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タロット展開は真実を示しているのか? その1

タロットを学習し、タロットリーディングを実践していくようになると、最初の時とは違った感覚が出てきます。

それにはポジティブなものとネガティブなものがあるでしょう。

今回はそのうちのネガティブなもので、「リーディングにおけるタロットの展開は真実を示しているのか?」というテーマについて書きたいと思います。

まあ、そういう疑問は抱かない人も、もちろんいるわけで、リーディングへの思いというのは人それぞれであるのは理解するにしても、自分のやっているタロット(道)に、実践していくからこそ、すっきりする、クリアーになる状態がいつもとは言えないことがあるのも確かでしょう。

それでも、タロット(道)に限らず、何事も、まったく疑問もなく、純粋無垢に信じ込んでいても成長はなく、対抗する意識(対立する概念)、疑問などがあって、それらを統合(解消)してはじめて、もっと次の段階へと行くと考えられるものです。

つまり、いつも一色、ポジティブ、一面だけでは逆に停滞とも言え、反対に、自分の進む道の過程で行き詰まりや疑義が生じているような時は、飛躍のチャンスだと言えるわけです。

さて、話を戻しまして、「リーディングの展開は真実を示しているのか?」です。

以前、私が所属しているマルセイユタロットの学習グループで、こんなことがありました。

その学習会では、定期的に主に各自のタロットリーディングを、参加者で検討しあうみたいなことをやっていて、会の当日にも、実際にライブでタロットを展開し、それを皆で読んでみる、意見してみるというようこともありました。

ある時、新しい参加者が、自分の問題をタロットで見てほしいということで、その質問をもとに、タロットをライブで展開されました。当然、参加したメンバーは、その質問に基づき、展開を見て、各自いろいろと意見したり、リーディングしたりしていたわけです。

そして、ひとしきり意見が出尽くした頃、その質問者(お題を提供した参加者)がこう切り出しました。

「実は、この質問は嘘なんです、皆さんの実力を知りたくて、あえてこんな嘘の質問をしてみました。でも、誰もこの質問が嘘だと見破れなかったみたいですね、がっかりしました」と。

本当のところを言えば、何人かほかの参加者は、この質問の内容と、出たカード展開、そしてこの参加者(質問者)の醸し出すニュアンスからしても、何か違和感を覚えた(質問の全体に整合性を感じ取れないという思いがあった)のですが、それはせっかく勉強に来られているのだからと、相手(質問者)に失礼かと思い、確認することはなく、普通にリーディングの意見を出し合っていたわけです。

とは言え、展開から、誰も質問が完全に嘘であるということを見破れなかった(言えなかった)のも確かです。

では、この嘘の質問で展開されたもの(タロット図)とはいったい何(を意味するもの)なのでしょうか?

考えられることはいろいろあるとは思いますが、代表的なものに以下の4つを挙げたいと思います。

A 質問が嘘であることを示している展開図

B 嘘の質問ではあるが、その嘘の質問そのものに対応した展開図

C 質問が事実か嘘かは関係なく、この質問者の何からが示されている展開図

D その他 ケースバイケースで、展開の意味が決まるのは別の要因

さて、皆さんは、どう思われるでしょうか?

このケースは今回のテーマにふさわしい面白い事例だったのでご紹介していますが、実際のリーディングの場面においても、特に不特定多数の方がやってくる市場の占い(占いの館とか電話占いとか)の現場では、質問が本当かどうかわからないものが結構あるものだと思います。

ここで結論めいたものを書いても面白くありませんので、ちょっと趣向を変えまして、皆さんからコメントで意見を伺いたいと思います。

上記、嘘の質問に対して行ったタロットの展開の意味は、A、B、Cのうちどれかという形でお答えいただいてもよいですし、あえてDの選択肢を書いているように、どれもでもなくて、ある要素や理由で決まってくるとして、それを書いていただいてもOKです。

また、嘘の質問に対してのことだけではなく、そもそもタロットが出す内容(展開図)とは何なのか?ということのコメントでも歓迎です。

それから、コメントひとひとつに回答していくというものではなくて、皆さんからご意見を伺いたいという趣旨なので、個別回答は期待しないでください。

コメントを見て(コメントはないかもしれませんが・・・(^_^;))、いずれにしましても、このことについては続きを書く予定です。

では、コメント、よろしくお願いいたします。


「恋人」「運命の輪」の縁

マルセイユタロットのカードは単体(一枚)でも、もちろん様々な象徴性を持ちますが、複数組み合わさると、さらに複雑になったり、深くなったりします。

むしろ、そういったコンビネーションの妙のようなものが魅力のひとつだとも言えます。

そうした中で、「恋人」と「運命の輪」のカードが結びつくことで、示唆されるものの幾つかをお話したいと思います。

このふたつは、図像的にも見ても、また神話背景(エピソード)や象徴的にも見ても、実は関係が深いことがわかる二枚です。(マルセイユタロットは、ある示唆により、関連性の深いカード同士は確実に図像の中にその理由を描いています、単なる感覚とかこじつけではないのです)

