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タロットリーダーはタロットを信頼する。

タロットを学ぶと、タロットの活用として、もっともポピュラーな「タロットリーディング」をしてみたくなるものです。

いや、してみたいというより、学習する過程では必須の事柄と体験と言ってもいいかもしれません。それだけ、タロットの活用においては、タロットリーディングは重要なわけです。

こう書くと、もしかすると、タロットリーディング以外の方法でタロットを活用するやり方があるのですか?と思う人もいるかもしれませんが、それはたくさんあると言っておきましょう。(笑)

しかし、そう思う人がいるくらい、やはりタロットといえば、リーディング、そしてもっと普通の人が思うもので言えば「タロット占い」が当たり前になっていると言えます。

ただし、私の考える「占い」と「リーディング」は別物です。とはいえ、やり方としては同じ方法を使いますので、リーディングの一部に占いがあると述べてもよいかもしれません。

さて、タロット占いにしろ、タロットリーディングにしろ、展開されたタロットの象徴性を読み手(タロットリーダーや占い師)が読んだり、解釈したりするわけです。

読み手であるタロットリーダー側に必要なことは、もろちんタロットの象徴性の知識や意味、展開方法(タロットの引き方と並べ方)とその配置の意味などになりますが、それ以前に、大前提として大切なのは、タロットを信頼しているかどうかということです。

タロットをする人がタロットを信頼しなくてどうする? という話なのですが、これはいろいろな意味(種類)での信用性があるので、少々やっかいなテーマなのです。

当然、タロットを活用する人は、全員タロットを信頼しています。

しかし、ただのツール(道具)としてしかタロットを見ていない人にとっては、タロットを本当の意味では信頼していない人もいるかもしれません。例えば、お金儲けやパフォーマンスが目的で、「別に道具は何でもいいんだけど、占いと言えばタロットが人気らしいから使ってみる・・・」みたいな感覚の人です。

まあ、そんな特殊な人以外は、普通はタロットを信頼しているからこそ使える、使おうと思えるはずです。

しかし、基本は信頼しているものの、いざ、他人に対してタロットリーディングを行って行くようになったり、また自己リーデイングをやってみたりしていく中で、どうにもタロットがよく読めない時とか、本当にタロットが言おうとしているのはこれでいいのか?・・・一体、何を伝えようとしているのか?とか、信頼性に揺らぎや混乱が出る場合があります。

その前に、タロットは本当に信頼に足るものなのかどうか、学習(知識)過程だけでは実感しえないところもあるので、インパクトあるタロット(リーディング)の体験も経験していくことが望ましいでしょう。

これを私は「神の家」体験と言っています。「神の家」体験は、理屈を超えた衝撃的なもので、しかしよく考えてみると合理性もあるという不思議な体験です。

そうしたことを経て、タロットへの信頼が揺るぎないものになってくるのですが、それでも、タロットリーディングの活動を行っていくと、先述したように、迷いや疑問も出てくるのです。

それは、実際にタロットを読んでアドバイスしたものが、あとの報告で間違っていたとか、リーディングの内容がピンと来ないものだった(占いでは当たっていないというもの)とか、クライアントから指摘される類のものからのこともあります。

そうすると、結局、何をどう信頼すればよいのか、信頼性の根拠というものがもともとわかりづらい(抽象的な)ので、特に具体的な占い内容とか、アドバイスとかになってくると、カードを読んで出した内容と齟齬を来すことも十分にありえるわけです。

この(齟齬や間違いと感じるものが起こる)仕組みについては、私はタロットの講義で詳しく説明していますが、今は長くなりますので、割愛します。

ただ、今回の記事の言いたいことにもなるのですが、簡単に述べると、リーディングにおいて、タロットへの信頼性に揺らぎが出るというのは、あくまでタロット自体の問題ではなく、タロットリーダー側にそれがあると思っていただければよいということです。

タロットという象徴は、すべて信頼に足るという大前提が必要です。いわば、大げさには、宇宙そのものや、知りたいこと全部を象徴していると考えます。

そして、質問に応じたもの、あるいは、その時に必要なクライアントの示唆の「形」がそこに出ていると見ます。

タロットというシステム(78枚、または22枚と56枚というシステム)が(大)宇宙そのもので、質問に応じて展開されたタロットは、個人(クライアント)のその問題に関連して示された小宇宙の世界です。

