の内なる欲求やエネルギーがうごめき、これまで順調だった心身や環境に、少しずつ狂いが生じてくることがあります。
これは、力のカードで言えば、ライオンを閉じ込め、その存在を無視し、檻に入れて拘束してきたことに、ほころびが生じてきたのです。しかし、そのほころびは、いわば本当の自分に帰るためのレジタンスであり、破壊からの再生と新たな成長を促すものでもあります。
ライオンを赦し、愛し、受け止め、今の自分と融合した時、それは成されます。
女性は巨大な存在で、ライオンも百獣の王として君臨する偉大な獣です。私たちは、自分を卑下し、何もできない小さな存在だとあきらめてしまったり、他人と比較することで、自分の価値を推し量っていたりすることがあります。
そうではなく、あなたはこのようなライオンをも受け止められる大きな女性(男性でも受容性や慈愛を持つと考えます)であり、内にはさらに、動物の王としての莫大なエネルギーと、実現力(獲物を狩る力)を持っているのです。
内なる荒ぶる魂でさえ、表に出し、ライオンが口を開けているように、(象徴的に)吠える(表現する)のです。吠えることは、感情の表出(と安定)につながることは、「月」の犬たちにも言えることです。
すると、天のライオン(「世界」カードのライオン)が、それに呼応して、さらなるエネルギーの振動と協調を生み出し、これまでとは違う、計り知れないパワーをもって、あなたの望みを実現させようとします。
それは地上的なものでも、天上的なものでも、どちらにも生かせる力となるでしょう。
「力」のカードは、一見単独のように見えますが、「愚者」の犬と同じく、あなたにはライオンがついており、決して一人ではないのです。
ライオンは時に実際のサポートしてくれる人にもなりますし、自分が育てるべき人(それが自分にも返ってきます)であったり、癒してくれる本当の動物であったりすることもあります。
「力」のカードを見ていると、信頼と赦しと言う言葉も浮かんできます。それは表現を変えれば、愛の新たな発見と実践ということでもあるでしょう。
自分の信念(体系)を治癒するもの
今年の夏は異常に暑く、体調を崩す人も多かったのではないでしょうか。
そして、いまだ体調が思わしくない人もいらしゃるかもしれません。
私も昔は暑さには強いほうと思っていたのですが、そこそこの年齢になってきて、普段、あまり体力的なケアをしていないこともあってか、今年の暑さはかなり堪えています。いろいろと体に不調が出て難儀していたところです。
まあ、私の信念体系の中のひとつに、「自分は体が弱い」というものが入っているので、何かとその通りになるわけで(苦笑)、これもいわば、自らのせい、自分が起こしているといえばそうなのかもしれません。
ただ、自分が大変さを経験していることもあり、信念うんぬんはともかく、何か起こっていることで、つらい、苦しいという問題状況にある皆さんの実際の気持ちは、よくわかるものです。
たとえ心のデータがそれを起こしていたとしても、痛さやつらさへのケアも必要になります。
こういった信念体系(平たく言えば思い込み)は、実際に何か「あること」が生じて、その印象が、心のデータに刻み込まれるという仕組みがありますから、まったくの妄想や事実とは異なる想像によって、というものは少ないかと思います。
要するに、その人の思い込みは、それを信じ込むに至る何かの事象があったわけです。
ただ、それが、それ以降の人生にも「事実」として必ず法則のように起きるのかというのは、また別で、最初に起こった時はまさにそうであっても、その後も、すべてはそうなるとは限らないという、打ち消しデータが入らず、消されなかったということですね。
強い信念・思い込みになるためには、繰り返しも重要で、人間、三回、同じようなことが起こると、「これは偶然てはない」と思い、四回目になると、「これはもう間違いない」と確信します。(必然、運命であると思い込む)
私の場合も、実際に一般の人より、自分の体が弱いと思える事柄や事件を積み重ねてきたところがあるから、信念となってしまっているわけです。(笑)
そんな中で、その強化された信念体系を崩していくのは容易なことではありません。
なぜなら、それは、その人自身の個性やアイデンティティにもなっているからです。ある信念を抱くことは、今までの自分の歴史の証明みたいなもので、自我として、「わたし」であることを強く意識させているもののひとつです。
信念を失うことは、自らの歴史を手放すようなもので、つまりは、守ってきた自分を捨てることでもあります。
それが不幸や失敗、生きづらさを現状では引き起こすことが多くなっているのに・・・です。
もういらない信念、バージョンアップや浄化・消去しなければならない潜在的なデータは誰にでもあるものてすが、なかなかこれの処理がうまく行かないのも、まず信念だと気づかせないようにする働きもあるからと考えられます。
こういったデータの気づきや変換、浄化は、心理的な専門家やスピリチュアルな方のサポートでうまくいったり、自分自身がそうした(内的)構造を学んだりすることで、活路が開かれることはよくあります。
やっかいなのは、自分自身のデータ・信念だけに終わらず、それがいわば、人類の集合的な(無)意識の構造ともつながってしまっていて、自分の気づきだけでは処理しきれないことがある場合です。(一度変換・消去したと思っていたのが、再発するようなもの)
まあ、これも先に集合意識のデータがあり、それと似たような環境や事件、問題に遭遇したがゆえに、自分の個人的部分と共鳴して、集合的意識のデータが自身に強く刻み込まれたということも考えられ、後先(原因と結果)が逆だとも見込まれるのですが、どちらにしても、結果(現れている問題状況)としては同じだと思います。
このように根深いものとつながっているものは、通常意識の部分ではどうすることもできない(行動したり、判断したりはできるものの、根本の浄化にふれられない)ことが多く、それは結局、神性的な何か、いわゆるスピリチュアルでいう高次の存在、エネルギーによらねばならないことがあると考えられます。
いや、そもそも通常の意識は、起こっていることを感情的、あるいは思考的にただ味わうか、せめて信念を言葉(つまり人間的思考)としてつきとめるくらいだけで、その根の部分の浄化や消去、変換自体はできないのではないかと思われます。
たとえカウンセラーやセラピストなどの方に手助けしてもらうにしても、最終的に治癒を施すのは、自分自身の神性的な部分、力でないかと想像しています。
これをもし、マルセイユタロットで表現するとすれば、「力」「吊るし」「13」「節制」の数の順に並ぶカードたちになるでしょう。
中でも、「吊るし」の状態が重要で、ある程度の探求(原因追及)のあとには、すべてを内なる神性に任せる、ゆだねることにより、神性的な「力」(フォース)が発動し、自身だけではなく、集合的意識の部分まで介入し、そぎ落とし、浄化し(13)、救済が働く(節制)と見ることができます。
しかし、人は、いきなり、ゆだねる気持ちになりにくいのもありますから(疑いや不安がつきまとうもの)、先述しように、通常意識・表面意識での、無駄とも思える探査とか追及をしていくことで、最後には、ついに、自分をゆだねなければならない心境になることがある気がします。
もちろん、最初から瞑想的な境地になり、すべてを大いなるもの、神性的なものにゆだねられる状態になる人もいるでしょう。
結局、その人に応じた気づきや浄化のプロセスというものが、すでに組み込まれているのかもしれません。
またサポートしてくれる人との出会いも、縁や見えない自分自身の内なる働きがあり、一回ですべてよくなるとか、その人がすべて苦しみを取ってくれるなどというのは「悪魔」的であり、自分の「神の家」(神性)に気づくためには、むしろ、自身の力を(段階的に)目覚めさせるサポートがよく、一回ですべて解決することが必ずしもよいとはいえないと思います。
それはタロットリーディングにも言えることではないかと、私は思っています。