また、あえて、単純に、そのままカードの名前を並べただけでも「恋(人)」と「運命」、入れ替えれば、「運命の恋(人)」という具合になりますから、何かロマンチックな、ドキドキするような予感もありますよね。(笑)

事実、占い的な読みでは、この二枚が出れば、まさに「運命の輪」が回転し、恋をする人との巡り合う時が来た(来る)と、解釈できないわけではありません。

さて、「運命の輪」のカードには、まさに運命を象徴するかのような「輪」の回転があり、「恋人」カードには、人間たちの上空に、「矢」を射かけている「キューピッド」が現れています。

ということは、人間が捉えきれない、何か特別で不可思議な「縁」が、この二枚の、「輪」と「矢」によって表されていると見ることができます。

一方、両方のカードとも、上と下の存在に分けられています。

「運命の輪」では、「輪」の中で回っている動物二匹と、「輪」の上に乗っている何者ともつかぬもの(スフィンクス)がいますし、「恋人」では、さきほども述べた上空の「キューピッド」と、下の三人の人間たちという構図になっています。

つまり、「縁」と言っても、その縁には二種類あるということ、そして、縁が生じる世界そのものも二元的に見るとよいことがわかります。

それは、言い換えれば、人間自体が動き、結びつけていく縁と、人間を超えた存在、通常認識とは異なる世界で働く縁と言えるかもしれません。

また、考え方(輪の回転性、矢の当たり方等を見ること)によっては、自動的・受動的に働く縁と、能動的・意図的に働く縁とのふたつがあると述べることもできます。

そしてさらに、「運命の輪」も「恋人」も、三種の構造が中心です。すなわち、「輪」の3匹の動物「恋人」の3人です。(ただし、裏には、どちらも4種構造、5種構造も隠されています)

ところで、3つの区分を時間で表すと、過去・現在・未来です。

これは、私たちが「現実」を意識するための時間区分です。(時間は本質的にはないと考えられており、時間を時間の経過として意識するためには、3区分が必要なわけです)

そこで、さきほどの「縁」と重ね合わせると、「過去の縁」「現在の縁」「未来の縁」があると仮定することもできます。

時間が本質的にはないとなれば、実はこれらの3つの縁は、どれも同じと言いますか、つながっており、言わば、すべて現在、今この瞬間に関係すると見てもよいでしょう。

では、わかりやすく、ここで私が言っている「3つの時間の縁」とはどんなものかと述べますと、このうち、まず、「過去の縁」「未来の縁」というのは、現在においては、その縁の真の意味がわからず、とりあえず今に縁は生じている(今、知り合ったとか、現在つきあっているとか、交流が今ある)状態で、その本当の縁の意味は、過去か未来において露わになる、意味が付与されるというものです。

言い換えれば、「現在の縁」とは、ただ生じている縁、意味がまだ何とも言い難いか、今現在にそのまま感じたり、思ったりしている自分(と相手)が認識している意味の縁です。

ところが、その現在進行形の縁が終わったり、変容したりすると、自分(相手にとっての場合もあり)の過去のことや、未来においては、その縁(交流・つきあい)の、本当の意味がわかることがあるのです。

例えば、今この人と縁が持てたから、私の過去のあの未解決・未浄化だった事件がすっきりできたとか、あの人とかつて交際していたことの思い出が、今(つまり過去からすると未来)の生きる力になっている、創作するヒントになっているというようなものです。

こうした、今の縁の意味が、過去や未来において、別の意味になったり、真の理由がわかったりすることがあり、そうした縁は、「運命の輪」の輪の上のスフィンクス、「恋人」の「キューピッド」の次元が知っているものと言えます。

従って、下の関係の次元と上の存在の次元の縁の種類・認識は異なっているわけで、特にこのような二枚が展開で登場するということは、縁の働きの多重(次元)構造の認識によって、今の縁の特別な意味合いを知るということにもなるのです。