この小宇宙とタロット全体としての大宇宙(22枚の大アルカナを全体の象徴と見ることも可能です)がシンクロし、私たちは個別の問題を扱いながらも、大宇宙のシステム・モデルに還元・調整していく作用にもなっているのです。

シンプルに言えば、展開されたタロットに、大きな意味、本質的に間違いはないのです。言い換えれば、そこにすべてがあるのです。(すべてのカードは出ていませんが、選ばれたカードが小宇宙として、全体の小さなモデルでもあるということ)

要するに、リーディングに間違いが出たり、タロットの信頼性に疑問符がつくようなことになったりするのは、読み手側の意識とか、読む階層・分野、そして適用がズレているということなのです。

読み手も、そしてクライアントも人間ですから、人間は本来的には完全性を持ちますが、一方で、通常意識においては、低次や動物性など、様々な不完全性に虚飾された存在でもあります。

ゆえに、お互い(読み手と受け手)のズレ、タロットとリーダーとしてのズレも生じるわけです。

結局、間違い(いい・悪い、正解・誤答)というのは人間が決めた概念(規則・価値観)によるものですから、タロットに間違いなどなく、どう解釈するか、どう読むのかの人間側に問題があるのです。

そして、そもそもタロットが間違いだと思っている(信頼がない、薄らぐ)時点で、タロットは扱うことはできません。それは何より、タロットにもそうですが、リーディングする相手(自分への場合は自分)に失礼な話です。

間違っていると思うものを基準・テキストのようにして語るなど、本質的には詐欺師そのものとなるからです。

タロットリーダーは、何よりも、そしてどんな状況においても、自分の使うタロットを絶対的に信頼する必要があります。そこから修行が始まる(マルセイユタロットでは「手品師」の象徴)と言ってもいいでしょう。

あなたが引いた、またはクライアントが引いたカードに「すべてはある」のです。


二元統合へのアプローチ

まず予告的なお知らせをしておきます。

東京でのマルセイユタロット講座(基礎ハイクラス)を、6月から8月にかけて(土日ベースで)開講する予定です。

詳細は時期が来ましたら告知いたしますが、関東圏、東京での受講を希望している方は、この機会をご検討ください。ほかのところでマルセイユタロットを学んだ方でも、もう一度改めて学び直したい、今後、マルセイユタロットを継続して学んで行きたい(リーディング技術など学習指導してほしい)という人にも門戸を開いておりますので、お問い合せくださいませ。

なお、個人講義として日程も自由に組めるスカイプ講座もありますから、通常の講座や関西に通うことが難しい方は、スカイプでのオンライン講座もご検討いただければと思います。

さて、本日の記事です。

マルセイユタロットの教義には、大元になるものと(普遍的で抽象的なもの)、細かな個人個人に関するもの(個別的で具体的なもの)とがあります。

その大元になるもののひとつに、二元統合という概念があります。

二元とはふたつのもの、ふたつの性質、ふたつの次元と言ってもよい、要はふたつに分かれているもののことです。それをひとつに統合すること、それが二元統合の意味です。

マルセイユタロットの大アルカナを見れば、ふたつのもの・二人の人間が描かれていることが多いことに気がつきます。

もちろん、三人とか四人(3つとか4つ)の数になるものもあるのですが、例えば三人であっても、一人を中心としてみれば、ふたつのものの間にいること、四つであっても、二つずつに分けられることを思えば、二元統合と関係している趣旨を見ることができます。

人の場合、二人の人間(の統合)となるのですが、心理的には、別の自分という表現はよくされますし、皆さんにもなじみがあるのではと思います。

心理的に言う、もう一人の自分とは、シャドーや抑圧された者であったり、無意識の自分の部分であったり、また、自分を律したり、教育したり、指導したりする自分、反対に許し、癒し、優しくする自分ということもあります。

要は普段(日常)の自分と、特殊であまり自覚できない自分とがいて、それらも結局すべて自分であるので、統合すれば完成された自分(自己)として、全き人になるという考え(方)です。

これをもう少し、スピリチュアル(霊)的表現に変えれば、低次の自己と高次の自己がいて、それを統合すると完全性、神性的(仏教的には仏的)人間になるということです。あるいは、性質として見れば、女性性・男性性の統合と考えることもできます。(神的状態とは両性具有)

このような二元統合で難しいのは、普段、高次の自分、より尊い自分がわかりづらいということです。そもそもその意識に芽生えれば(覚醒すれば)、統合の苦労もないとも言えます。(苦笑)

逆に言うと、ノーマルな人間的、時には動物的ともいえる(低次の)自分はいつもそこにいるわけで、それが自分の普通状態なので、なかなか高次の自分、違う自分がいると言っても実感しえないわけです。

これは、単純な二元で分けようとすることと、あまりに統合を高尚なものや、高いレベルの愛・スピリチュアルで考えようとするから難しいのだと言えます。

何事もレベルや段階があります。

そして、二元統合へのヒントは、おそらく反対の分離した二元状態をもっと自覚することにあると考えられるので、まずは何と何が分離状態にあることかを意識する・自覚できることが最初だと思います。

言い換えれば、統合意識(目的・理想)から入るのではなく、分離状態を認める、観察することから始めるのです。つまりは現状観察です。

ただし、今までの日常的に流されてしまう通常意識では観察態勢に入れません。

観察するには、観察する観測装置か、観測環境(状態)を作る、入手する必要があります。そのためにタロットがあり(ほかのツールでももちろんOK)、瞑想とか、内省とか、孤独(一人になる)とか、日常意識状態から非日常意識状態へと移行する手続き、環境作りが求められるわけです。

そうした観測意識状態を意図的に作るということが大事です。次に、「レベルや段階がある」と先に書いたように、いきなり高いレベルの統合を思ったところで無理なものは無理です。(笑)

二元統合のもうひとつのヒントは、二元が無数に枝分かれする連続二元構造になっているのを知ることです。

どういうことかと言いますと、大元にふたつに分かれたものが、その両方でさらに二つに分かれ、その分かれたふたつが、またそれぞれでふたつに分かれていくようなものをイメージしてみれば、このことがつかめると思います。

下の階層に行けば行くほど、低レベルの二元分離状態になっており、実は低レベルなものほど、具体的なものに近づき、個性的でわかりやすい状態にあるのです。(このことを説明するのには少し長くなりますので、今はそうしたものだと思っていただければよいです)

個性的でわかりやすくなるというのは、個人レベル(自分の感じ、考えるレベル)でわかるというもので、言い方を換えれば、今の自分の世界でわかっている範囲でOKということです。

つまり、他人や本などで得る知識とか感じ方ではなく、今、自分が感じている「悪い自分」「欲望に負ける自分」「低俗な自分」「嫌な自分」と、「良い自分」「積極的な自分」「負けない自分「愛あふれる自分」「崇高な気持ちになっている自分」のままで、その分離を自覚すればよいということです。

難しく考えるのではなく、自分レベルで、何かもう一人の別の自分がいること、特に、ダメな自分を見ている自分がいることを感じ、思考することです。その日常的ではないもう一人は、厳しく機械的な自分の時もあれば、すべてを許し、見守ってくれる優しい自分のこともあるかもしれません。

いずれにしろ、何かいつもの自分とは違う別の者がいると感じているはずです。そうでなければ自己の反省も、愛情も、成長も、改革も、比較もできないでしょう。

こうやって見ていくと、低次と高次で単純に分けるのではなく、低次、つまり普通の弱く流されやすい自分の中に、それを応援し、見守り、時に厳しく叱るような自分がいることを普通に感じるもので、それは低次の中の高次なのです。

この場合の高次は、最初に分けた低次と高次と無関係ではありませんし、最初の高次と同じ性質を持つのですが、レベルや次元においては別物なのです。

言い換えれば、その高次は、あくまで通常レベルで感じる、ちょっと高い部分の私というものなので、自分自身で届きやすく、感じやすい(自覚しやすい、わかりやすい)のです。

そうしたレベルで分離した二元を意識すれば、統合の道も開きやすくなります。

とはいえ、レベルの低い段階からの統合ですから、急激に変化があったり、突如現実が変わったりするものではなく、つまりは夢のような魔法的方法ではなく、コツコツとした経過を辿るもの(方法)です。

しかし、レベルは低くとも、確実に統合への道に入るわけです。統合された分、分離状態は解消され、次のレベルの統合段階へと移行します。階段が上がるということは、下の階層は卒業しますので、文字通り、次元の異なる経験・見方を今後はしていくことになるのです。

また、二元統合の道には、見方を変えれば、自分の中の二人の統合だけではなく、自分と相手という二元とその統合もあるわけで、さらに、自分の中の二人、他人の中の二人という、これまたふたつの存在のクロスにもなっているのです。