そして、大事なことは、ただ受動的に縁を待つのではなく、やはり下の世界、現実世界に、私たちが生きている次元がありますので、ここでの活動が縁を呼びやすくするものでもあるということとです。

天(上)と地(下)は能動性と受動性とで関係しており、私たち現実の人間が能動的になることで、天にも能動性が働き、地上の私たちは、天からの能動的な働きかけを受容することもできるのです。

また反転して言うと、私たちが能動的になる時、天は受動的に私たちのものを受け取り、反対に天からの能動が私たちに作用するとも考えられます。つまりはお返しみたいなものです。

何もせず、棚ぼた的な縁を待っていても、天も地もどちらも受動的になって、何も動かない、働かないという事態になるので、私たち人間の能動性が試されるわけです。


タロットによる選択のこと

タロットリーディングの技法、いや、もう少し限定的な言い方をいたしますと、タロット占いの技術で、どちらか迷っていることを決めるとか、たくさんの選択肢の中からベストなものを選ぶというものがあります。

これは、私の考えるタロットリーディングにおいては、あまり意味を持たないものになるのですが、決して無意味というわけではありません。

タロットリーディングという定義において、あまり選ぶこと、どちらかに決めるという発想自体が、そぐわいなものになるということです。

つまり、求めるもの、回答の導き方、あるいは、答えを出すというプロセスと、その求められる答えというものの質と次元が違うということです。

しかし、逆に考えれば、選ぶこと、選択肢の中からよいものを決めたいという、そのやり方と、レベル・基準においての答え(この場合、まさに選ばれるものが答えですが)やはりあるわけです。(実際に、ひとつに選ばないといけない場面が人間生活にはあるということ)

そうしたものに対応することも、タロットはできないわけではありません。むしろ、占いのフィールドや技術として、とても求められるものだと言ってもよいでしょう。

これは、言い換えれば、私たちの生身の感覚現実や生活において悩んでいることの答えが求められる質のものなのです。簡単に言えば、すごくリアルな欲求であり、現実的な求めなのです。

タロットはあらゆる範囲・レベル(の答え)に適用できると考えられますが、マルセイユタロットにおいては、大アルカナと小アルカナ、特に小アルカナの数カード(数札)と、大アルカナの絵柄はかなり違います。ここから大と小には明らかな適用範囲の違いが見て取れます。

あくまで私の考えですが、マルセイユタロットでは、大アルカナが魂や霊的解放・完成に向かうのに対し、小アルカナは現実・実際面での調整・選択・安定に適しているパートだと思われます。いわば、天に向かうのが大アルカナで、地に向かうのが小アルカナです。

さきほど、選択を求める回答は、現実的、人間的欲求からのものであると言いましたが、そこからしても、小アルカナが選択的な回答に応えるのには適していることがわかります。

有り体に言えば、(現実的な)選択には、小アルカナを使ったほうがよいというか、使うべしなのです。

これは本当に簡単な話で、また論理的(明白)なことなのです。

なぜなら、特に数カードは、数をメインに象徴するカード群で、考えてみれば、私たちが現実の生活で選択に悩むことと言えば、数値に関わることが大半だからです。

時期(年・月・日・時間)もそうですし、数量(金銭・人数・分量)などもそうです。

ただ、私たちは「人間」なので、単純に数値だけでは割りきれない心・感情部分を持ちます。数値的な合理性から見れば、明らかにこちらだと判断できても、「いや、確かにこちらのほうが料金は安いけれども、だからこそモノが悪いのではないか?」とか、疑い・思うこともあるわけです。(笑)

だからこそ、単なる数だけではない分野と性質が、小アルカナには付与(分類)されているのです。それが、四大元素を基本とした、4組の分類です。

一般的にはソード・カップ・ワンド・コインと呼称され、私が伝えるマルセイユタロットでは、剣・杯・杖・玉と言っておりますが、このような4つの性質・種類に分けることで、無機質な数や合理性だけで振り分ける機械的選択になることを、タロットは避けています。

むしろ、この4つのものがあるからこそ、分析もしやすく、自分の価値観、選択がどの要素を中心にされているか(自分の選択の要のようなもの)もわかるのです。

タロットの小アルカナはこの4つの性質に分かれているので、選択においても、自分の選択中心がわかるだけでなく、どの要素がこの場合の選択において重要であるか、基準にすべきかのガイダンスも示します。