二元統合は四元統合と関係している(二元統合は四元統合の意味でもある)ことは、タロットで象徴される四大元素を見るまでもなく、言えることです。

女性性・男性性で言えば、それぞれの異なる性を内に見るだけではなく、異性相手との間にも、自分の性と異なる相手の性、さらにはお互いの中の異性を統合していくことでもあります。

パートナー関係においても、これに精神と肉体というふたつ(二元)の統合観点も入れることで、上述した性質(女性性・男性性という二つの質)の二元統合のアプローチもまた深淵なものにしていくことができます。

あえてソウルメイトやツインソウル的な考えを入れれば、それをスムースに協力して行える関係の者同士がそれであるとも言えますし、反対にスムースにできない人であっても、二元統合の意味で、現実の関係や表現はどうあれ、対立しつつも深め合うことができる関係の者ならば、やはりソウルメイトと言えるかもしれないのです。


「13」の吐き出し

マルセイユタロットの名前のない「13」のカード。

絵柄が強烈なだけに、最初は怖い印象を持つ方が多いのですが、意味がわかってくると、どんなカードもそうですが、カードにいいも悪いもないことがわかってきます。

そう、13には13の役割があるのです。これまたどのカードもそうですが、その根源的な象徴性はひとつでも、具体性・現実性として見ると、多様な意味を持つ事になります。13もしかりです。

その多様な意味の中のひとつに、デトックス的な吐き出すような浄化(作用・作業)というものを考えることができます。

これには、もちろん、物理的な意味での吐き出し・浄化もあるのですが、むしろ心理的な部分での意味を見るとよい場合があります。

私たちには、心理的なデータ(人生で受けた感情的・意識的な記憶のようなもの)がたくさん自分の中に眠っていると考えられます。

それは心の癖のようなものでもあり、また知らず知らず自分を動かしている信念や思い込みのようなものであったりもします。

自分でわかっているものもあれば、無自覚なものもあります。一般的にやっかいなのは、自分で気づいていないデータ群のほうでしょう。

潜在意識(とひとくくりにするには問題があるとは言えますが)にある記憶・記録のようなものです。

それらが今の自分に問題となってくる場合、昔の自分にとっては重要なものであったのに、現在では必要のないもの、むしろ自分を困らせるものになっていることがあります。

また、いわゆる抑圧された感情と言いますか、本当の素直な気持ちとは裏腹な、仕方なく偽の自分を演じて、内部的に葛藤を起こしてしまっているデータというものもあります。

この解消には、第一に、そのデータ・記録状態に気づくということがあげられます。

しかし、長い時間を経過していると、そこから来る葛藤でさえ、もはや無意識と言いますか、自動的になっていて、習慣みたいになっているので、不快感よりも逆に表面的には心地よさを感じてしまっていることがあります。

従って、独力での気づきには困難なことがあり、(専門家的な)他人のサポートが必要とされる場合があるのですが、それでも何とか一人で、自分の妙な感情や、抑圧している葛藤の気持ちに気づいてきた時、そのシステム(何の対立・葛藤なのかという分析・原因)がわからないにしても、とにかく不快さを何とかしようと行動に出ることがあります。

そしてたいていは、好きなことをしよう、嫌なことはやらない・・・みたいなことになって、旅行したり、自然とたわむれたり、親しい友人と過ごしたり、趣味を始めたりします。

全体的に他人に気遣おうとせず、自分中心で行こうという、まあ、感情に素直にとか、自分の感覚に従おうという行動を志すわけですね。

それはいいのですが、もともと葛藤している根本のデータがあるわけです。

それは奥の方で押さえている本当の気持ち(の自分)と、実際の生活においては波風立てないようにしているもう一人の自分との戦いの状態とも言えます。

波風立てないため・・・というのも、実は本当の理由ではなく、自分の恐れこそが真の理由であり、その恐れは自分が正しいということが否定されることへの恐怖や、つまるところ、自分自身の価値に関わることであって、言ってしまえば自分で自分が認められるかどうかにつながっています。

ともかく、抑圧されている純粋な自分、正直な自分(の感情)というものがあり、そのふたを開けることが恐さでもあるわけです。

長くなりましたが、ここで「13」なのです。

結局、自分の気持ちに素直になろうとしても、このふたの底に眠る本当の自分を開かない限り、今やろうとしているものは、嘘ではないものの、これまた表面的な「仮の素直な」自分の気持ちなのです。

ですから、最終的には、いや逆に、「最初には」と言ったほうがいいかもしれませんが、ふたの奧に抑圧されている自分の感情(データ)を吐き出す必要があるのです。

状況的にはもう無理なのかもしれませんが、過去の自分が受け、その時生じた本当の感情(それは今も存在し、継続しています)を吐き出す、言葉で表現するということです。

理想的には、相手があるならば、当時のその相手に向かってはき出すのがいいのですが、さすがに難しいところもあるとは思いますので、それでも相手がいなくても、吐き出すということが大事です。

それはきっと暴言じみたことになるかもしれませんし、人としてどうかと一般的には考えられる言葉や表現も出てくるかもしれません。

そんな世間の道徳観や、スピリチュアル的な高次の愛(すべて受け入れること)とかいう、聖人君子のような人の言葉に影響されず、キライなものはキライ、嫌なものは嫌、ものすごくつらかった、苦しかった、傷ついた、そんなこと言われてもできねぇーんだよ! おまえ、いっぺん死ねや!とか(笑)、自分がしまい込んだ感情は、そのまま思いきって吐き出すのです。

「13」は、そんなあなたの心の吐き出しを応援する存在でもあります。

時には15の「悪魔」のカードと協力してもいいですし、17の「星」と共同で行うと、もしかすると洪水のように言葉が出てくるかもしれません。(これらのカードは無意味に選んだわけではなく、きちんと象徴的・数的にも意味があるものです)

私たちは感情を持つ人間です。

ここでは「データ」という言い方をしていますが、それはあくまでわかりやすくするための方便で、感情は水のように揺れ動き、また淀み、さらに流すことができる固定(体)と気化の間の流動的・中間的存在です。

こういった水的なものを持つがために悩まされもしますが、逆に私たちはあらゆる体験を、機械的なものではなく、感情的に(波動のように)色濃く経験することができるのです。

つまりは皆一様なものではなく、一人一人振幅があり、同じ体験であっても、受け取り方は様々ということであり、さらには水のような影響として、一人だけのものではなく、他人との共感も可能です。

しかし、それだけに、自分や人の中で淀んでしまえば、腐り、まさに同じ発音の「鎖」として自他を縛ることにもなりかねません。

水質浄化のためには、薬品を混ぜることで可能になることもありますが、まずは沈殿している泥を吐き出す浚渫作業も重要となります。表面がいくら澄んでいても、泥がかき回されればまた濁ってしまうからです。

「13」が鎌で掘り起こそうとしているのは、この黒い泥・土だと考えられます。(ほかの意味も、もちろんあります)

泥は泥だけに、きれい事ではないのです。いくら美しい景色を見たところで、また本や人から理想的なことを学んだところで、まさにドロドロとした感情の部分自分の泥を吐き出さないと、単なる一時しのぎでしかないことがあるわけです。

泥を抱えて生きている、もう一人の自分と向き合う時期は、必ずやってきます。その時が来たら、怖いですが、泥田の中に入り(準備はきちんとする必要があります、そうしないと、ぬかるみにはまって動けなくなることがあります)頑張って掻き出してみましょう。

そして、泥には有機物や微生物がたくさん存在しているように、最終的には、泥の中にも宝があったことを知るのです。


タロットと三角構造、そして現実。

今日もタロットのカードの中の構造の話になります。

私が中心に使っているマルセイユタロットは、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットです。

このタロットの特徴は、極めて精巧に作られているその図像にあります。一見しただけではわからないのですが、その精密さを知ると、大きな驚きと敬意が起きます。

言いたいことは、単にタロットの印象からだけのものではない、絵の(緻密な)構図や像の秘密があるということです。だからこそ、タロットを見る側の観察眼が向上すればするほど、このタロットはさらに奥深い意味を供給してくれることになるのです。

そういうものの中に、三角構造というものがあります。

これは、カードによっては、三角の位置関係を強調しているものがあるということです。

実は、マルセイユタロットの精密なタイプのものは、幾何学的構図をもとに、精巧な計算によって製作されているため、円や正方形、三角形(その組合せによって生じる図形)など、古代象徴のうえで基本となる重要な図形は、タロットに取り入れられているものです。