私たちの普通(現実)の選択における悩みにおいて、小アルカナを使った技術を使うのは、こういう意味でも適しているのです。

さて、ここでちょっと話題を変えましょう。

選択において、タロットが示すものとは何なのでしょうか? こちらがよいと示す根拠と言いますか、その「よい」の基準のようなものです。

実はこれを考えると、とても難しい問題になります。タロットへの信用と信頼にも関わるからです。

ただ、私から言えるのは、小アルカナは、さきほども言ったように、地上生活への適応をメインとしますので、すなわち、現実的に生きやすい方向性・ポイントを示すのだと考えられます。

しかし、大アルカナが示すのは、逆に地上を超えたものでもあります。(使い方にもよりますし、タロットの種類にもよります) ですから、大アルカナは必ずしも、(人間的)現実生活を充実させるためのことを表すとは言えないわけです。

では小アルカナと大アルカナを併用して、選択を決めるというようなものはどうなのでしょうか?

これはひとつには、大アルカナの小アルカナ化という縮小転移と、もうひとつは、反対に小アルカナの大アルカナ化(厳密にいうと大アルカナの構成要素として見ること)によっての統合上昇という面が出てきます。

何を言っているのか、わからない人もいるかもしれませんが、物事の選択ひとつとっても、タロットは実に複雑なことを見せてくれる(技法や答えはシンプルであっても)ということです。いわば、路傍の石に宇宙を見る、日常の好きだ嫌いだの中で、人生全体の悲哀や歓喜を見るみたいな意味です。(笑)

ともかく、「選ぶ」ということは、私たちが現実に生きるこの人生の中で、何度も、そしていろいろな分野とレベルで行われれていくものです。

いい人生を送ろうと、皆必死で、あるいは楽天的に、毎日を選んでいるわけですが、長い目で見れば、選ぶことの結果ではなく、選ぶプロセスそのものが私たち自身でもあり、人としての一生を象徴しているとも言えます。

大アルカナで言えば、「恋人」カードの葛藤と迷い、選択はいつも行われ、そこに「神の家」を見たり、「月」のようなさらに深い葛藤と選択に入ったり、「審判」のような気づきや覚醒を起こしたりするようなことです。

大いに迷い、大いに選択していきましょう。そして、いつもあなたが選んでいる基準が変化していることも学ぶ(気づく)とよいです。

あなたにの中には、選ぶ基準の違う、選択そのものを楽しんでいる別の人間もいるのです。


「正義」のバランス 普遍・個別・融通性

マルセイユタロットの「正義」は、天秤を持っていますので、バランスを象徴するカードだといえます。

今日はこの「正義」をヒントに、バランスについて考えたいと思います。

「正義」のカードが表す「バランス」についてはいろいろな考え方ができると思いますが、私は、“正義と”いう言葉で表されるそのもの、言葉の奧にある本質を見ればわかりやすいのではないかと想像しています。

例えばバランスには、お金のバランスもあれば、栄養のバランスもあり、人数などのバランスもあるでしょう。

つまりは、いろいろな分野でのバランスはあっても、そこに均衡が働いていたり、文字通りバランスが取れていたりするわけで、そのバランスの基準や割合はまちまちですが、「バランス」というもの(概念が)あること自体は同じなわけです。

個々のバランスのルールや基準が問題ではなく、バランスが取れていることそのもの・状態を言っているのです。

ということは、逆に考えれば、バランスと言っても千差万別、いろいろな種類(基準で)のバランス状態があるということです。これは人間で言ってしまえば、人の数だけバランスの種類があるわけです。

栄養バランスでいえば、Aさんは肉食に偏っていると思っても、Aさんにとってのバランスは取れているのかもしれませんし、Bさんは菜食主義ですが、それでバランスがいいのかもしれないのです。

さて、見た目とか数量で計れるバランスの場合はわかりやすいのですが、見えないバランス、心の中のバランスとなれば、これはなかなか客観的には難しいです。

実は、この見えないバランス部分を象徴しているのがマルセイユタロットの「」の意味のひとつではないかと私は推測しています。それは「正義」と同じ8という数を持っていることからも考えられることです。

それはさておき、私たちは、(見えないですが)心の面でもバランスも働かせようとしていると見ていくと、総合的にバランスが取れてくることがあると思います。

しかし、ここで問題があります。

さきほど、バランスという概念そのものはひとつでも、種類や個差があることは述べました。

そう、心の中にも、そのバランスに違いがあると考えられるわけです。

ひとつ、わかりやすい例で見てみましょう。

ここにAさんとBさんとCさんという人がいたとします。

そして、それぞれの心の中で、「自分と他人」に対する関心と責任のパラメーターのような割合があると過程します。

簡単に言えば、自分のせいにするか、他人のせいにかするかみたいな割合のことです。(笑) あるいは、自分のほうに向いている関心と他人のほうに向いている関心の度合いとしてもよいです。