ですから、三角形も、マルセイユタロットのどのカードにも見られる図形ではあります。それでも、特に構図的な強調されているカードがあるわけです。

三角形には上向きと下向きがあり(厳密に言えば、それだけではありませんが)、形で書けば▲と▼です。

上向きのもの▲は、いわゆるピラミッド型で、上に行けば行くほど、範囲が狭くなり、最終的には一点に集約されます。逆に下向き▼は、上側が広く、下側に向かうほど一点に集中していくものになっています。

▲、こちらのほうは、おそらく人類の歴史の中での基本構造ではないかと考えられます。

宗教的にはカースト制度のようなものもイメージされますが、要するに、より少ない上部者と、その他大勢の層の者たちという構造で、上に行くほど数が少なく、しかし権力は上がるというものです。つまりはヒエラルキーの世界です。

端的に言えば、経済原理の社会構造と言ってもいいかもしれません。また、経済だけに限らず、どの分野にしろ、この上向き▲構造が支配原理として息づいていると考えられます。

逆に言えば、この構造が意識される時、もっと言うと働いている時、支配(点から面へ、つまり一部と多数の支配構造)は確立されるということです。

学校のクラスでも、会社の組織でも、スポーツの団体でも、学びのシステムでも、宗教の組織においても・・・とにかくこの▲が見られるわけです。

では、反対の下向きの▼はどうでしょうか。上に行けば行くほどたくさんになり、広くなるシステムです。多くの人が少ないものをコントロールするみたいな感じですが、多数決などはこの原理にあるのかもしれません。

しかし、▼によるシステムと言いますか、支配構造はなかなか思い浮かべるのは困難ではないかと思います。

企業システムのあり方として、逆ピラミッド型構造の▼は、上司や上部的な人が、多くの社員や部下が顧客のために応えやすい環境、体制を整えるような組織として現場の意志決定権も移譲し、トップタウン的な命令型から、少ない層が多くの者を下から支えるようなサポート型に回るような意味で言われることもあります。

それでも、やはり組織そのものとしては、ピラミッド型・ヒエラルキーのある型が普通でしょう。

結局、私たちは現実の生活において、このように様々なところでヒエラルキー・ピラミッド型の▲構造に、実際、支配されているところがあるわけです。しかも無意識にもそうされているところがあります。

無意識というのが重要で、最初は形(組織)として▲構造の中にいるだけだったのが、いつのまにか、心の中にも▲構造が築かれてしまい、無意識のうちに、▲の中に自分を収めないと安心できない心理構造にさせられているところがあるのではないかという危惧です。

もし、自分が▲の下のほう、被支配者的な立場というものを強く意識した経験があるのなら、心の中にもそれが刻印され、自分は▲の下の者でしかないのだという洗脳状態にもなって、どの分野の組織に所属しても、自分は下の者だ→下でいいんだ→下でいるしかない→(自分が上にいるための)もっと下の者はいないのか下の者を作る・・・という悪循環的な罠にはまってしまうことにもなりかねません。

また、たとえ「下の者トラウマ」がなかったとしても、▲構造の意識や現実組織がたくさんある限り、上やトップを目指すという意識が芽生えるのは仕方のないところです。そして、上に行くほど支配ができる、楽になる、自分の思い通りになる、多くの資源(人間も含む)を利用できるという心理にもなってくるでしょう。

ここで、鍵となってくるのは、▲構造意識の変換です。それは逆向きの▼にポイントがあると言ってもよいのではないでしょうか。

さきほど、▼の組織は想像しづらい上に、現実的にも存在しにくい話をしましたが、形のうえで▲であっても、意識のうえでは▼を作ることで、新しい意識と組織が創造できる可能性があると考えられます。

それは、結局、ミクロとマクロの関係(の見方の統合)に帰する気がします。モノの見方の転換と言ってもよいでしょう。

シンプルに言ってしまえば、▲と▼の構造が同じであるような意識の形成です。

上に行けば行くほど、少数となるのが▲ですが、これは上の一点に集約されて行きますからミクロ的方向でもあります。しかし、上に行けば行くほど拡大されるというものを考えると、マクロ的にもなります。

ここで気化という現象を考えましょう。

気化は言わば空気化するようなもので、例えば水が気化するとすれば、水蒸気になって空気中に含まれて見えなくなります。水が細かい(小さい)粒になっているわけですね。しかしミクロな粒子として水は存在してはいても、拡大したかのように空気となっているので、空気の一部として見ればとても大きさ存在(マクロ的存在)になっています。