Aさんは自分の割合が80%で他人の割合が20%、Bさんは自分が30%で他人が70%、Cさんはフィフティ・フィフティの自他が50%ずつです。

こうした場合、AさんとBさんとの人間関係においては、明らかに、Aさんは自分のほうに責任をかぶりたがったり、自分のほうに関心があり過ぎたりする傾向になるでしょう。つまり、Bさんに一方的に主張されたり、仕事を押しつけられたり、逆にBさんに依存(自分に関心の方向があるので、逆にBさんを過大評価しすぎる傾向になります)したりします。

BさんはBさんで、Aさんを軽く見たり、言うことを聞きやすい人、頼みやすい人だと思ったりするわけです。

しかし、Cさんとの関係ではどうかとなりますと、AさんもBさんも、Cさんのフィフティ・フィフティの割合があるので、自分の割合が幾分緩和され、A,B両名の関係よりも、ましなものになるのではないかと想像できます。

ただし、これは目盛りのように客観視できるものがあるとした場合です。今述べた「%」というのは、あくまでこの三人とは無関係な、一般的な概念での数の割合です。

実際は、個別のバランスになっていますから、この三人は、自分の中では、あくまでバランスが取れていると思っている、もしくは無意識のうちにそのようなバランスを取っているということです。客観的には80:20でも、自分の中では50:50のように思い込んでいる、錯覚していると言ってもよいでしょう。

これが、心や内なるバランス性のやっかいなところでもあります。

この三人のうち、Aさんは、特に気疲れする(体力的にもつらい)人生を送ってしまうことになるかもしれません。またBさんは、自分の気持ちはよいかもしれませんが、(自分としては)知らず知らず、他人とトラブルになって、それにより、腹の立つことも多くなるかもしれません。

ですから、今の自分のバランス割合が歪であることを認識する(気づく)ことが大事なわけです。

ところが、心の中のような、見えないバランスですので、自分ではわからなかったり、今はバランスが取れている、問題ないと思っていたりするので、なぜ自分の人生がおかなしことになっているのか、気づいていない場合もあるのです。

それでも、逆から考えれば、つらい・大変だ、うまくいかないと感じることが続いているのなら、それは今の自分の基準でのバランスがおかしいと疑ってみることができます。

言わば、バランスの基準やルールそのものの変更が必要なわけです。それは、一言でいえば、自身の変容であり、モノ見方の変化、さらなる上部的な(統合的)な見方の獲得(の必要性)でもあります。

バランスそのものは大事ではあっても、バランスとされる基準・割合・考え方は変わる必要があるのです。

「正義」のカードは裁判官のようにも見えます。あなたという国の法律は、現実の中で生きている間は、ずっと永遠のものではなく、法律改正をその時々によって行うことも求められます。つまり、「正義」は、本当の意味(状況に応じて)で、あなたにバランスを取れ、と言っているのです。

杓子定規に、いつもいつも同じものを適用していては、それはバランスが取れているとは言い難いものです。

例えば子どもの頃の量のバランスと、大人のそれとでは違うようにです。

「正義」のバランスの普遍性(不変性でもあります)と個別性、さらには融通性を見ておくとよいのです。


タロットからの「待つ」象徴

人間、活動的・活発的な時ばかりではありません。

静かである時、待機している時、控えめにしている時なども必ずあります。

まさに静と動が循環しながら、その時その時で、私たちの生に現れているのだと言えます。

ところでタロットはあらゆる面で、象徴図として活用することができますが、やはりこの静と動の対比においても、象徴性の違いを見ることができます。

今回は、特に「」に着目し、静的な象徴のタロット(大アルカナ)を取り上げ、中でも「静的態度」においても特徴的な、「待つ」ということにフォーカスにして、見ていきたいと思います。

さて、「待つ」ということを示しているタロットカード(マルセイユタロットの大アルカナ)には、どんなものがあげられるでしょうか。

明らかに静的なカードといえば、2の「斎王」、9の「隠者」、12の「吊るし」、18の「」と言ったところでしょうか。

やや静的な感じとすれば、17の「」なども入るかもしれませんし、そもそも人物が活発ではない、動いていない(座っている)ものも静的だと見れば、3「女帝」、5「法皇」、8「正義」なども考えられますし(「皇帝」も玉座に座ってはいますが、半立ちで行動的です)、立っている者でも、あまり動いていない者ならば、15「悪魔」もそうかもしれません。