内的な表現で言えば、階層が上がる度に、意識が拡大されていくというものでもあります。

それは全体に飲まれるのではなく、一人一人独立した意識を持ちながら、全体として連繋し、集合的なネットワークを形成しているシステムと言えましょうか。ああ、こういえば、PCとネットシステムに近いかもしれません。

また、ちょっと違うのですが、アニメの「攻殻機動隊」という作品では、スタンドアローンコンプレックスという、孤立しつつも複合体になっている意識というものが描かれていました。これはコピーによる支配も生み出す危険性もあるのですが、従来のピラミッド型・ヒエラルキー型組織に一石を投じるもののような気もします。

▲と▼を合わせると六芒星になるのがわかります。その六芒星の周囲に線を引くと六角形になり、円に近い図形になります。

六芒星の象徴的特質として、結合や統合、連繋という意味が見いだせます。タロットの図像にも、▲と▼の両方が描写され、その結合が示唆されているものも見えます。

目的や課題が六芒星の中心にあり、それに向かって、情報を共有しながら、周囲が知恵を出し合い、適切な働きかけ・行動を、各々と組織全体が行うというシステムというのが見えてきます。

こうしてみると、私たち自身を苦しめているのは、まさにほかならぬ私たち自身にあるのだと気がついてきます。正確に言えば、私たちの(個人と集合の)認識力の問題と言えるでしょう。

構造(形・現実そのもの)が悪いのではなく、私たちが今の現実を事実的な現実として認識させている、私たちの中のモノの見方(認識力・思考と感性の集合力)に問題があります。

いわゆる「悪魔」は内にあり、その投影されたパワーが外在のものとして(実際的に)現れていると表現できるかもしれません。

少なくとも、▲構造の支配原理に気がついていくこと、▲の中に▼を見出すこと(その逆もまた真なり)が、従来の認識のままでいることからの脱却につながるヒントになるものと、マルセイユタロットからもうかがえるのです。


タロットの中の人物構造

マルセイユタロットの大アルカナのカードには、いろいろな分類の方法と言いますか、視点の違いによる区分けが可能なところがあります。

その中のひとつとして、絵柄に出ている人たちの人数によって分けるやり方があります。

単純に図像の人物が一人か、複数かということなのですが、よく見ると、複数の人物(動物)が出る場合、たいてい、2対1、あるは3対1の構造になっていることに気がつきます。

これにはタロットが示す深い意味と意図が隠されていると考えられるのですが、それはひとまず置いておき、別の観点からこのことについて見てみます。

2対1や3対1(時には4対1)という構造は、つまるところ、複数と一人グループと別の一人(ひとつ)という形式になっているわけです。

そして、それはまた、グループになるものが、ある共通のことで結ばれている関係を意味し、それに対しての、ほかの「ひとつ」は、グループとは異なる本質があることになります。

さらによく図像を観察すると、共通のグループのものの位置と、別のひとつのものの位置も異なっていることがわかります。

位置を「あるレベル・次元」と想定すると、グループの次元と、別のひとつのものの次元は、違っている層にあると言えます。

まさに同次元と別次元の違いなのです。

さて、複数の人間が集まると、そこにはコミュニケーションや選択の問題が出ます。

人の集まりあるところ、まず間違いなく、人間同士の会話やコミュニケーション、意思疎通、情報交換が行われています。しかも、その集まりに同じような目的があったり、考え方などが同じ人間達であったりすることも多いわけです。趣味や関心が共通している人たちと言ってもよいでしょう。

その人たちが、仮に、何かの目的のために情報交換をしに集まっているとすれば、そもそも情報が必要だとして来ているので、目的や問題を解決する手段に至っていないと考えられ(至っていたとしても、常識的なものに留まっている)、言わば、皆、レベル的には似たり寄ったりのところがあると見えます。

しかし、ここで、高みからその集団を観察している者がいるとします。

その人物は集団の中に入ろうともしない様子から、集団に流れている情報には興味がない、もしくは、その程度のものは入手しているか、役に立たないと思っていると想像できます。

要するに、レベルや次元の違う人物なわけです。

この人物から見れば、下で右往左往し、必死で情報を得ようとしてる者たちは、好意的に言えば微笑ましくもあり、また悪く言えば、愚鈍にさえ見えることもあるかもしれません。