また、ほかは動いていても、自らは静止しているような状態だとすれば、10「運命の輪」の、輪の上の動物(スフィンクス)とか、「力」とか「戦車」のような動的なものでも、御者(コントロールしている方)を見れば静かかもしれません。

実はタロットは、陰陽的な統合も示しているので、どのカードにおいても、静と動の両方は考えられるのです。(このことはとても重要ではありますが、今回はテーマではないので省きます)

このように、静的なカードというものも、いかようにでも見ることは可能なのですが、今回は、「待つ」こと、「待機する」ことの象徴性に絞って、あえて恣意的に、数枚取り上げさせていただきます。

それらは、具体的には、「斎王」「隠者」「恋人」「運命の輪」「吊るし」「悪魔」「月」です。

ちょっと「静」とは言えないようなカードも入っていますが、これらは、どれも「待つ」ことを意味する(そういう意味を含む)カードたちです。そして、その待ち方に違いがあるのです。

斎王」は、受け入れによって蓄積していく(貯まっていく)ことを待ち、「隠者」は、極めていく過程で指導してくれる者、または反対に指導を受ける者を待ち、「恋人」は迷いの中で、気づき・インスピレーションが起きるのを待ち、「運命の輪」は、ひとつのサイクル(周期)が終わるを待ち、「吊るし」は動きを停止して、観察しながら状況推移を待ち、「悪魔」は誘惑した行方(欲望の火の燃え方)を待ち、「」は本能や自然(天体の動きを含む)のリズムを待ちます。

この中でも、「斎王」と「隠者」、「運命の輪」と「月」、「恋人」と「悪魔」、「吊るし」と「月」、「恋人」と「運命の輪」、「斎王」と「吊るし」など、ある種のペアによって似ている待ち方があることもわかります。

それから、「内的な待ち」と「外的な待ち」があることも見えてきます。

内的な待ち」というのは、自分の心や状態、内側を中心(基準)とした待ちであり、例えば心が落ち着くまでとか、心が満たされるまでとか、情熱が起きてくるまでとか、疲れが取れて来るまで(肉体・精神両方ありますが、いずれも客観ではなく、自分が実感するという基準が主です)とか、自分の感じ方を中心とする待ち・待機です。

一方の「外的な待ち」とは、環境とか組織とか他人とか、自分を取り囲む外側のものの状況・サイクルが整うまで、変化するまで待つというようなものです。

言ってみれば、どちらも「機が熟すまで待つ」ということなのですが、それには、内側と外側の「ふたつの熟し方」があるわけです。これを一枚のカードであえて示せば、「運命の輪」のタイミングとなります。

ただし、スピリチュアル的に考えれば、内と外は同一、見方の違いでしかないので、結局、内の待機も、外の待機も、同調していると見ることができます。(物事には終わっていくタイミングと、満ちて始まるタイミングなどがあり、それが内外で一致していくことも意味します)

さきほど、一枚で示せば、「待ち」も、つまるところ「運命の輪」のタイミングとして表せると述べたように、ほかの待ちのカードも、「運命の輪」と重ね合わせることで、待つ要素の性質や種類を分けることが可能になります。

それは「斎王」として待つのか、「月」としての待ちなのか、「恋人」としての待ちなのか・・・という具合です。ここに数と四大元素の違いを明確に持つ小アルカナも稼働させれば、具体的な待ちのタイミング期間や時期についても予想することができます。

とかく、今の時代、意図的・人間的(他人の作った)情報があふれ、その刺激によって、自らの静的な状態、待ちの姿勢が崩されることが多くなっています。

電池にも充電が必要なように、そして物事にはタイミングがあるように、待機したり、待ったりして自分自身を確かなものにしておく保持期間が必要とされるのです。そういう意味では、「吊るし」で象徴されるよな「籠もる」ことも、かえってよいことにもなります。

「静」は「聖」と言葉でもつながるところがあり、普段の俗的な中での動きによって消耗し、低俗になり過ぎた自分に対して、静は、神聖さを取り戻す、神や高次のものとつながる、俗とは区別された時間や場所を意味します。

静的なカードや待ちの象徴のカードが出た時、そのことを意識するとよいでしょう。


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