おそらく、集団の人たちの間で流れている時間・空間と、この高みの人物に流れているそれとは、質やスピードも違うものと推測されます。静寂さ(聖)と猥雑さ(俗)も異なっていることでしょう。

そうは言っても、この高みの人物(たち)のレベルにおいての情報交換もあるわけで、その時は、彼も下の集団の人たちと同じような状況にはなると思いますが、1階のホールでのものと、彼のいる2階のホールとでは、先述したように時空レベルが異なっていますから、扱われる情報とその伝わり方も違ってくると考えられます。

話を元に戻しますと、タロットの図像に描かれている複数人物(動物)のものには、こうしたレベルや次元の違いによる、コミュニケーション・情報交換(情報処理)の質の変化が示唆されているものと思えます。

マルセイユタロットには、細かく言えば3つの階層(それが都合4にもなり、部分的には8つ)が、一枚のカードの構図のもとに意味と配置が設定されています。簡単に言えば、カードのこの位置にあるものは、こういう意味合いを持つということです。

人物たちがどこに配置されているのかを分析することで、象徴の意味がもっと深くわかるようになっています。

そして、今回のテーマでいえば、複数人物のグループの位置と、もうの一人(ひとつ)の別の人物(あるいは動物やモノ)の位置関係は、そのレベルと意味が自ずと異なるように描写されているということです。

これが何を意味するかと言えば、まず否定的(ネガティブ)に言えば、私たちは同じレベルでつるみ、情報を集め、コミュニケーションしていても、堂々巡りのループを繰り返しているだけで、根本的な解決にはならないということ、肯定的に言えば、何度も(表現は違えど)同じ楽しみがやってきて、いくらでも(輪廻を設定すれば)遊ぶことができるということです。

そして、さきほどの例えで言えば、1階のホールでたくさんの人と会話している時、ふと視線を上に向けてみると、2階からこちらを静かに見ている人物と、そうした上の階があること自体に気づくことがあるわけです。(人間、「ふと・・・」になる時とは、一体どういう時かを想像すれば、面白いでしょう)

または、時々、2階以上の人物が戯れに1階に紛れ込んでおり(笑)、その本質が違うことはわかる人にだけわかるのですが、その人物とコミュニケーションが取れた時、上層階の存在に気がつく、あるいは招待されるみたいなこともあると考えられます。

それが、さきほどのロットの図像での「複数対1」の関係において、「1」なるものの視点と存在へのコンタクト、上昇と言えます。

1階の中で必死に、あるいはここが天国・自分のフィールドだと信じこんで遊び、いろいろな人やモノから情報を得ようとしたり、交流しようとしたりしても、そして、一応の目的は果たせたように見えても、しょせんは井の中の蛙ということもあるのです。

上層階への視点へは、タロット自体を詳細に観察し、その象徴性を活かすことで、自らの気づきによって道が開けますが、通常(の生活)においては、平常の中の異質性の発見や、常識・多数がよいと言っている考え方に疑いを向けるような視点、さらには外側のものではなく、自らの内側(これまでの例えでいえば、1階のホールでの目の前の人物や景色に囚われる並行視点ではなく、周囲を垂直的に観察する冷静な視点)に目を向けることで、少しずつ現れてきます。

言葉でいえば、霊性の発露、霊性復活の兆しを見ると言ってもよいでしょう。

もはや、一代限りの利己的な幸福追求をしている時代ではないと言えます。各人の霊性の回復をもっと追求し、個人から全体へと浄化と変容を果たしていくことが必要で、そうしないと、おそらく数千年も続く同じパターン・ループからは逃れることが難しくなります。

そのことが、複数対1の関係性において、タロットの一枚の中にも託されているように思います

マルセイユタロットでは、自身の霊性の回復について、タロットリーディングで展開されたカードの方向性を見ていくことで、それがわかるようにもなっています。

ただそれは、いわゆる占いでの読みではないので、使う(読む)目的により、タロットの示唆も質も変わるということです。

この(霊性回復の)ような方向性(目的)よりも、自分の中の心理的データのクリアリングやシフト、もしくは現実的・物質的変化の手段を期待する情報入手の目的では、タロットに現れている図像の解釈も異なってくるのは当然です。

その時は、複数対1の人物の読みも、むしろ同質レベルのコミュニケーションの問題としてとらえたほうがわかりやすいことになります。


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